本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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今回も前橋方面である。
しかも明らかに遺構の少ない地域である。
元々前橋方面は個人的には空白地帯であった。
昨年頃から資料だけは纏めてはいた。
この下調べは嵌りだすと止まらないので要注意でもある。
未訪問の資料件数は概ね1000か所前後はあるものと思われる。
いずれにせよ忘れないうちに出かけておかないとタダの資源ごみと化するのである。


◎女堀(群馬県前橋市)
午前7時20分から8時30分

今年の1月に訪れた平安時代末期とされる女堀遺構の西域を8か所のブロックに分けて踏査してみた。
画像は前橋市二之宮町の女堀沼付近の様子である。


この辺りでは流路掘削の関係上からその堀上土があたかも小山のような景観を呈して東西方向に続いている。


二宮赤城神社(群馬県前橋市二之宮町)
午前8時45分から9時50分

赤城神社の境内に遺されている土塁と堀の遺構であり、無量寿寺、宮下西館と合わせて「二之宮環濠遺構群」ともいわれている。
単に赤城神社ともいわれてはいるが、県内には同名の神社が数多く存在している。
また「にのみや」については「二之宮」(地名、町名)「二宮」(前橋市文化財の呼称)があり、いささか分かりにくいものを感じる。
このため前橋市文化財の呼称等に従うものとした。

なお人為的に堀と土塁に囲繞された一定規模の区画ではあるが、その地域勢力の求心性、防御性などの点でいわゆる城館跡とは異質な部分を感じなくもない。
如何にしてこのような規模の神域を確保し維持できたのか、そうした宗教的、政治的、経済的、軍事的な背景などについて興味は尽きないものがある。
現在の参道の設置されている南側を除き概ね三方に堀と土塁が残り、内郭部も北と西側に確認できる。

   北東角付近の土塁       東方からの遠景

「環濠遺構」には、群馬県内では大田市、伊勢崎市、前橋市、高崎市、玉村町方面などにしばしば散見され、その形態から大別すると概ね「単独の屋敷周りの方形をした水堀」「これらの複数から成る集合体」に分けることができるようにも思われる。
それらの成り立ち、時代背景、地侍層などとの関わりなど、これらの研究には取り敢えず「前橋市史」などに記されたものがあるのでこれを手がかりにもう少し調べてみようと思う。


無量寿寺(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時00分から10時25分

赤城神社の東南東約300mほどの地点に所在し、「群馬県の中世城館跡」などによれば、かつては同寺の境内地に方形の環濠跡が遺されていたとされている。

    筑波山古墳

むろん境内地、墓苑の整備、周囲の宅地化などの影響により、その現状からは南東部に所在している筑波山古墳を除き、地表観察からそれらの遺構を確認することはできなかった。


宮下西館(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時30分から10時50分

赤城神社から見て南東約200m付近に所在している環濠屋敷跡である。
西側に小流を伴う比高差5メートルに満たない小さな崖地を有する一画であり、現在は3軒ほどの民家と耕作地が所在している。

   西側外郭部附近か

このあと、朝食ぬきであったことから暫時休憩を兼ね、国道50号線沿いの「そば花」にて昼食を摂った。


赤石城(群馬県前橋市飯土井町)
11時50分から12時10分

昼食後そのまま帰宅するというのも如何かと思い、1か所だけ出向いてみた。
赤城山の中腹を水源とした神沢川とその支流に東西を挟まれた細長い丘陵先端部に所在している。
周辺の大室城からは南へ4kmほどの地点でもある。
上武道路が貫通しているこのあたりの地域になると赤城山の南麓とはいうもののその傾斜は益々緩やかなものとなり、現在における周囲の水田面との比高差も目立たないほどに少なくなっている。
戦国期の大永年間頃に赤石左衛門尉が城主であったとされ、のちに伊勢崎へと転じたと伝わるらしいのだがその詳細は不明である。

城跡とされる一帯は工場、店舗、倉庫、住宅などの敷地の用に供されている。
「前橋市史」の記述によれば、その当時は比高差5メートルから7メートルを測ったという旨が記されているが、現在では3メートルから1メートルあるかないかというように削平を受けているようであり、往時の面影は微塵もないように感じた。

 城跡の名残である崖線部

その名称の割に遺構は皆無に近いことは把握していたが、本当に何も見当たらないという形容に相応しいような気がした。
唯一城跡であったことを示すものは、有難いことに「荒砥史談会」の方々が設置された「城跡標柱」のみであった。

     城跡の標柱


かくてこの日は僅かに城館類似遺構1か所と標柱のみが所在する城跡1か所となった。
復路の上武道路は何時もよりいくぶん渋滞気味のようであつた。

このため約2時間半ほどを要して、午後2時半過ぎ頃に自宅へと帰着した。
薬で抑えている花粉症と低気圧接近に伴う頭痛の関係もありこのあたりが限度であるようにも感じていた。
むろん少し頑張ればあと2か所くらいは廻れなくもない。
しかし今回はインターバルが4日間である。
今後のダメージへと繋がらないようにかなり早めに撤収した。

今月はあと1度くらい平地を廻わるか、ほんの少しだけ登ることとするのか暫く考えてみよう。
今年は暖かくなるのが異常に早く、もたもたしているうちに山城の季節が終わってしまいそうな気もする。
当然健康寿命の方も、ピコピコとカラータイマーが作動し始めているように感じる。

拍手[4回]

今回の城跡めぐりも前橋市内となった。
今年の1月初めに前橋市内を訪れて以来である。
思えばこの間は延べにして20日間以上の孫の子守りや自分の花粉症、低気圧接近に伴う頭痛、股関節を中心とした足回りの劣化などの諸要素が重なり合い、2か月以上も城跡めぐりから遠ざかっていた。

それでもようやくそうした事情が落ち着きを見せ始めている。
この機を逃せば気力・体力の低下は落ちる一方なのであることは実感している。
とはいうもののいきなり山城方面というのはリスクがあることから、先ずは花粉症と足回りの様子を探るべく平地に所在する城館跡を目指すこととした。

午前5時に自宅を出たのだが、本来は1度のトイレ休憩を含めて午前7時過ぎには到着するはずのところ、途中で上武亀泉交差点で左折すべきところをうつかり曲がり損ねた。
このためその先の上毛電鉄の陸橋を超えた先のジャンクションから大きくぐるっと迂回することとなり現地到着は午前7時15分過ぎとなってしまった。



亀泉城(かめいずみじょう、群馬県前橋市亀泉町本郷)
午前7時20分から8時40分

上記の事情があったことから現在位置と方位の確認などに少々手間取りさらに5分ほどを要した。
本来は東側からアプローチするところを反対方向の西側からアプローチすることとなり、全く前日のイメージトレーニングが生かされていないようで、即座には体と脳が正常に動作しない。
やはり2か月以上のブランクというのは、加齢という問題も加わりいろいろな感覚も鈍化してくるようだ。

天台宗如意寺の駐車場をお借りしてどうにか現在地と方角の把握に努めていると、ようやく亀泉公民館付近が主郭跡であるらしいことに気がついた。
赤城山麓の丘陵地帯に所在する城館跡であり、東西には天然の濠となる小流が存在し北から南へと流れ下っている。
東側の河川は寺沢川で、その上流域には荻窪城、横沢城などの大胡氏に関係すると思われる中世城館群なども多く存在している。

城跡東の寺沢川(右上は赤城山)

むろん明確な遺構は乏しいのだが、それでも城跡の所在する台地の南東方向に比高差5メートルから8メートルほどを測る崖線部が遺されていることからも、確かに城館跡の存在感が漂っているようにも感じる。
1970年代前半頃までには、この小丘陵上にある程度の遺構も散在していたらしいのだが、その後は次第に宅地化と耕作地化が進行してほぼ消滅したらしい。
現在ではかつての城跡としての名残はこの崖線部の地形のみといっても良いように感じた。

  亀泉城の南東崖線部

なお「亀泉」の地名はあくまでも明治初期に「勢多郡の小泉村と中亀村」が合併したことによるものであり、この城館跡は本来は「旧小泉村」に属しているということになる。
「角川日本地名大辞典」によれば、永正元年(1504)と推定されている「穴沢次郎右衛門宛上杉顕定感状」に「上州大胡・小泉要害相攻之時」(歴代古案)と記されており、この亀泉城が「小泉要害」であった旨を記し、大胡城と並ぶ要害の地であったとも述べている。
従って関東管領上杉顕定の上野領内における平定活動等の一環というようにも思えなくもないのだが、現在のところでは山内・扇谷上杉氏の内訌である長享の乱終了直後のこの時期における上野国内における政治情勢と顕定自身の具体的な動向を把握しきれていないので何とも言えない。
またこれに加えて「小泉」の地名は「小泉城」の所在する大泉町のほか伊勢崎市、佐波郡旧東村など、少なくとも上野国内に合わせて4か所は存在してることから、上記の記述をそのまま鵜呑みにするのは些か性急であるようにも思われるのである。

城跡の所在していた周辺の地形全体を確認すべく、城跡北西の前橋市指定重要文化財で南北朝期の作と推定されている「石造薬師三尊像」を参拝した。
次に北東の赤城神社を参拝し、城跡の一部に含まれると思われる南西の如意寺を参拝した。
それからさらに城跡の最南端と思われる丘陵先端部の地形などを確認し終了した。

なおその歴史的背景については「日本城郭大系」によると柳沢氏の居城と記されているが、残念ながら今のところその詳細は把握できてはいない。

   石造薬師三尊の堂宇


    石造薬師三尊像


  城跡北東方向の赤城神社


天台宗如意寺が所在する丘陵


    丘陵最南端部


滋野屋敷(しげのやしき、群馬県前橋市端気町)
午前9時30分から10時00分

駐車可能なスペースが見当たらないことが予想されたので、県道76号線の上泉城近くのコンビニで買い物して、そこから約800mほど歩いて向かうこととした。
こうして実際に歩いてみると地形の繋がりが理解しやすく、上泉城が所在する台地とは浅い谷筋を挟んだ西隣の台地であったということが判明した。
上泉城もその南側は旧利根川の流路でもあった桃ノ木川により防御されているが、この16世紀頃とされている滋野屋敷においても桃ノ木川と合わせてその支流である時沢とも呼ばれている西側の小流を含め隔絶される地形なのであった。

  屋敷東側の無名の谷筋

「日本城郭大系」と「前橋市史」には掲載が無く、城館関係の基礎資料は「マッピングぐんま」と「群馬県の中世城館跡」のみである。
東西約200m、南北約120mから150mの範囲の丘陵地帯に納まる方100m四方の規模を有すると考えられている城館跡である。

なお「群馬県の中世城館跡」によれば、滋野氏の屋敷である旨が記載され土塁と堀が残存していることが記されている。
現状では城館跡の北東部付近に一部土塁と堀跡のような形跡が存在しているようにも思われるのだが、周囲を崖と耕作地に囲まれた民家の敷地内であることから詳しくは確認することができなかった。

なお、所在地である端気(ハケ)町の地名は「崖」(ガケ)から転じたもので、経験上からは地形上の要害性を有した中世城館跡に関連している場合も少なくない。
この場合も赤城山南麓に所在する低丘陵の南端部に位置しており、その水田からの比高差は最大で10mほどを測る。


北東角付近の様子を西側から撮影

なおこの時点では、北寄りの冷風がその強さを増し吹き抜け始めて、持参している関連資料のページをめくることさえ困難となってきていた。
このため、ついうっかりして善勝寺、下曲輪地域等の中世の板碑及び前方後円墳である大塚の確認作業等を失念してしまった。
明らかな手抜かりでもあり、本来は再訪し確認をすべき事案であるのかも知れないが、己の年齢などを考慮するとおそらくはその機会はほぼ訪れることのないように思えるのであった。

帰りがけに物凄く人懐こい日向ぼっこの最中のネコさんに遭遇してしまった。
ものは試しと「おいでおいで」の合図をしてみたところ、「ニャオ~」と鳴いて向うから近寄り足元にまつわりつき口元を近づけてマーキングを始めた。
折角なので喉の辺りをそっとなでると、予想通り下記の画像のように狂喜乱舞することとなったのである。
城跡でネコさんに出会うことは珍しくないのだが、これほど歓待されたのは10年ぶりのような気もした。

そうはいってもこのあとの予定もあることから、何時までも遊んでもらうわけにもかず、ほど良いところを見計らいサヨナラをしてきたのだが、50メートル以上離れても律儀にずっとこちらを眺め続けていてくれた。楽しげな名残惜しいひと時なのであった。
なお辺縁部を反時計回りで回遊中、城館跡の西側崖線下道路沿いに若干の駐車スペースが存在していることが帰りがけに判明した。


小神明の寄居(こじんめいのよりい、群馬県前橋市小神明字寄居)
午前10時30分から11時00分

上沖町の旧村社である神明宮乃至大国主神社を参拝し、境内北側の出入り口を経由して徒歩にて北西約100mに位置する小神明の寄居へと向かった。
この神社境内は比高差は数メートルに過ぎないのだが、極めて南方の眺望に優れていることが分かった。この寄居は同神社境内と市道を挟み隣接しており、何らかの関わりがあることが考えられるのかも知れない。

旧村社神明社が所在する丘陵先端

「城郭大系」によれば、「附近地侍の寄居であり、小神明遠堀より前の時期に築かれた塁」としているが、今のところそれらについての詳細については把握できてはいない。
同地には南西部には上之山霊安堂を含む霊園が所在し、近年では「ぽっくり地蔵尊」という石仏の小堂宇も所在しており、他に北西と北東部に1軒ずつ民家が所在している以外は畑地の耕作地として利用されている。
電子国土に記されている等高線や「群馬県の中世城館跡」の略測図などを勘案する限りでは、本来は花期の画像の南東に当たる手前部分がもう少し低地を形成していたもののように読み取れた。
恐らくは、耕作地としてある程度の盛り土が行われ、市道の坂道の傾斜を緩やかにするような地形の変更が行われているようにも思われたのである。

  南東角付近からの全景

明確な遺構はすでに消滅して久しいが、「群馬県の中世城館跡」などによると、この一帯には寄居の地名が伝わると共に1980年頃までは土塁と堀が一部存在していたことが推察される。
また寄居跡とされている西側の隣接地に些か悩ましい地形が遺されているのだがその詳細は不明である。


  怪しくも悩ましげな地形

ここまでは思いのほか足回りはどうにか持ちこたえているが、このあとは果たして何か所廻れるのかという疑問に加え、「遠堀」に関しては駐車スペースの確保は集落内のためまず難しいように感じ始めていた。
このためにこのあとは一度上記の神社まで戻り、急激な気温の上昇などの天候の変化もあり脱水症防止のため水分補給を行い、あらためてその後の作戦を立てなおすこととした。


小神明遠堀(こじんめいとおぼり、群馬県前橋市小神明町、勝沢町)
午前11時10分から12時15分(ただし途中で東側の小神明の砦へと立ち寄った)

当該所在地について「マッピングぐんま」では「小坂子町、こさかしまち」と記しているのだが、各種地図情報などから確認した限りではあくまでも上記の表記が正しいものと考えられる。
かつては赤城山の中腹に水源を擁した小河川であり、「マッピングぐんま」によればその別名を「時沢遠堀」とも。また「角川地名大辞典」によれば西堰川とも呼ばれているらしい。

   流路を辿る途中にて

「日本城郭大系」「前橋市史」などの記述によると、総延長は約1.5kmほどを有する天然の小河川に人工的な加工を施した遠堀であり、大胡城西方に所在している勝沢城、嶺城防御ラインであろうと推定しているのであるが、築造年代自体も明確ではないらしくあくまでも推測の域を出るものではなさそうにも思える。

   上沖町交差点付近

現在はコンクリート製の護岸工事が各所に施され、特に上流域では大型のU字溝が敷設されており、過去におけるそうした形跡を辿ることは困難となっていた。
なお今回については主に南側の「上沖町交差点付近」から「小神明霊園」付近までの延長約1kmほどを辿ってみたに過ぎないものであり、上武道路北側を含む個所については目視してはいないので、嶺城方面へと足を延ばした際にあらためて踏査してみようと思う。

   小神明霊園付近


小神明の砦(こじんめいのとりで、群馬県前橋市小神明町)
午前11時45分から12時05分

「小神明遠堀」の東方約200mの地点に所在していおり、「前橋市史」などによれば、方100mの単郭の砦とし、「城郭大系」では嶺城の支砦としている。また「群馬県の中世城館跡」によれば、関連する人物として関口政次の名を挙げている。

 西曲輪附近、秋葉山の石碑

かつては南面の堀跡と東側の大手虎口等が認められたとも記されているが、現在では東西の南北方向の二筋の小流を除いて往時を偲ばせる形跡は殆ど確認することができない。
また同地には「四ツ門」あるいは「中」などの古地名が残りかつての屋敷ないし館の存在を窺える。なお「前橋市史」では「四ツ門」の地名から四方に虎口が開かれた構造を想像するとの記述があるが、これについては「四脚門」を意味する可能性も想定されるので何とも言えないように思える。

    西側の堀跡付近


    東側の堀跡付近

なお「小神明」の地名については、「芳賀村誌」によると、かつて当地が細井御厨に含まれる領地であり、「古神明」といわれて、のちに「小神明」に表記が変わったという。
さらに「角川地名大辞典」によれば、天正20年(1592)2月27日の平岩親吉知行書立(甲府市金桜神社文書)には「一 63俵1斗4升 小神明之内」と記されており、当地との関連が窺える。

   赤城山方面の眺望


鳥取城(とっとりじょう、群馬県前橋市鳥取町)

 あくまでもかの有名な鳥取県に所在する鳥取城とは無関係の城館跡であるが、鳥取の地名が冠されたのは15世紀末頃に既に「鳥取」という地名が既に存在していたことによるものらしい。また「鳥取」の地名自体については「芳賀村誌」によると鳥取大明神(おそらく現在の大鳥神社か)

  藤沢川堰堤からの赤城山

城館跡の西側には藤沢川が流れており、その堰堤上を北に向って歩いていると右手(東側)の民家裏に人工的な地面の高まりが目に入った。
現在の堰堤が整備される以前の古い堤防か、民家の屋敷神などを祀るための築山か、あるいは城館跡の残滓であるのかについては不明である。

  人工的な地面の高まり

さらに北へと歩みを進めていくと右手方向に折れてゆく小道があった。どうやらこの小道が城館跡の北限に相当するものと思われたことから、そのまま上武鳥取へと向かう公道を横断して、城館跡の東側へと向かうこととした。
なお、下記画像の右手付近の民家宅地境には、ほんの僅かではあるが土塁と堀跡のように見えなくもない地形が残存していが、むろん後世における屋敷の風除けのための土塁である可能性も考えられる。

   城館跡北限の小道

当城跡の中心部付近には大鳥神社が所在し、神社の解説板に僅かにこの城館跡に関する記述を見ることができる。なお現在では当該砦跡の中心部には金型製造の工場が所在している。
  
    大鳥神社社殿           解説板

さて、この時点で時刻は未だ午後1時半過ぎであった。
午前中は吹きまくっていた北寄りの風も弱まり、少し暑いくらいの春先の陽気となっていた。
しかし今回は冒頭に記したように2か月以上のブランクが存在している。
一向に改善されてはいないと感じる変形性股関症の可能性などの問題もあることも事実である。
今回は殆ど遺構が現存していない文字通りの城館跡ではあるが、すでに当初の目標であった以上の6個所を廻り終えていたこともあり、別途内反小指の痛みを感じ始めたところで撤収を即断した。
なお今回の探訪先はほぼその全てが赤城山の南麓に位置する城館跡であり、赤城山の中腹辺りに水源を有する小河川による浸食谷によりその東西方向が防御されることとなるという共通性を有していた。


今回は全て車で近くまでアプローチして最短距離を歩くことも考えたのだが、自体に足の動きも軽くなってきたこともあり、足の感触を確認すべく結局約2万歩ほどの行程となった。
その結果、平地であるとはいうものの当初の懸念とは裏腹に、歩幅とスピードについては問題があるもののどうにか歩行できることだけは確認された。

尤もそのことが比高差を有する山城方面への適応力となるのかどうかについては、自分の体ではあるが今のところは何とも分からないというのが現状である。
今後に再び山城方面へ向かうとしても、あと少なくとも2度くらいは平地を歩き足回りの引き続きその様子を観察しておくべきであろうと感じた。

帰路は上武鳥取町の交差点から再び上武道路を経由したが、花粉症の症状は継続する明確な目のかゆみとして現れていた。
また帰宅後に鼻腔の周りを検証してみると明らかに花粉の塊と思われる物質が付着していたので洗面所にてきれいさっぱりと洗い落とした。
たぶん少なくともこうした症状はあと1か月くらいは続く感じがするが、今年の花粉症の症状はとりわけ目に来るという傾向があるらしい。

拍手[1回]

明日以降の冷え込みと強めの季節風を考えれば、出かけるのはこの日をおいてほかに無しとと思い立ち今回も日の出前の午前5時頃に自宅を立った。

2014年頃から薄々感じてはいたのだが、とりわけ昨年末頃から足回りの運動機能の低下が一段と顕著となって来たように感じる。
そこに加えて年末から正月にかけての怠惰な日常生活もある。
かくして昨年までと同じ行動が可能かどうかは全く不透明な状況下の探訪なのであった。
このためこの時期は藪が少ないからなどといって、間違ってもいきなり山城の類に出向くというのは余りにも無謀であるように思えたのであった。

とはいうものの、現実の足回りの健康状態を確認しておく必要もある。
それならばなるべく平坦地で、それでいてある程度は歩いてみて、多少は体に負荷をかけて様子をみて見ることとした。
かといって2年前の東北北部遠征のように、正直なところ1日で4万歩以上を歩くのはもう無理なようにも感じている。
とはいうものの「さいたま市」などの、あまり近くではモチベーションの維持が難しい。
このような次第で、群馬県方面で間違っても積雪の無い、かつ片道2時間ほどで自分にとって空白地の多い前橋市内を目指すこととしたのであった。
 

 
◎女堀
(群馬県伊勢崎市)
午前7時00分から8時00分まで

この「女堀」の存在を知ったのは、もう15年ほど前になるのだが、実際のところ中世初期頃の灌漑用水跡ということもあり余り気にとめてはいなかった。
この遺構は「城館跡」とは直接の関連は薄く、あくまでも平安時代末期頃に築造されたと推定されている国指定史跡の「未完の灌漑用水路跡」であり、昨年春先に入手した「伊勢崎市文化財ハンドブック」などによると、上泉から田部井にかけて存在しその総延長は約13kmとされている。
同遺構については、その後の開墾、圃場整備、宅地化などにより消滅しているような個所もあり、その痕跡は何か所かに分散して遺されているらしい。
今回は伊勢崎市内の「赤堀しょうぶ園」として公園として整備されている個所を訪れた。
この個所は2か所のトイレ付の駐車場も完備していることから、極めて利便性は高く訪問者に知っては誠に有難い。
とはいうものの、平日の早朝で「しょうぶ」の季節とは無関係の冬枯れの菖蒲田であったことから、同園内では散歩をしている方にさえ全く出会うようなことは無かった。

さて同公園整備に当たり地形改変されている部分もありそうに思われたのだが、とりわけ西側の堰堤に相当する個所の土木工事の規模の壮大さに瞠目することとなった。
現在の菖蒲田の地表からは5mを超えるような土塁状の地形が現存しているたのには全く予想外であった。
当該延長距離も地図などを参照すると約300mほどはある大規模なものであり、こういう永年にわたる土木工事技術の蓄積が、後の城館築造技術への基盤となって行った側面もあるのかも知れないなどと想いを廻らす。

     女堀の土手

むろん妄想の域を出るものではないのだが、後の時代に「陣城」の代用として利用された可能性は皆無であったのだろうかとも感じてしまうほどの土塁状の人工地形なのであった。
次は前橋市内の二之宮に残るという関連が窺える「女堀沼」方面も訪れてみようと思うのであった。


◎大室古墳群(群馬県前橋市)
午前8時15分から9時15分まで

この季節は未だに日差しが鈍いこともあり、当初の予定通りに著名な大室公園内で古墳の見学をした。
むろん堅実な駐車スペースの確保という側面もあったのだが。
さて徐に古墳の見学を始めようと身支度をしていると、車を駐車した植え込みに余り人見知りしない大人のネコさんと目が合ってしまった。
この日の日当たりは頗る良好で風も無風に近いのだが、まだまだ太陽の位置は低く氷点下ではないものの流石に気温は低く空気は冷たく感じた。
そうこうしているうちに、もう一匹の若いネコさんが日向ぼっこに合流した。
2匹共に毛並みも良くガリガリではなかったので、たぶん半家ネコなのかも知れない。
せっかくなのでひとしきりネコさんと戯れてしまった。

園内ではひととおり前二子、中二子、後二子と小二子の順で4か所を歩き、次の目的地である大室元城を目指すべく北側入口方面から退出した。

     中二子古墳

古墳に付随する水濠、堰堤は後の時代の城館築造の技法に一定の影響を与えていることは否めないものと考えられ、あらためて古墳の築造技術のレベルの高さに感心してしまうのであった。

大室元城(群馬県前橋市)
午前9時40分から10時10分

南方約400m地点に所在する大室城以前の城跡とされ、白井城の属城ともいわれてはいるが、寧ろその真偽詳細は不明なようにも思える。
有難いことに地元郷土史会と思われる「荒砥史談会」の方々の設置された標柱が城跡の東側行動沿いに建てられているので、所在地だけはとても分かり易い。

一方で、城館跡の遺構については皆無に近いものがあり、僅かに西から南にかけて存在している比高差4mほどの崖線部分の存在がその残滓を伝えているのみであった。
「前橋市史第2巻」の記述によると、遺構の消滅時期は比較的早く、明治末期までは円丘上に単郭の遺構が存在していたが、既に大正期には城館遺構は消滅しているとのことであった。
おそらくは近代における耕作地の開墾に伴い、堀跡などの遺構が埋め立てられたものと思われる。

    南西方向から

なお、この赤城山南麓の地形は南北に赤城山を水源とする小河川が南流し、その間に南北方向の低丘陵が散在するという地形が多く見られ、この大室元城もそうした低丘陵の南端に位置している。


◎伊勢山古墳(群馬県前橋市)
10時20分から10時30分

古墳つながりで、近くに所在するこちらの古墳も訪れてみた。
西神沢川を東に望む低丘陵地の辺縁部を利用した古墳で、頂部には五所稲荷神社の社が鎮座している。
比高8m前後の中規模の前方後円墳であろうか。
南側麓には古墳に付随する堀か、後世の耕作道か不明な堀状の道が存在している。
なお、この祠が今年の初詣となった。

     伊勢山古墳

この辺りには古墳と城館跡などが濃密に混在していることもあり文化財めぐりには事欠かないようだ。


◎産泰神社(群馬県前橋市)
10時40分から10時50分

国土地理院の地図を眺めていたところ、見事な独立丘陵であったことから訪れてみたものである。

   産泰神社の独立丘陵

「さんたいじんじゃ」と読み、安産と子育て祈願のご利益があるという。
正月でもあり、適齢期の善男善女が三々五々参詣に訪れていた。
直接城館跡、古墳などとは関係は無さそうなのだが、東側から遠望する限りでは満更無縁とは思えない地形を成していた。
ただし、丘陵の中心部に大きな境内地が所在しているため、元の地形が不明なのであった。


大室城(群馬県前橋市)
11時15分から12時30分

土塁、堀跡、郭跡などの遺構が残されている。
城域の南端は神沢川の合流地点辺りまでと推測されていることから、真言宗観昌寺を参拝し当該地点まで足を延ばしてみたが、むろん遺構と呼べるような形跡は確認できなかった。
主郭北側の小郭(一説には「櫓台」とも)はあまり目立たないが、東側の堀跡と共に西辺の土塁も明確に残存していた。

  主郭北側の郭で櫓台とも

主郭部は大室神社境内地で、東側の二の郭は公民館敷地として利用されているため、残存する遺構は城域の広さの割には極めて限定的であるように感じた。

「現地解説版」「前橋市史第2巻」などによると、天正13年の白井長尾氏による重臣である牧弾正父子誅殺が伝わるのだが、一方「石川忠総留書乾」によれば、多留城での出来事であることが記されている。
また白井長尾氏の領分とされる白井領の範囲からは大分離れているように思われるが、これは長尾政景(鳥房丸、憲景の次男で輝景の弟とされている)に対して北条氏直により天正11年6月に充行いされたものであるともいう。

参考資料 「白井長尾氏の研究」(増補改訂戦国大名と国衆/黒田基樹著/戎光祥出版)
 
 
◎荒砥富士山古墳(あらとふじやまこふん、群馬県前橋市)
12時30分から12時45分

大室城の西側500m地点に所在する古墳である。
形態は恐らく円墳もしくは帆立貝型であろうか、手元に詳しい資料が無いので今のところは不明。

   荒砥富士山古墳

前橋市指定文化財であり文化財標柱が設置されている。



下境遺跡(群馬県前橋市)
12時50分頃から13時00分頃まで

一応「マッピングぐんま」に掲載されている「城館跡」である。
「前橋市」(市町村)+「城館」(遺跡の種別)で検索すると100件を大きく超える「城館跡」の一覧が表示された。
たまたま大室城周辺であったことから訪れてみたに過ぎない。
県教委の悉皆調査以降に発掘調査により確認された耕作地の中の遺構なのだが、現在は中心部に用水路が存在している。
周辺部の地形や当該地表上から、その特徴を汲み取ることは困難であった。
このため、赤城山方面をバックにした冬枯れの耕作地の画像となってしまったのである。

     下境遺跡

もしもかりに「城館」という遺構の種別を示すカテゴリの入力誤りであったらどうしようと思ってしまうほどの周辺環境でもあった。
むしろ、東側に隣接している「薬師堂」が所在している低丘陵地形の方が、大室元城などの立地条件に近くはるかに城館跡の存在に相応しいように思えてしまったくらいであった。

因みに発掘調査報告書は「下境1・2(ギリシャ文字)遺跡」であるが、直接当該報告書を確認してはいないという怠慢な態度は変わってはいない (^^ゞ
また、「前橋市遺跡分布地図」にも掲載されているという。
なお、「マッピングぐんま」に掲載されている文化財包蔵地情報の精度は情報提供元と考えられる市町村側の事情の相違に大きく影響されているようだ。
前橋市内分については、検索キーの設定が同市の遺跡番号による登録が為されているという事情があり、逐一個別に詳細情報を確認しないと「城館名称」が判明しないという不便さを抱えていることに留意する必要がある。

今回は足回りの健康状態確認のためにあえて徒歩で回遊しているのだが、南方約150m地点に「舞台組公民館」という地域の集会所があり、短時間ならばこちらに駐車させていただくのが良いのかも知れない。


荒子の砦(群馬県前橋市)
13時10分から13時20分

現地には大きな「忠霊塔」が設置されており「林の広場」とも呼ばれている公園となっている。
この設置工事に関連していると思われる土塁状の地形が認められるが、勿論近代以降のものであり城館地形とは直接の関係は無いようだ。
1971年に刊行された「前橋市史第2巻」によると、台地続きとなってる東側部分に濠があったのではないかとも推定しているが、現在では宅地化、道路建設などによりその面影は感じられない。
現在は水路となっている小流により浸食された崖線地形のみが、唯一城館跡との関連性を窺わせるだけである。

     荒子の砦

なお比高数メートルほどの崖線地形の先端部に所在していることから、前項の「下境遺跡」の個所からも観望できる位置関係にある。
彼我の距離は直線にして約300mほどに過ぎない指呼の間である。
因みに、同遺跡を流れている水路はそのままこの「荒子の砦」の崖線下の小流となって下っている。

この後、すぐ近くの「そば・うどん店」での昼食を考えたが、往路には開店時間前であったために入店できなかった「そば専業店」である「蕎麦仙人」の方へと足を延ばして、「とろろそば大盛り税込1050円」で昼食を摂り、ほぼ払底しつつある英気を養い、大室城跡東端の水路部分を再確認して車を停めていた「大室公園」まで戻った。


◎梅木屋敷(群馬県前橋市)
14時45分から14時50分

古墳時代の豪族の屋敷跡が検出された辺りの画像で、奥に見える丘陵はたぶん赤堀茶臼山古墳で、毒島城の西側の丘陵地帯に相当するはずなのだが。



この日の探訪は城館跡4か所、古墳6か所、古墳時代の屋敷跡1か所、神社仏閣4か所となった。
時刻は未だ午後3時前ではあったが、この時点でそれなりに足の疲労感もあり、帰路の渋滞等を考慮してやや早めの帰宅とした。


この日は多少朝の通勤ラッシュ時と重なったが、幸いにして大きな渋滞には見舞われず、また翌日が前橋市内の交通規制を伴う正月イベントが予定されていることを知ったのは出向いてからであった。
天候はこの時期にしては風邪もなく穏やかで温かな日差しが降り注ぐという一日であった。

総歩数は約2万7千歩で、右膝と足先などに多少の違和感と痛みは感じていたが、どうにか歩き通すことができた。
足回りの疾患が持病とも転化しつつある現状では、あと少なくとも2、3回は同様に群馬県内の比較的平坦な地形を目指す心積もりである。

拍手[3回]

2018年の訪城は概ね4月と11月に集中した。
新規59か所、再訪23か所、計82か所であった。

新規については県別では群馬県内が53か所、新潟県が6か所(全て南魚沼市)であった。
そのうち群馬県の市町村別では、高崎市8か所、前橋市5か所、伊勢崎市13か所、渋川市11か所、高山村3カ所、中之条町5か所、東吾妻町6か所、安中市5か所などとなっている。

なお、5月から年末にかけては孫の体調不良、と自身の風邪ひきなどが影響したため出かけることのできる日数はかなり限定されることとなった。

昨年の2017年は約150か所ほど訪問していたが、自身の加齢等の事情も含めれば大体こんなものであるともいえるのかも知れない。

なお、今年は年末に家内の父親が急遽入院することとなった。
このため来年はさらに出かけることのできる日数は制約されるものと思われる。
従って、低めの目標として年間で新規40か所ほどを設定しておこうと思う。

拍手[3回]

午前5時自宅発。
目的地は榛名山の東麓。
今回も群馬県渋川市内である。
ただし、市内西部地区には殆ど足を踏み入れてはいないので余り地理には詳しくはない。
加えて市街地内では道幅も狭く一方通行などの交通規制も少なくない。
合わせて駐車場所探し等のトラブルを避けるべく、市街地エリアのはずれに所在している工事中の市民会館の付属駐車場を起点として、やや無謀気味ではあるのだが全て徒歩で廻ってみた。
無論、近年劣化の著しい足回りの筋力低下の状況確認を行うためでもあるのだが。


◎小栗上野介関係の史跡
午前8時半頃

むろん城館跡との関わりは無いが、通りすがりなのでこうした史跡も見学しつつ、日差しが明るくなるのを待っていた。



◎旧信用組合の建物
午前8時35分頃

冬至が近いことから、未だ日差しが弱く時間調整しているついでに見学した昭和6年(1931)建築渋川信用組合の建物である。
その後北群馬信用金庫、公民館、商工会館などとして利用されたと説明版に記載されていた。
なお現在のものは曳家復元されたもので、建設当時には地下室も存在していたとのことである。

  昭和初期の近代建築物


渋川の寄居(群馬県渋川市)
午前9時00分から9時15分

別名を渋川城とも。
市街地に所在する小高い丘陵先端の浄土真宗正蓮寺の境内を中心とした一帯が城域とされている。
南西方向の丘陵続きを除いて、榛名山方面から流れ出す小流が刻んだ谷地形に囲まれた天然の要害地形を形成。
また同寺境内には城跡であることを示す石碑も所在している。

    境内の石碑

ただし現在城跡らしい遺構は南西側の民家敷地内となるのだが、僅かに南西方向の参道脇からチラリと眺めるのみである。
明確な堀跡(ないしは堀切)と土塁らしい地形の一部が遺されているように見受けられた。
画像右側の青色のプレートには「一時避難所 寄居地区」と記され、今でもその役割を担っているようでもあった。

    南側の遺構など

このあとは、そのまま徒歩にて西方の鐙山の砦方面へと向かった。
しかし途中で足に違和感を感じたことから、平沢川沿いの「親水公園」のような場所で暫しの間休憩した。

   平沢川沿いの小公園


鐙山の砦(群馬県渋川市)
午前10時30分から11時10分

渋川の寄居から鐙山の砦へは平沢川沿いに西へと進み、あじさい公園近くの舗装された林道を登って行った。
この辺りからどうも思うように足が前に進まない気がしたのだが、よく考えてみれば山麓から榛名山方向に向けて登っているのであった。

  鐙山方面の手前の丘陵

途中で永享年間の五輪塔が所在していたので休息を兼ねて暫し見学。

 永享6年の銘があるという

渋川の寄居からの移動距離は道程にして約2kmなのではあるが、いちおう比高差にして120m以上はあることから至極当たり前のことなのであった。

  まだ比高差60m付近

東西に走る農道を西へと向かっているので、否応なしに水沢山と思われる岩峰が目に入る。

東西方向に走る農道から水沢山

縄張図で著名なY氏の情報によると、南側の畑側から城跡の所在する山林に入ることが示されていたので、一応これに従ってみた。
高木の常緑樹地帯なのでもう少し藪が少ないと思ったが、この12月でもそこそこの藪である。
それでもどうにか城跡の南部に位置する堀跡へと到達した。
どうやら一番東側の郭の東端部分付近に出たらしい。

  南側から見た城跡の山林

しかし藪も多いが、高木の常緑樹が密生しているため殆ど太陽光が届かないのである。
この日はほぼ快晴に近い好天であるのだが、予想以上にかなり薄暗い環境であった。
イノシシの作物阻害も少なくなさそうであることから、できうることならば単独での突入は避けるべきなのだろうとも思った。

 南側堀跡の最も明るい個所

今までの経験上から色々な意味合いにおいて危険と隣り合わせ(俗にいえば「嫌な予感」のようなもの)という状況を感じさせる余りに陰惨な暗さであった。
このため、管理人としては珍しくデジカメ撮影もそこそこに、西側の土塁方向へと移動することとした。
城跡が所在する地形は、榛名山の東麓でもあることから西から東へと緩やかな傾斜がかかり、郭部分の削平も余り明確ではなく、どちらかといえば自然地形に横堀が施されているという印象が強いように感じた。

南北方向の土塁とこれに並行する堀跡も一応は確認できるのだが、何分にも藪が多いのに閉口した。

   出枡状土塁の個所

帰路は西側の高圧線鉄塔から、太陽光発電施設のフェンス沿いに南下して農道から退出したが、このルートは殆ど藪にも煩わされず、見通しも良く極めて安全、安心なルートであるといえよう。
逆に言えば現在の状態からは、寧ろ西側の高圧線鉄塔側から西へと進んで山林内に入ってゆくというルートが最も安全であるように感じたのであった。
ノイバラの類は多少散在はしているものの、12月から3月頃までの時期であれば余り問題にはならないものと思う。
また高圧線鉄塔が所在する地点からは、鉄塔の保守等が関連しているのか森林が切り開かれ入沢城方面の見通しに優れていることが分かった。

 画像中央付近が入沢城のはず

また折角訪れたついででもあることから、このあとこの地の豪族でもあった城跡北麓に所在する入沢氏墓地にも立寄ったので、さらに歩行距離は増えていくこととなった次第である。

   入沢氏祖先の墓所


この後12時10分から12時40分は「滝そば」にて昼食。
「野菜、舞茸てんもり」で、税込1100円であった。
単独行では、所要時間を節約すべく何時もは食事抜きが多い。
昼食を摂ったのは久しぶりのような気がする。
たぶん10年ぶり位なのかも知れず。
なお会計の際に柚子を2個頂いた。
薬味に使用されていた柚子を完食していたためなのだろうか。

ただしこの辺りから、履き替えたトレッキングの不具合が顕在化。
つまりは両足の第五指、第四指に明らかな痛みが発生。
足回りの痙攣対策は講じてはいたのだが、歩行中に足の幅が大きくなることを失念。
要は足裏のアーチ構造が年齢と共に形態が崩れ始め、結果的ににて足幅がワイドになってしまうのである。
などと、冷静に書いてはいるのだが、歩行中には幾度か「途中撤退」の四文字が脳裏をかすめていた。
しかし冷酷なことに、このあとその痛みはズキンズキンと頭に響き、刻々と度合いを増幅させていったのである。

 
行幸田城(群馬県渋川市)
13時50分から14時15分

ひとつ前の鐙山の砦からこちらへと向かうには、その地形上から榛名山方面から流れくだる幾本かの谷川を越えなければならない。
そうはいっても足の問題もあることから、一応榛名山中腹を南北方向に走る県道164号線を利用した車での移動も考えてみた。
近くまではアプローチできそうにも思えたのだが、基本的にそれほどの土地勘がないこともあり、路上駐車など駐車場所に難渋するのも避けたいことから、徒歩にて東側麓方向から大きく回り込むこととした。
このため、現地までの移動距離は道程にして約5kmとなるのだが、比高差は120mを下りさらに、120mを登るということとなった。

予めアプローチに関する情報は確認済みであったが、林道の分岐は分かりにくいので徒歩の方が間違いにくいようだ。

 市道から南側の林道へ入る


 この先の分岐を左(東)へ入る

林道沿いからはここも高圧線の鉄塔が見えるのでこれが大まかな城跡の目印である。
ただし真正面からの侵入はほぼ困難であった。

    鉄塔の東側は藪

林道から高圧線よりも少し手前の「上越幹線24」の標柱が設置された個所から、設備保守のために切り開かれた細道を辿ると藪の影響を受けずに鉄塔の個所に出られる。
少しだけ大回りなのだが、確実にアプローチできるルートである。
山崎一氏によれば、上記の鉄塔部分に食い違いの堀切を想定されているのだが、現在の地表部分から確認することは困難であった。

  東電の保守ルートを入る

鉄塔の周辺は草木も少ないのだが、その先の西側には「鐙山の砦」にも似た鬱蒼とした山林が目に入る。
城跡としての遺構が残存しているのは、正にその山林の中であることから、意を決して突入した。

    山林手前の藪

なお、一般には高木の常緑樹が所在すれば光合成の関係上から低木、アズマザサ等の藪は少ないし、草本類の繁殖も抑制されるというのが普通である。
かつ、北側方向ではそうした傾向が顕著となる・・・と植物の植生について僅かばかり知識があると役立つこともあるらしい。

このため無闇に山林部分に突入した訳ではなく、北側の崖線部に近い方面から切岸の斜面を滑り落ちないように注意しつつ西側の堀跡へと突入した。
すると山林手前部分の藪は消失し、「鐙山の砦」よりも見通し自体はそれほどには悪くは無いということが判明した。
尤も、あくまでも遺構の北側部分がそうなのであって、日当たりのよい疎林部分については、当然のことながら藪が濃い状況であった。
 
  いちおう堀跡である
 
 
    東側土塁上から


     土塁部分

堀幅は少なくとも6m以上はありそうで、土塁側の切岸部の高さも3m程はありそうに思えた。このため上記画像の土塁内側(東側)の方が主郭部であるようにも思える。
なお、見学中に遺構の南部方向から、恐らくは哺乳類と思われる落ち葉を踏みしめる物音を耳にした。
この時とばかりにクマ除け用の笛を鳴らすと、それ以上物音が接近してくるような気配は感じられなかった。

   頸椎付の動物の白骨

このような具合で、踏査できたのは概ね北側部分についてのみであり、物音が聞こえた藪の酷い部分については未踏査となったのである。
北側部分に関しては下記の画像のように、それほど見通しは悪くは無いように思えたのであった。
 
    北側の切岸部分


   城域の東端部付近


   南側の腰郭付近


   逆光で撮影した土塁


     赤城山

復路はただひたすらに下ってゆくのだが、終始その視界には赤城山の雄姿が望まれた。
足元はかなりの疲労と痛みを伴ってはいたが、お陰様でこの日も天候に恵まれ有意義な一日を過ごすことができたことに感謝。


冬至も近いので早めに山を下り、15時過ぎには駐車場所に到着。
そのあとは、渋川市立図書館に立寄り、15時30分から参考図書室にて7冊分186枚分の複写申請。
3人がかりとなった複写作業で、コピー受領までの所要時間は約2時間。
閉館間際までお世話になり、ここに深謝を申し上げます。
次に、近くの正林堂書店にて「みやま文庫」から2点を購入し、18時前には渋川市を立った。なお、この時点で両足の痛みは頂点に達しており、股関節の痛みとも相俟ってその歩幅は約30cmにまで減衰していた。
どうもこういう足の痛みは「休息」により「急速」に激化するらしい。

今年に限っても渋川方面を訪れるのは、もう何回目だか分からなくなっている。

とはいえ、何時も眺めているだけの榛名山東麓に赴いたのは、城跡巡りでに限れば初めてなのかも知れない。
西側を眺めると水沢山などの岩峰が目立つ。
東へと目をやれば、その視界には赤城山が広がる。
北を目を移すと、子持山と小野小山が目に入る。

たぶん今季は積雪期を除いて、暫くはこうして通うことになるような気がする。
渋川市内であると自宅からは片道の所要時間は約3時間ほと。
往復距離は約190kmほどで、このため往復にして6時間足らずの運転時間に過ぎない。
新田氏関連の遺構の多い、太田市内と比較すると約70kmほどは遠くはなるが、日帰りで赴くには伊勢崎、前橋方面と共に行きやすいものを感じている。


なお今回は履き替えてきたトレッキングシューズの幅が合わず足先に激痛。
グリップは効くのだが、できることならば激痛は避けたい。
もっとも二万七千歩ほど歩いているという影響もあるのではあるが。

歩きはじめに左膝にいくぶん違和感があったが、これはゼムストの強力サポーターでカバー。
それよりも、ことによると右股関節がそろそろ危ないという感触も出始めている。
事実、3年ほど前から右足の付け根に痛みが出てきている。
また、足を大きく上げること自体も徐々にではあるのだが次第に難しくなってきていることを感じている。

尤も常識的に考えれば、健康寿命でいえばあと約3年であるので当然なのかも知れない。
しかしある程度は動かねば、さらに足回りの筋力低下は進むのみてあるのは自明である。
そのあたりの兼合いが難しくなってきているようだ。

拍手[3回]