本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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この日は気合を入れ午前3時前に自宅を出た。
午前4時には既に上武道路を走行していた。
しかし気合とは裏腹に、その後の探訪の前半は波乱に満ちたものとなることは当人も予想せず。

東の空が漸くほんの少し闇が薄れ始めたのは午前4時半過ぎ頃。
その後も車は順調にスイスイと進んでゆく。
これだけ早い時間であると渋川市内まで来ても通勤などの車も少ない。

今回は上武道路から続く国道17号バイパスを中村交差点で左折。
県道35号線を利用して少し前にも訪れている山田地区へと向かった。
ここでも早朝ということもあり、通行している車は少ないのだが、国道に比べるとやや急カーブが多いかも知れない。

進行方向に遠望できると思われた「高野平城」、しかしその位置がよく分からない。
あとで、国土地理院の3Dを確認してみよう。

このため途中トイレ休憩を挟んだものの、現地には午前5時40分頃に到着した。
現地到着後、未だ太陽の位置が低いこともあり林道入り口近くの吾妻神社ほかを参詣して時間調整。
この時の参拝した祈りが通じたのか(功を奏した、あるいは利益の有無)どうかは今もって不明であるのだが・・・


高野平城(群馬県東吾妻町、中之条町)
10時20分から11時40分
標高737m、比高差約120m(南麓の林道部分から)

宮坂氏は牧場側から登られたようなのだが、できるだけ比高差を圧縮すべく儀一さん、余湖さんなどのネット情報を参考にさせていただいた。
駐車場所はこれもネット情報を頼りに路傍に余裕のある林道の山側を選んだ。
と、書いていると如何にも順調に探訪ができたような表現である。
しかし実のところここに至るまでは朝の6時過ぎから約4時間ほどの格闘があったのだが、これについては余りにも「お間抜け」であったことから反省を含めて別記する。

諸先輩方はそのまま城跡南部の斜面に向かって行かれているようだが、こちらは古稀前でもある些か草臥れた年代でもあるので、数十メートルほど西側に所在している鞍部を目指すこととした。
何と言っても先ほどまでその更に西側の山中を彷徨していたので、漸くにしてこの辺りの地形が頭と体により理解できてきたらしい。

ところで林道から鞍部までは比高差にして約50m前後、直線距離にして約120mである。
従って、その平均斜度は25度未満で仮に多少足場に難があったとしてもその上り下りは容易である。
また鞍部から東へと向かう上りでも、平均斜度は30度に満たないので岩場などが所在していたとしてもリスクはより軽減されるはずである。
一方城跡の南部を直登した場合には、比高差約120m、直線距離約150mである。
このため当該平均斜度は40度弱となり、しかも上に行くほどに斜度がきつくなると思われる。
このようなことから、その所要時間は別としても転倒や滑落のリスクを天秤にかければ前者の方が遥かに安全で体への負担もより軽減される・・・などと手持ちの資料などから現地で計算しているのだからかなりの暇人ではあるのだろう。

と、先ほどまでとは打って変わった万全に近い情報把握。
西側の鞍部へのアプローチは正解で、イノシシ駆除の罠が設置されている旨の表示がでていたので、茂みではストックで確認しつつ比較的視界の開けた緩斜面を上がり中腹の作業道へと出た。
折角なので途中この道を西へと歩き、当該鞍部がすぐ上に見えていることから多少クマザサなどが茂る斜面を九十九折に登攀し鞍部へと到着した。
尾根筋には以前にはある程度利用されていた山道が所在しているが、現在ではクマザサが茂り見通しは良くない。
特に西方の薬師岳から続く方面は全く人の通った形跡が確認できない。
薬師岳の山岳ルートは吾妻山からの往復ルートであるようだ。
こうした状況を見る限りではやはり、少なくとも薬師岳からこちらへと向かうルートは相当なリスクが潜んでいそうなことが理解できた。
なんといっても平均予想斜度が40度前後という急斜面は、仮に岩場の存在も考慮すれば論外なのであろう。
いずれにしても先ほどの中腹に設置されている作業道と同様にレアな山岳ルートとしても近年ではあまり利用されるというようなことは無くなってきているらしい。

尤も城跡へと向かう東側の道は、多少の斜度こそあるものの木の枝などにしがみつく必要もなくそこそこの見通しもありその登攀は快適でさえあった。
急斜面の中腹には尾根筋を通過しない巻き道の跡も見られるが、これは後世の山仕事などの便宜によるものと考えられる。
城跡へは二、三段ほどの小規模な腰郭を経て西端部の郭跡へと続いている。
実にあっけのないほどの西側尾根筋の防御ではある。
長年の風雪に耐えたことも影響しているのか、全体として郭切岸や主郭の土塁も低く堀切もさほどは深くない。
東側と南側を意識した縄張であり、急斜面を伴う北側と薬師岳から続く長大な難路のある西側の防備は薄い。

  東端の郭から主郭と堀切
 
復路は車を停めた場所の問題もありテープでマーキングした同じルートをそのまま戻った。
この時点で既に両足の脱力感は極限に。
そのまま帰宅への道を辿るという選択肢も脳裏に浮かんだ。
しかし通りすがりに立寄る程度ならばもう少しは動けそうに思われたので、あとはその時の成り行きにまかせることとした。


〇大戸関所ほか
(群馬県東吾妻町)
12時20分から12時40分

大戸資料館付近に駐車ができる場所を探したのだが、先客もあり結局駐車できる場所が見つからず集落外れの水田に面した崖下付近に停めさせていただいた。
あくまでも観光地としての観光用施設であることから、正にそれなりのものではあったのだが・・・

  大戸関所(想像復元)


大戸平城(おおどひらじょう、群馬県東吾妻町)
13時00分から13時30分
標高約540m、比高差約35mほど

大戸関所からは徒歩にして10分足らずである。
北東の集落内を通り製材所の脇を抜けてお邪魔した。
標高は高いが形式的には所謂丘城に近いものがある。
以前には存在していたのかも知れないが土塁部分は確認できない。
4か所ほどの郭群、切岸、虎口、堀切などから構成されている。
宮坂氏の図面で示されている郭2と3の切岸部分が最も城跡らしい景観であった。
麓の一部は耕作地化され竹林も少なくは無いが、最南端の郭部分を除いて所有者の方のご理解もあるらしく、ひととおりは歩いて回れるようになっていたことは誠に有難かった。
また、手作りの城跡表示についても嬉しかった。

大戸平城二の丸と背後の大戸城


萩生城(はぎゅうじょう、群馬県東吾妻町)
14時00分から14時20分
標高約650m、比高差約20m(南麓の境野集落より、ただし国道406号線からは約40mを測る)

萩生地区にある境野集落北側の丘陵が城跡である。
南東の宝篋印塔の祀られた個所から細道を進んだ。
この宝篋印塔近くに所在している縦長土塁の役割については、全体の縄張の中でよく分からない存在であるように感じた。
丘陵頂部に所在していることから構成の害獣除けでは無さそうに思うのだか。
南側の耕作地を開墾するために切土するとしても、寧ろ全体を削平した方が作業としては簡単である。
このあとは主郭手前辺りまで行き内堀でもあるアズマザサの密生している横堀の存在を確認。
主郭部は耕作地でもあることから、結局は外側からのみ拝見することとなった。

  萩生城の遠景(南から)

今年は標高650mの地点でも例年に比べて下草の成長が早いらしい。
矢張り山城探訪の季節もそろそろ閉幕を迎えているようだ。


この後は国道406号線沿いの戸田書店へと立ち寄り、版元である「みやま文庫」では品切れとなっていた「上野の戦国地侍」ほかを購入した。
むろん公立図書館で複写しても良いのだが、後々の整理作業などを考えると現物の書籍の方が遥かに使い勝手が良いことだけは間違いがない。
1月後半から3月まで頭痛に悩まされて殆ど未稼働であった。
3月末から伊勢崎方面を手始めに体調などを確認しつつ今月の4月は延べ6日の稼働となった。
昨年11月は2度の遠征もあったので延べ9日も稼働していたが、関東近県で延べ6日稼動は久しぶりであるような気がする。

この後からの連休中は混雑するので先ずは暫時休養態勢に。
連休明けからは梅雨が始まる前までは北へと向かうか、関東近県の平地(遺構の無さそうな場所)を彷徨するか・・・
「県別マップル」にマーキングしつつ、いろいろと思案するのも悪くは無いとも思う。

拍手[4回]

今回も群馬県内を探訪。
ここ何度かの往復で気にかかっていた岩井堂付近に立寄り、その後東吾妻町方面へと向かう予定。
 もはやルーチンのごとく早朝午前4時半に自宅出発。
1か月足らずの間に日の出の時刻もどんどん早くなり、早くも午前5時前には東の空に日の出の予兆有。
今回も何時ものごとく上武道路を北上。
暫時早朝からの春霞により眺望皆無。
それでも太陽が昇るに従って春霞は消失。
その後何時ものように渋川の「道の駅こもち」でトイレ休憩。


 
岩井堂の砦(群馬県渋川市)
午前7時20分から8時25分
標高459m、比高差約150m

今回は前回も立ち寄った岩井堂近くの「岩井堂の酒饅頭」(岩井堂渋川本店)に駐車。
少し前にはドライブインのような施設が所在していた記憶有。

さてこの砦については、そのほとんどが山登りというか岩登りという印象が濃厚。
始めの方こそ、「おっ鎖場があるではないか」と興味津々。
ヤマツツジ、フジ、スミレなどの自生種?の花々を愛でつつ鎖を頼りに登攀。
次第に高度を上げると遮るものが無いことから遠方から足元(※見たくなくなる足元)までの眺望は良好。
しかし次第にデジカメ使用の撮影は困難化の一途。
両手を常にフリーにすることが正に必須の状態。
鎖にしがみつき両手、両足の力を駆使した登攀が継続。
漸く登山路入口の「注意書」の意味を理解。(※強風時登山禁止等々)
このあとから何故か上半身に筋肉疲労感。
その原因は鎖場登攀に伴う大胸筋の痛みと判明。

ベンチの設置された岩峰の肩付近(展望台)で即座に下山路を選択。
むろん烽火台とも伝わる岩峰はあくまでも見上げたのみに終始。
当地には畳半分ほどの小屋が所在し記念スタンプが設置。
しかしスタンプ台は無。
これがホントの台無。


下山後に見上げた烽火台の岩峰はまだまだ先の方。
下山路では比較的鎖を必要とするような個所は少数。
登攀路が下山路であれば事故率増加は必定。

 展望台(左)と烽火台(右)

肝心の遺構については、烽火台方面未踏査のため不明。
いずれにしても岩峰上の狭小地故に明確な城館遺構は無いのかも知れないと無理やり納得。
なお、下山の際に岩場で右肘を強打。
あくまでも軽い打撲なのでその後の行動には支障無。


古城台(群馬県渋川市)
8時30分から8時55分
比高差ほぼ無

「群馬の中世城館跡」の報告書を見る限りでは、作間神社境内が城館跡と推察。
現在でも神社境内北辺に東西方向の堀跡状の地形有。

 境内地北辺の堀跡状の地形

またその更に北側には畑との段差を確認。
「古城台」の名の通りの小さな台地地形。
岩井堂砦岩峰の全景確認には恰好の撮影ポイント有。


岩井堂城(群馬県渋川市)
9時00分から9時15分
比高差ほぼ無

城館跡と推定されている区域は概ね宅地化されているため城館跡らしい形跡は極めて限定。
わずかに共同墓地付近にそれらしい名残有。

    共同墓地付近


市城砦(いちしろとりで、群馬県中之条町)
9時20分から9時40分
標高320m、比高差15m

一昨年あたりから嬬恋方面へと出かけた際にみかけており以前からの懸案事項。
その折には手前の岩櫃城の存在などに認識が限定。
先週、中之条方面への探訪の際にも通過。
これもひとえに駐車スペース不在がその事由。
中之条方面からの下り坂気味の帰路。
カーブの多い割には車の速度も上がり気味。

地元渋川市在住の研究者の記したと思われる解説板が設置。
すぐ南には「岩井堂の砦」の岩峰が所在。
解説版によれば、尾根筋に沿った郭群が所在。
半世紀以前にはこの辺りでよく見かけられた桑畑跡と確信。
果たしてどの規模の城館であったのかは、あくまでも模擬櫓周辺のみの見学であることから皆目不明。
一週間前と同様に岩井堂渋川本店にて「酒饅頭」等をバラ売りで購入。


岩下城(群馬県東吾妻町)
10時30分から12時30分
標高545m、比高差約40m(※林道から、国道145号線の山麓からは約100m)
※東西郭群の間を分かつ大堀切や東郭群の三重堀切が必見。

当城には上記のように旧中学校跡の東側から続いている林道を使用させていただくのが、途中ス少々未舗装の部分も存在しているが最も便利。
なお南西麓の集落から西郭群の主郭付近に通じている神社参道の登攀路は未確認。

林道からは180度方向転換し尾根筋に入山。
直ぐ西側にも明確な山道が所在。
そのまま尾根筋に入るも良し、その山道伝いに進むのも可。
数十メートルほど南進すると三重堀切の北側へと到達。
北側のものは拍子抜けするほどに小規模でかつ埋没。
しかし、二番目と三番目は深さ、幅も大きく現在でも進路を阻害。
三番目の堀切を超えれば東郭群の中心部分。
西側の大堀切を横目で観察しつつ、南側の尾根筋先端付近を確認。
宮坂氏作成の縄張図どおり4段ほどの腰郭地形を確認。

 東西の郭群を分かつ大堀切

その後大堀切を下り西郭群の主郭へと移動。
約10mほどを下り約12mほどを登るのだが、西側郭群への登攀ルートは些か曖昧。
先客のつけたと思われる足跡をなぞり登攀したが、土質が軟弱であり堀切斜面は些か破壊気味。
主郭土塁を確認後、西側の神社へと移動。
神社の参道が南西方向から登ってきてることを確認。
その下方の郭へは多少の急斜面であり明確なルートも不在。
ストック携行なのでこれを頼りに斜面を下り下段の郭群の様子を観察。
北と西側からはほぼ登攀不可能な地形を確認。

羽田城への移動途中に国道145号線沿いの「角田製菓」にて「かりんとうまんじゅう」ほかを購入。


羽田城(はんだじょう、群馬県東吾妻町)
13時00分から15時00分
標高約690m、比高差約70m(※南麓集落から、林道からは約30m)
※見どころは大堀切を含む2本の堀切と、南側の堀切に続く土塁を伴う横堀の存在。

ひとつ前の岩下城の堀切などで、存外の体力消耗と気力消失。
足首には既に10年くらい前から経験済みの猛烈な脱力感。
無論ハイカットタイプのトレッキングも所有。
しかし、足首の動きが制御される分車の運転には不適当。
靴の履き替えも時間の浪費。
そもそも年取ると些事が面倒。
これぞ加齢の非合理性。
かくして残りの稼動可能時間を考慮し、岩下城近くの根古屋城を断念して当城へと目標変更。

そうはいうものの午後の強烈な日差しが照りつけほぼ初夏の陽気。
飲料は500mlを2本を事前用意。
前回が1本で事足りるも今回は2本完飲。

車は「羽田バス停」近く旧道と思われる空き地に駐車。
諏訪神社近くの林道路肩なとにも駐車可能かもしれないが、そう広くは無いことから余り無理は禁物と考慮。

往路は登り口を間違えて幾分遠回り気味となり余計に体力消耗。
更にここでも大堀切などの上り下りにより足首は最早完全無力化状態に突入。
一番の見どころは何と言っても大堀切とこれに続く土塁を伴う横堀の存在に相違無。

  大堀切と土塁付の横堀


    同上部分の拡大

ここで西側横堀を踏査中に宮坂氏の縄張図に疑問発生。
南西部角付近の土塁を短く書き表しているが、実際にはかつては南から続いていた参道脇まで延びていることを確認。
コピーしてきた「城郭大系」を見ると、やはり同様の表現有。
たぶんに「城郭大系」に影響を受けたものなのかとも思案。

また南東部は竹林が密生気味に生育しており現況確認困難と判断。
既に時刻も午後3時近くとなり、早起きの影響だろうか睡魔襲来。
車に戻り小休止後、自宅到着まで約4時間を要する帰路の途上東松山市内にて夕食。

今回あらためて筋力低下を伴う加齢の意味を痛感。
今後はこうしたアップダウンを伴う踏査については1日1か所限定を真剣に考慮中。


今回の探訪はいちおう6か所。
尤も始めの4か所はやや微妙な印象の城館遺構。
岩下城とは真向いにあたる根古屋城なども立ち寄る当初の目論見は気力、体力の消失により断念。

帰路ふと沿道に目をやれば、ケヤキ並木の新緑が眩しい季節が到来し初夏の予感。
今後はさらに標高を上げるか、緯度を上げるかの選択必至。
それさえも危うく感じる昨今の異常なまでの高温状態。
と、やはり体言止めで統一するという文体は肩が凝ること必定。

拍手[5回]

今月4度目の探訪である。
今回もいくぶん走行距離が長いので、午前4時10分に自宅を出た。
途中2回のトイレ休憩などで現地到着は午前7時10分となった。
上武道路経由の一般道走行は、片道にして約130kmほどの道程であった。

1月半ば以来2か月半ぶりであったことから、果たして体が動くのか懸念された。
城跡巡り、とりわけ山城シーズンの終わり頃になってから漸くエンジンが始動できた。
という次第で今回は同じ群馬県内ではあるが、安中市の名山城でどうにか動くことができたようなので、今少し体調の様子見も兼ねて幾分か標高を上げ中之条町方面へと転戦して見ることとした。


桑田城(群馬県中之条町)
午前7時30分から9時50分
標高538m、比高差約120m

少なくとも比高差100m以上を自分の足を頼りに登る久しぶりの山城である。
比高差にして100m以上の個所を単独で訪れたのは何年振りなのだろうか。
元々血中酸素濃度が低い性質なので、たしかに息切れは直ぐに発生するのは止むを得ない。
たかだか100mも歩かないうちから酸素不足に陥り息が切れ始めていた。
一方で加齢による足元のふらつきも目立つが、大体こんなものであろうと思う。
枯葉の山道は滑りやすいが、ストックを携行しているのでさほど問題は無い。
逆に言えばストックが無いと下山時にはやや滑りやすいということになる。

県道234号線から分岐する市道入口に最近設置された新しい案内標識と解説版が所在している。
これだけ丁寧な情報があるので道を間違えるということだけは無さそうだ。
さて登り口となる麓には害獣除けの電気柵が張り巡らされているが、通行の際には必要個所を取り外す仕組みになっていた。
これは山頂の神社参道と送電線鉄塔等の保守という意味合いもあるのだろう。
この登り口にも電気柵の内側に説明版が設置されている。
城跡への山道は明確であり送電線支柱が郭跡に2か所設置されている部分を除けば、まあまあ山城としての遺構は遺されていると言っても良いのだろう。

ひととおり尾根筋上については安全が確保される範囲内で歩きまわってみた。
なお個人サイトを除いて公開されている縄張図では、宮坂氏によるものが比較的現状に近いという印象を抱いた。
北へとのびる尾根筋については厳然とした削平地を除くと、自然地形によると思われる部分も少なくない。
このため果たしてどの辺りまでが城館遺構であるのか判断が難しい。
また主郭を取り巻いている帯郭地形は、基本的にはあくまでも2段であることが分かった。
堀切遺構については土質の脆さなどから経年による崩落と埋没がすすんでいる。
また郭部分も総じて削平は甘く感じられる。
現在のところ山頂付近の遺構に関しては城跡に関する標柱や解説版の類は設置されてはいない。

 桑田城(左)と内山城(右)

なお、現在のところ西側の送電線支柱からその西に位置する主郭に進むにはノイバラ類が繁殖を始めておりその通行には注意を要する。
城跡へと続く山道は明確で余り荒れているという印象は無いが、北側へとのびる尾根筋の歩行には崩落中の個所も含まれる痩せ尾根であることから慎重な行動が求められると思われる。
また車は道路脇の空き地のような部分に停めさせていただいた。 
 
 
山田古城(群馬県中之条町)
午前10時10分から11時10分
標高509m、比高差約100m

麓の集落からの比高差はある程度はあるが、城跡の近くまで舗装済の林道が通っていることから実質的な比高差は殆どゼロに近いものがある。
また城跡入口には有難いことに解説版なども設置されているため、あつこちウロウロと目標物を捜索するようなことは無い。
平坦な山道を50mほど進めば、すでに主郭の切岸が目に入ってしまうという誠にお手軽な山城なのである。

しかしそうはいっても、城跡遺構の観察環境は桑田城に比べると決して良好ではない。
ノイバラが各所に散在しているだけではなく、アズマザサなどの低木類も少なくなく城内での見通しは全体として良好とはいえないものかを感じた。
特に主郭から西側の郭方面についてはノイバラに幾度となく進路を阻まれてしまった。
このため、西側方面の踏査は全く不十分となってしまっている。

だが片道約3時間を要していることからも、主郭とその周辺部だけをさっと見学してサヨウナラという訳にもいかず、気力の続く限りある程度主郭東側と南東側方面も歩き回ってみた。
水の手とも考えられなくもない池跡(※この時は暫く降雨がなく乾燥状態であったが、たぶん季節によるのかも知れない)は矢張り水気を多量に含んでおり、ためしに片足を踏み入れたところ約30cmほど沈み込んんでしまった。
なおよくよく池の中心部付近を観察してみると僅かに水面があることも確認できた。
なお本来の水の手とされている池北側の谷筋は、いきなり数メートルほど落ち込んだV字谷を形成しておりその規模と深さに驚いた。
この地形は恐らくは池部分の築造などに由来している可能性があるものなのではないだろうかとも思った。

   城跡入口の説明版

一方、池の南側周辺の郭付近にも何か所かは明確な土塁地形が残存している。
しかし後世のものと推定される山道が城跡のなかを通過していることから、土塁と山道が混在しているように思え、外見上の区別がつきにくい部分もあるように思われた。
なお善福寺付近も居館跡のような城館であったとされているが、懐疑的な見解もあるらしく、遺構等も皆無に近いことから今回は敢えて立ち寄ってはいない。


稲荷城(群馬県東吾妻町)
11時30分から12時30分
標高約400m、比高差約30m

事前情報については余り調べてはいなかったのだが、遺構の残存状況でいえば今年に入ってからの探訪した中では最も良好であるように感じた。
周辺には民家と耕地が所在していることから、どうにか主郭付近だけが残存しているという状況を想定していたのだがさに非ずなのであった。
「日本城郭大系」に掲載されている要図とほぼ遜色のない状態で少なくとも6か所からなる郭がほぼそのままの姿で残存していたのである。
もっとも主郭部とそれ以外の郭群との間においてやや防御性の差異を感じてしまう部分があった。

  郭内より南東の虎口

ただし有名な岩櫃城のように東吾妻町の文化財指定は受けてはいない。
このため標柱、解説版、案内標識の類は一切設置されてはいない。
当地の草刈りなどは地元の方のご厚意などを中心にして行われているのかも知れない。
主郭土塁とこれをとりまく横堀は高さ6mから10mという切岸と相俟って壮観でさえあった。
あとから気づいたのだが、この地はあくまでも東吾妻町であり中之条町ではなかったのだが、余り調べないで赴くというのも意外性を感じ取ることができる。
これからも時々は所在地のチェック以外には下調べなしに探訪するという楽しみを残しておこうと思ったりもした。


城峯城(群馬県中之条町)
13時00分から13時15分

福祉関係と思われる農業共同作業所の東側に所在しているのだが、現在その存在が確認できる遺構は西側の土塁部分と主郭と思われる削平地と北側の帯郭だけであるように感じた。
全体として草木が多めであることもあって、地表部分の観察には支障を感じたというのが真相でもある。
なお駐車できそうなスペースが無いことから半ば路駐に近いような状態であったので、実際のところ正味にして10分内外ほどの時間しか滞在できていない。

    標柱と説明版


和利宮城(群馬県中之条町)
13時30分から13時40分

神社鳥居下の端に車を停めて徒歩にて計100段ほどの石段を登ったのだが、その途中でかなり上の方までそのまま車で行けるということに気づいた。
神社造立に伴う階段状の基壇は存在しているのだが、丘陵の南側を切土により削平地を確保しているだけである。

     神社の石段

悉皆調査や町誌などにおいても中世城館跡として把握されているのだが、地形としての要害性は余り感じられず、現在の神社境内地の様子からは往時の様相を偲ぶことは困難なのであった。


群馬県内の低山でも今年の温かさが影響して既に新緑が芽吹き始めていた。

加えて下草の方も成長が著しいように感じる。
こうなってくると関東北部近県でも、少なくとも標高500m以上でなければ地表の観察は難しくなってきているように感じた。
もはや山城シーズンの最終ではあるが、何とかしてあと1度くらいは出かけたいと思うのだが先のことは自分にも分からない。
なお今月これで4度目の群馬方面探訪なのであるが、平日の場合には早朝を含む時間帯と夕方を含む時間帯における所要時間が余り変わらないことに気が付いた。
ちなみに今回の復路の所要時間は出発は午後3時42分。
間に二度の休憩を含めて自宅到着が午後6時50分なので約3時間ということになる。
復路の方が信号待ちを含めて渋滞も少なくは無かった筈なのだが、その所要時間の差は僅かに8分なのであった。
走行距離が約10kmほど短いとはいうものの、この差の少なさに半ば当惑しているのであった。

拍手[5回]

今回は少々方向を変えて群馬県安中市内に向かうこととした。
ボチボチと新緑や下草の成長加減が気になるが、現地での混雑は避けたいことから、できることならばサクラ満開の時期は避けたいという思いであった。
ふと「さくら祭り」などの最中に訪れてしまった2016年4月の東北(岩手県南)遠征を思い出した。
あの折には1日目の前沢城では「ボンボリ」が張り巡らされて駐車場所探しに難渋したが、2日目の一関城では「サクラまつり」の会場開設が始まり、城内では遺構のあちこちに関係機材が設置され写真の撮影構図に苦慮した。

群馬県内は今までに国道254号線沿線は藤岡市、旧吉井町、富岡市などを中心にある程度は訪れてはいる。
しかし山一つ越えた国道18号線沿いは全くの手つかず状態なのであった。
上野国衆を中心とした中世城館の数は決して少なくない。
国道18号線自体は過去に数十回は通過しているが、個別の地域については土地勘がほとんどないということもあるようだ。

この日は到着時刻が不明であったことから、午前4時20分に自宅を出た。
ルートは国道254~国道17号(深谷バイパス)~国道18号である。
「道の駅おかべ」で小休止した時点で未だ所要時間は90分であった。
この後最初の目的地である後閑城の駐車場に到着したのは午前7時前であった。


後閑城(群馬県安中市)
午前7時05分から8時50分
比高差約50m(麓から)

駐車場は中腹に設置されているが、サクラ関係のイベント直後であったこともあり、そこまでの山道は片側一方通行の信号機が設置されていた。
いずれにしても比高差の少ないことは大変有難いものを感じる。
これが麓から徒歩で登るとなれば、この年齢になってくるとそれだけで体力が枯渇してしまい城域を全て巡るということは到底不可能となってしまうのである。
整理すると50台位は駐車可能であると思われたが、この時刻ということもあってか先着利用者は1台だけであった。
この車の利用者には城内にて遭遇。
三脚とデジイチという出で立ちであったので、その時刻と考え合わせると野鳥関係乃至はサクラ関係に興味のある方と思われた。
一般に城跡巡りでは余り三脚は利用せず、せいぜい一脚などの携行性の高いものになると考えられる。

西郭、主郭、二の郭、南廓、東郭、北郭に加えて2度目は無いものと思いのろし台?方面を確認した。
城址公園化に伴い改変されている部分も少なくは無いものと感じたが、五つの方向に分かれた尾根筋のすべてを活用したその規模の大きさとともに北部の三重堀などの構造から考えると仮に依田氏あたりから始まり、その後後閑氏を経て戦国末期に大規模改修を受けている可能性を感じた。
国衆規模の城ではない、恐らくは広域権力である武田氏、後北条氏などの影響力を想定せざるを得ないものがあるように思われた。

 主郭から眺めた西郭と妙義山


名山城(群馬県安中市)
午前9時25分から11時20分
比高差約40m(西側林道部分から)

後閑城からは道程でも約5kmと近い。
しかし九十九川を渡過する橋が少なく、ルートもカーブとアップダウンが少なくなくその移動には実質で25分近くを要した。
小日向方面からの近道に気づいたのは、漸く自宅へと戻ってからのことであった。

現在至近には東日本震災後に増加した太陽光発電の施設が建設されている。
このため直接的ではないにせよ、城跡への影響も少なからず感じられた。
特に城域には含まれてはいない北側の尾根筋方面は当該発電施設工事によりかなりの地形改変が為されているようでもあり、尾根筋自体が変わってしまっていた。
城域最北の墓地辺りから入ったが、発電施設のフェンスと野荊の群生やアズマザサの群れに阻まれ約20分ほど時間を浪費した。
また本来西側の谷筋から入ることのできたルートの間際まで当該施設が建設されたことにより、そのルートは更に分かりづらくなっているように思われた。

城跡自体は簡略に言えば楕円状の主郭を中心として南東の稜線部に複数の腰郭が付随するという構造である。
築城の経緯や城主については明らかではないとされている。
主郭虎口は南北にあるとされているが、南側のものは不明であった。
南西部に大手方面からの虎口ではないかと推定されている竪堀状の地形が認められる。
総体的に樹木が叢生気味で、見通しも良好ではなく城域の全体像を把握するのに難渋した。
このため比較的小規模な遺構ではあるのだが、無論明確なルートも存在せず、アップダウンの多さを含めた城内での移動にこの日の体力の大半を消費してしまった。
特に上から2段目に相当する腰郭の切岸の高さは5mから6mと大きく、木の枝などの助けを借りなければ上り下りができない。
南東部に伸びた低い丘陵部を大手とするなどの見解もあるようだが、概ね平坦ではあるが概ね自然地形に近いものを感じた。
出口は本来のルートである発電施設フェンスに沿って脱出した。
なお、人家が近いとはいえこの山内では自分以外に動物の存在を感じ取ったことから、時々咳払いなどを試み渓谷的なシグナルを発した。
比高差も無く決して山深いという訳ではないのだが、足などを挫くようなリスクも視野に入れて、できれば物好きな同行者の存在が求められるのかも知れない。

   北側の堀切遺構


菅沼城(群馬県安中市)
11時40分から12時10分
比高差なし

曹洞宗海雲寺の境内が城跡である。
「日本城郭大系」に記されている概念図を眺めるとついつい期待をしてしまうのだが、すでに刊行以来40年を経過している。
このため現況確認を含む調査は約半世紀以前となる。
従って、現状との乖離はいたし方のないところではある。

それでも、境内の東側に堀跡を含む土塁が現存し、これ以外に一部ではあるのだが南西部の土塁も現存している。

   東側の土塁と空堀

境内は園芸種の椿と思われる庭木が満開を迎えていた。
人見城へと向かう途上で磯部温泉を通過することとなったことから、記念に名物の「温泉まんじゅう」ほかを購入した。


人見城(群馬県安中市)
12時40分から13時30分
比高差約45m(北麓の柳瀬川方面から)

この日2番目に訪れた名山城で結構疲れていたことと、碓井川南岸の地理に疎いことが加わり、このあとのスケジュールについて、国道18号線沿いの簗瀬城方面に向かうかどうかを考えていた。
しかしそれではあまりに安易であると考え、取敢えずはこの人見城へと向かうこととした。
この辺りの地形は北は柳瀬川と南は高田川に挟まれてはいるが、安中市域では広大な平坦地が広がっている。
このため妙義山方面の見通しが極めて良好であった。
その麓からは熱せられた風が巻き起こり大きく砂塵が巻き上がっている光景も目に入った。

駐車場は大宮神社近くの市道沿いにあった。
整理して停めれば20台位は駐車可能であろうと思われた。
境内に城跡の解説版が設置されているので、これを拝読した。
神社への参詣の後そのまま境内から入れるのかと思ったら、途中で密生する竹林に阻まれた。
そうなると集落の南側からアプローチする以外にはないと考え神社東側の市道を100m弱ほど南下。
その後集落内の通路を西へと入り、家庭ごみ集積所の個所から緩やかな坂となっている堀跡を進み、一番西側の堀跡まで足を延ばした。
切岸の高さは最大で6mほどを有していたが、東西方向に少なくも5か所ほどからなる郭が直線的に並んでいるという構造であった。

「櫓台」とも云われている個所

常総地方の城跡の雰囲気を想起させる密生度の高い竹林であったが、大きな違いは生育しているのが真竹であったことであろう。
郭間相互における差異や求心性は余り感じられず、この地における地衆などの寄居のようなものであったのだろうか。


磯部城(群馬県安中市)
13時50分から14時40分
比高差約40m(南麓の市道部分から)

市道から細い道を入ると直ぐに駐車場があるのでこれを利用させていただいた。
古めかしいトイレもあるが、水洗式で綺麗に清掃されていたが、その一方でドアが閉まらないという問題があった。
この同じ場所に縄張図付の解説版が設置されている。

駐車場からはそのまま比高差にして約40mの登り道をすすんだ。
始めに三の郭、二の郭、物見台、主郭の順で見学した。
三の郭、二の郭のそれぞれの基部に横堀がまわるというのがこの城の特徴らしい。
二の丸東側の大土塁については一部地山を利用している可能性もあるように思えたのだがどうなのだろうか。
サクラの季節も終わっていることから見学者は自分ひとりであったが、いくぶん解説版や標柱などの経年変化が目立っていた。

 大土塁から俯瞰した二の丸

なお、現在のところ主郭部はクマ笹が密集しているためにほぼ地表部の観察ができないのには困った。
後閑城と同様の城址公園ではあるが、その管理事情の落差を感じた。


今回探訪用の事前資料は予め8か所ほどを用意していた。
この時点で5か所を巡ることができ、基本的には当初の目標を果たしていた。
今朝の朝食はレンジでチンしたスープカップのトン汁一杯のみである。
行動中は元々昼食は摂らない習慣なのでもとより多少の空腹感は否めない。
しかしそれよりも早起きしてきたことから正直眠いほうが優っていたという状況でもあった。
こうしたこともあり、時刻は午後3時前ではあったが、探訪の続きは次回以降に譲り安中図書館へ立ち寄り資料収集へと舵を切った。

無理をして日没直前までの行動せず、結果的にこれが正解のようであった。
というのも図書館を退出した午後4時過ぎ頃からは、次第に晴れ間から小雨がぱらつき始めて恰も「狐の嫁入り」の様相を呈してきたのである。

なお、この日の帰路も交通事情は至って順調であり、もはやお馴染みとなってきた感のある国道18号から国道17号(バイパス)経由の待ち程度の渋滞を除けばスムースに移動ができた。
自宅到着は休憩無しであったことなども重なり、運転時間は僅か2時間50分に過ぎなかった。
最悪休憩時間を含めて途中の高崎、熊谷、東松山などでの渋滞を想定し約4時間ほどを覚悟していたのでこれは実に有難かった。

下草の生育はそろそろ限界で、新緑の方もかなりの速度で進行している。
長野、福島方面ならばもう少しましかもしれないのだが、なにぶんにも日帰りの場合には少し遠い。
新潟や富山方面の遠征も視野に入れていたが、ほとんどこの先の天候が読めずにいるので先延ばしとなる公算が強いようだ。
こうしてそろそろ山城を含む城館探訪に相応しい季節が終わっていくのだろう。

さて3月31日からこの4月9日の間の10日間だけで、それまでの停滞を打破するように4日計20か所ほどの探訪に至った。
日数の割に数が少ないのは、最初の一、二回目はそもそも動けるかどうかの自信がなかったことによるものである。
どうにか動けることだけは確認できたものの、足回りの痛み対策が不十分であったりしているので、歩くことのできる距離は20km前後までらしい。
加えてそ1日につきそれ以上探訪すると、全く記憶が追いつかなくなることに気付いたこともある。

このうちある程度その名を知られたところでは、赤堀城、天幕城、不動山城、後閑城、磯部城などが含まれている。
また、「堀切の有無」などを基準として、どうにか山城の分類に含まれそうなのは、棚下の砦、猫山城、不動山城、後閑城、名山城、磯部城などである。
しかしその比高差はそれらの全てを合計しても僅かに400mほどに過ぎないのであった (^^ゞ

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 なんと今月2日に続いて2日おきの城館探訪である。
ある程度気力と体力がありそうに感じられ、天候がまずまずであれば即座に出かけるという以外の選択肢は無い。
とはいえ目的地が渋川市(旧赤城村)なので、拙宅からは上武道路が延伸されているとはいえ片道約120kmであることから、一般道利用では通常約3時間半前後と予想される道程であった。
このため今回は朝方の渋滞混雑を避けるべく午前5時前に自宅を出発することとした。
今回はいちおう5か所を予定したが、うち平地の2か所は時間に余裕があれば立ち寄るというものであり、あくまでも3か所の山城が今回探訪の中心である


棚下の砦(群馬県渋川市、旧赤城村)
午前8時45分から9時45分

現地に到着したのは早朝の走行ということも幸いし途中2度の休憩を挟んだにもかかわらず午前8時には現地付近に到達していた。
しかし、昨年訪れた長井坂城の近くであるにも拘らず現地では、本来の目的地探しに40分ほどを費やすこととなった。
他の方のネット情報にもあるように農道や高速道路の側道やらが複雑に入り組んでおり、即座には到達できにくい所在地なのであった。
もっとも現地の地形や高速道路の位置などに鑑み、なかばヤマ勘を働かせて訪れた場所が結局のところ最も該当地に近接していたのだが、付近の道路が複雑に配置されているようでこのような仕儀となった。
無論カーナビのガイドは農道などの道路事情も正確ではないことから、余りあてにはできなかったこともあった。
これほど迷ったのは多分初めてのような気もする。

さて肝心の城跡は関越道のすぐ西側の東西に伸びる尾根筋に所在していた。
北側からアプローチしたが関越道東側の林道が谷筋を超えるべく大きく南西方向にカーブした個所が城跡への入口であった。
しかし長井坂城のような入口の案内板などは全く無い。
強いて言えば関越道西側に所在するやや小ぶりの送電線鉄塔が目印なのかも知れない。
本来の林道から西へと分岐したやや荒れ果てた感じのする舗装済の林道を約100mほど進むと林道は180度方向を変えて再び関越道側へと戻るが、林道からは外れてそのまま目の前の樹林帯を西へと前進する。
なお、以前はこの林道から真直ぐに西へと延びる踏み跡が存在したが、周辺の樹木伐採により見通しは良くなっているものの、現在当該踏み跡は伐採された樹木が林道道路上に広がりそのまま進むのは困難となっていた。
無論よくよく見れば2か所ほど新しい踏み跡が確保されているので何れかをそのまま西に進めば約50mばかりも歩くと東側の二の郭と馬出との間の堀跡に到達する。
見どころはこの堀跡と馬出、標柱の所在する主郭などがある。
なお、主郭西側下の小郭はそのまま利根川の崖線部先端となっており断崖の比高差は約100mを有する。
かつては棚下不動堂方面からの登攀ルートも存在していたらしいが、斜度、斜面状況、足場の悪さなどから見るかぎりでは全く降りてみようという気にはならなかった。

 主郭西下の先端部からの眺望

※比高差はアプローチが林道からの下りなので事実上ゼロであり、いくら堀跡や切岸の登りを累計しても20mには届かないというのが嬉しい ^^


猫の寄居(群馬県渋川市、旧赤城村)
10時50分から11時00分

県道255号線と上越線により、この寄居と推定されている個所は西側と東側に分断されている。
「赤城村誌」の記述によれば約30年以上前には東側台地上に堀跡が遺存していたとされているが、現在では天然の河川に伴う浸食崖が確認されるだけでその地表状には明確な遺構を認めることはできなかった。
なお、当地に建立されている念仏供養塔(女人講)の基壇組石に「寄居」の地名が刻まれている。
時間にある程度の余裕も感じたことから、上越線敷島駅前の和菓子店にて「田舎饅頭」ほかを購入した。
 
念仏供養塔に「寄居」文字あり


猫城(群馬県渋川市、旧赤城村)
11時25分から12時20分

別名を猫山城とも。当該名称は恐らく根古屋(根小屋、ねこや)などの音を有した集落が麓に所在し、それが近世以降「当て字」により「根古屋城」が「猫城あるいは猫山城」へと転じたものと解される。
この日は朝方はそれほど暑くは無かったが次第に気温が上がり始めた。
元来が登りと暑さに弱い体質であることもあり、多少の藪が想定された東側方面からアプローチした。
予想していたよりも遥かに藪は薄くひたすらに「藪をかき分けて進む」ようなことも無かったのは幸いであった。
最初の棚下砦もそうであったように、斜面には小さな左岸質の丸石が少なくない。
これに「ドングリ」の実が混じっていることも加わり、さほどの斜面でなくとも足場は滑りやすいように感じた。
車の方は他の訪問者がそうしていたように未舗装の林道入口の分岐付近にに停めた。
この林道はかつては猫山のピークを迂回して宮田方面へと降りるようなルートであったが、現在では車による通行はその幅員と路面の状況から見てまず不可能な印象である。
城跡標柱の所在が分かりにくいという情報もあったが、画像のように西峰の主郭南斜面に所在していた。
ただし斜面に設置されいることとに加えて、設置後約10年を経過していることもありややぐらつき傾きだしていた。
全体重(約86Kg)をかけると約2cmほどは沈みこんだので、やはり少し浮き出し始めていたようだ。ついでに周辺の土を足で踏み固めておいたのだが、あとどれくらいの期間持つのかどうかは分からない。

 西峯に所在する城跡の標柱

帰路十二社からのルートを調べようとしてみたが山頂部の倒木等が障害となって先に進めず断念した。
なお「日本城郭大系」掲載の概要図は山頂部の小さな盛り上がりを過大評価している傾向があり、東側では事実上2段の切岸で、主郭となる西側では北辺部の腰郭が記されていないなどある程度の相違があるように感じられた。

※比高差は林道分岐からは下って登るものの約30mで、これに西峰でのアップダウンや帰路の分を加えても累計にして60mには届かないので頗る体に良いようだ ^^


宮田の寄居(群馬県渋川市、旧赤城村)
12時40分から13時05分

「マッピングぐんま」掲載の文化財データベース(※旧「群馬県文化財データベース」)に図示されているポイントは本来の所在地から約100mほど南東に離れた農家を指しているが、これは「赤城村誌」に記されている内容(写真画像、利根川支流の河川との位置関係)を信ずる限りにおいては、その北西の利根川北岸の河岸段丘部を指すと見た方が自然であるように感じられた。
ただし、当該地に関する地表上の遺構は確認できず、台地形状であることは認められるもののその現状は耕作地と一部宅地が存在しているのみである。
また下記の画像のように当地にはすぐ近くには屋敷囲いの土塁を有する旧家も現存しているが、寄居との関連性は不明である。

 画像中央やや右の畑付近か


不動山城(群馬県渋川市、旧赤城村)
13時30分から14時35分

城跡南端部付近の道路脇には城跡の標柱と解説版が設置されている。
この場所から竹林内部に道が続いており、そのまま道なりに進めばいちおう主郭とその北東に接する郭辺りまでは見学できるが、それ以外の部分については真竹やアズマザサ等が著しく繁茂しており暗く見えにくく立ち入りは難しく感じた。
事前に得ていた縄張図などからは余り想像ができなかったのだが、主郭、二の郭北西部は棚下砦の西端部ほどではないにしても、かなりの急斜面であり断崖といっても良いものがあるように思われた。
特に主郭部の比高差5mほどの斜面は崖線部に近く登攀はともかくとして、下りの方はもしも滑る方向を誤ると比高差約100m以上を滑落して利根川の急流に飲み込まれることとなる可能性も皆無ではないように感じた。
以前設置された木竹制の安全柵やロープなどは既に劣化し、この時点では全く役立ってはいないが、予めトレッキング用のストックを携行していたので大きな問題は無かったように思う。
城跡巡りは「自己責任」であるとはいえ、近年の「城跡ブーム」に鑑みると、文化財標柱やその解説板が設置されている市の指定史跡でもあり、私有地であるという事情などを加味しても、ある程度の安全策を継続的に行うことも必要ではないかとも感じた次第である。

 主郭(画像上)と腰郭(画像手前)


三の郭への登攀中に出会ったカモシカ

※こちらも比高差は丘陵上からのアプローチであることから、殆ど無いに等しく城内でのアップダウンを加味しても全体にして20mほどであろうか。


時刻は車の駐車場所まで戻った時点で午後3時前であった。
当所の予定ではこの後渋川市の図書館へ赴き資料を収集するという選択肢も想定していたのだが、早朝5時前からの運転に加えて夜間の運転走行は結構疲れることは昨年の青森八戸方面遠征において嫌というほど体験しているのことから、この際大人しくそのまま帰宅することとした。
途中上武道路にて初心者マークの方が時速50km走行を遵守されていたことから、いくぶん渋滞する状況に立ち至ったものの、結果的には午後7時前に自宅へと帰着した。
往路約3時間、復路約4時間、およそ240kmの一般道走行であった。
流石にこの暖かさゆえ、そろそろ草木の成長が目覚ましくなってきた。
今回は前回、前々回の伊勢崎市内の平地から緯度、標高を少し上げてみたので、草木の成長は余り気になるような場面は感じられなかった。
次回さらにこのまま探訪を続けるとすれば、もう少し標高を上げる必要を感じたが登攀する比高差が大きくては体が持たないのでこの点が悩ましいのである。

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