本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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この日は次第に疲れてきたこともあり、城館探訪の方は一休みとした。
時間がもったいないので昼飯抜きでそのまま一日中郡山市中央図書館の郷土資料室に在室して資料の渉猟と複写作業に明け暮れてしまった。

公共図書館などでよく見かけるも午前9時半の開館と同時に入館し、そのまま午後3時半過ぎまで黙々と複写作業に励む一見目的不明の人物のひとりと化していた。
というのも、周辺の人間観察をしていると、実に膨大な量の「電話帳の複写」あるいは「住宅地図の複写」に勤しむ方々もおいでになり、もはや親近感さえ湧く事態に。
かつての在職中にはしばしばこうした光景を目にしていたものだが、自らから利用者としてこうした作業に勤しんでいると実に不思議な感覚にとらわれた。

主なターゲットは郡山市史通史編と資料編、これに白沢村史が加わり全部でA3サイズにして500枚を超えて用意していた500円玉をすべて使い切ってしまった。
相当のスピードで拡大コピーをしていたので、途中から左肩にいつもの痛みが走りはじめたが、このブログを実際に記載している10日後の10月末日に至ってもその痛みが残っているような次第であった。

なお、この日の夕食は経費節約のため松屋へ。
夕食には未だ早い時間帯ではあったがいわゆるワンオペであった。
注文したのは「牛カレー390円」で、早い話がカレーライスに牛丼用の牛肉を添えたものである。
ちなみに店名は奇しくも「郡山市 清水店」であった(笑)
しかし確認されている中世城館跡はこのあたりには存在しないことから謎の地名ではある。
逢瀬町方面の低山を水源とした五百渕ともいわれている南川の水路が流れ、地図で調べてみるとその河岸には「清水内」という小字名も確認できることから「清水」の地名についてはなんとなくわかるような気もする。では「城」は何に由来するのかとなると、「はて..」という按配となってしまうのであった。
※追記
しかし、その後上記のコピーしてきた資料を整理していると「荒井猫田遺跡」に関するものが見つかり、ビックパレットの建設に伴う大規模な発掘調査により、複郭からなる中世城館跡と町屋の存在が明らかとなったという旨が記されていた。
この成果から類推すると「城清水」との地名に何らかの関係があったのではないかと考える事ができるのかも知れない。
 

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郡山の滞在も本日ですでに3日目の朝を迎えた。
 もともと方向感覚はあまり芳しいとはいえない性質だが、これだけ滞在しているとさすがに東西南北や主要幹線道路など大体の方向感覚は掴めてきたようだ。
しかしいまだ県道などの詳細な路線は頭の中に入りきってはいない。

さて現在抱えている足回りの問題は、両足の足底腱膜炎、両足の内反小指、両足の中足骨痛症(種子骨症)、右足の骨棘ならびに両膝の関節症...とメモしておかないとすぐに忘れてしまう年代になった。
昨日は諸事情が重なり早々と撤退したが、昨晩はボルタレンの痛み止め+緩衝材+テーピングなど足回り対策を十分に施してみた。
今日はその効用を確かめるためにも多少無理してでも10か所以上は歩いてみよう。

「★」印は明確な城館遺構が現存していた個所
1.城館名、位置情報などは、主に福島県文化財データベース「まほろん」の情報に依拠している。
2.このほかに「危ない地名」三一書房、「コンサイス日本地名辞典」三省堂、「日本地名辞典」新人物往来社、「角川地名大辞典 福島県」角川書店、「中世城館調査報告書」福島県などを参照している。
3.なお「積達館基考」「積達古館弁」「相生集」などの近世地誌類については、このブログ記載時点では未照合である。
 
 
中田館(郡山市富久山町福原字中田) 午前7時40分から7時50分
 午前7時前にホテルを出たが通勤時間ということもあり郡山市内で少しばかり交通状態に巻き込まれてしまった。
東方の田村町あるいは三春町方面へと向かうバイパスもまたラッシュ状態に。
しかし最初の2か所の目的地がこのバイバス沿線なので迂回の仕様がなく。
現地は未舗装の細い農道がはしるような水田地帯なのだが、意外に車の通行が多いこととかつ暫時駐車するような場所も少ない。
工業団地西側の耕作地であり、無論遺構らしきものはない。
もっとも推定地の北辺では用水路脇に長さ100メールとほどにわたり土塁状の盛り土が現存している。これについては詳細不明だが、おそらくは近年の土木工事などに伴う残土置場の様なものかもしれず。
東側にはコメリ郡山の流通センターをふくむ工業団地が隣接している。


 
 

大鏑館
(別名を福原館とも、郡山市富久山町福原字古舘、字大鏑) 午前8時から8時15分

近代に建立されたものではあるが、グラウンドの南辺に大鏑館に関連する石碑が存在している。
この碑文によれば、「天正年間 大鏑館主福原蔵人当地を領し 田村清顕に属せし頃は 福原の人家は此地に在りしも 慶長の末奥州街道完成し 元和の初年に至り 人家悉く道筋に移るに及び....」と刻まれていた。
あくまでも当所に祭られていた神社の縁起に関する石碑ではあるが、こういう存在は実にありがたく感じる。
垣内氏の論考などによれば、大鏑館は戦国末期に田村氏が安積郡に進出する際の橋頭保となっていたことが指摘されている。
また「田村家臣録」(片倉文書)によれば、「田村宿老 橋本伊予守 福原城主 与力百騎」との記述もある。
またやや時代が下った蒲生氏の治世では福原の地が1540石として「蒲生領高目録」に記載されている。
なお、「郡山市史1巻」の記述によれば、天正16年の郡山合戦では伊達安芸がこの館の南方方面に布陣していたともいわれているようだが真偽のほどは分からない。






八丁目館(郡山市日和田町八丁目字鹿島後) 8時25分から9時00分
★郭、土塁、土橋、横堀、帯郭
八丁目集落の南端に位置する小丘陵の鹿島神社付近が城館跡の推定らしい。
東に阿武隈川、西側から南側にかけてはその支流である藤田川が流れて天然の要害を形成しているが、丘陵としての比高差は20メートルほどに過ぎずこのため東側と北側の防御性が不足している。
神社までの短い参道を西へと進むとすぐに狭隘な社殿のある削平地へと到達する。
この場所で目立つのは社殿背後の巨石であり、いきおいその背後の尾根続きが気になった。
林の中をいくらも進まぬうちに目に飛び込んできたのは間違いのない土塁状地形が尾根筋を遮断するかのように南北方向にのびている。
さらにその西側には土橋を伴う横堀が現存し城域の境界を明示していた。
北側には切岸の普請跡も窺われ、南側には帯郭状の地形も残されていた。
こうなると前記の巨石の存在も遮蔽物としての意味を感じ数十名程度が守りを固めるに相応しい砦のようなものの存在を感じさせていた。
郡山市史第1巻によれば、天正16年の郡山合戦の際に伊達氏側の軍勢の一部が布陣した可能性を示唆しているが、おそらくは高倉方面から阿武隈川西岸を南下する旧奥羽街道を睥睨し監視する役割を果たしていた可能性は濃厚であると考えられる。
無論神社があればすべてがこのような遺構の確認につながるわけではないが、1日目の「築館」に続いてさほど期待しないで訪れた個所でこのような遺構に対面できることの幸せをじわじわとかみしめていた。
下記の画像は堀底から眺めた土橋で向かって左側が城内である。





仁戸内館
(郡山市西田町根木屋字仁戸内、竹ノ内) 9時20分から9時30分
西田町根木屋地区の根木屋小学校北西側の丘陵であり、その北端部を郡山東バイパスが横断している。
丘陵の南西側には竹之内、二戸内などの城館関連地名を想起させるような小字名が残されている。
南東端の尾根筋、北西側斜面を観察した限りでは、全体として傾斜がきついことに加えて孟宗竹の密生と雑草の繁茂がすさまじく殆ど取り付く島がないという印象であった。
このため残念ながら未踏査である。





根木屋館
(郡山市西田町根木屋字根木屋) 9時40分から10時00分

根木屋集落の中心を為す日枝神社境内が城館跡として推定されている模様である。
参道の石段に伴う削平地、社殿の削平地、参道わきの地面の盛り上がり以外にはこれといってめぼしい地形を確認することはできなかった。
また、神社境内から北東方向の尾根続きの様子については、下記の画像のようにかなり藪がひどく立ち入りが困難であった。
「日本城郭大系」などの記述によれば伊藤将監の居館とされている。
下記画像は日枝神社社殿が所在する境内の切岸地形である。
 
 
 
 
 
木村館(郡山市西田町木村字古舘下) 10時20分から11時05分
★郭、小口、腰郭、横堀
 磐越自動車道と国道288号線郡山東バイパスに南北を挟まれた丘陵地帯に立地していたが、残念ながら北麓を横断する磐越自動車道の建設時に主要部分でもあった野面積石積を含む大手口の門跡など城郭遺構の一部が破壊されている。
このため現在確認できる地表上の遺構は丘陵上部に限られている。
しかし城郭遺構としての規模とその縄張の形態は戦国時代末期の様相を示し、同時代の山城として機能していたことが偲ばれる。
館主として在地土豪と思われる木村越中守の名が伝わっているが、戦国末期には田村氏家臣である橋本刑部の名が伝わっている。
垣内氏などの説によれば、その後は伊達氏勢力に併呑され佐竹氏などに対する構えとして大改修されたとされているが、発掘調査の成果などからは最終的には豊臣秀吉の奥羽支配により大手口などの破城が行われたことも推定されている。
城跡南部の丘陵上の共同墓地には橋本姓を名乗る墓石が目立ってはいたが、具体的に戦国期からの流れを示すような墓碑は見当たらなかった。
木村神社が所在する山頂へは南側の集落から車で隣接する駐車場まで直接行くことができるが、その際の林道工事によっても郭部分の地形改変が行われているものと思われた。
山麓からの比高差は約50メートルほどを測る。
「文禄3年蒲生高目録」によれば、「中 木村 1099石」と記され当地が一定の生産力を有していたことを示している。
下記の画像は上段部の郭から下段の郭群を見下ろしたものであるのだが、木々の繁茂により分かりにくくなっていた。



 
 
芹沢館(郡山市西田町芹沢字舘、馬場ほか) 11時25分から12時15分
阿武隈川右岸の丘陵地帯に存在している集落であるが、阿武隈川方面の見通しはほとんど効かないことから、どちらかといえば在地勢力による領域支配のための拠点であった可能性を考えたい。
芹沢集落全体がその領域ととして推定されており、馬場、舘などの小字名が残されている中心部から西側にかけて切岸や土塁などの地形の名残を感じるものがあったが、城館遺構との関連性については定かではない。
下記の画像は丘陵地帯などによくありがちな土塁状および郭状の地形で、小字馬場付近にて撮影したものである。





前 館(郡山市西田町三丁目字前舘、前田) 12時30分から12時45分
「まほろん」などによると、阿武隈川の東岸で県道115号線と73号線が交差する北東側の標高257メートルの丘陵がその領域として捉えられている。
現地の南部には熊野神社が所在しているが、北方の山頂部への踏査は藪がひどく歩みを進めることが極めて困難であったので未確認である。
しかし、神社境内は比高差5メートルほどを測る角度のある切岸が施され西方からの接近を拒絶する意図が窺われた。
「中世城館調査報告書」によれば郭、空堀の遺構が存すると記されている。
また、「日本城郭大系」によれば穴沢佐衛門尉成季の居館とも伝わるらしい。
麓からの比高差は約40メートルほどを測る。





平 館(郡山市西田町三丁目平舘、平) 13時45分から14時05分
呼称の通り阿武隈川東岸丘陵麓のへいちに所在している。
「まほろん」などによれば、前館の北麓に位置する平舘と平集落あたりがその領域として推定されているが、どちらかというと穴沢館に近い3軒の旧家が並ぶ県道73号線西側の平舘の方がより館跡に相応しい景観を残していた。
館主については穴沢館、前館と同様に穴沢氏とする伝承があるらしい。
下記の画像は小字平館付近を南側から撮影したものである。




・阿弥陀堂(郡山市西田町三丁目平)無住の堂宇だが、集落に社殿を伴う神社が見当たらないこともあり、集落全体を俯瞰できる地理的条件を満たしていたことから踏査してみた。
城館跡に関する伝承などは存在していないようだが、参道となる切岸や境内の削平地の人工的な形態が気にかかった。
 
   
 
 
 
穴沢館(郡山市西田町三丁目字穴沢、馬場小路) 13時45分から14時05分
かつては阿武隈川東岸の氾濫原である微高地に存在していたが、1980年代頃の圃場整備や小河川の流路改修などにより地表上からほぼその姿を消滅した城館跡である。
1982年の発掘調査により、掘立建物柱穴、経塚、陶磁器のほかに空堀、土橋などの存在が確認されている。
現状ではおおむね森林となっている辺りに主郭が存在していたものと推定されるが、樹木が鬱蒼と叢生しており内部の様子を窺う気力を奪われてしまった。
郡山市史第1巻によれば、天正16年の郡山合戦の際に伊達氏側の軍勢の一部が布陣した可能性を示唆しているが、おそらくは高倉方面から阿武隈川西岸を南下する旧奥羽街道を睥睨し監視する役割を果たしていた可能性は濃厚であると考えられる。
「相良文書」の北畠親房袖判沙弥宗心書状によれば田村氏の一族である穴沢佐衛門尉成季の居館であったとも伝わる。


 


鹿島館(郡山市西田町鬼生田字中田、杉内、土棚、内出) 15時00分から15時50分
「まほろん」の情報によれば、集落西側の丘陵先端部に所在する高野神社境内周辺が推定地とされ、当該集落内には中世城館跡関連地名である「内出」の字名が残されている。
神社への道は少し分かりにくいが、高野神社の標柱が建てられている集落内の道を南西方向に入り、さらに細道の分岐点を左へと進み神社標柱の個所から参道の階段を上がれば神社境内に到達する。
神社の造立に伴う普請との区別が難しいが削平地の周辺にはおおむね切岸が施され小規模ながらも要害を形成していた。
社殿脇には近代の造立ではあるが、館の由来に関する碑文も刻まれていた
谷間に開けた比較的小規模な集落であるが、公共交通機関である福島交通のバスは1日3便が運行されていた。
画像は南方からの遠望であり高野神社の一は中央やや左側の丘陵部である。
なお、参道のように見える細い登り道は民家への通路であり参道ではない。
なお、鹿島館の名称が付されているが、同集落には南東部の丘陵にも別に「鹿島宮」の祠もありその名称としての由来が分かりにくい。





見渡神社(郡山市西田町鬼生田字土棚、内出) 
高野神社とは集落の谷を挟んで東側対岸の丘陵先端部に所在しているので立ち寄ってみた。
前記の高野神社よりも集落全体の見晴らしがよく、神社境内そのものも規模は大きいのだが全体として丘陵としての傾斜が緩やかであり要害としての地形的な優位性を感じられず城館跡としての印象は薄い。
下記の画像は南側から神社境内を撮影したもので、神社特有の削平地のラインが明瞭に写っている。

 



こうして3日目は11城館+2神社・仏閣を無事に回り終えた。
また、足回り対策の効果は期待通りとなり夕刻時の痛みも従来に比べれば大幅に軽減された。
今回の遠征から使用したトレッキングシューズの方もまずまずだったので、これで当分は動けそうな見通しがついたようだ。
帰路郡山市の中央図書館に立ち寄り、2時間ほど午後6時過ぎ頃まで自治体史関係資料の渉猟に費やした。
夕食はかねてから気にかけていた「ソースかつ丼」にしてみた。
本場ものではないが、ガテン系の大きめの丼ぶりに味噌汁を足して税込760円は昼飯抜きの体にエネルギー充填を確信させる存在感があった。

訪城も最低限の数をこなし、まずまずの遺構にも巡り会えたのでここで一休み。
あすも丸一日を費やして資料のコピー取りに勤しむこととしよう。

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この日は別に朝飯前というわけではないが、朝食前に駐車が難しそうに思われた場所を徒歩にて散歩がてらに3か所ばかり訪問してみた。
むろん昨年末頃からの両足の痛みに対するプロテクター、サポーター類の有効性を検証する意味もあったが。


「★」印は明確な城館遺構が現存していた個所
1.城館名、位置情報などは、主に福島県文化財データベース「まほろん」の情報に依拠している。
2.このほかに「危ない地名」三一書房、「コンサイス日本地名辞典」三省堂、「日本地名辞典」新人物往来社、「角川地名大辞典 福島県」角川書店、「中世城館調査報告書」福島県などを参照している。
3.なお「積達館基考」「積達古館弁」「相生集」などの近世地誌類については、このブログ記載時点では未照合である。


荒井館(郡山市賀正) 午前6時15分から6時20分
小児科のクリニックあたりが遺構の中心部分と推定されるが、現状ではその全域が宅地化されており地表上に確認できる遺構はほとんどない。
平地部の城館であり周辺との高低差はほとんど感じられない。
下記画像は南側から撮影したものである。





荒井館(郡山市安積町字荒井) 午前6時30分から6時45分
その全域が宅地化されており地表上に確認できる遺構はないが、伊東氏との関連が窺われるような民家も存在していた。
同地の東側には「舘東屋敷」、また南東側には「田中屋敷」などの小字名が残されているが城館遺構との関連をふくめいまのところその詳細は不明。
平地の城館ではあるが、南方の笹原川方面にかけて幾分傾斜している地形であることが確認できる。





成山館(郡山市成山町) 午前6時50分から7時20分
★郭、腰郭、帯郭、切岸
宿泊したルートイン郡山からもよく目立つ笹原川に向かって突き出した丘陵先端部に所在する公園整備された歩きやすい城跡である。
成山公園としてご近所の方々が朝の散策をされていた。
公園化されてはいるものの、郭、腰郭、帯郭、切岸などは明瞭に残されている。
ただし周辺に駐車場所が無いので訪問の際にはその旨注意が必要である。
最大比高差は約15メートルほどを測る。
画像は北側麓から城跡を見上げたもの。





堂山館(郡山市大槻町字愛宕、愛宕下) 9時00分から9時40分
★郭、小口、土塁、横堀、切岸
主郭をほぼ全周している土塁は低くなってはいるが、主郭東側には二重土塁によって防御された食い違い状の小口が残され、主郭北側の帯郭には短いながらも畝状の空堀群が存在している。
また主郭と二の郭にそれぞれ存在する横堀は小口を防御するとともに両者とも帯郭へと続く構造となっている。
麓との比高差は約20メートルほどを測る。





大槻館(郡山市大槻町字城ノ内およびその周辺) 9時50分から10時30分
垣内氏の論考などによれば、微高地となっている大槻小学校の校庭が主郭として推定され、東西にのびた形状であるとされ、東流する水路を南限として考えられている。
城域内にわずかに土塁や堀跡とも推定される地表上の地形が確認できるものの、全体としては城跡としての地形的な印象はそれほど強くない。
下記の画像は主郭近辺の推定堀跡の一つ。





轟 館(郡山市逢瀬町河内字金山、轟) 11時05分から11時20分
東西約400メートル、南北約200メートルほどの独立丘陵に所在している。
傾斜のゆるい北辺部分を中心に尾根筋への登り口を調査してみたが、びっしりと雑木と草薮が叢生し、かつ稜線のラインがほとんど目視できないないことが判明し踏査を断念せざるをえなかった。
麓からの比高は40メートル弱であるが、北側の逢瀬川方面の見通しは視界を遮るものがなくすこぶる良好であることが窺える。
「中世城館調査報告書」「日本城郭大系」などによれば、安藤権太夫の居館と伝わり、土塁、空堀、堀などの遺構が残ると記載されている。
画像は東側の農道からの遠景。





久保田山王館(郡山市富久町久保田字山王舘、上野) 12時05分から12時30分
★土塁、郭、切岸
郡山駅の北北西に所在する山王神社境内そのものが該当地とされている。
神社の駐車場に数台程度は駐車可能だが、これが満員の場合には近くのコンビニで買い物をして駐車させていただくのが無難。
土塁状の地形は社殿の北側と東側を取り巻くように残されている。
1588年の「郡山合戦(郡山の陣、窪田の陣、安積の合戦などとも)」において、伊達氏と葦名・佐竹連合が対陣した際に伊達氏側が布陣したとされる重要拠点でもあった。
麓からの比高差は約10メートルほどを測る比較的規模の大きな丘陵ではあるが、伊達勢の一部が拠点とすることはあっても、政宗の本陣が出張ることはリスクが多すぎて考え難いものがある。
下記の画像は山王神社境内東側の土塁。





日和田館(郡山市日和田町日和田字舘) 12時50分から13時15分
★郭、空堀、櫓台状地形
2015年7月に続く再訪だが、南側から藪に入り前回は確認できなかった東と南側の堀跡などの確認しわずかな距離であったことからそのまま北側の農道まで縦断した。
なおこの際、ノイバラとアズマザサの類に進路を阻まれて愛用の4色ボールペンを紛失してしまった。
麓からの比高差は約10メートルほどを測る。
下記の画像は南側の空堀部分。





大平城(郡山市大平町) 14時00分から15時00分
★小口、郭、横堀、腰郭、桝形小口、切岸
「郡山の城館」などの情報によれば、戦国末期の実践的な城跡が完存するといわれている「大平城、おおだいらじょう」であった。
たしかに現状でも西側の主郭部分を中心として3か所ほどの桝形小口、明瞭な横堀、腰郭、切岸などの城郭遺構が熊野神社社殿の北側に現存していることは間違いがない。
しかし残念ながら主郭東側の横堀の半分ほどと東郭の小口および横堀部分がごく最近の林道工事により消失していた。
このためよく観察すれば東側遺構もある程度は残存しているものと推測されるが、大きく景観を変えているという印象が強かった。
林道自体の工事は比較的新しく思え、おそらくは震災に伴う社殿の復旧補強工事(独立基礎の設置と束柱の金具止め)などの実施に伴いその資材搬入と人手の搬送などを目的として拡充建設されたものと考えられる。
従前の状態の詳細については把握していないが、いずれにせよ今回の工事の影響は少なくないものがあったと推定される。
本来であればもう少し滞在してそのあたりの詳細を調査すべきであったが、近年の林道工事にともなう遺構の一部消失という事態を目前にしてモチベーションを奪われたり、切岸の高さ等に阻まれたりして下段の遺構を確認できなかったことが悔やまれた。
おおむね延べ3時間から5時間ほどを費やせば、ある程度詳細な遺構の現存状況を把握できるものと思われたが今回は気力欠乏・時間切れとなった。
麓の熊野神社駐車場からの比高差は約50メートルほどだか、参道の勾配が厳しいので西側に巻き道がつくられている。
なお東側の谷筋から未舗装の林道が主郭直下の熊野神社境内まで続いていると思われるが踏査してはいない。
下記の画像は主郭東側の桝形小口付近。




この日はわずかに都合9か所のみの訪問に終わってしまったが、やはり単独行は4年ぶりでもあり不発となった際の頭の切り替え、あるいは訪城するためのモチベーション維持が如何に難しいかをあらためて認識するに至った。
この日の夕食はホテル隣のリニューアルされた「かっぱ寿司」1620円であった。

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前日は午後10時過ぎ就寝。
午前3時50分起床。
日課となっている朝刊を購読。
早朝4時半に埼玉の自宅を愛用のパジェロミニにて出発。
途中さいたま市内のファミリーマートにて朝食兼昼食となる明太子おにぎりとサンドイッチを購入。
いつも通りのルートにて久喜インターから東北道をただひたすらに北上。
途中で利根川の手前と佐野付近で朝霧が立ち込めて暫時視界不良のため減速。
サービスエリアに2回立ち寄って、ほぼ計画通り午前8時前に郡山南インター到着。
当初の予定に従い、そのまま至近の郡山市三穂田町方面から訪問開始。

「★」印は明確な城館遺構が現存していた個所
1.城館名、位置情報などは、主に福島県文化財データベース「まほろん」の情報に依拠している。
2.このほかに「危ない地名」三一書房、「コンサイス日本地名辞典」三省堂、「日本地名辞典」新人物往来社、「角川地名大辞典 福島県」角川書店、「中世城館調査報告書」福島県などを参照している。
3.なお「積達館基考」「積達古館弁」「相生集」などの近世地誌類については、このブログ記載時点では未照合である。
 
 
駒屋古館
(郡山市三穂田町駒屋字古館) 午前8時15分から午前8時30分
一般に古館(ふるだて)の呼称は非常に多いために混同しやすい。このためほかの城館名と区別するため便宜上当該大字名を付してみた。

なお「日本城郭大系」では「古館」と称され、所在地は「三穂田町駒屋字土部、つちぶ)と表記されているが、福島県文化財データベース「まほろん」(以下「まほろん」と表記)の所在地では「字古館、ふるだて」と記されている。
「字土部」は県道47号線南側に位置し、「字古館」はそのさらに南側の微高地あたりを指しているものと考えられ共に阿武隈川支流の笹原川北岸に所在している。
一方、字名である「土部」は、別に「とべ」とも読めなくもなく、かりにこの場合には「沼地」などの地形を意味することとなり旧地形とも合致するようにも思われる。
いずれにしても、所在地そのものを含めて判然としていないようにも思われた。

郡山南インターの西約600メートルの地点に所在しているとされ、2015年6月頃から現在に至るまでメンテナンス中となっている「まほろん」の以前の情報によれば、現在は用水路に面した東西約100メートル、南北約150メートルほどのやや大きめの水田付近を指している。
この地域一帯は米作地帯であり水源が豊富でかつ比較的平たん地が多いことから、以前の圃場整備がすすみ旧来の景観は著しく失われているものと考えられる。
くわえて西側に接して流れている用水路の流路そのものも、県道47号線の北側では丘陵麓を小刻みに蛇行しながら南東に流れていることを考慮に入れると、現在のその形状から想定するにおそらく流路変更されていることが窺われさらにいっそうその面影をたどることは難しく感じた。

下記の写真画像は「字土部」の水田とその西側を流れる用水路である。





石橋館
(郡山市三穂田町駒屋字石橋) 午前8時35分から午前8時50分
城館名は所在している小字名の「石橋」から呼称されたものと考えられる。
駒屋古館の西約200メートル、県道47号線の南側の集落あたりを指しているものと思われ、集落を囲む道路沿いの南側と西側の一部を除く大半に用水路が現存しており、希望的観測を交えれば堀跡の名残にも見えなくもない景観ではある。
「日本城郭大系」によると「土塁、内堀が残る」と記されてはいるが、道路沿いから観察させていただいた限りでは土塁の残存は確認できなかった、
現状の地形からは城館領域として重なっていることから、大字名でもある「駒屋」の館との違いが明確ではないように思われた。

下記画像は集落西側の水田との境界部分の法面であり、屋敷地側にも細い用水路が流れている。





駒屋館(郡山市三穂田町駒屋字舘ノ後) 午前8時50分から9時20分
現状の地形からは城館領域として駒屋の小字名から呼称されたと推定される「石橋館」との違いが判然としていない。
しかし、「まほろん」などでは所在地を「字舘ノ後、たてのあと」と表記しており、当該小字はJA郡山三穂田総合支店が所在している県道55号線と47号線の交差する駒屋交差点北西付近を指しているように思われる。
「文禄3年(1594)蒲生高目録」によると、「下 駒屋 397石」と記されているように、当時の村落としての生産規模はそれほど大きいとはいえない。
そのあたりを拝見してみると民家の北側、水田との境界に屋敷林と思われるような細長い平地林が残されており、もっとも平地に所在する城館跡としての景観に相応しい印象が感じられた。
「まほろん」では土塁、郭の存在が確認されてはいるが、その現状からは下記画像のような微かに土塁の残滓のような地面の高まりが見て取れるのみであった。
「日本城郭大系」の記述によれば安田美濃守の居館とされている。
また駒屋の地名からは「野牧」などの放牧場との関わりも類推できるのかも知れない。



・四斗蒔八幡神社(郡山市三穂田町駒屋四斗蒔) 午前9時20分から9時45分
駒屋集落の南西部に所在する八幡神社であり、慶安寺境内南側の高さ約4メートルほどの基壇上に当該社殿が存在している。
付近の平地面との比高差は8メートルほどを測るとともに、南方を流れるの笹原川の河原との比高差は12メートル以上を有する丘陵地帯を形成し南方の眺望に優れている。
社殿奥は緩やかな鞍部を形成しより標高のある西側の丘陵に連なっているが、その先は踏み跡もなく鬱蒼とした雑木林が続いていた。
無論城館跡などの情報は無く、あくまでも単にその地形に着目してもののついで立ち寄っただけのものである。





西畑館(
郡山市三穂田町駒屋字西畑) 午前9時50分から10時00分
「まほろん」などの情報によれば、駒屋集落中心部から県道55号線を南下して笹原川をわたり川沿いの市道を西に入った北西角の旧家付近と推定されている。
笹原川の岸辺からは比高差にして5メートルほどの河岸段丘上に位置しているが市道沿いの南側についてはほぼ平坦地がつづいており地形上の軍事的優位性は少ない。
こうしたことから在地支配と居住を主目的とした館跡であったのかもしれない。
城館名は小字名そのものに起因するものと考えられる。
「日本城郭大系」では、所在地以外に特段の記述はないが、「まほろん」では土塁空堀が確認された由が記載されていた。
その方一町ほどの屋敷地は中世からの有力者階層の屋敷地として相応しい印象を感じる。
しかし市道沿いから拝見した限りでは、広大な敷地内でたまたま稲刈り後の脱穀作業の真っ最中でもあったが、屋敷林の境目などを含めてかつての城館跡にかかわるような表面遺構の存在は殆ど期待できそうにもなかった。




東館(郡山市三穂田町富岡字八斗蒔) 10時15分から10時30分
先ほどの市道をそのまま西進して丁字路に突き当たったあたりの低丘陵が最もそれらしく思え、ちょうど笹原川の対岸は三穂田中学校の敷地となっている。
このあたりでの笹原川は渓谷の浸食が進んでいるため、通常時での水面は10メートル以上の比高差を測る。
河川沿いの立地であるため圃場整備の対象とはされず、カーブした農道などに時代を感じるものの、下記画像のようにその西側付近では土砂などの採掘が行われたような形跡も窺えて、現在のその地表の形状からは城館関連遺構を認めることはできなかった。
「日本城郭大系」には城館名と所在地のみが記載されている。
こうしてあらかじめ予想されていこととはいえ、訪問数は稼ぐことができるものの、肝心の城館遺構との感動的な対面は皆無に等しく、徐々に探訪のモチベーションはただひたすらに低下の一途を辿っていったのである。

・備忘録
ここの前、字諏訪前付近の低丘陵北側一帯に明らかに人工的で細長い削平地形認めたので暫しの間うろうろとしていたが、既存の集落からも隔絶していることもあり、とりあえずおそらくは植林に伴う地形改変であろうと推定することとした。





本丸館
(郡山市三穂田町富岡字本丸) 10時25分から10時30分
「まほろん」などの情報によれば、ひとつ前の東館のほぼ西隣で、対岸の三穂田中学校敷地でいえば、その西端付近の位置に相当する地点の河岸段丘付近に所在していたとされている。
「日本城郭大系」によれば永禄から天正年間に須田三郎兵衛の居館であったことが記されているが、現在の段丘上の平坦な地形からは当時における中世城館跡としての面影を見出すことは難しい。





西館
(郡山市三穂田町富岡字自福) 10時30分から10時35分
「まほろん」などの情報によれば、前項の本丸館の対岸の段丘上で、三穂田中学校の西方、三穂田行政センターの南西付近に所在していた模様である。
現地は耕地整理に伴うものとみられる整然とした棚田が形成されており、往時の地形を追い求めることは難しいものと考えるが、それでも西方から延びる細長い丘陵の東端部付近に位置していることだけは確認できる。
こちらについても無論前項と同様に城館関連遺構を確認することはできず、また「日本城郭大系」にも城館名と所在地以外に特段の記述は見られない。





本丸館(鳥居戸屋敷、郡山市三穂田町鍋山字鳥居戸屋敷) 10時50分から11時10分
「まほろん」や「日本城郭大系」の所在地情報では「三穂田町富岡字本丸」と記載されているが、かりに「まほろん」での地図上の所在地としては明らかに「三穂田町鍋山字鳥居戸屋敷」の一帯を指し示していることから当該所在地については後者の方を所在地として採用した。
現地では方一町ほどの方形館の存在を想起できる旧家が現存していた。
ただし、外部から拝見した限りでは堀跡の名残とも見えなくもない用水路などの存在を除いて土塁などの遺構の存在は認められなかった。

 



白山館(郡山市三穂田町字白山) 11時45分から11時50分
「まほろん」によれぱ、築館が所在する丘陵の南側水田が当該地とされているが、南側を水路が流れていることを除けば、軍事的防御性にも水害などの自然災害にも脆弱な立地条件であり、およそ城館跡としては相応しくない立地条件であるように思われた。
耕作地と水利権の占有などを優先した結果であったのだろうか。
一帯は丘陵下の水田となっており地表上の遺構の残滓さえも認めることはできない。
むしろ南側の用水路対岸に所在している集落の方の地理的条件に目が向いてしまうほどである。

「日本城郭大系」では須田佐渡守の居館として伝わっているようである。



築館(亀賀森神社、郡山市三穂田町字築館) 12時00分から12時50分
★土塁、空堀、郭(東西約30メートル、南北約20メートル)
森神社の境内地およびその西側に続く小丘陵に小規模ながらも明確な中世城館遺構が現存しており、感動を伴うこの日最大の成果でもあった。
現状の神社境内の遺構部分については、削平地とその切岸は神社造立にともなう土木工事との区別がつきにくい。
しかし、社殿西側には内側での高さ2メートルを超える土塁が全周しているとともに、東西約30メートル、南北約20メートルほどの楕円形の郭自体もほどよく削平されていた。
加えて北側、西側、南側の一部に幅10メートル以上の空堀が現存し小丘陵全体を取り巻いていた。
また、空堀の外部には西側と北側を中心として土塁も現存しており、本来は二重堀であった可能性もまた一考に値するのかも知れない。
なお、遺構が存在する小丘陵の北側部分は行動を挟んで資材置場となり、また南側の民家沿いでは空堀が埋め立てにより半分ほど消失しており、今後における遺構保存が懸念される状態であることが窺えた。


手元の資料が限られていることから今後よく調べてみないと分からないが、ことによると古墳時代の遺構との関連を検討してみる必要もあるのかも知れない。
下記画像は西側公道方向から撮影したものである。




山口館(郡山市三穂田町山口字館) 13時10分から13時55分
山口集落南方約400メートルの地点に存在する独立丘陵の東側が当該地であり、日枝神社の境内地が所在している。
神社造立に伴う削平工事とそれ以前の中世城館遺構との区別が難しく、またルート以外では藪が視線を遮り地表の様子を観察することを困難にしていた。
このあたりの丘陵としては珍しくルートが整備されており、日枝神社へは北東側の参道、西側の裏参道のいずれからもアプローチが可能である。




茶臼館(郡山市三穂田町字芦ノ口) ★土塁一部残存
多田野川北側の丘陵南麓の微高地に所在している。
「まほろん」などによれば、ほぼ山口集落全体が該当地として捉えられているようであり、「」の小字名が残されている辺りには土塁の一部とこれに伴う用水路も確認できる。
また土塁状の地形には西側に向けて小口状の入り口が付されてはいるが、これについては後世の地形改変である可能性の方が大きいような印象を感じた。
なお「日本城郭大系」では蘆名城介の居館と記している。
画像は西側土塁の一部分である。

 

    
 
 
葉山館(大槻春日神社、郡山市大槻町字春日) 15時10分から15時50分
★郭、横堀、腰郭、小口、堀切、帯郭
葉山丘陵の東端部分に位置している。
概念図については垣内氏作成のものが、著書などにより公開されておりある程度知られた中世城館跡である。
堀切と土橋を挟んで分けられている東西それぞれの遺構は西側の防御性の高さに比べて東側の春日神社部分のそれは大きく異なっている。
なお神社部分とは異なり西側の丘陵部分は草刈りなどがなされておらず、足元はけっして良好であるとは言い難いものがあるが、一見の価値はあるものと考えられる。

当該城館跡および安積伊東氏との関連を含めた垣内氏の論考は「室町期南奥の政治秩序と抗争」に詳述されている。
画像は西郭西側の切岸と横堀の様子。




葉山館(郡山市大槻町字春日) 15時45分から16時00分
「まほろん」の情報によれば、前項の「葉山館」の北麓の住宅地に接した方1町ほどの水田付近とされているが、その歴史的経緯は不明のようでもあり、いちおう断続的な水路に囲まれた地形ではあるものの、これといった特徴のない東北自動車道東側の平坦地であった。

 



こうして郡山の1日目は14城館+城館遺構っぽい1神社を達成して終了。
一応訪問予定数は約20か所を想定して関係資料を用意。
しかし途中の移動時間、目的地へのルート確認時間などを勘案すれば、この季節では最長行動可能時間は8時間。
これに現在の足まわりの状態を加味し、翌日以降の行動を考慮に入れるといいところ正味6時間が限度のはず。
過去2度の来訪からは土地勘は断片的にあるのみで、めぼしい遺構がやや少ない中ではモチベーションを保ち14城館をまわれてまずまず健闘したと自分を褒めてみた。
天候は晴天で日中は汗ばみ日焼けするほどの陽気。
ちなみにこの日の夕食は宿泊したビジネスホテルでの「とんかつ定食セット税込910円」 となった。
なお、この日の歩行距離は2万歩弱であった。

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最終日は猛暑による体力の消耗を防ぐべく早朝からの出陣を果たすこととなった。
とはいえ出立したのは当方の寝坊のため、午前6時半を大きく回ってしまった。
このため連日の猛暑はすでに早朝から猛威を振るい、はやくも大量の発汗を余儀なくさせていたのであった。


鎧召館(喜多方市、旧塩川町) 午前7時50分から
館前の道路で朝から電気工事のため片側交通規制が行われていた。
脇道の農道に入り車を止め、南側堀跡を眺め、次に北東側から土塁と堀跡を拝見した。






台慶徳館(喜多方市、旧塩川町) 午前8時05分から
南側の桝形と水堀跡の用水路を眺めた後、脇の農道にすすみ北辺の保存状態が良好な土塁と堀跡を拝見。






新宮城(喜多方市) 午前8時25分から
南北を天然の川が東流し西から東にかけて緩やかな傾斜を示す緩斜面に所在している。
予想していたよりも広大な城域だったが、一帯はすでに耕作地となり保存されている主郭部分も一面の草地であり位置関係を理解するのに戸惑ってしまった。
それでも東側を除く三方には堀跡の窪地が残され二の郭の一部には復元された土塁が存在する。
 この地を治めていた新宮氏の居城と考えられているが、この広大な城域と集落集落との乖離を感じた。

 
 
 
 
こののち朝食と水分補給用意のため一時喜多方市内へと移動した。



太郎丸西館(喜多方市) 午前9時30分から
撮影した画像は八幡神社境内であるが、居館跡自体はもう少し南側(画像では左側)に位置しているらしい。







慶徳城(喜多方市) 午前9時38分から
城域について「中世城館調査報告書」では西側丘陵の麓付近まで広げて捉えているが、これに対して「喜多方市史」では市道の位置を西限として見ているようである。
城跡遺構として現存していると思われるものとしては、慶徳小学校西側の法面と城跡南西部に残されている畑の窪み(堀跡か)が確認できる。
葦名氏重臣である平田氏の一族が慶徳氏を名乗りこの地を治めたとされている。
葦名氏により滅亡したといわれている新宮氏の居城であった新宮城からは北に1.2キロメートルほどの地点である。






慶徳新館(喜多方市) 午前9時55分から
慶徳城の東側100メートル足らずの個所に武藤氏により築造された城館跡であるが、現在この城跡には喜多方市立慶徳ふれあい会館が建設されている。
しかしその東側に所在する高さ2メートルほどの段差の存在にその痕跡をとどめていることを確認できる。





荒神館(喜多方市) 午前10時00分から
現状の地形からは天然の谷川が堀となっていたことが窺われる慶徳城周辺の城館跡のひとつであるが、近年の周辺の道路整備によりその地形が大きく改変されている。






松野館(喜多方市) 午前10時20分から
青木氏、勝氏などの居館と考えられている平地の方形館で土塁跡のようにも見えなくもない地形を見ることができる。





見頃館(喜多方市) 午前10時32分から
台地上の西光寺付近が館跡とも言われているが委細不明で、字名として館中の古地名が今に継承されている。





岩沢館(喜多方市) 午前10時46分から
「喜多方市史」によれば、「南館」「館下」「向館」などの小字名が残され、「腰巻」という田地も存在しているという。





■佐原十郎義連墓(喜多方市) 午前10時58分から






岩尾館(喜多方市) 午前11時11分から
加納荘を治めた佐原氏一族の居館を中心として拡大した城館であると考えられている。
土塁跡、郭跡と思われる地形と比高差にして10メートル前後の段丘地形を確認できる。





半在家の遺構(喜多方市) 午前11時45分から
佐原十郎墓の南方、県道336号線の半在家集落内の東西に土塁あるいは堀跡などの痕跡を確認することができる。





添田館(喜多方市) 午後12時04分から






青山城(喜多方市) 午後12時12分から
山王神社が所在する比高差10メートルほどの小丘陵が城跡で、南北にそれぞれ郭を有している。
とくに北郭にともなう土塁と空堀などの状態が魅力的であり、訪れる時期が異なりさえすれば、格好の地形観察が可能な遺構の保存状況であった。






この時点で日差しは益々真夏の強烈な性格を露わにし始め、徐々に次第に気力と体力蝕んでいったように記憶している。
史進どののお導きにより、今回もまた3日間で都合40か所を超えた城跡めぐりとなった。
資料収集、現地案内、宿泊所手配などなど多岐にわたりお世話になり心より感謝申し上げます。

後になってよくよく考えてみれば、こうした盛夏での訪城は極力早寝、早起きがベストなのかとも思う次第。
いっそのこと午前5時出陣、無理をせずに正午過ぎ頃に転進して昼食と資料漁り、午後5時宿営地到着というような行動モデルがあっても良さそうな気がしたのであった。
秋が深まりを見せたころ、本宮市内と会津盆地再訪もプランニングしてみようと思う昨今であった。

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2日目は連日の猛暑のなか、やや遅めで宿を午前8時頃に出発。
途中にて朝食と経口補水液などを購入し会津若松市内から会津坂下町方面へと足を伸ばした。
しかし如何せん体重増加のため些か足回りが重たい。


横沼柵(会津若松市) 午前8時45分から
神指城の北北東約1.5キロメートルほどの地点に所在する市内神指横沼の集落北部に所在する。
神社境内が目印で境内の南西側に土塁状の地面の高まりと北西側に堀跡と思しき窪地などが認められるが、城館遺構との関わりについては推測の域を出ないものなのかもしれない。

 
   南西側土塁状の地形 
 
 
 
束原館(会津坂下町) 午前9時20分から
「中世城館調査報告書」によれば、複郭の方形館であるとの記述があるが、現状の地形からは集落をめぐる用水路の存在と小祠の所在する最高約2.5メートルほどの土塁状地形を確認するにとどまった。


  祠近くの土塁状の地形



細久名館(会津坂下町) 午前9時35分から
集落の南端で共同墓地のさらに南側約60メートルに所在する集落北部に土塁状の表面地形確認できるが、遺構としての規模は方50メートルほどくらいでさほど大きくはない。
おそらくは日蓮正宗妙福寺境内ではないかと推定されるが、このほかにも南端の道路沿いの民家前にて土塁に似た地形を見ることができる。

 



海老沢東館(会津坂下町) 午前10時00分から
 「東屋敷」との通称がのこされており、海老沢集落の東端に所在する数軒ほどの集落内に所在するものとされているが、多分このあたりであろうという推測の域を出でず。

 
   東屋敷付近の景観

 
 
海老沢西館(会津坂下町) 午前10時15分から
前者の西側の集落に所在すると考えられ「西屋敷」との通称名が残されている。

 
   西屋敷付近の景観




雲雀城(会津坂下町) 午前11時00分から
空堀、主郭、小口、土橋などが現存している只見川右岸の崖地に所在する城館跡。
堀幅数メートル、深さ最大6メートルほどの空堀一本により東側と北側を台地から隔絶した構造となっており、藪などのため確認しづらいが比較的シンプルなつくりとなっている。
城氏が構築した会津8館のひとつとされており、このほか城域には複数の古墳も所在する。
訪問ルートからは幾分外れた地域に所在し、入り口付近は大分夏草に覆われてはいたが、本当に訪れてみてよかった城館跡のひとつであった。


    東側空堀と小口


陣が峯城(会津坂下町) 午前11時50分から
古代末期から中世初期に起源を有するといわれている城氏の館跡。
耕作や40年ほど前の地域公民館建設などによりある程度郭内の様相が改変されている模様だが、台地端を利用し二重の空堀を廻らしてその地形的な独立性を図ったという意図が伝わる貴重な遺構。
季節が違えば藪に覆われ気味な空堀の印象もだいぶ異なるはず。


     二重の空堀




この時点でおりからの猛暑に加えて空模様が気がかりな様相も加わり、喜多方方面への進出を断念し会津坂下町から会津若松へとUターンすることとした。
この時期「ところにより雷雨」という天気予報はことに悩ましいものである。



生江館(会津坂下町) 午後12時25分から
集落内に居館、集落北西の古墳に砦跡が現存し、古代から栄えた地域であった経緯が窺えた。
現状では水田面との比高差は目測で約8メートルほどを測るのみだが、往時には亀ケ森古墳周囲の堀跡が機能して、より比高差を伴っていたであろうことが想定された。
稲荷神社と観音堂とが所在する前方後円墳の円墳部分が中世の砦跡で、方墳のほうは地元の墓地として大きく改変されていた。
なお飲用には向かない印象もあったが古墳麓の水場で首を冷やし人心地つく。
遅きに失してはいたが、帽子の下に濡れたハンカチを被り日射を防ぐ方策が熱中症の防止に有効であることを思い知ることとなった。
朧げながらこの日の暑さのピークはこの時点であったと記憶。


    戦国時代の砦




青津柵(会津坂下町) 午後12時50分から
生江館東隣りの位置にあるらしいが城館としての経緯などは詳細不明。


   推定地付近の景観




金上館(会津坂下町) 午後13時25分から
館跡北西部の北辺と西辺を中心として大規模な土塁が現存しているが、葦名氏重臣金上氏の館跡にしては思いのほか控えめの方一町の規模なのであった。
館跡北側に所在する境内地の広い金上寺では折から法要の真っ最中。
南側の集落の道路からは城館跡であることがやや分かりにくいという印象が残った。


  北西付近の土塁と堀跡



ブックオフに立ち寄ったのち、となりのラーメン店で幾分遅めの昼食を摂取してほんの少しだけ元気回復モードに。


小 館(会津若松市) 午後15時18分から
伊達政宗暗殺未遂事件の現場と伝わり、当地にはその名も「小館稲荷神社」が鎮座している。
現地説明版あり。


    小館稲荷神社




この後は空模様と猛暑による体力の減衰を勘案し休養のため宿にて一時仮眠することとした。
2時間ほどの休息ではあったが、確実に気力だけは回復を果すことができていた。

その後は日没近い午後6時30分頃から活動再開。



直江兼続屋敷(会津若松市) 午後18時34分から
市街地の一角に上杉家会津移封後に足かけ3年ほどの間直江山城の屋敷があったとされる場所であわせて山鹿素行の所縁の地でもあった。


   直江山城守屋敷跡



会津鶴ヶ城(会津若松市) 午後18時51分から
黄昏時から日没後の外堀、内堀、天守、二の丸などを次々に訪問したが、人影は皆無に近くとりわけ石垣と土塁のシルエットが印象に残った。





夕刻からの市内散策の後、いくぶん遅めの夕食となった。
昨日に続き、同じ日本蕎麦屋さんで再度「とろろ蕎麦」をいただいた。
何故日本蕎麦が2日続いたのかといえば、自分としては10割蕎麦が美味かったことと猛暑のためほかの食物を胃が受け付けなかったことによるものでもあったのであろう。
就寝前に足回り保持のため携行してきた専用バンドエイドを装着。
って、昨日貼るのをすっかり忘れていただけなのではあるが。

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梅雨が明けて連日の猛暑が続くなか福島遠征のこの日を迎えた。
かねての予定通り午前6時拙宅集合。
今年に入って4月末の米沢、会津につづく2度目の東北遠征。
史進さんのご案内により郡山市を目指し一路東北道を北上。
米沢の時には往路で5時間半だったが、今回の郡山市まではわずか3時間半ほどで到達。
思えば郡山は2008年6月以来となる再訪。


水神館(郡山市) 午前9時30分から
東北道郡山インター南東丘陵の南東端に所在し、丘陵続きの北西部には県立郡山養護学校および福島県養護教育センターが隣接している。
また周辺は近年著しく宅地化が進行しており公園化されているとはいえ市街地の遺構を伴う城館跡として貴重な存在となっている。
比高約8メートルほどの丘陵の麓には水路が流れ地形としての優位性が伝わり、周辺には坦ノ腰、上ノ台などの地形、城館にかかわると思われる地名も残されている。
なおかつて文化庁が主導した「中世城館調査」などには含まれてはいない。
郭内は児童遊具が設置されてはいるが、折を伴う土塁跡も明確に残されており戦国期の砦跡にふさわしい遺構である。





向 館(郡山市) 午前10時00分から
現在ではおおむね宅地化されて地表に確認できるような遺構は殆ど存在していない。
然し当地にはいまでも「字向館」の地名が残されており、住宅内のカーブミラーなどにその地名を見ることができ、館跡の北部丘陵には当地を治めていたといわれている富田氏の墓地も所在していた。




富田山王館(郡山市) 午前10時40分から
 天正16年(1588)6月安積方面に侵攻してきた2万を超えると伝わる佐竹・蘆名勢に対して、伊達勢が寡兵(恐らく数千人規模か)を以て持ち堪えた「郡山合戦」(「窪田合戦」とも)が行われたという。
郡山駅近くの山王神社が伊達氏本陣ともされているが、こちらも同じ山王神社であり中世城館跡のひとつと考えられていることから立ち寄ることとさせていただいた。
北側が台地へと続く比高差8メートル足らずの丘陵先端部に山王神社境内が所在しているのみで明確な土塁などの遺構は確認できないが南側を向いた境内からは郡山市街方面が観望できる地理的環境にあった。



 
鹿島館(郡山市) 午前11時00分から
あまり期待しないで立ち寄ったが、丘陵東側の鹿島神社側には土塁跡、複数の腰廓、城道と思しき形跡が確認でき望外の収穫となった。
郡山市立行健第二小学校南方の半独立丘陵に所在している。
東側に谷津田が深く入り込む地形で丘陵と南側市街地の比高差は最大15メートルほどを測り南方方面の眺望に優れた環境にあった。
一帯には鹿島舘という古地名も現存している。


 
 

尾無館(郡山市) 午前11時30分から
日和田古館西側の丘陵に所在する数軒ほどの人家からなる大原集落内に、土塁と堀跡状の地形が僅かばかり断片的に残されている。
むろん往時の遺構に関係するものであるかどうかは分からない。
ちなみに「まほろん」に掲載されている遺跡データベースでは日和田古館の位置に重複しているが所在地自体は大原とされている。
また集落の北側を流れる用水路の対岸に「尾無館」の地名も残されているが、その地点は「黒沢古館」の所在地に重なってしまう。





日和田古館(郡山市) 午前11時40分から
藤田川南岸河岸段丘上に所在している。
現状の地形からも約50メートル四方の比較的小規模な方形館が想定でき、南辺を除いて堀を確認できる。
安積郡の有力領主であった伊東氏一族の居館であったことが推定されているようである。
多分この時刻くらいから次第に暑さが堪えはじめてきたというおぼろげな記憶がある。
おりしも東側の堀跡には白花の蓮が満開を迎えあたかも極楽浄土の盛夏を髣髴とさせるような景観が眼前に広がっていた。




黒沢古館(郡山市) 午後12時05分から
平地に所在していた城館跡の宿命ではあるが、現地はおなじみの圃場整備により旧来の面影は皆目消失せり。
暑さはこの時がピークの一つだったような記憶が。
蓮池となった先の堀跡や小休止した近くのビオトープで開花していた白蓮の花が目に眩しく焼き付いていた。




日和田館(郡山市) 午後12時30分から
「郡山の城館」(垣内和孝著/歴史春秋社)によれば南側を中心にして方形館に伴う堀跡、土塁、土橋などの遺構が良好に残されていると記されている。
東北本線日和田駅の北西に位置する丘陵東端部に所在し明瞭な区画をなしていることが窺えるものの、この季節は入り込むのが困難なほどの藪になっていた。
捲土重来を期すとしたいところなれども、果たして再訪の機会が残されているのか些か心もとない年代となってきた。




日和田背戸館(郡山市) 午後13時00分から
日和田館の東北本線を挟んだ南東の最大比高差約20メートルほどの独立丘陵に所在する。
現況は八幡神社の境内となっており、一部に土塁跡、腰郭跡と見えなくもない地形的特徴を残している。
駅前に駐車したついでに、日和田駅前の郡山市図書館分館に立ち寄り資料収集。





高倉城(郡山市) 午後13時35分頃
比高差約120メートルの比較的コンパクトな山城。
車で行けるらしいが、季節がらここははじめから直接探訪するという予定はなく、当初の予定通りに西側の麓および北側から遠景のみを観望して終了。
探訪する季節を変えて再訪する計画を立てるという楽しみにつながったと記しておこう。




仁井田館(本宮市) 午後13時45分から
高倉城の北方約1.5キロメートル地点に所在する河岸段丘のような微高地に占地している。
城館名となる仁井田は城域として推定されている南西側の5軒ほどの小集落の名称である模様。
ここから北隣の本宮市内に入ったのだが、めぼしい遺構がないようなので端からササッと車で見て確認を終了した。
後から気が付いたのだが、仁井田集落を周回する地図上の道路の形態の方が気になってしまった。
 
   
 
 
瀬戸川城(本宮市) 午後14時05分から
昭和40年代まで瀬戸川北岸比高差12メートルほどの丘陵南面に所在していたというが、削平盛り土などにより台地そのものの地形が大きく改変されているようだった。
「本宮町史」などの資料と現地をを照合してみると、おそらくは開析谷などの位置から桝形地区住宅地東側児童公園に説明版がある場所あたりが遺構の北端部に相当するのかもしれない。
児童公園の一角には防火用水槽が設置されているが、もとより遺構とは無縁な存在であろう。
台地南面に比高差を有すする3段の郭が階段状に構築されていたとされているが、葦名氏の侵攻を意識した伊達氏による戦術的な砦跡であった可能性は大きいのかもしれない。




日輪寺(本宮市) 午後14時30分から
会津葦名氏との合戦時における伊達正宗の陣城跡といわれている丘陵に所在している寺院で周囲の眺望に優れていた。
木陰を求めつつ彷徨するなか、境内の駐車場に日陰が残されていたことにほっと安堵のため息が漏れた。




人取橋の合戦場(本宮市) 午後15時から
国道4号線西側の瀬戸川南岸に茂庭左月らの墓碑が建立されている。
著名な奥州の古戦場なのだが、国道からの入り口が狭隘で分かりにくい。
討ち死にを遂げた左月の姓がそのまま一帯の小字名として継承されている。

 
 
 
青田館(本宮市) 午後15時10分から
堀跡の用水路がが集落の周囲に残され、北西側には外部に堀跡を伴う高さ3メートルを超える土塁も現存している平地の城館跡である。
また集落そのものに小字名である「館」の地名が継承されている。




青田古館(本宮市) 午後15時30分から
青田館の北側約100メートルの地点に所在する館跡で青田館とは異なり低丘陵に占地している。
曹洞宗大泉寺のあたりに古館、腰蒔などの城館地名が継承されている。
ただしこの場所は疲労が確実に限界に近づいて遠望のみにとどまることとなった。





三本松館(本宮市) 午後15時40分頃
麓の水田面からは比高差約70メートルほどの独立丘陵南東端に所在している。
この個所も気力、体力が限界のため周辺の県道の周囲から観望したのみで通過した。




小平潟館(猪苗代町) 午後17時00分頃から
天神浜の湖水浴場近くの駐車場から徒歩で南へ300メートルほどの地点に所在する遺構らしい。
猪苗代湖に注ぐ西へと流れる水路沿いに幅数メートルほどの堀跡らしい窪地と土塁跡とも見えなくもない藪の中の盛り土のような地形を確認できた。
クマ出没注意の看板等が気がかりでそれ以上の探索には至らなかった。





今年4月遠征時の際の反省をもとに今回は熱中症対策に配意。
日よけ対策、経口補水液による水分補給も怠りなく遂行。
それでもへばる猛暑の最中の城館めぐり。
会津若松市内で食べた夕食の「とろろそば」(宮古そば処「分家吉兵衛」)が体を労わるように消化していった。

拍手[3回]

今月の末に予定されている郡山・会津遠征の予行演習を兼ねて史進どののご案内で野田、春日部、松伏方面へ。
思えば隣県とはいえ千葉県方面へと足を延ばすのは何と6年ぶりのことであった。
おりしも関東地方の梅雨明けと重なりいきなりの猛暑を体感してしまうことに。
あたりの空気は吸い込むのさえも息苦しく、日差しは容赦なく降り注ぎ、やぶ蚊はこの時とばかりに大量活動中。
その持て余さざる暑さと雲行きのために大事を取り、早くも午後3時前には帰路に就くこととなった。

金野井城(千葉県野田市) 午前9時10分から
城跡としての所在地については現状の地形から推定することは容易であり、戦後に移転してきたという西福寺境内がこれに含まれることについては異論の余地のないところであろう。
しかし複廓の構造としてとらえた場合に西側の浄水場を城域として考慮すべきかどうか疑問が残り、むしろ寺の東側平地林内に現存する土塁、堀跡状地形の方にに興味をひかれる。
東側には南北に延びる水路が開削されているために、かなりの地形改変も考慮すべきだが城域としての一体感が感じられ実に悩ましい。
「中世城館調査報告書」のベースとなっていると思われる「埋蔵文化財調査概要1」(野田市郷土博物館)を直接閲覧してみるべく必要性が感じられた。




舟形城(千葉県野田市) 午前10時05分から
かつては土塁の一部が確認できたというが、その現状から往時の様子を窺い知ることは極めて難しいと言わざるを得ない。
東側に水田地帯が広がっていることから、当地が低台地上に位置していることだけは理解できた。




目吹城(千葉県野田市) 午前11時05分から
一般に城跡といわれている個所の東側に所在している熊野神社の舌状台地は南側の大地続きを除いた三方を比高差約8メートルほどの切り立った崖線に囲まれており当城跡との深い関連が窺われる。
なお以前には設置されていたという民家前の標柱は残念ながら見当たらず。




木野崎城(千葉県野田市) 午前11時40分から
水田地帯のなかに独立した低丘陵占地しており、わずかに台地辺縁部を流れている用水路の景観に水濠の名残を感じられた。




下河辺館(埼玉県松伏町) 午後12時30分から
赤岩集落の中心地であった小学校跡から東方の東陽寺あたりまでの自然堤防上の地域を推定地の一つとして見て回ったが、現状の地形からは過去におけるそうした形跡をイメージすることの難しさを味わえた。
これも中世城館探訪の楽しみの一つでもあると達観。




大河戸館(埼玉県松伏町) 午後13時20分から
春日部市との境界に近い大落古利根川沿いの北岸に所在する微高地を館跡として推定し彷徨。
水田との比高差が目立つあたりに大河戸中央自治会館という地元の集会所が所在している。




治郎兵衛屋敷(埼玉県春日部市) 午後13時45分から
大落古利根川右岸の自然堤防上に所在する多田源氏の末裔関根氏の屋敷跡。
碇神社の境内地はその一部であると推定されているらしい。




春日部氏館(埼玉県春日部市) 午後14時20分から
春日部氏の本拠で市内の八幡神社が鎮座する独立丘陵が館跡とされている。
丘陵北端に所在する浅間塚からの眺望は木々が茂り幾分視界が遮られるもののおおむね良好であった。

 


もっともこれを記述しているのは実を言えば遠征後の8月上旬であり、7月上旬から今月の猛暑へと続く文字通りの有意義なる予行演習となった一日なのであった。

拍手[2回]

遠征最終日の3日目は帰宅時間等を勘案して、会津若松市内を起点に湯川村と旧塩川村(現・喜多方市)に所在する比高差の無い平地の城館跡を巡った。

神指城(会津若松市) 9時05分から10時15分
会津若松城の北西部に南西角部分を除く大規模な二の丸土塁跡の一部が残存している。
周囲の水田には外郭部の堀跡の名残も伺える。
現在では本丸部分は一部立ち入りが可能とはなっているが、いささか城跡としての景観は損なわれている印象が拭えなかった。
二の丸北側の一部では売却予定地の表示も設置されていたことから、今後の文化財としての景観保持が懸念された。


中ノ明館(会津若松市) 10時34分頃
国道49号線中ノ明交差点の南側付近が該当地とされているが、宅地化の進行によりその面影は確認できないもよう。
 かくして遠景のみの撮影に終わった。
このあと駐車していたショッピングモールにある市内大型書店2個所にて郷土資料を購入、というよりもこちらの方がメインであったようにも。
 


平沢館(会津若松市) 11時22分から11時24分
神指城から北東へ約800メートルほどの耕作地に所在しているという。
水田の中の微高地となっている神社境内が目印。


中地館(会津若松市) 11時31分から11時35分
平沢館から北西へ約700メートルほどの中地集落内に所在している。


下高野館(会津若松市) 11時46分から11時57分
中地館から北へ約800メートル地点に位置する下高野の集落内に所在している。
集落の宅地周辺に堀跡の名残と考えられる水路が確認できた。
ここから更に北へ向かい湯川村の浜崎城へと移動。 


浜崎城(湯川村) 12時14分から12時34分
主郭東側の土塁と堀跡が思いの外綺麗に残存しており感動を覚えた。
しかしこのあたりからいくぶん足取りが重たくなり、60代半ばにさしかかっている管理人は連日の暑さが徐々に体に堪え始めてきたのであった。
一昨日の轍を踏まぬようにこまめな水分補給に加えてタオルを頭に巻いて暑さを凌ぐこととなった。

 
 

柏木城(旧塩川町、現・喜多方市) 12時34分
浜崎城の北側のこの河川敷付近と推定されているようので対岸から遠景撮影して探訪終了した。
このため寧ろ川幅いっぱいに飾られた鯉のぼりの印象の方が強く残っることとなった。


新井田館(旧塩川町、現・喜多方市) 12時47分から12時53分
別名を田辺館ともいうらしい。
屋敷の周囲を中心にして堀跡と土塁の一部が確認できる。


鏡ヶ城(旧塩川町、現・喜多方市) 12時58分から13時17分
鑑ヶ城とも。
大字源太屋敷に所在し、集落の北側を中心にして予想以上に大規模な土塁が遺されている。

新井田谷地館(旧塩川町、現・喜多方市) 13時26分13時37分
姥堂駅西側の新井田谷集落内に所在する。
土塁にもみえる盛り上がりが道路際に残る。


上江館(旧塩川町、現・喜多方市) 13時50分から13時52分
新編会津風土記によれば、天正年間に栗村弾正清政が居住したという。


上窪館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時06分から14時10分
上窪公民館と古峰神社の所在する北側の民家が該当地とのこと(史進さんよりご教示)
西側の水路沿いを中心に延長50メートル以上の屋敷を取り巻く明瞭な土塁の一部が遺されていた。
このあたりから管理人は次第に遺構名と現実の遺構との間における認識の乖離が始まりかけていたようである。

 

深沢館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時18分から14時26分
字深沢の集落内に石塁を伴う堀跡と土塁が遺されている。
宅地周辺の樹木が伐採されており館跡の形状を把握しやすい状態であった。


金川館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時33分から14時50分
字館ノ内の民家にて土塁のほかに石塁、小口跡も確認できた。
画像は北側から撮影した土塁跡である。




このあとは磐梯河東インターから磐越道経由で帰路につき、途中休憩を含め6時間ほどで帰宅した。

2泊3日の全走行距離は予想通り約750キロメートルであった。

拍手[1回]

 遠征2日目はまず前日に廻りきれなかった米沢市東部の木和田地区に所在する山麓の城館を目指した。木和田は西方の最上川支流である天王川沿いを除き残りの三方を標高300メートル
から400メートルほどの低山に囲まれた集落であり、奈良時代の古代に遡及する須恵器窯跡が所在し、豊富な湧水をもち古くから水田開発された地域であり集落を囲むように少なくとも中世城館跡4個所の存在が確認されている。
目的地は狭い農道が多くターンがしづらいことから、木和田集落内の集会所兼消防団小屋近くに駐車させていただき全て徒歩にて探訪した。
  
木和田館 (山形県米沢市) 8時40分から9時05分
木和田集落南側に所在する通称「横山」北麓の杉林の谷間に占地した緩斜面の単郭方形館であり、東西方向に長く、現状では郭内中央部分に南側丘陵を水源とした湧水が流れていることが確認できる。
一丁四方に満たない小規模な館跡ではあるが、現在でも画像のごとく明確な土塁遺構と堀跡、小口跡がしっかりと残存している。
比較的人家も近く南側裏山の反対側には米沢市の大規模な八幡原工業団地が立地しているが、クマの出没には十分な注意が必要である。


馬越ノ道館 (山形県米沢市) 9時25分から9時30分
木和田館から東へ約500メートルほどの地点の山裾に位置する「への字型」の土塁跡であり南側には小さな沼が所在している。
土塁の長さは約50メートルほどで高さは1.5メートルほどを測るが、その全体構造については不明である。




木和田月ノ原館 (山形県米沢市) 9時50分から10時00分
上記「馬越ノ道館」から北北東に400メートルほど向かった古館山の稜線南麓に所在している。「中世城館調査報告書」によればかつての圃場整備により土塁や堀跡が破壊されていることが記されている。しかし、実際には北側の山側を除いた三方に長さ40メートル程度の土塁が辛くも現存しており、これに付随する幅4メートル程度の堀跡も東側を除いて今でも確認できる状態にある。


木和田田中屋敷 (山形県米沢市) 10時00分から10時05分
上記「木和田月ノ原館」からみて150メートルほど西側の山麓に所在し、両者の間には一軒の民家と「木和田古墳」「木和田窯跡」が所在している。
館名は小字である中屋敷から呼称されている。
他の3個所の遺構に比較して、薮の状態が今ひとつであるために遺構の目視に難があるが東西約70メートル、南北25メートルほどの範囲内に屋敷遺構が確認できる。
このあと小休止後には県道2号線で県境に位置する吾妻山系の白布峠を越え、明治期に発生した磐梯山の大噴火により形成された檜原湖のある福島県北塩原村方面へと移動した。

 


桧原城 (福島県北塩原村) 12時30分から12時45分頃まで
別名を小谷山城ともよばれ芦名氏方の岩山城攻略後に伊達政宗が築城したとされる山城であり、その南麓の平地には長大な外郭土塁と枡形小口等の遺構が存在している。
しかしクマ出没のシーズンにさしかかり要注意との情報が。
このため遠景と麓付近の散策との解説板などを撮影したのみにとどまった。


(伝)苧畑山砦 (福島県北塩原村) 12時50分頃
「うばたけやまとりで」と伝わる戸山城北東標高1128.8メートルの高所に位置する砦跡と伝わるが、戸山城との関連が不明でその所在自体も「中世城館調査報告書」と「まほろん」(福島県遺跡データベース)では異なっており、戸山城の一部をさすものなのかどうかも不明。


戸山城 (福島県北塩原村) 13時00分頃
芦名氏家臣である穴沢氏が伊達氏の侵攻に備えて築城した山城とされている。


巌山城 (福島県北塩原村) 13時05分頃
岩山城あるいは岩ノ山城ともいうらしい。
芦名氏重臣である穴沢氏が尾根続きの防御に劣るとされた戸山城より移り築城したが、伊達氏の策略と攻勢を支えきれずに落城したとされている。


 

清野六郎屋敷 (福島県北塩原村) 14時00分頃
大塩村郷土史によれば清野六郎の居館と伝わるというが、現状は柏木城来訪者のための駐車場にもなっていた。




柏木城 (福島県北塩原村) 14時30分から16時40分
芦名氏が檜原城を拠点にした伊達氏の侵攻に備え会津街道沿いに築城した大規模な山城で大がかりな石垣の普請を見ることができる。
大手口方面の石垣は大きく人為的な破城の跡が確認できたが、その分現況からは主郭中心部へのルートが判然としない状況となっていた。
訪れた折は幸いにして発掘直後の状態であり、城址の案内板などが整備されたばかりであった。
なお主郭東側の郭付近にてカモシカ一頭に出会った。


赤城館山 (福島県北塩原村) 16時45分頃
柏木城から国道459号線を西に約1キロメートルほど進んだ大塩川右岸の岩山上に所在するという。現地標柱によれば綱取城(要害山)に対して「向エノ要害山」ともいうようである。
国道沿いに北塩原村郷土史会が設置された標柱があるが、東側の大谷川方面から迂回する北側からのルート(比高差約60メートル)があるのかも知れないが、国道からの比高差は120メートルのとりつく島も無い完全な絶壁であった。
このあとの行動予定を考慮し遠景のみの撮影となった。


 

綱取城 (福島県北塩原村) 17時00分頃
別名を要害山ともいう芦名氏重臣である松本勘解由の居城とされているが、平時の居館は別途小学校近くの国道反対側に下記のように綱取居館跡という標柱が設置されていた。
日没までの時間の制約から、ここも説明版などの撮影のみとなった。


綱取城居館 (福島県北塩原村) 17時05分頃


上ノ台館 (福島県北塩原村) 17時07分頃
国道のすぐ東側に所在している上記の綱取居館跡との違いなどの詳細は不明。


赤館 (福島県北塩原村) 17時10分から17時15分頃
「新編会津風土記」によれば、綱取城主松本勘解由の家臣である中ノ目阿賀が居住したとされている。
山林の中何らかの遺構があるような無いような。


新井館 (福島県北塩原村) 17時25分から17時30分頃
「新編会津風土記」によれば、松本勘解由の家臣である新井氏が居住していたと伝わる。
地元の農協倉庫の先の方にある畑が該当地であるらしく、道路脇にお馴染みの郷土史研究会による標柱が遺されていた。
休耕中のビニールハウス内にヒメオドリコソウの陰に隠れて可愛いネコさんが耳だけを出して隠れていた。


一盃館 (福島県北塩原村) 17時45分頃
「新編会津風土記」によれば、松本勘解由の家臣である一盃大輔が居住したとされている。
大分以前に地元郷土史研究会が設置した幾分傾きかけた標柱が耕地整理された畑の脇に遺されていたが、初めて訪れるものにとっては誠にありがたい存在なのであった。

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