本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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--前口上--
これはあくまでも直接標高737mの高野平城へのルートを辿ろうとして、結果的に何と標高974.5mを測る薬師岳に登ってしまったという笑い話です(^^ゞ

このブログはサイト更新などの作業のため便宜上5月1日に記していますが、実際に山行した日は4月27日です。
その4月27日の項には次のように記しています。

凸高野平城(こうやひらじょう、群馬県東吾妻町、中之条町)
10時20分から11時40分
標高737m、比高差約120m(南麓の林道部分から)

宮坂氏は牧場側から登られたようなのだが、できるだけ比高差を圧縮すべく儀一さん、余湖さんなどのネット情報を参考にさせていただいた。
駐車場所はこれもネット情報を頼りに路傍に余裕のある林道の山側を選んだ。
と、書いていると如何にも順調に探訪ができたような表現である。
しかし実のところここに至るまでは朝の6時過ぎから約4時間ほどの格闘があったのだが、これについては余りにも「お間抜け」であったことから反省を含めて別記する。と記していました。

--現在地確認は大切--
さて、この日自宅を出たのは午前3時前ということもあり、現地の中之条町と東吾妻町の行政境に所在している「高野平城」近くの吾妻神社付近に到着したのは午前6時前でした。
まさかこれほど早く来れるとは予想だにしなかったこともあり、先ずはこの神社と近くの善福寺を参拝しました。
この辺りに来るのは既に今月2回目であることから、ここまでは全く迷いようのない場所ではありました。
さて、参拝後当該城跡の南麓を目指してナビにはほぼ表示されない林道をそのまま車で登って行きました。
尤も、途中Y字路分岐手前の山田古城の所までは前回も行っていることもあり、その後の2か所ほどの行先表示のない林道の分岐なども地形を確認しながら問題なく通過し、ここまでは極めて順調に城跡の南麓方面へと回り込みました。
 
 塩梅の良さそうな林道分岐

しかし、できるだけ楽に登れそうな地形を探すあまり、結果的には本来直登すべき個所を直線距離にして南方向に約600mばかり行き過ぎていたようです。
言うなれば極々初歩的な誤りなのであります (^^ゞ
本来であればこの時点で現在位置の詳細な確認をすべきところ、ついつい登り易そうな未舗装の林道が目に入り然もほぼ同じくらいの比高差である尾根筋があったことから大きな勘違いを犯してしまいました (^^ゞ

 比高差50mほどの尾根筋

--反省の弁--
さて経験上「遭難」という用語を真剣に把握しなければならないのは、季節や天候などにもよりますが概ね標高1000m以上ではないかと思います。
しかし難しいのは標高500m以上1000m未満程度であっても山深い山岳です。
いわゆる山の懐が深いところで、春先に遭難騒ぎの発生した「三頭山」周辺なども同様です。
最寄りの人家まで徒歩で1時間以内で行けるかどうかというのも目安です。
近年では携帯の圏内であるかどうかもそうした目安になりました。

関東近県でも昭和40年代くらいまでは、里山は無論のこともう少し深い山でも林業や炭焼きなどの山仕事を含めた作業のために尾根筋や峠道は今よりも遥かに山道として整備されていたと記憶しています。
ところが山間部の集落が人口の流失に伴い過疎化、消滅が進み始めて、残られた方々も高齢化して、こうした山道の利用がどんどんと減少し道そのものが消失していったと考えられます。
また、クマやイノシシの出没の問題もありますが、これについては長くなりますのでまたの機会に譲ります。

  これはたぶん鹿のような

--間違いに気づいたのは何時か--
では、こうした間違いに気づいたのはどの時点かということになります。
実は最初の標高750mのピークを過ぎた時点で太陽の当たる方向に違和感を感じていました。
ところがこのピークを城跡の西に位置する標高759mのピークと勘違いをしたことから迷走が始まったようです。
なお、完全に方向を誤ったことに気付いたのはこの直後で、東へと移動していなくてはならないにも拘らず、全く反対方向である西へ向かっているという事実に気付いた時点でした。
なお、この時の標高も約750m前後です。
登り始めてから既に40分以上を経過していますので、登るべき稜線を誤認したということは確実になりました。
なお、時刻はメモによりますと午前6時40分過ぎでした。

--何故薬師岳まで向かったのか--
流石に標高800mを超えた時点で間違いはもう120%の確信へと変わっていましたが、ここまで来たら折角なので高野平城方面の様子を俯瞰できないものかとも考えました。
もう、ここまでくれば普通の山登りとなりました (^^ゞ

   標高約800m付近

また山深い地域でしか見ることのできない植物との出会いに対する期待もありました。
なおこの時は普段の装備とは異なり、高度計、非常食(約1日分)、昼食(おにぎり2個、パン1個)、飲料水約1.5Lを携行しておりました。
またレインコート、防熱シート、レジャーシート、携帯ラジオ他も携行し国土地理院のコピーした地図も持参していましたし、当然のことながら方位磁石も携行していましたので一応山岳モードではあります。
無論、天候に関してもラジオの天気予報が伝えているとおりで、まず雨が降るような可能性はゼロに近いこともありました。
なお、仮に薬師岳に登るとすれば西尾根伝いを除けば、この東ルートは唯一の登攀可能なルートであることもある程度は理解していたということも後押ししたようです。
さて、標高800mを超えた辺りからはコピーしてきた地形図どおり斜面の傾斜は大きくなり携行しているストックを使用しても這い上がるのに難儀する個所も次第に増えてきました。

   標高900m付近

幸いにして物凄い岩場には直面しなかったことから、一度も滑るようなことは無く山頂部の南側を迂回して程なく山頂へと到達しました。
この時の時刻はメモによれば午前8時頃です。

   薬師岳山頂の石祠


  有難い山頂のプレート

--薬師岳山頂からの移動--
さて薬師岳山頂で、おやつ代わりにおにぎり1個を頬張って今後の進路について熟慮しました。
まずコピーした地形図が示しているように、明確な山道のある北西部の尾根筋ルートは明らかに吾嬬山(かづまやま、1182m)から続く稜線であり、その東端部の独立峰である薬師岳への往復ルートであるとことを確信しました。
つまりは自分が登ってきたルートはあくまでも登山道とはいえないような獣道であり、いわゆるハイキングコースではありませんでした。
所々に地下足袋と思われる山仕事に関連した方が通過したという印象のおぼろげな形跡はありましたが、普通よく見かけるようなゴミの類は全く見られませんでした。
薬師岳からは北東方向に派生している尾根筋を辿れば理屈の上では直線にして約1.5kmほどで城跡付近に到達するはずです。
しかしその尾根筋は薬師岳山頂からは比高差にして約170mほどは急斜面が連続しているように記されていました。
加えて西尾根のような踏み跡自体は全く見えませんので、果たしてその尾根筋でよいのかどうかも躊躇するような具合でありました。

 この先辺りなのですけど・・

元々が岩山であることは山頂付近の露岩から理解していましたので、下山途中で露岩に遭遇すると「遭難騒ぎ」へと繋がりかねないことを認識し、北東尾根筋からの移動はきっぱりと断念しました。
かくして、ほぼ元登ってきたルートをそのまま戻るという無難な下山コースを採用するに至りました。
なお折角でしたので吾嬬山への西尾根を距離にして片道約400mほどを歩いてみました。
自分が登ってきたような獣道とは異なり快適な尾根筋のハイキングコースでした。

  南東の榛名山方面かと

下山ルートは急斜面の続く標高800m付近までは、往路の際にマーキングした跡を確認しつつ正確に往路ルートをトレースしました。
見知らぬ山中では上りと下りでは景色が違って見えますので、必要に応じてマーキングをしたり、振り返って地形を確認するなどの慎重な行動がいざという時には役に立ちます。
なお緩斜面の途中からはノイバラ、ニガイチゴ、タラノキなどの有刺植物の多い個所を避けるべく、南側に迂回して元は開拓した耕作地であった野原へと出ました。ここであらためて現在位置を確認して、そこからはそこへと向かうために築かれたと思われる林道を下り、結果的にはほぼ自分の車を停めた個所と100mと違わない地点へと下山することができました  ^^


この後本来の城跡付近へと移動して比高差約130mに再挑戦しましたが、西側尾根筋の防御が思いのほか簡素であるのは、その必要性が殆ど無いからであることが身を以て理解できました。
高野平城はあくまでも東側と南側を意識した縄張であり、急斜面を伴う北側と薬師岳から続く長大な難路のある西側の防備は手薄であっても何の問題もないように感じました。

しかし、130m登れば良いところを+330m+100mも登ったことから、少なくとも560mは登ってしまい、この時点で既に両足の脱力感は極限に達しておりました。
そのまま帰宅への道を辿るという選択肢も脳裏に浮かびました。
しかし通りすがりに立寄る程度ならば、もう少しは動けそうに思われたこともあり、あとはその時の成り行きにまかせることとしてみました。

--なぜ間違えたのか--

1.現在位置確認の不履行
2.林道分岐からの距離の未確認
3.東方からの遠望での目標把握の失敗

以上、これに加えて自分の年齢では明らかに不相応な行動という認識を含め、今後の糧とすべく反省を兼ねて纏めてみました (^^ゞ



 

 

拍手[5回]

この日は気合を入れ午前3時前に自宅を出た。
午前4時には既に上武道路を走行していた。
しかし気合とは裏腹に、その後の探訪の前半は波乱に満ちたものとなることは当人も予想せず。

東の空が漸くほんの少し闇が薄れ始めたのは午前4時半過ぎ頃。
その後も車は順調にスイスイと進んでゆく。
これだけ早い時間であると渋川市内まで来ても通勤などの車も少ない。

今回は上武道路から続く国道17号バイパスを中村交差点で左折。
県道35号線を利用して少し前にも訪れている山田地区へと向かった。
ここでも早朝ということもあり、通行している車は少ないのだが、国道に比べるとやや急カーブが多いかも知れない。

進行方向に遠望できると思われた「高野平城」、しかしその位置がよく分からない。
あとで、国土地理院の3Dを確認してみよう。

このため途中トイレ休憩を挟んだものの、現地には午前5時40分頃に到着した。
現地到着後、未だ太陽の位置が低いこともあり林道入り口近くの吾妻神社ほかを参詣して時間調整。
この時の参拝した祈りが通じたのか(功を奏した、あるいは利益の有無)どうかは今もって不明であるのだが・・・


高野平城(群馬県東吾妻町、中之条町)
10時20分から11時40分
標高737m、比高差約120m(南麓の林道部分から)

宮坂氏は牧場側から登られたようなのだが、できるだけ比高差を圧縮すべく儀一さん、余湖さんなどのネット情報を参考にさせていただいた。
駐車場所はこれもネット情報を頼りに路傍に余裕のある林道の山側を選んだ。
と、書いていると如何にも順調に探訪ができたような表現である。
しかし実のところここに至るまでは朝の6時過ぎから約4時間ほどの格闘があったのだが、これについては余りにも「お間抜け」であったことから反省を含めて別記する。

諸先輩方はそのまま城跡南部の斜面に向かって行かれているようだが、こちらは古稀前でもある些か草臥れた年代でもあるので、数十メートルほど西側に所在している鞍部を目指すこととした。
何と言っても先ほどまでその更に西側の山中を彷徨していたので、漸くにしてこの辺りの地形が頭と体により理解できてきたらしい。

ところで林道から鞍部までは比高差にして約50m前後、直線距離にして約120mである。
従って、その平均斜度は25度未満で仮に多少足場に難があったとしてもその上り下りは容易である。
また鞍部から東へと向かう上りでも、平均斜度は30度に満たないので岩場などが所在していたとしてもリスクはより軽減されるはずである。
一方城跡の南部を直登した場合には、比高差約120m、直線距離約150mである。
このため当該平均斜度は40度弱となり、しかも上に行くほどに斜度がきつくなると思われる。
このようなことから、その所要時間は別としても転倒や滑落のリスクを天秤にかければ前者の方が遥かに安全で体への負担もより軽減される・・・などと手持ちの資料などから現地で計算しているのだからかなりの暇人ではあるのだろう。

と、先ほどまでとは打って変わった万全に近い情報把握。
西側の鞍部へのアプローチは正解で、イノシシ駆除の罠が設置されている旨の表示がでていたので、茂みではストックで確認しつつ比較的視界の開けた緩斜面を上がり中腹の作業道へと出た。
折角なので途中この道を西へと歩き、当該鞍部がすぐ上に見えていることから多少クマザサなどが茂る斜面を九十九折に登攀し鞍部へと到着した。
尾根筋には以前にはある程度利用されていた山道が所在しているが、現在ではクマザサが茂り見通しは良くない。
特に西方の薬師岳から続く方面は全く人の通った形跡が確認できない。
薬師岳の山岳ルートは吾妻山からの往復ルートであるようだ。
こうした状況を見る限りではやはり、少なくとも薬師岳からこちらへと向かうルートは相当なリスクが潜んでいそうなことが理解できた。
なんといっても平均予想斜度が40度前後という急斜面は、仮に岩場の存在も考慮すれば論外なのであろう。
いずれにしても先ほどの中腹に設置されている作業道と同様にレアな山岳ルートとしても近年ではあまり利用されるというようなことは無くなってきているらしい。

尤も城跡へと向かう東側の道は、多少の斜度こそあるものの木の枝などにしがみつく必要もなくそこそこの見通しもありその登攀は快適でさえあった。
急斜面の中腹には尾根筋を通過しない巻き道の跡も見られるが、これは後世の山仕事などの便宜によるものと考えられる。
城跡へは二、三段ほどの小規模な腰郭を経て西端部の郭跡へと続いている。
実にあっけのないほどの西側尾根筋の防御ではある。
長年の風雪に耐えたことも影響しているのか、全体として郭切岸や主郭の土塁も低く堀切もさほどは深くない。
東側と南側を意識した縄張であり、急斜面を伴う北側と薬師岳から続く長大な難路のある西側の防備は薄い。

  東端の郭から主郭と堀切
 
復路は車を停めた場所の問題もありテープでマーキングした同じルートをそのまま戻った。
この時点で既に両足の脱力感は極限に。
そのまま帰宅への道を辿るという選択肢も脳裏に浮かんだ。
しかし通りすがりに立寄る程度ならばもう少しは動けそうに思われたので、あとはその時の成り行きにまかせることとした。


〇大戸関所ほか
(群馬県東吾妻町)
12時20分から12時40分

大戸資料館付近に駐車ができる場所を探したのだが、先客もあり結局駐車できる場所が見つからず集落外れの水田に面した崖下付近に停めさせていただいた。
あくまでも観光地としての観光用施設であることから、正にそれなりのものではあったのだが・・・

  大戸関所(想像復元)


大戸平城(おおどひらじょう、群馬県東吾妻町)
13時00分から13時30分
標高約540m、比高差約35mほど

大戸関所からは徒歩にして10分足らずである。
北東の集落内を通り製材所の脇を抜けてお邪魔した。
標高は高いが形式的には所謂丘城に近いものがある。
以前には存在していたのかも知れないが土塁部分は確認できない。
4か所ほどの郭群、切岸、虎口、堀切などから構成されている。
宮坂氏の図面で示されている郭2と3の切岸部分が最も城跡らしい景観であった。
麓の一部は耕作地化され竹林も少なくは無いが、最南端の郭部分を除いて所有者の方のご理解もあるらしく、ひととおりは歩いて回れるようになっていたことは誠に有難かった。
また、手作りの城跡表示についても嬉しかった。

大戸平城二の丸と背後の大戸城


萩生城(はぎゅうじょう、群馬県東吾妻町)
14時00分から14時20分
標高約650m、比高差約20m(南麓の境野集落より、ただし国道406号線からは約40mを測る)

萩生地区にある境野集落北側の丘陵が城跡である。
南東の宝篋印塔の祀られた個所から細道を進んだ。
この宝篋印塔近くに所在している縦長土塁の役割については、全体の縄張の中でよく分からない存在であるように感じた。
丘陵頂部に所在していることから構成の害獣除けでは無さそうに思うのだか。
南側の耕作地を開墾するために切土するとしても、寧ろ全体を削平した方が作業としては簡単である。
このあとは主郭手前辺りまで行き内堀でもあるアズマザサの密生している横堀の存在を確認。
主郭部は耕作地でもあることから、結局は外側からのみ拝見することとなった。

  萩生城の遠景(南から)

今年は標高650mの地点でも例年に比べて下草の成長が早いらしい。
矢張り山城探訪の季節もそろそろ閉幕を迎えているようだ。


この後は国道406号線沿いの戸田書店へと立ち寄り、版元である「みやま文庫」では品切れとなっていた「上野の戦国地侍」ほかを購入した。
むろん公立図書館で複写しても良いのだが、後々の整理作業などを考えると現物の書籍の方が遥かに使い勝手が良いことだけは間違いがない。
1月後半から3月まで頭痛に悩まされて殆ど未稼働であった。
3月末から伊勢崎方面を手始めに体調などを確認しつつ今月の4月は延べ6日の稼働となった。
昨年11月は2度の遠征もあったので延べ9日も稼働していたが、関東近県で延べ6日稼動は久しぶりであるような気がする。

この後からの連休中は混雑するので先ずは暫時休養態勢に。
連休明けからは梅雨が始まる前までは北へと向かうか、関東近県の平地(遺構の無さそうな場所)を彷徨するか・・・
「県別マップル」にマーキングしつつ、いろいろと思案するのも悪くは無いとも思う。

拍手[4回]

今回も群馬県内を探訪。
ここ何度かの往復で気にかかっていた岩井堂付近に立寄り、その後東吾妻町方面へと向かう予定。
 もはやルーチンのごとく早朝午前4時半に自宅出発。
1か月足らずの間に日の出の時刻もどんどん早くなり、早くも午前5時前には東の空に日の出の予兆有。
今回も何時ものごとく上武道路を北上。
暫時早朝からの春霞により眺望皆無。
それでも太陽が昇るに従って春霞は消失。
その後何時ものように渋川の「道の駅こもち」でトイレ休憩。


 
岩井堂の砦(群馬県渋川市)
午前7時20分から8時25分
標高459m、比高差約150m

今回は前回も立ち寄った岩井堂近くの「岩井堂の酒饅頭」(岩井堂渋川本店)に駐車。
少し前にはドライブインのような施設が所在していた記憶有。

さてこの砦については、そのほとんどが山登りというか岩登りという印象が濃厚。
始めの方こそ、「おっ鎖場があるではないか」と興味津々。
ヤマツツジ、フジ、スミレなどの自生種?の花々を愛でつつ鎖を頼りに登攀。
次第に高度を上げると遮るものが無いことから遠方から足元(※見たくなくなる足元)までの眺望は良好。
しかし次第にデジカメ使用の撮影は困難化の一途。
両手を常にフリーにすることが正に必須の状態。
鎖にしがみつき両手、両足の力を駆使した登攀が継続。
漸く登山路入口の「注意書」の意味を理解。(※強風時登山禁止等々)
このあとから何故か上半身に筋肉疲労感。
その原因は鎖場登攀に伴う大胸筋の痛みと判明。

ベンチの設置された岩峰の肩付近(展望台)で即座に下山路を選択。
むろん烽火台とも伝わる岩峰はあくまでも見上げたのみに終始。
当地には畳半分ほどの小屋が所在し記念スタンプが設置。
しかしスタンプ台は無。
これがホントの台無。


下山後に見上げた烽火台の岩峰はまだまだ先の方。
下山路では比較的鎖を必要とするような個所は少数。
登攀路が下山路であれば事故率増加は必定。

 展望台(左)と烽火台(右)

肝心の遺構については、烽火台方面未踏査のため不明。
いずれにしても岩峰上の狭小地故に明確な城館遺構は無いのかも知れないと無理やり納得。
なお、下山の際に岩場で右肘を強打。
あくまでも軽い打撲なのでその後の行動には支障無。


古城台(群馬県渋川市)
8時30分から8時55分
比高差ほぼ無

「群馬の中世城館跡」の報告書を見る限りでは、作間神社境内が城館跡と推察。
現在でも神社境内北辺に東西方向の堀跡状の地形有。

 境内地北辺の堀跡状の地形

またその更に北側には畑との段差を確認。
「古城台」の名の通りの小さな台地地形。
岩井堂砦岩峰の全景確認には恰好の撮影ポイント有。


岩井堂城(群馬県渋川市)
9時00分から9時15分
比高差ほぼ無

城館跡と推定されている区域は概ね宅地化されているため城館跡らしい形跡は極めて限定。
わずかに共同墓地付近にそれらしい名残有。

    共同墓地付近


市城砦(いちしろとりで、群馬県中之条町)
9時20分から9時40分
標高320m、比高差15m

一昨年あたりから嬬恋方面へと出かけた際にみかけており以前からの懸案事項。
その折には手前の岩櫃城の存在などに認識が限定。
先週、中之条方面への探訪の際にも通過。
これもひとえに駐車スペース不在がその事由。
中之条方面からの下り坂気味の帰路。
カーブの多い割には車の速度も上がり気味。

地元渋川市在住の研究者の記したと思われる解説板が設置。
すぐ南には「岩井堂の砦」の岩峰が所在。
解説版によれば、尾根筋に沿った郭群が所在。
半世紀以前にはこの辺りでよく見かけられた桑畑跡と確信。
果たしてどの規模の城館であったのかは、あくまでも模擬櫓周辺のみの見学であることから皆目不明。
一週間前と同様に岩井堂渋川本店にて「酒饅頭」等をバラ売りで購入。


岩下城(群馬県東吾妻町)
10時30分から12時30分
標高545m、比高差約40m(※林道から、国道145号線の山麓からは約100m)
※東西郭群の間を分かつ大堀切や東郭群の三重堀切が必見。

当城には上記のように旧中学校跡の東側から続いている林道を使用させていただくのが、途中ス少々未舗装の部分も存在しているが最も便利。
なお南西麓の集落から西郭群の主郭付近に通じている神社参道の登攀路は未確認。

林道からは180度方向転換し尾根筋に入山。
直ぐ西側にも明確な山道が所在。
そのまま尾根筋に入るも良し、その山道伝いに進むのも可。
数十メートルほど南進すると三重堀切の北側へと到達。
北側のものは拍子抜けするほどに小規模でかつ埋没。
しかし、二番目と三番目は深さ、幅も大きく現在でも進路を阻害。
三番目の堀切を超えれば東郭群の中心部分。
西側の大堀切を横目で観察しつつ、南側の尾根筋先端付近を確認。
宮坂氏作成の縄張図どおり4段ほどの腰郭地形を確認。

 東西の郭群を分かつ大堀切

その後大堀切を下り西郭群の主郭へと移動。
約10mほどを下り約12mほどを登るのだが、西側郭群への登攀ルートは些か曖昧。
先客のつけたと思われる足跡をなぞり登攀したが、土質が軟弱であり堀切斜面は些か破壊気味。
主郭土塁を確認後、西側の神社へと移動。
神社の参道が南西方向から登ってきてることを確認。
その下方の郭へは多少の急斜面であり明確なルートも不在。
ストック携行なのでこれを頼りに斜面を下り下段の郭群の様子を観察。
北と西側からはほぼ登攀不可能な地形を確認。

羽田城への移動途中に国道145号線沿いの「角田製菓」にて「かりんとうまんじゅう」ほかを購入。


羽田城(はんだじょう、群馬県東吾妻町)
13時00分から15時00分
標高約690m、比高差約70m(※南麓集落から、林道からは約30m)
※見どころは大堀切を含む2本の堀切と、南側の堀切に続く土塁を伴う横堀の存在。

ひとつ前の岩下城の堀切などで、存外の体力消耗と気力消失。
足首には既に10年くらい前から経験済みの猛烈な脱力感。
無論ハイカットタイプのトレッキングも所有。
しかし、足首の動きが制御される分車の運転には不適当。
靴の履き替えも時間の浪費。
そもそも年取ると些事が面倒。
これぞ加齢の非合理性。
かくして残りの稼動可能時間を考慮し、岩下城近くの根古屋城を断念して当城へと目標変更。

そうはいうものの午後の強烈な日差しが照りつけほぼ初夏の陽気。
飲料は500mlを2本を事前用意。
前回が1本で事足りるも今回は2本完飲。

車は「羽田バス停」近く旧道と思われる空き地に駐車。
諏訪神社近くの林道路肩なとにも駐車可能かもしれないが、そう広くは無いことから余り無理は禁物と考慮。

往路は登り口を間違えて幾分遠回り気味となり余計に体力消耗。
更にここでも大堀切などの上り下りにより足首は最早完全無力化状態に突入。
一番の見どころは何と言っても大堀切とこれに続く土塁を伴う横堀の存在に相違無。

  大堀切と土塁付の横堀


    同上部分の拡大

ここで西側横堀を踏査中に宮坂氏の縄張図に疑問発生。
南西部角付近の土塁を短く書き表しているが、実際にはかつては南から続いていた参道脇まで延びていることを確認。
コピーしてきた「城郭大系」を見ると、やはり同様の表現有。
たぶんに「城郭大系」に影響を受けたものなのかとも思案。

また南東部は竹林が密生気味に生育しており現況確認困難と判断。
既に時刻も午後3時近くとなり、早起きの影響だろうか睡魔襲来。
車に戻り小休止後、自宅到着まで約4時間を要する帰路の途上東松山市内にて夕食。

今回あらためて筋力低下を伴う加齢の意味を痛感。
今後はこうしたアップダウンを伴う踏査については1日1か所限定を真剣に考慮中。


今回の探訪はいちおう6か所。
尤も始めの4か所はやや微妙な印象の城館遺構。
岩下城とは真向いにあたる根古屋城なども立ち寄る当初の目論見は気力、体力の消失により断念。

帰路ふと沿道に目をやれば、ケヤキ並木の新緑が眩しい季節が到来し初夏の予感。
今後はさらに標高を上げるか、緯度を上げるかの選択必至。
それさえも危うく感じる昨今の異常なまでの高温状態。
と、やはり体言止めで統一するという文体は肩が凝ること必定。

拍手[5回]

今月4度目の探訪である。
今回もいくぶん走行距離が長いので、午前4時10分に自宅を出た。
途中2回のトイレ休憩などで現地到着は午前7時10分となった。
上武道路経由の一般道走行は、片道にして約130kmほどの道程であった。

1月半ば以来2か月半ぶりであったことから、果たして体が動くのか懸念された。
城跡巡り、とりわけ山城シーズンの終わり頃になってから漸くエンジンが始動できた。
という次第で今回は同じ群馬県内ではあるが、安中市の名山城でどうにか動くことができたようなので、今少し体調の様子見も兼ねて幾分か標高を上げ中之条町方面へと転戦して見ることとした。


桑田城(群馬県中之条町)
午前7時30分から9時50分
標高538m、比高差約120m

少なくとも比高差100m以上を自分の足を頼りに登る久しぶりの山城である。
比高差にして100m以上の個所を単独で訪れたのは何年振りなのだろうか。
元々血中酸素濃度が低い性質なので、たしかに息切れは直ぐに発生するのは止むを得ない。
たかだか100mも歩かないうちから酸素不足に陥り息が切れ始めていた。
一方で加齢による足元のふらつきも目立つが、大体こんなものであろうと思う。
枯葉の山道は滑りやすいが、ストックを携行しているのでさほど問題は無い。
逆に言えばストックが無いと下山時にはやや滑りやすいということになる。

県道234号線から分岐する市道入口に最近設置された新しい案内標識と解説版が所在している。
これだけ丁寧な情報があるので道を間違えるということだけは無さそうだ。
さて登り口となる麓には害獣除けの電気柵が張り巡らされているが、通行の際には必要個所を取り外す仕組みになっていた。
これは山頂の神社参道と送電線鉄塔等の保守という意味合いもあるのだろう。
この登り口にも電気柵の内側に説明版が設置されている。
城跡への山道は明確であり送電線支柱が郭跡に2か所設置されている部分を除けば、まあまあ山城としての遺構は遺されていると言っても良いのだろう。

ひととおり尾根筋上については安全が確保される範囲内で歩きまわってみた。
なお個人サイトを除いて公開されている縄張図では、宮坂氏によるものが比較的現状に近いという印象を抱いた。
北へとのびる尾根筋については厳然とした削平地を除くと、自然地形によると思われる部分も少なくない。
このため果たしてどの辺りまでが城館遺構であるのか判断が難しい。
また主郭を取り巻いている帯郭地形は、基本的にはあくまでも2段であることが分かった。
堀切遺構については土質の脆さなどから経年による崩落と埋没がすすんでいる。
また郭部分も総じて削平は甘く感じられる。
現在のところ山頂付近の遺構に関しては城跡に関する標柱や解説版の類は設置されてはいない。

 桑田城(左)と内山城(右)

なお、現在のところ西側の送電線支柱からその西に位置する主郭に進むにはノイバラ類が繁殖を始めておりその通行には注意を要する。
城跡へと続く山道は明確で余り荒れているという印象は無いが、北側へとのびる尾根筋の歩行には崩落中の個所も含まれる痩せ尾根であることから慎重な行動が求められると思われる。
また車は道路脇の空き地のような部分に停めさせていただいた。 
 
 
山田古城(群馬県中之条町)
午前10時10分から11時10分
標高509m、比高差約100m

麓の集落からの比高差はある程度はあるが、城跡の近くまで舗装済の林道が通っていることから実質的な比高差は殆どゼロに近いものがある。
また城跡入口には有難いことに解説版なども設置されているため、あつこちウロウロと目標物を捜索するようなことは無い。
平坦な山道を50mほど進めば、すでに主郭の切岸が目に入ってしまうという誠にお手軽な山城なのである。

しかしそうはいっても、城跡遺構の観察環境は桑田城に比べると決して良好ではない。
ノイバラが各所に散在しているだけではなく、アズマザサなどの低木類も少なくなく城内での見通しは全体として良好とはいえないものかを感じた。
特に主郭から西側の郭方面についてはノイバラに幾度となく進路を阻まれてしまった。
このため、西側方面の踏査は全く不十分となってしまっている。

だが片道約3時間を要していることからも、主郭とその周辺部だけをさっと見学してサヨウナラという訳にもいかず、気力の続く限りある程度主郭東側と南東側方面も歩き回ってみた。
水の手とも考えられなくもない池跡(※この時は暫く降雨がなく乾燥状態であったが、たぶん季節によるのかも知れない)は矢張り水気を多量に含んでおり、ためしに片足を踏み入れたところ約30cmほど沈み込んんでしまった。
なおよくよく池の中心部付近を観察してみると僅かに水面があることも確認できた。
なお本来の水の手とされている池北側の谷筋は、いきなり数メートルほど落ち込んだV字谷を形成しておりその規模と深さに驚いた。
この地形は恐らくは池部分の築造などに由来している可能性があるものなのではないだろうかとも思った。

   城跡入口の説明版

一方、池の南側周辺の郭付近にも何か所かは明確な土塁地形が残存している。
しかし後世のものと推定される山道が城跡のなかを通過していることから、土塁と山道が混在しているように思え、外見上の区別がつきにくい部分もあるように思われた。
なお善福寺付近も居館跡のような城館であったとされているが、懐疑的な見解もあるらしく、遺構等も皆無に近いことから今回は敢えて立ち寄ってはいない。


稲荷城(群馬県東吾妻町)
11時30分から12時30分
標高約400m、比高差約30m

事前情報については余り調べてはいなかったのだが、遺構の残存状況でいえば今年に入ってからの探訪した中では最も良好であるように感じた。
周辺には民家と耕地が所在していることから、どうにか主郭付近だけが残存しているという状況を想定していたのだがさに非ずなのであった。
「日本城郭大系」に掲載されている要図とほぼ遜色のない状態で少なくとも6か所からなる郭がほぼそのままの姿で残存していたのである。
もっとも主郭部とそれ以外の郭群との間においてやや防御性の差異を感じてしまう部分があった。

  郭内より南東の虎口

ただし有名な岩櫃城のように東吾妻町の文化財指定は受けてはいない。
このため標柱、解説版、案内標識の類は一切設置されてはいない。
当地の草刈りなどは地元の方のご厚意などを中心にして行われているのかも知れない。
主郭土塁とこれをとりまく横堀は高さ6mから10mという切岸と相俟って壮観でさえあった。
あとから気づいたのだが、この地はあくまでも東吾妻町であり中之条町ではなかったのだが、余り調べないで赴くというのも意外性を感じ取ることができる。
これからも時々は所在地のチェック以外には下調べなしに探訪するという楽しみを残しておこうと思ったりもした。


城峯城(群馬県中之条町)
13時00分から13時15分

福祉関係と思われる農業共同作業所の東側に所在しているのだが、現在その存在が確認できる遺構は西側の土塁部分と主郭と思われる削平地と北側の帯郭だけであるように感じた。
全体として草木が多めであることもあって、地表部分の観察には支障を感じたというのが真相でもある。
なお駐車できそうなスペースが無いことから半ば路駐に近いような状態であったので、実際のところ正味にして10分内外ほどの時間しか滞在できていない。

    標柱と説明版


和利宮城(群馬県中之条町)
13時30分から13時40分

神社鳥居下の端に車を停めて徒歩にて計100段ほどの石段を登ったのだが、その途中でかなり上の方までそのまま車で行けるということに気づいた。
神社造立に伴う階段状の基壇は存在しているのだが、丘陵の南側を切土により削平地を確保しているだけである。

     神社の石段

悉皆調査や町誌などにおいても中世城館跡として把握されているのだが、地形としての要害性は余り感じられず、現在の神社境内地の様子からは往時の様相を偲ぶことは困難なのであった。


群馬県内の低山でも今年の温かさが影響して既に新緑が芽吹き始めていた。

加えて下草の方も成長が著しいように感じる。
こうなってくると関東北部近県でも、少なくとも標高500m以上でなければ地表の観察は難しくなってきているように感じた。
もはや山城シーズンの最終ではあるが、何とかしてあと1度くらいは出かけたいと思うのだが先のことは自分にも分からない。
なお今月これで4度目の群馬方面探訪なのであるが、平日の場合には早朝を含む時間帯と夕方を含む時間帯における所要時間が余り変わらないことに気が付いた。
ちなみに今回の復路の所要時間は出発は午後3時42分。
間に二度の休憩を含めて自宅到着が午後6時50分なので約3時間ということになる。
復路の方が信号待ちを含めて渋滞も少なくは無かった筈なのだが、その所要時間の差は僅かに8分なのであった。
走行距離が約10kmほど短いとはいうものの、この差の少なさに半ば当惑しているのであった。

拍手[5回]

今回は少々方向を変えて群馬県安中市内に向かうこととした。
ボチボチと新緑や下草の成長加減が気になるが、現地での混雑は避けたいことから、できることならばサクラ満開の時期は避けたいという思いであった。
ふと「さくら祭り」などの最中に訪れてしまった2016年4月の東北(岩手県南)遠征を思い出した。
あの折には1日目の前沢城では「ボンボリ」が張り巡らされて駐車場所探しに難渋したが、2日目の一関城では「サクラまつり」の会場開設が始まり、城内では遺構のあちこちに関係機材が設置され写真の撮影構図に苦慮した。

群馬県内は今までに国道254号線沿線は藤岡市、旧吉井町、富岡市などを中心にある程度は訪れてはいる。
しかし山一つ越えた国道18号線沿いは全くの手つかず状態なのであった。
上野国衆を中心とした中世城館の数は決して少なくない。
国道18号線自体は過去に数十回は通過しているが、個別の地域については土地勘がほとんどないということもあるようだ。

この日は到着時刻が不明であったことから、午前4時20分に自宅を出た。
ルートは国道254~国道17号(深谷バイパス)~国道18号である。
「道の駅おかべ」で小休止した時点で未だ所要時間は90分であった。
この後最初の目的地である後閑城の駐車場に到着したのは午前7時前であった。


後閑城(群馬県安中市)
午前7時05分から8時50分
比高差約50m(麓から)

駐車場は中腹に設置されているが、サクラ関係のイベント直後であったこともあり、そこまでの山道は片側一方通行の信号機が設置されていた。
いずれにしても比高差の少ないことは大変有難いものを感じる。
これが麓から徒歩で登るとなれば、この年齢になってくるとそれだけで体力が枯渇してしまい城域を全て巡るということは到底不可能となってしまうのである。
整理すると50台位は駐車可能であると思われたが、この時刻ということもあってか先着利用者は1台だけであった。
この車の利用者には城内にて遭遇。
三脚とデジイチという出で立ちであったので、その時刻と考え合わせると野鳥関係乃至はサクラ関係に興味のある方と思われた。
一般に城跡巡りでは余り三脚は利用せず、せいぜい一脚などの携行性の高いものになると考えられる。

西郭、主郭、二の郭、南廓、東郭、北郭に加えて2度目は無いものと思いのろし台?方面を確認した。
城址公園化に伴い改変されている部分も少なくは無いものと感じたが、五つの方向に分かれた尾根筋のすべてを活用したその規模の大きさとともに北部の三重堀などの構造から考えると仮に依田氏あたりから始まり、その後後閑氏を経て戦国末期に大規模改修を受けている可能性を感じた。
国衆規模の城ではない、恐らくは広域権力である武田氏、後北条氏などの影響力を想定せざるを得ないものがあるように思われた。

 主郭から眺めた西郭と妙義山


名山城(群馬県安中市)
午前9時25分から11時20分
比高差約40m(西側林道部分から)

後閑城からは道程でも約5kmと近い。
しかし九十九川を渡過する橋が少なく、ルートもカーブとアップダウンが少なくなくその移動には実質で25分近くを要した。
小日向方面からの近道に気づいたのは、漸く自宅へと戻ってからのことであった。

現在至近には東日本震災後に増加した太陽光発電の施設が建設されている。
このため直接的ではないにせよ、城跡への影響も少なからず感じられた。
特に城域には含まれてはいない北側の尾根筋方面は当該発電施設工事によりかなりの地形改変が為されているようでもあり、尾根筋自体が変わってしまっていた。
城域最北の墓地辺りから入ったが、発電施設のフェンスと野荊の群生やアズマザサの群れに阻まれ約20分ほど時間を浪費した。
また本来西側の谷筋から入ることのできたルートの間際まで当該施設が建設されたことにより、そのルートは更に分かりづらくなっているように思われた。

城跡自体は簡略に言えば楕円状の主郭を中心として南東の稜線部に複数の腰郭が付随するという構造である。
築城の経緯や城主については明らかではないとされている。
主郭虎口は南北にあるとされているが、南側のものは不明であった。
南西部に大手方面からの虎口ではないかと推定されている竪堀状の地形が認められる。
総体的に樹木が叢生気味で、見通しも良好ではなく城域の全体像を把握するのに難渋した。
このため比較的小規模な遺構ではあるのだが、無論明確なルートも存在せず、アップダウンの多さを含めた城内での移動にこの日の体力の大半を消費してしまった。
特に上から2段目に相当する腰郭の切岸の高さは5mから6mと大きく、木の枝などの助けを借りなければ上り下りができない。
南東部に伸びた低い丘陵部を大手とするなどの見解もあるようだが、概ね平坦ではあるが概ね自然地形に近いものを感じた。
出口は本来のルートである発電施設フェンスに沿って脱出した。
なお、人家が近いとはいえこの山内では自分以外に動物の存在を感じ取ったことから、時々咳払いなどを試み渓谷的なシグナルを発した。
比高差も無く決して山深いという訳ではないのだが、足などを挫くようなリスクも視野に入れて、できれば物好きな同行者の存在が求められるのかも知れない。

   北側の堀切遺構


菅沼城(群馬県安中市)
11時40分から12時10分
比高差なし

曹洞宗海雲寺の境内が城跡である。
「日本城郭大系」に記されている概念図を眺めるとついつい期待をしてしまうのだが、すでに刊行以来40年を経過している。
このため現況確認を含む調査は約半世紀以前となる。
従って、現状との乖離はいたし方のないところではある。

それでも、境内の東側に堀跡を含む土塁が現存し、これ以外に一部ではあるのだが南西部の土塁も現存している。

   東側の土塁と空堀

境内は園芸種の椿と思われる庭木が満開を迎えていた。
人見城へと向かう途上で磯部温泉を通過することとなったことから、記念に名物の「温泉まんじゅう」ほかを購入した。


人見城(群馬県安中市)
12時40分から13時30分
比高差約45m(北麓の柳瀬川方面から)

この日2番目に訪れた名山城で結構疲れていたことと、碓井川南岸の地理に疎いことが加わり、このあとのスケジュールについて、国道18号線沿いの簗瀬城方面に向かうかどうかを考えていた。
しかしそれではあまりに安易であると考え、取敢えずはこの人見城へと向かうこととした。
この辺りの地形は北は柳瀬川と南は高田川に挟まれてはいるが、安中市域では広大な平坦地が広がっている。
このため妙義山方面の見通しが極めて良好であった。
その麓からは熱せられた風が巻き起こり大きく砂塵が巻き上がっている光景も目に入った。

駐車場は大宮神社近くの市道沿いにあった。
整理して停めれば20台位は駐車可能であろうと思われた。
境内に城跡の解説版が設置されているので、これを拝読した。
神社への参詣の後そのまま境内から入れるのかと思ったら、途中で密生する竹林に阻まれた。
そうなると集落の南側からアプローチする以外にはないと考え神社東側の市道を100m弱ほど南下。
その後集落内の通路を西へと入り、家庭ごみ集積所の個所から緩やかな坂となっている堀跡を進み、一番西側の堀跡まで足を延ばした。
切岸の高さは最大で6mほどを有していたが、東西方向に少なくも5か所ほどからなる郭が直線的に並んでいるという構造であった。

「櫓台」とも云われている個所

常総地方の城跡の雰囲気を想起させる密生度の高い竹林であったが、大きな違いは生育しているのが真竹であったことであろう。
郭間相互における差異や求心性は余り感じられず、この地における地衆などの寄居のようなものであったのだろうか。


磯部城(群馬県安中市)
13時50分から14時40分
比高差約40m(南麓の市道部分から)

市道から細い道を入ると直ぐに駐車場があるのでこれを利用させていただいた。
古めかしいトイレもあるが、水洗式で綺麗に清掃されていたが、その一方でドアが閉まらないという問題があった。
この同じ場所に縄張図付の解説版が設置されている。

駐車場からはそのまま比高差にして約40mの登り道をすすんだ。
始めに三の郭、二の郭、物見台、主郭の順で見学した。
三の郭、二の郭のそれぞれの基部に横堀がまわるというのがこの城の特徴らしい。
二の丸東側の大土塁については一部地山を利用している可能性もあるように思えたのだがどうなのだろうか。
サクラの季節も終わっていることから見学者は自分ひとりであったが、いくぶん解説版や標柱などの経年変化が目立っていた。

 大土塁から俯瞰した二の丸

なお、現在のところ主郭部はクマ笹が密集しているためにほぼ地表部の観察ができないのには困った。
後閑城と同様の城址公園ではあるが、その管理事情の落差を感じた。


今回探訪用の事前資料は予め8か所ほどを用意していた。
この時点で5か所を巡ることができ、基本的には当初の目標を果たしていた。
今朝の朝食はレンジでチンしたスープカップのトン汁一杯のみである。
行動中は元々昼食は摂らない習慣なのでもとより多少の空腹感は否めない。
しかしそれよりも早起きしてきたことから正直眠いほうが優っていたという状況でもあった。
こうしたこともあり、時刻は午後3時前ではあったが、探訪の続きは次回以降に譲り安中図書館へ立ち寄り資料収集へと舵を切った。

無理をして日没直前までの行動せず、結果的にこれが正解のようであった。
というのも図書館を退出した午後4時過ぎ頃からは、次第に晴れ間から小雨がぱらつき始めて恰も「狐の嫁入り」の様相を呈してきたのである。

なお、この日の帰路も交通事情は至って順調であり、もはやお馴染みとなってきた感のある国道18号から国道17号(バイパス)経由の待ち程度の渋滞を除けばスムースに移動ができた。
自宅到着は休憩無しであったことなども重なり、運転時間は僅か2時間50分に過ぎなかった。
最悪休憩時間を含めて途中の高崎、熊谷、東松山などでの渋滞を想定し約4時間ほどを覚悟していたのでこれは実に有難かった。

下草の生育はそろそろ限界で、新緑の方もかなりの速度で進行している。
長野、福島方面ならばもう少しましかもしれないのだが、なにぶんにも日帰りの場合には少し遠い。
新潟や富山方面の遠征も視野に入れていたが、ほとんどこの先の天候が読めずにいるので先延ばしとなる公算が強いようだ。
こうしてそろそろ山城を含む城館探訪に相応しい季節が終わっていくのだろう。

さて3月31日からこの4月9日の間の10日間だけで、それまでの停滞を打破するように4日計20か所ほどの探訪に至った。
日数の割に数が少ないのは、最初の一、二回目はそもそも動けるかどうかの自信がなかったことによるものである。
どうにか動けることだけは確認できたものの、足回りの痛み対策が不十分であったりしているので、歩くことのできる距離は20km前後までらしい。
加えてそ1日につきそれ以上探訪すると、全く記憶が追いつかなくなることに気付いたこともある。

このうちある程度その名を知られたところでは、赤堀城、天幕城、不動山城、後閑城、磯部城などが含まれている。
また、「堀切の有無」などを基準として、どうにか山城の分類に含まれそうなのは、棚下の砦、猫山城、不動山城、後閑城、名山城、磯部城などである。
しかしその比高差はそれらの全てを合計しても僅かに400mほどに過ぎないのであった (^^ゞ

拍手[6回]

 なんと今月2日に続いて2日おきの城館探訪である。
ある程度気力と体力がありそうに感じられ、天候がまずまずであれば即座に出かけるという以外の選択肢は無い。
とはいえ目的地が渋川市(旧赤城村)なので、拙宅からは上武道路が延伸されているとはいえ片道約120kmであることから、一般道利用では通常約3時間半前後と予想される道程であった。
このため今回は朝方の渋滞混雑を避けるべく午前5時前に自宅を出発することとした。
今回はいちおう5か所を予定したが、うち平地の2か所は時間に余裕があれば立ち寄るというものであり、あくまでも3か所の山城が今回探訪の中心である


棚下の砦(群馬県渋川市、旧赤城村)
午前8時45分から9時45分

現地に到着したのは早朝の走行ということも幸いし途中2度の休憩を挟んだにもかかわらず午前8時には現地付近に到達していた。
しかし、昨年訪れた長井坂城の近くであるにも拘らず現地では、本来の目的地探しに40分ほどを費やすこととなった。
他の方のネット情報にもあるように農道や高速道路の側道やらが複雑に入り組んでおり、即座には到達できにくい所在地なのであった。
もっとも現地の地形や高速道路の位置などに鑑み、なかばヤマ勘を働かせて訪れた場所が結局のところ最も該当地に近接していたのだが、付近の道路が複雑に配置されているようでこのような仕儀となった。
無論カーナビのガイドは農道などの道路事情も正確ではないことから、余りあてにはできなかったこともあった。
これほど迷ったのは多分初めてのような気もする。

さて肝心の城跡は関越道のすぐ西側の東西に伸びる尾根筋に所在していた。
北側からアプローチしたが関越道東側の林道が谷筋を超えるべく大きく南西方向にカーブした個所が城跡への入口であった。
しかし長井坂城のような入口の案内板などは全く無い。
強いて言えば関越道西側に所在するやや小ぶりの送電線鉄塔が目印なのかも知れない。
本来の林道から西へと分岐したやや荒れ果てた感じのする舗装済の林道を約100mほど進むと林道は180度方向を変えて再び関越道側へと戻るが、林道からは外れてそのまま目の前の樹林帯を西へと前進する。
なお、以前はこの林道から真直ぐに西へと延びる踏み跡が存在したが、周辺の樹木伐採により見通しは良くなっているものの、現在当該踏み跡は伐採された樹木が林道道路上に広がりそのまま進むのは困難となっていた。
無論よくよく見れば2か所ほど新しい踏み跡が確保されているので何れかをそのまま西に進めば約50mばかりも歩くと東側の二の郭と馬出との間の堀跡に到達する。
見どころはこの堀跡と馬出、標柱の所在する主郭などがある。
なお、主郭西側下の小郭はそのまま利根川の崖線部先端となっており断崖の比高差は約100mを有する。
かつては棚下不動堂方面からの登攀ルートも存在していたらしいが、斜度、斜面状況、足場の悪さなどから見るかぎりでは全く降りてみようという気にはならなかった。

 主郭西下の先端部からの眺望

※比高差はアプローチが林道からの下りなので事実上ゼロであり、いくら堀跡や切岸の登りを累計しても20mには届かないというのが嬉しい ^^


猫の寄居(群馬県渋川市、旧赤城村)
10時50分から11時00分

県道255号線と上越線により、この寄居と推定されている個所は西側と東側に分断されている。
「赤城村誌」の記述によれば約30年以上前には東側台地上に堀跡が遺存していたとされているが、現在では天然の河川に伴う浸食崖が確認されるだけでその地表状には明確な遺構を認めることはできなかった。
なお、当地に建立されている念仏供養塔(女人講)の基壇組石に「寄居」の地名が刻まれている。
時間にある程度の余裕も感じたことから、上越線敷島駅前の和菓子店にて「田舎饅頭」ほかを購入した。
 
念仏供養塔に「寄居」文字あり


猫城(群馬県渋川市、旧赤城村)
11時25分から12時20分

別名を猫山城とも。当該名称は恐らく根古屋(根小屋、ねこや)などの音を有した集落が麓に所在し、それが近世以降「当て字」により「根古屋城」が「猫城あるいは猫山城」へと転じたものと解される。
この日は朝方はそれほど暑くは無かったが次第に気温が上がり始めた。
元来が登りと暑さに弱い体質であることもあり、多少の藪が想定された東側方面からアプローチした。
予想していたよりも遥かに藪は薄くひたすらに「藪をかき分けて進む」ようなことも無かったのは幸いであった。
最初の棚下砦もそうであったように、斜面には小さな左岸質の丸石が少なくない。
これに「ドングリ」の実が混じっていることも加わり、さほどの斜面でなくとも足場は滑りやすいように感じた。
車の方は他の訪問者がそうしていたように未舗装の林道入口の分岐付近にに停めた。
この林道はかつては猫山のピークを迂回して宮田方面へと降りるようなルートであったが、現在では車による通行はその幅員と路面の状況から見てまず不可能な印象である。
城跡標柱の所在が分かりにくいという情報もあったが、画像のように西峰の主郭南斜面に所在していた。
ただし斜面に設置されいることとに加えて、設置後約10年を経過していることもありややぐらつき傾きだしていた。
全体重(約86Kg)をかけると約2cmほどは沈みこんだので、やはり少し浮き出し始めていたようだ。ついでに周辺の土を足で踏み固めておいたのだが、あとどれくらいの期間持つのかどうかは分からない。

 西峯に所在する城跡の標柱

帰路十二社からのルートを調べようとしてみたが山頂部の倒木等が障害となって先に進めず断念した。
なお「日本城郭大系」掲載の概要図は山頂部の小さな盛り上がりを過大評価している傾向があり、東側では事実上2段の切岸で、主郭となる西側では北辺部の腰郭が記されていないなどある程度の相違があるように感じられた。

※比高差は林道分岐からは下って登るものの約30mで、これに西峰でのアップダウンや帰路の分を加えても累計にして60mには届かないので頗る体に良いようだ ^^


宮田の寄居(群馬県渋川市、旧赤城村)
12時40分から13時05分

「マッピングぐんま」掲載の文化財データベース(※旧「群馬県文化財データベース」)に図示されているポイントは本来の所在地から約100mほど南東に離れた農家を指しているが、これは「赤城村誌」に記されている内容(写真画像、利根川支流の河川との位置関係)を信ずる限りにおいては、その北西の利根川北岸の河岸段丘部を指すと見た方が自然であるように感じられた。
ただし、当該地に関する地表上の遺構は確認できず、台地形状であることは認められるもののその現状は耕作地と一部宅地が存在しているのみである。
また下記の画像のように当地にはすぐ近くには屋敷囲いの土塁を有する旧家も現存しているが、寄居との関連性は不明である。

 画像中央やや右の畑付近か


不動山城(群馬県渋川市、旧赤城村)
13時30分から14時35分

城跡南端部付近の道路脇には城跡の標柱と解説版が設置されている。
この場所から竹林内部に道が続いており、そのまま道なりに進めばいちおう主郭とその北東に接する郭辺りまでは見学できるが、それ以外の部分については真竹やアズマザサ等が著しく繁茂しており暗く見えにくく立ち入りは難しく感じた。
事前に得ていた縄張図などからは余り想像ができなかったのだが、主郭、二の郭北西部は棚下砦の西端部ほどではないにしても、かなりの急斜面であり断崖といっても良いものがあるように思われた。
特に主郭部の比高差5mほどの斜面は崖線部に近く登攀はともかくとして、下りの方はもしも滑る方向を誤ると比高差約100m以上を滑落して利根川の急流に飲み込まれることとなる可能性も皆無ではないように感じた。
以前設置された木竹制の安全柵やロープなどは既に劣化し、この時点では全く役立ってはいないが、予めトレッキング用のストックを携行していたので大きな問題は無かったように思う。
城跡巡りは「自己責任」であるとはいえ、近年の「城跡ブーム」に鑑みると、文化財標柱やその解説板が設置されている市の指定史跡でもあり、私有地であるという事情などを加味しても、ある程度の安全策を継続的に行うことも必要ではないかとも感じた次第である。

 主郭(画像上)と腰郭(画像手前)


三の郭への登攀中に出会ったカモシカ

※こちらも比高差は丘陵上からのアプローチであることから、殆ど無いに等しく城内でのアップダウンを加味しても全体にして20mほどであろうか。


時刻は車の駐車場所まで戻った時点で午後3時前であった。
当所の予定ではこの後渋川市の図書館へ赴き資料を収集するという選択肢も想定していたのだが、早朝5時前からの運転に加えて夜間の運転走行は結構疲れることは昨年の青森八戸方面遠征において嫌というほど体験しているのことから、この際大人しくそのまま帰宅することとした。
途中上武道路にて初心者マークの方が時速50km走行を遵守されていたことから、いくぶん渋滞する状況に立ち至ったものの、結果的には午後7時前に自宅へと帰着した。
往路約3時間、復路約4時間、およそ240kmの一般道走行であった。
流石にこの暖かさゆえ、そろそろ草木の成長が目覚ましくなってきた。
今回は前回、前々回の伊勢崎市内の平地から緯度、標高を少し上げてみたので、草木の成長は余り気になるような場面は感じられなかった。
次回さらにこのまま探訪を続けるとすれば、もう少し標高を上げる必要を感じたが登攀する比高差が大きくては体が持たないのでこの点が悩ましいのである。

拍手[8回]

資料の複写申請を行ったコピーを受領するため1日おいて再び群馬県伊勢崎市へ。
往復にして6時間以上を要することもあり、折角なので一昨日探訪を諦めた天幕城などにも向かうこととした。
そうはいうものの前日セットしたはずの肝心な目覚ましが機能せず、起床した時刻はすでに午前7時半を回っていた。
このため自宅発の時刻はある程度の支度も必要であることから早くとも午前8時半となった。
そうなると途中の交通渋滞などの事情により現地到着時刻が大きく遅れることになることから、そのままずるずると日延べしてしまうことも考えられた。
こうした事態を数日前頃から、午前6時発、午前8時半発などのパターンについて予め想定し起床時刻の遅延を理由に探訪中止とならないように考慮していたのである。
もっとも直接的な寝坊の原因は目覚ましスイッチの入れ忘れなので、相変わらず自分自身の性格がよく理解できていないことに気が付いた。


天幕城(群馬県伊勢崎市)
12時10分から13時05分

こちらも一応は市指定史跡であり、赤堀城や毒島城に比べるとどちらかといえば史跡整備の按排は良さそうな印象があるようなに思えた。
もっとも夏季の蓮園開設と関連しているものであるのかも知れない。

主郭を中心として土塁、帯郭、空堀などの遺構を確認することができる。
主郭の虎口は北西角付近にもそれらしいルートが確認されるが、現在土塁の無い東側にも存在していた可能性も否定できないような気がした。
なお、西側の帯郭周辺に自然石である可能性の高い悩ましい石積も何カ所か確認できる。
ある程度成形された石がまとまって放置されているように見受けられる個所もあるが、これは河川の護岸工事などの遺物なのかも知れない。

   南東方向から撮影



磯前田遺跡(群馬県伊勢崎市)
13時15分から13時30分

出典は「マッピングぐんま」の「城館」をキーワードに検索した結果からに過ぎない。
もともとが埋蔵文化財の保全等を意識して作成された情報をプロトタイプとするものと思われるが、近年は他の市地理情報含めた総合化したデータベースが作成されていたりすることが珍しくは無くなってきている。
10年ほど以前と比較すると正しく昔日の感がある。
この事例では群馬県全体をカバーするシステムであるが、元々の情報選定を含むデータ入力には当該市町村担当者の力量、知見、姿勢などに依拠するものであろう。
このため大まかに言えば、あくまでも市町村により格差が存在するものであることに留意する必要があろう。
地図システムとの関連については民間事業者である「パスコ」の会社名もよく見かける。
昭和の終わり頃に仕事上の取引等で縁のあった事業者でもあるので懐かしいような気もする。

とはいえ殆ど事前情報は無く皆目不明状態。
強いて挙げれば、一般に「前田」という地名がその土地を支配する一族の本拠地にまつわる事例が存在していることぐらいなのであった。
いちおう屋敷林の伐採直後でもあり、古い石祠が祀られている盛土地形も存在していた。

   石祠が祀られた盛土

また遺跡としての捉え方が複合遺跡という性格もあり、余りにも予想通り不明な部分が多すぎた。
そのなかで強いて言えば地形全体としては包蔵地の南限の段丘地形とその東側の段丘地形などが挙げられるのかも知れない。
こうしたこともありいずれにしても徒歩での探訪は、多少時間はかかるけれどもある程度は有効なようだ。


宮前屋敷(群馬県伊勢崎市)
13時55分から14時05分

当地に所在している旧家の周辺部を道路沿いに巡りながら拝見をさせていただいた。
強いて挙げれば、北東部(道路沿い)にごく小規模な土塁状地形(長さ約20m、高さ約1.3m程度)が認められた。
ただしその性格や時代背景については今のところ全く分からない。
風除けのための屋敷囲いであるとすれば東側の一部が遺されていることに違和感があり、あるいは土地の境界を示すためのものであるとすると道路沿いからやや引っ込んだ個所に位置しているという意味が理解できない。
直接車で移動していてはまず目にすることのできない状況でもある。

  屋敷東側付近の土塁地形


白田屋敷(群馬県伊勢崎市)
14時30分から14時40分

大きなビニールハウスのある旧家の辺りがこれに相当するものと思われた。
なお宅地北側には石祠が祀られた区画が存在しL字型をした土壇状の盛土が現存している。
ただしその時代背景は今のところ不明。


 付近の近観音堂(市指定重文)


板野屋敷(群馬県伊勢崎市)
14時14分から14時50分

手持ちの資料などから概ねの所在地は把握していた。
なお東側にはコンビニも所在している。
当該地には屋敷門と土蔵などが存在する地元の旧家が所在しており、こちらが「板野屋敷」に相当するものと思われたが、それ以外の地表の様子などについては周辺からは確認できない。

さてこの日は天幕城を含めて全て徒歩で探訪している。
むろん極力路駐を避けたいという信念のようなものもあるのだが、何と言っても見落としが少ないことが大きなメリットでもある。
このため今回も徒歩でなければ気づくことのなかった地面の傾斜や地表の凹凸を感じ取ることができている。
〆て約20kmの散歩であった。
 
 
この日の気温も一昨日と同様に春を通り越した摂氏25度前後という初夏の陽気であり、極度に暑さに弱い管理人としては一昨日の筋肉痛とも相俟って文字通り足取りの重い探訪であった。
この後の行動計画として何しろ気温の上昇が尋常ではないことから、近県では今シーズン最後の山城的な個所を探訪するべく計画を練っている。
しかし足回りの老化をひしひしと感じていることから、比高差と傾斜角度、道の有無に左右されることはいう間でも無さそうである。

何しろ最近は到底先々の加齢とこれに伴う健康状態が読めないことを認識し、行けるうちに行くことを鉄則にしているのである
なお、帰路は予想以上に順調に走行し全く同じルート戻っているのだが、帰宅時の混雑を見込んで図書館で少し時間つぶしをしたところ、都合2時間半と往路よりも寧ろ早い結果となった。

拍手[4回]

今年は1月下旬から頭痛などが続き、漸く小康状態となってきたところで今度は膝の具合がおかしくなった。それらが落ち着い始めたと思えば、風邪や別の偏頭痛気味の頭痛も発生。そして3月に入ればこれに花粉症も加わってしまい、結局のところ1月中旬以降は全く動くことができなかった。
このまま寝たきりになっても困るので、そろそろ意を決して出かけることとしたのだが、今度は気温が上がり過ぎて断念。そのような次第で何と約3か月ぶりの探訪となった。
しかし予定していたのが、本来は1月下旬に予定していた目的地なので下草の成長が懸念されることとなったのであった。


久長氏陣屋(群馬県伊勢崎市、旧東村)
午前8時30分から9時20分

県外にしてはやや遅い午前6時15分に自宅を出たこともあり、この季節ではすでに日の出後の時刻ではあったが、途中県道14号線の利根川を渡過する上武大橋拡張工事が完成していた。このため車の流れは極めてスムーズとなっており、行楽日和の土曜日であったにもかかわらず目的地に到着したのは予想よりも遥かに早い時間帯であった。
駐車場は神社西側の公園付属のものを利用できるらしく収容台数も40台位はある。
しかしこの日は土曜日の行楽日和であるにもかかわらず、「市民のもり公園」「華蔵寺公園」なとほかの名所が少なくなく、ややサクラの本数自体も少ないこともあるのか陣屋跡の大東神社および西隣の公園の利用者は全くの皆無であった。

なお当陣屋跡は伊勢崎市指定史跡でもある。
旗本久長氏の近世陣屋であるが、一説によれば中世城館跡としての起源の可能性も想定されるらしい。


   陣屋跡の西側から


田部井館(ためがいやかた、群馬県伊勢崎市、旧東村)
9時45分から10時20分

この日は目的地の行く先々で桜が満開であった。
旧東村の公共施設ゾーンの図書館利用者用駐車場に車を停めて、いくぶんまばらな花見客と満開の桜を横目にしつつ徒歩にて西の早川方面へと移動した。
川沿いの堤防付近には、これまた今を盛りと言わんばかりに菜の花(セイヨウアブラナ)が咲き誇っていた。
当所は難読地名でもあり、予備知識が無ければ普通は「たべい」と読むものと思われる。
「日本城郭大系」が編纂された半世紀ほど以前には未だある程度の地表上の痕跡を追い求めることができたようなのだが、外見的にも県道68号線で分断されていることも加わり現在では堀跡を含め全くその痕跡が感じられない。
 

画像左手の辺りが城館跡南東部

そうはいっても折角なので一応かつての内堀跡に沿って辿ってみることとしたが、やはりその地表部や道路の形状などからは城館跡の雰囲気を感じ取ることは困難を極めた。
ちなみに外郭部に相当する個所に位置するカラオケスナックの店名は「たてぼり」であった(^^ゞ


斉藤屋敷(群馬県伊勢崎市、旧東村)
11時00分から11時20分

当所は鯉沼と呼ばれている用水池の西側付近に所在している。
 おそらく主郭部であろうと想定されている宅地の周囲には、かつては堀跡などが存在していたらしいのだが、やや微高地であることと集落内の一部曲折した道路が確認される以外には中世城館跡に繋がるような形跡を見出すことはできなかった。
北関東自動車道のすぐ南側に位置していることもあり、その建設以前とは周辺の景観が大きく変貌していることが感じられた。
同地区内に所在している共同墓地の墓名を拝見してみたところ、城館跡との関連が窺われる斉藤姓とならび重田姓のお宅が非常に多いことが目立った。
共同墓地内の薬師地蔵同脇の駐車スペースをお借りした。


 懐かしのホーロー看板健在


赤堀城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
12時00分から13時00分
伊勢崎市指定史跡

主郭北辺西側の巨大な土塁と空堀跡、ならびに北辺東側から東辺の土塁とその間に所在している虎口が見どころである。ただし土塁上を見学できそうなのは北東部の一部に限られ、他は急傾斜や樹木の繁茂などにより困難である。
また主郭内自体も耕作地であることから中央部の農道などの一部以外には歩くことのできる部分は限定されている。
なお、「日本城郭大系」ではその北西側にも堀跡などの遺構が記されているが、現在ではほぼ消失している。

手元の資料からは赤堀氏一族については断片的な記述しかなく、通史的な理解が得られていない。このため引き続いて地元の赤堀図書館などを利用し参考・補填して行こうと思う。

   北辺土塁と空堀跡

当然のことではあるが、赤木山麓という地形条件なので河川はそのほとんどが南流している。
このため一見平地のように思われる地形でも、実際には北高南低となっていることに改めて認識した。


毒島城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
13時30分から14時00分
伊勢崎市指定史跡

周囲を低丘陵に囲まれた低地の中央部に取り残されたように所在している独立丘陵に所在している。
その後の地形改変が顕著であることから果たして単郭がどうかは不明であるが、いちおう丘陵中腹に刻まれたやや幅のある帯郭がこの郭を取り巻いている。
虎口を南西部に想定している見方もあるようだが、郭内自体が全面的に耕作地とされていることから、どうも城館跡という印象を強く感じることができなかった。

サクラの時期ではあったが、城跡となる丘陵では折からソメイヨシノが満開で期せずして「花見」の探訪となった。
しかしここでも訪れる人々は少なく、同時刻においでになった人数は数人に過ぎなかった。
もっともソメイヨシノそのものの本数もそこそこの大木ではあるものの合わせても20本ほどとやや少ないことと確実な駐車スペースが存在しないことも影響しているのかも知れない。
道交法の路駐には当たらない箇所は丘陵南東部の土地区画整理記念碑付近の空きスペース約1台分だけであり、丘陵麓ではほかに許容されそうなグレイゾーンを合わせても合計3台ほどである。

  北側方向からの遠景
 
このあと、日没までは約4時間もあり本来ならばそのまま近くの天幕城方面へと徒歩移動をする予定であったが、地元の図書館にも立寄る心積もりと、最早持病と化しつつある左足第五指の痛みがひどくなり始めたこともあり、結局旧赤堀町の図書館へと戻った。
足の痛みのせいもあり、約3kmほどの道程を長く感じてしまった。あらためて色々な意味で年齢の限界というものを感じている。
赤堀図書館では「赤堀町誌」「東村誌」「境町史」「伊勢崎市史」等を閲覧し、必要個所の複写申請を行った。
資料の確保読込並びに付箋処理などに約30分を要した。
この時点で既に午後3時半であり、セルフサービス方式ではないことから、当日の受領が困難と思われたが、まさにその通りとなったことは極めて致し方ないことでもある。


ふと気が付けば日の出が約午前6時、日没が午後6時頃という季節となっていた。
実に分かり易いことなのではあるが、平地ではそろそろ下草も伸び始めており緯度や経度を上げる必要性を感じ始めたが、体力と気力の面で問題が多く花粉症の災いしており、自分の意志と体ではあるのだがこの先の行動は全く読めないでいる。
ちなみに帰途は同じルートをほぼそのまま戻ることとしたが、見事なまでに週末行楽帰りの車列渋滞に嵌ることとなり、伊勢崎市から自宅までの所要時間は何と3時間20分を要した。
目立った渋滞個所は工事によるものを除くと、これも予想通り、熊谷市内、東松山市内、川越市内の以上3か所なのであった。

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兎貝戸の砦から芳賀中学校の東側の道を北上して小坂子城へと向かった。
このルートも約600m足らずの至近距離ではあるが、進行方向は赤城山の山頂方面のため比高差約20mの緩やかではあるが結構足回りに響く坂道であった。


小坂子城(群馬県前橋市小坂子町)
13時50分から14時30分

台地先端に鎮座する小坂子八幡神社にてこの日何回目かの初詣祈願。
そういえば久しぶりに出かけたこともあり常時携行アイテムである賽銭用の財布を自宅に忘れてきた。

小坂子八幡神社南参道

城跡へはこの八幡神社の参道から入り境内地を東側に抜け東側の崖線に沿った農道のような細道を北へと向かいそのまま県道34号線まで歩いた。
ひとつ前の兎貝戸の砦と同様に東側の防御線は大神川の崖線部となっている。

東側崖線部(北の赤城山方面)


東側崖線部(南方を撮影)

この辺りからは対岸の「出城」ともいわれる林が目に入る。

出城ともいわれている辺り

主郭付近には土塁跡も残されているらしいが、生憎民家の裏手辺りらしいことから目にはしていない。


画像右手の屋敷林辺りが主郭部

出城付近の様子を県道から一瞥したのち、県道を西へと引き換えし城跡西側の市道を南下しつつその崖線部を観察した。
主郭とその南に続く城域を分ける堀切状地形の麓には小さな解説版が設置されていた。


ただし後世に埋め立てられたのか堀切としてはやや中途半端な印象もある。

堀切地形麓の解説版

さらに市道を南下していくと八幡神社境内へと登る階段があり、登りきった所には古びた木製の城跡標柱が所在していた。



この時点で日没までは未だ2時間ほどの余裕があったが、両膝の具合が変調を来してきたようにも感じたことから、この日の探訪は終了することとして、この後は県立前橋図書館へと向かった。
図書館を退出したのは午後5時前でそのまま上武道路を利用して太田市内へと戻り、往路とは反対に深谷市-熊谷市-東松山市と経由して午後7時半頃に自宅に帰着した。

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車は芳賀公民館に駐車させていただき、勝沢城からそのまま徒歩にて金丸川を渡り次の目的地である東側の兎貝戸の砦を目指した。
といっても、道程にして僅か600mほどに過ぎない。
ところが高花台郵便局から芳賀中学校方面に向かう道は比高差は10mほどの緩やかな上り坂であったため意外に時間を要することとなった。
この程度の緩やかな坂道に10分以上も要する自分に呆れた。
赤城山の南麓であることから少しでも北寄りに道をとると必ず上り坂となるのだが、地図やナビ上からは殆ど読み取ることのできない情報でもある。


兎貝戸の砦(群馬県前橋市小坂子町兎貝戸)
13時25分から13時40分

「群馬県の中世城館跡」の記載内容を読む限りでは、当該実地調査が行われた1980年代中頃くらいまでは、それなりに良好な状態の土塁を含む空堀などの遺構が現存していたらしい。
しかし現在は一面の畑(主郭)で、その東側(東の郭)には休耕地のような平地が確認できるに過ぎなくなっていた。
下記画像のような城跡の説明版が設置されていなければ、おそらくは所在地さえ把握できずにそのままスルーしてしまいそうな光景でもあった。
「日本城郭大系」や現地の説明版によれば東西100m、南北60mの東西に分かれた複郭であったという。
南北にはそれぞれ民家が所在しその間の畑の一部が砦跡であったらしい。
なお東側には大神川の小流がが南流し谷津田地形を見ることができ、その比高差は5m前後はありそうであった。

 
主郭の南辺中央付近に設置されている現地解説版で、倒れている木材は古い文化財標柱である。


画像の一段高い個所が西側の主郭部分であったのだろうか(南東方向から撮影)


現地解説版の拡大画像


北側から撮影したもので、画像の右側の少し高い部分が主郭で、左側の低い部分が副郭(東郭)に相当するものと思われるのだが、南辺部の一部を除けば堀跡らしい形跡はほぼ失われているように感じた。


国土地理院航空写真を編集加工
戦後間もない時期に撮影された画像には明確に当該砦跡の形跡が浮かび上がっている。
 
なお、この日の天候は朝方は冬晴れの快晴であったが次第に薄雲が広がり始め午後からはほぼ高曇りの曇天となった。

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