本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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この夏とうとう10回目となる都内23区の城館跡探訪
今回も前回に引き続き葛飾区方面の残り4か所
伝承地、推定地は数々あれども、前回の葛西城方面を除くとほぼ無名の存在が目白押し
しかも時候はといえば、吹き出る汗が止まることを知らぬ猛暑
加えて足元も気力も着実に減衰の一途
果たして何処まで辿り着けるのか皆目不明の彷徨のはじまり 
 
 
会田氏館(東京都葛飾区南水元)
午前6時45分から7時30分

金町駅北口から京成バスで「神社入口」(富士神社入口)へ
徒歩でも差支えない僅か1.5kmほどの道程だか体力温存を優先
「角川日本地名大辞典」によれば、会田氏は信濃出身とされ始め関宿周辺に勢力を扶植し、永正年間に葛西に定住し後後北条氏に従属したともいわれている

富士神社(浅間神社)と富士塚

「東京都の中世城館」によれば、推定地はおよそ富士神社の南東、飯塚小学校の南西辺りを表示
一帯は中川東岸の低地の住宅地で起伏の目立たない平坦地
なお、神社社殿背後の「富士塚」は補修工事の真っ最中
富士神社、飯塚小学校、飯塚公園と廻り、中川水道橋付近から中川東岸堤防を経由し北上開始

    中川水道橋


◎夕顔観音(東京都葛飾区西水元)
午前8時00分から8時20分

迅速図などによれば水元飯塚村北端と推定される約800m先の安福寺(西水元1丁目、別名を「夕顔観音」とも)へと移動し、旧来における飯塚村の南北に細長い集落の位置関係を確認

    夕顔観音の石碑

なお「東京都遺跡地図情報」によれば途中に「水元飯塚遺跡」も所在
早朝の時間調整も兼ねて、西水元1丁目から水元、東水元を経て東金付近までを散策
移動距離にすれば僅かに3km少々のところ、これが思いのほか時間を要したのは下記の通り


◎水元公園(東京都葛飾区東水元)
午前9時00分から9時50分

遺憾ながら途中水元公園付近辺りでほぼ気力、体力ともに枯渇
暫くの間公園のベンチに坐し水分補給と休憩するも依然として発汗は止まらず
あくまでも南寄りの風は生暖かく涼風とは無縁で発汗中の全身に纏わりつく
しかも木陰となるベンチは付近には見当たらず(笑)

   小合溜(古利根川)

しかし思いがけず「思案坂」の石碑に遭遇
14世紀新田義興に付従ったとされる細谷氏の故事に因むものとあった
確かに現在でも細谷姓のお宅が散見される地域ではある



◎香取神社(東京都葛飾区東水元)
午前10時15分から10時20分

元々は古利根川の流路に突き出した半島状の地形先端部に所在

     香取神社


◎松浦の鐘(東京都葛飾区東水元)
午前10時35分から10時40分

思いのほかに足がすすまず己の体力の限界を思い知り愕然
近世に長崎奉行などを務めたとされる旗本松浦氏の鐘楼
残念ながら釣鐘自体は現在修理中、「天文と郷土の博物館」に保管中とのこと



◎水元さくら堤の由来の碑(東京都葛飾区東水元)
同上

1km以上離れたもう少し北西の方角に古碑があるらしい
なかなか見当たらずこの新しい石碑の画像にて代用


◎しばられ地蔵(東京都葛飾区東水元)
午前10時50分から11時00分

南蔵院
「大岡政談」にも登場する盗難除け、厄除けの名所のひとつ
この暑いのにお地蔵さんは荒縄でぐるぐる巻きに
因みにひと縄100円だそうな

   「しばられ地蔵」


◎半田稲荷神社(東京都葛飾区東金町)
午前11時20分から11時25分

    半田稲荷神社


◎金蓮院(東京都葛飾区東金町)
午前11時45分から11時55分

岩槻街道沿いの真言宗寺院
入口が分からず境内周辺をほぼ1周した
冷静に考えれば山門は一般に南向きが多いことを失念するくらい思考が混濁(苦笑)

    金蓮院山門

ここで、さらに休憩を重ねた
しかし極度の疲労によりこの後の葛西神社での参詣は断念
ようやく金町駅北口へと辿りついた
かくて予定時刻から遅れること既に約2時間


◎一里塚(東京都葛飾区亀有4丁目)
12時40分から12時42分

金町駅より常磐線に乗車し西隣の亀有へ移動
途中港北橋通沿いに所在する一里塚の石碑と水戸黄門一行のオブジェに立寄る

   一里塚石碑など


上千葉城(東京都葛飾区西亀有)
12時45分から14時00分

この城館跡もその所在地については明確ではない模様
「所領役帳」では遠山丹波守の所領とされている
お馴染みの「東京都の中世城館」では、西亀有2丁目に所在する西亀有小学校とその東側付近を推定
また、「東京都遺跡地図情報」によれば、西亀有1丁目の「中道公園」の東側住宅地を「中世遺跡」(古銭の出土、溝検出など)のひとつとして掲載
一方戦後間もない時期に在日米軍により撮影された国土地理院所管の航空写真によれば、これらの推定地とは別に幾つかの方形状区画をを認めることができるが、その当時には既に耕作地化がすすみ旧家の屋敷林区画の可能性が高いものと判断

   推定地のひとつ

バスの本数も少ないことから往路は徒歩にてアプローチ
しかしこのラスト徒歩約2kmはかなり堪えた模様
帰路は何としても亀有駅行の京成バスに乗車せねば帰宅まで体が持たぬものと自覚
バス停の時刻表は往路で確認済み
とはいえ、バスの便は1時間に1本あるかないかという状況
このような事情から最後の香取神社は鳥居の付近から参拝し、14時13分発の京成バスに間に合わせるべく重い足取りを鼓舞し歩みを速めていった


というような次第で、今回は結果的に神社仏閣めぐりという趣に
当然西側の「小菅」(小菅御殿跡、現小菅拘置所)、南側の「堀切」方面までは遠く届かず
それでもこうした状況下でよく2か所目まで進めたとも思う

帰宅後の夕食中、まずは右手の指先が痙攣開始
次にそれをカバーしようとした左手も同調痙攣
さらに立ち上がろうとすると左太腿も痙攣して三重苦になり身動きならず

本日の歩行数は約3万3千歩に
やはり酷暑のもと、2万歩余りに抑えなくては身がもたぬことを痛感
「次回」はというと、ここはやはり「自戒」することとして、少なくとも2週間は空けよう

拍手[1回]

アップするのを忘れていました。
JR亀有駅南口に所在する銅像です。
レギュラーの「中川巡査」の名前は、亀有の東方を流れている「中川」に因むものだったのだろうか・・・

  亀有駅南口の銅像

拍手[2回]

とうとう今年6月以降9回目となる都内23区シリーズ
とはいうものの「遺構無」「ほぼ伝承地」「ほぼ無名」の事例数多な地域
このため盛り上がりに欠けることこの上なし

この時期は体力と気力の維持が第一義で、結果として空白地の漸減というおまけもあるというような心積もりが大事

経路は東上線―副都心線―千代田線―浅草線(京成押上線乗入)と乗り継ぎ、京成四ツ木駅へと移動
実はこの間、新宿3丁目と馬喰横山での地下鉄乗換の際にすでに足に違和感発生
その都度痛みの部位が異なる事態に困惑することしきり
それでもテーピング、サポター装着、内反小指対策、骨棘対策、足底腱膜炎対策等々ひととおりの足回り対策を講じると約1時間を要する

今回は右膝+両足踵(たぶん骨棘と推定)

思えば昨年の今頃は横浜市内を中心に彷徨
バスには極力乗らずにひたすら歩きまわり1日で40km近く歩けた日々が今では懐かしい
いまでは1日20km程度が限界となってきている


しかも天候は前日から当日早朝まで「蒸し暑く不安定」という予報
まさしく東の空は「朝焼け」で降雨の予兆あり
天候は持っても午前中頃までと判断
もっともこの蒸し暑さの中を夕刻まで彷徨するだけの気力と体力は皆無なのだが


伝葛西清重館(東京都葛飾区)
午前7時00分から7時10分
午前7時25分から7時30分

天台宗西光寺を中心とした一帯とも伝わるという
近代以降の市街地化が早く戦後間もない時期に撮影された航空写真はともかくとしても、明治初期の迅速図にさえも城館跡に関連するような痕跡の確認は困難
山門未開錠のため開門後に再訪しあらためて参詣

   山門脇の説明版

国道6号線歩道から見える約3km先のスカイツリーの姿
すでにこの時点ですでに薄靄がかかりはじめ正しく雲隠れ

   東京スカイツリー

◎伝葛西清重墓所(東京都葛飾区)
午前7時10分から7時15分

四ツ木一丁目西町町会会館の建物南側に所在
ブロックとフェンスに囲まれた私有地の雰囲気の漂う一角に所在
墓石自体の由来経緯については伝承性が濃厚の模様

    伝葛西清重墓所


◎若宮八幡神社(東京都葛飾区)
午前7時25分から7時30分

幕末期の「江戸切絵図」等にはひときわ大きな境内が記載
現状は住宅地の一角に目立たぬように鎮座
「切絵図のデフォルメ」の可能性もあるが、合祀などによる移転若しくは境内地転用などの背景があったのだろうか



渋江陣屋(東京都葛飾区)
午前8時20分から9時00分

西光寺境内から徒歩にて東へ約600m移動
住宅街の路地を抜け京成押上線の踏切を横断し「日本城郭大系」が城館跡として推定している「白髭神社」へ
戦国期里見氏の陣城説、後北条氏家臣山中氏との関連などが想定
境内地をとりまく曲折した道路形状に城館跡特有の要素を感じるものの、仮に陣城となると関連性不明に

     白髭神社

なお、ここで地元の参詣者と暫くの間歓談
一方「東京都の中世城館」によれば、白鬚神社北方約200m地点に所在する「葛飾郵便局」付近を想定

     葛西郵便局



立石堀の内(東京都葛飾区)
午前9時35分から10時00分

葛飾郵便局から本奥戸橋の手前(立石駅前通りバス停)まで京成バス移動し徒歩約400m
中川の流路が大きく蛇行する沿岸で往昔には流路の変遷に左右される一帯
所在地は「東京都の中世城館」所収の「城館分布図」を参照

   本奥戸橋付近から

「堀之内」の地名からその存在が窺われるという比較的曖昧な推定地の模様
念のため付近の「葛飾税務署」「真言宗南蔵院」「熊野神社」などを訪問

     熊野神社

むろん地表上からは遺構の存在を窺わせるような地形的特徴を見出すことは困難



葛西城(東京都葛飾区)
10時35分から11時40分

この城跡の資料を集めていたのはもう10年以上も前の出来事
今回ようやく真剣に目を通したような次第
大石氏、千葉氏、後北条氏と変遷
 
   葛西城址説明版

主郭は南北に貫通する環状7号線により東西に分断され、主に西側部分に石碑、説明版が配置されている
また下記画像の中央部付近で斬首されたと推定される1体の頭蓋骨(推定女性、年齢35歳±10歳)も検出されているという
後北条時代の主郭堀跡北東部付近ということなので、現状に当て嵌めればおそらく大型トラックが写り込んでいる近辺らしい

  葛西城主郭は環七で分断

わずかに堀跡の形跡を留めるとされる道路が残されてはいる
発掘による堀跡検出部分と堀跡想定部分とを概ね彷徨

 葛西城主郭西側の堀跡付近



御殿山(東京都葛飾区)
10時35分から11時40分

徳川氏による近世の「御茶屋御殿」のひとつで中世の葛西城主郭付近に重なるらしい

   御殿山公園案内板


※今回の基礎資料(メモ追加分)
「平成19年度特別展図録 関東戦乱」(2007/葛飾区郷土と天文の博物館)
「東京下町に眠る戦国の城 葛西城」(2009/新泉社)


本年6月以降は毎回全て蒸し暑さの中の探訪
そのなかでもこの日の暑さは格別
時刻は正午前とはいえ足回りはほぼ限界
このあと約1.2kmほど西へと徒歩移動し、博物館で発掘された遺物を見学するという選択肢も
しかしこの時点で
気力、体力ともに急降下
正午を前に両踵の痛みにより行動不能となる以前に敢然と撤退
暑さのため痛みどめの服用さえも失念(笑)

下車したバス停から再び京成バスに乗車し環七を北上し亀有駅へと向かった
亀有駅南口でバスを下車
ふと既視感を感じたが、おそらくは半世紀以前に訪れている可能性あり

ここで「こち亀」でお馴染みのモニュメントに対面
そういえば当地は「こち亀の故地」でもあった
その後千代田線直通常磐線に乗車し山手線―東上線経由で帰宅
まもなくこの日訪れた各所でゲリラ豪雨発生
足への負担を減ずるべく中間での移動手段に京成バスを多用するもこの日の歩行数は2万3800歩を記録
毎回のこまめの水分補給と「塩飴」摂取の効果はそれなり

拍手[3回]

先日荒川区梶原商店街で購入した(有)明美製菓謹製の「都電もなか」と「まんじゅう」です。
中味はとうに消化していますが、未だに最中の外函を捨てることができません。
最中のほうはそこそこ知られていますが、「都電まんじゅう」もなかなかいけます。


 「もなか」と「まんじゅう」

拍手[2回]

本来ならばもう少し間を空けておきたい所、生憎と今週の火曜日から金曜日までは雑用つづき。
このため中3日という足回りの回復も万全とは程遠い状態での探訪に。
 前回に引き続いて武蔵野線経由、起点となるのは荒川区日暮里周辺。
先日の石浜城(荒川区)の折もかなりの酷暑。
然しこの日はさらに輪をかけた酷暑となりそうな蒸し暑さ。
早朝にもかかわらず既に最寄駅まで向かう際は汗が吹き出し続けていた。

 
 
 
◎道灌山遺跡(東京都荒川区)
午前6時15分から6時30分
道灌山通はあくまでも後世(明治初期以前、おそらく近世)の切通しで、本来は南側の道灌山公園と道灌山遺跡は連続した丘陵で南方の上野台方面から赤羽まで連続した崖地である。
開成学園前の「ひぐらし坂」「道灌山遺跡」などの説明版などを確認、あらためて北側崖線部地形をしげしげと観察。
この一連の崖線地形はすでに60年以上前から目にしていたお馴染みの地形、しかし数年前までは海蝕台地の一種としてとして理解していたことは無いというお粗末。
また、鉄道軌道の拡張により崖線部は約30mほどの幅で切土されているとも。
それもそのはずで山手線、京浜東北線、東北線、宇都宮線、東北・上越新幹線などの上下線が並行して走行している。
このため一度に走行する数本の列車を撮影することが可能でもある。

   道灌山遺跡付近から

最近やっと絞り優先設定でのISO自動補正範囲の上限制御を使いこなせるようになってきているが、既に後継機種はもう2世代後まで流通している。


◎向陵稲荷神社(東京都荒川区)
午前6時30分から6時50分

秋田藩主佐竹氏の抱屋敷跡でもある(下屋敷との説も)
何度か移転している稲荷神社は元は同屋敷内の稲荷社。
 
   向陵稲荷神社と坂

本日は足回りの準備に時間を要し朝食抜きのため、このまま探訪を続けるとかなりの確率でエネルギー切れとなることが予見された。
このため道灌山通沿いのファミマでハムサンドを購入。
しかし、道灌山通の南側に「サンドイッチ専門」の店を発見し落胆。
気を摂り直し、その後休憩の都度、水分補給と合わせ小出しに3度に分けて摂取 (笑)

 
道灌山城(東京都荒川区)
午前7時10分から7時20分

道灌山通に架かる歩道橋を渡り道灌山の公園へ移動。
「道灌山」に関する解説版は所在するものの、「道灌山城」に関する記述はない。
太田道灌、関道閑(江戸重長の舅とも)との関わりが指摘されているが経緯不詳。

 西日暮里公園(道灌山公園)

 
諏訪神社(東京都荒川区)
午前7時20分から7時35分

「日本城郭全集」の記述に道灌山城に関連する「道灌山の付近の諏訪神社の地にも城があったという」記述が拠りどころ(笑)
おそらくは地元郷土史、伝承などからの引用なのであろうか。
道灌山公園に接した新堀、谷中の総鎮守で、鎌倉期に豊島左衛門尉経泰により創建と伝わる、江戸時代には眺望に優れた景勝地でぁったという。

    諏訪神社社殿

そろそろ夏祭りの季節でその準備作業が始まりかけていた。

 
◎浄光寺(東京都荒川区)
午前7時40分から8時00分

真言宗豊山派元諏訪神社別当、別名雪見寺とも。
「将軍腰掛けの石」が所在するらしいが見当たらず(^^ゞ


西側の「富士見坂」(比高差約8m)を下り丘陵下へ移動。


 
◎青雲寺(東京都荒川区)
午前8時10分から8時15分

道灌山の公園からは崖線地形の関係上直接青雲寺方面にはアクセスできず、やや迂回して富士見坂を下り青雲寺へ。
別名花見寺、滝沢馬琴の筆塚などが所在。
 
   滝沢馬琴の筆塚
 
◎経王寺(東京都荒川区)
午前8時25分から8時30分

有名な「谷中銀座商店街」(台東区)入口を素通りし、「夕焼けだんだん」を登り「上野戦争」当時の弾痕が残るという経王寺山門へ。

  「夕焼けだんだん」

弾痕らしい形跡は少なくとも数か所は確認できる。

     経王寺山門


 
◎本行寺(東京都荒川区)
午前8時35分から8時40分

別名「月見寺」とも、太田道灌丘碑とその標柱が所在。

    太田道灌丘碑
 
◎太田道灌像(東京都荒川区)

せっかくなので日暮里駅北口のロータリーに所在しているというモニュメントも撮影。
 
 太田道灌像と舎人ライナー

日暮里からは「舎人ライナー」に乗車、「扇大橋駅」へと移動。
5両編成のコンパクトな車両は乗員不在の自動運転方式。
幼児に戻り最前列に移動し車窓風景を愉しむ。

 予想よりもカーブと坂が多い


 
荘司のかみ城(東京都足立区)
午前9時40分から10時00分頃まで

「東京都の中世城館」によれば、当該推定地は現荒川(旧荒川放水路)の堰堤と河川敷なので、遺構も面影も皆無な地点。
「本木排水場」が所在する南側付近が推定地らしい。
「平和橋通」からわざわざ往復600mほどを回り道して、15m前後の堰堤の階段を上り改めて巨大な堰堤と中央環状線の構造物を眺めてみたが日差しが強く気が遠くなってきた。
しかし、午前中とはいえこうした天候の下でも「ジョギング」をしている頑健な女性の方が複数おいでになることに驚かされた。
都内23区は遺構も寂しいが、やたらに伝承地も多く「石碑」「標柱」「説明版」などの類も見当たらない箇所が多く、探訪の意気があがらないことこの上なし。

   たぶんこの辺り

「舎人ライナー扇大橋駅」からは一度扇大橋北詰交差点まで南下し、中央環状線と並行する荒川の堰堤北側の平和橋通を東へと向かい、この間の距離は約1.2km。
たかだか徒歩20分弱とはいえ、炎天下での体力の消耗を考慮すると最早苦行のようにも思えた。
現地に赴いて運行本数の少ない東武バス以外に初めて知ったのが、「足立区コミュニティバス」の存在。
運行本数は1時間あたり1本から2本程度だが、少なくとも「扇大橋駅」から「本木南町」間は「はるかぜ6号、11号」が連絡していたのであった。



中曽根城(東京都足立区)
午前10時10分から11時30分頃まで

歴史的経緯はあまり明確とはいえないものがあるように思われるが、中曽根神社境内とその周辺には「城址碑2基」を含む4基の石碑が所在しており、この日一番の収穫であった。

  中曽根城主郭付近(推定)

往路の時点でも疲労が蓄積していたが、気力を振り絞って「地中レーダー探査により推定された堀跡」付近を反時計回りに概ね半周したこともあり、扇大橋駅までの復路ではさらにその足取りは重さを増幅させていた。
ついでなので西隣の「小屋の内出」との地名が残されている辺りに立寄り、城跡南西部の御嶽神社脇の道を南下しようやく帰途へとついた。

 「小屋の内出」付近の路地



舎人屋敷(東京都足立区)
12時10分から12時20分頃まで

「東京都の中世城館」に示されていた推定地付近を念のためぐるっと一周する心づもりが、すでに中曽根城での往復にエネルギーが大方消耗していたらしい。
「舎人ライナー」の舎人駅で下車した時点から、その足取りはずしりと重たくまるで鉛の重りを装着したようになっていた。
むろん地表部の遺構はなく、所在地も曖昧で歴史的経緯も定かではない極めて伝承性の濃い城館跡である。
照りつける灼熱の下、赤山街道に出た辺りでとうとう僅かに残されていた気力が急速に萎えはじめてきた。
西側の路地をすすみ社名不詳の小祠が目に入った時点で、頭の中で何ブチッと何かが弾けたように感じたのは気のせいではないのかも知れない。
そろそろMRIの記念撮影もしておかねば(苦笑)

    「赤山街道」


かくして推定地一周を断念、重い足を引きずり元来た道をよろよろと舎人駅へと戻ることとなった。

※東京23区内探訪の基礎資料(メモ)
「日本城郭全集第4巻」(1967/人物往来社)
「日本城郭大系第5巻」(1979/新人物往来社)
「東京都の中世城館」(2013/戎光祥出版)
「城巡礼東京48か所めぐり」(2008/東京地図出版)
「武蔵野城跡ウォーキング」(2007/東京新聞社)
「ぶらり東京近郊の名城・古城」(2008/PHP研究所)
「東京都の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「図説太田道灌」(2009/戎光祥出版)
「大江戸古地図大全」(2016/宝島社)
「江戸の大名屋敷を歩く」(2011-/祥伝社)
「江戸の川東京の川」(1989/井上書院)
「川の地図辞典」(2007/之潮)
「川跡からたどる江戸・東京案内」(2011/洋泉社)
「江戸の崖東京の崖」(2012/講談社)
「江戸東京地形の謎」(二見書房)
「古地図で歩く江戸東京」(2016/三栄書房)
「明治大正凸凹地図東京散歩」(2015/実業之日本社)
「近郊散策江戸名所図会を歩く」(1997/東京堂出版)


この日の歩数は2万8200歩。
とくに扇大橋駅から中曽根城までの往復がかなり堪え、あらためて体力が欠乏していることを思い知った。
暑さに体が順応するまで、いま暫くは外出を自重すべきかどうか逡巡するような陽気であった。

拍手[3回]

微かな記憶によれば、乗車したのは約60年前。
父親に連れられて荒川遊園地に何度かは行っている。
その当時住んでいた西ヶ原からは都電を乗り継いで出かけていたはず。
そうだとすればこの荒川線以外には考えられず。
当時の車両は「飛鳥山公園」に展示されているようなタイプ。

 飛鳥山公園の懐かしい都電

飛鳥山までは1km足らずと、子どもの足でも僅かな道程なので余り都電を利用することはなかった。
一方荒川遊園地までは西ヶ原2丁目から都電19番系統で王子へ向かい三ノ輪車庫行の荒川線に乗り継ぐルート。
大人の足ならば徒歩でも40分足らずとはいえ、その当時はいかにも遠方までお出かけするような期待感で幸せいっぱいであったような気がする。

埼玉へ転居後には19番系統には通学時に2年ほどお世話になったが、もう荒川線に乗るような機会はなくなった。
その後コンサートや父親の相続手続き、母親の遺品寄贈などで王子駅の近くは何度か訪れているが、荒川線に乗車するような用向きには恵まれなかった。
昔とは異なり 随分とファッショナブルな車両に変貌していたが、都電独特のカーブの多い軌道に懐かしさを感じた。

     早稲田行


    三ノ輪車庫行

拍手[2回]

昨夜から明らかに風邪気味となり就寝したものの咳が止まらず。
このため翌日の探訪実施確率は五分五分とみて眠りについた。

そろそろ蒸し暑さが堪える季節。
従来の方針を変更し目覚ましは午前4時にセット。
身支度を整え午前5時前の始発に乗車すべく最寄駅へ。
本日の行動は熱中症へのリスクを考慮し午前中重視の方針。

 
 
 
滝野川城(東京都北区)
午前6時40分から7時25分

豊島氏一族滝野川氏の城跡とも、あるいは頼朝の布陣跡ともされているが詳細不明。
城跡とされている金剛寺境内の東西に石神井川の旧流路が現存しており、その流れが大きく変化していないとすれば城跡の東西の領域を推定する目安は存在していることになる。
むろん城館遺構は確認できない。

     西側流路跡

「城郭大系」が指摘している「境内西側の堀跡」の存在はこの旧流路を指すのか、あるいは別途現在の公園との間に「空堀」のような窪みが存在していたのかについては不明。


飛鳥山城(東京都北区)
午前7時50分から8時40分

こちらは更によく分からない城跡のひとつ。
自分の生まれ育った場所から近く、断片的ながら60年以上前の様子が記憶に残っている。
地形的には南東の「平塚城」から続く台地の北西端所在しているが、当時は現在のような公園整備はされておらず、昭和30年頃には平塚神社の裏側から台地辺縁部に沿って延々と歩いてゆくことができたという微かな記憶がある。

     台地北西端

台地の北西端部には石神井川が東流し比高15mの舌状台地は、たしかに城跡に相応しい地形を呈してはいるが、近世以降の形質変更が激しく城跡の名残を追い求めることの難しさを痛感する。


梶原堀之内(東京都北区)
午前9時25分から10時00分

梶原景時とは直接の関係はなさそうで、太田資正(三楽斎)の子である梶原政景が継いだ梶原氏に関わる城館跡と考えられているらしい。
むろん城館遺構は確認できず、また「梶原塚」の存在も不明。
城跡と推定されている福性寺には近世の堀江氏一族に関わる墓所が目立つ。

かじわら商店街の都電のアーチ

都電荒川線梶原駅前にて「都電最中」等を購入。


〇山吹の塚(東京都荒川区)
午前10時45分から10時50分

「山吹の里伝説に関わる塚」が所在しているが、現地での「具体的な説明」を表記したようなものは見当たらず。

   「山吹の里」塚


〇平河源内墓(東京都台東区)
午前11時40分から11時45分

荒川区との境界近くに所在している有名人の墓所。

    平河源内墓所

以前には事前に断りを入れるなどして入口の開閉が行われていたらしいが、現在では自分で門扉を開けて参詣ができるように変わっていた。


石浜城(東京都荒川区)
午前11時50分から12時05分

従来から伝承に近い城跡で詳細な所在地は不明だが、石浜神社を含む範囲が城跡と見做されているらしい。
周辺の市街地化の時期は早く、明治期末から大正期にかけて進行しており、現在周辺には「東京ガス」や「リサイクルセンター」の大型建造物が並び立ちっていることから、もはや周囲の地形などにそうした面影を見出すことは難しい。
なお2017年4月より神社南側の一角に石浜城址公園が供用開始されたようで、公園の名称に「石浜城」の文字が見えるが当該解説版は未設置であったが、「渡船場」に関する説明版は所在していた。

    石浜城址公園

この石浜城探訪を終了後、この日7番目となる目的地への移動を始めた時点で懸念された俄雨に遭遇。
むろん本格的な降雨ではなく、「天気雨」「狐の嫁入り」ともいうような局所的で短時間の降雨。
早朝からの行動により次第に既に集中力、モチベーションともに限界まで低下。
「都電荒川線」と「都バス」による移動を多用するも、足回りを軸とした体力もそろそろ限界。
元々この日は城館跡は4か所止まりと考えていたことから、良い口実ができたと迷うことなく即座に撤収開始。
荒川区に所在する「道灌山」関連については、下調べを含めてある程度時間を要することとなりそうなので後日再挑戦予定(あくまでも希望)



本日の歩行数は2万4800歩。
今回の内反小指対策(テープ4重巻)については概ね成功。
しかし左足に外反母趾状の痛みが発症。
「痛み」は最も痛い部位で感ずるようで、あちらが無事ならこちらが痛いとなり、こうなると「もぐら叩き」の様相に酷似。
今回は「トラムセット」+「ロキソニン」で対処。
「足底腱膜炎」(そくていけんまくえん、あるいは足底筋膜炎)ないし「踵骨棘」(しょうこっきょく、しょうこつきょく、手術困難)の方はガーゼ4枚重ねと中敷き使用で対処成功・・・・
と、メモしておかないと同じ誤りをしでかす昨今である。

なおこの足回りの整備に要する時間はこのところ拡大の一途。
少なくとも30分近くを要していることに気づき茫然。

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気が付いてみれば、すでに健康寿命といわれている年代まで残り5年を切ってしまっている。
城館探訪について、1日当たり4か所を目途として、夏季も含めて1か月に平均で4日間稼働と仮定。
すると「4か所×4日×12か月×5年=960か所ということに。

昨年は比較的よく出かけた方だが、合計にすると25日程度で120か所ほどに過ぎない。
しかも暑さが苦手であることからして、現実には7月から8月の夏季の探訪はなかなか難しい。
しかも年々体力、気力は確実に減衰の一途。
すなわち今後どう足掻いても1000か所には遠く及ばず。

さて今年も早7月に突入。
暑さが堪える時期になってきたが、とりあえず今年の夏は概ね都内23区を中心にコツコツと廻って体力の低下速度を弱めておこう。
ところで越中、能登、若狭、播磨方面はそれなりの資料はあるがどうしたものか。

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先月は6度出かけたこともあり合計歩数が20万歩を超えていた。
外出の少ない月の約4倍で、記録が残されているここ4年間では最も多い数値。
今までは昨年4月の岩手遠征が19万7千歩で、痛みに耐えつつそれなりに随分と歩いたような記憶がある。
地方の城跡は車を利用するので案外歩行距離は短い。
特に山城などの場合にはその疲労の割には距離そのものは少ないことが多い。
足回りの衰えが目立ってきた昨今、今後は年齢的な要素を考慮すれば、おそらく月間ではこの数値を超えることは無いものと思う。

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朝から既に駅に着く前から汗がにじみ出るような蒸し暑さのなか、午前9時3分発の上り電車で出発。
途中武蔵野線に乗換え、武蔵浦和からは埼京線に乗車。
乗降客の少ない北赤羽で下車。
比較的新しい駅でもあり、たぶん記憶ではこの駅での乗降は初めてのはず。

本日は5か所を予定しているものの、その行先は相変わらず「伝承地」が多い。
これは都内23区の宿命のようなものと理解。

天候(気温、降雨、湿度)と足の具合次第で3か所くらいで切り上げる心積もり。
むろん途中での電車、バスを利用しての移動は織り込み済み。
この辺りも昨年までの状況とは明らかな変化を感じている。
途中でのわずか3kmほどの徒歩移動さえも敬遠するようになってきてしまった。




袋の殿山(東京都北区)
午前10時40分から10時35分

初めて下車した駅でもあることから、方角を定め進むべき道を把握するまで数分を要した。
先ずは道順に諏訪神社境内へ北側住宅地に設置されている石段からアプローチ。
境内北側の比高差は約10mの急崖を形成するも台地続きの西側には目立った地形上の特徴は確認できず。
境内南側の道は「鎌倉街道」とも伝わる。

      諏訪神社

ちなみに「袋」は往時の「袋村」(近世の村名)からきているらしい。
次に東側の赤羽台団地とその東隣の病院へ歩を進めようと思ったが、なぜか南側の桐ヶ丘団地の方角に足が向きそこからの遠景観察で代用することとなってしまった。

    医療センター

この日は曇りの予報が外れ次第に薄日が差し始め、湿度は高く汗はかけども全く乾かないという事態に次第に心身が疲弊していった。



稲付城(東京都北区)
午前11時15分から12時頃まで

この日に限っては最初で最後となる最もそれらしい中世城館跡。
23区内ということもあり、太田道灌との関わりがあるとも伝わる。
とはいえ明確な地表の遺構に対面できるという訳ではなく、あくまでも崖線や急坂などから当時の面影を辿るという按配。
途中で幾度か既視感のある風景に遭遇。
元北区民なので当たり前かもしれないが、何と言っても半世紀以上前のこと。
いまだ高度成長による宅地開発の波が押し寄せる以前。
既成市街地を除き周辺には未だに耕作地が広がるという田園風景も点在していた時代。

   稲付城西側の台地

まずは手始めに同城の堀跡ともいわれる東西の台地に挟まれ、かつての低湿地に所在している「亀ヶ池」の弁天社の参詣から。

  堀跡とも伝わる弁天社

その名に違わず十数匹の亀が甲羅干しの真っ最中。

   親ガメと子ガメ


つぎにそのまま東の清勝寺へと向かい帯郭状の台地中腹の路地を散策し、同寺東側参道から境内へ。

   台地西側麓付近

 
帯郭状の地形を呈する周回路地

境内と麓との最大比高差は約15mほど。

      城址碑

因みに説明版は城址碑が所在する東側山門の内側と南側山門の外側にもあります。


     南側の山門

現在でも台地を東西に横断する公道により南北に分断された地形を確認できるが、発掘調査により戦国期のものと思われる堀切跡などもこの道路の北側付近で確認されている。
 
南側台地との間の切通(画像左側)

このあと徒歩約1.2km先の地下鉄南北線赤羽岩淵駅へと向かい王子神谷駅へ。
途中価格の安い恰好の昼食場所が目に入るものの時間がないのでパス。
思えば今回を含めて都内では一度も昼食していないことにはなる。
「時間の節約か体力の温存か」の二者択一には何時も悩まされる。



豊島清光館(東京都北区)
13時00分から13時20分

王子神谷駅からは徒歩僅か約800m足らず。
この時点で「蒸し暑さ」と「足の痛み」を現況を勘案し、既に脳裏にはジワジワと「撤退」の2文字が浮び始めた。
それでもどうにか未だ気力だけは残存。
豊島氏を開基とする寺院で豊島氏発祥の地とも。
現状の地形からその特徴を捉えることは困難。
ここでも東屋の日陰をお借りして休憩と水分補給を行いホッと一息。


このあと、「続行」と「撤退」の2文字を反芻しつつ最寄りのバス停まで約900mほど徒歩移動。
これは途中隅田川を渡り眺望は良好だが、かなり辛い行程のひとつだった。
「庚申通商店街」の現況を目にしたあとの「新田橋」の様子は、まさに「都市インフラの劣化」という現実を目の当たりにするものであった。


  隅田川に架かる新田橋

どうにかバス停を視認できるあたりまで近づき、梅雨明け以降の酷暑に慣れるべく「修行」のつもりで「続行」を決断した。

この間も意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
環七新田(かんななしんでん)の都バス停留所でも束の間の休憩。
環七新田ではなく、寧ろ「艱難辛苦」の様相に。
ここでデクレッシェンドで満たされて萎む一方の気力と体力の回復に精励。
ここから先のバス停3か所分となるバス移動(約1.5km)は実に有難く身に染みた。
バスの待ち時間も都内ということもあり10分足らず ^^



宮城堀の内(東京都足立区)
14時00分から14時20分

その経緯はおろか、当該所在地自体も明確とはいえない城館跡。
隅田川の改修、荒川放水路(現荒川)の開削などにより周辺の地形は大きく変貌。
探訪に際して丸1日ほどを要して、戦後間もない米軍撮影の航空写真(東西約250m×南北約100mほどの屋敷林に囲まれた区画が気になる)と迅速図などの情報からあくまでも素人なりに所在地を推定。
 
※かつては屋敷林に囲まれた一角で、現在堀之内2丁目交差点付近にはコンビニが所在しているが、現在のような道路整備が行われたのは1970年代前半のこと。

河川の氾濫などを除き、この辺りの隅田川流路等に変化の生じたのは江戸時代初期の川越藩主松平信綱による当時の荒川からの導水工事による水量増加。
これに明治末期から大正期にかけての荒川放水路工事がある。

狙いを定めていた「堀之内2丁目交差点」付近は完璧に市街地ががすすみ、戦後間もない時期に撮影された航空写真から推定されるような田園地帯の面影は皆無。
辛うじて周辺の堀之内北公園、堀之内公園などに地名が継承されているのみ。

    堀之内北公園

このあとの徒歩移動では、いよいよ明瞭に「熱中症」の一歩手前の容態を自覚し始め、さらに意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
途中から荒川沿いに高速川口線の高架下を南に下るのだが、何故か日陰である東側を通らずにわざわざ日差しのある西側を通ってしまった。
さらにこの途中から久しぶりに「内反小指」に伴う痛みが発症。
港北橋を渡る際に目に入った可愛らしい4両編成の「舎人ライナー」がトコトコと荒川に架かる扇大橋わたっている様子を眺めた際には半分意識が朦朧としていたのかも知れず。

 


伝・宮城氏館(東京都足立区)
15時00分から15時10分
 
伝承では都市公園と隣接した氷川神社境内付近が同館跡ともいわれている。
境内拝殿脇に設置された石碑に刻まれた文言をあらためて拝読。

     館跡の碑


その歴史的な真偽は別として、疲労の極致に達した心身にとっては正に一服の清涼剤。
この場所も荒川放水路築造と隅田川河川改修の影響を受けており、約450年前の旧情を想像することの困難性を痛感。
この日は最寄駅となる2km足らずの道程となる王子駅へのルートも予定通り都バス利用。
この選択からも昨年の同時期に比して気力と体力の低下は否めず (^^ゞ


 
という次第で、本日は5か所分の探訪を「無事?」に終えることができた。
もっとも冒頭からの「過剰発汗」と途中での「右足小指の内反小指の叛乱」は全くの予想外。
これに両膝サポーター装着失念が加わり、最寄駅からの帰途では幼児連れの母子に追い越されるような足取りになるような始末。
梅雨時から秋口までは外出を避けるのが例年妥当な判断といえよう。
しかし、ここ数年は確実に体力の減衰を感じている。
いわゆる「健康寿命」も長くともあと数年前後となってきたことを痛感している。
「今年動かねば、もう来年はない」との決意で、とりあえずは行けるところまで来月も歩いてみよう。
 

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