本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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城跡めぐりをしていると、しばしば出会う石造物。

元来は道教の教義により平安の貴族たちによって行われていた干支でいう正月庚申の日の行事。
「庚申の日の夜になると日頃人の腹の中にいる三戸(さんし)が、天帝にその悪事を告げに行く。このためにその人が早死にをするので、長生きをしたいならば徹宵せよ。」との教えだそうで。
その後、日待ち、月待ちの習俗と結びつき、近世には「庚申講」として全国的に流行したとされています。

密教の流れを汲む複数の腕をもつ鬼神青面金剛(しょうめん-こんごう)が本尊とされ、足元の3匹のサルや頭上の月と日輪などがその特徴。
この元禄期の年号が刻まれた庚申塔は、鬼神とは思えぬ穏やかな表情と共に何処かぎこちない観のある3匹のサルの仕草がとても印象的でした。

庚申塔
庚申塔
2006/12/01 滑川町水房地区にて撮影


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石造物
城跡巡りをしているとよく出会いますね。八王子城を巡っているときも幾つかの石造物との出会いがありました。つい足を止めてしげしげと眺めてしまいますね。
庚申講の習わしはゲゲゲの鬼太郎だったかなー、とにかく水木しげる氏の本で読みました。漫画とはいえ民俗学への造詣も深くなかなか勉強になります。
滑川町界隈の沼地はどこも神秘的というか良い雰囲気ですね。僕は釣りが好きだったので、「どんな魚がいるのかな?」などとぼんやり眺めていることがあります。最近は水生昆虫が減りましたが、子供の頃はいろいろ捕まえたものです。
北鬼窪氏館など拝見いたしました。野与党は武蔵七党の中でもややマイナーというか目立った足跡を残した武将も熊谷直実以外は少なく、館跡なども今日に至るまで無名のまま存在してきたものが多いようで、資料探しにも困難を感じます。まつやま書房の「武蔵武士」などを読み漁りましたが、遺構を伝えているものも少ないようですね。
あとは荒川流域に館を構えた武士が多いものですから、河川敷になっている場所がちらほらと・・
当方は春先に通行止めだった八王子城の大天守方面へ出掛けてみようかな、などと相変わらず机上の計画を立てておる次第であります。
モナー 2006/12/04(Mon)15:12:35 編集
Re:石造物
自分の愛読書?のひとつに「民間信仰辞典」(東京堂出版)がありますが、箱カバーはまさに水木画伯の「庚申塔」でした。
南方戦線でまさに死線を彷徨していたという実体験が、あのような形の画風となって現れているものかと思われました。

さて滑川の沼池は、ある意味隠れた観光スポットです。
森林公園やゴルフ場のなかに取り込まれているものも少なくはありませんが、悠久の時の流れを感じさせてくれる落ち着いた風情がありました。
難点は大部分の沼の脇道が狭くて滑りやすく崩れかけたりして危険であるということで..(汗)

白岡町方面は本当に遺構が少なく所在地も曖昧で、伝承なども殆どないような..自分にとっては勝手な想像ができる分寧ろ好都合なのですが(笑)
また圏央道の建設も一部地域で開始されていることから、今以上に景観の激変が予想されます。

「八王子城」とは羨ましく..当方は、未だ武州松山城の麓さえ辿り着いておりません故。(苦笑)
訪城の上首尾をご祈念申し上げます。

多岐にわたるコメント、どうもありがとうございました。
【2006/12/04 20:21】
毎度お世話になっております。
石造物、よく見かけますね。

どこかの書籍かサイトか忘れましたが、「城館跡であった場所には必ずと言っていい程、小祠があったりする」というような事を書いてありました。確かにそうだなっと思いつつも、その小さい祠が何の役割をしているのか未だに知らない自分が居たりします(汗

やはりその地で戦死した人を慰めるための設備なのでありましょうか?
武蔵国入間郡の住人 儀一 2006/12/04(Mon)16:32:30 編集
Re:毎度お世話になっております。
いつもコメントありがとうございます。

陰陽道でいうところの「鬼門」(城館の北東)や古来より警戒すべきとされた戌亥(北西)の方角に、部門の神である「諏訪社」などを勧請した事例は少なくないようです。
また一族の「氏神」や「守護神」として小社を建立した事例も同様かと思われます。

ただし明治時代の末から大正時代にかけて、国家神道の思想を普及すべく執り行われた神社の合祀により多くの小祠が遷座されています。
よくその所在地の地名を冠した神社名があるかと思いますが、その大部分はこの合祀のため新しく命名された事例が多いようです。
このため本来の所在地とは異なる場所に所在することもしばしばありますので、そのあたりの判断が実に難しいところですね。

中世では「死」は「ケガレ」(気が枯れる)として受け止められ、「カミ」へ信仰はあくまでも現世における豊作や疫病除け、戦勝などの祈願の対象とされているようです。
討死した者の慰霊ということになると「板碑」や「五輪塔」「宝篋印塔」などに代表される仏教的な供養塔の造立ということになるものと思われます。
【2006/12/04 20:23】
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