本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
06 2018/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
最新CM
お疲れ様です(返信済)
(04/29)
(04/21)
(04/18)
(03/12)
釣られました(返信済)
(03/12)
最新記事
最新TB
プロフィール
HN:
武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
性別:
男性
職業:
定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
アクセス解析
フリーエリア
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]
赤城山の山麓に近い緩斜面地帯でもあることを考慮して、極力路駐を避けて確実な駐車場所を確保するために先ずは芳賀公民館へと向かうこととした。
図書館も併設されていたので蔵書について複写の可否を訪ねたところコピー機が設置されていないので複写サービスに対応していないとのことであった。
もっとも小型の地域館であることから、ざっと一瞥したところでは「前橋市史」と芳賀地域の郷土史のようなものだけであったので、予定通り夕刻には県立前橋図書館へと赴くこととした。

 
勝沢城(群馬県前橋市勝沢町)
12時30分から13時10分

城跡自体はその西側を藤沢川が、東側を金丸川がそれぞれ南流する台地の南端部に所在している。
「日本城郭大系」によれば、北条氏(きたじょうし)の支配下に置かれていた嶺城の支城と推定されているが、その現状は宅地周辺の整備、集落内の道路整備などにより城跡としての旧情はかなり失われいると形容した方が相応しい印象であった。
また所在地に関しては概ね合致していると思うのだが、実際に現地を訪れ見ると集落内の現在の道路状況と山崎一氏の作成された縄張図の通路の様子がなかなか一致をみないので困った。
同氏が作成された時期からは相応の年月を経ていることを考慮に入れれば、これは別に珍しいことでは無くよくある事例のひとつでもあるのだろうとは思う。


たぶんこの付近が比較的標高も高く本丸とされている辺りではないだろうかと思う。


同集落のやや南寄りに台地を東西に横断するような具合に見えた比高約3mばかりの段差が所在していたが城跡との関連については今のところよく分からない。


城跡西外れに所在する石碑。 右側が秋葉神社で、左側は庚申信仰の青面金剛の文字が刻まれた
石碑であり、ともに前橋市の指定文化財となっている。


たぶんこの辺りが城跡の北西角付近ではないかと推定してみた。道路の左側は新しい高花台の住宅地である。

拍手[3回]

それなりの遺構が残存していた西今井館跡から、次は後に剣聖として崇められることとなった上泉伊勢守に関わるという上泉城へと向かった。
ルートとしては概ねそのまま上武道路に入り北西へと向かえばよいことになるのだが、途中国道50号線と立体交差する今井町のJCをついうっかりと誤ってしまい前橋市内へと向かってしまった (^^ゞ
このため止むを得ず今井町西の丁字路を左折してUターンにより再び上武道路に戻ろうと考えた。
しかしよくよく考えてみると、そのまま小田島町の交差点まで進み途中農道を経由して県道76号線の江木町交差点を左折すれば上泉町方面へと向かえることに気付いた。
高規格で建設されたバイパスは時速60km(実際には時により時速80kmで走行している車両が多い)での走行が可能なのだが、JCの分岐での判断を誤ると些か面倒なことにもなるのである。
ところが到着の直前に城の外堀代わりでもある藤沢川を渡って2本目の道を左折すべきところ、1本目の川沿いの側道を曲がってしまった (^^ゞ
とはいうものの、結果的には目指すべき城跡(郷蔵と上泉自治会館が所在)は既にナビに表示されていたので全く問題なく現地に到着することができた。


上泉城(群馬県前橋市上泉町)
10時45分から12時00分

云わずとも知れた剣聖上泉伊勢守信綱が生まれたとされている城館跡である。
上泉自治会館に駐車場があるので暫しの間こちらを利用させていただいた。
自治会館の北側に隣接した現在は文化財指定を受けている近世の郷蔵が所在する高台が上泉城の主郭である。その北側の民家との間の道や自治会館敷地の一部でもある西側の舗装された空閑地が堀跡であることは明白であった。
縄張図などにも記されている主郭北西部の張出しも健在であった。
剣聖の銅像、記念碑など建立され賑々しく出迎えていただいたが、その一方で城跡に関するものはやや年季の入った感のある説明版のみであった。
ここからは徒歩で反時計回りに東通、北通を進み城域の北限と思われる一度県道76号線に出てから再び南下して玉泉寺入口手前からまた北上し境内北側の土塁状地形を確認した。
目ぼしい城跡遺構は以上の主郭周辺部とこの土塁状地形の2か所といっても良さそうだ。
無論桃ノ木川沿いの台地崖線地形も眺めておくと良いだろう。
このあとは信綱の菩提寺である西林寺にも立寄り自治会館の駐車場へと戻った。


本丸とされている高台で、画像の建物は近世の郷蔵である。


自治会館駐車場脇に設置されている上泉信綱の銅像


いくぶん経年劣化が目立ち始めているために、説明版のひび割れが恰も通路のようにも見えてしまうのであった (^^ゞ


本丸北西部の折のついた張出部分


玉泉寺北側の土塁跡らしい地形


西方からの遠景で水田面からの比高差は約8mほどの崖線を形成している。


城跡の南部を流れている桃ノ木川で、北側と東側にはその支流である藤沢川が流れる台地先端部に築かれており、これらの河川を外堀としていたことなどが窺われる。

拍手[3回]

西今井館(群馬県伊勢崎市-旧境町)
9時10分から9時40分

市の史跡指定であり「マッピングぐんま」では「西今井中世居館跡」、現地解説版では「上今井中世館跡」と呼称され、「長楽寺文書」からは道忍屋敷ともいうこともありややこしい。
旧境町方面は幾分地理不案内であることから、その移動にやや時間を要したが、上矢島城からも肉眼で視認でき、東へ約500m少々の至近距離であることから先ず間違いようは無かった。
江戸時代に作成された「今井屋敷絵図」によれば、水路に囲まれた屋敷とその周辺の様子が描かれている。
「新田町誌第4巻」などの記述によれば、新田一族今井氏の館跡と推定されているようである。
その後は桐生から茂木氏が移り住み、境城主である小柴氏(あるいは小此木氏)と縁戚関係にあったらしい。
同書などによると、館周囲の堀跡については圃場整備などにより大きく改変を受けている旨が記されている。
しかし屋敷南側はもちろんであるが、北側屋敷林の境界付近にも堀跡状の地形が残されている。


いくぶん埋まってはいるが屋敷南辺の東側の堀跡は明瞭である。


屋敷北側の屋敷林との境界付近にも、現在のところでは長さ80mばかりの堀跡状の大きな溝が確認できる。


茂木氏の墓石も散見されたが、現在も使用されている墓石でもあり傍らの庚申塔を撮影した。
元禄11年、上州新田領今井村と刻まれ、青面金剛の出で立ちがとてもパワフルでりりしかった。

久しぶりなので比較的丁寧に歩き回ったことも影響して些か時間が押し気味なってしまったが、この後はようやく伊勢崎市を抜けて上武道路を北西に向かい一路前橋市内を目指した。

拍手[3回]

三ツ木城から北西移動すべく国道354線西今井の交差点を横断し境矢島の集落を目指した。
移動距離は道程で約2kmだが、朝方の交通渋滞の影響の少ない地域でもあり約10分ほどで到着した。
当初の心積もりとしては日の出までの時間調整がてらに、三ツ木城にのみ立ち寄り他の旧境町についてはパスをする予定であった。
しかし毎度のことながらついつい欲が出てしまい、集中力のある貴重な午前中の時間が過ぎて行った。


上矢島城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
8時40分から9時10分

上矢島(村)の村名は幕末の頃に矢島村から改称されたとのことなので、往時における地名は矢島である。
このため東隣りに接した太田市内の矢島村と些か紛らわしいものもある。
「群馬県の中世城館跡」に掲載されている情報によれば、矢島氏と南氏に関連する城館跡とされているものの、手持ちの資料の限りではその詳細がよく分からない。
なお東側には約600mには西今井館(指定史跡/別名を道忍屋敷)も所在している。
南氏が鬼門除けに建立したとされる勝手大明神から矢島氏館跡とされている徳蔵寺まで集落内を時計回りにぐるっと一周してみたが、城館跡に繋がりそうな遺構は目に入ることはなかった。
帰宅後に国土地理院の古い航空写真画像との照合を試みたものの、集落内の屋敷林などの陰になっている部分も多く遺構に関連しそうな地形を把握することは難しかった。


集落南東のはずれに所在する勝手大明神の社


集落を南北に走る道路沿いのバス停。 
背景の建物は上矢島コミュニティセンターでこの辺りが集落の中心部で城域の西側に相当するようだ。


徳蔵寺山門(南側参道より撮影)

拍手[1回]

早朝の寒さに凍えた伊勢崎市境(旧境町)の「境城」の次は、同じ地域の北東方向に所在する「三ツ木城」へと移動した。
一度「日光例幣使街道」てもある国道354線に出てからこれを右折。
栄町の交差点から北へ向かい東武伊勢崎線の踏切を越え境三ツ木へと入った。
太田市内南部は土地勘も出てきたが、この辺りは全く詳しくないのだが、マップルとカーナビの地図を頼りにすればほぼ間違いなく移動できる。
相変わらずナビは本来のナビゲーションは使用しないというかあまり信用していない。
ナビあくまでも現在位置の確認と移動すべき目的地へのだいたいの方角とルートを参照するだけである。
一見不便なようでもこの方法の方が現地の地理が頭に入る。
むろん帰路のルート参照には軌跡表示設定をしているので結構役立つのである。

三ツ木城(群馬県伊勢崎市三ツ木町)
8時10分から8時30分

境城からの移動距離は道程にして僅か3km足らずであったが、右折車の信号待ちや朝方の交通混雑が始まり移動には20分近くを要しすることとなった。
「日本城郭大系」などの記述によれば、真福寺境内が三ツ木城本丸(100m四方)と記されており、現在の約4倍ほどの広さを有していたらしい。
同境内地を除きその周囲は宅地化が進行しており、さらに北側には国道354線が東西方向に走っており城跡らしい景観はほとんど失われている。
境内地は下記画像のように殆ど平坦であるが、唯一北西部の角に三ツ木神社が所在し盛土された土塁状の基壇が現存している。
また「マッピングぐんま」によると古墳時代の遺跡でもあり、「日本城郭大系」の記述にも「北と西に高土居が残る」との記述がある。
かつての古墳を櫓台や土塁として使用したのちに近世になり稲荷社が祀られたものなのであろうか。
「日本城郭大系」などによれば、同寺は天正年間に由良氏家臣である三ツ木城主根岸氏により建立されたとされている。


真福寺および三ツ木神社が所在する境内地


真福寺の縁起の記された観音霊場めぐり案内板


稲荷社の祀られた三ツ木神社 土塁のようにも、古墳のようにも、神社普請の際の盛土のようにも見える。比高約3m前後、長さ約15m、基底部幅約5mほどの規模であった。


西側から撮影したので寒々しい画像となった土塁状の地形


城跡の南方を通過している「日光例幣使街道」

拍手[3回]

昨年12月10日以来久しぶりに城跡へでかけた。
この間は滋賀遠征後の画像整理等々に加えて孫のお守、長女の帰省、ETCの不具合などが続いた。
かくして生来の在宅癖と冬季傾眠傾向が復活し1か月以上のブランクとなった。
行先は栃木県南、群馬県赤城山西方面、昨年秋以来となる太田市、茨城県南方面など準備済の地域は数多。
このなかから降雪、路面凍結の懸念を感じる地域、高速使用の地域を候補から除外。
しばらくまともに歩いていないこともあり、足慣らしを兼ねて結局群馬県伊勢崎市(旧境町)、前橋市(赤城山南麓)となった。


境城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
7時00分から7時50分

昨年秋に数回ほど連続して訪れていた太田市の西側地域でもある。
このため途中の経路は東松山(国道254線)-熊谷(国道407号線)-深谷(深谷バイパス)-太田経由であり殆ど問題が無い。
この方面の下調べと最低限の資料はとりあえず用意済みである。
このままにしておくと用意していた資料の存在さえも忘れてしまう恐れもある昨今である (^^ゞ

しかし3か月ぶりなので、上武大橋北交差点を左折したところでナビと道路地図の違いに気が付いてふと迷うこととなった。
この道は以前は広瀬川左岸の県道297号線であったが、ナビにも表示されているように近年新しく297号線が完成していたことを理解したのはそのあとのこと。
尤も目的地は長光寺とその南にある弁天池である。
ナビの現在位置を確認し、広域表示に切り替え午前7時前には弁天池脇の「境公園」に到着。

弁天池の周辺から反時計回りに周囲を巡り、境神社からは再び元の道を戻ってみたが明確な遺構はほぼ消失していることは間違いが無さそうであった。
なお神社境内の西側にほんの僅かながら土塁の痕跡のように見えなくもない盛土跡が所在しているが、堀跡であったと推定される道路と野間にはブロック塀が設置されていることもあり、後世における神社の普請などに伴うものである可能性も想定され判断に迷う。
「群馬県の中世城館跡」では「崖城」の扱いが為されてはいるが、利根川支流の広瀬川に向かい緩やかな斜面が確認されるだけである。
現在の「弁天池」と「境公園」の辺りが最も低地であるすると、往時においても最大でも3mほどの比高差があったかどうかであるように思われた。


城域南東付近の弁天池


弁天池の北に隣接した「境公園」の築山 数十年物の樹木が生えてはいましたが、古墳や近世の塚でもなく、より新しい近年のもののようでした。

 
この地は南に傾斜した地形であり、天台宗長光寺の東側 境内墓地と道路を企画しているブロック塀は階段状に少しずつ低くなっていることからも把握できる。


城域の東側に相当する天台宗長光寺山門前


城域の北西角に所在する境神社の縁起を記した説明版


境内西側の道路沿いの部分は明らかに道路部分との比高差があるようなのだが、後世の神社造立などにともない発生したものである可能性もあり委細不明である。


「群馬県の中世城館跡」などに掲載されている山崎一氏が作成したと思われる縄張図によれば、郭内には東に長光寺、西に境高等学校、その北西角に境神社の境内が記され、かつてその周囲には南から西にかけて城沼跡が所在し、北辺、東辺には堀跡とこれに並行する土塁も存在していたようだ。
帰宅後に念のため1947年に撮影された航空写真を確認してみた。
城沼跡は明確に確認できるものの堀跡と土塁の存在については樹木などの陰になり判然とはしていない。ただし、現在のように墓地は拡張されてはおらず、長光寺の南部に墓地の区画は殆ど見当たらない。
墓石などの様子を拝見する限りでは遅くとも1970年代の初め頃には原型を留め難くなっていたのかも知れない。

このあとは近隣に所在している三ツ木城へと移動した。

拍手[3回]

2017年の城館探訪の概要です。

前半は入院や植物園めぐりがあり城館跡には殆ど出かけられませんでしたが、初夏頃から頻繁に探訪に出るようになり、10月下旬には40日間ほど風邪を拗らせていましたが、そのまま12月まで3度の遠征をクリアしました (^^ゞ
たぶん2010年以降では最も多いのではないかと思います。
その反面、加齢や老眼などの進行に伴い、サイト更新は大幅に遅滞して本年12月末日現在で城館関連の更新割合は6割を大きく切っております <(_ _)>


1 月 栃木県栃木市方面 17か所 3日間
2 月 (耳下腺腫瘍入院手術のため暫く養生)
3 月 (同 上)
4 月 (同 上) 
5 月 神奈川県 8か所 1日間
6 月 都内23区内 18か所 6日間
7 月 同上 15か所 4日間
8 月 長野県上田市、小諸市ほか 23か所 4日間
9 月 群馬県太田市 35か所 3日間
10月 群馬県太田市、栃木県市貝町 17か所 3日間
11月 青森県八戸市、岩手県二戸市ほか、福島県郡山市、群馬県 45か所 9日間
12月 滋賀県甲賀市 23か所 3日間

合 計 166か所(再訪含む、ただし城館以外の史跡を除く) 36日間

一年間まことに有難うございました。
みなさま、どうぞよいお年をお迎えください <(_ _)>

拍手[4回]

甲賀市の3日目である。
昨年は3日目には新幹線の発車時刻が午後の明るいうちであり、かつ強風の吹く恐れもあることから草津市内を4か所ほど廻り早めに京都駅で待機することとなったという経緯があった。
しかし今年はそういった懸念材料は一切無く、さらに京都発の新幹線も午後7時過ぎであることから、夕刻ギリギリまで現地に滞在することができるように計画を立てた。


高山氏城(滋賀県甲賀市水口町高山)
8時50分頃

あくまでも通りすがりに単に遠景を撮影したのみである。
下記画像の中央やや上の小高い山上がその城跡で、これに関連する複数の城館跡がその右手の丘陵付近に所在しているらしい。
左手の河川は杣川で画像奥に向かって流れているのだが、強い西風が吹き荒れているため川面が波立ち画像奥から画像手前へと流れているような錯覚に陥った。



杣中城(滋賀県甲賀市水口町杣中)
9時20分から10時00分

杣中の集落自体が周辺を水田地帯に囲まれた低丘陵であり、当該城館跡は集落の南東部杣川支流の滝川に面した低段丘上に所在している。
杣中コミュニティセンターの南西と北東の2か所に明確な土塁状の地形が存在している。
この東西2か所の土塁に囲まれた範囲をその城館の城域とする考え方があるようだが、後世の宅地化と耕作地の開墾などにより中心部の仔細が不明であることから何とも言い難いものがある。

 1.北西方向から西側の土塁      2.土塁上の様子


  3.土塁上から西側の堀跡      4.西側の堀跡


    5.東側の土塁         6.滝川東岸から


古屋敷館(滋賀県甲賀市水口町杣中)
10時15分から10時40分

杣中城からは指呼の間であり、杣中城東側の土塁もその視界に捉えることができる。
館跡は総じて竹林が密生しており見通しがよくはないが、逆U字形の土塁により囲繞された区画はどうにか把握でき、東側部分には二重土塁の形状も残されていた。

   1.南東方向から       2.東側の二重土塁外部


    3.主郭と土塁          4.土塁


竹中城(滋賀県甲賀市水口町新治)
11時10分から12時00分

内郭の土塁切岸は急傾斜で現在でも堀底からは6mほどの高さを有することから這い上がることは困難であると感じた。
また郭内は東側民家の裏手に当たるため、主に西側部分の遺構のみを拝見するにとどめた。
全体として竹木が繁茂しているという印象があるが、西側部分の遺構についてはある程度見通しも確保されているので観察は可能であった。
なお当城館跡は2008年7月28日「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして史跡名勝天然記念物としての指定を受けている。


   1.杉谷川左岸から        2.北西角付近


     3.西辺堀跡          4.同 前


   5.内郭北西角付近       6.南東方向からの遠景


カリヤ城(滋賀県甲賀市水口町新治)
12時05分から12時10分

段丘の北辺部に所在し、圃場整備事業により消失した城館跡である。
およそ50m四方の方形館が所在していたことが、明治期の地籍図から読み取れるとされている。
画像の民家宅地の一部を含む画像の中央付近に所在していた模様である。




倉治城(滋賀県甲賀市水口町新治)
12時20分から13時00分

集落内には土塁状の遺構が分散しており、大規模な城館ではなく小領主層の屋敷群のような印象が伝わってくる。
「画像4」の土塁には南部に明確な堀跡を伴い城館としてひとつのまとまりを見せている。
当初の予定ではこの辺りで午後2時を過ぎていれば撤収することも視野に入れていたが、未だ午後1時過ぎという時刻であり、西よりの季節風は冷たいものの大きな天候の崩れはなさそうなことから、気力。体力に照らして行けるところまで行くという方針に変更した。


 1.中央部南北方向の土塁        2.同 前

  
     3.同 前        4.中央部東西方向の土塁


    5.南辺の遺構        6.南西部の遺構


服部城(滋賀県甲賀市水口町新治)
13時25分から13時50分

著名な服部半蔵に関連する服部氏の城館跡と伝わるが、全体的に藪が多く東側の土塁上くらいしか足を踏み入れることができなかった。
標柱、説明版などは無い。
新宮神社が所在する丘陵の谷ひとつ挟んだ西側の丘陵先端部に所在している。

  1.この細い林道から入る   2.進行方向左手に切岸が見える


    3.東辺の土塁上         4.同 前


    5.北東方向から        6.東側の谷筋


新宮城(滋賀県甲賀市水口町新治)
14時05分から14時35分

当城館跡は2008年7月28日「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして史跡名勝天然記念物としての指定を受けている。
単郭方形の形式が多い甲賀の城館跡としては珍しく、主郭以外に5か所ほどの削平地を伴う城館である。
国の史跡指定を受けてはいるが、訪れた時点での整備状況は画像の通りであり決して見学しやすいとはいえない様子であった。


   1.城跡への分岐        2.城跡南西側の標柱


   3.主郭南西の虎口       4.同 前(郭内から)


    5.東麓の説明版        6.同 標柱


新宮支城(滋賀県甲賀市水口町新治)
14時45分から15時15分

当城館跡は2008年7月28日「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして新宮城、竹中城などとともに史跡名勝天然記念物としての指定を受けている。
新宮城の南西約50mに谷を挟み所在しているが、現状では住宅側の下を通る道からのアプローチは倒木と藪のため多少の困難を伴う。
画像のように肝心の谷の入口が倒木により塞がれており難渋を極めた。
この時点で体力は残されていたが気力の方が欠乏しはじめ、土塁切岸を目にしたのみで撤収することとなった。

 1.新宮城から先は藪が酷い    2.倒木が連続し前進不能


    3.谷の入口        4.主郭南部の土塁切岸


こうして遠景のみの撮影も含めれば無事に9か所の探訪を終えることができた。
今回は1日目にしてモチベーションの維持が揺らいでしまったが、その後どうにか立てなおして3日間で23カ所以上の城館跡探訪を成し遂げた。
これで昨年の分を含めると甲賀市内は旧水口、旧甲賀、旧甲南の3地域を40か所以上彷徨したことになり、ある程度はその地域性を感じ取ることのできるような気がしてきた。
従って全く訪れてはいない地域は土山と信楽となるのだが、ますます公共交通機関が不便な地域となってしまい、そろそろ滋賀県内でも他地域に足を延ばすことも視野に入れていることから来年以降の再訪の予定は全くの未定である。

拍手[3回]

甲賀市の2日目である。
予報では一日中曇りとのこと。
昨日の1日目において、さらに衰えを痛感することとなった己の体力と気力を熟睡中冷静に分析。
当初予定していた旧甲南町池田大日池周辺の城館めぐりは断念し、比較的アプローチしやすそうな旧甲賀町の滝、毛枚方面の城館跡へと変更した。


獅子ヶ谷城(滋賀県甲賀市甲賀町毛枚)
9時15分から10時05分
比高差約20m前後

毛枚は「もびら」と読む。
比高差は殆ど無いに等しいのだが、何分にも頑強な藪城なのであった。
「画像2」の個所から北端部の郭のラインが見えるのだが、切岸が高く急傾斜でとても登ることは困難であった。
画像から分かるように民家の裏山でもあり、探訪にはくれぐれも失礼の無いように配慮が求められる。
主郭以外に複数の削平地が確認できるが、後世の宅地化や開墾などに伴う要素もあるらしくその判別が難しい。


     1.北側から      2.奥に北端部の郭が見える


 3.この辺りから失礼する    4.この電柱の先を左へ攀じ登る


  5.この土塁に這い上がる      6.櫓台状の土塁

 
山岡城(滋賀県甲賀市甲賀町毛枚)
10時20分から10時45分
比高差約20m前後

城域の半分以上は宅地であることから、果たしてどの辺りまで拝見して良いのか注意書きなどに気を配りつつ見学する必要がある。
著名な山岡氏の城館のひとつでもあり毛枚の集落を見下ろす、ほぼ独立した丘陵上に位置している。


     1.南麓から      2.この辺りから失礼をする


    3.なかなかの切岸     4.最も標高の高い郭跡


 5.ほぼ旧家のお庭のような    6.この石段を降りてきた


毛枚北城(滋賀県甲賀市甲賀町毛枚)
11時00分から11時45分
比高差約15m前後

他の甲賀の城館と同様に規模も小さく比高差も少ないが、登り口は至って明確であった。
ほどよい整備が為されており思わず笑みが零れそうになるほどの良好な遺構群(土塁、櫓台、堀切、井戸跡、切岸など)を目にすることができる。
このような城館跡ばかりであれば、少なくとも気力だけは堅持できるのだが・・・
比高差の少ないこのくらいの城館跡では複数の登り口(後の破壊道を含む)がありそうなものだが、現在実際に登ることのできる個所は「画像2」の大福寺北側の個所だけであるようだ。
それ以外の方角からは自然地形を利用した10メートルはある深い堀切と切り立った切岸に囲繞されており、ほぼアプローチすることが困難であった。


   1.北側からの遠景        2.唯一の登り口


 3.井戸跡(水深1.5m以上あり)    4.腰郭と土塁


    5.櫓台状の地形     6.深い堀切 左10m/右10m


多喜南城(滋賀県甲賀市甲賀町滝)
12時00分から13時10分
比高差約30m前後

少し古い情報を頼りに登り口に向かったところ樹木の伐採やルートの途絶により目前で退却を余儀なくされ30分ほど時間を浪費した。
なれば北麓の集落から南へと向かう林道から尾根伝いに進めるかと考え元龍寺裏手へと林道に沿って歩みを進めてみた。
ここまで来ると次の目標である多喜城は目前であるが、そちらは後回しにして尾根伝いのルートを探した。
すると林道が大きくヘアピンカーブした左手(方位では東側)に明らかな林道の分岐が目に入った。
おおむね城跡の位置は確認できているので、向かうべき方角もまず間違いないものと確信した。
西側のいくぶん城跡の一部のような小ピークを超えると堀切状地形が現れ、眼前に土塁を兼ねた切岸地形が行く手を阻んでいた。
南側の帯郭地形を経由して南東部の土塁の切れ目辺りから土塁に這い上がろうかとも考えたが、そのまま切岸を木の枝などに掴まりつつストックを利用すれば這い上がれなくもないと判断して斜めに切岸を登り無事主郭土塁の西角付近に到達した。
主郭は三方が高土塁により囲繞されているが、北東方向だけは自然の谷筋へ向かって開口されている。
城域り東側は市道の拡張工事などにより大きく削られてはいるが、主郭部のコの字型の土塁は樹木伐採がなされていることもあり非常に見ごたえがある。

   1.毛枚城方面から        2.以前の登り口

 
   3.到底先へは進めず    4.この林道を下から登る



  5.林道の分岐を左へ入る      6.主郭の土塁
 
 
多喜城(滋賀県甲賀市甲賀町滝)
13時20分から14時00分
比高差約25m前後

かつては「多喜北城」とも呼ばれていたとのことで、些か次項の城館と紛らわしいものがある。
多喜南城へと向かう林道の途中、今のところでは「画像2」のヘアピンカーブの手前を右手(北側)へと戻ると少し藪があるものの近道になる。
分岐した林道はそのまま北側の集落に降りてしまうので、進行方向左側に見える踏み跡を這い上がると「画像3」の主郭部の虎口状の地形へと辿り着く。
むろん「画像6」のように、北側の尾根筋からイノシシ除けのフェンスを通り共同墓地経由で堀切脇へと向かうこともできる。
公開されている「縄張図」はいくつか存在しているが、「甲賀市史7巻」に掲載されているものが比較的現状の特徴をよく捉えているという印象がある。


   1.多喜南城方面から       2.林道の分岐


    3.主郭虎口?         4.主郭の土塁


   5.主北西の堀切地形     6.北側集落からのルート


多喜北城(滋賀県甲賀市甲賀町滝)
14時20分
比高差約20m前後

比高差は少ないのだが、この辺りでイノシシ除けフェンスの入口探しと城跡への登り口探しに疲労困憊。
相変わらず吹く風は冷たく水田の畦道経由でイノシシ除けフェンスを目指すという行為の反復に飽食状態となり北麓から低丘陵を観望して退却 (^^ゞ

   1.北側からの遠景       2.地名の案内標識
 
 
大原城(滋賀県甲賀市甲賀町田堵野)
14時40分から14時50分
比高差なし、平城

現在も大原氏がお住まいになっている。
旧家そのものの宅地部分が城館跡であるが、思いのほか良好な状態で単郭方形の重厚な堀跡と土塁が残存していた。
東側の市道から拝見している最中に、北よりの風が粉雪の粒をもたらしたが、ほんの一時顔に当たっただけで直ぐに止んでしまった。

 1.杣川西岸より大原城方面     2.奥の方が大原城


  3.南西部の方形区画       4.東側の虎口付近


     5.東側から         6.北東方向から


別府城(滋賀県甲賀市甲賀町大原市場)
15時05分
比高差なし、平城

遺構も何もない平地の城館跡であり、明らかな数稼ぎでもある。

  たぶんこの辺りだろうか


市場陣山城(滋賀県甲賀市甲賀町大原市場)
15時10分から15時30分
比高差ほぼ無し、低丘陵先端

現在でも竹林奥に土塁が存在しているらしいのだが、西に水路、北にJR草津線の軌道、東に民家宅地に囲まれて肉眼での観察はできなかった。

    1.地名表記         2.城跡を覆う竹林


 3.この水路(堀跡)の左側    4.JR草津線沿いに所在


補陀楽寺城(滋賀県甲賀市甲賀町大原市場)
15時40分から15時50分
比高差なし、平城

補陀楽寺境内というよりも、公民館の敷地の一部に同寺が所在しているといったほうが実態を反映しているように思えた。
土塁遺構は同寺の北側と東側にそれぞれ残存している。

     1.「赤影」          2.山門


   3.北辺の土塁           4.同 前


結局のところ空模様は良い方にはずれたらしく、降雪の可能性があった雪雲は彦根辺りで南下が止まり風はやや強く冷たいものの晴れ時々曇りの空模様となった。
城館の方も麓から見上げただけの個所も入れればどうにか10か所の探訪となった。
近年は2日目のモチベーション維持が課題であったのが、昨日は初日からモチベーション維持が危うくなりかけていたことを考えればベターな目的地の選択であった。

拍手[3回]

  最寄駅から始発の東上線に乗り池袋へ。
 山手線経由で東京駅へ向かい、午前6時29分発のぞみ号に乗車。
この時点で東上線の始発からは既に1時間半も経過している。
乗換待ちのタイムロスは池袋での約15分が一番大きい。
このためダイヤ上では寧ろ地下鉄丸ノ内線を使用する方が早い。
しかし東京駅構内でのキャリーケース移動がやたらに長くなることから、今年は山手線を利用してみた。

昨年同様に一度京都まで向かい、4分間の乗り継ぎで琵琶湖線で草津市内へ戻り駅前のホテルに荷物を預託し、午前9時40分台の草津線にて油日へと向かった。
1年ぶりに訪れた油日駅では日曜日ということもあり、甲賀忍者に扮した駅業務を委任されている年配の方の歓迎を受けた。
とはいえ降りた乗客は自分を含めて数人で、しかも「観光客」らしい姿は自分ひとりと相変わらず閑散とした景観であった。
JR草津線も近江鉄道などと接続している貴生川から先では正規の駅員は不在で、地元の高齢者の方による運営がなされているが、早朝と夜間は無人となりむろんICカードは使えない。
草津市始発の同線は一つ先の「手原駅」で概ねその4割位が下車、その先の貴生川までで更に5割位が下車、残念ながらこうして見ると終点の柘植まで行く乗客は全体の1割にも満たないらしい。

 
 
殿山(滋賀県甲賀市油日)
10時45分から11時05分

従来は明確な城館遺構が存在していないという見方も有力であったらしいが、現在殿山の遺構と領域に関してはおよそ次の論点があるように思われる。

1.忠魂碑とその周辺の削平地をめぐる評価
2.そのすぐ北西部に見られる小規模な堀切地形の評価
3.近年新たにその存在が確認された北西尾根筋の城館遺構の評価
4.南に隣接している公方屋敷との城域に関する区分

 
殿山北西尾根筋の遺構(殿山城)  北西部の堀切状地形

近年あらたに確認された「殿山城の遺構」は丘陵の北麓からも成形された郭跡の形状を読み取ることができるほど明確である。
また殿山自体にも一応複数の削平地が所在し、上記画像のように小規模ながら尾根筋を分断する堀切状地形も確認できる。
ただしこの堀切状地形が北西尾根筋の小規模な城館遺構に伴うものか、本来の殿山に属するものなのかは不明なようだ。


 和田集落手前の「天空の城」      殿山の全景


  郭状の削平地のひとつ         展望台

こうした殿山はさらに南方の公方屋敷遺構とも近接しており、その範囲を明確に区別することが難しいようにも思われた。
なお、上記画像の高さ5m前後の展望台は、体重80Kg超(デジカメ装備一式を加算すると約90Kg)の管理人が登ると梯子段がミシミシと音を立てるので、特に大柄な方はご注意されたい。


殿山城(滋賀県甲賀市油日)
11時05分から11時30分

近年において「甲賀市史」編纂などに伴う実地調査により、殿山の北西尾根筋先端部に小規模ながらより明確な城館遺構が確認されている。

 殿山忠魂碑へ向かう参道から     堀切と土塁


 深さ左6m/右4mの堀切   削平されたラインが目立つ郭跡


  南からの遠景(丘陵先端)

前項の「忠魂碑」が設置されている従来の殿山とは別の性格の城館跡のような印象もあるが、その距離の近さから、いまのところは取敢えず名称の上では一連の城館遺構として捉えられているようであるが今後変わるような感じもする。
堀切から土塁へは直接登ることは難しいので、堀切の南側を迂回するように対岸に這い上がり、そのまま土塁上を西へとすすみ比高差の少なくなった頃合いを見計らい郭内へと降りた。
ただしこの郭から下方に降りる踏み跡はそのまま民家の裏手へと出てしまうので、もと来た堀切まで戻る必要があるようだ。
当該名称は現地に設置されている案内標識の表記に拠った。


公方屋敷支城(滋賀県甲賀市油日)
11時40分から12時25分

主郭付近を除きほぼ藪城に近いという印象である。 
あまり登り口が明確とは言えず、かつ民家近くの斜面を這い上がることから 気が引けることこの上ない。
また途中かなりの藪と棘が群生する個所を通過するので注意が必要である。
ことによると南側の民家方面からより安全にアプローチするようなルートが存在しているのかも知れない。


   東麓からの遠景       この辺りから藪を入る


    東側の削平地          主郭付近


   櫓台のような地形        南からの遠景


公方屋敷(滋賀県甲賀市油日)
12時40分から13時15分

後の足利義昭となる覚慶が逃れて和田惟政により匿われたとも伝わる著名な旧蹟である。
西側に向けて開口した浅い谷津地形であり現在は耕作地となっている。
西側を除く三方が丘陵を利用した土塁状の地形に囲繞されており、そのうちの南部の遺構は近年まで「公方屋敷城」とも呼称されていた時期がある。
 
    公方屋敷入口          公方屋敷


    五輪塔の一部          説明版


  殿山方面へと続く尾根道   かつては「公方屋敷城」とも


和田城(滋賀県甲賀市油日)
13時40分から14時20分

上記の3か所を探訪し終えた時点で、事実上の日没時刻まで2時間余りとなったことから、取敢えず和田支城3と2を後回しにして、市史跡指定の和田城へと向かった。
和田氏の本城とも考えられる城館である。
こちらも登り口は不明であったが南麓の民家脇からのルートを使用することとした。
史跡指定されているだけのことはあり、公方屋敷支城とは異なり最低限の草刈りなどの管理が行われているという形跡が見られ、全体としておおむね遺構の観察は行いやすい環境であった。

   西側からの全景      ここからも入れるらしいが


    土塁状の地形        主郭背後の堀切


   主郭南西部の虎口         郭内から


   少し前の解説版

なお、本来は北東の畦道からアプローチするのが正規のルートであることを帰り際に知ることとなった。
しかし、現地にて頒布されているパンフレットには各城館の登り口に関する情報は掲載されてはいないのであった。
また上記の少し前の和田城館群に関する解説版との異同があることから、事情を知らない者にとっては混乱してしまう可能性もあるように思われた。


◎棚田山城(滋賀県甲賀市油日)
14時25分

以前には城館跡として把握されていたが、近年において城館跡ではないとされている。
このため西側の市道から遠景のみを撮影するだけにとどめた。
※出典「甲賀市史第7巻甲賀の城」333ページより



和田支城1(滋賀県甲賀市油日)
14時40分から15時05分

残り時間などを勘案して確実に登り口のありそうな城館を本日最後の目的地に定めた。
稲荷神社への参道が所在し、主郭部に同社が所在している。
しかしそのほかは藪が多く遺構の確認が難しい状態であった。

   北東からの遠景                東郭の先端付近


   東麓の文化財説明版        稲荷神社


     主郭と土塁          同解説版

日没時刻を考えれば未だあと1か所くらいは回れる時間帯ではあった。
けれども何時ものように食事なしは未だしも、これに給水なし、日没までの時間が惜しく休憩なし、明確な探訪ルートが不詳であることなどを県名に判断しいくぶん早めの撤収となった。
還暦前であった10年前に比べて、気力、体力の減退のみならず記憶力(容量、記憶の精度)の著しい低下を思い知る現在では、もはや1日当たり数か所程度の回遊が限界であることを痛感してた。
現地到着が午前10時半を過ぎてからの探訪ゆえに、南部の高嶺方面はおろか正味5時間では和田集落内でさえもその全て回りきることは叶わなかった。


この日は前記のようについ飲み物を買い忘れて日中は飲まず食わず。
ちなみに油日駅を除くと和田集落内には稼働中の自販機の姿を見かけないことから、今後再訪する場合にはくれぐれも注意が必要なようだ。
日没前に辿り着いた駅前で購入した「ホットゆずレモン」の温かさが身に染みた。
油日の駅務室にて見かけた「和田一族」(自費出版頒布価格1千円)の本を購入した。

昨年油日の図書館で気になっていた本なので本日の収穫のひとつでもある
宿泊先のホテルにてパラパラとページを捲り明日の行動予定を反芻しつつ心地よく深い眠りについた。 

拍手[3回]