本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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久しぶりの好天
午前5時前に自宅を出発
 連続5度目となる太田市の探訪にでかけた
ようやく数日ぶりに太陽が顔を出した
しかし朝から既にうろこ雲が東の空にででいる
雲が広がるのも時間の問題なのかも知れない

 
◎渋沢栄一生家(埼玉県深谷市血洗島)
午前6時20分から6時55分

6月に都内飛鳥山の渋沢氏の別邸跡に出かけていた経緯がある
加えて横瀬氏故地に赴く途中に所在していることもあり立ち寄ってみた
開館時間は午前9時からなので無論閉館時間中
その外観からだけでも豪農層の屋敷の規模の壮大さに圧倒される
とりわけ水田耕作地帯に関しては一般的な自作農との乖離は明白である


そういえば深谷周辺も10年以上前に出かけたきりで、完全には廻りきれていなかった
幅員が狭いなどという道路事情の関係もあったような記憶もあるが、現在でもそう広くは無いという個所が少なくなさそうにも思えた


◎横瀬氏の故地(埼玉県深谷市)
午前7時05分から7時25分

後に由良氏(横瀬氏)の故地となった横瀬神社と華蔵寺へ赴く
新田義兼の五輪塔と伝わる墓石が所在していた


それ以外の五輪塔、宝篋印塔など古い墓石が目立つ
かなり改修されてはいてもやはり道路事情はいまひとつの感もある
水田の中の自然堤防上に集落があたかも島のように点在する関東平野の原風景が残っていた

この時間だと未だ日差しが弱い
そういう季節になった
こうした季節の画像撮影に相応しい活動時間は午前8時過ぎから午後4時頃まで
西の空に厚い雲がかかると午後3時頃までか
さらに朝雲がかかると正味6時間も亡くなってしまう
気温の低下と相俟って季節の移ろいを肌で感じる
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)ほか

 
◎大舘八幡宮(群馬県太田市)
午前7時55分から8時05分

先月から通算5度目となるお馴染みとなった旧尾島地区
この1か月間に限ればその滞在時間は25時間を超えている
さすがにもはや道に迷うようなことは無くなってきたように思えた

近くを流れる早川の流路変遷の影響が大きい立地であるらしい
堤防の高地から俯瞰すると以前の流路もそのまま耕作地の低地として残存していることが分かる
現地解説版によれば、近世の社殿建立に関しては「津軽氏分家による再興説」を示唆していた
このことが史実であるとすれば、やはりその勧請に際しては新田氏あるいはその一族である大舘氏が関わっている可能性を想定しても差し支えないようだ


なお神社境内南西に高さ約3mの塚(築造年代不詳)が所在
塚上には近世から明治期にかけて流行った山岳信仰関係の複数の石碑が設置されていた
※情報源「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)ほか


◎二体地蔵塚(群馬県太田市)
8時25分から8時35分

なるべく路駐を避けるべく世良田公園の駐車場を利用
下記の2か所を含めてのんびりと歩いてみた
というよりも以前のように早足では歩けなくなってきたらしい (^^ゞ
とはいうもののこの辺りは徒歩でも充分にまわれるほどに史跡が点在していることにあらためて実感している

元弘3年(1333)幕命により戦費調達の任務を帯びた出雲助親連、黒沼彦四郎の二人が新田方に捕われて黒沼は斬首された
「太平記」などでは、この事件を契機に討幕軍が蜂起したという
中世以降の刑場跡ともいわれ、一辺が約20m、高さ3mほどの方墳状の塚上に2体の地蔵が所在する
ごく最近黒沼氏後裔の方が五輪塔とその由来が刻まれた石碑を寄贈され市道際に建立されている
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)ほか


実はこの前の市道は車で少なくとも3度ほどは通過している
真新しい存在は視界に入っていても脳裏には刻まれない精神構造なのか
いやそれが当たり前のそうした年齢となってきたらしい

 
◎伝源義平墓所(群馬県太田市)
8時55分から9時05分

義平の許婚者であった新田義重の娘がその菩提を弔ったと伝わる真言律宗清泉寺にその墓はあった
天然石を刻んだ墓標の文字は今もはっきりと分かる
風化や汚れなどの具合から見るとそれほど古そうには見えない
おそらくは12世紀当時のものではなさそうに思われる
※「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)ほか


辺りは閑静な集落の外れ
寺も無住となって久しいように思われた
ようやく雲が散り日が昇り始めてきた時間だが無性に侘しさがつのる光景が広がっていた

 
◎八坂神社(群馬県太田市)
9時10分から9時20分

峰岸氏によると足利義詮を名代とした討幕軍第2陣旗揚げの地点と推定されている
しかし現在の社殿の領域から見る限りでは狭隘な印象は避けられない
少なくとも軍馬を含めた数百以上の軍勢が集合するには明らかに容量が不足している
この点、誇大な表現が伴う「太平記」において、後述の新田義貞が旗揚げした「生品神社」での150騎(隋兵、非戦闘員を含めて500人前後)という記述に関しては概ね妥当のように思わたりする
建物そのものが昭和初期頃の建築なのでこれ自体が充分に文化財級ともいえるのだが
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

なお社殿北側は山岳信仰系統の石碑類などがあり比高差2m前後の微高地となっていた


また参道入口近くには旧尾島村役場の建物が現存し、尾島の文化財センターになっている

ふと「遺物」の整理とその保管場所には何処も労苦が絶えなかったという現役時代を思い出す
そういえば最後に行った仕事が「文化財保管施設設置」であった
5年間ほど公設恒久施設計画を立て継続して予算要求
結果的には歪曲化が避けられず、ようやく退職の前年に経費も年間数百万円程度での空き倉庫賃貸物件契約となったが、「無いよりまし」くらいの効果はあったようだ

 
東田遺跡(群馬県太田市)
9時55分から10時00分

工場施設の増設による発掘調査に伴い確認された42m×38mという小規模な環濠遺構である
報告書には「14世紀から15世紀前半の有力農民の屋敷跡」と推定したらしい
この場合の「有力農民」層は「半農半士」である可能性が高い
「城館跡か環濠屋敷か判断せよ」などといわれると悩ましい規模であったようだ
工場施設と周辺の農地を眺めて目視による土地の起伏をメモ


この方式は遺構にはあまり縁の無い都内の探訪以来継続しているが、あとから思い出す時のヒントとなる場合も少なくなく意外に役立つことに気が付いた
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

 
◎生品神社(群馬県太田市)
10時15分から10時40分

言わずと知れた新田義貞の討幕軍旗揚げの地である
平日でもあり境内南端に移設された「太刀を捧げ持つ義貞像」の傍に2人ほどの見学者が見られたのみで大木の多い薄暗い境内は森閑としていた
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

 

◎小金井史跡公園
(群馬県太田市)
10時50分から11時00分

古代の集落跡(豪族屋敷跡)が復元保存されている
草刈りの整備は継続されている
「魅せる」屋外展示の難しさを体感
※太田市役所HP掲載の「中町・深溝遺跡」PDFファイル参照


 
脇屋館(群馬県太田市)
11時15分から11時35分

義貞の弟、脇屋義介の館跡と伝わるが委細不明
以前は畑の中にポツンと所在していたという館跡の石柱
現在は「住宅角のゴミ集積所脇」というロケーションに変貌していた
「脇」という部分ではたしかに語呂だけは合致しているのだが

「畑の中の標柱」というイメージで探していたのですぐには見つからず、いったん赤城神社の駐車場へ移動しあらためて徒歩で念入りに探してみると、何と始めに車を停めた場所から30mほどしか離れていない道路沿いの場所であった
見事なまでに電柱とゴミ集積所に紛れてしまっていたようにも感じる悲しさもあった (^^ゞ
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)


 
大島城(群馬県太田市)
11時55分から12時00分

西端が太田記念病院で南北方向に東武桐生線が縦断、東側が住宅地、南側に太田女子高が隣接という市街地
太田金山城が住宅の頭越しに見え隠れはしている
やむなく付近の水田などを眺めて2両連結が走行する桐生線の踏切を渡り大島館へ
※情報源「太田市史通史編」ほか


 
大島館(群馬県太田市)
12時05分から12時15分

群馬、埼玉ではお馴染みの「コメリ」西側辺り
道路の曲折に微かな面影を探す
地元旧家の一角に複数の土塁状の盛土あり
1か所は屋敷神の祭壇のもよう
もう1か所はやや細長い形状でこちらにも稲荷社のような小祠が見えるが関連性は不明
※情報源「太田市史通史編」ほか


 
北田環濠西(群馬県太田市)
12時55分から13時00分

太田の市街地で太田駅やスバルの工場も近く、そのほとんどが関連の駐車場となっていた
このため地表や土地区画からはかつての形状さえも浮かび上がらず
 


北田環濠東(群馬県太田市)
13時05分から13時15分

現状は県道沿いの市街地内で100ショップと激安スーパーの駐車場敷地である
その北寄りに幾つかの水路(跡)が所在し関連性はありそうだが、現在ではU字溝となり趣には乏しい
 


◎八幡山古墳(群馬県太田市)
13時20分から13時30分

国指定史跡でもあり、環濠集落の近くで駐車スペースが所在していることから必然的に立ち寄る
墳丘法面の一部に河原の丸石を敷きつめた個所がある
頂部に向かっていることから被葬者などの祭祀に関連した通路のようなものなのだろうか
関東の古墳に関する一般書を何冊か所蔵しているが通読未了のまま年月が経過している
雨続きであったため古墳の麓(水田)は水気が多い

 

大倉城(群馬県太田市)
14時00分から14時20分

この日最終の目的地だが、ようやく明瞭な水濠と土塁とに対面できた ^^
埋立てなどによりその景観は大きく変貌しているが、それでも民家北側と東側、西側の一部に遺構が現存していることが窺えた
※情報源「太田市史通史編」ほか


この時点で時刻は午後2時半を回っていた
天候は午後からは次第に曇りがちとなり、今は完全な曇天に変わった
このあと図書館に立寄る予定が、午前4時過ぎの起床のため次第に疲労感が蔓延
一日当たりの記憶容量も縮小する一方でもあり直帰することとした


帰りがけに深谷市の大寄で「ネギ味噌まんじゅう」を購入するつもりだったが、なんと毎週水曜日は定休日なのであった
このため2度目となる熊谷市内の梅林堂へ立ち寄った

物事を知るには多面的なアプローチも必要なので今回は城館以外の要素を加味してみたのだが、まるで「高齢者の史跡めぐり散歩」のような按配となってしまったようだ
今日も結局朝昼抜きで行動しはていたが、正味にして僅か4時間、約2万3千歩しか歩いていないにもかかわらず、何故か疲れたのでこの次は何か食べようと思った

拍手[3回]

引き続き4度目となる太田市内探訪
今回もいつも通り午前5時過ぎに自宅発
現地到着(世良田の歴史資料館)は午前6時45分

やはり東松山―熊谷―深谷―世良田のルートが確実で早い
工事中の上武大橋が完成すればさらに早くなるかは分からない
むしろ通行量が増える可能性もあるのかも知れない
というのも現在の上武大橋は橋梁の幅が驚くほど狭く、大型車両はすれ違い時の徐行運転を余儀なくされている
このため勢い上武道路方面に大型車両が集中して恒常的な渋滞を引き起こしているらしい


岩松城、西田島遺跡(群馬県太田市)
7時00分から7時35分

北東のショッピングセンターに車をとめ徒歩にて向かい、校地の周辺を一周し石田川方面の低地も観察してみた
近世初期に岩松氏が陣屋を置く以前から城館(古城)として存在していたともいわれている
南を石田川、東を高寺川により囲まれた比高約3mほどの微高地を形成しているようだ

    東側の高寺川

日本城郭大系が編纂された当時は「県立尾島女子高等学校」の校地であった
現在は「県立太田フレックス高校」(定時制、通信制)と名称、機能が変遷

城跡とされている個所は昭和50年台の半ば頃から校舎などの建増しなどにより次第に縮小・消失を重ねた
戦後間もない時期に当時の在日米軍が撮影した航空写真をもとに2010年撮影のものと対比してみたところでは城跡南側の四分の一ほどが遺されているようにも見える。
ただし詳細は平地林に隠れていることから判然としなかった

   東側正門付近より

 
長福寺遺跡(群馬県太田市)
7時40分から7時45分

「とりせん」「しまむら」「マツモトキヨシ」「ダイソー」などが出店している郊外型ショッピングセンターである
この場所は先月にも訪れていることから2度めではある

開発に当たり発掘調査が行われた結果、城館跡や寺院跡等に関する知見を得られたようなのだが、いまのところ報告書を目にしていないので詳細は不明だが、岩松城とは高寺川を挟み対岸に位置していることから推定すると別個の遺構であるのだろうか
むろん小河川の流路変遷、圃場整備などの仔細を検討せねば不明であることには変わりがないのだが
また仮にかつての岩松城が外郭部分を伴う大規模な縄張であったと想定すれば、岩松城との距離は直線で200m余りに過ぎず、寺院を含めた外郭の一部であった可能性も否定できないのかも知れない

このようにして調べねばならない事項ばかりが滞留していくのである
気力と視力と知力の欠如が恨めしい


  近年開設された商業地


岩松八幡宮(群馬県太田市)
8時00分から8時15分

新田義重が勧請したとも伝わる神社
戦国期の岩松氏との関係も深い
9月末に約600mほど北側に所在している青蓮寺、義国神社などを訪れた際に、うっかり失念して行きそびれたことから訪れた
北側、西側からアプローチするとやや所在地が分かりにくいが、南側または東側からはとても分かり易い
境内地周辺は方約100mほどの規模があるようにも見える
なお、社殿北側には下記画像のような盛土が施され、その結果辺とは約1mほどの比高差を生じていた
神社社殿造立の際に為されたものかそれ以前のものか、その普請がいつ頃のものなのかもいまのところ不明

約1mほどの比高差のある境内

南側に小公園が付随し車も3台くらいは駐車可能であった

    南側表参道から


牛沢城(群馬県太田市)
8時30分から8時45分

南東角の牛沢神社付近に駐車し参拝
石田川とその支流である蛇川により西と南を囲まれた地形
城館跡と推定される中心部付近に東西約25m幅約4mほどの水濠が所在しているが、城館跡との関連は不明

また鬼門である北東に稲荷神社が所在しているが、比高4mほどの人工的な盛土でありよく目立つ
この地域には古墳も多く存在していることからそれらしくも見えるが、あるいは近世以降の塚であるのかは今のところ不明



富沢館(群馬県太田市)
8時50分から9時10分

かつては堀が存在していた由
南西部の細長い墓地の区画辺りと北東部の耕作地にそれらしさを感じる
現在は僅かに境内地が周囲よりも高いくらいで地形的な特徴は見いだせない

 境内は周辺よりも少し高いが


高林陣屋、高林環濠遺構(群馬県太田市)
9時30分から9時50分

近世の代官陣屋でそれ以前には城館でもあったらしい
近くのコンビニで飴を買い徒歩にて拝見
屋敷地の東側には今重厚な屋敷門、長屋門(やや櫓門に近い)が所在し、南側の長勝寺側には土塁状の地形もあったのだが

    土塁だろうか
 
高林城(群馬県太田市)
10時00分から10時40分

NECの工場敷地内だが現在は保守サポート拠点として継続しているらしい
98シリーズ、8800シリーズが懐かしい
関連企業との取引のあった80年代をふと思い出す
pcがマイコンと呼ばれた時代から40年近く付き合っている割にはスキルがない
昔日に思いをはせつつ敷地の周囲を一周した
むろん遺構などはあろうはずもなく、僅かに八瀬川と憩川に挟まれた特徴のある地形だけが昔日を物語っていた




矢島城(群馬県太田市)
11時00分から11時20分

国道354線と国道407号線が交差する北西部に所在し、赤城大神宮を挟み東西に城館跡が存在していた由
水路を挟んだ西側の方は概ね宅地化され一部畑が残り東には曲折した細道がある
東側の方は工場敷地の一部と化している
社殿に付された神社縁起によればこの境内も城館跡であるとのことだが果たして



東矢島城、宮西遺跡(群馬県太田市)
11時30分から11時50分

国道407号線東の長良神社境内の辺りらしいのだが、「マッピングぐんま」には城館跡としての扱いは無く、「宮西遺跡」(奈良、平安の集落遺構)に含まれた地域である
境内地のうち社殿の所在する北側は盛土されている
このため周辺の耕作地とは1m以上の比高差がある


東側には南北方向に水路が流れ境内の北東には古塚も所在している

 
新井館、御庵公園(群馬県太田市)
12時25分から12時30分

大型家電量販店から徒歩にて見学
新田義貞の愛妾とも伝わる勾当内侍の居所とも
御庵公園の入口を撮影した

 名称とはそぐわないようにも

城代氏との関係は不明だが城代性の商店が所在する


今井屋敷、今井公園(群馬県太田市)
12時50分から13時00分

そのまま西に1.2kmほど歩き今井公園方面へ
 
4階建の県営団地が所在するところが城館跡という
いくぶん蛇行する蛇川の水面に反射する日の光に僅かに秋を感じていた


遅くも午後2時頃には新田図書館へ赴く予定なので本日はこれにて打ち止め


元々がローラー作戦なので手当たり次第ではある
それにしても今日は遺構が乏しかった

大部分が太田市内の市街地という事情もあるので当たり前ではある
加えて午前7時から朝食、昼食抜きで連続して動いていたこともあり、午後1時過ぎにはほぼエネルギー切れとなった

彼岸を過ぎてめっきり日没が早まってきた
午後5時半には暗くなってしまう様になった
それと共に日の出の方は逆に遅くなってきた
とくに東側に雲がかかる天候の場合には午前7時行動開始がそろそろ厳しくなってきたようだ

「遺跡」を含めると現在の太田市内には100か所を超える城館跡が所在しているので、先月から延べにして4日間も出かけているが未だに半分も回れてはいない
このあとはこのまま太田市内を継続するか、そろそろ他方面へと転じるか思案中

拍手[5回]

(メモ)
今年は6月以降7月、8月、9月と例年よりも多めに出かけられた
尤もその殆どは遺構がほとんどないような都内区部ではある
それでも8月は上田と小諸にも行くことができた
上田、小諸方面はほぼ半世紀ぶりであった
先月9月も太田市西部の旧新田町、旧尾島町を3日に分けて訪れた

その勢いをかって今月も太田市内の残っている個所(たぶん50か所くらい)を3回ほどに分けてまわってみよう
月末近くには名胡桃方面を始めとした有名どころ、小諸市西部、御代田町辺りの何れかに赴ければと思う月初めである

拍手[4回]

一昨日に続いて最早勝手知ったる3度目の太田市
今回も主に旧新田町と旧尾島町方面
ざっと10か所ほど探訪した後に気力が残っていれば図書館にも寄ってみることに
今回も深谷バイパス経由にて
往路は前回時よりもさらに早く所要時間1時間40分前後での現地到着

堀口館(群馬県太田市、旧尾島町)
午前7時00分から7時15分

■浄蔵寺


■賀茂神社
 

利根川支流早川堤防上に建設された県道276号線北東側の堤防下にいくぶん夏草に隠れがちではあったが城館跡の標柱と解説版が所在していた
また集落内の賀茂神社沿いの市道脇には立派な堀口館の案内標識も所在

    標柱と説明版

近くには県道と早川を跨ぐ「水道橋」のような構築物が所在しているので、これも分り易い目標物のひとつ

 たぶん「水道橋」だろうか

しかし、その割には館跡としての地表上の痕跡は同堤防工事等により事実上消滅しているのが残念
今回は現地状況が不明のため北西約1kmばかり離れたコンビニに駐車
たまたま購入したグレープフルーツ味の塩飴がなかなかいける
そこからは徒歩にてアプローチ
結果的には新田氏一族とかかわりの深い浄蔵寺、賀茂神社も立ち寄ることができた


岩松館(群馬県太田市、旧尾島町)
7時50分から8時10分

こちらは境内の南東に史跡めぐりも意識した専用駐車場が所在
源義国の創建と伝わり、江戸時代初期に後裔である岩松尚純(ひさずみ)が隠遁
年代は不明なものの境内地北側に延長約100ほどの土塁と空堀が現存
現状の堀幅は上面で約4mほどだが並行する市道は堀跡の一部かも知れず
一方現状の土塁の高さは堀底から約2mはある
これも往時には少なくとも3mほどの深さがあったものだろうか

   北辺部の土塁と空堀


    東側からの遠景

ただしこの時期そこそこ藪蚊はいることから3か所ほど刺された
液状の蚊除けを忘れたのはこれで連続3回目に
ここのところ必ずといってよいほどに携行を失念している


岩松東館(群馬県太田市、旧尾島町)
午前8時20分から9時00分

金剛寺廃寺跡で現在は地域の集会所がありその南側に子安地蔵尊が所在する


  推定館跡の子安地蔵尊

■義国神社
その北側に小さな社叢を伴う小祠に夏草に隠れ源義国を祭神とする当社が所在
 
     義国神社

■岩松尚純夫妻墓所
やや夏草に覆われたという印象のある公園化された墓所に3体の五輪塔と石碑が所在
この南側に岩松館に移る前の岩松氏の屋敷があったらしい
この辺りの経緯は伝承が膨らみ曖昧な印象もあるのでもう少し時間をかけ確認してみよう



    岩松氏五輪塔


江原館(群馬県太田市、旧新田町)
午前9時35分から9時40

近くのコンビニに駐車し以下の3か所はすべて徒歩移動
現状は予想通り耕作地そのもので圃場整備のためその区画を含めて面影は皆無
「マッピングぐんま」の掲載情報もなし

     東側から


中江田城(群馬県太田市、旧新田町)
午前9時45分から10時10分

■井田池
はじめにこの池の存在がどうも気にかかり訪れてみた


現地の解説版によれば、南東側の中江田城との関わりを示唆
また同解説には地元会館近くに「五輪塔残欠」情報もあったので楽しみが増えた

■中江田城
実はこの場所を訪れたのは2度目
たまたますぐ脇の市道を南側から通過していたことに気づかず(^^ゞ
あらためて徒歩で辿ってみると西側の台地辺縁部に耕作地のものとは異なる小さな崖線が所在
隣接耕作地との比高差は僅かに1m内外だが、水田面からの比高差は3m前後はありそうだ
この地形の確認ができただけでも満足する自分が嬉しい


■五輪塔残欠
中江田本郷会館の斜向かい、住宅脇に天保期の稲荷社?の祠とともに下3段分の五輪塔が鎮座
会館の敷地内に見当たらず作業中の地元の方にお尋ねしたところ小屋をかけた姿に逢い見えるることが叶った


逆に五輪塔の意味とその背景を聞かれたので少なくとも400年以上前の墓石の一形態であり、新田氏或いはこれに繋がる有力者のものである可能性などについてお話しすることになってしまった(^^ゞ


原館(群馬県太田市、旧新田町)
午前10時15分から10時25分

あまり期待はしてはいなかったが、前記と同様に石田川へと続く水路沿いの低丘陵を活用した館跡であったことが明確に浮かび上がってきた

   館跡付近の崖線部


木崎屋敷(群馬県太田市、旧新田町)
午前11時00分から11時20分

木崎行政センター(兼公民館)に駐車しぐるっと徒歩にて確認
大きく分けると県道311号線南西の「元屋敷」と北東の「堀之内」に分かれているらしい
その現状は前者が畑で、後者がほぼ宅地
圃場整備のため土地の区画も変わり往時の面影は感じられず

    字元屋敷の近辺


上野井環濠遺跡群(群馬県太田市、旧新田町)
11時55分12時15分

以下は生品行政センターに駐車させていただき全て徒歩にて回遊

■北西部の遺跡
上野井館の西にほぼ隣接し、現状は畑の区画として遺されているように見受けられる

   たぶんこの辺りか

■上野井館
遺構群の北東隅に所在
緩やかに東側の水田地帯に向けてに傾斜が見られる
概ね宅地化されておりおよそ2軒分の旧家の敷地部分に相当しているようだ
むしろその南側隣接地の屋敷林に目が向いてしまう

  たぶん上野井館の辺りか


■南端の遺跡
生品小学校東側の旧情は水田地帯で現在は宅地造成され面影なし
北側には太田市立児童館が所在


南側の市道に出ると東側には川島屋敷の屋敷林が目に入る


川島屋敷(群馬県太田市、旧新田町)
12時20分から12時30分

200mほど西側の市道から遠景を拝見しつつ徐々にアプローチ
収穫前の稲田越しの風景がとても美しい
アオサギらしい大型の野鳥が微動だにしないでフェンスの上で休憩中
はじめは「つくりもの」かと思うくらいに動かず
川島屋敷の方角を眺めているうちに飛び立っていったらしい

    西側からの遠景

北側の堀は屋敷林に隠れてやや渇水気味のようにも見受けられた
そうなると西側の水濠を撮影させていただくのみ
しかし太陽光の位置が思わしくなく北から撮影するとハレーション気味に
西側からでは水面が写らず、南から撮影すると取敢えずは下記のように

     西側の水濠

小金井馬場北館 小金井馬場南館(群馬県太田市、旧新田町)
12時45分から13時10分

その名称のとおり南北に隣接する城館跡
字名は北側が「馬場」で南側が「堀之内」
南側は殆ど宅地化が進行している
北側は集落内の通路方向から拝見する限りでは宅地と畑しか見えず
しかし東雲寺の所在する北側市道から見る限りでは、屋敷林に加えて堀跡のように見えなくもない地形が連続しているという印象を抱く
そこから西側へ道をとり南下していくと水路に並行した土塁状に見えなくもない地形を確認
用水路を整備した際の掘り上げられた残土のようなものなのだろうか
北西隅部分の盛土地形を含め用水路に沿った余りに直線的な配置でもあるためその性格については判断できず 

用水路とこれに並行する盛土
 
朝晩の気温は涼しくはなってきたが、未だ日中の日差しは残暑の気配も
今回は11か所しか訪れてはいないが、これに関連史跡を含めると17か所は回ることかできているのでまずまずなのかとも
このあと予定通り新田図書館へ立ち寄る
郷土資料関係の書籍をざっと閲覧
必要個所を複写申請して16時40分頃に帰宅(所要時間約2時間)
複写枚数が多いので後日再訪し受領する予定

さて問題の足回りの状態
やや多めに歩き意図的負荷をかけてみた
約2万3千歩だか痛みは無視できる程度
少なくとも激痛と苦痛で足を引きずるという事態には至らず
いつもに比べると最低限の対処(専用靴下、両踵ガーゼ保護、両足第五指保護)だったが、今回は何とか上手くいったようだ


深谷バイパスを走っているとカーナビに時折浮かび上がる懐かしい地名の数々

内ヶ島、皿沼、伊勢方、増田、宮ヶ戸、東方、別府、西別府、東別府、玉井、奈良
これらは全てかつて訪れた中世城館跡の所在地そのもの
あの時にはカーナビは高嶺の花
あれから早くも12年が経過していたことをまじまじと感じていた

この間確実にこうした幹線道路バイパスに期待される社会的役割、期待を含めてその利権の構図は大きく変化したようだ
バイパスの完成により旧市街の経済活動は限りなく縮小した
始めは好況に沸いたバイパス沿いに展開するショッピングセンターも背景人口の減少により不採算、縮小撤退も顕著に
今どき国道のバイパスを充実して地域の社会経済を進展させるなどとのたまう人物は誰にも相手にされないだろう
しかし30年前にはイケイケどんどんの世界観が蔓延
今や片側3車線走行を意図した用地買収済の道路敷地には背丈ほどの雑草が蔓延り、30年ほど前に設置された黒ずんだ橋脚は一台の車が通行することもなく悲しいくらいに経年劣化が目立っていたことが現在のその在り様を示しているように思える

人に終活(幕引き、終焉)のプログラムがあるとするのならば、近代社会が生み出した文明そのものにも終活があってもよいのかも知れない
少なくとも今の日本はそうした時代に首の辺りまで浸かっている、そんな気がする

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今回も14日に続いて群馬県太田市へ
地域も旧尾島町と旧新田町は変わらず
午前4時半起床、午前5時10分出発
現地到着時刻はなんと午前7時少し前
と、ここまでは文字数を揃えてみたが


徳川館(群馬県太田市、旧尾島町)
午前7時00分から7時25分

徳川家の故地となってしまった得川氏の館
伝新田義重墓は推定館跡北東の畑地内に所在していた
この地域の方は集積場が離れているのか朝のゴミだしは普通に車を使用するらしい

 この構図以外には浮かばず

館跡から見ると北東の畑に所在

世良田氏館(群馬県太田市、旧尾島町)
午前7時40分から8時30分

歴史公園に駐車し歴史資料館に立寄るつもりが、あいにく企画展準備のため臨時休館とのこと
長楽寺西側山林内に堀と土塁が現存
この付近で藪蚊襲来
たぶん復元整備されたと思われる綺麗な堀跡も見学
この後の3か所は車でも行けなくはないが、歩いて得られる感触を優先し徒歩移動に

 「美しすぎる」遺構です



   ここも藪蚊がでます


新田館(群馬県太田市、旧尾島町)
午前8時20分から8時50分

総持寺とその周辺
南側と東側に残るとされる堀跡探索
東側はほぼ消滅か
南側に緩やかな窪地が見られるがはたして

自然地形といわれればなんとも


上新田遺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
午前9時00分から9時05分

早川沿い
現況畑
予想通り見事になにもなし
 


三蔵城(群馬県太田市、旧尾島町)
午前9時10分から9時15分

早川沿いで前項の北側に所在
現況水田
こちらはさらに何もなし
シラサギ数羽と十数羽のカモが稲刈り後の水田で羽を休めのんびりとと休息中であった

  鷺と鴨は共存していた


上下曲輪南館(群馬県太田市、旧新田町)
午前10時10分から10時15分

推定地東側に溝状の窪みがあることはあるが


上下曲輪北館(群馬県太田市、旧新田町)
午前10時20分から10時25分

西側に屋敷林が残り、宝篋印塔が所在する旨の文化財標柱が設置されていた
 


田中館(群馬県太田市、旧新田町)
午前10時35分から10時45分

別名を長慶寺館とも
本堂北側に土塁状の地形残存
過去2度の火災に遭い古文書類は消失した旨と以前は表面遺構が境内地以外にも散見された旨をご住職から伺う

   本堂北側の土塁跡

上田中屋敷(群馬県太田市、旧新田町)
午前11時00分から11時20分

太奈荷(たなか)神社付近に車を置いて徒歩にて探訪
東西約40m、南北約80mの水濠が現存
ただし南側以外に東側にも入口がありその部分は水濠は途切れている
市内には他にもこの規模位の環濠屋敷が少なくないらしい
北東隅に庚申塔が所在している

     南側の水濠



   北東隅の庚申塔


綿打館(群馬県太田市、旧新田町)
午前11時35分から11時55分

見づらい場所に館跡の石柱が所在
「だめもと」で花期の終わりを告げた「ボタン園」を見学
「ボタン園」は盛りあがった鍵の手状をした築山に所在している
北東の山林との境部分(北側部分)だけ見ていると土塁跡を活用しているようにも見えてくる
ただしここの藪蚊は大群でかなり手強い

自販機とトイレの間にかくれんぼ


 手強い藪蚊がウヨウヨいた


大根屋敷(群馬県太田市、旧新田町)
12時15分から12時40分

市立公民館、行政センターに駐車し徒歩移動
本村館とも
ほぼ宅地化されている
推定地中心部の旧家が廃屋同前になっているように見受けられた

    こちらは集会所


金井屋敷(群馬県太田市、旧新田町)
12時50分から12時55分

現況はセブンイレブンとその駐車場となっている
探訪件数もいちおう12か所となり、当初の予定通りに熟せた
朝から6時間連続して動いていたので年齢を考慮し本日はこれまで
温度計が指し示している数値以上の暑さがあり、予想はしていたが結構堪えた
 
 
13時10分に現地出発
自宅到着は14時50分
うまく文字数がそろった

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近県で、平城で、遺構が目視可能で・・・と思い立ち、今回は群馬県太田市へ
自宅を5時40分過ぎに出発
一般道を使用し東松山―熊谷経由で太田市内へ
途中「新上武大橋」手前辺りから2kmほどの自然渋滞発生
それでもどうにか約2時間ほどで現地到着となった



武蔵島館(群馬県太田市、旧尾島町)
7時40分から7時50分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)

トイレ休憩の都合で立寄る
城館跡は上武道路の尾島パーキングとなっているので表面遺構は確認できない
1988年の発掘調査によりその存在が確認されている
おもに上り線のパーキング部分にかかっているようである

   下り線パーキング


大舘館(群馬県太田市、旧尾島町)
8時00分から8時20分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

道路地図に記載されているので寄ってみた
小さな神社境内に標柱、説明版、石碑の3点セットが所在する
むろん地表の遺構は確認できない
帽子を忘れたので一度戻った
結果的に明応院からはほど近いことが体感できた

    大舘館遠景


  中央部の神社と標柱など


  津軽藩代官陣屋について


安養寺明応院館(群馬県太田市、旧尾島町)
8時50分から9時15分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

いわゆる環濠屋敷のようなものであったと思われる
むろん地表の遺構は確認できない

      明応院

 
安養寺東居立遺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
9時20分から9時30分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

いわゆる環濠屋敷のようなものであったと思われる
むろん地表の遺構は確認できない

     西側付近の様子


安養寺森南遺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
9時45分から9時55分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

明応院と南北に隣接する遺跡であることからその関連の深さが想定される
農地、宅地と上武道路の道路敷でありむろん表面遺構は確認できない
 
 低い木立の部分が気にはなるが


安養寺西居立遺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
10時00分から10時30分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

現状は大半は農地で一部が宅地であるが耕地整理と耕作などにより地表部の遺構確認は困難

    北東付近の様子


宝積寺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
10時55分から11時15分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

現在は世良田公園(野球場、テニスコート、駐車場など)となっている
ただし城館跡との関連は不明だが、公園北側に沿って細長い低地部を確認できる

  細長い低地ではあるが


船田館(群馬県太田市、旧尾島町)
11時15分から11時30分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

旧家の入口脇に標柱などが所在している
かつての堀跡(推定)は細い用水路に変貌している



岩松陣屋(群馬県太田市、旧尾島町)
11時30分から11時45分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

現在も屋敷の周囲に堀跡状の低地を確認できる
ようやくこの日最初の「目に見える遺構」と対面できた

   北東付近から


普門寺(群馬県太田市、旧尾島町)
11時40分から12時00分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)

境内西側の一部に土塁状の盛り土があることはあるが、どうも古いものではない印象もある
城館跡との関連性は不明というよりも無さそうというべきかも知れない
ただしその外側に用水路(コンクリート蓋付)となった堀跡は現存している
ショートカットすべくその蓋の上を歩いていたら10センチほどの段差に足を摂られ軽く捻挫
ここで常に携行している「ゲル状」の消炎鎮痛薬が役立った

   新しそうな盛り土


   岩松氏寄進の梵鐘


この日は9月半ばとは思えないような日差しと暑さがのため次第に気力が減衰
とくに両腕からは異常発汗
思えば「太田市は館林に近い」ということに気づく (^^ゞ
冷蔵バッグに収納した経口補水用の500mmペットボトル3本はこの時点で全て消耗
このためもう少しまともな遺構を拝んで早めの撤収へと方針転換


江田城(群馬県太田市、旧新田町)
12時30分から13時25分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」、「関東の名城を歩く―北関東編」(2011)

紛れもない「土の城」でしかも平城という有難さ
草刈りなどの整備も行き届きこの時期には有難いことこの上なし
西側の低地からの遠望も素晴らしい
しかし日差しが強いので、土塁、空堀の画像が斑模様となってしまう
西日になれば別の効果も期待できるが、この場であと4時間以上待機する気力は欠如
小一時間ほど滞在していたが他に来訪者はゼロであった

   主郭西側の折れ


   主郭東側の折れ


    主郭北西部角


     主郭の北側


  西側からの主郭遠望


    二の郭北部


反町館(群馬県太田市、旧新田町)
13時35分から14時10分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」、
関東の名城を歩く―北関東編」(2011)

水濠があるのでいくらか涼しくなるかと思ったりしたが風もなく涼しさとは無縁であった
有名な寺院なので平日でも参詣者は少なくは無い
縁日などと重なるとさらに人出は多いのかも知れない

     主郭土塁


    西側の水濠


    北側の水濠


    標柱と説明版

いつもならば周辺の外郭部を歩き回るところなのだが、そろそろ足回りが怪しくなり始めていたことから土塁に登り水濠をぐるっと一周してあっさりと撤退
途中立ち寄った水濠北側にあった自販機の100円均一「メロンソーダ」が美味かった


平地で整備されてある程度遺構のある場所を訪れるという心算が、結果的に前半は殆ど表面遺構のないところばかりとなってしまった
群馬県を訪れるのはたぶん2014年5月以来と思われる
埼玉県に近い西上州方面の藤岡、旧吉井町、富岡市、邑楽町、甘楽町多辺りは少廻っていた
しかし国道17号線沿線は全くの手つかずのまま時ばかりが過ぎ去って行ってしまっている
せつかく馴染んできたようなので、みなかみ方面を含めて年内にあと少なくとも2日ほどは出かけてみよう

ところで上武道路は相変わらず分かりにくいという印象がある
ある程度速度がでることもあり、往路、復路それぞれ1度ずつ間違えている
どうも往路の「西別府」と復路の「代」の辺りを理解していないように思える

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◎在日米軍により終戦後間もない時期に撮影された航空写真について(メモ)

この国土地理院の画像情報利用して中世城館跡の形跡を辿る際の留意点について纏めてみた

(1)戦前からの既成市街地に関しては、概して地表部の特徴が判別し辛いことから不向きである
(2)一般に山城の検出は困難な場合もあるが、戦時中の資源枯渇に伴う乱伐により、結果的に鮮明に撮影されている場合も少なくない
※ただし、戦中戦後における食糧難の時代や近代以降の桑畑の開墾など判別困難な事例がある
(3)撮影高度は約2000m(主に市街地とその周辺部)から約8000m(主に人口密度の低い山間部)と幅があり、高高度の場合には精度低下の欠点を画像編集ソフトなどにより拡大処理などを行えばある程度解消できる場合もある
(4)「堀跡」に関しては、当時の現況が畑よりも水田である方が克明に撮影されている
(5)「方位軸」が最大90度くらいずれている事例も散見される(とくに利根川上流域など)
(6)該当すると思われる航空写真を選び、さらに当該所在地を特定するには次の諸点に留意するとほぼ特定できるものと思われる
A.河川(むろん河川改修工事の可能性に留意)
B.道路形状(道路建設改修が為されたとしても、以前の道路形状を把握できる場合もある)
C.古くからの字単位の集落の配置とその集落の形状
D.丘陵(土取り、ゴルフ場開発などによる区画形質変更に留意)

凸有名な群馬県の白井城では各郭と堀跡などの配置が鮮明に撮影されていた
 

かつてはその南東部に所在していた仁居田城の遺構の一部と思われる地形が認められる

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先月28日に訪れた小諸市南東部の十石城付近の航空写真を編集加工してみた
この手法が有用なのは比較的平坦な丘陵地帯と平野部であり、山岳地帯と戦前からの既成市街地方面については余り役立つことは無いようだ

元データは国都地理院で
USA撮影番号M165-A-6、
撮影高度2,143m、1946年6月14日撮影のもの

 

拍手[4回]

自分の場合には、ひとたび出向いて気になり始めると同じ方面に何度でも出向くという習性があるらしい
ということで、この日は同行の軍曹さんのご案内で上田市よりは幾分埼玉に近い長野県小諸市内へ

小諸といえばやはり懐古園の小諸城
高速道路未整備の時代である半世紀ほど以前に観光で訪れてはいる
先週の上田城で懲りていることから、態々この方面の観光シーズンに出向くこともなかろうと考えむろん今回はパス

その当時は車で早朝の5時頃に自宅を出発、碓井バイパス完成以前なので現地到着は正午近くに
当時は近くの鹿沢、池の平、浅間山付近もよくでかけていたが、当時は現在と比べ中世城館跡に関する情報は皆無に近く、二、三の個所はふらりと訪れている可能性はあるが、昔日のことゆえ完全に失念しまっている

バブル到来のはるか以前、当然リゾート法や公有地拡大推進法も施行以前
ゴルフ場開発、別荘地開発もなかった時代、1960年代半ば頃のことであったと記憶
現在所謂ドライブインは衰退し、道の駅などに取って代わられているが、当時は未だドライブイン自体が少なくあったとしても、些か比喩が時代がかるが「峠の茶屋」に近いものでもあった

高速道路が整備された昨今では所要時間は正味で約2時間弱、休憩1回を含め、所沢インターからたったの2時間半ほどで現地到着となった

 
 
 
富士見城(長野県小諸市)
午前7時50分から8時45分

飯縄山公園、または小諸高原美術館といった方が分かり易いのかも知れない
上信越道のトンネルの真上がこの城跡
全山総石垣造りと形容すると誤解されそうなくらい石垣だらけ
恐らくは近代以降の主力産業となった養蚕を下支えするための桑畑開墾などにともなう石垣も少なくは無いのだろう
公園としての整備が行き届き、この時期でもある程度の遺構観察が可能
また石垣の年代観を観察するための材料には事欠かない城跡でもある
そうした石垣を別にすれば堀切、小口などに城跡としての面影が色濃く感じられた


しかしこの日は晴天であったが、残念ながら城跡名の由来とされる富士山方面の眺望は効かなかった
たぶん11月以降の晴天である程度風があればその姿を目にすることができるのだろう

 
菱形城(長野県小諸市)
午前9時05分から9時25分

徒歩で5分ばかり離れた近くの菱野公民館に駐車させていただいた
かつての推定郭跡に所在していた畑やゲートボール場には現在では太陽光パネルも多く設置されていた
堀跡(堀切)の一部は現在でも僅かに面影が感じられる



城の峯館(長野県小諸市)
午前9時50分から10時10分

付近に駐車スペースの確保に難があり、菱形城からそのまま徒歩移動
地図で見る限りでは僅かに600mほどの道程だが菱平集落内の道は明らかな上り坂
先週の疲労が残っているのかは不明だが、忽ち息切れと発汗
これで動悸が加わると危ないが、幸い心臓の方は平常であった
用水の石碑と郭状地形などを確認



丸山(長野県小諸市)
午前10時30分から11時00分

公民館へと戻り小休止後に車で上信越道南側の丸山近くまで移動
この辺りの地形は南北方向に河川の流路が刻まれているため東西方向の移動制約が多い
この地点から富士見城へは指呼の間でもある
この場所でも一部石垣が散見される
むろん耕作地開墾との関係も無視できず
目印となる石仏の祀られている地点までは到達
主郭から見て北側数十メートルの地点に天然の大岩を利用した小口にも見受けられる地形がのこされている


 
高津屋城(長野県小諸市)
午前11時20分から11時30分

ふたたび浅間サンラインへと戻り高津屋トンネル手前から北側の別荘地内の通路を迂回し浅間サンラインを超えて南側の別荘地内へと移動
めざす城跡である高津屋公園はこの別荘地内の小ピークである
どちらかといえば些かインフラ整備が行き届いているとは言い難い別荘地の一角の公園
建築物の建材とその経年変化の様子から判断すると、恐らくは1980年代中頃に開発分譲された場所であるらしい


リゾート法の推進、バブル経済の破綻、地方開発公社の経営不振などの経済政策の負の側面を象徴する景観でもあるようにも感じられた
地図などにも掲載されてはいるが、城跡でもある当公園を訪れる人は稀なのであろう
西側郭の土塁は視認できるものの、東郭のそれは夏草などに埋もれてほとんど見えず
かといって、今のところ晩秋から初冬に再訪する候補地となるかどうかは不明


東沢城(長野県小諸市)
午前11時35分から12時05分

東沢集落内の裏山のような立地で集落からの比高差は20m前後
石垣で造成された旧家のところから北西へと曲がり目当ての削平地(耕作地脇の行き止まりの通路)に駐車し南側の山林を見学
尾根筋の両側に腰郭ないし帯郭のような地形が散見
むろん耕作地跡の可能性は大きい
藪蚊と野荊にも遭遇し、結果的にこの日一番の藪漕ぎとなったが比較的距離が短いので問題なし


このあと周辺の蕎麦屋さんが定休日のため「道の駅雷電くるみの里」へと移動し昼食
ある程度有名な食事処でもあることから平日でも混雑していた


松井愛宕山城(長野県小諸市)
13時25分から13時35分

「道の駅雷電くるみの里」から戻り高津屋トンネル東側出口の車坂峠、高峯山方面という標識のある方へと右折し上信越道北側側道付近へと移動
城跡は上信越道沿いに張りだした尾根筋先端部に所在し南方の眺望に優れた地形
側道沿いからも行けるが比高差約40mの石段を登るのは辛いので「松井会館」(地域公民館ないし集会所)脇の参道からアプローチ
城跡には一応切岸、主郭、腰郭などは存在しているが城域としては小規模な部類
「松井会館」前には少なくとも3台分くらいの駐車スペースがあった


腰郭などには、かつての道路公団時代に設置されたと思われる児童用遊具が存在
さほどの利用がある様子も感じられず時の移ろいを感じた

 
 
長張城(長野県小諸市)
13時45分から13時50分

南北約50m、東西約20mほどの駒形神社付近が城跡らしい
いちおう土塁も散見されるが城跡との関係が明確であるとはいえない状況
境内が丘陵先端部の微高地である以外には目立った地形上の特徴は確認できず、いわゆる要害の地ではなさそうな印象を感じる
周囲との比高差は目測で最大で3mほどの台地地形



宮崎城(長野県小諸市)
14時05分から14時30分

諏訪神社境内とその周辺に城跡遺構が分散しているらしい
いずれにせよ堀跡、郭跡などは夏草等の繁茂で視認できず
神社背後の土塁は神社造立に付随するものである可能性が高そうに思われた
集落内の墓地に古い五輪塔の一部(地輪、水輪を除く上部)が安置されている


この時点で、個人的には本日の訪城目標をクリアした


上三田原城(長野県小諸市)
14時40分から14時55分

耕作地の奥の方に所在し軽でもやや厳しい道路条件
耕作地に隣接し徒歩で確実にアプローチできるようなルートが見つからずやむを得ず遠景観察に終始


たしかに平坦地の台地地形が存在していることはその外見からも判別できるが、小河川や堀跡地形に阻まれこの時期には容易に進むことは難しく感じられた
後述の針木沢城、十石城とは北川という小河川を挟み隣接
その相互関係が気になる


針木沢城(長野県御代田町)
15時00分から15時15分

県道134号線に一部がかかっているとも想定されている
西側を平原用水、東側を繰矢川の支流に挟まれた台地地形切岸地形も散見されるが耕作地整備との関係も想定される



馬瀬口城(長野県御代田町)
15時25分から15時35分

県道134号線を挟み南北に城跡遺構の形跡が分散
そのなかで比高差約5mを測る柵口神社境内がよく目立つ存在


この地点では繰矢川が東西方向に流れている
このことから長泉寺が所在する馬瀬口集落の南側台地との境の公道部分が気になる
これが後世の人工的な切通しであると想定するとこの神社境内は北側に張りだした台地先端部ということになる
しかしこの周辺の大地が火山灰地であることから考えると大雨などによる流路変遷も想定されるので次第に訳が分からなくなってくる
※航空写真分析を検討する


十石城(長野県小諸市)
15時55分から16時55分

近くのローソンで買い物をして徒歩でアプローチ
用水路、自然の谷、耕作地、生い茂る夏草などに阻まれすべては確認できず
用水路といっても大地を掘り込んた最深部では深さは8m前後の個所も
そうかと思えば上信越道を跨ぐ個所ではコンクリートの筐体として陸橋沿いを横断
郭跡は概ね耕作地化を遂げている様子だが堀跡とともに凡その地形が推定できる


なお未確認となった東側の郭跡は針木沢城方面からある程度は観察できる可能性もあったらしいことにあとから気づいた(^^ゞ
しかしそのためだけに再訪するという意欲はすぐには湧いてきそうにもない



ということで、日差しも次第に傾き始め計13か所の探訪は幕引きとなった
単独の城跡めぐりでは、まず午前中の6か所+α程度で撤退の予感
夏場という制約もあり括目する遺構は数多くはなかったが、どうにかこれだけの数をこなせることができた
ご同行、ナビゲートいただいた軍曹さんに感謝

以前は上信越道というと標高1200m近くまで登るため敬遠しがちであったが、車の性能も改善されて軽でもそれほどストレスなく走行できることが確認できた
おそらくこの秋以降も信州方面に赴くことが増えそうな予感がしてきた

拍手[3回]

信濃滞在2日目
当所の予定ではこの日は真田郷が中心
しかし前日に上田城の混雑が予想されたので本日に順延
このため真田郷探訪の時間は昼食後の3時間ほどに限定


上田城(長野県上田市)
午前9時00分から11時30分頃まで

この日は午前9時過ぎに上田城南側の尼ヶ淵にある市営無料駐車場に直行
既に駐車中の車両も見かけられたがこの時間では未だ数台ほど
 真田丸人気の余波などで多数の観光客が集中するとはいえ、このように平日の朝方の時刻ならば見学の方の人数はそれほどは多くなかった

 
尼ヶ淵から見上げた南櫓と西櫓


    復元櫓門と南櫓


    復元櫓門と南櫓


     南櫓付近


  上田市内と塩田城方面


     西櫓付近
   
午前10時を回る頃から次第に本丸内が込み始めてきたので、家内は同所の博物館に赴き見学と休憩
小生の方は西側の土塁と堀跡などを確認
同じ城内でも花木園となっている二の丸土塁、堀跡付近では観光客の姿は皆無に近いものがある
ようだ


一旦そのまま徒歩で城外へと退出し浄土宗芳泉寺へと向かった

◎歴史の散歩道(長野県上田市)
芳泉寺へと向かう途中に整備されているこの小道は日陰にもなり大変有難いものがあった

    歴史の散歩道

◎浄土宗芳泉寺(長野県上田市)
午前10時40分から11時00分

云わずと知れた「小松姫」(信之正室の菩提寺)
観光客はおろか一般の参詣者も皆無であった
墓所は本堂の裏手辺りで本堂脇から境内墓地を通り右手の築地塀の潜戸から参詣
ほかに仙石氏、松平氏の墓所も併設されている


参詣後は、ふたたびもと来た道を辿りつつ本丸の北側を抜けて城跡二の丸北虎口へと移動


  本丸北東の隅欠き部分


   二の丸北虎口付近


  百閒堀の石樋跡(通水管)


伝・中屋敷(長野県上田市)
11時30分から11時35分

近世の古地図に記されている屋敷跡だが経緯不明
規模は約1町四方で現在の市立清明小学校付近に相当するものと推定される

     中屋敷付近

藩主居館(長野県上田市)
11時50分から12時10分

上田藩主真田信之が関ヶ原合戦後に沼田から移り居住したとされる居館跡で、現在は上田高校の敷地となっている
約150m四方の方形を成し東側を中心に表門、土塀のほか土塁と水濠などが残存している

    藩主居館の水濠

水濠の画像を撮影していると、なぜか複数の亀が大挙してわらわらとこちらへと移動してきたのであった

   水濠に生息する亀

このあと、再び東側大手方面から城内に向かい二の丸堀跡を見学の後、二の丸東小口から再々入城し家内と落合い、西郭脇から駐車場へ戻り旧真田町方面へと車移動


真田氏館跡(長野県上田市)
13時55分から14時35分

複数存在している真田氏の館、屋敷跡のひとつで明確な土塁と小口などが遺されている
家内を駐車した真田氏歴史館に残し、徒歩にて館跡を4分の3周

    南側内枡形付近

丘陵地帯であるため、この個所からも砥石城方面の眺望は優れていることを確認
 
顔出しスポット(左端に砥石城)


真田氏本城(長野県上田市)
14時50分から15時15分

真田氏館跡から車で北東へ移動
城跡近くまで車で行けることから、平日にもかかわらず数組の観光客がおいでになっていた
駐車スペースも以前より増えて約18台収容可能
70歳代の年配者のグループやスカートの女性なども来訪
下草狩りも行き届き、綺麗なトイレも併設されまさに至れり尽くせりの整備

   推定堀切跡とトイレ

城跡そのものは舌状台地地形を利用した縦長の3郭構成で比高差は約100mほど

    城跡入口付近


    松尾城方面か?


     四阿山方面


  耕作地跡か削平地跡か?

ここからも砥石城を含む周辺の見通しは良好

 砥石城方面(画像中断やや左)


    天白城方面

城域はそれほど広くはなく、郭部分に籠城できる人数は数十人ほどが限界の広さ

     主郭土塁下

 
   主郭小口へのルート


  主郭と土塁(櫓台?)


   2郭から主郭方面


  3郭と2郭の接続部

3郭の北側先端から降りるべきルートを探したものの、夏草などで委細不明

    3郭先端部


このあと午後4時過ぎには往路同様上信越道経由にて帰宅
途中事故と故障車の関係で最長15kmの渋滞に嵌るも休憩時間を含め3時間少々で自宅到着
あらためて佐久、小諸、上田方面の近さを感じ、晩秋から初冬、早春から晩春頃の再訪の思いがつのった

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