本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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約1年ぶりとなる赤城山南麓方面へ。
ここ1年というものは6月の長女の日帰り手術の送迎を別にすると、新型コロナ流行いう社会的背景に加えて従来からの呼吸器疾患などの影響もあったのかも知れないのだが、外出の機会は皆無に近い状態にあったように思われる。
それでもここに来て、漸く社会情勢も落ち着きを取り戻しつつあるようにも感じるようになってきた昨今なのであった。
己の健康寿命に照らせばもうそれほどの年月は残されてはいないようにも感じらる今日この頃、取敢えずは自己の足回りの健康状態を観察する意味を含めて、片道約100kmほどとなる上州前橋、旧大胡町の付近の散策へと向かうことと相なった。
なお当地は比較的近距離に所在しているものの、今回は自己の老齢化に鑑みてテストケースとして敢えて1泊という旅程を選択することとなった


■丸塚山古墳/群馬県伊勢崎市三和町
午前7時50分から8時15分

当該古墳は上武道路の三和交差点から直線にして約450メートルほどの地点に所在している。
現地解説版、伊勢崎市公式サイトの情報などによれば、南北方向81メートルを測る3基の石棺を内包した帆立貝形古墳(前方後円墳の一形態とも)とされており、古墳時代中期5世紀後半の築造と推定されている旨が記されていた。
また「群馬県古墳総覧」によると伊勢崎市内において確認されている古墳の総数はなんと1504基にもなるという古墳の密集地帯でもあるらしい。
同総覧によると戦前に刊行された「上毛古墳綜覧」には、「緑泥片岩製の長持形石棺アリ」との記載があり、残念ながら同石棺は現存していないものの、このことからヤマト王権との関りが想定される地元豪族層のものである可能性を示唆している。
さて幾分麓からの比高差もあることからやや斜面も急ではあったが、墳丘の頂部からの赤城山、榛名山、浅間山方面の眺めは良好であった。

墳丘頂部から赤城山方面を望む

当古墳は伊勢崎市の指定文化財なのだが、周囲は耕作地でもあることから、また墳丘法面保護の観点からもプレハブ小屋の所在する東側からアプローチすべきか、或いは文化財解説版の設置されている南の前方部側からアプローチすべきなのかその判断に迷ってしまうのであった。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「古墳マップ」「伊勢崎市ホームページ」


■本関町古墳群/群馬県伊勢崎市三和町
8時25分から8時40分

現地の解説版によれば「一ノ関古墳」と呼称され、石室の様子を外側から拝見できるようになっている伊勢崎市の指定史跡であり、6世紀後半の築造と推定されている。
現在残存しているのは後円部のみであり、前方部分は南流する粕川の流れにより焼失してしまったということである。
赤城山に源流を有する粕川などの支流は元々は大小の蛇行を繰り返し利根川方面へと合流しているのだが、大雨などの度に幾度となく小規模な氾濫を繰り返し、このため戦後には多くの河川の流路改修が施されていることが窺える。

墳丘後円部と遠く浅間山/榛名山方面を望む

当地は国道17号線バイパス上武道路と黒糖462号線が立体交差する赤城見大橋の南西約100メートルほどに所在し、一ノ関古墳史跡公園として専用駐車場も完備された小公園として整備されていることから見学しやすい環境であった。
何時もは文字通り赤城山を右手前方に眺めつつ上武道路を走り抜けてしまう地点ではあるのだが、こうして数多くの古墳巡りを行い古墳時代に思いを馳せることもまた味わいのあるものである。
尤もこの時間帯は朝方の比較的交通量の多い時間帯でもあることから、極力交通安全に心掛けできるだけ車での移動を避けてなるべく徒歩で歩き回ろう意味もあるにはあるのだか。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「古墳マップ」「伊勢崎市ホームページ」


■五目牛の古墳/群馬県伊勢崎市五目牛町
午前8時50分から9時05分
現地解説版によると「赤堀33号墳」という旧赤堀町当時の整理番号で呼称され、浅間山古墳群に属するらしく、直径47メートルの規模を有する円墳であったことが推定されている。
こちらも「五目牛史跡公園」として整備されてはいるが、今のところ文化財指定は為されてはいない。なお同公園内にはトイレも併設されているので誠に有難いものがある。

五目牛史跡公園と古墳

なお帰宅後にじっくりと見てみようと思い、同地の解説版の画像を撮影してきたものの手前にある植え込み枝の陰に隠れているため事実上判読が難しい状態であった。
また、上武道路北側の企業敷地内にも「赤堀35墳」と呼称されている古墳が一部現存しているようなのだが、そろそろ交通渋滞の時間帯も過ぎ始めており、合わせて所要時間の関係もありこの辺で県道103号線経由で大室城を付近を経由して前橋市堀越町方面へと移動を開始することとなった。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「古墳マップ」


■稲荷塚古墳/群馬県前橋市上大屋町
9時50分から10時10分

これで冒頭から既に古墳探訪ばかりが4か所も続いているのだが、この地域は特に古墳の密集地帯でもあることから何卒ご理解をいただきたい。
当該古墳は約直径25メートルを測る比較的小規模な円墳であり、墳丘の頂部には稲荷社の小祠が祀られている。
なお墳丘の稲荷社の祠に対して、参道の鳥居には神仏混交と民間信仰の合作ともいえる「牛頭天王宮」の神額が掲げられていた。
この点については明治初期の廃仏毀釈(取分け修験道、牛頭天王信仰などに対する強烈な排斥という社会的動向)による社会的混乱状況を想定すると、一度は撤去されその混乱が収拾されるのを待ち再度掲げたものなのかなどについてあれこれと勝手な想像を巡らしてみることとなった。

稲荷塚古墳

帰宅後に県別マップルを眺めていて気付いたことが。
何とよくよく考えれば、この県道3号線は途中で県道34号線にも続くルートで、18年、19年、20年と何度となく訪れていた地域なのであった。
近年はブログに探訪メモとして記述するのみでサイト更新が滞っていることから、加齢も加わって相当に地理的な空間認識力が減退している模様であるらしい。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「古墳マップ」


横沢城/群馬県前橋市横沢町
10時30分11時00分

1年ほど前に日帰りにてこの近くを探訪しその折には時間切れとなってしまった城跡である。
またあまり一般には知られてはいないようで、近隣の荻窪城や大胡城などとは異なり城跡などの説明版も無く無論文化財の指定もなされてはいない。
城域の大半は大分以前から宅地化(民家と牧畜用の牛舎など)と耕地化が進んでいるらしく、崖線部に僅かに垣間見られる法面加工の形跡などを除けば、民家宅地内そのものであることもあり最早明確な城跡らしい遺構を確認することは困難であるという印象であった。
それでも城跡の東西を流れている寺沢川とその支流に挟まれた丘陵部先端に所在する要害要素の感じられる地形であることは明瞭であった。

郭跡にも見えなくもない耕作地と赤城山の遠景(笑)

字打出の地名が残り戦国期には大胡城の出城であったとも推定され、井上玄蕃が在城したとも伝わっているらしい。
因みに城域西側に所在する牧場には「井上牧場」という看板が掲げられていた。


◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」


■横沢の石塔婆(群馬県指定重要文化財)/群馬県前橋市横沢町
11時10分から11時20分

群馬県の重要文化財に指定されている比較的有名な石塔婆で、頂部を含め5面を利用した赤城山由来の輝石安山岩による南北朝初期頃の北朝年号が刻まれている石造物です。
いろいろと調べてみたところでは、下記画像のように概ね南西方向に相当していると思われる面が、たぶん阿弥陀如来(あるいは如意輪観音、千手観音)を表す種子が刻印されているものと考えられます。
これらの詳細な説明については、「現地解説版」「前橋市HP」「同大胡地区の文化財めぐり」などの間で、方位の説明を含めて少々分かりにくいように感じました。
また非常に細かいことなのですが、観音信仰の証左としてその全てが「2月18日」を縁日としているというような旨の説明もあります。
然しその点については、この面に刻印されているのは画像から見る限りでは、どうも「1月18日」となっているように思われることから少々頭の中が混乱してきました。
以上はあくまでも素人としての感想のようなものですが、もしも機会があれば、これらの点についてもう少し調べてみようと思いました。
なお横沢城からは寺沢川の支流を挟んで直線距離にして西北西に約200メートルほどの距離に位置しています。

「群馬県指定重要文化財/横沢の石塔婆」

石塔婆の撮影にあたっては、どうしても近年に建設された隣地に所在している民家の様子が写りこんでしまてますのでこの点の配慮が必要なことを感じました。

このあと近くの「道の駅赤城の恵」にて暫時トイレ休憩とヒレカツ弁当の昼食。
ほかに地場産業振興の一助にもなればと「ぐんまちゃん」どら焼きと「おけさ柿」を購入。
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


■伝大胡太郎墓所(前橋市指定重要文化財)/群馬県前橋市堀越町
12時00分から12時20分

長善寺に所在する墓所を拝見すべく参詣に伺うも、おそらくは探し方に問題のあったらしくこの時は残念ながら見当たらず仕舞いとなってしまった。
時間の関係もあり後日の再訪を期して改めて訪れることとした。

長善寺山門を南側から撮影
◎参考「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


養林寺館/群馬県前橋市堀越町
12時40分から13時05分


同寺は鎌倉期以降にこの地を支配していたと推定されている大胡氏の居館の可能性があるともいわれ、のちの徳川氏の関東入府以降には牧野康成が大胡城主となりこの地の領主となったことから、同氏の菩提寺ともなっている。
城館跡の遺構は境内地の北西側に鍵の手状の堀跡が現在でも確認できるが、これに伴う内側の土塁についてはやや目立ちにくくなっているように感じた。
またかつては二重堀の形跡が認められたとされているが、現在では内側の堀跡のみが確認できるに過ぎなくなっている。
堀底の深さは約2.5mほどで北辺は約30m、西辺は約15mほどの長さを確認することができる。
なお「日本城郭大系」所収の縄張図と比較する限りでは、西辺の堀跡は近年に一部が埋め立てられ寺院の付属建物が配置されているように思われる。


養林寺の山門


牧野家墓所


北辺部の堀跡遺構
◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


近戸の砦/群馬県前橋市堀越町
13時20分から13時45分

現在の大胡神社境内地がこれに相当しているらしい。
大胡氏が支配していた頃の本拠地の一つともいわれ、その後に越後北条氏(きたじょうし)が支配した時期には大胡城の北側を防御する支城として利用されたと云われている。
境内地の北辺縁部に残存している土塁と堀跡は規模も大きく、特に北側の堀跡は深く現在でも約10メートル以上の深さを有し、しかもかなりの急勾配でもあるため堀底から這い上がるのは相当に困難であるように思われた。

大胡神社参道入口の目印


数えてみたら53段あるので、年寄りには厳しいものがあります


北辺部を馬蹄形に巡る土塁跡


北側の堀跡/結構深く斜度も急傾斜です

なお、境内地南側は近年の新たな市道整備により旧状を窺うことは困難となっている模様である。
◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


大胡城/群馬県前橋市堀越町
14時05分から14時50分

本来の城域は南北に長い縄張りを有していたが、公共施設などの宅地化が進んでおり、現在のところ見学が可能なのは本丸、二の丸、枡形の付近に限られているようである。
秋の日差しは短く一通り、城山稲荷への参道を兼ねた階段を上り本丸、二の丸、水の手、枡形の順に見学。
本丸の北に所在している北城は施設の建設に伴い宅地化しているが、この間に穿たれている堀跡の深さは優に10メートル以上を測り安全に向こう岸に渡河することは不能であるように感じられた。
ただし、この地形が本来の城郭遺構に伴うものなのか、或いは風呂川の排水対策などによるものなのかについては不明である。
こちらも、近戸の砦と同様に赤城山南麓に所在する東西を浸食谷に囲まれた南北に細長い丘陵地帯を巧妙に利用した縄張りとなっていることが窺えた。
ただし周辺部の宅地化もさることながら、惜しむらくは近年における主郭北西部の土塁遺構の損壊跡が何とも痛ましく感じるのであった。


大胡城/本丸の土塁



大胡城/二の丸枡形



大胡城/二の丸標柱、解説版
解説版の経年に伴う汚れが目立っていたことから、取敢えず手持ちのウエットティッシュで清掃を試みましたが、残念ながら汚れを取り去ることはできませんでした。


損壊跡?の見られる本丸の土塁

◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


河原浜の砦/群馬県前橋市河原浜町
15時10分から15時25分

この地に辿り着くまでにルート選択を誤り、何度となく上毛線の軌道に遮られてしまい、遠く遥か東側から廻りこむこととなってしまった。
大胡城方面からは北側のやや道幅の狭い市道から赴けば当該地の丘陵に突き当たるということに気づいたのは遅きに失していた。
このためあと1から2か所ほどを廻るといういう予定は脆くも崩れ去ってしまった。
尤も既にかなり以前から当該丘陵地帯は耕作化が進行しており、近年は宅地化のほかに太陽光発電施設も設置されている。
なお傾きゆく夕日を浴びた南側の崖線部の地形の造形美は疲労困憊した老齢の管理人にとっては格別な趣を感じた。

丘陵南部の崖線地形


丘陵(画像中央左側)と赤城山

◎参考「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「マッピングぐんま」「前橋市ホームページ」


なおこの日はこの程度に収めて、翌日の午前中に2か所ほどを巡ってみようという心積もりではあったのだが・・・結局のところ日没前までに古墳や石碑などを含めて都合11か所を巡ってしまうこととなり明らかに電池切れとなってしまっていたようだ。
冷静に現下の状況を鑑みるならば、我が身の加齢と運動不足に伴う両足膝付近の痙攣気味の違和感は明らかに収まらず、また加えて天候の方もも不安定なこともあった。
このような次第で2日目の行動は断念することとし、翌日午前9時過ぎころは早々に宿泊先を立つこととなったのであった。
今後の行動は片道100kmの行程の場合には1泊を前提として、なるべくならば遅い時間の出立し帰宅到着時刻は日没前という時間帯の範囲内に、合わせて2日間でどれ程多いとしても10か所以内を巡るという手法に改めるべき時期が来たという厳然たる事態を痛感する一日となった。

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