本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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前回日帰りで長野県を訪れたのはもう7年前に
本来の目的は亡父の遺品である戦前の絵葉書等の寄贈
このため寄贈先の軽井沢町と隣の佐久市を訪れただけで帰宅

7年後の今回も家内の美術館見学のついでのようなもの
従って一泊2日とはいえ、城館跡めぐりはあくまでも付足しに


◎生島足島神社(長野県上田市)
午前8時55分から9時30分
武田氏家臣団の起請文で著名な神社
「子育て」祈願もあることから参拝

  水濠に囲まれた境内


◎無言館(長野県上田市)
午前9時45分から
「館」名は付けられていますが、あくまでも「美術館」です
戦没画学生慰霊美術館の本館、別館オリーブの読書館、デッサン館などを順次見学
数多の有為な人材が失われたという事実とその背景を、戦後に生きる人間としてあらためて重く受け止めることとなった

      無言館


◎塩田の館(長野県上田市)
午前11時05分から11時40分

名称が紛らわしいのですが、いわゆる「城館跡」ではなく、あくまでも観光案内所兼休憩所兼蕎麦やさん(北条庵、この塩田の地に鎌倉北条氏一族が居住したことに因む店名)です ^^

     塩田の館

ここで蕎麦と山菜?天ぷらで昼食

    皿蕎麦と天ぷら


女神山城(長野県上田市)

むろん遠景撮影のみ
この時季に比高差200mの急登する気力はなし(^^ゞ
敢えて真田氏の幟旗を避けて、うどんの幟旗を入れて撮影してみた

   女神山城の遠景

 
◎前山寺(長野県上田市)
12時20分頃

当初の予想通り時間に余裕がなくなり山門から参詣して移動

    前山寺山門

門前の「野菜等直販所?」で熟睡していた看板ネコ

      爆睡中


塩田城(長野県上田市)
12時45分から13時15分

石垣の手前まで赴いたのですが、経験上から何やら雰囲気(大型哺乳類?)が怪しく撤退
遺構を前に撤退したのは10年ぶりくらいです(^^ゞ

 公道沿いからも見える城址碑

 空堀の近くで無装備の中年カップル(サンダル履き)の方が、登山道を進もうとされていましたので、お節介ながらご忠告申し上げたところ即座に撤退されました
因みにご忠告の内容は「クマ出没の可能性、云々」(入山装備不十分な方々へのご忠告はこれが一番納得していただきやすいようです)です
この辺りに頻繁に出没するかどうかについての詳細は把握しておりませんが、北方の砥石城近くの太郎山山系ではこの夏の出没事例が頻発しています

このあと実際に谷沿いの登山ルートを登り始めると、異様な雰囲気の景観がつづき、「クマ除け鈴」と「ラジオ」くらいでは効果が無さそうな印象を抱き、小生も石垣遺構の手前付近でUターンを余儀なくされました。

  小口石垣群の手前付近

年齢的に最早この比高差と斜面は登れません(^^ゞ
 
   塩田城付近の山稜


◎龍光院(長野県上田市)

こちらも残り時間の関係で山門前から参詣するに止まりました。

岡城(長野県上田市)
13時50分から14時30分

外郭の堀跡は比較的よく知られているようですが、宮坂氏の著書にも記されているように主郭北西部の堀跡もある程度良好に残存していました。

    北側の外堀跡


    北西部の内堀


浦野城(長野県上田市)

遠景のみの撮影



◎上田原合戦古戦場(長野県上田市)
15時15分から16時50分

上田原古戦場公園


    小島権兵衛墓所


 屋代源吾墓所と須々貴城方面


    屋代源吾墓所


   板垣信方墓所(板垣神社)
  背景の山は虚空蔵山城方面


    雨宮刑部墓所


    無名戦士の墓


   石久摩神社の石碑


     伝・信玄道

の順で徒歩にて探訪して本日の任務完了

以上のように、日をあらためて訪れる際の目安とするために遠景を撮影しただけの城館跡が数か所ほどはあった
しかし加齢に伴う体力の衰え、等高線の混み具合とその比高差、クマとの遭遇の可能性などを勘案すると遠景のままとなる公算は限りなく大きいものがあると感じざるを得なかった

拍手[4回]

都内23区シリーズ第11弾はまたしても葛飾区(笑)

何時もの通り始発に乗車すべく早朝午前4時20分に自宅出発
夜明けの時刻が夏至の時に比べ少しずつ確実に遅くなってきている
夏至の頃には午前4時過ぎには東の空が白み始めていた

今回のルートは確実に座れそうな東上線―和光市乗換の地下鉄有楽町線―有楽町乗換の地下鉄日比谷線直通で、結果的に往路は全て座席に座れた
JR利用に比べ約20分所要時間が多いが、足への負担を極力軽減することに

前回の7月24日はあちこちに立寄り結果的に歩き過ぎとなりエネルギーが枯渇
このため今回の現地移動はできるだけ京成バスを有効利用
全体の歩行距離も極力抑制


小菅御殿、銭座(東京都葛飾区小菅)
午前6時50分から8時10分

小菅駅が所在するのは足立区で、小菅は足立区との境界に所在している
伊奈氏下屋敷、徳川家御殿跡、幕末期の銭座跡・・・そして現在は小菅拘置所
むろん関係者以外は立ち入り不可で撮影自体にも制限がある
関係者となるのは不本意でもある
正門脇の説明版と石灯籠を柵越しに眺め、すぐ近くの小さな親水公園内(小菅万葉園)に設置されたよく見えない2種類の説明版を見学

  正門脇の説明版と石灯籠


よく見えない小菅御殿の説明版


◎小菅稲荷神社
拘置所南側の道路沿いに所在する神社
伊奈氏下屋敷時代には屋敷神のような存在であったのかも知れず
ただし現在の所在地は当時のものではなく社殿は移座しているらしい

    小菅稲荷神社


◎西小菅小学校
この辺りに銭座が置かれていたと推定されている
東側校門前に設置されている銭座の説明版はしっかりと読むことができる

    銭座の説明版


◎八幡宮
現在では綾瀬川沿いに所在する道端の小祠だが、かつては参詣者により賑いを見せていたという
かつての綾瀬川はこのような直線状の河川ではなく、古隅田川を含めてこの付近では特に大きく蛇行を繰り返していたことが明治初期の迅速図などからも把握できる

    現在の綾瀬川


◎小菅神社
綾瀬川沿いの微高地に所在する神社で低丘陵の先端に所在しているがその由来は不詳
近世以降から現代にいたるまでの間における綾瀬川の河川改修、流路変更などの事情を考慮すると往時の地形を想定するには材料不足が否めず
 
 綾瀬川東岸の小菅神社境内


◎古隅田川
地表部が公園化されている隅田川の旧流路を辿ってみた
恐らく現在の流路は流入する水量の減少などもあり埋め立てられ、その川幅も狭くなっているものと考えられる

     古隅田川

このあと「登記所」バス停から京成タウンバスに乗車し「堀切中学校」バス停まで移動
この付近を散策していると必ずスカイツリーの姿が見えるので、まず方向を誤ることはなさそう



堀切(東京都葛飾区堀切)
午前9時00分から9時15分

「東京都の中世城館」によれば、「いぼとり地蔵」でも有名な真言宗極楽寺とその周辺を示唆していると思われるが、歴史的経緯はおろか、その存在の信憑性についても?となる城館跡

   極楽寺南側の道路



立石(東京都葛飾区立石)
午前10時30分から10時40分

前々回すでに探訪済みの地域
しかし見落としたポイントに気づき再訪
古墳の石窟の一部とも

「立石」地名の語源となった石

中川沿いの道を歩くと何故か足取りが重くなる
今回はデジカメレンズを以前から使用していた18-300mmに戻したせいなのだろうか
あるいは幾分薄日が差しはじめて気温が上昇したことによるものなのだろうか

帰路、京成立石へと向かう際に立石駅前商店街の和菓子屋で「どら焼き」など5品を購入
金750円也


この後は早々と京成立石―青戸―日暮里―池袋経由の東上線にて帰宅
青戸―日暮里間は特急運行でこの間の駅は通過するものの電車の速度は兎に角のんびり
恐らく東上線の急行(時速90km超)と比べ半分くらいの速度で運行していた
地図を参照してみると確かに急カーブが多いので納得

日暮里駅の山手線への乗換ではキャリーケースを引いた主にアジア系外国人観光客で大混雑
池袋駅の階段では視覚障害の方が、そうした雑踏の中を人の流れとは反対方向に白杖をついて階段を上がろうと試み、数人が危うく将棋倒し寸前に
このように今日はいろいろと考えさせられる日でもあった


超早目の撤収故、池袋からの東上線も血眼にならずに座席確保
ただし駅からのバスは本数も少なく予定のダイヤが合わずに徒歩となった
それでも今回は1万8400歩と最少
まだこの歩数程度ならば足への影響はほぼ無いことも確認
あと二三年くらいは動けそうにも思われた

拍手[4回]

この夏とうとう10回目となる都内23区の城館跡探訪
今回も前回に引き続き葛飾区方面の残り4か所
伝承地、推定地は数々あれども、前回の葛西城方面を除くとほぼ無名の存在が目白押し
しかも時候はといえば、吹き出る汗が止まることを知らぬ猛暑
加えて足元も気力も着実に減衰の一途
果たして何処まで辿り着けるのか皆目不明の彷徨のはじまり 
 
 
会田氏館(東京都葛飾区南水元)
午前6時45分から7時30分

金町駅北口から京成バスで「神社入口」(富士神社入口)へ
徒歩でも差支えない僅か1.5kmほどの道程だか体力温存を優先
「角川日本地名大辞典」によれば、会田氏は信濃出身とされ始め関宿周辺に勢力を扶植し、永正年間に葛西に定住し後後北条氏に従属したともいわれている

富士神社(浅間神社)と富士塚

「東京都の中世城館」によれば、推定地はおよそ富士神社の南東、飯塚小学校の南西辺りを表示
一帯は中川東岸の低地の住宅地で起伏の目立たない平坦地
なお、神社社殿背後の「富士塚」は補修工事の真っ最中
富士神社、飯塚小学校、飯塚公園と廻り、中川水道橋付近から中川東岸堤防を経由し北上開始

    中川水道橋


◎夕顔観音(東京都葛飾区西水元)
午前8時00分から8時20分

迅速図などによれば水元飯塚村北端と推定される約800m先の安福寺(西水元1丁目、別名を「夕顔観音」とも)へと移動し、旧来における飯塚村の南北に細長い集落の位置関係を確認

    夕顔観音の石碑

なお「東京都遺跡地図情報」によれば途中に「水元飯塚遺跡」も所在
早朝の時間調整も兼ねて、西水元1丁目から水元、東水元を経て東金付近までを散策
移動距離にすれば僅かに3km少々のところ、これが思いのほか時間を要したのは下記の通り


◎水元公園(東京都葛飾区東水元)
午前9時00分から9時50分

遺憾ながら途中水元公園付近辺りでほぼ気力、体力ともに枯渇
暫くの間公園のベンチに坐し水分補給と休憩するも依然として発汗は止まらず
あくまでも南寄りの風は生暖かく涼風とは無縁で発汗中の全身に纏わりつく
しかも木陰となるベンチは付近には見当たらず(笑)

   小合溜(古利根川)

しかし思いがけず「思案坂」の石碑に遭遇
14世紀新田義興に付従ったとされる細谷氏の故事に因むものとあった
確かに現在でも細谷姓のお宅が散見される地域ではある



◎香取神社(東京都葛飾区東水元)
午前10時15分から10時20分

元々は古利根川の流路に突き出した半島状の地形先端部に所在

     香取神社


◎松浦の鐘(東京都葛飾区東水元)
午前10時35分から10時40分

思いのほかに足がすすまず己の体力の限界を思い知り愕然
近世に長崎奉行などを務めたとされる旗本松浦氏の鐘楼
残念ながら釣鐘自体は現在修理中、「天文と郷土の博物館」に保管中とのこと



◎水元さくら堤の由来の碑(東京都葛飾区東水元)
同上

1km以上離れたもう少し北西の方角に古碑があるらしい
なかなか見当たらずこの新しい石碑の画像にて代用


◎しばられ地蔵(東京都葛飾区東水元)
午前10時50分から11時00分

南蔵院
「大岡政談」にも登場する盗難除け、厄除けの名所のひとつ
この暑いのにお地蔵さんは荒縄でぐるぐる巻きに
因みにひと縄100円だそうな

   「しばられ地蔵」


◎半田稲荷神社(東京都葛飾区東金町)
午前11時20分から11時25分

    半田稲荷神社


◎金蓮院(東京都葛飾区東金町)
午前11時45分から11時55分

岩槻街道沿いの真言宗寺院
入口が分からず境内周辺をほぼ1周した
冷静に考えれば山門は一般に南向きが多いことを失念するくらい思考が混濁(苦笑)

    金蓮院山門

ここで、さらに休憩を重ねた
しかし極度の疲労によりこの後の葛西神社での参詣は断念
ようやく金町駅北口へと辿りついた
かくて予定時刻から遅れること既に約2時間


◎一里塚(東京都葛飾区亀有4丁目)
12時40分から12時42分

金町駅より常磐線に乗車し西隣の亀有へ移動
途中港北橋通沿いに所在する一里塚の石碑と水戸黄門一行のオブジェに立寄る

   一里塚石碑など


上千葉城(東京都葛飾区西亀有)
12時45分から14時00分

この城館跡もその所在地については明確ではない模様
「所領役帳」では遠山丹波守の所領とされている
お馴染みの「東京都の中世城館」では、西亀有2丁目に所在する西亀有小学校とその東側付近を推定
また、「東京都遺跡地図情報」によれば、西亀有1丁目の「中道公園」の東側住宅地を「中世遺跡」(古銭の出土、溝検出など)のひとつとして掲載
一方戦後間もない時期に在日米軍により撮影された国土地理院所管の航空写真によれば、これらの推定地とは別に幾つかの方形状区画をを認めることができるが、その当時には既に耕作地化がすすみ旧家の屋敷林区画の可能性が高いものと判断

   推定地のひとつ

バスの本数も少ないことから往路は徒歩にてアプローチ
しかしこのラスト徒歩約2kmはかなり堪えた模様
帰路は何としても亀有駅行の京成バスに乗車せねば帰宅まで体が持たぬものと自覚
バス停の時刻表は往路で確認済み
とはいえ、バスの便は1時間に1本あるかないかという状況
このような事情から最後の香取神社は鳥居の付近から参拝し、14時13分発の京成バスに間に合わせるべく重い足取りを鼓舞し歩みを速めていった


というような次第で、今回は結果的に神社仏閣めぐりという趣に
当然西側の「小菅」(小菅御殿跡、現小菅拘置所)、南側の「堀切」方面までは遠く届かず
それでもこうした状況下でよく2か所目まで進めたとも思う

帰宅後の夕食中、まずは右手の指先が痙攣開始
次にそれをカバーしようとした左手も同調痙攣
さらに立ち上がろうとすると左太腿も痙攣して三重苦になり身動きならず

本日の歩行数は約3万3千歩に
やはり酷暑のもと、2万歩余りに抑えなくては身がもたぬことを痛感
「次回」はというと、ここはやはり「自戒」することとして、少なくとも2週間は空けよう

拍手[3回]

アップするのを忘れていました。
JR亀有駅南口に所在する銅像です。
レギュラーの「中川巡査」の名前は、亀有の東方を流れている「中川」に因むものだったのだろうか・・・

  亀有駅南口の銅像

拍手[2回]

とうとう今年6月以降9回目となる都内23区シリーズ
とはいうものの「遺構無」「ほぼ伝承地」「ほぼ無名」の事例数多な地域
このため盛り上がりに欠けることこの上なし

この時期は体力と気力の維持が第一義で、結果として空白地の漸減というおまけもあるというような心積もりが大事

経路は東上線―副都心線―千代田線―浅草線(京成押上線乗入)と乗り継ぎ、京成四ツ木駅へと移動
実はこの間、新宿3丁目と馬喰横山での地下鉄乗換の際にすでに足に違和感発生
その都度痛みの部位が異なる事態に困惑することしきり
それでもテーピング、サポター装着、内反小指対策、骨棘対策、足底腱膜炎対策等々ひととおりの足回り対策を講じると約1時間を要する

今回は右膝+両足踵(たぶん骨棘と推定)

思えば昨年の今頃は横浜市内を中心に彷徨
バスには極力乗らずにひたすら歩きまわり1日で40km近く歩けた日々が今では懐かしい
いまでは1日20km程度が限界となってきている


しかも天候は前日から当日早朝まで「蒸し暑く不安定」という予報
まさしく東の空は「朝焼け」で降雨の予兆あり
天候は持っても午前中頃までと判断
もっともこの蒸し暑さの中を夕刻まで彷徨するだけの気力と体力は皆無なのだが


伝葛西清重館(東京都葛飾区)
午前7時00分から7時10分
午前7時25分から7時30分

天台宗西光寺を中心とした一帯とも伝わるという
近代以降の市街地化が早く戦後間もない時期に撮影された航空写真はともかくとしても、明治初期の迅速図にさえも城館跡に関連するような痕跡の確認は困難
山門未開錠のため開門後に再訪しあらためて参詣

   山門脇の説明版

国道6号線歩道から見える約3km先のスカイツリーの姿
すでにこの時点ですでに薄靄がかかりはじめ正しく雲隠れ

   東京スカイツリー

◎伝葛西清重墓所(東京都葛飾区)
午前7時10分から7時15分

四ツ木一丁目西町町会会館の建物南側に所在
ブロックとフェンスに囲まれた私有地の雰囲気の漂う一角に所在
墓石自体の由来経緯については伝承性が濃厚の模様

    伝葛西清重墓所


◎若宮八幡神社(東京都葛飾区)
午前7時25分から7時30分

幕末期の「江戸切絵図」等にはひときわ大きな境内が記載
現状は住宅地の一角に目立たぬように鎮座
「切絵図のデフォルメ」の可能性もあるが、合祀などによる移転若しくは境内地転用などの背景があったのだろうか



渋江陣屋(東京都葛飾区)
午前8時20分から9時00分

西光寺境内から徒歩にて東へ約600m移動
住宅街の路地を抜け京成押上線の踏切を横断し「日本城郭大系」が城館跡として推定している「白髭神社」へ
戦国期里見氏の陣城説、後北条氏家臣山中氏との関連などが想定
境内地をとりまく曲折した道路形状に城館跡特有の要素を感じるものの、仮に陣城となると関連性不明に

     白髭神社

なお、ここで地元の参詣者と暫くの間歓談
一方「東京都の中世城館」によれば、白鬚神社北方約200m地点に所在する「葛飾郵便局」付近を想定

     葛西郵便局



立石堀の内(東京都葛飾区)
午前9時35分から10時00分

葛飾郵便局から本奥戸橋の手前(立石駅前通りバス停)まで京成バス移動し徒歩約400m
中川の流路が大きく蛇行する沿岸で往昔には流路の変遷に左右される一帯
所在地は「東京都の中世城館」所収の「城館分布図」を参照

   本奥戸橋付近から

「堀之内」の地名からその存在が窺われるという比較的曖昧な推定地の模様
念のため付近の「葛飾税務署」「真言宗南蔵院」「熊野神社」などを訪問

     熊野神社

むろん地表上からは遺構の存在を窺わせるような地形的特徴を見出すことは困難



葛西城(東京都葛飾区)
10時35分から11時40分

この城跡の資料を集めていたのはもう10年以上も前の出来事
今回ようやく真剣に目を通したような次第
大石氏、千葉氏、後北条氏と変遷
 
   葛西城址説明版

主郭は南北に貫通する環状7号線により東西に分断され、主に西側部分に石碑、説明版が配置されている
また下記画像の中央部付近で斬首されたと推定される1体の頭蓋骨(推定女性、年齢35歳±10歳)も検出されているという
後北条時代の主郭堀跡北東部付近ということなので、現状に当て嵌めればおそらく大型トラックが写り込んでいる近辺らしい

  葛西城主郭は環七で分断

わずかに堀跡の形跡を留めるとされる道路が残されてはいる
発掘による堀跡検出部分と堀跡想定部分とを概ね彷徨

 葛西城主郭西側の堀跡付近



御殿山(東京都葛飾区)
10時35分から11時40分

徳川氏による近世の「御茶屋御殿」のひとつで中世の葛西城主郭付近に重なるらしい

   御殿山公園案内板


※今回の基礎資料(メモ追加分)
「平成19年度特別展図録 関東戦乱」(2007/葛飾区郷土と天文の博物館)
「東京下町に眠る戦国の城 葛西城」(2009/新泉社)


本年6月以降は毎回全て蒸し暑さの中の探訪
そのなかでもこの日の暑さは格別
時刻は正午前とはいえ足回りはほぼ限界
このあと約1.2kmほど西へと徒歩移動し、博物館で発掘された遺物を見学するという選択肢も
しかしこの時点で
気力、体力ともに急降下
正午を前に両踵の痛みにより行動不能となる以前に敢然と撤退
暑さのため痛みどめの服用さえも失念(笑)

下車したバス停から再び京成バスに乗車し環七を北上し亀有駅へと向かった
亀有駅南口でバスを下車
ふと既視感を感じたが、おそらくは半世紀以前に訪れている可能性あり

ここで「こち亀」でお馴染みのモニュメントに対面
そういえば当地は「こち亀の故地」でもあった
その後千代田線直通常磐線に乗車し山手線―東上線経由で帰宅
まもなくこの日訪れた各所でゲリラ豪雨発生
足への負担を減ずるべく中間での移動手段に京成バスを多用するもこの日の歩行数は2万3800歩を記録
毎回のこまめの水分補給と「塩飴」摂取の効果はそれなり

拍手[3回]

本来ならばもう少し間を空けておきたい所、生憎と今週の火曜日から金曜日までは雑用つづき。
このため中3日という足回りの回復も万全とは程遠い状態での探訪に。
 前回に引き続いて武蔵野線経由、起点となるのは荒川区日暮里周辺。
先日の石浜城(荒川区)の折もかなりの酷暑。
然しこの日はさらに輪をかけた酷暑となりそうな蒸し暑さ。
早朝にもかかわらず既に最寄駅まで向かう際は汗が吹き出し続けていた。

 
 
 
◎道灌山遺跡(東京都荒川区)
午前6時15分から6時30分
道灌山通はあくまでも後世(明治初期以前、おそらく近世)の切通しで、本来は南側の道灌山公園と道灌山遺跡は連続した丘陵で南方の上野台方面から赤羽まで連続した崖地である。
開成学園前の「ひぐらし坂」「道灌山遺跡」などの説明版などを確認、あらためて北側崖線部地形をしげしげと観察。
この一連の崖線地形はすでに60年以上前から目にしていたお馴染みの地形、しかし数年前までは海蝕台地の一種としてとして理解していたことは無いというお粗末。
また、鉄道軌道の拡張により崖線部は約30mほどの幅で切土されているとも。
それもそのはずで山手線、京浜東北線、東北線、宇都宮線、東北・上越新幹線などの上下線が並行して走行している。
このため一度に走行する数本の列車を撮影することが可能でもある。

   道灌山遺跡付近から

最近やっと絞り優先設定でのISO自動補正範囲の上限制御を使いこなせるようになってきているが、既に後継機種はもう2世代後まで流通している。


◎向陵稲荷神社(東京都荒川区)
午前6時30分から6時50分

秋田藩主佐竹氏の抱屋敷跡でもある(下屋敷との説も)
何度か移転している稲荷神社は元は同屋敷内の稲荷社。
 
   向陵稲荷神社と坂

本日は足回りの準備に時間を要し朝食抜きのため、このまま探訪を続けるとかなりの確率でエネルギー切れとなることが予見された。
このため道灌山通沿いのファミマでハムサンドを購入。
しかし、道灌山通の南側に「サンドイッチ専門」の店を発見し落胆。
気を摂り直し、その後休憩の都度、水分補給と合わせ小出しに3度に分けて摂取 (笑)

 
道灌山城(東京都荒川区)
午前7時10分から7時20分

道灌山通に架かる歩道橋を渡り道灌山の公園へ移動。
「道灌山」に関する解説版は所在するものの、「道灌山城」に関する記述はない。
太田道灌、関道閑(江戸重長の舅とも)との関わりが指摘されているが経緯不詳。

 西日暮里公園(道灌山公園)

 
諏訪神社(東京都荒川区)
午前7時20分から7時35分

「日本城郭全集」の記述に道灌山城に関連する「道灌山の付近の諏訪神社の地にも城があったという」記述が拠りどころ(笑)
おそらくは地元郷土史、伝承などからの引用なのであろうか。
道灌山公園に接した新堀、谷中の総鎮守で、鎌倉期に豊島左衛門尉経泰により創建と伝わる、江戸時代には眺望に優れた景勝地でぁったという。

    諏訪神社社殿

そろそろ夏祭りの季節でその準備作業が始まりかけていた。

 
◎浄光寺(東京都荒川区)
午前7時40分から8時00分

真言宗豊山派元諏訪神社別当、別名雪見寺とも。
「将軍腰掛けの石」が所在するらしいが見当たらず(^^ゞ


西側の「富士見坂」(比高差約8m)を下り丘陵下へ移動。


 
◎青雲寺(東京都荒川区)
午前8時10分から8時15分

道灌山の公園からは崖線地形の関係上直接青雲寺方面にはアクセスできず、やや迂回して富士見坂を下り青雲寺へ。
別名花見寺、滝沢馬琴の筆塚などが所在。
 
   滝沢馬琴の筆塚
 
◎経王寺(東京都荒川区)
午前8時25分から8時30分

有名な「谷中銀座商店街」(台東区)入口を素通りし、「夕焼けだんだん」を登り「上野戦争」当時の弾痕が残るという経王寺山門へ。

  「夕焼けだんだん」

弾痕らしい形跡は少なくとも数か所は確認できる。

     経王寺山門


 
◎本行寺(東京都荒川区)
午前8時35分から8時40分

別名「月見寺」とも、太田道灌丘碑とその標柱が所在。

    太田道灌丘碑
 
◎太田道灌像(東京都荒川区)

せっかくなので日暮里駅北口のロータリーに所在しているというモニュメントも撮影。
 
 太田道灌像と舎人ライナー

日暮里からは「舎人ライナー」に乗車、「扇大橋駅」へと移動。
5両編成のコンパクトな車両は乗員不在の自動運転方式。
幼児に戻り最前列に移動し車窓風景を愉しむ。

 予想よりもカーブと坂が多い


 
荘司のかみ城(東京都足立区)
午前9時40分から10時00分頃まで

「東京都の中世城館」によれば、当該推定地は現荒川(旧荒川放水路)の堰堤と河川敷なので、遺構も面影も皆無な地点。
「本木排水場」が所在する南側付近が推定地らしい。
「平和橋通」からわざわざ往復600mほどを回り道して、15m前後の堰堤の階段を上り改めて巨大な堰堤と中央環状線の構造物を眺めてみたが日差しが強く気が遠くなってきた。
しかし、午前中とはいえこうした天候の下でも「ジョギング」をしている頑健な女性の方が複数おいでになることに驚かされた。
都内23区は遺構も寂しいが、やたらに伝承地も多く「石碑」「標柱」「説明版」などの類も見当たらない箇所が多く、探訪の意気があがらないことこの上なし。

   たぶんこの辺り

「舎人ライナー扇大橋駅」からは一度扇大橋北詰交差点まで南下し、中央環状線と並行する荒川の堰堤北側の平和橋通を東へと向かい、この間の距離は約1.2km。
たかだか徒歩20分弱とはいえ、炎天下での体力の消耗を考慮すると最早苦行のようにも思えた。
現地に赴いて運行本数の少ない東武バス以外に初めて知ったのが、「足立区コミュニティバス」の存在。
運行本数は1時間あたり1本から2本程度だが、少なくとも「扇大橋駅」から「本木南町」間は「はるかぜ6号、11号」が連絡していたのであった。



中曽根城(東京都足立区)
午前10時10分から11時30分頃まで

歴史的経緯はあまり明確とはいえないものがあるように思われるが、中曽根神社境内とその周辺には「城址碑2基」を含む4基の石碑が所在しており、この日一番の収穫であった。

  中曽根城主郭付近(推定)

往路の時点でも疲労が蓄積していたが、気力を振り絞って「地中レーダー探査により推定された堀跡」付近を反時計回りに概ね半周したこともあり、扇大橋駅までの復路ではさらにその足取りは重さを増幅させていた。
ついでなので西隣の「小屋の内出」との地名が残されている辺りに立寄り、城跡南西部の御嶽神社脇の道を南下しようやく帰途へとついた。

 「小屋の内出」付近の路地



舎人屋敷(東京都足立区)
12時10分から12時20分頃まで

「東京都の中世城館」に示されていた推定地付近を念のためぐるっと一周する心づもりが、すでに中曽根城での往復にエネルギーが大方消耗していたらしい。
「舎人ライナー」の舎人駅で下車した時点から、その足取りはずしりと重たくまるで鉛の重りを装着したようになっていた。
むろん地表部の遺構はなく、所在地も曖昧で歴史的経緯も定かではない極めて伝承性の濃い城館跡である。
照りつける灼熱の下、赤山街道に出た辺りでとうとう僅かに残されていた気力が急速に萎えはじめてきた。
西側の路地をすすみ社名不詳の小祠が目に入った時点で、頭の中で何ブチッと何かが弾けたように感じたのは気のせいではないのかも知れない。
そろそろMRIの記念撮影もしておかねば(苦笑)

    「赤山街道」


かくして推定地一周を断念、重い足を引きずり元来た道をよろよろと舎人駅へと戻ることとなった。

※東京23区内探訪の基礎資料(メモ)
「日本城郭全集第4巻」(1967/人物往来社)
「日本城郭大系第5巻」(1979/新人物往来社)
「東京都の中世城館」(2013/戎光祥出版)
「城巡礼東京48か所めぐり」(2008/東京地図出版)
「武蔵野城跡ウォーキング」(2007/東京新聞社)
「ぶらり東京近郊の名城・古城」(2008/PHP研究所)
「東京都の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「図説太田道灌」(2009/戎光祥出版)
「大江戸古地図大全」(2016/宝島社)
「江戸の大名屋敷を歩く」(2011-/祥伝社)
「江戸の川東京の川」(1989/井上書院)
「川の地図辞典」(2007/之潮)
「川跡からたどる江戸・東京案内」(2011/洋泉社)
「江戸の崖東京の崖」(2012/講談社)
「江戸東京地形の謎」(二見書房)
「古地図で歩く江戸東京」(2016/三栄書房)
「明治大正凸凹地図東京散歩」(2015/実業之日本社)
「近郊散策江戸名所図会を歩く」(1997/東京堂出版)


この日の歩数は2万8200歩。
とくに扇大橋駅から中曽根城までの往復がかなり堪え、あらためて体力が欠乏していることを思い知った。
暑さに体が順応するまで、いま暫くは外出を自重すべきかどうか逡巡するような陽気であった。

拍手[3回]

昨夜から明らかに風邪気味となり就寝したものの咳が止まらず。
このため翌日の探訪実施確率は五分五分とみて眠りについた。

そろそろ蒸し暑さが堪える季節。
従来の方針を変更し目覚ましは午前4時にセット。
身支度を整え午前5時前の始発に乗車すべく最寄駅へ。
本日の行動は熱中症へのリスクを考慮し午前中重視の方針。

 
 
 
滝野川城(東京都北区)
午前6時40分から7時25分

豊島氏一族滝野川氏の城跡とも、あるいは頼朝の布陣跡ともされているが詳細不明。
城跡とされている金剛寺境内の東西に石神井川の旧流路が現存しており、その流れが大きく変化していないとすれば城跡の東西の領域を推定する目安は存在していることになる。
むろん城館遺構は確認できない。

     西側流路跡

「城郭大系」が指摘している「境内西側の堀跡」の存在はこの旧流路を指すのか、あるいは別途現在の公園との間に「空堀」のような窪みが存在していたのかについては不明。


飛鳥山城(東京都北区)
午前7時50分から8時40分

こちらは更によく分からない城跡のひとつ。
自分の生まれ育った場所から近く、断片的ながら60年以上前の様子が記憶に残っている。
地形的には南東の「平塚城」から続く台地の北西端所在しているが、当時は現在のような公園整備はされておらず、昭和30年頃には平塚神社の裏側から台地辺縁部に沿って延々と歩いてゆくことができたという微かな記憶がある。

     台地北西端

台地の北西端部には石神井川が東流し比高15mの舌状台地は、たしかに城跡に相応しい地形を呈してはいるが、近世以降の形質変更が激しく城跡の名残を追い求めることの難しさを痛感する。


梶原堀之内(東京都北区)
午前9時25分から10時00分

梶原景時とは直接の関係はなさそうで、太田資正(三楽斎)の子である梶原政景が継いだ梶原氏に関わる城館跡と考えられているらしい。
むろん城館遺構は確認できず、また「梶原塚」の存在も不明。
城跡と推定されている福性寺には近世の堀江氏一族に関わる墓所が目立つ。

かじわら商店街の都電のアーチ

都電荒川線梶原駅前にて「都電最中」等を購入。


〇山吹の塚(東京都荒川区)
午前10時45分から10時50分

「山吹の里伝説に関わる塚」が所在しているが、現地での「具体的な説明」を表記したようなものは見当たらず。

   「山吹の里」塚


〇平河源内墓(東京都台東区)
午前11時40分から11時45分

荒川区との境界近くに所在している有名人の墓所。

    平河源内墓所

以前には事前に断りを入れるなどして入口の開閉が行われていたらしいが、現在では自分で門扉を開けて参詣ができるように変わっていた。


石浜城(東京都荒川区)
午前11時50分から12時05分

従来から伝承に近い城跡で詳細な所在地は不明だが、石浜神社を含む範囲が城跡と見做されているらしい。
周辺の市街地化の時期は早く、明治期末から大正期にかけて進行しており、現在周辺には「東京ガス」や「リサイクルセンター」の大型建造物が並び立ちっていることから、もはや周囲の地形などにそうした面影を見出すことは難しい。
なお2017年4月より神社南側の一角に石浜城址公園が供用開始されたようで、公園の名称に「石浜城」の文字が見えるが当該解説版は未設置であったが、「渡船場」に関する説明版は所在していた。

    石浜城址公園

この石浜城探訪を終了後、この日7番目となる目的地への移動を始めた時点で懸念された俄雨に遭遇。
むろん本格的な降雨ではなく、「天気雨」「狐の嫁入り」ともいうような局所的で短時間の降雨。
早朝からの行動により次第に既に集中力、モチベーションともに限界まで低下。
「都電荒川線」と「都バス」による移動を多用するも、足回りを軸とした体力もそろそろ限界。
元々この日は城館跡は4か所止まりと考えていたことから、良い口実ができたと迷うことなく即座に撤収開始。
荒川区に所在する「道灌山」関連については、下調べを含めてある程度時間を要することとなりそうなので後日再挑戦予定(あくまでも希望)



本日の歩行数は2万4800歩。
今回の内反小指対策(テープ4重巻)については概ね成功。
しかし左足に外反母趾状の痛みが発症。
「痛み」は最も痛い部位で感ずるようで、あちらが無事ならこちらが痛いとなり、こうなると「もぐら叩き」の様相に酷似。
今回は「トラムセット」+「ロキソニン」で対処。
「足底腱膜炎」(そくていけんまくえん、あるいは足底筋膜炎)ないし「踵骨棘」(しょうこっきょく、しょうこつきょく、手術困難)の方はガーゼ4枚重ねと中敷き使用で対処成功・・・・
と、メモしておかないと同じ誤りをしでかす昨今である。

なおこの足回りの整備に要する時間はこのところ拡大の一途。
少なくとも30分近くを要していることに気づき茫然。

拍手[3回]

朝から既に駅に着く前から汗がにじみ出るような蒸し暑さのなか、午前9時3分発の上り電車で出発。
途中武蔵野線に乗換え、武蔵浦和からは埼京線に乗車。
乗降客の少ない北赤羽で下車。
比較的新しい駅でもあり、たぶん記憶ではこの駅での乗降は初めてのはず。

本日は5か所を予定しているものの、その行先は相変わらず「伝承地」が多い。
これは都内23区の宿命のようなものと理解。

天候(気温、降雨、湿度)と足の具合次第で3か所くらいで切り上げる心積もり。
むろん途中での電車、バスを利用しての移動は織り込み済み。
この辺りも昨年までの状況とは明らかな変化を感じている。
途中でのわずか3kmほどの徒歩移動さえも敬遠するようになってきてしまった。




袋の殿山(東京都北区)
午前10時40分から10時35分

初めて下車した駅でもあることから、方角を定め進むべき道を把握するまで数分を要した。
先ずは道順に諏訪神社境内へ北側住宅地に設置されている石段からアプローチ。
境内北側の比高差は約10mの急崖を形成するも台地続きの西側には目立った地形上の特徴は確認できず。
境内南側の道は「鎌倉街道」とも伝わる。

      諏訪神社

ちなみに「袋」は往時の「袋村」(近世の村名)からきているらしい。
次に東側の赤羽台団地とその東隣の病院へ歩を進めようと思ったが、なぜか南側の桐ヶ丘団地の方角に足が向きそこからの遠景観察で代用することとなってしまった。

    医療センター

この日は曇りの予報が外れ次第に薄日が差し始め、湿度は高く汗はかけども全く乾かないという事態に次第に心身が疲弊していった。



稲付城(東京都北区)
午前11時15分から12時頃まで

この日に限っては最初で最後となる最もそれらしい中世城館跡。
23区内ということもあり、太田道灌との関わりがあるとも伝わる。
とはいえ明確な地表の遺構に対面できるという訳ではなく、あくまでも崖線や急坂などから当時の面影を辿るという按配。
途中で幾度か既視感のある風景に遭遇。
元北区民なので当たり前かもしれないが、何と言っても半世紀以上前のこと。
いまだ高度成長による宅地開発の波が押し寄せる以前。
既成市街地を除き周辺には未だに耕作地が広がるという田園風景も点在していた時代。

   稲付城西側の台地

まずは手始めに同城の堀跡ともいわれる東西の台地に挟まれ、かつての低湿地に所在している「亀ヶ池」の弁天社の参詣から。

  堀跡とも伝わる弁天社

その名に違わず十数匹の亀が甲羅干しの真っ最中。

   親ガメと子ガメ


つぎにそのまま東の清勝寺へと向かい帯郭状の台地中腹の路地を散策し、同寺東側参道から境内へ。

   台地西側麓付近

 
帯郭状の地形を呈する周回路地

境内と麓との最大比高差は約15mほど。

      城址碑

因みに説明版は城址碑が所在する東側山門の内側と南側山門の外側にもあります。


     南側の山門

現在でも台地を東西に横断する公道により南北に分断された地形を確認できるが、発掘調査により戦国期のものと思われる堀切跡などもこの道路の北側付近で確認されている。
 
南側台地との間の切通(画像左側)

このあと徒歩約1.2km先の地下鉄南北線赤羽岩淵駅へと向かい王子神谷駅へ。
途中価格の安い恰好の昼食場所が目に入るものの時間がないのでパス。
思えば今回を含めて都内では一度も昼食していないことにはなる。
「時間の節約か体力の温存か」の二者択一には何時も悩まされる。



豊島清光館(東京都北区)
13時00分から13時20分

王子神谷駅からは徒歩僅か約800m足らず。
この時点で「蒸し暑さ」と「足の痛み」を現況を勘案し、既に脳裏にはジワジワと「撤退」の2文字が浮び始めた。
それでもどうにか未だ気力だけは残存。
豊島氏を開基とする寺院で豊島氏発祥の地とも。
現状の地形からその特徴を捉えることは困難。
ここでも東屋の日陰をお借りして休憩と水分補給を行いホッと一息。


このあと、「続行」と「撤退」の2文字を反芻しつつ最寄りのバス停まで約900mほど徒歩移動。
これは途中隅田川を渡り眺望は良好だが、かなり辛い行程のひとつだった。
「庚申通商店街」の現況を目にしたあとの「新田橋」の様子は、まさに「都市インフラの劣化」という現実を目の当たりにするものであった。


  隅田川に架かる新田橋

どうにかバス停を視認できるあたりまで近づき、梅雨明け以降の酷暑に慣れるべく「修行」のつもりで「続行」を決断した。

この間も意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
環七新田(かんななしんでん)の都バス停留所でも束の間の休憩。
環七新田ではなく、寧ろ「艱難辛苦」の様相に。
ここでデクレッシェンドで満たされて萎む一方の気力と体力の回復に精励。
ここから先のバス停3か所分となるバス移動(約1.5km)は実に有難く身に染みた。
バスの待ち時間も都内ということもあり10分足らず ^^



宮城堀の内(東京都足立区)
14時00分から14時20分

その経緯はおろか、当該所在地自体も明確とはいえない城館跡。
隅田川の改修、荒川放水路(現荒川)の開削などにより周辺の地形は大きく変貌。
探訪に際して丸1日ほどを要して、戦後間もない米軍撮影の航空写真(東西約250m×南北約100mほどの屋敷林に囲まれた区画が気になる)と迅速図などの情報からあくまでも素人なりに所在地を推定。
 
※かつては屋敷林に囲まれた一角で、現在堀之内2丁目交差点付近にはコンビニが所在しているが、現在のような道路整備が行われたのは1970年代前半のこと。

河川の氾濫などを除き、この辺りの隅田川流路等に変化の生じたのは江戸時代初期の川越藩主松平信綱による当時の荒川からの導水工事による水量増加。
これに明治末期から大正期にかけての荒川放水路工事がある。

狙いを定めていた「堀之内2丁目交差点」付近は完璧に市街地ががすすみ、戦後間もない時期に撮影された航空写真から推定されるような田園地帯の面影は皆無。
辛うじて周辺の堀之内北公園、堀之内公園などに地名が継承されているのみ。

    堀之内北公園

このあとの徒歩移動では、いよいよ明瞭に「熱中症」の一歩手前の容態を自覚し始め、さらに意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
途中から荒川沿いに高速川口線の高架下を南に下るのだが、何故か日陰である東側を通らずにわざわざ日差しのある西側を通ってしまった。
さらにこの途中から久しぶりに「内反小指」に伴う痛みが発症。
港北橋を渡る際に目に入った可愛らしい4両編成の「舎人ライナー」がトコトコと荒川に架かる扇大橋わたっている様子を眺めた際には半分意識が朦朧としていたのかも知れず。

 


伝・宮城氏館(東京都足立区)
15時00分から15時10分
 
伝承では都市公園と隣接した氷川神社境内付近が同館跡ともいわれている。
境内拝殿脇に設置された石碑に刻まれた文言をあらためて拝読。

     館跡の碑


その歴史的な真偽は別として、疲労の極致に達した心身にとっては正に一服の清涼剤。
この場所も荒川放水路築造と隅田川河川改修の影響を受けており、約450年前の旧情を想像することの困難性を痛感。
この日は最寄駅となる2km足らずの道程となる王子駅へのルートも予定通り都バス利用。
この選択からも昨年の同時期に比して気力と体力の低下は否めず (^^ゞ


 
という次第で、本日は5か所分の探訪を「無事?」に終えることができた。
もっとも冒頭からの「過剰発汗」と途中での「右足小指の内反小指の叛乱」は全くの予想外。
これに両膝サポーター装着失念が加わり、最寄駅からの帰途では幼児連れの母子に追い越されるような足取りになるような始末。
梅雨時から秋口までは外出を避けるのが例年妥当な判断といえよう。
しかし、ここ数年は確実に体力の減衰を感じている。
いわゆる「健康寿命」も長くともあと数年前後となってきたことを痛感している。
「今年動かねば、もう来年はない」との決意で、とりあえずは行けるところまで来月も歩いてみよう。
 

拍手[3回]

港区、新宿区、中野区、渋谷区に続く都内23区シリーズ第5回。
本日は、またしても渋谷方面。
しかも僅か丸1日間をおいての再訪。

けっして渋谷方面に中世城館跡が数多所在しているというような背景には非ず。
また渋谷方面にとりわけ関心がある訳でもなし。

再訪の理由は至って単純明快。
実を申せば、渋谷区郷土館での忘れ物受領が主目的(笑)

こういう忘れ物をするなどということは少なくとも昨年まではなかったようにも。
もっとも、忘れ物をしたことを気づいていないだけということもありうるのが恐ろしくもある。

流石にそれだけでは余りに徒労に尽きることから、「北青山遺跡」(淀藩稲葉家下屋敷)と「佐倉藩堀田家」(現、聖心女子大キャンパスなど)を中心に探訪することを決意。
 
   
やはり気になる途中の氷川神社




◎佐倉藩堀田家下屋敷(渋谷区)
午前11時00分から12時10分

「堀田坂」の地名と「当時のものと推定される石垣」などの存在から、この日2番目以降に訪れた個所に比べればまだまだ探訪のし甲斐のある方。
事実、現地での史跡等に関する標柱、説明版などの掲示物がしっかりと所在しているのはこの場所のみ。

そのような次第で、推定屋敷跡の周囲を時計の針の方向に徒歩3kmほどの道をぐるりと一周。
「堀田坂」の由来を記した上下2本の標柱のほか、同坂上の広尾ガーデンヒルズの一角に所在する根回り、目通りがそれぞれ5m前後の銀杏の大木(渋谷区指定天然記念物)とその解説版、聖心女学院南門付近の石垣を見学。
   
  北辺の大銀杏

 
     同解説版

 手元にあるいくつかの「江戸切絵図」の様子からは、切絵図の境に所在していることもあり、当該屋敷跡の正確な位置・形状に関する情報は一定せずやや曖昧な傾向が窺える。
しかしこの踏査(正しくは徘徊)により、朧ろげながらもおよその全体像が見えてきたようにも。
まず屋敷西側では「旧いもり川」(おそらく渋谷川、古川の支流のひとつか)の流路と想定される曲がりくねった細道の存在を確認しこの旧流路付近が同屋敷の西限であることを理解。
 
    「いもり川跡」

またその西側の一部が出枡状に突出している個所は、強いて言えば概ねチェコ大使館が所在する辺りに相当するのかも知れず。
屋敷の北限はについては、おそらく「堀田坂」から続く現在の港区と渋谷区の境界にあたる公道付近と推察。

 「堀田坂」の標柱(港区設置)

東限もおそらくはオマーン・スルタン大使館沿いの細い路地(外苑西通の西側)付近まで、南限は祥雲寺境内の辺りでその道路形状からは枡形を形成していた可能性も浮上。
 
    南門付近の石垣

 
   祥雲寺付近の様子


屋敷が所在する場所は比高差こそ少ないものの、その尾根伝いに相当する北西部を除きおおむね独立した丘陵(あるいは舌状台地先端とも)を形成している様子を確認。
 
 途中の街路植込のランタナ

 
 日赤医療センター前の植込
タニウツギまたはその園芸種か



◎西条藩松平家上屋敷(渋谷区)
12時25分から12時40分

佐倉藩下屋敷から旧常陸宮邸方面に戻り青山学院関係の塀などを横目で眺めつつ六本木通を渡り青山通を目指し、「アイビー通」に合流し南青山5丁目交差点に到着。
この間の移動距離は徒歩で約1.2km。

 
生垣のブーゲンビリア(園芸種)


  青山学院キャンパス東側

紀州藩の分家で「御一門」とされる大名家上屋敷跡で、現在は青山学院大学関係のキャンパスとなっている。
むろんそうした経緯を物語るような史跡等に関する説明を付した掲示物は不在。
青山通沿いの正門の撮影を試みたものの学生を始めとする通行者数多。
このため写り込んでしまう方々ができるだけ識別できないようなシャッターチャンスはなかなか訪れず。
 
 何とか撮影できた正門付近



北青山遺跡(淀藩稲葉家下屋敷)(渋谷区)
12時45分から13時15分

青山学院大学の向かい側の青山通沿いにある「国連大学」、「旧こどもの国」などが所在している。
80年代の中頃から90年代にかけて子どもたちがお世話になっていた「こともの城」の建物自体はそのオブジェと共に現存している。
 
「旧こどもの国」 前のオブジェ

 
継続の声も虚しく「落城」の跡


     国連大学

東京都職員共済組合の旧青山病院も同遺跡の範囲と考えられ、現在当地は「TBSハウジング」が主催する住宅展示場となっている。

いまも池跡の一部が確認できる

中世城館と近世大名屋敷の複合遺跡で遺構は検出されてはいるが、地表に確認できる遺構は皆無に等しく、住宅展示場の北東側の低地にフェンスを挟んで稲葉家庭園の一部と推定される池跡の窪みが認められる。



◎善光寺(港区)

13時30分から13時40分

青山通と表参道が交差する表参道交差点北側に所在する名刹で、江戸時代には信濃善光寺の尼上人が江戸滞在の際に宿泊した寺院とされている。

    善光寺山門



◎百人町屋敷(港区)
13時40分から13時40分

たぶん幕府直属鉄砲同心の屋敷跡と思われる。
「江戸切絵図」には間口の狭い短冊形をした屋敷の区画が記されている。
たまたま善光寺の青山通を挟んだ向かい側に間口の狭い区画が散見されるが、むろんその直接の関連については不明。

   「百人町」付近


◎松平近江守上屋敷(港区)
13時45分から13時50分

現時点では、この「松平近江守」が何藩の如何なる大名であるのかは不明なので、このあとゆっくりと調べる予定(笑)
おそらく下記の画像付近が屋敷跡の一部にかかっているものと推定される。

建替えに伴う移転予定の保育所


◎広島藩浅野家下屋敷(渋谷区)
14時00分から14時10分

著名な表参道ヒルズの辺りが当該屋敷跡の中心部らしいのだが、屋敷跡の詳しい範囲については余りの人混みのためによく分からなかった。
下記の歩道橋上からでは樹木に隠れて直接人混みは見えないが、その下の画像の位置からは緩やかな参道を往来する夥しい人々の行列の姿が隠されている。

  表参道(歩道橋上から)


   表参道ヒルズ東端



◎伝・長者ヶ丸(港区)
14時15分から14時40分

港区の「白金長者」の伝承と対を成すものらしい。
幕末期に人気のあった「江戸切絵図」に「此辺長者ヶ丸」との記載があったことから訪ねてみた。
 
 通りの名称は遺されている


  水田跡と考えられる細道

今でも「長者丸通」は丹羽左京太夫下屋敷跡付近に現存しているが、「切絵図」に記載された「長者丸」の位置はもう少し南側の当時は畑と記されている辺りで、その北側に細長い水田が描かれていることを考えると、おそらく緩い下り坂の細道となっている南側付近が想定されそうに思われる。



本日の歩行はおよそ2万5800歩ほどで、ちょうど「長者丸」の分だけ余分に歩いたことになる。
間1日ということもあり、予想通り所要の痛み対策などを講じてもやはり両踵の痛みは発生した。
尤も昨年のように激痛のため全く身動きが取れないというほどのものではなく、単に鈍痛で歩行速度が鈍化するという程度。

しかし就寝前になりボルタレンの効果も薄く次第にズキズキと痛みが増幅。
堪らず新たにテーピングを処置。
これが一時凌ぎの対処療法とはいえ思いのほかの効き目で熟睡に成功。
なおかつ翌日、初孫の検診送迎も支障なく遂行。
ということは予防テーピングも試行してみる価値ありということに。

拍手[3回]

港区、新宿区、中野区に続く都内23区シリーズ。
今回は渋谷区編。
23区内でも態々遺構に恵まれない場所ばかり訪れているような気も。

通勤ラッシュを避け午前9時17分発の副都心線直通元町行に乗車。
昨年の今頃は暑さとラッシュを避け主に始発を利用。
今年は遅く出かけて現地を午後3時前には撤収するスタイルに変更を。
つまり現地に滞在する時間は5時間足らずに。
こうでもしないとモチベーションの維持が困難。

上りの副都心線車内で目に入った首都圏各線の列車運行情報。
西武池袋線が乗客トラブル、西武拝島線は人身事故、京王井の頭線も人身事故、乗車している副都心線は車両点検といずれもダイヤが乱れているか、あるいは運転休止という按配に。
前回の帰宅時の人身事故による約2時間の運転休止が脳裏を過る。
その後乗車した副都心線通勤急行に関しては概ね定刻にて渋谷駅に無事到着。


 
◎道玄坂
午前10時20分から10時40分

渋谷駅西口の有名な道玄坂。
渋谷駅2番出口そのままから道玄坂を上り約250mほど先。
道玄坂交番前の交差点手前の少し手前、歩の道左側に設置されている道玄坂の由来碑などを見学。

   道玄坂の由来碑など

史跡めぐりをされている複数名の年配者に遭遇。
そのまま渋谷駅方向に戻り、宮益坂方面へと移動。
たぶん渋谷での下車は4年ぶりくらい。

  渋谷駅西口スクランブル

この近辺はいつ来ても人が多いので、人酔い状態となる。
 
 
 
伝河崎氏館
午前10時55分から11時05分

第一生命ビル、渋谷警察署の辺りが推定地とされている。
台地先端部というよりも寧ろ台地下に近い印象。

    渋谷警察署付近

源義家郎党河崎庄司郎の館とも。(「東京都の中世城館」より)
 元々伝承地としての色合いが強くその信憑性も不明。
第一生命ビルの脇から坂を上り渋谷八幡方面へ移動。
この坂自体の比高差は約8mほど。

    現在の渋谷川


渋谷城
午前 11時10分から11時25分

渋谷八幡宮境内。
麓を走る明治通からの比高差は境内地自体もそれなりに高いことから10mを超えている。
ただし六本木通の方がやや高いので北側かにのびた台地先端という地形。
渋谷氏一族の城館跡ともいわれ、金王丸の伝承も遺されているが、あくまでもその詳細は不明。

    渋谷八幡宮社殿

神社境内北側には天台宗東福寺が所在。 
16世紀の初めに後北条氏により攻略されたとも。
展示されている「城跡の石垣」はあくまでも近世以降のものであるように思われる。

     「石垣」

 
 
◎豊栄稲荷神社
午前11時30分から11時40分

境内に庚申塔群が所在し、建立者名に渋谷伝左衛門という名が刻まれていたという。
現在は碑文剥落により判読不可。
ほかに道標の役割を兼ねていたものもあり、こちらは今でも「めぐろ こんわう(金王)
道」の文字が判読。

   「こんわう」の文字


◎東福寺
午前12時00分から12時10分

宝永元年(1704)銘の梵鐘に渋谷を「谷盛庄」と称されていた旨の記述が刻印されている。
 
    天台宗東福寺


 「谷盛庄」の文字がある梵鐘

なお境内の庭園に土塁と石垣が所在するが、その様子から考えるにおそらく造園工事によるものであろう。
このあとは国学院大学方向へと向かう学生に混じり氷川神社へ移動。



◎渋谷氷川神社
12時20分から12時35分

この社殿も台地辺縁部に所在している。
渋谷区最古の神社で江戸時代には下渋谷村、下豊沢村の総鎮守。

    氷川神社社殿

国学院大学寄りの東側参道脇にL字型をした土塁状地形が認められる。
表参道沿いの地形同様、むろん神社造立に付随する可能性大。
些か規模が大きいように思われるがその経緯は不明。

  土塁といえば土塁の様な



◎常盤の松
12時50分から13時00分

常盤松と呼ばれた常盤御前などとの伝承を記した幕末期嘉永年間に刻まれた石碑が所在。
当時の薩摩藩により設置され、天璋院(篤姫、13代将軍徳川家定正室)が一時滞在したという薩摩藩下屋敷との関連があるとの事らしい。
この辺の事情は「江戸切絵図」からは判然としない。

   「常盤の松」石碑



なお、周囲には常盤松小学校など関連する建物名には事欠かない。
このあとは休憩を兼ねて渋谷区郷土館に立寄り資料収集。



◎黒田藩下屋敷
14時00分から14時20分

現在の渋谷図書館付近が下屋敷跡と推定されている模様。

    渋谷図書館

 

「江戸切絵図」には松平美濃守の下屋敷として記載されている。
福岡黒田藩は2代目以降は松平姓が下賜され、第11代当主は美濃守名を拝領している。
終わりに渋谷図書館(地域館)にて「渋谷金王丸」関係の資料閲覧、収集。
このあとは撤退予定の午後2時半を回ったことから、残る「北青山遺跡」方面を先送りして帰路に就く。



本日の歩行歩数は1万7800歩ほど。
毎回懸案の足回りには所要の痛み対策に加えて今回はテーピングを追加。
ところが、すでに往路最寄駅階段から左膝に違和感発生。
先行きの懸念はあったが、痛みの増幅はなくどうにか持ち堪えられた。

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