本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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西今井館(群馬県伊勢崎市-旧境町)
9時10分から9時40分

市の史跡指定であり「マッピングぐんま」では「西今井中世居館跡」、現地解説版では「上今井中世館跡」と呼称され、「長楽寺文書」からは道忍屋敷ともいうこともありややこしい。
旧境町方面は幾分地理不案内であることから、その移動にやや時間を要したが、上矢島城からも肉眼で視認でき、東へ約500m少々の至近距離であることから先ず間違いようは無かった。
江戸時代に作成された「今井屋敷絵図」によれば、水路に囲まれた屋敷とその周辺の様子が描かれている。
「新田町誌第4巻」などの記述によれば、新田一族今井氏の館跡と推定されているようである。
その後は桐生から茂木氏が移り住み、境城主である小柴氏(あるいは小此木氏)と縁戚関係にあったらしい。
同書などによると、館周囲の堀跡については圃場整備などにより大きく改変を受けている旨が記されている。
しかし屋敷南側はもちろんであるが、北側屋敷林の境界付近にも堀跡状の地形が残されている。


いくぶん埋まってはいるが屋敷南辺の東側の堀跡は明瞭である。


屋敷北側の屋敷林との境界付近にも、現在のところでは長さ80mばかりの堀跡状の大きな溝が確認できる。


茂木氏の墓石も散見されたが、現在も使用されている墓石でもあり傍らの庚申塔を撮影した。
元禄11年、上州新田領今井村と刻まれ、青面金剛の出で立ちがとてもパワフルでりりしかった。

久しぶりなので比較的丁寧に歩き回ったことも影響して些か時間が押し気味なってしまったが、この後はようやく伊勢崎市を抜けて上武道路を北西に向かい一路前橋市内を目指した。

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三ツ木城から北西移動すべく国道354線西今井の交差点を横断し境矢島の集落を目指した。
移動距離は道程で約2kmだが、朝方の交通渋滞の影響の少ない地域でもあり約10分ほどで到着した。
当初の心積もりとしては日の出までの時間調整がてらに、三ツ木城にのみ立ち寄り他の旧境町についてはパスをする予定であった。
しかし毎度のことながらついつい欲が出てしまい、集中力のある貴重な午前中の時間が過ぎて行った。


上矢島城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
8時40分から9時10分

上矢島(村)の村名は幕末の頃に矢島村から改称されたとのことなので、往時における地名は矢島である。
このため東隣りに接した太田市内の矢島村と些か紛らわしいものもある。
「群馬県の中世城館跡」に掲載されている情報によれば、矢島氏と南氏に関連する城館跡とされているものの、手持ちの資料の限りではその詳細がよく分からない。
なお東側には約600mには西今井館(指定史跡/別名を道忍屋敷)も所在している。
南氏が鬼門除けに建立したとされる勝手大明神から矢島氏館跡とされている徳蔵寺まで集落内を時計回りにぐるっと一周してみたが、城館跡に繋がりそうな遺構は目に入ることはなかった。
帰宅後に国土地理院の古い航空写真画像との照合を試みたものの、集落内の屋敷林などの陰になっている部分も多く遺構に関連しそうな地形を把握することは難しかった。


集落南東のはずれに所在する勝手大明神の社


集落を南北に走る道路沿いのバス停。 
背景の建物は上矢島コミュニティセンターでこの辺りが集落の中心部で城域の西側に相当するようだ。


徳蔵寺山門(南側参道より撮影)

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早朝の寒さに凍えた伊勢崎市境(旧境町)の「境城」の次は、同じ地域の北東方向に所在する「三ツ木城」へと移動した。
一度「日光例幣使街道」てもある国道354線に出てからこれを右折。
栄町の交差点から北へ向かい東武伊勢崎線の踏切を越え境三ツ木へと入った。
太田市内南部は土地勘も出てきたが、この辺りは全く詳しくないのだが、マップルとカーナビの地図を頼りにすればほぼ間違いなく移動できる。
相変わらずナビは本来のナビゲーションは使用しないというかあまり信用していない。
ナビあくまでも現在位置の確認と移動すべき目的地へのだいたいの方角とルートを参照するだけである。
一見不便なようでもこの方法の方が現地の地理が頭に入る。
むろん帰路のルート参照には軌跡表示設定をしているので結構役立つのである。

三ツ木城(群馬県伊勢崎市三ツ木町)
8時10分から8時30分

境城からの移動距離は道程にして僅か3km足らずであったが、右折車の信号待ちや朝方の交通混雑が始まり移動には20分近くを要しすることとなった。
「日本城郭大系」などの記述によれば、真福寺境内が三ツ木城本丸(100m四方)と記されており、現在の約4倍ほどの広さを有していたらしい。
同境内地を除きその周囲は宅地化が進行しており、さらに北側には国道354線が東西方向に走っており城跡らしい景観はほとんど失われている。
境内地は下記画像のように殆ど平坦であるが、唯一北西部の角に三ツ木神社が所在し盛土された土塁状の基壇が現存している。
また「マッピングぐんま」によると古墳時代の遺跡でもあり、「日本城郭大系」の記述にも「北と西に高土居が残る」との記述がある。
かつての古墳を櫓台や土塁として使用したのちに近世になり稲荷社が祀られたものなのであろうか。
「日本城郭大系」などによれば、同寺は天正年間に由良氏家臣である三ツ木城主根岸氏により建立されたとされている。


真福寺および三ツ木神社が所在する境内地


真福寺の縁起の記された観音霊場めぐり案内板


稲荷社の祀られた三ツ木神社 土塁のようにも、古墳のようにも、神社普請の際の盛土のようにも見える。比高約3m前後、長さ約15m、基底部幅約5mほどの規模であった。


西側から撮影したので寒々しい画像となった土塁状の地形


城跡の南方を通過している「日光例幣使街道」

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昨年12月10日以来久しぶりに城跡へでかけた。
この間は滋賀遠征後の画像整理等々に加えて孫のお守、長女の帰省、ETCの不具合などが続いた。
かくして生来の在宅癖と冬季傾眠傾向が復活し1か月以上のブランクとなった。
行先は栃木県南、群馬県赤城山西方面、昨年秋以来となる太田市、茨城県南方面など準備済の地域は数多。
このなかから降雪、路面凍結の懸念を感じる地域、高速使用の地域を候補から除外。
しばらくまともに歩いていないこともあり、足慣らしを兼ねて結局群馬県伊勢崎市(旧境町)、前橋市(赤城山南麓)となった。


境城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
7時00分から7時50分

昨年秋に数回ほど連続して訪れていた太田市の西側地域でもある。
このため途中の経路は東松山(国道254線)-熊谷(国道407号線)-深谷(深谷バイパス)-太田経由であり殆ど問題が無い。
この方面の下調べと最低限の資料はとりあえず用意済みである。
このままにしておくと用意していた資料の存在さえも忘れてしまう恐れもある昨今である (^^ゞ

しかし3か月ぶりなので、上武大橋北交差点を左折したところでナビと道路地図の違いに気が付いてふと迷うこととなった。
この道は以前は広瀬川左岸の県道297号線であったが、ナビにも表示されているように近年新しく297号線が完成していたことを理解したのはそのあとのこと。
尤も目的地は長光寺とその南にある弁天池である。
ナビの現在位置を確認し、広域表示に切り替え午前7時前には弁天池脇の「境公園」に到着。

弁天池の周辺から反時計回りに周囲を巡り、境神社からは再び元の道を戻ってみたが明確な遺構はほぼ消失していることは間違いが無さそうであった。
なお神社境内の西側にほんの僅かながら土塁の痕跡のように見えなくもない盛土跡が所在しているが、堀跡であったと推定される道路と野間にはブロック塀が設置されていることもあり、後世における神社の普請などに伴うものである可能性も想定され判断に迷う。
「群馬県の中世城館跡」では「崖城」の扱いが為されてはいるが、利根川支流の広瀬川に向かい緩やかな斜面が確認されるだけである。
現在の「弁天池」と「境公園」の辺りが最も低地であるすると、往時においても最大でも3mほどの比高差があったかどうかであるように思われた。


城域南東付近の弁天池


弁天池の北に隣接した「境公園」の築山 数十年物の樹木が生えてはいましたが、古墳や近世の塚でもなく、より新しい近年のもののようでした。

 
この地は南に傾斜した地形であり、天台宗長光寺の東側 境内墓地と道路を企画しているブロック塀は階段状に少しずつ低くなっていることからも把握できる。


城域の東側に相当する天台宗長光寺山門前


城域の北西角に所在する境神社の縁起を記した説明版


境内西側の道路沿いの部分は明らかに道路部分との比高差があるようなのだが、後世の神社造立などにともない発生したものである可能性もあり委細不明である。


「群馬県の中世城館跡」などに掲載されている山崎一氏が作成したと思われる縄張図によれば、郭内には東に長光寺、西に境高等学校、その北西角に境神社の境内が記され、かつてその周囲には南から西にかけて城沼跡が所在し、北辺、東辺には堀跡とこれに並行する土塁も存在していたようだ。
帰宅後に念のため1947年に撮影された航空写真を確認してみた。
城沼跡は明確に確認できるものの堀跡と土塁の存在については樹木などの陰になり判然とはしていない。ただし、現在のように墓地は拡張されてはおらず、長光寺の南部に墓地の区画は殆ど見当たらない。
墓石などの様子を拝見する限りでは遅くとも1970年代の初め頃には原型を留め難くなっていたのかも知れない。

このあとは近隣に所在している三ツ木城へと移動した。

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2017年の城館探訪の概要です。

前半は入院や植物園めぐりがあり城館跡には殆ど出かけられませんでしたが、初夏頃から頻繁に探訪に出るようになり、10月下旬には40日間ほど風邪を拗らせていましたが、そのまま12月まで3度の遠征をクリアしました (^^ゞ
たぶん2010年以降では最も多いのではないかと思います。
その反面、加齢や老眼などの進行に伴い、サイト更新は大幅に遅滞して本年12月末日現在で城館関連の更新割合は6割を大きく切っております <(_ _)>


1 月 栃木県栃木市方面 17か所 3日間
2 月 (耳下腺腫瘍入院手術のため暫く養生)
3 月 (同 上)
4 月 (同 上) 
5 月 神奈川県 8か所 1日間
6 月 都内23区内 18か所 6日間
7 月 同上 15か所 4日間
8 月 長野県上田市、小諸市ほか 23か所 4日間
9 月 群馬県太田市 35か所 3日間
10月 群馬県太田市、栃木県市貝町 17か所 3日間
11月 青森県八戸市、岩手県二戸市ほか、福島県郡山市、群馬県 45か所 9日間
12月 滋賀県甲賀市 23か所 3日間

合 計 166か所(再訪含む、ただし城館以外の史跡を除く) 36日間

一年間まことに有難うございました。
みなさま、どうぞよいお年をお迎えください <(_ _)>

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甲賀市の3日目である。
昨年は3日目には新幹線の発車時刻が午後の明るいうちであり、かつ強風の吹く恐れもあることから草津市内を4か所ほど廻り早めに京都駅で待機することとなったという経緯があった。
しかし今年はそういった懸念材料は一切無く、さらに京都発の新幹線も午後7時過ぎであることから、夕刻ギリギリまで現地に滞在することができるように計画を立てた。


高山氏城(滋賀県甲賀市水口町高山)
8時50分頃

あくまでも通りすがりに単に遠景を撮影したのみである。
下記画像の中央やや上の小高い山上がその城跡で、これに関連する複数の城館跡がその右手の丘陵付近に所在しているらしい。
左手の河川は杣川で画像奥に向かって流れているのだが、強い西風が吹き荒れているため川面が波立ち画像奥から画像手前へと流れているような錯覚に陥った。



杣中城(滋賀県甲賀市水口町杣中)
9時20分から10時00分

杣中の集落自体が周辺を水田地帯に囲まれた低丘陵であり、当該城館跡は集落の南東部杣川支流の滝川に面した低段丘上に所在している。
杣中コミュニティセンターの南西と北東の2か所に明確な土塁状の地形が存在している。
この東西2か所の土塁に囲まれた範囲をその城館の城域とする考え方があるようだが、後世の宅地化と耕作地の開墾などにより中心部の仔細が不明であることから何とも言い難いものがある。

 1.北西方向から西側の土塁      2.土塁上の様子


  3.土塁上から西側の堀跡      4.西側の堀跡


    5.東側の土塁         6.滝川東岸から


古屋敷館(滋賀県甲賀市水口町杣中)
10時15分から10時40分

杣中城からは指呼の間であり、杣中城東側の土塁もその視界に捉えることができる。
館跡は総じて竹林が密生しており見通しがよくはないが、逆U字形の土塁により囲繞された区画はどうにか把握でき、東側部分には二重土塁の形状も残されていた。

   1.南東方向から       2.東側の二重土塁外部


    3.主郭と土塁          4.土塁


竹中城(滋賀県甲賀市水口町新治)
11時10分から12時00分

内郭の土塁切岸は急傾斜で現在でも堀底からは6mほどの高さを有することから這い上がることは困難であると感じた。
また郭内は東側民家の裏手に当たるため、主に西側部分の遺構のみを拝見するにとどめた。
全体として竹木が繁茂しているという印象があるが、西側部分の遺構についてはある程度見通しも確保されているので観察は可能であった。
なお当城館跡は2008年7月28日「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして史跡名勝天然記念物としての指定を受けている。


   1.杉谷川左岸から        2.北西角付近


     3.西辺堀跡          4.同 前


   5.内郭北西角付近       6.南東方向からの遠景


カリヤ城(滋賀県甲賀市水口町新治)
12時05分から12時10分

段丘の北辺部に所在し、圃場整備事業により消失した城館跡である。
およそ50m四方の方形館が所在していたことが、明治期の地籍図から読み取れるとされている。
画像の民家宅地の一部を含む画像の中央付近に所在していた模様である。




倉治城(滋賀県甲賀市水口町新治)
12時20分から13時00分

集落内には土塁状の遺構が分散しており、大規模な城館ではなく小領主層の屋敷群のような印象が伝わってくる。
「画像4」の土塁には南部に明確な堀跡を伴い城館としてひとつのまとまりを見せている。
当初の予定ではこの辺りで午後2時を過ぎていれば撤収することも視野に入れていたが、未だ午後1時過ぎという時刻であり、西よりの季節風は冷たいものの大きな天候の崩れはなさそうなことから、気力。体力に照らして行けるところまで行くという方針に変更した。


 1.中央部南北方向の土塁        2.同 前

  
     3.同 前        4.中央部東西方向の土塁


    5.南辺の遺構        6.南西部の遺構


服部城(滋賀県甲賀市水口町新治)
13時25分から13時50分

著名な服部半蔵に関連する服部氏の城館跡と伝わるが、全体的に藪が多く東側の土塁上くらいしか足を踏み入れることができなかった。
標柱、説明版などは無い。
新宮神社が所在する丘陵の谷ひとつ挟んだ西側の丘陵先端部に所在している。

  1.この細い林道から入る   2.進行方向左手に切岸が見える


    3.東辺の土塁上         4.同 前


    5.北東方向から        6.東側の谷筋


新宮城(滋賀県甲賀市水口町新治)
14時05分から14時35分

当城館跡は2008年7月28日「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして史跡名勝天然記念物としての指定を受けている。
単郭方形の形式が多い甲賀の城館跡としては珍しく、主郭以外に5か所ほどの削平地を伴う城館である。
国の史跡指定を受けてはいるが、訪れた時点での整備状況は画像の通りであり決して見学しやすいとはいえない様子であった。


   1.城跡への分岐        2.城跡南西側の標柱


   3.主郭南西の虎口       4.同 前(郭内から)


    5.東麓の説明版        6.同 標柱


新宮支城(滋賀県甲賀市水口町新治)
14時45分から15時15分

当城館跡は2008年7月28日「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして新宮城、竹中城などとともに史跡名勝天然記念物としての指定を受けている。
新宮城の南西約50mに谷を挟み所在しているが、現状では住宅側の下を通る道からのアプローチは倒木と藪のため多少の困難を伴う。
画像のように肝心の谷の入口が倒木により塞がれており難渋を極めた。
この時点で体力は残されていたが気力の方が欠乏しはじめ、土塁切岸を目にしたのみで撤収することとなった。

 1.新宮城から先は藪が酷い    2.倒木が連続し前進不能


    3.谷の入口        4.主郭南部の土塁切岸


こうして遠景のみの撮影も含めれば無事に9か所の探訪を終えることができた。
今回は1日目にしてモチベーションの維持が揺らいでしまったが、その後どうにか立てなおして3日間で23カ所以上の城館跡探訪を成し遂げた。
これで昨年の分を含めると甲賀市内は旧水口、旧甲賀、旧甲南の3地域を40か所以上彷徨したことになり、ある程度はその地域性を感じ取ることのできるような気がしてきた。
従って全く訪れてはいない地域は土山と信楽となるのだが、ますます公共交通機関が不便な地域となってしまい、そろそろ滋賀県内でも他地域に足を延ばすことも視野に入れていることから来年以降の再訪の予定は全くの未定である。

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甲賀市の2日目である。
予報では一日中曇りとのこと。
昨日の1日目において、さらに衰えを痛感することとなった己の体力と気力を熟睡中冷静に分析。
当初予定していた旧甲南町池田大日池周辺の城館めぐりは断念し、比較的アプローチしやすそうな旧甲賀町の滝、毛枚方面の城館跡へと変更した。


獅子ヶ谷城(滋賀県甲賀市甲賀町毛枚)
9時15分から10時05分
比高差約20m前後

毛枚は「もびら」と読む。
比高差は殆ど無いに等しいのだが、何分にも頑強な藪城なのであった。
「画像2」の個所から北端部の郭のラインが見えるのだが、切岸が高く急傾斜でとても登ることは困難であった。
画像から分かるように民家の裏山でもあり、探訪にはくれぐれも失礼の無いように配慮が求められる。
主郭以外に複数の削平地が確認できるが、後世の宅地化や開墾などに伴う要素もあるらしくその判別が難しい。


     1.北側から      2.奥に北端部の郭が見える


 3.この辺りから失礼する    4.この電柱の先を左へ攀じ登る


  5.この土塁に這い上がる      6.櫓台状の土塁

 
山岡城(滋賀県甲賀市甲賀町毛枚)
10時20分から10時45分
比高差約20m前後

城域の半分以上は宅地であることから、果たしてどの辺りまで拝見して良いのか注意書きなどに気を配りつつ見学する必要がある。
著名な山岡氏の城館のひとつでもあり毛枚の集落を見下ろす、ほぼ独立した丘陵上に位置している。


     1.南麓から      2.この辺りから失礼をする


    3.なかなかの切岸     4.最も標高の高い郭跡


 5.ほぼ旧家のお庭のような    6.この石段を降りてきた


毛枚北城(滋賀県甲賀市甲賀町毛枚)
11時00分から11時45分
比高差約15m前後

他の甲賀の城館と同様に規模も小さく比高差も少ないが、登り口は至って明確であった。
ほどよい整備が為されており思わず笑みが零れそうになるほどの良好な遺構群(土塁、櫓台、堀切、井戸跡、切岸など)を目にすることができる。
このような城館跡ばかりであれば、少なくとも気力だけは堅持できるのだが・・・
比高差の少ないこのくらいの城館跡では複数の登り口(後の破壊道を含む)がありそうなものだが、現在実際に登ることのできる個所は「画像2」の大福寺北側の個所だけであるようだ。
それ以外の方角からは自然地形を利用した10メートルはある深い堀切と切り立った切岸に囲繞されており、ほぼアプローチすることが困難であった。


   1.北側からの遠景        2.唯一の登り口


 3.井戸跡(水深1.5m以上あり)    4.腰郭と土塁


    5.櫓台状の地形     6.深い堀切 左10m/右10m


多喜南城(滋賀県甲賀市甲賀町滝)
12時00分から13時10分
比高差約30m前後

少し古い情報を頼りに登り口に向かったところ樹木の伐採やルートの途絶により目前で退却を余儀なくされ30分ほど時間を浪費した。
なれば北麓の集落から南へと向かう林道から尾根伝いに進めるかと考え元龍寺裏手へと林道に沿って歩みを進めてみた。
ここまで来ると次の目標である多喜城は目前であるが、そちらは後回しにして尾根伝いのルートを探した。
すると林道が大きくヘアピンカーブした左手(方位では東側)に明らかな林道の分岐が目に入った。
おおむね城跡の位置は確認できているので、向かうべき方角もまず間違いないものと確信した。
西側のいくぶん城跡の一部のような小ピークを超えると堀切状地形が現れ、眼前に土塁を兼ねた切岸地形が行く手を阻んでいた。
南側の帯郭地形を経由して南東部の土塁の切れ目辺りから土塁に這い上がろうかとも考えたが、そのまま切岸を木の枝などに掴まりつつストックを利用すれば這い上がれなくもないと判断して斜めに切岸を登り無事主郭土塁の西角付近に到達した。
主郭は三方が高土塁により囲繞されているが、北東方向だけは自然の谷筋へ向かって開口されている。
城域り東側は市道の拡張工事などにより大きく削られてはいるが、主郭部のコの字型の土塁は樹木伐採がなされていることもあり非常に見ごたえがある。

   1.毛枚城方面から        2.以前の登り口

 
   3.到底先へは進めず    4.この林道を下から登る



  5.林道の分岐を左へ入る      6.主郭の土塁
 
 
多喜城(滋賀県甲賀市甲賀町滝)
13時20分から14時00分
比高差約25m前後

かつては「多喜北城」とも呼ばれていたとのことで、些か次項の城館と紛らわしいものがある。
多喜南城へと向かう林道の途中、今のところでは「画像2」のヘアピンカーブの手前を右手(北側)へと戻ると少し藪があるものの近道になる。
分岐した林道はそのまま北側の集落に降りてしまうので、進行方向左側に見える踏み跡を這い上がると「画像3」の主郭部の虎口状の地形へと辿り着く。
むろん「画像6」のように、北側の尾根筋からイノシシ除けのフェンスを通り共同墓地経由で堀切脇へと向かうこともできる。
公開されている「縄張図」はいくつか存在しているが、「甲賀市史7巻」に掲載されているものが比較的現状の特徴をよく捉えているという印象がある。


   1.多喜南城方面から       2.林道の分岐


    3.主郭虎口?         4.主郭の土塁


   5.主北西の堀切地形     6.北側集落からのルート


多喜北城(滋賀県甲賀市甲賀町滝)
14時20分
比高差約20m前後

比高差は少ないのだが、この辺りでイノシシ除けフェンスの入口探しと城跡への登り口探しに疲労困憊。
相変わらず吹く風は冷たく水田の畦道経由でイノシシ除けフェンスを目指すという行為の反復に飽食状態となり北麓から低丘陵を観望して退却 (^^ゞ

   1.北側からの遠景       2.地名の案内標識
 
 
大原城(滋賀県甲賀市甲賀町田堵野)
14時40分から14時50分
比高差なし、平城

現在も大原氏がお住まいになっている。
旧家そのものの宅地部分が城館跡であるが、思いのほか良好な状態で単郭方形の重厚な堀跡と土塁が残存していた。
東側の市道から拝見している最中に、北よりの風が粉雪の粒をもたらしたが、ほんの一時顔に当たっただけで直ぐに止んでしまった。

 1.杣川西岸より大原城方面     2.奥の方が大原城


  3.南西部の方形区画       4.東側の虎口付近


     5.東側から         6.北東方向から


別府城(滋賀県甲賀市甲賀町大原市場)
15時05分
比高差なし、平城

遺構も何もない平地の城館跡であり、明らかな数稼ぎでもある。

  たぶんこの辺りだろうか


市場陣山城(滋賀県甲賀市甲賀町大原市場)
15時10分から15時30分
比高差ほぼ無し、低丘陵先端

現在でも竹林奥に土塁が存在しているらしいのだが、西に水路、北にJR草津線の軌道、東に民家宅地に囲まれて肉眼での観察はできなかった。

    1.地名表記         2.城跡を覆う竹林


 3.この水路(堀跡)の左側    4.JR草津線沿いに所在


補陀楽寺城(滋賀県甲賀市甲賀町大原市場)
15時40分から15時50分
比高差なし、平城

補陀楽寺境内というよりも、公民館の敷地の一部に同寺が所在しているといったほうが実態を反映しているように思えた。
土塁遺構は同寺の北側と東側にそれぞれ残存している。

     1.「赤影」          2.山門


   3.北辺の土塁           4.同 前


結局のところ空模様は良い方にはずれたらしく、降雪の可能性があった雪雲は彦根辺りで南下が止まり風はやや強く冷たいものの晴れ時々曇りの空模様となった。
城館の方も麓から見上げただけの個所も入れればどうにか10か所の探訪となった。
近年は2日目のモチベーション維持が課題であったのが、昨日は初日からモチベーション維持が危うくなりかけていたことを考えればベターな目的地の選択であった。

拍手[3回]

  最寄駅から始発の東上線に乗り池袋へ。
 山手線経由で東京駅へ向かい、午前6時29分発のぞみ号に乗車。
この時点で東上線の始発からは既に1時間半も経過している。
乗換待ちのタイムロスは池袋での約15分が一番大きい。
このためダイヤ上では寧ろ地下鉄丸ノ内線を使用する方が早い。
しかし東京駅構内でのキャリーケース移動がやたらに長くなることから、今年は山手線を利用してみた。

昨年同様に一度京都まで向かい、4分間の乗り継ぎで琵琶湖線で草津市内へ戻り駅前のホテルに荷物を預託し、午前9時40分台の草津線にて油日へと向かった。
1年ぶりに訪れた油日駅では日曜日ということもあり、甲賀忍者に扮した駅業務を委任されている年配の方の歓迎を受けた。
とはいえ降りた乗客は自分を含めて数人で、しかも「観光客」らしい姿は自分ひとりと相変わらず閑散とした景観であった。
JR草津線も近江鉄道などと接続している貴生川から先では正規の駅員は不在で、地元の高齢者の方による運営がなされているが、早朝と夜間は無人となりむろんICカードは使えない。
草津市始発の同線は一つ先の「手原駅」で概ねその4割位が下車、その先の貴生川までで更に5割位が下車、残念ながらこうして見ると終点の柘植まで行く乗客は全体の1割にも満たないらしい。

 
 
殿山(滋賀県甲賀市油日)
10時45分から11時05分

従来は明確な城館遺構が存在していないという見方も有力であったらしいが、現在殿山の遺構と領域に関してはおよそ次の論点があるように思われる。

1.忠魂碑とその周辺の削平地をめぐる評価
2.そのすぐ北西部に見られる小規模な堀切地形の評価
3.近年新たにその存在が確認された北西尾根筋の城館遺構の評価
4.南に隣接している公方屋敷との城域に関する区分

 
殿山北西尾根筋の遺構(殿山城)  北西部の堀切状地形

近年あらたに確認された「殿山城の遺構」は丘陵の北麓からも成形された郭跡の形状を読み取ることができるほど明確である。
また殿山自体にも一応複数の削平地が所在し、上記画像のように小規模ながら尾根筋を分断する堀切状地形も確認できる。
ただしこの堀切状地形が北西尾根筋の小規模な城館遺構に伴うものか、本来の殿山に属するものなのかは不明なようだ。


 和田集落手前の「天空の城」      殿山の全景


  郭状の削平地のひとつ         展望台

こうした殿山はさらに南方の公方屋敷遺構とも近接しており、その範囲を明確に区別することが難しいようにも思われた。
なお、上記画像の高さ5m前後の展望台は、体重80Kg超(デジカメ装備一式を加算すると約90Kg)の管理人が登ると梯子段がミシミシと音を立てるので、特に大柄な方はご注意されたい。


殿山城(滋賀県甲賀市油日)
11時05分から11時30分

近年において「甲賀市史」編纂などに伴う実地調査により、殿山の北西尾根筋先端部に小規模ながらより明確な城館遺構が確認されている。

 殿山忠魂碑へ向かう参道から     堀切と土塁


 深さ左6m/右4mの堀切   削平されたラインが目立つ郭跡


  南からの遠景(丘陵先端)

前項の「忠魂碑」が設置されている従来の殿山とは別の性格の城館跡のような印象もあるが、その距離の近さから、いまのところは取敢えず名称の上では一連の城館遺構として捉えられているようであるが今後変わるような感じもする。
堀切から土塁へは直接登ることは難しいので、堀切の南側を迂回するように対岸に這い上がり、そのまま土塁上を西へとすすみ比高差の少なくなった頃合いを見計らい郭内へと降りた。
ただしこの郭から下方に降りる踏み跡はそのまま民家の裏手へと出てしまうので、もと来た堀切まで戻る必要があるようだ。
当該名称は現地に設置されている案内標識の表記に拠った。


公方屋敷支城(滋賀県甲賀市油日)
11時40分から12時25分

主郭付近を除きほぼ藪城に近いという印象である。 
あまり登り口が明確とは言えず、かつ民家近くの斜面を這い上がることから 気が引けることこの上ない。
また途中かなりの藪と棘が群生する個所を通過するので注意が必要である。
ことによると南側の民家方面からより安全にアプローチするようなルートが存在しているのかも知れない。


   東麓からの遠景       この辺りから藪を入る


    東側の削平地          主郭付近


   櫓台のような地形        南からの遠景


公方屋敷(滋賀県甲賀市油日)
12時40分から13時15分

後の足利義昭となる覚慶が逃れて和田惟政により匿われたとも伝わる著名な旧蹟である。
西側に向けて開口した浅い谷津地形であり現在は耕作地となっている。
西側を除く三方が丘陵を利用した土塁状の地形に囲繞されており、そのうちの南部の遺構は近年まで「公方屋敷城」とも呼称されていた時期がある。
 
    公方屋敷入口          公方屋敷


    五輪塔の一部          説明版


  殿山方面へと続く尾根道   かつては「公方屋敷城」とも


和田城(滋賀県甲賀市油日)
13時40分から14時20分

上記の3か所を探訪し終えた時点で、事実上の日没時刻まで2時間余りとなったことから、取敢えず和田支城3と2を後回しにして、市史跡指定の和田城へと向かった。
和田氏の本城とも考えられる城館である。
こちらも登り口は不明であったが南麓の民家脇からのルートを使用することとした。
史跡指定されているだけのことはあり、公方屋敷支城とは異なり最低限の草刈りなどの管理が行われているという形跡が見られ、全体としておおむね遺構の観察は行いやすい環境であった。

   西側からの全景      ここからも入れるらしいが


    土塁状の地形        主郭背後の堀切


   主郭南西部の虎口         郭内から


   少し前の解説版

なお、本来は北東の畦道からアプローチするのが正規のルートであることを帰り際に知ることとなった。
しかし、現地にて頒布されているパンフレットには各城館の登り口に関する情報は掲載されてはいないのであった。
また上記の少し前の和田城館群に関する解説版との異同があることから、事情を知らない者にとっては混乱してしまう可能性もあるように思われた。


◎棚田山城(滋賀県甲賀市油日)
14時25分

以前には城館跡として把握されていたが、近年において城館跡ではないとされている。
このため西側の市道から遠景のみを撮影するだけにとどめた。
※出典「甲賀市史第7巻甲賀の城」333ページより



和田支城1(滋賀県甲賀市油日)
14時40分から15時05分

残り時間などを勘案して確実に登り口のありそうな城館を本日最後の目的地に定めた。
稲荷神社への参道が所在し、主郭部に同社が所在している。
しかしそのほかは藪が多く遺構の確認が難しい状態であった。

   北東からの遠景                東郭の先端付近


   東麓の文化財説明版        稲荷神社


     主郭と土塁          同解説版

日没時刻を考えれば未だあと1か所くらいは回れる時間帯ではあった。
けれども何時ものように食事なしは未だしも、これに給水なし、日没までの時間が惜しく休憩なし、明確な探訪ルートが不詳であることなどを県名に判断しいくぶん早めの撤収となった。
還暦前であった10年前に比べて、気力、体力の減退のみならず記憶力(容量、記憶の精度)の著しい低下を思い知る現在では、もはや1日当たり数か所程度の回遊が限界であることを痛感してた。
現地到着が午前10時半を過ぎてからの探訪ゆえに、南部の高嶺方面はおろか正味5時間では和田集落内でさえもその全て回りきることは叶わなかった。


この日は前記のようについ飲み物を買い忘れて日中は飲まず食わず。
ちなみに油日駅を除くと和田集落内には稼働中の自販機の姿を見かけないことから、今後再訪する場合にはくれぐれも注意が必要なようだ。
日没前に辿り着いた駅前で購入した「ホットゆずレモン」の温かさが身に染みた。
油日の駅務室にて見かけた「和田一族」(自費出版頒布価格1千円)の本を購入した。

昨年油日の図書館で気になっていた本なので本日の収穫のひとつでもある
宿泊先のホテルにてパラパラとページを捲り明日の行動予定を反芻しつつ心地よく深い眠りについた。 

拍手[3回]

次の寒波が襲来しないうちに、
小春日和の天候なので、
せっかくこの方面に馴染んできたので、
関越道を使えばゆっくり走っても片道2時間足らずなので、
この歳になると来年、再来年があるかどうか分からないので・・・

などと、いろいろ理由をこじつけて本日も3日前と同じ群馬へと向かうことになった。
ただし今回は赤城山西方の昭和村であるのだが
とはいえ前回からの間が2日しか空いていないこともあり、いくぶん遅めの午前6時30分自宅発となった。


長井坂城(群馬県利根郡昭和村)
8時25分から9時55分

天正年間に真田氏と後北条氏の間でその領有が争われた城跡であり、大分以前から訪れたかった本日唯一の目玉でもある。

   西方の子持山方面

午前8時前に関越道を赤城ICで降りた。
赤城西麓広域農道伝いに8kmほど北上し、途中から細い農道に入り城跡を目指した。
要所要所に分かり易く丁寧な案内標識が設置されていることから、よほどのことが無い限り道を誤ることは無いように思われた。

  城跡直下に関越道が貫通

城の立地は利根川とその支流である永井川の深い谷に挟まれたいわゆる崖端城で、城跡南東端の標高は480mを越え、また「縄張図」などでは分かりにくいのだが、城跡の地形は北西方向に突出して先端部に向けて緩い傾斜がかかっている。
このため南方の高地から観望しても城跡の位置がすぐには把握できない。

  3の郭から2の郭を見る

本郭の遺構状況は良好で横堀、土塁の配置状況が分かるようにほどよく整備され、利根川方面に面した断崖の景観も息をのむほどの迫力が伝わってくる。


これに対して2の郭、3の郭方面は耕作地として利用されていることもあり、事実上見学できる範囲が限られている点がやや残念に思われた。
とくに二の郭南側の大土塁(地山の削り残しを利用か?)へ向かうルートは耕作地を通過することもあり、果たして立ち入っても良いかどうか迷いを感じる部分もあった。

    主郭北側の土塁       主郭南側の横堀


     同   前         主郭東側の土塁




また二の郭北側の横堀が埋戻しなどにより事実上は消失していることもあり、その分3の郭との境が分かりにくくなっているようにも見受けられた。

 二の郭土塁の切れ目から主郭     二の郭東側


 南東部の大土塁から南側横堀     三の郭南東部



こうしたことから、立入の可否を含めた現況に即した縄張図を含む解説版などが設置されると今後の見学上も有難いとも感じるとともに、何分にも耕作地も少なくないことから、今後の文化財としての保護と活用の観点からもその辺りの対処が求められるように思われた。
専用の駐車スペースは無いが農閑期で短時間ならば農道脇などを利用できるかもしれない。
 
 
阿岨城(群馬県利根郡昭和村)
10時35分から10時50分

直線距離にすれば長井坂城からは6km足らずなのだが、真直ぐにアプローチできるようなルートがなく赤城山西側の浸食谷を大きく迂回することとなった。
何のかんのと谷、山、谷、山、谷、山 と3度のアップダウンと九十九折の反復があったことにより、結局のところ移動に要した時間は30分以上を経過してしまった。
まさに「長い坂」でもあった。
それでも武尊方面の雪景色が手に取るように観望できたのでこれはこれで大きな収穫でもある。
途中リンゴ農園とその農家、ゴルフ場、工業団地、廃車置場、別荘地とこれに関連した観光施設など土地利用の形態は実に様々であるが、戦中戦後の開拓の時代、高度成長期の時代、ゴルフ場乱立の時代、別荘ブームの時代など、それぞれの時代を反映しているようでもあり興味深いものがある。

    武尊山方面

城跡は圃場整備された耕地内の崖線端に立地している。
地形上から樹木が叢生した分かりにくい場所のような印象を抱いていたのだが、昭和村のHPにも掲載されているように、その周囲は開けた環境であり付近の道路からも解説版などが目に入ることから全く迷うようなことはなかった。
車での来訪者を想定し3台くらいは駐車可能な舗装済みのスペースもあり、近くの昭和ICに接して道の駅も所在している。

   主郭跡であろうか?


    城跡の石碑

肝心の遺構の方は二重の堀跡の一部と郭跡?が現存してはいるが、長井坂城に比べると城域も遥かに小規模であり遺構も多くは無いことから見学には余り多くの時間はかからないように思えた。

  たぶん二重堀跡らしい


たぶん外側の堀跡の一部のように思えた

 
  ◎加藤丹波守腹切石(群馬県利根郡昭和村)
11時00分から11時05分

天正10年10月、森下城主加藤丹波守(真田方)が後北条氏の軍勢に敗れて切腹を遂げたとされる史跡であるり道すがらに立寄ってみた。

何分にも後年の軍記である「加沢記」の記述に基づくものでもあることから、その真偽のほどははっきりとは分からないのかも知れないが、この地をめぐる真田氏と後北条氏による領有争いを象徴するエピソードのひとつなのであろう。


森下城(群馬県利根郡昭和村)
11時10分から11時25分

別名を鎌田城、あるいは鎌田の要害とも。
長年にわたる片品川の急流に浸食され城地の大半が崩落してしまったとのことである。


崖線端に標柱と解説版が設置されているが、堀跡の一部ともいえなくもない段丘の斜面などが見受けられるもののその周辺は宅地化なしい耕地化がすすみさらにその旧情は把握しがたいものとなっていた。


なお、側を通る県道からは民家などの陰に隠れたやや探しにくい場所に所在し、しかも付近には駐車スペースがほぼ存在していない。
このため予め駐車場所を考慮する必要がある。

   路傍の双体道祖神


糸井の打出(群馬県利根郡昭和村)
12時20分から12時30分

あまり道路事情がよくは無さそうに思えたことから村役場に立寄り資料収集を行い、距離にして1km足らずと近いこともありそのまま徒歩にて向かうこととした。

そういえば「石仏」関係もそのうちに纏めておかなくては・・・

しかし始めにアプローチしたルートがたまたまこの日は水道管の埋設工事により全面通行止めとなっていたことにより、約800mほど迂回することとなってしまった。
これが平地の迂回であれば何ほどのこともないのだが、河岸段丘へのアプローチを迂回したので2度急坂を登り結構疲れた。
しかも工事が昼休み中であったため、工事関係者と間違われて車両通行の可否を聞かれてしまったりもした。
尤も自分の出で立ちがごく自然に工事の現場に溶け込みやすいこともあるので致し方ないことでもある。

   上糸井集落センター

概して城館跡としての痕跡に乏しく、低位河岸段丘の崖線地形が唯一それらしいということになるのだが、その崖線地形を視認するに相応しい個所がなかなか見つからないのであった (^^ゞ
近くの長慶寺境内には元寇の時期に関連するとされている鎌倉期の板碑が文化財に指定され大切に保存されている。
 
長慶寺に所在する鎌倉期の板碑

たしかに「打出」という城館関連地名は残されているのだが・・・

    奥の手のひとつ


貝野瀬屋敷(群馬県利根郡昭和村)
13時10分から13時25分

この場所も低位の河岸段丘上に所在し、直接車で向かうには支障がありそうに思えそのまま徒歩にて向かった。
とはいえ、前項の「糸井の打出」からは更に約2.5kmほどにはなるのだが、歩きながら周囲の地形などもじっくりと観察ができることから決して無駄足にはならないと徒労を合理化するという我ながら疲れる性格なのである。
途中関越道の真下を通過したので、その真下から高架橋の構造を暫くの間観察してみた。


屋敷跡とされている場所は、赤木山川龍寺ならびに武尊神社などが所在する一帯であり、現在でも河岸段丘の斜面が目立つ。


武尊神社の裏参道付近に高さ1mほどの人工的な盛土跡が見受けられるが屋敷跡との関連は不明である。



いちおう「堀の内」の地名もあり、このほかにも「大門」の地名も残されているらしい。


村役場までの帰路は4kmに満たないものであったが、そこそこ足回りに疲れがでていた。
またこの日の気温は摂氏15度以上に上昇したようで、温かいのを通り越して暑ささえ感じるような按配となった。
関越道は平日でもあり渋滞もなく休憩抜きで日没前午後4時20分頃に自宅に帰着した。
近年になく今月11月は延べ9日間(二戸、八戸、南部と郡山市での7日間を含む)も出かけることができた。
近年は少し寒くなると手足の冷えを感じるとともにやたらに眠くなるという日が続いていたが、果たして今年はどうなるのであろうか。

拍手[1回]

今年は冬の到来が早く、ときおり襲来する寒波が過ぎ去るのを待っての探訪である。
遠征というにはやや距離が近い。
月初めの青森遠征などに比べれば、高速道路での走行距離は片道117kmほどと約2割ほどに過ぎない。
このため信じられないほどに運転の時間も短いので途中の休憩もいたって少なくて済む。
とはいえ、今月は2度の遠征で郡山から戻ってから4日間しか空いていないことから、さすがに気力の方は払底気味でもあったようにも思えた。


名胡桃城(群馬県みなかみ町)
午前8時00分から9時00分

天正18年(1590)豊臣秀吉による関東侵攻の口実を与えることとなった有名な城跡である。
外郭部といわれている部分や般若郭を除く、利根川および赤谷川の崖線沿いの防御に適した郭面積の広さは4千平方メートル前後の比較的小規模な中世城郭である。
復元土塁やいくぶん過剰気味に空堀への転落防止などの措置が為されていなくもないが、空堀と郭の配置を眺めているだけでも楽しげな城址公園風の城跡である。
南東に聳える富士浅間砦の岩峰は「のろし台」あるいは「物見」ともいわれている。


笹郭のさらに先端にある物見郭へ赴こうと思ったが、気温の上昇により斜面の霜が融け始め滑りやいくなってきたために途中で引き返した (^^ゞ

駐車場は般若郭に40台ほどは収容できそうで、国道17号線沿い北側にはトイレも使用できる案内所も併設されているなど至れり尽くせりであった。
いかにも観光地にありそうな幟旗がそこかしこに林立していたが、管理費用の面を考慮すると果たしてどれほどの投資効果があるのだろうかと気になった。

 
実は中心部に足を踏み入れたのはおそらく今回が初めてなのだが、たぶん国道を通過した回数は人生で延べにして100回は超えているはずである。
最初にこの前を通り過ぎたのは半世紀ほど前で、その時も既に城跡の標柱を目にした記憶は残っている。
たぶん、昭和40年代前半頃の古いカラー写真を調べれば1枚くらいはあるような気がするのだが、現在では生憎手元には所持していない。
その当時はもう少し木々に覆われていたようなイメージもあるのだが、何分にも昔のことなので記憶が薄れている。
その後1990年の初め頃までは、何気なしによくこの国道17号線を通過していたが、高速道路が完備したお蔭であまり近くに来るようなことは無くなってしまった。

  二の郭北の復元土塁       二の郭南の復元土塁


  小川城と三峰山方面


中山城(群馬県高山村)
9時40分から10時55分

名胡桃城から県道36号線を南へ赤根トンネルを潜り吾妻郡高山村へと向かう。
後北条氏が真田氏との間でその領有を争った時期に後北条氏側により築城された城跡とされている。
途中急カーブもあるが道幅も広く快適な山道を行くと約20分ほどで到着した。
パーキングは国道145号線沿いの北側に所在し、約10台くらいは駐車できそうである。
本郭へ向かう道案内の標識も完備し、城東川沿いに歩けば10分足らずの所要時間。
水田面からの比高差は15mほどしかなく、息の上がるような間もなくあっという間に城址碑が所在する本郭へと誘われる。

   東側からの遠景


     主郭切岸

 
      主郭

この本郭のみの見学であれば所要時間はパーキングからの往復時間を含めても30分以内に終わってしまう。
むろん折角の機会でもあり土塁上から本郭の堀跡、本郭の防御との関係の深そうな南北の小郭の様子なども観察したが、堀跡は寒波の影響だろうか降雪の融水と思われる水分が多く堀底の踏査は回避することとした。
また、本郭から直接南北の郭へと移動するルートは確認できず、この後夫々別の方向からアプローチを試みるも笹薮などに疎外され直接地表の様子を観察することはできなかった。

この後、「道の駅中山盆地」にて昼食。
小高い丘陵上にある道の駅からは南東方向から城跡の遠景を一望することができる。


 また、城跡付近に設置されている解説版とは別のものが、この道の駅の売店近くに設置されていた。



白井城(群馬県渋川市)
12時35分から14時00分

山内上杉家家宰であった白井長尾氏の本拠地であり、その後改築され近世初期まで使用された。
晩秋の日没はかなり早いので、午後1時までにこちらに到着する予定であったが、探訪が順調に進んだことにより早めの到着となった。
本丸の付近に駐車することも可能なのだが、徒歩により北側の外郭から順に回遊して白井宿方面へと向かうルートを想定していたので、時間にも多少の余裕が出てきたこともあり、城跡外郭北側の体育館に駐車し徒歩にて本丸方面へと向かうこととした。

宅地化が進んでいる北半分くらいは余り城跡としての名残りを感じ取ることができない。
然し北郭の東端に所在している城山不動尊(櫓台)の辺りから「三の丸」の堀跡を始めとして徐々に城跡らしい景観が目に入ってくる。
三の丸、二の丸の一帯は堀跡部分を除いて畑地が広がっている。
さらに二の丸の堀跡を過ぎ本丸の手前辺りまで近づくと、本丸桝形と共に整備された規模の大きい堀跡が目に入りテンションも上がり自然と笑みが零れてくる。

   本丸土塁状から枡形

本丸の土塁上の歩いたのち三日月堀へと下りて堀底を東へと向かう。


この辺りの堀跡が交差する景観は見ごたえがある。


「帯郭」と呼ばれている比高差10mほどの塁線上を北東方向に進み「神明宮」から白井宿へと下りた。


仁居谷城(群馬県渋川市)
14時10分から14時30分

天候は晴れてはいるが、西の空に雲がかかり日差しが弱くなってきた。
日没までにはまだまだ時間の余裕があるが、この日差しでは黄昏モードの画像となってしまうので余り撮影には向かないのだが、そのまま徒歩でも行ける仁居谷城方面へと足を延ばした。

何も痕跡が残されてはいないらしいのだが、戦後間もない時期に在日米軍により撮影された航空写真に残されている城跡の形跡を元に、山崎一氏の略測図などを参考にして現在の地図にメモ書きした資料を持参してピンポイントで該当箇所に赴いた。
するとかつては東西方向にのびた土塁状の地形が所在していたとされる畑の一角に東西方向の段差のある地形が確認できた。

     北側から           西側から

この一帯は畑地中に大きな石が混じる土質(たぶん吾妻川あるいは利根川の氾濫などに起因した川原石)なのだが、石塁であるかどうかは別として延長にして約25mほどの長さにわたり1m未満ではあるが明確な段差が残されている。
「北毛地区運転者研修センター」の南側という位置情報からも、土塁跡(ないしは堀跡)との関連性が想定されてもよさそうな地形のように思えたのであった。


今までは敢えて敬遠していたが、そろそろ先行きが見えてきたこともあり今回は有名どころを軸に探訪してみたが、こうしてどうにか日没前には当初の予定通り無事に4か所の探訪を終えることができた。
ご同行とナビゲーションいただいた、みかづきぼりさんに深謝申し上げます <(_ _)>。

拍手[3回]