本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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この日、すなわち2021年11月11日の最初の目的地は前橋市指定文化財でもある「稲里の石造馬頭観世音立像」の見学でした。
本来であれば粕川駅の到着予定時刻は午前8時15分なのでしたが、ボケ気味の年寄りならではの不手際により既に時刻は午前9時近くとなっておりました。
この時点で早くも1時間近く遅れ気味でしたが、元来の頑固で一途な行動様式というものは加齢に伴い益々その傾向を強めている模様であります。
このため本来の目的である中世城館巡りを優先すべきところを、当初の手順通り石仏、石造物巡りを始めてしまうのであります。
冷静に考えればこの季節の日没時間と限られた体力と勘案して、石仏、石造物めぐりを後日の懸案とすべきところなのかも知れませんが。



■「粕川と赤城山の遠景」
赤城山を水源とした粕川の流路の左側(西側)が稲里地区で、画像右側(東側)が中村城が所在している月田地区方面となるようです。

さてこの場所でも、またまた二つほどの問題が発生しました。
一つ目は「馬頭観音」の所在地について、「粕川筑の文化財を訪ねて」というウェブ上のパンフレットの文言から、てっきり「旧村社稲荷神社境内」と誤解してしまい、あちこちと彷徨してしまったことです。
二つ目は境内の参拝見学中に石段の段差で見事に尻餅をついたことでありました。
幸いにして尻餅をついた個所は、偶然にも柔らかいお落ち葉の積もった土の上でしたので別段これということもなく助かりました。


■「稲里の稲荷神社社殿」


■「如意輪観音座像」
稲荷神社の境内地の片隅に東側を向いた格好で鎮座されておりました。
右側面には18世紀末江戸時代中期の「安永」の文字が彫りこまれておりました。
右ひざを立て、右手を頬にあてがっていることから如意輪観音ではないかと思われます。
女性の戒名が彫りこまれていたことから供養塔であるのかも知れません。

一つ目の問題については偶々ご親切な地元の方にお聞きしたところ、何と有難いことにご丁寧にも現地までご案内をいただくこととなりました。
大変助かりました。
本当にありがとうございました。


■「稲里の馬頭観世音立像」(前橋市重要文化財)
ご案内いただいたご年配の方のお話では、大変残念なことに近年に自動車事故により上部が破損するという被害を受けてしまったということでした。
モルタルによる接合補修跡はその時のものであると伺いました。


■「馬頭観世音部分拡大」


■「現地解説版」
詳しくはこちらの解説をご覧ください。

なお文化財所在地の住所地自体は把握していましたが、実際に所在していたのは神舎境内地の80mほど南側の県道102号線のすぐ東側の市道沿いなのでありました。
従って神社境内からはごく至近距離なのではありましたが・・・
現在のように老眼でなければ地図情報の地番から探すことも困難ではなかったのですが、何分にも細かい文字が次第次第に見えなくなっています。
たとえば細かい文字の場合ですと、最早「目」「月」「日」の識別ができません。


■「笠かぶり地蔵尊」
恥ずかしながら自分も初めて見聞する石像仏で、上記の現地解説版に説明が併記されておりました。

「馬頭観世音」の所在を探索中に「子育薬師」と呼ばれている石仏群も見学させていただきました。


■「寒念仏供養塔」
右側の供養塔は台座の下に「中村」との村名が刻まれていましたので、元々は中村に所在していたものでしょうか。
中央やや左側の立像は江戸時代初期の念仏供養塔で、画像左側の石造物は「笠塔婆」のように思われます。
なお、同所に所在している薬師堂には現在でも子供の成長を祈願するという慣習が伝わっている様子もうかがえました。

馬頭観世音の安置された墓地の一画には、慎ましやかに鎮座されていた野仏が一体おいでになりました。。
頭部の風化がすすんでいるようで詳しくは分かりませんが、その素朴な御姿を拝見する限りではたぶん「十一面観音立像」のようにも思われました。


■「十一面観音立像」?


◎参考資料
「石仏と石塔」(山川出版社)
「仏像の世界」(山川出版社)
「石仏・石の神を旅する」(JTBパブリッシング)
「日本石仏辞典第2販」(雄山閣)
「阿弥陀・薬師・観音・不動」(大法輪閣)

※この稿はブログ用画像の編集作業などの事情により
2021年11月13日に作成しています。

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以前から神奈川県、東京都方面へはここ数年の間は延べ20回ほどは公共交通機関を利用して出かけておりました。
さて今回は何れは訪れるであろう運転免許返納塔の先々の事情も考慮すべく、電車、気動車乗りつぎの旅を計画してみました。
Yahooの路線情報を参照し、往路の予定では東武東上線の上福岡から-小川町乗換で八高線-高崎乗換で両毛線-前橋下車しで中央前橋まで徒歩-上毛電気鉄道にて粕川というルートを選択しました。
これが今のところ比較的安価ICカード利用の2034円、乗換回数の少ない所要時間3時間11分(乗車時間は2時間23分)というルートです。
またここ8年近く八高線にも乗車していないこともあり、年齢的に気動車独特のエンジン音と振動に何処か懐かしさを感じていたこともあります。

さて始発の午前5時04分発の各駅停車下り小川町行に乗車。
登の方向の池袋行きとは異なり明らかに乗客は至ってまばら。
電車の座席は全くの選び放題でした。
ここまでは予定通り順調に1時間足らずで小川町駅に到着。

ところが八高線への乗りつぎでちょとした失敗を。
元々の乗り継ぎ時間は約4分ほど。
東上線のホームから無人駅であるJR八高線への乗りつぎ方法は、跨線橋の階段を登り跨線橋上に設置されている「IC器にカードを一度だけタッチ」して進むべきところを通路の左右に設置されている「IC器に2度タッチ」してしまいました。
本来は1度のタッチで乗り継ぎが成立するところを2度タッチしてしまうとエラーとなり、結局のところ再度跨線橋をおりて東上線の駅窓口へ赴いて手続き処理をするということになります。
その際に既に乗りつぎ処理が為されているので本来は跨線橋上のIC機器への処理は不要なのですが、なんと再度タッチしてしまうという二重の失態をしでかしました。

本来のシステムとして2度のタッチは不要なのですが、自動音声ガイドがそれぞれタッチするように呼び掛けることもあったのかついついやってしまいました。
なおこの時の2台のIC機器の意味合いについては、あくまでも手前の方を東上線からの出口、奥の方を八高線への入口として誤解したことによるものです (;^ω^)

かくして再度駅務室へと赴くこととなり、そのうちに5時54分発八高線高崎行きは出発。
結果的に約40分後の列車を待つという事態に。
これもひとえに高齢者がよくしでかしそうな失態の一つなのでしょうか。
尤もよくよく考えてみると、今から20年以上も前にこの跨線橋で同じような局面に遭遇していたことを思い出しました。
その時はまだ40歳代半ばくらいでしたので、前後の状況を勘案して特に問題なく乗りつぎしていたものと記憶しております。
4年くらい前までは先ず余りこうしたことは無かったように記憶しておりますが、正に年を取っているということの傍証のようなものなのかもしれません。
また高齢者の自覚としては個人差もあるのかも知れませんが、乗りつぎ所要時間はなるべくならば15分程度の余裕を考慮した方がよいのかも知れませんなどと感慨にふけるのでありました。

なおその後は無事に次の八高線に乗りつぎ、次第に高校生の通学客で込み始めるなかを気動車は鉢形城の大手口付近を通過しやがて高崎駅へと到着。
次に通勤、通学客で混雑する両毛線へと乗りつぎ前橋駅へと到着。
ここから上毛電鉄中央前橋駅までは徒歩約800m。
最初は足早の中年男性と抜きつ抜かれつの状態で速足。
しかし最後の方で歩道橋に阻まれ急速に速度低下発生。
それでも意地でどうにかこれを歩ききり、過たず自動券売機にて切符を購入し約40分遅れで時刻は午前9時前に粕川駅へと到着したのでありました。
下記画像の背景は赤城山方面です。



※この稿はブログ用画像の編集作業などの事情により2021年11月13日に作成しています。

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本日は史進さんからのお誘いにより常陸方面へ。
茨城県は約1年半ぶりで、たぶん記憶では石岡市は初めてのはず。
当管理人は朧気ながらも筑波山には60年ほど前に訪れたものと記憶。
しかしその当時は東麓となる石岡市方面へと立ち寄ったかについては皆目不明。
尤もふとこのブログを起稿している最中に、その後の1988年頃に仕事で道路地図を頼りに国道6号線経由で水戸市内まで赴いていることを思い出した。
従って恐らくは石岡市域を通過はしているだろうとも思うのだが。
というくらいなのでこの地域については全くの予備知識ゼロ、土地勘ゼロの管理人なのであった。


片野城/茨城県石岡市
午前8時40分から9時50分

関東の戦国史では著名人の範疇に含まれると思われるあの太田資正の居城でもある。
因みに同氏の墓地が城内の浄瑠璃光寺墓地に現存。
また太田氏後裔の方による供養等も継承されている様子が窺えた。
因みに墓所の傍の真新しい解説版は、この10日間ほど前の資正の命日に設置されたもののようであった。

■太田氏墓所

なお設置されている五輪塔がそのまま当時の物であるのかは不明である。
あくまでも素人の印象に過ぎないのだが、その経年風化の様子からは幾分か比較的新しさを感ずるようにも思えたのだが果たしてどうなのであろうか。
まだ現在のところ同寺は些か山門などの付属建物の経年劣化が目立ち、恐らくは無住状態となっているのではないかとも思われた。


■浄瑠璃光寺山門

城域には菩提寺でもある同寺院のほか、その北に七代天神社の社域が隣接し、他に畑や果樹園などの耕作地も多く見られ山麓には民家も数多く存在しているという環境にある。
あくまでも民有地であることから部分的な区画形質の変更、或いは幾分藪化しているような箇所も見受けられる。


■主郭付近の様子と背景の筑波山

それでも太田資正公の20年以上にわたる居城として石岡市の指定文化財であることも背景にあるのだろうか、概ね中世城郭としての構造を想起できる遺構状態であるように感じられた。
なおこの日は晴天無風という好天に恵まれ、主郭付近からは日本百名山でもある霊峰筑波山を望むことが叶ったのは幸いであった。
なお駐車場所は太田氏の菩提寺でもある浄瑠璃光寺境内地を暫時借用させて頂いた。



高友古塁/茨城県石岡市
午前10時10分から10時35分

県史跡でもある丸山古墳がこの中世城館跡と重なっており、丸山古墳を目指せばそのまま高友古塁へと誘われるので先ずアプローチに迷うようなことは無いようである。
なおルートは途中で些か幅員の狭い急坂を登攀することとなるのだが、当該古墳には数台分位の専用駐車場も完備しているので誠に有難いことである。


■南側堀跡を東から撮影

丸山の前方後円墳を東側に寄せて大きくぐるりと囲い込むような形で空堀と土塁が周回しており、また公道を挟んだ南側の斜面には切岸状の段築状の地形も見受けられる。
空堀の堀幅は数メートル程ではあるものの、北側部分ではその深さは最大で5mを超えるような個所も散見され、かつ切岸の角度も鋭角であり一重とはいうもののその防御意思の強さが感じられる。
古墳の方は一部において後世における幾分破壊などの痕跡が認められるが、中世城館跡遺構の残存状況、整備状況は共に良好であるという印象を抱いた。


■南側虎口(入口)付近の様子

なおこの日は草刈りの整備のための現場確認作業が行われており、おそらく数日後にはより藪の少ない見学しやすい環境整備が為される模様であった。



二条山館/茨城県石岡市
11時00分から11時50分

城域の北側から里道を頼りにアプローチ。
「尾根筋」とまでは言えないような比高差30mにも満たない藪潜りである。
直線距離にして約100mほどのごく短い距離とはいえども本格的な藪潜りは久々であった。、高齢者の仲間入りを遂げている管理人としては、あらためて屈んでの移動と足を大きく上げての運動というものが不得手な状態に陥っているという厳然たる現実を痛感する。
携行しているストックも役に立たず、目前の倒木を股くべきか潜るべきかで大いに迷いに迷うのであった。
50年ほど以前には20キロ以上のリュックを背負い3泊4日の縦走を果たし、或いは「南アの北岳」程度には登れていた身なのではあるのだが。
もはや昔日の栄光の影は微塵も無いらしい。


■北側の空堀

城跡の見どころは北面に刻まれた三重土塁とこれにリンクしている東西の横堀のであるように感じた。
堀の深さは現状でも切岸としての高さが6mを超えるような個所も見受けられ、繁茂する木々に視界を遮られつつも城跡遺構の素晴らしさに浸ることができた。
とはいえある程度の藪を伴うので、やはりデジカメ撮影では「ただの藪」になりがちなのであった。
なお主郭部の様子は更に激藪状態でもあり些か観察が困難であった。


■西側の横堀



諏訪山館/茨城県石岡市
13時20分から13時40分

全く事前の下調べを行っていたかったのたが、下宿公民館とその付近には館跡の土塁の一部と思しき地形が残存していた。
なお2021年11月4日現在では、「いばらきデジタルまっぷ」には遺跡としての登録は為されていない。
遺跡の名称、歴史的背景などは不明の様である。


■土塁状の地形



諏訪山砦/茨城県石岡市
14時00分から14時15分

郭内は些か藪が濃いが、東面の切岸、南面の土塁、西辺の空堀などに見るべきものを感じた。
当該遺構とは無関係ではあるが、銀杏畑?の葉が黄葉の盛りを迎え、折からの西日に照らされその鮮やかさを際立てていたのが印象的であった。


■主郭西辺の空堀跡


■西日を浴びる銀杏



谷田部東PAにて夕食。
そののち圏央道では予想以上の渋滞の渦中に嵌る。
主に断続する対面通行区間によるものと考えられ、これに東北道への分流の影響が加わったものと見られる。
自宅への帰着は午後7時40分頃であった。

もはや目標に対して単独では気力体力が追い付かない年代となったようである。
史進さんのお誘いと的確なナビによって再び常総方面の藪城との対峙が叶った。
心より深謝いたします。

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先週21日に続き今週も前橋方面へ出動。
ところが早くも問題発生。
国道254号線の新河岸辺りを走行中突然頭痛を発症。
たぶん緊張性頭痛と推定。
その後も復調せず断続的に発症。
どうにか最初の目的地である伊勢崎市内へと辿りつく。

早朝の上武道路は特に高速道路並みの走行車両が多い。
この際は時間の節約よりも危険回避を優先。
このため予め可能な限り上武道路を回避。
深谷バイパス経由のルートを選択。
まず渋滞のないであろう大寄~上武大橋~世良田~境木島というローカルなコース。
早朝という事もあり予想通り渋滞なし。
順調に上渕名の鶴巻古墳公園到着。
往路の所要時間は2度の休息を含め2時間10分。


◎鶴巻古墳/群馬県伊勢崎市上渕名
午前6時50分から7時05分

史跡公園内は早朝故に散歩者等若干名。
古墳遺跡は歩道石垣を含め程よく復元整備。
赤城山方面も眺望良好。
尤も早朝のため撮影画像は朝焼け気味。
形式は帆立貝式古墳あるいは円墳とも。

早朝の鶴巻古墳と赤城山

ここで軽食摂取。
徐に地図を一瞥
すると北方1km足らずに久永陣屋。
3年ほど前に訪れているので今回はパス。


◎庚塚古墳/群馬県伊勢崎市東小保方
7時40分から7時50分

「かねづかこふん」と読む。
県道によるアクセス不良につき、この間約5kmほどは上武道路走行。
工場、倉庫、廃材置場等に包囲された立地。
破壊跡が顕著で些か保存状態不良傾向。
前方後円墳だが、特に前方部の形状が不明瞭な印象。
墳丘の傍らに放置気味の小祠に寂寥感漂う。

四方を囲まれた前方後円墳


女淵城/群馬県前橋市粕川町新屋
8時30分から10時15分

歴史的な背景としては地衆である女淵衆との関りを有し、越後上杉氏と小田原北条氏による争奪の地でもあったとされている。
城址公園として駐車場完備、トイレ完備と至れり尽くせりの城跡である。
全体の印象としては、ややため池(水堀跡とも)と城址公園広場の存在が目立つ。
城域の大半が半ば荒廃した荒地であった時期もあるらしく、どちらかといえばその後の利用環境や城址公園化などにより往時の水堀としてのイメージは想起し辛いのかも知れない。

豊川天の小祠近くの堀跡の様子

然し実際に時間を費やして隅々まで歩いてみると、五霊神社社殿奥の土塁、豊川天(ダキニ天/稲荷、飯縄権現信仰に類するとも)付近の堀跡などに僅かに中世城館の面影が感じられた。
なおダキニ天の由来に加え隣地の墓地と昼なお薄暗い景観は、朝方の時刻であっても境内地へのアプローチを躊躇させるに充分な雰囲気を醸し出していた。

五霊神社社殿奥の土塁状の地形


深津館/群馬県前橋市粕川町深津
10時40分から10時55分

地元集会所の駐車スペースを拝借。
隣地の八坂神社参拝して徒歩にて探訪。
深津氏の居館と伝わり、「深津坂田城跡」として市史跡指定。
とはいえ同所は民家敷地そのもの。
このためあくまでも遠方から拝見した画像を掲載。

柿の実越しの古民家風景


深津寄居/群馬県前橋市粕川町深津
11時10分から11時20分

「寄居橋」という地名が残るという事前情報あり。
残念ながら当該地名を示すものは見当たらず。
代わりに鉄工所前の古碑を撮影。
どうにか「供養塔」という文字のみ判読。
他は経年摩耗、読解力不足などにより判読不能。
前橋市文化財一覧にも該当なし。

どうにか「供養塔」と判読・・

当初は少なくともあと2か所ほどを予定。
然しこの時点で再び頭痛発症の予兆頻発。
このため直ちに活動継続を断念。

■参考資料等
「角川日本地名大辞典」
「マッピングぐんま」
「古墳マップ」
「伊勢崎市ホームページ」
「日本城郭大系」ほか


これで2週連続の出動である。
昨年は新型コロナなどの事情も。
かくして10月に4度、11月に2度の探訪で終了。
の後4度くらいは出かける心積もり。
突然の電池切れもあり先行き皆目不明。
今回同様の強烈な頭痛が再発の有無次第。
事故防止の観点からも今年の探訪はこれにて強制終了という可能性も無くもないと感じる一日であった。

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約1年ぶりとなる赤城山南麓方面へ。
ここ1年というものは6月の長女の日帰り手術の送迎を別にすると、新型コロナ流行いう社会的背景に加えて従来からの呼吸器疾患などの影響もあったのかも知れないのだが、外出の機会は皆無に近い状態にあったように思われる。
それでもここに来て、漸く社会情勢も落ち着きを取り戻しつつあるようにも感じるようになってきた昨今なのであった。
己の健康寿命に照らせばもうそれほどの年月は残されてはいないようにも感じらる今日この頃、取敢えずは自己の足回りの健康状態を観察する意味を含めて、片道約100kmほどとなる上州前橋、旧大胡町の付近の散策へと向かうことと相なった。
なお当地は比較的近距離に所在しているものの、今回は自己の老齢化に鑑みてテストケースとして敢えて1泊という旅程を選択することとなった


■丸塚山古墳/群馬県伊勢崎市三和町
午前7時50分から8時15分

当該古墳は上武道路の三和交差点から直線にして約450メートルほどの地点に所在している。
現地解説版、伊勢崎市公式サイトの情報などによれば、南北方向81メートルを測る3基の石棺を内包した帆立貝形古墳(前方後円墳の一形態とも)とされており、古墳時代中期5世紀後半の築造と推定されている旨が記されていた。
また「群馬県古墳総覧」によると伊勢崎市内において確認されている古墳の総数はなんと1504基にもなるという古墳の密集地帯でもあるらしい。
同総覧によると戦前に刊行された「上毛古墳綜覧」には、「緑泥片岩製の長持形石棺アリ」との記載があり、残念ながら同石棺は現存していないものの、このことからヤマト王権との関りが想定される地元豪族層のものである可能性を示唆している。
さて幾分麓からの比高差もあることからやや斜面も急ではあったが、墳丘の頂部からの赤城山、榛名山、浅間山方面の眺めは良好であった。

墳丘頂部から赤城山方面を望む

当古墳は伊勢崎市の指定文化財なのだが、周囲は耕作地でもあることから、また墳丘法面保護の観点からもプレハブ小屋の所在する東側からアプローチすべきか、或いは文化財解説版の設置されている南の前方部側からアプローチすべきなのかその判断に迷ってしまうのであった。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「古墳マップ」「伊勢崎市ホームページ」


■本関町古墳群/群馬県伊勢崎市三和町
8時25分から8時40分

現地の解説版によれば「一ノ関古墳」と呼称され、石室の様子を外側から拝見できるようになっている伊勢崎市の指定史跡であり、6世紀後半の築造と推定されている。
現在残存しているのは後円部のみであり、前方部分は南流する粕川の流れにより焼失してしまったということである。
赤城山に源流を有する粕川などの支流は元々は大小の蛇行を繰り返し利根川方面へと合流しているのだが、大雨などの度に幾度となく小規模な氾濫を繰り返し、このため戦後には多くの河川の流路改修が施されていることが窺える。

墳丘後円部と遠く浅間山/榛名山方面を望む

当地は国道17号線バイパス上武道路と黒糖462号線が立体交差する赤城見大橋の南西約100メートルほどに所在し、一ノ関古墳史跡公園として専用駐車場も完備された小公園として整備されていることから見学しやすい環境であった。
何時もは文字通り赤城山を右手前方に眺めつつ上武道路を走り抜けてしまう地点ではあるのだが、こうして数多くの古墳巡りを行い古墳時代に思いを馳せることもまた味わいのあるものである。
尤もこの時間帯は朝方の比較的交通量の多い時間帯でもあることから、極力交通安全に心掛けできるだけ車での移動を避けてなるべく徒歩で歩き回ろう意味もあるにはあるのだか。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「古墳マップ」「伊勢崎市ホームページ」


■五目牛の古墳/群馬県伊勢崎市五目牛町
午前8時50分から9時05分
現地解説版によると「赤堀33号墳」という旧赤堀町当時の整理番号で呼称され、浅間山古墳群に属するらしく、直径47メートルの規模を有する円墳であったことが推定されている。
こちらも「五目牛史跡公園」として整備されてはいるが、今のところ文化財指定は為されてはいない。なお同公園内にはトイレも併設されているので誠に有難いものがある。

五目牛史跡公園と古墳

なお帰宅後にじっくりと見てみようと思い、同地の解説版の画像を撮影してきたものの手前にある植え込み枝の陰に隠れているため事実上判読が難しい状態であった。
また、上武道路北側の企業敷地内にも「赤堀35墳」と呼称されている古墳が一部現存しているようなのだが、そろそろ交通渋滞の時間帯も過ぎ始めており、合わせて所要時間の関係もありこの辺で県道103号線経由で大室城を付近を経由して前橋市堀越町方面へと移動を開始することとなった。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「古墳マップ」


■稲荷塚古墳/群馬県前橋市上大屋町
9時50分から10時10分

これで冒頭から既に古墳探訪ばかりが4か所も続いているのだが、この地域は特に古墳の密集地帯でもあることから何卒ご理解をいただきたい。
当該古墳は約直径25メートルを測る比較的小規模な円墳であり、墳丘の頂部には稲荷社の小祠が祀られている。
なお墳丘の稲荷社の祠に対して、参道の鳥居には神仏混交と民間信仰の合作ともいえる「牛頭天王宮」の神額が掲げられていた。
この点については明治初期の廃仏毀釈(取分け修験道、牛頭天王信仰などに対する強烈な排斥という社会的動向)による社会的混乱状況を想定すると、一度は撤去されその混乱が収拾されるのを待ち再度掲げたものなのかなどについてあれこれと勝手な想像を巡らしてみることとなった。

稲荷塚古墳

帰宅後に県別マップルを眺めていて気付いたことが。
何とよくよく考えれば、この県道3号線は途中で県道34号線にも続くルートで、18年、19年、20年と何度となく訪れていた地域なのであった。
近年はブログに探訪メモとして記述するのみでサイト更新が滞っていることから、加齢も加わって相当に地理的な空間認識力が減退している模様であるらしい。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「古墳マップ」


横沢城/群馬県前橋市横沢町
10時30分11時00分

1年ほど前に日帰りにてこの近くを探訪しその折には時間切れとなってしまった城跡である。
またあまり一般には知られてはいないようで、近隣の荻窪城や大胡城などとは異なり城跡などの説明版も無く無論文化財の指定もなされてはいない。
城域の大半は大分以前から宅地化(民家と牧畜用の牛舎など)と耕地化が進んでいるらしく、崖線部に僅かに垣間見られる法面加工の形跡などを除けば、民家宅地内そのものであることもあり最早明確な城跡らしい遺構を確認することは困難であるという印象であった。
それでも城跡の東西を流れている寺沢川とその支流に挟まれた丘陵部先端に所在する要害要素の感じられる地形であることは明瞭であった。

郭跡にも見えなくもない耕作地と赤城山の遠景(笑)

字打出の地名が残り戦国期には大胡城の出城であったとも推定され、井上玄蕃が在城したとも伝わっているらしい。
因みに城域西側に所在する牧場には「井上牧場」という看板が掲げられていた。


◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」


■横沢の石塔婆(群馬県指定重要文化財)/群馬県前橋市横沢町
11時10分から11時20分

群馬県の重要文化財に指定されている比較的有名な石塔婆で、頂部を含め5面を利用した赤城山由来の輝石安山岩による南北朝初期頃の北朝年号が刻まれている石造物です。
いろいろと調べてみたところでは、下記画像のように概ね南西方向に相当していると思われる面が、たぶん阿弥陀如来(あるいは如意輪観音、千手観音)を表す種子が刻印されているものと考えられます。
これらの詳細な説明については、「現地解説版」「前橋市HP」「同大胡地区の文化財めぐり」などの間で、方位の説明を含めて少々分かりにくいように感じました。
また非常に細かいことなのですが、観音信仰の証左としてその全てが「2月18日」を縁日としているというような旨の説明もあります。
然しその点については、この面に刻印されているのは画像から見る限りでは、どうも「1月18日」となっているように思われることから少々頭の中が混乱してきました。
以上はあくまでも素人としての感想のようなものですが、もしも機会があれば、これらの点についてもう少し調べてみようと思いました。
なお横沢城からは寺沢川の支流を挟んで直線距離にして西北西に約200メートルほどの距離に位置しています。

「群馬県指定重要文化財/横沢の石塔婆」

石塔婆の撮影にあたっては、どうしても近年に建設された隣地に所在している民家の様子が写りこんでしまてますのでこの点の配慮が必要なことを感じました。

このあと近くの「道の駅赤城の恵」にて暫時トイレ休憩とヒレカツ弁当の昼食。
ほかに地場産業振興の一助にもなればと「ぐんまちゃん」どら焼きと「おけさ柿」を購入。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


■伝大胡太郎墓所(前橋市指定重要文化財)/群馬県前橋市堀越町
12時00分から12時20分

長善寺に所在する墓所を拝見すべく参詣に伺うも、おそらくは探し方に問題のあったらしくこの時は残念ながら見当たらず仕舞いとなってしまった。
時間の関係もあり後日の再訪を期して改めて訪れることとした。

長善寺山門を南側から撮影
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


養林寺館/群馬県前橋市堀越町
12時40分から13時05分


同寺は鎌倉期以降にこの地を支配していたと推定されている大胡氏の居館の可能性があるともいわれ、のちの徳川氏の関東入府以降には牧野康成が大胡城主となりこの地の領主となったことから、同氏の菩提寺ともなっている。
城館跡の遺構は境内地の北西側に鍵の手状の堀跡が現在でも確認できるが、これに伴う内側の土塁についてはやや目立ちにくくなっているように感じた。
またかつては二重堀の形跡が認められたとされているが、現在では内側の堀跡のみが確認できるに過ぎなくなっている。
堀底の深さは約2.5mほどで北辺は約30m、西辺は約15mほどの長さを確認することができる。
なお「日本城郭大系」所収の縄張図と比較する限りでは、西辺の堀跡は近年に一部が埋め立てられ寺院の付属建物が配置されているように思われる。


養林寺の山門


牧野家墓所


北辺部の堀跡遺構
◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


近戸の砦/群馬県前橋市堀越町
13時20分から13時45分

現在の大胡神社境内地がこれに相当しているらしい。
大胡氏が支配していた頃の本拠地の一つともいわれ、その後に越後北条氏(きたじょうし)が支配した時期には大胡城の北側を防御する支城として利用されたと云われている。
境内地の北辺縁部に残存している土塁と堀跡は規模も大きく、特に北側の堀跡は深く現在でも約10メートル以上の深さを有し、しかもかなりの急勾配でもあるため堀底から這い上がるのは相当に困難であるように思われた。

大胡神社参道入口の目印


数えてみたら53段あるので、年寄りには厳しいものがあります


北辺部を馬蹄形に巡る土塁跡


北側の堀跡/結構深く斜度も急傾斜です

なお、境内地南側は近年の新たな市道整備により旧状を窺うことは困難となっている模様である。
◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


大胡城/群馬県前橋市堀越町
14時05分から14時50分

本来の城域は南北に長い縄張りを有していたが、公共施設などの宅地化が進んでおり、現在のところ見学が可能なのは本丸、二の丸、枡形の付近に限られているようである。
秋の日差しは短く一通り、城山稲荷への参道を兼ねた階段を上り本丸、二の丸、水の手、枡形の順に見学。
本丸の北に所在している北城は施設の建設に伴い宅地化しているが、この間に穿たれている堀跡の深さは優に10メートル以上を測り安全に向こう岸に渡河することは不能であるように感じられた。
ただし、この地形が本来の城郭遺構に伴うものなのか、或いは風呂川の排水対策などによるものなのかについては不明である。
こちらも、近戸の砦と同様に赤城山南麓に所在する東西を浸食谷に囲まれた南北に細長い丘陵地帯を巧妙に利用した縄張りとなっていることが窺えた。
ただし周辺部の宅地化もさることながら、惜しむらくは近年における主郭北西部の土塁遺構の損壊跡が何とも痛ましく感じるのであった。


大胡城/本丸の土塁



大胡城/二の丸枡形



大胡城/二の丸標柱、解説版
解説版の経年に伴う汚れが目立っていたことから、取敢えず手持ちのウエットティッシュで清掃を試みましたが、残念ながら汚れを取り去ることはできませんでした。


損壊跡?の見られる本丸の土塁

◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


河原浜の砦/群馬県前橋市河原浜町
15時10分から15時25分

この地に辿り着くまでにルート選択を誤り、何度となく上毛線の軌道に遮られてしまい、遠く遥か東側から廻りこむこととなってしまった。
大胡城方面からは北側のやや道幅の狭い市道から赴けば当該地の丘陵に突き当たるということに気づいたのは遅きに失していた。
このためあと1から2か所ほどを廻るといういう予定は脆くも崩れ去ってしまった。
尤も既にかなり以前から当該丘陵地帯は耕作化が進行しており、近年は宅地化のほかに太陽光発電施設も設置されている。
なお傾きゆく夕日を浴びた南側の崖線部の地形の造形美は疲労困憊した老齢の管理人にとっては格別な趣を感じた。

丘陵南部の崖線地形


丘陵(画像中央左側)と赤城山

◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


なおこの日はこの程度に収めて、翌日の午前中に2か所ほどを巡ってみようという心積もりではあったのだが・・・結局のところ日没前までに古墳や石碑などを含めて都合11か所を巡ってしまうこととなり明らかに電池切れとなってしまっていたようだ。
冷静に現下の状況を鑑みるならば、我が身の加齢と運動不足に伴う両足膝付近の痙攣気味の違和感は明らかに収まらず、また加えて天候の方もも不安定なこともあった。
このような次第で2日目の行動は断念することとし、翌日午前9時過ぎころは早々に宿泊先を立つこととなったのであった。
今後の行動は片道100kmの行程の場合には1泊を前提として、なるべくならば遅い時間の出立し帰宅到着時刻は日没前という時間帯の範囲内に、合わせて2日間でどれ程多いとしても10か所以内を巡るという手法に改めるべき時期が来たという厳然たる事態を痛感する一日となった。

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