本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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午前5時自宅発。
目的地は榛名山の東麓。
今回も群馬県渋川市内である。
ただし、市内西部地区には殆ど足を踏み入れてはいないので余り地理には詳しくはない。
加えて市街地内では道幅も狭く一方通行などの交通規制も少なくない。
合わせて駐車場所探し等のトラブルを避けるべく、市街地エリアのはずれに所在している工事中の市民会館の付属駐車場を起点として、やや無謀気味ではあるのだが全て徒歩で廻ってみた。
無論、近年劣化の著しい足回りの筋力低下の状況確認を行うためでもあるのだが。


◎小栗上野介関係の史跡
午前8時半頃

むろん城館跡との関わりは無いが、通りすがりなのでこうした史跡も見学しつつ、日差しが明るくなるのを待っていた。



◎旧信用組合の建物
午前8時35分頃

冬至が近いことから、未だ日差しが弱く時間調整しているついでに見学した昭和6年(1931)建築渋川信用組合の建物である。
その後北群馬信用金庫、公民館、商工会館などとして利用されたと説明版に記載されていた。
なお現在のものは曳家復元されたもので、建設当時には地下室も存在していたとのことである。

  昭和初期の近代建築物


渋川の寄居(群馬県渋川市)
午前9時00分から9時15分

別名を渋川城とも。
市街地に所在する小高い丘陵先端の浄土真宗正蓮寺の境内を中心とした一帯が城域とされている。
南西方向の丘陵続きを除いて、榛名山方面から流れ出す小流が刻んだ谷地形に囲まれた天然の要害地形を形成。
また同寺境内には城跡であることを示す石碑も所在している。

    境内の石碑

ただし現在城跡らしい遺構は南西側の民家敷地内となるのだが、僅かに南西方向の参道脇からチラリと眺めるのみである。
明確な堀跡(ないしは堀切)と土塁らしい地形の一部が遺されているように見受けられた。
画像右側の青色のプレートには「一時避難所 寄居地区」と記され、今でもその役割を担っているようでもあった。

    南側の遺構など

このあとは、そのまま徒歩にて西方の鐙山の砦方面へと向かった。
しかし途中で足に違和感を感じたことから、平沢川沿いの「親水公園」のような場所で暫しの間休憩した。

   平沢川沿いの小公園


鐙山の砦(群馬県渋川市)
午前10時30分から11時10分

渋川の寄居から鐙山の砦へは平沢川沿いに西へと進み、あじさい公園近くの舗装された林道を登って行った。
この辺りからどうも思うように足が前に進まない気がしたのだが、よく考えてみれば山麓から榛名山方向に向けて登っているのであった。

  鐙山方面の手前の丘陵

途中で永享年間の五輪塔が所在していたので休息を兼ねて暫し見学。

 永享6年の銘があるという

渋川の寄居からの移動距離は道程にして約2kmなのではあるが、いちおう比高差にして120m以上はあることから至極当たり前のことなのであった。

  まだ比高差60m付近

東西に走る農道を西へと向かっているので、否応なしに水沢山と思われる岩峰が目に入る。

東西方向に走る農道から水沢山

縄張図で著名なY氏の情報によると、南側の畑側から城跡の所在する山林に入ることが示されていたので、一応これに従ってみた。
高木の常緑樹地帯なのでもう少し藪が少ないと思ったが、この12月でもそこそこの藪である。
それでもどうにか城跡の南部に位置する堀跡へと到達した。
どうやら一番東側の郭の東端部分付近に出たらしい。

  南側から見た城跡の山林

しかし藪も多いが、高木の常緑樹が密生しているため殆ど太陽光が届かないのである。
この日はほぼ快晴に近い好天であるのだが、予想以上にかなり薄暗い環境であった。
イノシシの作物阻害も少なくなさそうであることから、できうることならば単独での突入は避けるべきなのだろうとも思った。

 南側堀跡の最も明るい個所

今までの経験上から色々な意味合いにおいて危険と隣り合わせ(俗にいえば「嫌な予感」のようなもの)という状況を感じさせる余りに陰惨な暗さであった。
このため、管理人としては珍しくデジカメ撮影もそこそこに、西側の土塁方向へと移動することとした。
城跡が所在する地形は、榛名山の東麓でもあることから西から東へと緩やかな傾斜がかかり、郭部分の削平も余り明確ではなく、どちらかといえば自然地形に横堀が施されているという印象が強いように感じた。

南北方向の土塁とこれに並行する堀跡も一応は確認できるのだが、何分にも藪が多いのに閉口した。

   出枡状土塁の個所

帰路は西側の高圧線鉄塔から、太陽光発電施設のフェンス沿いに南下して農道から退出したが、このルートは殆ど藪にも煩わされず、見通しも良く極めて安全、安心なルートであるといえよう。
逆に言えば現在の状態からは、寧ろ西側の高圧線鉄塔側から西へと進んで山林内に入ってゆくというルートが最も安全であるように感じたのであった。
ノイバラの類は多少散在はしているものの、12月から3月頃までの時期であれば余り問題にはならないものと思う。
また高圧線鉄塔が所在する地点からは、鉄塔の保守等が関連しているのか森林が切り開かれ入沢城方面の見通しに優れていることが分かった。

 画像中央付近が入沢城のはず

また折角訪れたついででもあることから、このあとこの地の豪族でもあった城跡北麓に所在する入沢氏墓地にも立寄ったので、さらに歩行距離は増えていくこととなった次第である。

   入沢氏祖先の墓所


この後12時10分から12時40分は「滝そば」にて昼食。
「野菜、舞茸てんもり」で、税込1100円であった。
単独行では、所要時間を節約すべく何時もは食事抜きが多い。
昼食を摂ったのは久しぶりのような気がする。
たぶん10年ぶり位なのかも知れず。
なお会計の際に柚子を2個頂いた。
薬味に使用されていた柚子を完食していたためなのだろうか。

ただしこの辺りから、履き替えたトレッキングの不具合が顕在化。
つまりは両足の第五指、第四指に明らかな痛みが発生。
足回りの痙攣対策は講じてはいたのだが、歩行中に足の幅が大きくなることを失念。
要は足裏のアーチ構造が年齢と共に形態が崩れ始め、結果的ににて足幅がワイドになってしまうのである。
などと、冷静に書いてはいるのだが、歩行中には幾度か「途中撤退」の四文字が脳裏をかすめていた。
しかし冷酷なことに、このあとその痛みはズキンズキンと頭に響き、刻々と度合いを増幅させていったのである。

 
行幸田城(群馬県渋川市)
13時50分から14時15分

ひとつ前の鐙山の砦からこちらへと向かうには、その地形上から榛名山方面から流れくだる幾本かの谷川を越えなければならない。
そうはいっても足の問題もあることから、一応榛名山中腹を南北方向に走る県道164号線を利用した車での移動も考えてみた。
近くまではアプローチできそうにも思えたのだが、基本的にそれほどの土地勘がないこともあり、路上駐車など駐車場所に難渋するのも避けたいことから、徒歩にて東側麓方向から大きく回り込むこととした。
このため、現地までの移動距離は道程にして約5kmとなるのだが、比高差は120mを下りさらに、120mを登るということとなった。

予めアプローチに関する情報は確認済みであったが、林道の分岐は分かりにくいので徒歩の方が間違いにくいようだ。

 市道から南側の林道へ入る


 この先の分岐を左(東)へ入る

林道沿いからはここも高圧線の鉄塔が見えるのでこれが大まかな城跡の目印である。
ただし真正面からの侵入はほぼ困難であった。

    鉄塔の東側は藪

林道から高圧線よりも少し手前の「上越幹線24」の標柱が設置された個所から、設備保守のために切り開かれた細道を辿ると藪の影響を受けずに鉄塔の個所に出られる。
少しだけ大回りなのだが、確実にアプローチできるルートである。
山崎一氏によれば、上記の鉄塔部分に食い違いの堀切を想定されているのだが、現在の地表部分から確認することは困難であった。

  東電の保守ルートを入る

鉄塔の周辺は草木も少ないのだが、その先の西側には「鐙山の砦」にも似た鬱蒼とした山林が目に入る。
城跡としての遺構が残存しているのは、正にその山林の中であることから、意を決して突入した。

    山林手前の藪

なお、一般には高木の常緑樹が所在すれば光合成の関係上から低木、アズマザサ等の藪は少ないし、草本類の繁殖も抑制されるというのが普通である。
かつ、北側方向ではそうした傾向が顕著となる・・・と植物の植生について僅かばかり知識があると役立つこともあるらしい。

このため無闇に山林部分に突入した訳ではなく、北側の崖線部に近い方面から切岸の斜面を滑り落ちないように注意しつつ西側の堀跡へと突入した。
すると山林手前部分の藪は消失し、「鐙山の砦」よりも見通し自体はそれほどには悪くは無いということが判明した。
尤も、あくまでも遺構の北側部分がそうなのであって、日当たりのよい疎林部分については、当然のことながら藪が濃い状況であった。
 
  いちおう堀跡である
 
 
    東側土塁上から


     土塁部分

堀幅は少なくとも6m以上はありそうで、土塁側の切岸部の高さも3m程はありそうに思えた。このため上記画像の土塁内側(東側)の方が主郭部であるようにも思える。
なお、見学中に遺構の南部方向から、恐らくは哺乳類と思われる落ち葉を踏みしめる物音を耳にした。
この時とばかりにクマ除け用の笛を鳴らすと、それ以上物音が接近してくるような気配は感じられなかった。

   頸椎付の動物の白骨

このような具合で、踏査できたのは概ね北側部分についてのみであり、物音が聞こえた藪の酷い部分については未踏査となったのである。
北側部分に関しては下記の画像のように、それほど見通しは悪くは無いように思えたのであった。
 
    北側の切岸部分


   城域の東端部付近


   南側の腰郭付近


   逆光で撮影した土塁


     赤城山

復路はただひたすらに下ってゆくのだが、終始その視界には赤城山の雄姿が望まれた。
足元はかなりの疲労と痛みを伴ってはいたが、お陰様でこの日も天候に恵まれ有意義な一日を過ごすことができたことに感謝。


冬至も近いので早めに山を下り、15時過ぎには駐車場所に到着。
そのあとは、渋川市立図書館に立寄り、15時30分から参考図書室にて7冊分186枚分の複写申請。
3人がかりとなった複写作業で、コピー受領までの所要時間は約2時間。
閉館間際までお世話になり、ここに深謝を申し上げます。
次に、近くの正林堂書店にて「みやま文庫」から2点を購入し、18時前には渋川市を立った。なお、この時点で両足の痛みは頂点に達しており、股関節の痛みとも相俟ってその歩幅は約30cmにまで減衰していた。
どうもこういう足の痛みは「休息」により「急速」に激化するらしい。

今年に限っても渋川方面を訪れるのは、もう何回目だか分からなくなっている。

とはいえ、何時も眺めているだけの榛名山東麓に赴いたのは、城跡巡りでに限れば初めてなのかも知れない。
西側を眺めると水沢山などの岩峰が目立つ。
東へと目をやれば、その視界には赤城山が広がる。
北を目を移すと、子持山と小野小山が目に入る。

たぶん今季は積雪期を除いて、暫くはこうして通うことになるような気がする。
渋川市内であると自宅からは片道の所要時間は約3時間ほと。
往復距離は約190kmほどで、このため往復にして6時間足らずの運転時間に過ぎない。
新田氏関連の遺構の多い、太田市内と比較すると約70kmほどは遠くはなるが、日帰りで赴くには伊勢崎、前橋方面と共に行きやすいものを感じている。


なお今回は履き替えてきたトレッキングシューズの幅が合わず足先に激痛。
グリップは効くのだが、できることならば激痛は避けたい。
もっとも二万七千歩ほど歩いているという影響もあるのではあるが。

歩きはじめに左膝にいくぶん違和感があったが、これはゼムストの強力サポーターでカバー。
それよりも、ことによると右股関節がそろそろ危ないという感触も出始めている。
事実、3年ほど前から右足の付け根に痛みが出てきている。
また、足を大きく上げること自体も徐々にではあるのだが次第に難しくなってきていることを感じている。

尤も常識的に考えれば、健康寿命でいえばあと約3年であるので当然なのかも知れない。
しかしある程度は動かねば、さらに足回りの筋力低下は進むのみてあるのは自明である。
そのあたりの兼合いが難しくなってきているようだ。

拍手[3回]

本日も長年の城友さんと城跡巡り。
午前5時集合で、目的地は群馬県北部の高山村方面。
当日も含めこの冬一番の寒波が襲来中。
降雪および気温の低下などが懸念されたが、現地では思いのほかの好天に恵まれた。
尤も県境の稜線部では降雪していたので、紙一重の幸運でもあったようだ。


仁井谷城(群馬県渋川市)
昨年11月以来の再訪
午前7時45分から7時55分

総じて遺構は事実上消滅に近いものがあるのだが、北側の堀跡及び土塁の痕跡と目される畑の段差等が確認できる。
初冬の早朝のため、かなり青味のかかった画像となっている。

    残滓だろうか


新城砦(群馬県中之条町)
今年の4月に続く再訪である。

今夏の台風などの自然災害の影響なのだろうか、以前には辛うじて存在していた丸太造りの櫓は既に取り壊されていた。

     模擬櫓跡

「城館跡」であるのかどうかについては評価は分かれているらしい。
岩井堂方面の城館跡との関係が不明でもあり、個人的には桑畑などの耕作地に伴う地形という印象を持っているのだが。


横尾八幡城(群馬県中之条町)
今年11月に続く再訪である。
8時55分から9時15分頃まで

僅か1月足らずの違いではあるが、主郭部の藪が大分見やすくなっていた。
このため主郭北側の土塁上からは東側虎口の位置、形状も明確に視認できた。
降雪・路面凍結などに配慮すれば、やはり厳冬期の訪問がベストであるようだ。

主郭部の藪は幾分緩和している


並木城(群馬県高山村)
同じく今年11月につづく再訪。
9時35分から10時10分頃まで


以前と同じような画像であった

尻高城の平時の居館である里城とされている。


尻高城(群馬県高山村)
同じく今年11月につづく再訪。
10時15分から12時40分

2度目の再訪なのだが、相変わらず途中2か所の斜面では枯葉が滑りやすく、その登攀と下降には相当の困難が伴うことを痛感した。
やはり以前にもまして足取りは重くなっているようだ。
今回も幸い天候に恵まれたが、降雨時、降雪時、強風時などの来訪には注意が必要なようだ。
しかし、今回も息切れと、足回りの劣化を思い知ることとなった。
たぶん3回目の来訪は無さそうに思われる。

やはり枯葉が滑りやすいようだ

この日も遠く浅間山方面まで一望でき、疲れた足回りが癒された。

    浅間山方面


役原城(群馬県高山村)
今年11月に続く再訪。
13時00分から13時25分

2度目なのであるが、初っ端から、ついい西側の尾根筋先端部に向かってしまった。
他の方のネット情報でも、しばしば誤認されているようだ。
この集落の標高は610m以上はあるようで、昨日の小雪の形跡が城跡北東部の日陰に残存していた。

    北東部の降雪跡


中山城(群馬県高山村)
昨年11月以来の再訪
13時40分から14時50分

管理人の不手際により、現地到着が些か遅延して西日が傾き始め、だいぶ陰影の濃すぎる画像となってしまった。

この時期の撮影は正午頃までか

それでも相変わらず、主郭をとりまく横堀のスケールに圧倒される。

    主郭北部の横堀

なお、この1年の間に主郭北西部の小郭付近で竹木の刈り払いが行われたようで、当該部分については地表観察が格段容易となっていた。
地権者と関係者の皆様方に感謝 <(_ _)>

  主郭北西部の小郭付近


丸屋敷(群馬県高山村)
概ね15時頃

「道の駅中山盆地」の高台から俯瞰したのみで終了。
県道の整備、河川流路改修などに伴い、周辺の環境は激変している。
同道の駅から子持山方面を撮影すれば、半ば自動的にこの「丸屋敷」についても撮影されているはずである。

  画像中央部やや左付近か

古中山城を支配した中山氏一族の平地の居館と考えられているらしいが、その距離は直線で約1.5kmと離れており、いまひとつその関係性については不明な部分が多いように思われる。
この辺りでは、当該盆地の支配に関連してほかに「道の駅中山盆地」の丘陵地帯と、中山神社の存する低丘陵が気にかかるのである。



かくてこの日は合計8か所を探訪。
より正確には水増し3件は正直否めないところではある (^^ゞ
それでも山城とそれに準じた城跡を3か所は回遊した。
以前には確認できなかった遺構観察も叶った。

この年になると体は日々衰えてくるのを痛感。

「明日はない 気力 体力 記憶力」
昨日できたことが、今日はできない。
今日できたことが、明日はできない。
と、こんな塩梅である。
このためできそうと思われたときに実行は必須らしい。

毎度足手まといとなる管理人であるにも拘らず、快くご同行いただいた軍曹さんに感謝 <(_ _)>

拍手[2回]

午前4時10分自宅発。
走行ルートはいつも通り上武道路を経由した。

現地到着時刻午前8時10分
この日は、軍曹殿とともに利根川東岸の城跡を巡った。


棚下の砦(群馬県渋川市)
午前8時20分から午前8時55分

春に訪れた時には、ものの見事に所在地を外した。
しかし今度はこれに続く再訪であるので、全く問題なく現地へと直行できた。
利根川の断崖越しに見える子持山の雄姿は相も変わらず見事の一言に尽きた。

 「棚下の砦西端から子持山」


長井坂城(群馬県渋川市、昭和村)
午前9時10分から9時55分

前回の1年前に訪れた折には、ついつい主郭東側の土塁上を歩くという楽しさに心を奪われて、主郭枡形が明確に撮影できずにいたことが心残りであった。
果たして今回はどうなのであったのだろうか。

  「長井坂城の主郭枡形」


阿阻城(群馬県昭和村)
午前10時25分から10時50分

この城跡は、長井坂城を始めとした棚下の砦などの城館群と比べて、余りにもあっけらかんという印象で整備されているので、ある意味で期待を裏切るようだ。
無論城跡には二重堀の一部と郭跡も残存しており、何よりも見晴らしがよく子持山。武尊山などの名峰の眺望が優れている。

 「阿阻城の外堀と子持山」

駐車場も整備され城跡標柱、石碑、解説版も完備している。
しかし、平日ということもあるのか、今回も他に訪れてくる人影を目にすることは無かった。


◎加藤丹後守腹切石(群馬県昭和村)
11時40分頃

今回も森下城への途中に所在していることから立ち寄った。
民家脇に所在しているが、今回は車庫スペースの車がなかったこともあり撮影しやすかったように思われた。


森下城(群馬県昭和村)
11時55分から12時00分

この夏の台風の影響だろうか、解説版が以前よりも更に大きく傾きはじめていた。


猫の寄居(群馬県渋川市)
12時50分頃

敷島駅前の荒井商店で「まんじゅう」を購入する関係でついでに立ち寄った。


猫城(群馬県渋川市)
13時10分から13時50分

再訪なので、主に要所のみを確認。
西郭群の一部に残存している土塁遺構を再確認した。
このため所要時間は移動時間を含めても僅か30分であった。
アプローチの鞍部での藪が増えたようにも感じた。
加えて台風の影響と思われる倒木が目立っているようにも思えた。

   「西郭の土塁」

時刻は未だ午後2時前ではあったが、そこそこしっかりと探訪できたこともあり、本日の打ち止めに。


1年前の同時期や半年前の春に比べて、総じて台風被害の倒木が目立っていたように思う。
また何れの個所も再訪地ではあるが、やはり相変わらず見落としが多いことを痛感した。
足元の方は二重、三重の備えを講じたこともあり、今回もおおむね支障はなかったように感じる。

長時間にわたりナビ&ご同行をいただいた軍曹殿に深謝申し上げます <(_ _)>

注記
再訪の翌日から私事が忙しく、このブログは12月1日に記述しております。

 

拍手[2回]

いつものように午前4時半自宅発。
午前8時半に羽田城の麓付近に到着。
ここまでタイムスケジュールは当初の予定通りに進行していた。
しかし、山間の地域でのこの時刻の光線の加減は未だ弱いため、デジカメ画像が荒れ気味となった。
この時期ではデジカメでの撮影は、早くとも午前9時以降の方が良さそうだ。



羽田城(群馬県東吾妻町)
午前8時30分から午前10時10分

やはり主郭の北西角部分の堀切と横堀が交差する辺りの景観は相変わらず見事である。

   主郭北側の堀切


主郭部北側の堀切の傾斜も急であり、ストック無ではやや厳しいものがある。
その反面南側の横堀では半年前に比して更に笹が伸び始めており、些か踏査がし辛くはなっていた。
むろん私有地であることを考えれば、立入等の制限が為されていないだけでも有難いというべきなのであろう。

前回は、東側の横堀は主郭部から俯瞰したのみに留まっていたが、今回は途中まで直接踏査したが、南東部の竹藪は更に見通しが効きにくくなっているように感じられた。
再訪なので、探訪のタイム・スケジュールは幾分前倒しに。

なお帰路は予定通りに地元の農園に立寄り林檎を購入し、吾妻川に架かる万年橋の南側から岩櫃山の絶景を鑑賞した。

      岩櫃山 
たぶん夕日の方が陰影が上手く表現できるのかも知れない・・・


岩下城(群馬県東吾妻町)
午前11時10分から12時30分

東郭群の三重堀切は健在だが、藪はいくぶん成長しているようにも思えた。
半年前は概ね尾根筋をそのまま進んでいくことが可能だったのだが、東側斜面への迂回行動を余儀なくされた。
東西の郭群を隔てている大堀切も健在なのだが、真横から撮影すると当該規模が大きすぎて画面に収まりきれない。

     大堀切

また、西郭への斜行ルートも相変わらず崩れやすい。
それでも半ば無名に近いことから、この半年間に100人は訪れてはいないらしくどうにか歩くことはできる程度の荒れ方であった。

西郭の腰郭ではニホンカモシカの幼体に出会った。
こちらが少し近づくと、少し移動する。
なかなか彼我の距離は縮まることなく、北側の谷筋へとその姿を消した。
なお帰路は、自分の車の屋根が見えたので、東郭群の腰郭から直接小走り気味に駆け下りてみた。
また同じようなことを考えた方もおいでらしく、僅かながら踏み跡も残されていた。
下方に林道が所在し、かつ深い谷筋はなく比高差も約50mほどであるので、イノシシ罠などに留意すれば、問題が無いようだ。
むろんあくまでも自己責任には違いないのだが。
今回は自分の足回りの養生は万全の対策を講じてきたつもりなので、多少の負荷については特に問題なさそうな感触を得たのであった。

なお、この城に関してはほぼ道は無いのだが、いちおう踏み跡はあるので国土地理院などの地形図と当該縄張図くらいは必携するべきであろう。
むろんクマ除け対策もそれなりに。

ここでもタイムスケジュールが繰り上がり、昼食時間に余裕を持たせることが可能となった。
八ツ場ダムの東方に所在する「道の駅吾妻峡」にて、暫時昼食。

 
稲荷城(群馬県東吾妻町)
13時50分から14時50分

あくまでも気のせいなのかもしれないが、4月頃よりも幾分主郭部付近の雑草類が目立ったように思われた。
他方、西側に隣接した方形の郭群の方は下草となる笹などが刈り取られており、とても歩きやすく感じられた。
地権者の皆様方に感謝。

ここも再訪なのだが、明らかに主郭部の普請のレベルと西側郭群との差異は歴然としていた。
築城主体の相違若しくは、普請された年代の相違であるのであろうか。

   主郭土塁上から虎口

この時期の日の傾きは予想以上のスピードのようで、午後3時を過ぎるとデジカメ撮影には不向きとなり、やはり早めの撤収が正解であった。

 
本日訪れたのは全て東吾妻町で、今年の4月に続く再訪であり、余り著名であるとは言い難いが、その何れもが一定の遺構が現存し、かつ城址標柱や解説版などの類は未設置である。

なおこの日は「みかづきぼり」さんにご同行願った。
一人の場合には、近年は余り再訪はしていないというか再訪する機会がない。
再訪して初めて分かる部分もあり、むろん見落としや勘違いなども正すことができる。
以上、いちおう山城3か所ではあるが、実際の累計比高差は150m未満なので、最近衰えの目立つ足回りでも未だ何とか対処できているようだ。

早朝からの遠征にもかかわらず、ナビ&長時間にわたりお付き合いいただいた「みかづきぼり」さんに深謝申し上げます。

拍手[3回]

今月11日の新潟遠征では、尾根道の些細なアップダウンの繰り返しで近年の体力低下を露呈してしまった。
両足の太腿が痙攣するというのは、全く初めての経験であり、ご同行いただいた皆様方には、ただただ足手まといとなり誠に申し訳ない失態でありました。
 
そうしたこともあり、現在における体力・気力の状態を検証すべく、今年の春先に行きそびれた山城へと向かうこととした。
とはいえ、それほど遠方に出向くのは厳しいので、ある程度はその様子が分かる地域となった。

この日は自宅を午前4時30分に出発。
いつも通り国道254線から407号線へと入り、熊谷からは今年だけでも数回は往復している上武道路経由で渋川へと向かい、17号線を北上して353号線長野街道を中之条町へとひた走った。
途中2度ほどトイレ休憩などを挟んだが、概ね午前8時前には最初の目的地の麓へと到達した。


横尾八幡城(群馬県中之条町)
午前8時00分から8時50分

◎城跡へのアプローチ
中之条町から国道145号線を北西に進んだ。
横尾交差点で左折して県道231号線を北東に約500mほど進んだところに城跡への登り口が所在している。
一般にはこの栃瀬集落南西の林道から向かう方も多いようである。
しかし、ここからは城跡までそのまま車で行けるかどうか、駐車スペースの存在を含めて微妙であった。

そこで少々遠回りなのではあるが、確実に駐車できそうなさらに400m先にある城跡北東の林道入り口へと向かってみることにした。
結果的にこの林道入口には軽ならば2台ほどは停められそうなスペースもある。
また、城跡の解説版も設置されていることもあるので寧ろ分かり易いようにも思えた。
こうして、まずは起点は確保することができた。

   城跡北東部の登り口

次にこの地点に戻ることも選択肢に入れつつ、試に直接城跡近くまで車でアプローチしてみた。
林道は100mほど走ると途中で二差路となるが、無論ここは城跡の方向である左へと進んでゆく。
林道は舗装済みでなのではあるのだが、落ち葉が降り積もっていることからタイヤが滑り易いので注意が必要だろう。
小さな谷筋を渡ると再び二差路の分岐に出る。
ここを左に進んで城跡の西側へと到着した。
起点からは僅か約400mほどの距離に過ぎないのであった。

事前情報通りとくに見学者用の駐車スペースは無いが、短時間ならば林道脇に寄せるなどをすれば駐車は可能な様子であった。
むろん林道自体の道幅が狭いこともあり、3ナンバーでは迷惑の度合いも大きく、あくまでも「軽ならば可であるのかも知れない」というところであるのだろう。
栃瀬集落南西の林道も反対側から登ってくるので同じ場所に出る。
道路の傾斜や路面状況を勘案すると、やはり北東側からアプローチする方が問題が少なそうに思われた。

   北東方からの遠景

◎見学と感想
やはり事前の情報通り、主郭付近はすでに落葉の季節ではあったのだがヤブが酷かった。
主郭部の東屋と標柱付近については、ある程度下草を刈り取っているという形跡は感じられたのだが、全般的に通しが良くないのが残念であった。
主郭東側はノイバラの類が群生中で、東側虎口を視認したところでそれ以上の前身は断念することとなった。
主郭部の土塁も一応現存しているが、土塁上とその周辺にもヤブが多く視界が遮られていた。
腰郭と思われる部分には地元の墓地が散在しており、見学にはあくまでも失礼の無いように心掛けねばならない。
有名な真田氏による築城説もあり、町指定史跡でもあるのだが、諸般の事情により史跡としての整備は十分では無いように感じた。
「草刈りボランティア」の募集でもあれば喜んで参加したいとさえ思った。
ここで早朝に購入しておいた朝食代わりのサンドウィッチを給水を摂りつつ腹におさめた。

さて、中世の沼田街道はこの城跡の北部を通っていたという説があるらしい。
もしそうであるとするならば、主郭部が土塁や腰郭などによりぐるりと囲繞されてはいるが、それほど防御性が高いという印象は感じられなかった。
北側の土塁を含む切岸の高さは最も高い部分でも3m強を測るのみであったが、東側になるに従い高さを減じていた。
さらに南側に至っては土塁の高さ1m前後を測るに過ぎなかった。

もちろん経年劣化や土地利用などにより、そうした遺構の規模が減じられていることを考慮に入れても、天正17年の戦いで尻高氏を含む真田勢が、数に優ると考えられる後北条氏の軍勢を援軍とともに撃退したとは俄かには信じがたいものを感じたというのが正直な感想である。
そうした歴史的経緯のある城跡であるとすると、その遺構の現状からは縄張の規模の小ささと防御の脆弱性については疑問の余地があるように思えたのであった。

なお枡形が所在するという部分は、識者により見解が分かれているようである。
地元の研究者である飯森氏が指していると推定される個所はアズマザサなどが繁殖し地表観察はほぼ困難であった。(「ぐんまの城30選」)
宮坂氏の指している枡形は土塁により曲折した通路を形成してはいるが、後世の地形改変の影響も少なくないのか、残存している土塁自体の規模が些か貧弱であるようにも思われて、その防御性にさえも疑問を感じてしまったのであった。

     主郭部

この城に関しては「在番衆」に関する古文書(八幡山番帳)が伝わっていおり、吾妻地衆による各組30名ほどの在番が2組交互で在城していたとされている。
危急存亡の臨戦態勢下においても、そう多人数が籠ることのできる規模ではなく、短期間であったとしても100名ほどが上限であるように感じた。
あくまでも沼田へ通じる街道監視のための役割に限定された城塞であったのかも知れない。

 北側から眺めた榛名山方面


並木城(群馬県高山村)
午前9時25分から10時00分

国道145号線に戻り東方の尻高元宿集落に向かった。
泉龍寺の高野槇への案内標柱が設置されている個所に「尻高城」に関する解説版も併設されていた。
並木城は山上の狭義の尻高城の里城というように解されているらしい。
もしも足回りに余り自信が無ければ、この解説版と並木城の標柱などを撮影して次の目的地へと移動するという選択肢も無くは無いとも思う。

現地の案内板などでは並木城と表記されているが、別名を戸室城ともいい、諸書によると白井長尾氏から分かれたといわれている尻高氏の本拠地であるとされている。

並木城の案内板は北の泉龍寺へと向かう緩やかな上り坂の道路右端に設置されている。
並木城跡の標柱と解説版は、そこから少し離れた直線で南東約100mの地点に所在しており、その所在の探索に少々手間取ってしまったのだが、少しうろうろと歩き回るか、おいでになる地元の方にお聞きすれば多分分かるとは思った。

   城跡標柱と解説版

因みにこの里城が所在している元宿の集落からは直接尻高城の主郭までは直線にして約1.2km、比高差にして約250m前後はあるらしいので、できるだけ麓近くまでアプローチができることを祈った。
なお当該地点からは尻高城の尾根筋は概ね視野に捉えることができていると思われた。

   尻高城方面の遠景


 城跡中心付近の土塁状の地形
 
 
           城跡を北側から

 
尻高城(群馬県高山村)
午前10時20分から午後12時30分
昼食午前11時40分から11時50分
(コンビニで購入したオニギリ1個と水分補給)

どうにか城跡山麓の南側まで車でアプローチできたことから、お蔭で主郭部までの比高差は約170m程度まで圧縮ができた。
しかし、尻高城自体はそのルートにある程度の急斜面が含まれている山城である。
先日の日曜日に発症した太腿の痙攣のような状態だけは何としても避けねばならない。

もし仮に上りで発症した場合には、即刻退散することも事前に選択肢として脳裏に刻んでいた。
この程度の山城でアウトならば、年齢的にももう今後は山城探訪とは縁遠くなるのであろうことも念頭に置いていた。
むろん事前の対策として、所要か所に複数のテーピング、両膝保護にもサポーター装着、歩きはじめの前に筋肉の違和感の有無をチェックした。
いわば背水の陣であった。

さてルートは途中2か所で急斜面が所在していたが、やや新しめのロープが設置されていたことからそれほど難は無く登ることができた。

   有難い岩場のロープ

一方心肺機能の方は時間をかけてゆっくりと登って行ったことから余り問題は無かった。
けれども多少の急斜面があるとはいえ、わずか比高差約170mを1時間20分も要していることから、比高差300mを約1時間前後で登っていた50年前の昔をいたく懐かしく感じていた。
若い元気な方ならばたぶん40分前後で登ることができるのかも知れない。

一方下山の方は滑らないように注意は必要だが、概ね40分ほどを要すだけにとどまった。
これもお若い元気な方ならば多分所要時間は30分少々なのだろう。
下りの基本はは両膝のバネを利かして降りるのだが、最早自分の膝にはバネは喪失しているらしく、携行しているストックを頼りに枯葉で滑落しないように用心深く歩く以外にはなかった。

10年以上前に秩父地方の山城に出かけた際には、お遍路にも利用されている穏やかな下山路を大股で走って降りてきたことをふと思い出した。
あの時分は登りは苦手だったが、未だ下りの方は割と早かったようだ。
今は、ゆっくりと、転ばぬように、滑らぬように、怪我をせず、何をおいてもとにかく無事に帰るということが最優先となってきている。

さて、遺構の方は明確な堀切が2か所のほか削平された郭が稜線部と中腹に数か所ばかり存在しているが、虎口、土塁の形跡は確認できなかった。

    主郭近くの石祠

かりに定説通りに築城された時期が15世紀の初め頃とすれば、この山城についてはその後の大掛かりな改修などは行われず、実際には戦時などにも余り活用されることなく、むしろ消極的に存続していたということも考えられるのではないのだろうかとも思った。

    中腹の堀切地形

それでも、稜線部は滞在には適さないと思われる一方で、南斜面の中腹部には小屋掛けできそうな削平地も存在している。
かりに戦いの場があったとすれば、それはそうした中腹部と里城をめぐる争奪であったような気さえしてきた。
尤も、急斜面のルートは確かに余人を近づけないものを感じるので、いざという時の籠城にはそれなりに効力を発揮するのかも知れないとも思うのだか。

 主郭と東の郭を隔てる堀切

尻高氏の領地は「尻高」「大塚」「平」「赤坂」「市城」の範囲であるともいわれている。
これらの集落の生産高は近世初期の寛文検地では約4500石を越えているのだが、有名な沼田城主真田氏の改易事件の後には約2300石ほどに減じられている。(「角川地名大辞典」より)
一般的に石高1000石に付30人程度の軍役が可能であるとすれば、単純計算では凡そ60人強程度の軍役負担となる。
白井長尾氏の一族とはいえ、あくまでもその庶流である尻高氏一族の勢力を糾合したとしても、その支配地の範囲から招集する限りでは、おそらくは100名前後の将兵を掻き集めるのが限度ではなかったのだろうか。

   西方の浅間山方面


役原城(群馬県高山村)
13時00分から13時20分

役原地区住民センターに車を停めさせていただき、時計回りに集落内の道路を歩いてみた。
城址標柱と解説版は、先ほどのセンターから北に約120mほどの道路沿い右側(東側)に所在していた。
群馬県内でもほぼ無名に近いような城館跡であるようだが、所在地に関して迷うことも無く、かつ不審者と思われる可能性も減るので、こうした配慮は大変ありがたいものである。

西側の道路を歩いている限りでは分かりにくいのだが、北側から東側へと回り込んでいくと台地地形の辺縁部を確認できる。

   北東側から撮影

「現地解説版」などによると尻高氏一族の城館と考えられているが、並木城との関係がよく分からないが、尻高重儀の隠居城である旨が記されていた。

  現地解説版と城跡の標柱

山城である尻高城からは東に直線で2kmほど離れており、その間には名久田川支流である赤狩川が流れ深い谷筋が形成され両地域を隔てているが、高地に所在してはいるものの半ば平城に近く、それほど防御性が高いという地形ではない。
隠居城ということもあり、居住性等に重点を置き、余り要害性に拘泥する必要が無かったのかも知れない。


沼田街道を中之条町から東へと移動したが、結果的に本日巡った4か所の城館は全て尻高氏に関連するものであった。
この時点で未だ時刻は午後2時前であったが、「道の駅中山盆地」に立寄り地場産の物産(林檎と田舎饅頭)を購入し、三国街道経由でショートカットして渋川市へと向かい再び上武道路経由で帰宅した。
帰路に渋川市の図書館に立寄るという選択肢も考えていたが、夕方の道路混雑などを勘案し明るい時間帯で早めの帰宅を選択した。
帰路はある程度の渋滞を予測していたが、途中の上武道路が首都高速以上に早く走行できることもあり、途中トイレ休憩を入れたにもかかわらず今回も4時間足らずで自宅に到着した。
一般道走行で往復約7時間半、走行距離は約300kmほどであった。

追記
このブログはサーバー動作不良のため11月17日に記述しています。

 

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