本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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この日は午前7時前に自宅を出発。
かなり間が空いて城跡巡りは昨年11月以来となります。
年末の風邪罹患以降早々と花粉症の症状を呈していたことにより、この暖冬にもかかわらず冬眠状態となっておりました。
三芳ETCから関越道-圏央道-常磐道経由で茨城県霞ケ浦方面へと移動。


木崎城(きざきじょう/茨城県行方市)
午前9時55分から10時40分


    南側外郭の堀跡

武田氏の傍流とされる一族により築城されたとされている城跡で、丘陵北端部の主郭には香取神社の社殿が鎮座しております。
城内にはこのほか参道西側に民家の廃屋が一軒と南東部には事業所が所在していますが、全体として遺構の大きな改変は無さそうに思われました。
昨夜から続いている雨が天気予報とは異なりなかなか降りやみません。
デジカメ、資料などを携帯しているので可能な限り降雨は避けたいところなのですが・・・
現在でも主郭の北と西側には明確な横堀が回り、本来は郭を囲むように全周していたようにも感じられますが、倒木と小雨模様などのため東側は未確認です。
この堀底は一部倒木などが存在し足元は余り良好とは言えませんでしたが一応通行は可能でした。
やはり一番の見どころは丘陵基部に所在している大規模な外堀(堀幅約15m、切岸の高さは最大8メートルほどか)でしょうか。
遊歩道のようなルートも設置され、小雨模様にも関わらず比較的足元は良好でした。
このほか城跡の南限でもある舌状台地を横断している国道354号線からの比高差は10m以上はありそうな急坂を形成していました。
尤もこの国道の建設工事に伴いある程度地盤の掘り下げ工事が施工されている可能性も想定されます。



野友城(のともじょう/茨城県鉾田市)
午前11時00分から11時20分


   北東の二重土塁

巴川を望む舌状台地の北端部に所在し、北麓からの比高差は約20m弱と余りありませんが対岸の眺望には優れていることが覗われます。
対岸に所在している鹿島氏へと橋頭保として武田氏により築かれたとも考えられているようです。
見どころは主郭北東部の二重ないし三重土塁と、主郭北部の高さのある切岸でしょうか。
なお倒木と藪化のため主郭部への踏査については叶いませんでした。



烟田城(かまたじょう/茨城県鉾田市)
12時15分から12時50分


  氷川神社付近の土塁跡

西光院と旧新宮小学/2019年3月閉校が所在する舌状台地が城跡で、同寺近くの駐車場を暫しの間お借りいたしました。
残存遺構は些か分散しており、氷川神社脇の堀跡と土塁のほか北西部の石祠付近の堀跡、西光院東側の土塁などを認めることができます。



徳宿城(茨城県鉾田市)
13時15分から13時30分

徳宿本郷の集落から南へと伸びている舌状台地に所在しています。
鹿島氏の一族である徳宿氏の築城とされているようです。
比高差も20m弱とやや少なく、大地続きの部分に2条の堀跡が残存していましたが、現在土塁状の地形が確認される北側にも堀切状の地形が存在していたのかもしれません。
竹林の藪が少なくなくやや遺構全体の様子を把握しづらいという印象がありました。


    東側からの遠景



要害城(茨城県鉾田市)
14時00分頃/麓からの遠景のみ

いちおう遺構の方は残存しているらしいのですが、訪れた時点では城跡中心部へのアプローチ方法が不明なため遠景のみの撮影にとどまりました。
後日国土地理院地図、いつもガイドなどを調べてみたところでは、鹿島線を渡る橋まで続く行止まりの道が所在している模様であることが分かりました。


    南側からの遠景



三階城(茨城県鉾田市)
14時10分から14時40分

前項の要害城とは幅約100mほどの谷津田を挟んで向かい合わせとなっています。
三階城の名称の通り、概ね三段から構成される郭群から成っておりました。
比較的整備されており藪も少なく、虎口、郭、土塁などの残存状況は良好でした。


  主郭小口/郭内側から



神明城(茨城県行方市)
15時30分から15時50分

訪れた時点では事前のリサーチ不足などもあったようで、残存地形と本来の縄張りの関連が掴めてはおりませんでした。
アプローチについては南側の国道354線から直接城跡へと続くこの農道を入れば楽なようです。
後の耕作や国道の整備などにより地形の改変が進んではいますが、部分的に堀跡と思われる窪地や郭跡といえなくもなさそうな地形を認めることができます。


     南側から



西館(茨城県行方市)
15時50分頃/付近からの遠景のみ

神明城の西、武田川の北岸に所在している武田氏一族の城館跡と考えられているようです。
南麓には地元旧家が所在していますので、全体としてはその宅地を含めた丘陵地帯において機能していたものなのでしょうか。
北側の公道方面からアプローチする方法があるようにも思われますが、この日はすでに午後4時前となり西の空には厚い雲がかかり遠景からの撮影のみで帰途につきました。

 西館/画像右と神明城/画像左


今回も史進さんのお誘いにより漸く動くことができたような次第でありますが、年々足回りの劣化がすすみ益々鈍亀のような歩みとなってしまいました。

改めましてご同道いただいた史進さんに深謝申し上げます。
さて今シーズンもすでに2月の半ばを過ぎましたが、どうにかしてあと3度くらいは自力で出かけるようにしたいものだと考えております。


注記
このブログはOSの移行に伴うデジカメ画像の取込み方法の模索、画像編集ソフトのテスト、ブログ不具合の改善などのため2月19日に書き起こしております。

拍手[1回]

史進さんのお誘いで昨年に続く新潟県の南魚沼市の城館めぐりです。
関越道では片道にして約200kmではありますが、お誘いが無ければなかなか足が向かない地域でもあります。
午前6時50分頃に自宅発で三芳PA/ETCより石打塩沢へ。
途中赤城高原SAにて小休止し午前10時前後に南魚沼市に到着。
当所は手前に所在している仙石城から廻る予定でしたが、自分が県道28号線を曲がり損ねたことにより、そのまま国道291号線(通称清水街道/清水峠越)へと向かうことになりました(^^ゞ


直路城(別名を清水城、城の腰とも/新潟県南魚沼市清水)
午前10時10分から12時50分

 御館の乱と際に上杉景勝が守りを固めるように指示したとされている要害のようです。メジャーな越山ルートである三国峠側に所在している荒戸城方面と比べると、あくまでも裏道のようなルートであるような印象があります。


   清水集落からの遠景
 画像の右側の高圧線鉄塔が所在している個所が城跡で、麓の清水集落は現在でも20戸前後の比較的小さな集落でした。


      案内図

 巻機神社近くの清水バス停に設置されている自然歩道コースの案内図によると、これから登ろうとしている直路城もそのルートに含まれているようにも見えるのですが、昨年の雷土城を超える感のあるなかなかの難路なのでありました。


   清水集落の巻機神社


     林道の入口

国道291号線清水街道から東側に分岐している林道の入口で、ここから約400mほど道なりに進んでいくと下記の送電設備保守のための道に出ますが、早くもこの分岐からの登り道の時点で忽ち息切れが生じた管理人なのでありました (^^ゞ


   この位置から入る

 画像左下のJR東日本の白い標識の個所から九十九折の山道をただひたすら登って行きます。


   九十九折の山道
 先行する同行者とけもの道に近い送電設備保守ルートですが、このあとは画像撮影が途切れていることが裏付けるように必死に這い上がるというような感じになっております(^^ゞ



   「城の腰」付近

 比高差約130mを息を切らしながら登ると城跡の北西端に到着しますが、途中枯葉などのためにかなり滑りやすい個所が幾つもあることから下りでの帰り道がとても気がかりになりました(^^ゞ
 なお、林道の分岐から主郭部までの比高差は約200mほどとなります。


      堀切

 たぶん北西端から4番目に所在している堀切で5か所の堀切の中で最も規模が大きいように思われました。横から撮影できれば分かりやすいのですが両側がかなりの急斜面なので尾根筋からの画像となっています。


     尾根筋
 おおむね尾根筋の窪みのある個所が「堀切」となっておりました。



 北方の六日町方面/たぶん

標高800m以上なので紅葉の時期は過ぎつつありましたが、越後路の晩秋の風景が鮮やかに脳裏に刻みこまれました。
下山は予想通り足元が不安定で2度ほど滑りましたが、比較的樹木が多いことから滑落するようなことは有りませんでした。
しかし降雪期ともなれば、ストック+アイゼン装備でも二の足を踏むことは必定でありましょう。
平均斜度が35度前後の斜面の九十九折なので、それほどの急斜面では無いのですが、足元が降雨後ということもあり軟弱で枯葉も滑りやすく難渋します。
道幅も狭いところでは30cmほどの個所もあり、自分の些かすり減り気味のトレッキングシューズでは殆どグリップが機能しませんでした。
このあと下山後に暫時早川丁字路のコンビニにて昼食を摂取。


仙石城(新潟県南魚沼市仙石)
13時30分から15時00分

「六日町史資料編1」の記述によりますと、戦国期の在地支配のための拠点として築かれたと推定され、末期の改修は見られないとの知見が記されています。
所謂越後上田衆に属する人々により利用された時期があるのでしょうか。


 仙石城/北東方向からの遠景
 水田面からの比高差は約160mほどに過ぎませんが、城址の所在地は丁度この小山のピーク付近に所在していることから結構眺望に優れた立地条件となっているように思われます。


   仙石城の南東腰郭群
 南東の連続する腰郭付近は一部耕作や神社参道の整備などの影響もあるものの、保存状態も良好であるような印象を受けました。


   仙石城の郭群


    仙石城主郭付近
 主郭部にはこの小祠が鎮座しており、南西方向の林道終点からはこの小祠へと向かう参道の整備がされておりました。


     樺沢城方面
 角野川左岸に所在する樺沢城との距離は直線にして約3kmですが、お互いに指呼の間にありその様子がよく見えます。なお樺沢城の標高が約300mであるのに対してこちらの仙石城は約340mとなっています。


    坂戸城方面
城跡の北東尾根筋からは坂戸城方面の眺望が抜群でした。


この日のは偶々好天に恵まれましたが、前日はやや強い雨で翌日からは寒波襲来による強風と降雪積雪となりました。
藪や降雪などの影響を勘案しますと、南魚沼での城館めぐりは11月と4月の2か月程となるのでしょうか。
諸事情によりおよそ半年ぶりとなる城館めぐりでもあり、常に後塵を拝し遅れること鈍牛の如き有様でありました。
帰路は国道17号線/三国街道経由で沼田へと出て渋川からは何時ものように上武道路経由で帰宅しました。

このような年寄りをお誘いいただいた史進さんに衷心より深謝いたします <(_ _)>

拍手[2回]

いつも通りに午前4時半過ぎには自宅を出発した。
決して股関節付近の按排は芳しくは無いと思うが、極端に悪化しているという訳でもない。
それでも今動かねば、来年、再来年という選択肢は無いようにも思えてくる。
そうこう思案しているうちに最初の目的地に到着した。
時刻は未だ午前7時前である。
僅かにトイレ休憩1回を含めても延べ2時間15分という運転時間であった。
1月頃であれば未だ夜明け前という時刻だが、流石に4月に入ったので日差しは眩しく明るくなってきたようだ。

 

川白田の砦(かわしろたのとりで/群馬県前橋市)
午前6時50分から7時30分

上武道路をきっちり制限速度の60kmで走行していたので、これほど早く到着するとは思わず。
「マッピングぐんま」や「群馬県の中世城館跡」などにより「砦跡」として把握されているのは、おおむね現在は前橋市の水道施設が所在している一帯を指しているらしい。

比高差3m以上の崖地

従って当該施設建設のため地山が大きく掘削されていることにより、「砦跡」としての面影は感じられないという状態であった。
それに対してあくまでも当該地東側の隣地になるのだが、どうやら「川白田の庚申塔」が所在する一帯付近にかつての面影を辿る以外には無いようであった。

「川白田の庚申塔」

また、丘陵の自然地形としての有利性を生かすとするならば、寧ろこの東側の崖線地形を利用しない手は無いようにも思えたりする。
山崎一氏の先行研究である「群馬県古城塁址の研究」とこれをベースにしている「群馬県の中世城館跡」とて、微細な個所では所在地情報等の誤謬も皆無ではないということもある。
また、「日本城郭大系」ではその規模について東西50m、南北80mの小塁としていることから、このほかには該当地西側の宅地区画部分についても北側屋敷林付近がやや気にはなる。

元々の丘陵と東側崖線部

一方で小坂子交差点以東の個所については市道の新設などにより、地山である丘陵地帯が高さにして少なくとも2mから3mほどの削平を受けているものと受け止められた。
実際、市道の北側部分についてはコンクリート擁壁の高さは約2mから3mほどを有しており、また市道の南側部分についても地山の削り残しと推定される地形が残存していた。

市道南側部分の地山の削り残し

特に東側丘陵部と小坂子交差点との元々の比高差は大きいらしく切通し状の削平工事無には過度の傾斜により冬季などの通行に支障が発生する恐れのあったことに起因するものなのかも知れない。
いずれにしてもこれらの土木工事による地形改変を考慮せねば、かつてのその旧情を想起することが叶わないという困難性を有していた。

なお、市道南側の少し奥まった個所に市道と並行する位置に石積を伴う低土塁状の地形が確認できるのだが、これは近世以降における屋敷境、風除け、或いは猪垣の設置などに関連するものなのであろうか。

イノシシ除け等か


小坂子要害城(こざかしようがいじょう/群馬県前橋市)
午前8時00分から8時40分

中心部とされている個所がほぼ民家宅地となっていることから主に周辺の地形を中心に踏査するこことし、城跡の北方に所在している小坂子公民館に車を停めさせていただき徒歩にて城跡西側の谷沿いから廻りこんでアプローチしてみた。
西側の谷との比高差は国土地理院の地形図には明確に表れてはいないが、最大で12m前後を測る部分もあり舌状の丘陵を巧みに利用している城跡であることが理解できた。

西側崖線部を北方から俯瞰    南端部から丘陵を見上げる

試に北部丘陵上から直接西側の谷筋に下りることができるかどうか確かめてみたが、10m近い断崖が形成されておりほぼ困難に近いことも分かった。
なお、城館跡としての遺構についてはほぼ消滅しているという印象であり、僅かに西側谷筋の崖線部分がその名残を伝えているように感じた。


嶺城(みねじょう/別名を田中城とも、群馬県前橋市)
午前9時10分から10時50分

この日の探訪メニューのなかで少し藪があるとはいえ最も遺構が残存している城跡である。
滞在したのは約90分ほどの所要時間であるが、東西それぞれの谷筋からの遠景の様子も確認しての時間であったので城内に留まっていたのは正味で1時間ほどであった。
構造上は堀切で各郭を区画しており山城と平城の区分で言えば山城に近いのだが、東麓の集落との比高差は数メートルの個所もあるので登りといっても息切れするような心配はない。

築城の時期は不明だが、厩橋城主であった北条高広の支配下でかつては長尾家の家臣筋であった田中大弐が城代を務めていたともいわれている。
現在確認されている郭は主郭部を含め5か所ほどで、かつては南端部にも郭が存在していたようである。

西麓の様子

東麓に所在する現地案内標識に従い歩みをすすめると、北から2番目の堀跡を経由して北から2番目の郭を大きく回り込み主郭北側の郭の西側を横堀に沿ってアップダウンを繰り返しながら南下し、主郭南西角付近で虎口への切岸を登るという構造となっている。
主郭(本丸)とされている部分には土塁が周回し、虎口も現存している。

本丸(主郭)


主郭虎口と空堀

但しこれは地元の自治会の方々により整備されたもののようであり、このルートが本来の登城ルートであるのかは不明である。
また東麓側は民家宅地が隣接しているという事情もあることから、各郭の連携関係が分かり辛くなっているようにも思われた。

そうしたなかでやや危惧されたのは「山火事」と思われる形跡であった。
落雷などの自然災害に起因するものであるのかは不明ではあるのだが。
異常乾燥と強風の季節でもあり火の取り扱いは要注意であることを痛感した。

南端部の郭先端付近
 
前橋市の史跡指定はなされていないようだが、地元旧芳賀町自治会により解説版や案内標柱が設置されておりたいへんに分かり易い。
あらためて地元の皆様方に深謝申し上げます。

東麓の入口



皆沢城(みなさわじょう/群馬県前橋市)
12時05分から12時45分

「嶺公園」から徒歩で結果的には約3Km以上も先に所在する目的地へと向かった。
霊園が併設されているこの公園には公衆用トイレがあり、また頗る西方の眺望が素晴らしい。
車での移動は便利ではあるのだが、現地での駐車スペース探しという問題もある。
また車移動では把握できない細かい地形のアップダウンなどの観察の方をを優先するという姿勢もある。

「嶺公園」からの眺望

とはいうものの実のところ本来はできるだけ公園内の北寄りに駐車する予定であった。
しかしこの辺りは全く初めてでもあり、東西約1km、南北約1.2kmという「嶺公園」自体の広さを実感として把握してはいなかったようだ。
また恥ずかしくも地図の縮尺を読み間違えていたこともある。
この間は主に1/1万スケールの地図ばかり参照していたこともあり、ついうっかりしてそのまま1/3万スケールの地図にあてはめて誤読していたのである (^^ゞ
つまりは距離500mと思ったルートが、実際には1.5kmなのであった。
このため往復約2kmと思い込んでいたのが実は約6kmの誤りであり、しかも駐車場所を南寄りに取ったので更に約1kmの加算となった。
これについてはあくまでも己の不明を恥じるほかは無いのであった。
 
北西付近から西側の崖線部

 
なおこの城館跡については概ね養豚施設が設置されていることもあり、堀などの城館跡に関する形跡はほぼ存在していないように思えた。


茶釜屋敷(ちゃがまやしき/群馬県前橋市)
14時00分から14時25分

復路の渋滞を避けるべく午後2時過ぎの撤収を予定していたのだが、ひとつ前の「皆沢城」への徒歩による往復移動のため、約2時間半ほどを要することとなった。
このため当地については割愛するという気持ちにもなったのだが、おそらく2度は来訪することは無さそうであることから立ち寄ることとなった。
明確な屋敷遺構などは確認できないのだが、屋敷跡西側のたぶん水田跡と思われる帯状の低地の存在が目立っていた。

北方から俯瞰



帰路では夕方の交通ラッシュをギリギリ避けることができたようで、2時間半ほどを要して午後5時過ぎに自宅へと帰還した。
この日の歩数は約2万6千歩であった。
本来ならば現今の足回りから考慮すれば2万歩以内に止めるべきであったと思う。
昨年から何度も発症している両足の脹脛の痙攣はランニング用のサポーター着用により回避できてはいる。
しかしこれはあくまでも比高差の少ない平地での状況であり、連続した斜面のアップダウンに対応できるものであるのかは不明である。

さていずれにしても早ければ今年の6月頃には県内の総合病院で受診する心積もりではある。

それでも可能ならば長期に亘る入院とリハビリは避けたいと思っている。
このまま先延ばしにして対処療法などで誤魔化しながら過ごすかどうか。
同じ部位に神経痛も出始めているが、これが股関節付近の痛みよりも強烈である場合があるのには正直困っている。

拍手[2回]

目覚ましは時計4時半にセットしていたのだが、どういう訳か午前3時に覚醒してしまった。
生来から二度寝すると寝起きの芳しくない性質である。
やむを得ずのんびりと身支度を整えたりして出かける支度を始めたが、如何せん時間を持て余しすこととなってしまった。
このため当初の予定よりも早く自宅を4時半過ぎに出発した。
こういう場合には往々にして早い時間に活動エネルギーが欠乏するという傾向があるらしいのだが。


◎大国神社(おおくにじんじゃ、群馬県前橋市境下渕名)
午前6時10分から6時30分

いつも上武道路を通行するたびに気になっていた個所であり、神社境内に関係すると思われる地形であるが、明らかに人工的な地形の改変跡と認められる地形である。
今回は未だ時間も早いこともあり立ち寄ってみることとした。
国土地理院の情報では、境内地西側の標高は57.2mで境下渕名(さかい/しもふちな)の集落が全体として緩やかな低丘陵となっていることが分かる。
実際に現地を歩いてみた限りでは、やはり神社境内の東側部分については人工的な地形改変が行われている印象を強く感じる。
ただしそれが神社境内整備に伴うものかそれ以外の要因によるものなのかは判然としなかった。

町名は元々の渕名が上下に分かれ、近年の市町村合併により旧境町のエリアについては、先頭に「境」の文字が付されることとなったので、「さかいしも/ふちな」ではない。
当地は大国神社の縁起にもあるとおり、古くから人々が在住している地域でもある。


◎波志江の土塁(はしえのどるい、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前7時10分から7時20分

今回は以前よりもさらに集落内となることから、当初は「いせさき聖苑」北側の公衆トイレも設置されている「赤城見台公園」の駐車場をあてにしていた。
しかし、毎週火曜日は定休日で閉園のため次候補であった鍛冶原公民館の駐車場に車を置かせてもらい、徒歩にて西方の中屋敷方面を目指すこととした。
すると蟹沼西北の信号から約100mほどの地点に旧家の屋敷林が目に入った。
目を凝らして観察してみると、市道南側に沿って東西方向に土塁状の地形が確認できた。
延長は約60mで高さは60cmから80cmほどを測るであろうか。
これに並行するような形で道路沿いには幅4メートルほどの堀跡とも見られる細長い区画も存在しているように見られた。

むろん「群馬県の中世城館跡」には掲載されてはいない。
宅地の北側でもあり近世以降の屋敷の風除けという可能性もあるが果たしてどうなのであろう。

中屋敷(なかやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前7時30分から7時50分

北関東自動車道とそのETCインターチェンジ建設などの影響を受けており、その面影はほぼ消滅しているといっても良いように思われた。
やむなく「中屋敷」の地名が記された地元の集会施設の表札を撮影した。


岡屋敷(おかやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前8時00分から8時15分

上記同様に北関東自動車道の建設により旧景は著しく失われているが、それでも僅かではあるのだが東側堀跡の屈曲部に相当する路地跡は確認できた。



中野屋敷(なかのやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前8時25分から午前8時50分

民家の宅地などに隣接していることから、その北西側を流れている神沢川沿いからの遠望となった。
しかし、よくよく考えてみると1週間前に訪れた「赤石城」の近くで、何とはなしにこの景色を眺めていたことに気がついたのである (^^ゞ



波志江館(はしえやかた、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前9時10分から午前10時00分

地元旧家の周囲に館跡に関連する堀跡、土塁などが存在していたようであるのだが、近年の宅地化などによりそうした形跡は消滅しかかっているらしい。
それでも金蔵寺西側の裏手には延長40メートルほどの堀跡および土塁状の地形などが残存しており、この地形の延長線上に金蔵寺境内地の西側が続き微妙な地形が残存しているように思われた。
また、北側に隣接する愛宕神社の境内にも築山のような盛り土が所在しているが委細不明である。




◎地蔵山古墳(じぞうやまこふん、群馬県伊勢崎市五目牛町/ごめうしちょう)
午前10時40分から11時15分

車を停めさせていただいた蟹沼方面からは否応なしに古墳状の地形が目に入ってしまったので、ここからは暫時古墳めぐりを始めることとなった。
附近にはこれ以外にも、少なくとも4か所ほどの古墳が所在しているのだが、次第にその全てを廻るという気力が無くなり始めるのを感じていた。


新土塚城(しんどつかかじょう、群馬県前橋市二之宮町)
12時00分から12時40分

この地は元々が荒砥川と神沢川に挟まれた地形であり、それに加えて八坂用水がその北側を流れているため、些かアプローチし辛い地理的環境である。
とくに華蔵寺公園方面から向かうと神沢川を渡河できる橋は薬師堂北方の一か所である。
しかもそのあとは八坂用水を2度ほど渡らねば到着できないのであった。

何と言っても城跡東側に残存する堀跡の地形が一番の見どころである。
この個所については何度見返しても見事な堀跡である。
その土木工事量も半端なものでは無く大がかりであったことが偲ばれた。
そうした経済力と動員力の源泉の存在が気にかかる。

また、ここでも集落の東西を貫通している道路の北側、文殊堂の東約50メートルほどの地点に荒砥史談会の設置された標柱があり感激した。
ただし、道路脇に植栽されている樹木の成長が著しく、いくぶんその存在が見づらくはなっていた。

午前中の天候は花曇りというのにふさわしい曇天であった。
しかし、次第に天候は回復し気温の急上昇とともに紫外線も強く感じ始めた。
暫時休憩を兼ねて未だ花見には早い華蔵寺公園近くの蕎麦屋にて昼食を摂ったこともあり、正午過ぎという時刻にもかかわらず眠くなってきた。
当初は西方の下増田館へと赴くという選択肢も考えてはいたのだが、この日の目標が4か所から5か所でもあったことから即座に撤収を決意した。

本日も今月3度目となる前橋方面であった。
しかしよく考えると主に神沢川の東岸なのでほぼ伊勢崎市内なのであった。
来月の前半にはほんの少々比高差のある個所をまわり、その後は再び遺構の乏しい平地へと向かうこととなるのかも知れない。

拍手[1回]

今回も前橋方面である。
しかも明らかに遺構の少ない地域である。
元々前橋方面は個人的には空白地帯であった。
昨年頃から資料だけは纏めてはいた。
この下調べは嵌りだすと止まらないので要注意でもある。
未訪問の資料件数は概ね1000か所前後はあるものと思われる。
いずれにせよ忘れないうちに出かけておかないとタダの資源ごみと化するのである。


◎女堀(群馬県前橋市)
午前7時20分から8時30分

今年の1月に訪れた平安時代末期とされる女堀遺構の西域を8か所のブロックに分けて踏査してみた。
画像は前橋市二之宮町の女堀沼付近の様子である。


この辺りでは流路掘削の関係上からその堀上土があたかも小山のような景観を呈して東西方向に続いている。


二宮赤城神社(群馬県前橋市二之宮町)
午前8時45分から9時50分

赤城神社の境内に遺されている土塁と堀の遺構であり、無量寿寺、宮下西館と合わせて「二之宮環濠遺構群」ともいわれている。
単に赤城神社ともいわれてはいるが、県内には同名の神社が数多く存在している。
また「にのみや」については「二之宮」(地名、町名)「二宮」(前橋市文化財の呼称)があり、いささか分かりにくいものを感じる。
このため前橋市文化財の呼称等に従うものとした。

なお人為的に堀と土塁に囲繞された一定規模の区画ではあるが、その地域勢力の求心性、防御性などの点でいわゆる城館跡とは異質な部分を感じなくもない。
如何にしてこのような規模の神域を確保し維持できたのか、そうした宗教的、政治的、経済的、軍事的な背景などについて興味は尽きないものがある。
現在の参道の設置されている南側を除き概ね三方に堀と土塁が残り、内郭部も北と西側に確認できる。

   北東角付近の土塁       東方からの遠景

「環濠遺構」には、群馬県内では大田市、伊勢崎市、前橋市、高崎市、玉村町方面などにしばしば散見され、その形態から大別すると概ね「単独の屋敷周りの方形をした水堀」「これらの複数から成る集合体」に分けることができるようにも思われる。
それらの成り立ち、時代背景、地侍層などとの関わりなど、これらの研究には取り敢えず「前橋市史」などに記されたものがあるのでこれを手がかりにもう少し調べてみようと思う。


無量寿寺(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時00分から10時25分

赤城神社の東南東約300mほどの地点に所在し、「群馬県の中世城館跡」などによれば、かつては同寺の境内地に方形の環濠跡が遺されていたとされている。

    筑波山古墳

むろん境内地、墓苑の整備、周囲の宅地化などの影響により、その現状からは南東部に所在している筑波山古墳を除き、地表観察からそれらの遺構を確認することはできなかった。


宮下西館(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時30分から10時50分

赤城神社から見て南東約200m付近に所在している環濠屋敷跡である。
西側に小流を伴う比高差5メートルに満たない小さな崖地を有する一画であり、現在は3軒ほどの民家と耕作地が所在している。

   西側外郭部附近か

このあと、朝食ぬきであったことから暫時休憩を兼ね、国道50号線沿いの「そば花」にて昼食を摂った。


赤石城(群馬県前橋市飯土井町)
11時50分から12時10分

昼食後そのまま帰宅するというのも如何かと思い、1か所だけ出向いてみた。
赤城山の中腹を水源とした神沢川とその支流に東西を挟まれた細長い丘陵先端部に所在している。
周辺の大室城からは南へ4kmほどの地点でもある。
上武道路が貫通しているこのあたりの地域になると赤城山の南麓とはいうもののその傾斜は益々緩やかなものとなり、現在における周囲の水田面との比高差も目立たないほどに少なくなっている。
戦国期の大永年間頃に赤石左衛門尉が城主であったとされ、のちに伊勢崎へと転じたと伝わるらしいのだがその詳細は不明である。

城跡とされる一帯は工場、店舗、倉庫、住宅などの敷地の用に供されている。
「前橋市史」の記述によれば、その当時は比高差5メートルから7メートルを測ったという旨が記されているが、現在では3メートルから1メートルあるかないかというように削平を受けているようであり、往時の面影は微塵もないように感じた。

 城跡の名残である崖線部

その名称の割に遺構は皆無に近いことは把握していたが、本当に何も見当たらないという形容に相応しいような気がした。
唯一城跡であったことを示すものは、有難いことに「荒砥史談会」の方々が設置された「城跡標柱」のみであった。

     城跡の標柱


かくてこの日は僅かに城館類似遺構1か所と標柱のみが所在する城跡1か所となった。
復路の上武道路は何時もよりいくぶん渋滞気味のようであつた。

このため約2時間半ほどを要して、午後2時半過ぎ頃に自宅へと帰着した。
薬で抑えている花粉症と低気圧接近に伴う頭痛の関係もありこのあたりが限度であるようにも感じていた。
むろん少し頑張ればあと2か所くらいは廻れなくもない。
しかし今回はインターバルが4日間である。
今後のダメージへと繋がらないようにかなり早めに撤収した。

今月はあと1度くらい平地を廻わるか、ほんの少しだけ登ることとするのか暫く考えてみよう。
今年は暖かくなるのが異常に早く、もたもたしているうちに山城の季節が終わってしまいそうな気もする。
当然健康寿命の方も、ピコピコとカラータイマーが作動し始めているように感じる。

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