本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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午前6時半に自宅発で三芳PAから関越道を北上。
今回の目的地は10月8日にも出かけた新潟県南魚沼市。
群馬県に入り次第に雲量が増加。
例年この時期にはよく見えているはずの赤城、榛名の連峰も薄雲がかかりボンヤリと霞んでいた。

昨日の午前中までは、いちおうは晴れの予報。
しかし午後からの予報では概ね曇りに変わっしまっていたのが気がかり。
上越国境に近づくにつれて、やはり少しずつ雲行きは怪しさを増していた。
待ち合わせポイントである関越トンネル手前の谷川岳PAからは、気流の乱れが手に取るように観察できるぼどであった。
高速道路情報でも、「降雨 路面注意」の掲示がされ始め、長いトンネルを抜けるとやはり小雨となっていた。

唯一の救いは、目的地はここから40kmほど先の平地部の低山であること。
石打・塩沢インターまで北上すると、雲に覆われた前方の景色は次第に明るさを帯び、小雨も止み始め路面も次第に乾きはじめていた。


雷土城(新潟県南魚沼市)
午前10時40分から12時20分(山頂での昼食時間含む)

西福寺の駐車場脇の林道を車でそのまま登る。
林道終点には舗装された駐車スペースが存在し、3台から4台位は駐車可能。
むろん、我々のグループ以外に訪問者は見かけず。
このまま今回の尾根筋歩きでは、ハイキングを含む他の訪問者には出会えず。


  湯谷城から雷土城方面

駐車場所からは先ず南東約700mほどの地点に所在している比高差約90mのピークを目指した。
城域の西限には堀切が所在。
尤も、南北方向に峠を経由した里道もあることから分かりにくい。


  たぶん西側の堀切地形

城山と名付けられた雷土城の山頂部までの比高差は更に60m以上。
これに加えて二重堀切と鎖場などがあるので、郭面の兵站部は余り広くは無いもののその防備は万全であるようにも思えた。
尾根筋の形状も総じて痩せ尾根状を呈しており、南北方向の自然地形の有利性が生かされていた。


鎖場の堀切の高さは概ね6mから8mなのだが、登ってみるとなかなか登りがいがある。

湯谷城へ向かう尾根筋も比高差30mほどの下りではあるが、鎖場などもあり中心部となる郭群の防備は厚い。

山頂では少し早目の昼食を摂った。
参加者全員が「南魚沼産コシヒカリ」の握り飯であった。

 
  雷土城(板木城)主郭

疲れていることに加えて、次第に天候が回復し景色も眺めることができるようになり、その美味さが倍加していたように感じた。


  主郭西側の桝形虎口



   雷土城と湯谷城


湯谷城(新潟県南魚沼市)
午後12時20分から14時30分(復路の駐車場までの所要時間含む)

このあたりでは天候もすっかり回復し、遠望は効かないものの雷土城の山頂部より標高はさらに14m高いこともあり見晴らしは良好。
雷土城の鎖場を含むアップダウンなどでそこそこ疲れていた。
この湯谷城山頂から派生する比高差50m以上の2か所の尾根筋については、この場所からただただ俯瞰するのみであった。
小休止の後は駐車場所までの尾根道をそのまま戻った。
ただ単に往路をそのまま戻るだけではあるが、再びアップダウンの繰り返しとなった。


湯谷城主郭の山頂から北尾根


「鎖場」の方は兎に角しがみ付けばどうにか上り下りできるのだが、復路の尾根筋でのアップダウンは堪えた。
とくに標高322m、比高差僅か40mほどに過ぎない斜面辺りで、まず右足の太腿が痙攣し始めていた。
痙攣する部分を右手で抑えつつ痙攣が収まるのを待った。
少し歩きはじめたものの、やはり違和感があり、軸足を左足へと切り替えた。
しかし今度は左足の太腿が痙攣を開始した。
こうなるとそう簡単には前へと進むことは難しくなった。
国土地理院の地図上での距離は約1kmに過ぎないのだが、少し痙攣が収まるまで待機した。
かくして、最初の駐車場まで辿り着くのに遅れること、先頭からは10分以上となっていたのであった。


    湯谷城方面


◎管領塚(新潟県南魚沼市)
午後15時05分から15時15分

国道291号線沿いに所在する関東管領上杉顕定戦没の地とされる史跡公園に立寄る。
多宝塔形式と思われる石塔などが祀られていた。


    管領塚史跡公園

道路反対側の店にて「大判焼」をテイクアウトした。
むろん即刻食した。
なお付属のトイレは閉鎖中であった。
また、この辺りで漸く太腿の痙攣が治まりはじめていた (^^ゞ


今月7日、8日と続いて孫の面倒を見ていたことも影響していたのか、このところ太腿付近の筋肉には違和感を感じてはいた。
けれども、脹脛についてはいざ知らず、歩行中にこれほどの筋肉痛(太腿の痙攣)に見舞われるとは全く思いもよらず。
予め携行していた「ゼノール」(医薬品第3類)の効果はほぼ見られず。

還暦を過ぎたころから心肺機能の低下は自覚していたが、太腿の筋肉痛は予想外であった。
年齢的にも余り無理は効かなくなってきたのかも知れない、とあらためて自省するにいたった。
今回の走行距離は往復にして約380kmの行程であった。

貴重な時間を浪費し、大変ご迷惑をお掛けしました。
同行いただいた御一同に衷心より深謝申し上げます <(_ _)>

拍手[4回]

今回は意を決して、午前3時前起床。
出かける準備は前日までに完了していたので、速やかに身支度を整えカレーパン1個の朝食代わりを以て午前4時自宅を出発した。

目的地は以前から関係資料だけは用意済みの群馬県高崎市内である。
片道の所要時間は休憩含みで3時間前後と推定した。
しかし、月末であるためか夜明け前であるにもかかわらず一般道の通行量は多い。
とくに17号バイパスはとても午前5時過ぎとは思えない混雑状況であった。
それでも、上武道路を分岐すると車の通行量は3割程度までに減少して、深谷バイパスでは大きく混雑が緩和した。
やはり大型車の大半は物流路線の幹線でもある上武道路に流れていくらしい。

途中トイレ休憩のため道の駅岡部に立寄る。
群馬県南方面のルートでは道の駅はこの個所だけなので誠に有難い。
しかし下りはバイパス沿いに入口があり至って利用しやすいのだが、上りの場合には手前から迂回することもあり些か入りづらく、然も出にくいように思われるのである。

北新波の砦(群馬県高崎市北新波古城)
午前6時40分から7時55分

史跡公園化された群馬県指定史跡でもあり、復元土塁などが見学できる。
新波氏の居館とも伝わるが詳細は不明であるらしい。
かつては南東に接している満勝寺境内も郭跡であり、2か所の郭が隣接する長野氏関連の城館特有の構造であったともいうが、現在では境内地の方にはその面影は残されてはいない。

西側の公道沿いには専用駐車場があり収容台数も10台位は確保されている。
また、西側には公衆トイレも設置されており、この近辺の平地の城館跡を巡るには恰好の立地条件であった。


 西辺土塁上から南虎口方面

到着が予想よりも早く午前7時前であったことから、未だ日差しも十分とは程遠いことから、デジカメの自動露出補正機能が効き過ぎ粗めの画像となったようだ。
とはいえ、この日は元々ここから時計回りに徒歩で巡るという予定であるので、再度帰りがけに立寄ることも可能であることから周辺部の水路を含む早瀬川、長野小学校、満勝寺境内などを巡り次の目的地へと向かった。


石神の砦(群馬県高崎市楽間町石神)
午前8時10分から8時20分

戦国期におけるこの地域の防御ラインともいわれている早瀬川の南岸沿いの小道に沿って進んでいった。
幅員1mにも満たないような小道であるのだが、通学時間帯でもあるらしく高校生と思われる生徒が自転車で疾走していた。
既に途中の幅員の広い個所でも何台かはすれ違っていたので、前方の物音などに細心の注意を払いつつ前進。

すると川の蛇行に沿った木陰に自転車の影が見え隠れした。
速やかにより安全と思われる退避場所を探し、疾走する自転車を無事にやり過ごした。
元々余り見通しのきかない川沿いの小道ではあったが、時速15Kmほどの自転車と正面衝突は可能な限り避けたい。
当該高校生と思われる男子生徒も、危なかったことを感じていたのか「すみませんでした」とひと言声掛けされた。


 ここはまだ見通し良好だが

今の時代、下手をすれば刑事罰のみならず1億円近い賠償金等の判決もあるので、お互いの不幸を増幅させる虞もあると思われる。
加害者側とならないことは固より、あらためて年配者の側においても細心の注意を払い行動する必要性を感じた次第である。

さて、肝心の城館跡の方といえば、予想通りではあるがだいぷ以前から宅地と耕作地となっていたようでその地表の特徴からは痕跡を辿ることは困難であった。
しいていえば下記の墓地の存在している個所に見られる高さ2mには満たない低い崖線部くらいなのであろうか。
北新波の砦からは徒歩で500m足らずの距離である。


  推定地北部の低崖線部

もっとも、今回はほぼこうした消滅した以降の残滓を確認する事例が殆どであるので、忽ち落胆してしまうということにはならない。
ただし、このあとこのスタイルが延々と続いていくとなると、それはそれなりに辛いものもある。
逆に僅かな城館遺構の残滓に触れ合えるかどうかという不確かさは楽しみでもある。


◎楽間の石造物群(群馬県高崎市楽間町石神)
午前8時25分から8時30分

楽間第一公民館の敷地に文化財説明版を発見。
この地域を認識するためには、こうした近世以降の歴史・文化・民俗などについてもある程度知っておく必要もあり、立ち寄ってみたものである。
近世における民間信仰である「十王信仰石仏群」のほか、庚申塔、五輪塔残欠などが多数纏められて保管されていた。
傍らの「薬師堂」にも家族などの無病息災を祈願し参拝させていただいた。


公民館裏の「十王信仰石仏群」


井野屋敷(群馬県高崎市楽間町石田)
午前8時35分から8時55分

この場所には井野氏の城館跡よりも、井野一族の墓所が存在し高崎市の史跡指定を受けている。
このため部外者であっても、咎められることなく他所様の墓石等を拝見することができる。
あわせて3体の五輪塔が所在しており、その保存状態はきわめて良好であるように感じた。
16世紀半ばの武田氏などの侵攻の際にも、大きく損なわれるようなことを避けられたのであろうか。
肝心の正長、永享などの元号が刻まれていると思われる個所には、燦々とした朝日が当たり始め、影を作り太陽光の加減を試みたものの、五輪塔の地輪部分に刻まれているという15世紀前半の文字は判読できず仕舞いではあった。
城館跡とされている範囲については、概ね北から南にかけて緩い傾斜のかかる地形ではあるが、特に目立つような地形の痕跡は確認できず。
また、かつての城館跡である主郭部分には同氏の後裔の方と思しきお宅が現住されているようであった。


手前から3体までが史跡指定


行力中屋敷(群馬県高崎市行力町中屋敷)
午前9時20分から9時30分

今回の回遊ルートでは井野屋敷が最も西側にあたるので、ここからは東方向に移動した。
そうはいっても目と鼻の先といっても良い距離で、道程に換算したとしても精々800mほどの距離なのであった。
この辺りは高い建物や大きな森林を伴う低丘陵なども存在しないことから、西に浅間山、北に榛名山、東に赤城山がパノラマのように広がる風光明媚な環境であり、吹く風はやや冷たさを感じるものの、あたかも時間がゆったりと経過していくような錯覚に陥っていた。
もっとも、時折、北陸新幹線が高架橋を疾走することもあり、その都度極めて現実的で即物的な世界へと引き戻されていくという奇妙な感覚を味わっていた。

さてこの城館跡も目ぼしい遺構は皆無に近く、僅かに山崎一氏が推定した南側虎口と思われる付近の歪みのある道路形状位のものであった。
無論この地域も北から南に向かい緩い緩斜面が形成されているのだが、元々が榛名山の南東麓の端であるので至極当然なのではあるのだが。

なおこの近辺の集落には管理人と同姓のお宅が多く存在している。
このため或る共同墓地ではそのすべてが同姓であった。
元々群県南部と埼玉県北部に多い姓であるらしい。


  城館跡北西部の道祖神
 
 
行力下屋敷(群馬県高崎市行力町下屋敷)
午前9時35分から9時45分

中屋敷から下屋敷へと移動した。
といっても直ぐ隣の集落であるので、正に目と鼻の先である。
さて、ここでいきなり土塁のようにも見える地形に対面した。
元々は真竹が生育していたようなのだが、近年これを伐採したために、地形が分かり易くなったようだ。
尤も、宅地部分の北西側ということもあるので近世以降の防風林を兼ねた屋敷林であるという可能性は考えられる。
隣接する公道部分の拡張などにより道路沿いの部分はコンクリートに覆われているものの、高さ2m、長さ15mほどの土塁状の地形であった。
下記画像からも分かるように、画像左側には集落内の細い路地となっており、屋敷林としてはその位置に疑問が残るような感じもする。
またこの城館跡自体も、山崎一氏の記した書籍には含まれていない、「マッピングぐんま」には掲載されており、「高崎市史」にもその記載がある。
その後の高崎市教員委員会の調査などにより確認されたもののようである。


 宅地北西側のものを北側から


長町屋敷(群馬県高崎市浜川町長町)
午前9時55分から10時00分

県道28号線東側で群馬バスのバス停「行力入口」の東側にある水田地帯であり、城館跡としての面影は微塵も見ることができない。
山崎一氏の「群馬県古城塁址の研究」などには掲載されているものの、圃場整備事業などにより早い時期にその姿を消した単郭の城館跡とされ、武田氏の侵攻により集落が焼き払われたとの伝承も残るという。


  画像右手の水田付近


矢島の砦(群馬県高崎市浜川町矢島)
午前10時10分から10時25分

圃場整備以前には明確な郭遺構を含む城館跡が存在していたという。
1960年代初めの国土地理院航空写真などからも、その存在が明瞭に確認できる。
しかし、現状は北部が水田として整備され、南部も宅地化されて、その面影はほとんど感じられない。
そのなかで、かつての城域に隣接していた古い共同墓地付近に、水田との比高差を感じる斜面が残されており、かつての景観のほんの一部を髣髴とさせているように思えたのである。


   城跡東側の共同墓地

北爪の砦(群馬県高崎市浜川町北城)
午前10時30分から11時30分

いよいよこの日の最後の目的地である城館である。
すでに30年以上前に刊行されて「群馬県の中世城館跡」においてさえも、「消滅に瀕している」との記載もあり、城域自体が宅地化などにより大きく変貌している。
また、県道28号線が南北方向に縦断し城域は東西に分割されている。

手持ちの事前資料の下調べでは北西方向の虎口付近と、南東方向の虎口付近にほんの僅かな期待感を以って臨んだ。
北西の虎口付近はかつての農道であり、略図などにも記されているとおりの農道が現存しているのだが、かつての虎口を彷彿とさせるような地形の残滓は確認できなかった。
しかし、農道の行止りとなった個所には南北方向に伸びた細長い水田が現存しており、諸関係資料と照らし合わせた限りでは、西側の外堀跡の位置とほぼ一致しているということが分かった。


    推定西側外堀跡

また、南東部の外堀と内堀を繋ぐ堀跡も民家宅地脇に溝状の地形として現存しているということも確認できた。
ただしそれ以外の部分では、東側の外堀跡の名残とも言えなくもない細い水路の存在以外には、これといった地形的な特徴を見出すことは叶わなかった。


この時点で時刻は未だ午前中。
しかし、午前3時起床の影響なのか既に運転を含む行動時間は8時間近くとなり、確実に城館めぐりとしてのモチベーション低下を認識するに至った。
そもそも行先自体が、最初の北新波の砦の復元土塁を除けば、他は水田若しくはこれに囲まれた集落という按配である。
また元来の目的が、城館遺構よりも6か月近くサボっていた「足慣らし」でもあった。
このまま無理をすれば、日没まであと3時間くらいは動けなくはなくはない。
今後のこともあるので、世間の常識に当て嵌めるならばそう無理はできない年代でもある。

加えてこの日も駐車場所の確保に問題がありそうに思われ、敢えて車での移動は避けることとしていた。
徒歩であることから、北新波の砦から時計回りに一筆書きの要領で巡ってみた。

そうすると性格上からは結果的に体を休ませるという流れにはならず、ただひたすらに廻り続けるという行動となった。
こうしてほぼ気力は払底し、2016年、2017年の夏のように、激痛で歩くことができないというほどではないにしても、多少は足の痛みを感じてもいた。
こうしたことから、素直に車に戻り昼食用に遺しておいたパン1個で昼食代わり。
小休止の後、そのまま帰途へとつくことになった。

復路は真昼間であるにも拘らず、渋滞も少なく約3時間(途中でのトイレ休憩等含む)で自宅到着。
道の駅岡部では長野産の林檎と特売の最中を購入した。

本日の走行距離は往復で約190kmと幾分短めではであったこともあり、午後3時過ぎには自宅へと到着した。

拍手[3回]

今回は史進さんのお誘いで新潟県へ。

とはいうものの新潟は広く、今回はそのなかでも近場のひとつである魚沼地域に。
今年の初め頃からボツボツと計画だけは立てて多少の資料を纏めはじめていた地域ではありますが、この地を訪れましたのは別用で訪れたのを含めても約20年ぶりとなります。
その前は多分30年以上前で、当たり前のことではありましたが、それより前は多分半世紀ほど前であることから、流石にその当時の土地勘はとうにきれいさっぱりと失われておりました (^^ゞ


樺沢城と屋敷群(南魚沼市、旧六日町) 午前9時30分から12時20分

始めに東麓の小泉屋敷、御屋敷などの伝承地名などからなる屋敷跡とされる石柱めぐりを行いました。
そののち上杉景勝生誕の地とされている龍澤寺を参拝し、「御館の乱」の石碑近くから城跡への山道を登って行きました。


  上杉景勝生誕地の石碑 


      追悼碑

石碑の右上付近に小さく城跡への案内標識が写り込んでおります ^^


  にぎやかに土塁と横堀

「土塁」の文字が記された解説が多すぎるようにも感じる堀底道を西へとすすみ「望楼」とされる個所に立寄りましたが、残念ながら木立の叢生などにより眺望は殆どありませんでした (^^ゞ
「大手道」と記されたルートを進むか、3の丸の九十九折を登るか迷いましたが、結果的には史進さんの跡を追いかけ九十九折の方から登りました。
比高差は90mとされているのですが、郭間が空堀などにより区画されているために多少のアップダウンもあることから、忽ち息切れが始まるという為体に茫然自失。
この日の最高気温は24度くらいのはずでしたが日当たりでは恐らく28度くらいの感触で、流れる汗は止まるところを知らず。


  本丸から東側の眺望

本丸にて一休みをしましたが、この時点で全身から汗が吹き出し早くもヘロヘロに (^^ゞ
本丸からは出丸(西ノ丸)方面を経由して元来たルートへと戻りました。
この城跡内では4組ほどの方に出会いましたが、山城で人に出会うのは随分と久しぶりであったように思います。
帰りがけに駐車場には当方以外に3台の車が駐車。
もっともすべて長岡ナンバーでした。
お一方を除き、城跡巡りというよりは恐らくは低山ハイクという出で立ちでありました。

 
  東麓の屋敷群のひとつ

久しぶりの山城であることから膝はガクガク、呼吸はハアハアでしたが、それでも徐々に体の方は慣れてきたようにも感じていました ^^

 
主水屋敷(湯沢町) 14時30分から14時40分

直江兼続の実家である樋口氏に樋口主水助(「御館の乱」の際に荒戸城の攻防で討死したとも伝わる)という人物がおり、この湯沢の地に所領を有していたとされているようです。
また当地には「主水屋敷」という地名が伝わっているとのことで、現在は「主水公園」と命名されたこの辺りが、その関係する屋敷跡など何らかの関わりのあったことが推測されるのかも知れません。
なお、この公園内には下記画像のように川端康成の小説である「雪国」の記念碑が設置されています。


 主水公園内の「雪国」の石碑

 
荒戸城(湯沢町) 15時から15時40分
 
 前項の主水屋敷から湯沢の中心街を抜けて国道17号線のヘアピンカーブをぐんぐんと登った芝原峠の南側に位置しています。
標高は790mで芝原峠付近に設置されている駐車場からの比高差は約80mほどになります。
近世の三国街道に面した城跡で、「御館の乱」の際に上杉景勝方により築城された防御拠点ですが、後北条方の攻勢に伴い二度落城したようですので合計4回の落城を記録しているということになります。
景勝与党の中核で上田長尾氏の本拠でもある坂戸城にも近く軍事的な要衝のひとつですが、やはり兵站、後方支援という点で景勝方に有利であったものと考えられます。
新潟県の史跡にも指定されており、落葉の季節前ではありましたが下草の具合などから見て程よく整備されているようで、この時期でも見学には支障はありませんでした。
とはいえ雪深いお国柄であることから、12月から4月頃までの探訪には向かないように思われました。
 

  荒戸城の登り口と駐車場

芝原峠付近には上記のように専用の駐車場(数台駐車可能)と案内板に加えてパンフレットも常備されており有難い限りでありました。


  二の丸と本丸の切岸ほか

芝原峠付近の駐車場から道なりに登ってゆくと、やがて2の丸と本丸の切岸が目前に現れてきます。画像手前の壁面は馬出部分で城跡の北東部になります。
この途中で山歩きの女性1名にあっさりと追い抜かれました。
曇天でもあり時刻は既に夕刻ではありましたが、装備から見る限りはかなり山慣れをしているという印象でした。


 三の丸から見た本丸と竪堀

本丸の南西虎口から三の丸へと下った辺りで本丸側の防御の堅固さが窺われますが、城としての規模はけっして大きくは無く、防御側として収容できそうな人員は最大でも200人ほどでしょうか。
このため、芝原峠という軍事的な要衝であるにもかかわらず兵力などの格差により短期間に落城を繰り返すこととなったとも考えられます。


    本丸北東側虎口

 比較的コンパクトなのですが、築城主体や攻防の経緯も明確であり、遺構としての残存状況も良好な城跡でありました。
こういう感じの山城ばかりでしたら、古稀が近い爺でもまだまだ頑張れそうに思われました ^^


浅貝寄居(湯沢町) 16時25分から16時35分

 湯沢町の中心部で国道17号線の北側沿いに所在しており、かつての大規模開発の進捗により旧来の景観は一変していました。
「湯沢町誌」掲載の縄張図はネットなどにも引用されていますが、あくまでも大規模開発が開始される以前の1962年頃に作成されたものとされており、現在はそのうちの北側(居館跡と記されている個所)部分のみが辛うじて建築物の陰に隠れてるようにして残存しています。

城跡遺構としては削平地である郭およびこれを取り巻く北側と西側の土塁が現存し、郭内の中心部には「文化財標柱」も設置されてはいるのですが、宿泊施設の裏手(現在では北側の無道路地)に所在しているために所在地自体が大変分かりにくくなっていました。
「むさし」という宿泊施設の北側でダイヤパレス苗場へと向かう路地のやや緩い坂道を登った左手(西側)の「むさし」の建物に隠れた山林部分(北側緩斜面)が該当地となっておりました。

長尾景虎(後の上杉謙信)による関東侵攻である三国海道経由の越山ルートのベースキャンプのような役割を果たし、家臣である栗林次郎左衛門(政頼)と大石惣助(芳綱)に命じて築城されたとされています。
 

 土塁の残存している主郭部

この地域は半世紀前からの、素朴な温泉とスキー場であった頃の街並みの様子が今でも記憶に残っています。
その後の80年代頃からの急速な観光開発、リゾート開発が進んでいく様子も記憶しております。
こうして現在の国道沿いの街並みを含めて、20年前と比較してもかつての繁栄ぶりとは真逆の景観を目にして大変感慨深いものがありました。


曇天で然もすでに日没前の時刻に訪れたことから、辺りは薄暗くなってはおりましたが未だ雨の降りだすようなことも無くこの日の最終目標の探訪を無事に終了することができました。

帰路は国道17号線で三国トンネルを抜けて沼田方面へと向かい、途中道の「駅みつまた」で小休止、そのあとは沼田市内にて夕食を摂り、関越道の渋滞予測を考慮した上で「上武道路」経由で自宅へと帰着しました。
休息等の時間を除けば約4時間ほどでしたので、高速渋滞のストレスに比べれば高速料金の不要な分安上がりとなりました ^^
今回は今年の4月以来約5か月ぶりとなる城館探訪でしたが、史進さんのお誘いで再び復帰することができました。
やや遅まきながら今シーズンのスタートラインへの足場固めとなり、誠に感謝の限りであります。


注記 
このブログは10月9日に発生したブログサーバーのトラブル等の事情により、2日後の10月10日に更新しています。

拍手[4回]

旧レンタルサーバー廃止に伴う暫定の移転先です。
リンク先などを含めて検証中です。

http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/top.html

拍手[4回]

--前口上--
これはあくまでも直接標高737mの高野平城へのルートを辿ろうとして、結果的に何と標高974.5mを測る薬師岳に登ってしまったという笑い話です(^^ゞ

このブログはサイト更新などの作業のため便宜上5月1日に記していますが、実際に山行した日は4月27日です。
その4月27日の項には次のように記しています。

凸高野平城(こうやひらじょう、群馬県東吾妻町、中之条町)
10時20分から11時40分
標高737m、比高差約120m(南麓の林道部分から)

宮坂氏は牧場側から登られたようなのだが、できるだけ比高差を圧縮すべく儀一さん、余湖さんなどのネット情報を参考にさせていただいた。
駐車場所はこれもネット情報を頼りに路傍に余裕のある林道の山側を選んだ。
と、書いていると如何にも順調に探訪ができたような表現である。
しかし実のところここに至るまでは朝の6時過ぎから約4時間ほどの格闘があったのだが、これについては余りにも「お間抜け」であったことから反省を含めて別記する。と記していました。

--現在地確認は大切--
さて、この日自宅を出たのは午前3時前ということもあり、現地の中之条町と東吾妻町の行政境に所在している「高野平城」近くの吾妻神社付近に到着したのは午前6時前でした。
まさかこれほど早く来れるとは予想だにしなかったこともあり、先ずはこの神社と近くの善福寺を参拝しました。
この辺りに来るのは既に今月2回目であることから、ここまでは全く迷いようのない場所ではありました。
さて、参拝後当該城跡の南麓を目指してナビにはほぼ表示されない林道をそのまま車で登って行きました。
尤も、途中Y字路分岐手前の山田古城の所までは前回も行っていることもあり、その後の2か所ほどの行先表示のない林道の分岐なども地形を確認しながら問題なく通過し、ここまでは極めて順調に城跡の南麓方面へと回り込みました。
 
 塩梅の良さそうな林道分岐

しかし、できるだけ楽に登れそうな地形を探すあまり、結果的には本来直登すべき個所を直線距離にして南方向に約600mばかり行き過ぎていたようです。
言うなれば極々初歩的な誤りなのであります (^^ゞ
本来であればこの時点で現在位置の詳細な確認をすべきところ、ついつい登り易そうな未舗装の林道が目に入り然もほぼ同じくらいの比高差である尾根筋があったことから大きな勘違いを犯してしまいました (^^ゞ

 比高差50mほどの尾根筋

--反省の弁--
さて経験上「遭難」という用語を真剣に把握しなければならないのは、季節や天候などにもよりますが概ね標高1000m以上ではないかと思います。
しかし難しいのは標高500m以上1000m未満程度であっても山深い山岳です。
いわゆる山の懐が深いところで、春先に遭難騒ぎの発生した「三頭山」周辺なども同様です。
最寄りの人家まで徒歩で1時間以内で行けるかどうかというのも目安です。
近年では携帯の圏内であるかどうかもそうした目安になりました。

関東近県でも昭和40年代くらいまでは、里山は無論のこともう少し深い山でも林業や炭焼きなどの山仕事を含めた作業のために尾根筋や峠道は今よりも遥かに山道として整備されていたと記憶しています。
ところが山間部の集落が人口の流失に伴い過疎化、消滅が進み始めて、残られた方々も高齢化して、こうした山道の利用がどんどんと減少し道そのものが消失していったと考えられます。
また、クマやイノシシの出没の問題もありますが、これについては長くなりますのでまたの機会に譲ります。

  これはたぶん鹿のような

--間違いに気づいたのは何時か--
では、こうした間違いに気づいたのはどの時点かということになります。
実は最初の標高750mのピークを過ぎた時点で太陽の当たる方向に違和感を感じていました。
ところがこのピークを城跡の西に位置する標高759mのピークと勘違いをしたことから迷走が始まったようです。
なお、完全に方向を誤ったことに気付いたのはこの直後で、東へと移動していなくてはならないにも拘らず、全く反対方向である西へ向かっているという事実に気付いた時点でした。
なお、この時の標高も約750m前後です。
登り始めてから既に40分以上を経過していますので、登るべき稜線を誤認したということは確実になりました。
なお、時刻はメモによりますと午前6時40分過ぎでした。

--何故薬師岳まで向かったのか--
流石に標高800mを超えた時点で間違いはもう120%の確信へと変わっていましたが、ここまで来たら折角なので高野平城方面の様子を俯瞰できないものかとも考えました。
もう、ここまでくれば普通の山登りとなりました (^^ゞ

   標高約800m付近

また山深い地域でしか見ることのできない植物との出会いに対する期待もありました。
なおこの時は普段の装備とは異なり、高度計、非常食(約1日分)、昼食(おにぎり2個、パン1個)、飲料水約1.5Lを携行しておりました。
またレインコート、防熱シート、レジャーシート、携帯ラジオ他も携行し国土地理院のコピーした地図も持参していましたし、当然のことながら方位磁石も携行していましたので一応山岳モードではあります。
無論、天候に関してもラジオの天気予報が伝えているとおりで、まず雨が降るような可能性はゼロに近いこともありました。
なお、仮に薬師岳に登るとすれば西尾根伝いを除けば、この東ルートは唯一の登攀可能なルートであることもある程度は理解していたということも後押ししたようです。
さて、標高800mを超えた辺りからはコピーしてきた地形図どおり斜面の傾斜は大きくなり携行しているストックを使用しても這い上がるのに難儀する個所も次第に増えてきました。

   標高900m付近

幸いにして物凄い岩場には直面しなかったことから、一度も滑るようなことは無く山頂部の南側を迂回して程なく山頂へと到達しました。
この時の時刻はメモによれば午前8時頃です。

   薬師岳山頂の石祠


  有難い山頂のプレート

--薬師岳山頂からの移動--
さて薬師岳山頂で、おやつ代わりにおにぎり1個を頬張って今後の進路について熟慮しました。
まずコピーした地形図が示しているように、明確な山道のある北西部の尾根筋ルートは明らかに吾嬬山(かづまやま、1182m)から続く稜線であり、その東端部の独立峰である薬師岳への往復ルートであるとことを確信しました。
つまりは自分が登ってきたルートはあくまでも登山道とはいえないような獣道であり、いわゆるハイキングコースではありませんでした。
所々に地下足袋と思われる山仕事に関連した方が通過したという印象のおぼろげな形跡はありましたが、普通よく見かけるようなゴミの類は全く見られませんでした。
薬師岳からは北東方向に派生している尾根筋を辿れば理屈の上では直線にして約1.5kmほどで城跡付近に到達するはずです。
しかしその尾根筋は薬師岳山頂からは比高差にして約170mほどは急斜面が連続しているように記されていました。
加えて西尾根のような踏み跡自体は全く見えませんので、果たしてその尾根筋でよいのかどうかも躊躇するような具合でありました。

 この先辺りなのですけど・・

元々が岩山であることは山頂付近の露岩から理解していましたので、下山途中で露岩に遭遇すると「遭難騒ぎ」へと繋がりかねないことを認識し、北東尾根筋からの移動はきっぱりと断念しました。
かくして、ほぼ元登ってきたルートをそのまま戻るという無難な下山コースを採用するに至りました。
なお折角でしたので吾嬬山への西尾根を距離にして片道約400mほどを歩いてみました。
自分が登ってきたような獣道とは異なり快適な尾根筋のハイキングコースでした。

  南東の榛名山方面かと

下山ルートは急斜面の続く標高800m付近までは、往路の際にマーキングした跡を確認しつつ正確に往路ルートをトレースしました。
見知らぬ山中では上りと下りでは景色が違って見えますので、必要に応じてマーキングをしたり、振り返って地形を確認するなどの慎重な行動がいざという時には役に立ちます。
なお緩斜面の途中からはノイバラ、ニガイチゴ、タラノキなどの有刺植物の多い個所を避けるべく、南側に迂回して元は開拓した耕作地であった野原へと出ました。ここであらためて現在位置を確認して、そこからはそこへと向かうために築かれたと思われる林道を下り、結果的にはほぼ自分の車を停めた個所と100mと違わない地点へと下山することができました  ^^


この後本来の城跡付近へと移動して比高差約130mに再挑戦しましたが、西側尾根筋の防御が思いのほか簡素であるのは、その必要性が殆ど無いからであることが身を以て理解できました。
高野平城はあくまでも東側と南側を意識した縄張であり、急斜面を伴う北側と薬師岳から続く長大な難路のある西側の防備は手薄であっても何の問題もないように感じました。

しかし、130m登れば良いところを+330m+100mも登ったことから、少なくとも560mは登ってしまい、この時点で既に両足の脱力感は極限に達しておりました。
そのまま帰宅への道を辿るという選択肢も脳裏に浮かびました。
しかし通りすがりに立寄る程度ならば、もう少しは動けそうに思われたこともあり、あとはその時の成り行きにまかせることとしてみました。

--なぜ間違えたのか--

1.現在位置確認の不履行
2.林道分岐からの距離の未確認
3.東方からの遠望での目標把握の失敗

以上、これに加えて自分の年齢では明らかに不相応な行動という認識を含め、今後の糧とすべく反省を兼ねて纏めてみました (^^ゞ



 

 

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