本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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先月の退院後から続いていた芽依ちゃんの毎週火曜日の通院が終了しました。
いまだアレルギー気味の症状が幾分残っていますが、その後は発熱も無く食欲も旺盛で行動も活発になりました。
また保育園の方も、退院後の4日目頃からほぼ問題なく通園しています。
しばらくは時間が取れそうなので漸く4月末以来となる城跡探訪の方が再開できそうです。
しかし梅雨の時期に入ってしまっていることから、肝心の行先の選択に躊躇しています (^^ゞ

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先月の23日に退院してから、毎週水曜日が通院日となっています。
昨日は既に2回目の通院日でしたが、素人目にも症状は全般的に回復してきたようにも思えます。
しかし1か月が経過した今でも時々咳があり、少量のミルクによる嘔吐症状もあることから、少なくともあと1回くらいは通院することになりそうです。

また明日はジイジの方の耳下腺腫瘍摘出後の経過観察日となります。
先月初めからのひと月間はほぼ芽依ちゃん絡みの所要で終わりました。
今月は待機するような日は少なくなりそうですが、そうこうしているうちに関東地方はつゆ入りとあいなりました。

と、時々このようにメモをしていないと経過が分からなくなるのであります。

拍手[3回]

先週は芽依ちゃんの入退院(肺炎)などでゴタゴタ
明日の月曜日以降も暫くの間は「自宅療養兼お守り」の任務となりそうです。

拍手[3回]

芽依ちゃんの具合も相変わらずですが、祖父の方の風邪も一進一退が続いています。
今月は今日を含めて土日を除いて10日目のお守り&送迎。
殆どが早朝から夕刻までなのですが、例外的に午後からというのもありましたが結構疲れております。
自分の子どもたちの時よりも年齢が嵩んでいる分、やはり体力的に厳しいのかも知れません。
また半ば風邪の菌のうつし合いのような趣を呈しております。

拍手[4回]

昨晩辺りから突然鼻水。
これに続いて咳込持続。
痰もからみます。
芽依ちゃんからの風邪かどうかは分かりませんが、たぶん風邪をひいたようです。

拍手[4回]

5日の土曜日から続けて芽依ちゃんのお守に出かけています。
40度近くの高熱を出していました。
原因はほぼ突発性発疹と風邪のようでした。

加えて昨日からはママが育児休業明けで出勤。
芽依ちゃんにとっては、ジイジとバアバが居るものの事実上は「はじめてのお留守番」でした。
保育園の方はお休みで、「飲まない」「食べない」「寝ない」「むずかる」といった塩梅。

今日も引き続いて「お守の任務」(自宅発午前6時)です。
予想通りジイジも風がうつったようで、昨晩から咳が出始めました。
加えて背中の左側に痛みが発生。
生後11か月ですが8.6Kgになりましたので重いです。
幸いなのは続けて通っているので「人見知り状態」が少しだけ良くなったことです。

というような次第で、いずれにしても当分城跡巡りの方はお休みです (^^ゞ

拍手[4回]

--前口上--
これはあくまでも直接標高737mの高野平城へのルートを辿ろうとして、結果的に何と標高974.5mを測る薬師岳に登ってしまったという笑い話です(^^ゞ

このブログはサイト更新などの作業のため便宜上5月1日に記していますが、実際に山行した日は4月27日です。
その4月27日の項には次のように記しています。

凸高野平城(こうやひらじょう、群馬県東吾妻町、中之条町)
10時20分から11時40分
標高737m、比高差約120m(南麓の林道部分から)

宮坂氏は牧場側から登られたようなのだが、できるだけ比高差を圧縮すべく儀一さん、余湖さんなどのネット情報を参考にさせていただいた。
駐車場所はこれもネット情報を頼りに路傍に余裕のある林道の山側を選んだ。
と、書いていると如何にも順調に探訪ができたような表現である。
しかし実のところここに至るまでは朝の6時過ぎから約4時間ほどの格闘があったのだが、これについては余りにも「お間抜け」であったことから反省を含めて別記する。と記していました。

--現在地確認は大切--
さて、この日自宅を出たのは午前3時前ということもあり、現地の中之条町と東吾妻町の行政境に所在している「高野平城」近くの吾妻神社付近に到着したのは午前6時前でした。
まさかこれほど早く来れるとは予想だにしなかったこともあり、先ずはこの神社と近くの善福寺を参拝しました。
この辺りに来るのは既に今月2回目であることから、ここまでは全く迷いようのない場所ではありました。
さて、参拝後当該城跡の南麓を目指してナビにはほぼ表示されない林道をそのまま車で登って行きました。
尤も、途中Y字路分岐手前の山田古城の所までは前回も行っていることもあり、その後の2か所ほどの行先表示のない林道の分岐なども地形を確認しながら問題なく通過し、ここまでは極めて順調に城跡の南麓方面へと回り込みました。
 
 塩梅の良さそうな林道分岐

しかし、できるだけ楽に登れそうな地形を探すあまり、結果的には本来直登すべき個所を直線距離にして南方向に約600mばかり行き過ぎていたようです。
言うなれば極々初歩的な誤りなのであります (^^ゞ
本来であればこの時点で現在位置の詳細な確認をすべきところ、ついつい登り易そうな未舗装の林道が目に入り然もほぼ同じくらいの比高差である尾根筋があったことから大きな勘違いを犯してしまいました (^^ゞ

 比高差50mほどの尾根筋

--反省の弁--
さて経験上「遭難」という用語を真剣に把握しなければならないのは、季節や天候などにもよりますが概ね標高1000m以上ではないかと思います。
しかし難しいのは標高500m以上1000m未満程度であっても山深い山岳です。
いわゆる山の懐が深いところで、春先に遭難騒ぎの発生した「三頭山」周辺なども同様です。
最寄りの人家まで徒歩で1時間以内で行けるかどうかというのも目安です。
近年では携帯の圏内であるかどうかもそうした目安になりました。

関東近県でも昭和40年代くらいまでは、里山は無論のこともう少し深い山でも林業や炭焼きなどの山仕事を含めた作業のために尾根筋や峠道は今よりも遥かに山道として整備されていたと記憶しています。
ところが山間部の集落が人口の流失に伴い過疎化、消滅が進み始めて、残られた方々も高齢化して、こうした山道の利用がどんどんと減少し道そのものが消失していったと考えられます。
また、クマやイノシシの出没の問題もありますが、これについては長くなりますのでまたの機会に譲ります。

  これはたぶん鹿のような

--間違いに気づいたのは何時か--
では、こうした間違いに気づいたのはどの時点かということになります。
実は最初の標高750mのピークを過ぎた時点で太陽の当たる方向に違和感を感じていました。
ところがこのピークを城跡の西に位置する標高759mのピークと勘違いをしたことから迷走が始まったようです。
なお、完全に方向を誤ったことに気付いたのはこの直後で、東へと移動していなくてはならないにも拘らず、全く反対方向である西へ向かっているという事実に気付いた時点でした。
なお、この時の標高も約750m前後です。
登り始めてから既に40分以上を経過していますので、登るべき稜線を誤認したということは確実になりました。
なお、時刻はメモによりますと午前6時40分過ぎでした。

--何故薬師岳まで向かったのか--
流石に標高800mを超えた時点で間違いはもう120%の確信へと変わっていましたが、ここまで来たら折角なので高野平城方面の様子を俯瞰できないものかとも考えました。
もう、ここまでくれば普通の山登りとなりました (^^ゞ

   標高約800m付近

また山深い地域でしか見ることのできない植物との出会いに対する期待もありました。
なおこの時は普段の装備とは異なり、高度計、非常食(約1日分)、昼食(おにぎり2個、パン1個)、飲料水約1.5Lを携行しておりました。
またレインコート、防熱シート、レジャーシート、携帯ラジオ他も携行し国土地理院のコピーした地図も持参していましたし、当然のことながら方位磁石も携行していましたので一応山岳モードではあります。
無論、天候に関してもラジオの天気予報が伝えているとおりで、まず雨が降るような可能性はゼロに近いこともありました。
なお、仮に薬師岳に登るとすれば西尾根伝いを除けば、この東ルートは唯一の登攀可能なルートであることもある程度は理解していたということも後押ししたようです。
さて、標高800mを超えた辺りからはコピーしてきた地形図どおり斜面の傾斜は大きくなり携行しているストックを使用しても這い上がるのに難儀する個所も次第に増えてきました。

   標高900m付近

幸いにして物凄い岩場には直面しなかったことから、一度も滑るようなことは無く山頂部の南側を迂回して程なく山頂へと到達しました。
この時の時刻はメモによれば午前8時頃です。

   薬師岳山頂の石祠


  有難い山頂のプレート

--薬師岳山頂からの移動--
さて薬師岳山頂で、おやつ代わりにおにぎり1個を頬張って今後の進路について熟慮しました。
まずコピーした地形図が示しているように、明確な山道のある北西部の尾根筋ルートは明らかに吾嬬山(かづまやま、1182m)から続く稜線であり、その東端部の独立峰である薬師岳への往復ルートであるとことを確信しました。
つまりは自分が登ってきたルートはあくまでも登山道とはいえないような獣道であり、いわゆるハイキングコースではありませんでした。
所々に地下足袋と思われる山仕事に関連した方が通過したという印象のおぼろげな形跡はありましたが、普通よく見かけるようなゴミの類は全く見られませんでした。
薬師岳からは北東方向に派生している尾根筋を辿れば理屈の上では直線にして約1.5kmほどで城跡付近に到達するはずです。
しかしその尾根筋は薬師岳山頂からは比高差にして約170mほどは急斜面が連続しているように記されていました。
加えて西尾根のような踏み跡自体は全く見えませんので、果たしてその尾根筋でよいのかどうかも躊躇するような具合でありました。

 この先辺りなのですけど・・

元々が岩山であることは山頂付近の露岩から理解していましたので、下山途中で露岩に遭遇すると「遭難騒ぎ」へと繋がりかねないことを認識し、北東尾根筋からの移動はきっぱりと断念しました。
かくして、ほぼ元登ってきたルートをそのまま戻るという無難な下山コースを採用するに至りました。
なお折角でしたので吾嬬山への西尾根を距離にして片道約400mほどを歩いてみました。
自分が登ってきたような獣道とは異なり快適な尾根筋のハイキングコースでした。

  南東の榛名山方面かと

下山ルートは急斜面の続く標高800m付近までは、往路の際にマーキングした跡を確認しつつ正確に往路ルートをトレースしました。
見知らぬ山中では上りと下りでは景色が違って見えますので、必要に応じてマーキングをしたり、振り返って地形を確認するなどの慎重な行動がいざという時には役に立ちます。
なお緩斜面の途中からはノイバラ、ニガイチゴ、タラノキなどの有刺植物の多い個所を避けるべく、南側に迂回して元は開拓した耕作地であった野原へと出ました。ここであらためて現在位置を確認して、そこからはそこへと向かうために築かれたと思われる林道を下り、結果的にはほぼ自分の車を停めた個所と100mと違わない地点へと下山することができました  ^^


この後本来の城跡付近へと移動して比高差約130mに再挑戦しましたが、西側尾根筋の防御が思いのほか簡素であるのは、その必要性が殆ど無いからであることが身を以て理解できました。
高野平城はあくまでも東側と南側を意識した縄張であり、急斜面を伴う北側と薬師岳から続く長大な難路のある西側の防備は手薄であっても何の問題もないように感じました。

しかし、130m登れば良いところを+330m+100mも登ったことから、少なくとも560mは登ってしまい、この時点で既に両足の脱力感は極限に達しておりました。
そのまま帰宅への道を辿るという選択肢も脳裏に浮かびました。
しかし通りすがりに立寄る程度ならば、もう少しは動けそうに思われたこともあり、あとはその時の成り行きにまかせることとしてみました。

--なぜ間違えたのか--

1.現在位置確認の不履行
2.林道分岐からの距離の未確認
3.東方からの遠望での目標把握の失敗

以上、これに加えて自分の年齢では明らかに不相応な行動という認識を含め、今後の糧とすべく反省を兼ねて纏めてみました (^^ゞ



 

 

拍手[4回]

この日は気合を入れ午前3時前に自宅を出た。
午前4時には既に上武道路を走行していた。
しかし気合とは裏腹に、その後の探訪の前半は波乱に満ちたものとなることは当人も予想せず。

東の空が漸くほんの少し闇が薄れ始めたのは午前4時半過ぎ頃。
その後も車は順調にスイスイと進んでゆく。
これだけ早い時間であると渋川市内まで来ても通勤などの車も少ない。

今回は上武道路から続く国道17号バイパスを中村交差点で左折。
県道35号線を利用して少し前にも訪れている山田地区へと向かった。
ここでも早朝ということもあり、通行している車は少ないのだが、国道に比べるとやや急カーブが多いかも知れない。

進行方向に遠望できると思われた「高野平城」、しかしその位置がよく分からない。
あとで、国土地理院の3Dを確認してみよう。

このため途中トイレ休憩を挟んだものの、現地には午前5時40分頃に到着した。
現地到着後、未だ太陽の位置が低いこともあり林道入り口近くの吾妻神社ほかを参詣して時間調整。
この時の参拝した祈りが通じたのか(功を奏した、あるいは利益の有無)どうかは今もって不明であるのだが・・・


高野平城(群馬県東吾妻町、中之条町)
10時20分から11時40分
標高737m、比高差約120m(南麓の林道部分から)

宮坂氏は牧場側から登られたようなのだが、できるだけ比高差を圧縮すべく儀一さん、余湖さんなどのネット情報を参考にさせていただいた。
駐車場所はこれもネット情報を頼りに路傍に余裕のある林道の山側を選んだ。
と、書いていると如何にも順調に探訪ができたような表現である。
しかし実のところここに至るまでは朝の6時過ぎから約4時間ほどの格闘があったのだが、これについては余りにも「お間抜け」であったことから反省を含めて別記する。

諸先輩方はそのまま城跡南部の斜面に向かって行かれているようだが、こちらは古稀前でもある些か草臥れた年代でもあるので、数十メートルほど西側に所在している鞍部を目指すこととした。
何と言っても先ほどまでその更に西側の山中を彷徨していたので、漸くにしてこの辺りの地形が頭と体により理解できてきたらしい。

ところで林道から鞍部までは比高差にして約50m前後、直線距離にして約120mである。
従って、その平均斜度は25度未満で仮に多少足場に難があったとしてもその上り下りは容易である。
また鞍部から東へと向かう上りでも、平均斜度は30度に満たないので岩場などが所在していたとしてもリスクはより軽減されるはずである。
一方城跡の南部を直登した場合には、比高差約120m、直線距離約150mである。
このため当該平均斜度は40度弱となり、しかも上に行くほどに斜度がきつくなると思われる。
このようなことから、その所要時間は別としても転倒や滑落のリスクを天秤にかければ前者の方が遥かに安全で体への負担もより軽減される・・・などと手持ちの資料などから現地で計算しているのだからかなりの暇人ではあるのだろう。

と、先ほどまでとは打って変わった万全に近い情報把握。
西側の鞍部へのアプローチは正解で、イノシシ駆除の罠が設置されている旨の表示がでていたので、茂みではストックで確認しつつ比較的視界の開けた緩斜面を上がり中腹の作業道へと出た。
折角なので途中この道を西へと歩き、当該鞍部がすぐ上に見えていることから多少クマザサなどが茂る斜面を九十九折に登攀し鞍部へと到着した。
尾根筋には以前にはある程度利用されていた山道が所在しているが、現在ではクマザサが茂り見通しは良くない。
特に西方の薬師岳から続く方面は全く人の通った形跡が確認できない。
薬師岳の山岳ルートは吾妻山からの往復ルートであるようだ。
こうした状況を見る限りではやはり、少なくとも薬師岳からこちらへと向かうルートは相当なリスクが潜んでいそうなことが理解できた。
なんといっても平均予想斜度が40度前後という急斜面は、仮に岩場の存在も考慮すれば論外なのであろう。
いずれにしても先ほどの中腹に設置されている作業道と同様にレアな山岳ルートとしても近年ではあまり利用されるというようなことは無くなってきているらしい。

尤も城跡へと向かう東側の道は、多少の斜度こそあるものの木の枝などにしがみつく必要もなくそこそこの見通しもありその登攀は快適でさえあった。
急斜面の中腹には尾根筋を通過しない巻き道の跡も見られるが、これは後世の山仕事などの便宜によるものと考えられる。
城跡へは二、三段ほどの小規模な腰郭を経て西端部の郭跡へと続いている。
実にあっけのないほどの西側尾根筋の防御ではある。
長年の風雪に耐えたことも影響しているのか、全体として郭切岸や主郭の土塁も低く堀切もさほどは深くない。
東側と南側を意識した縄張であり、急斜面を伴う北側と薬師岳から続く長大な難路のある西側の防備は薄い。

  東端の郭から主郭と堀切
 
復路は車を停めた場所の問題もありテープでマーキングした同じルートをそのまま戻った。
この時点で既に両足の脱力感は極限に。
そのまま帰宅への道を辿るという選択肢も脳裏に浮かんだ。
しかし通りすがりに立寄る程度ならばもう少しは動けそうに思われたので、あとはその時の成り行きにまかせることとした。


〇大戸関所ほか
(群馬県東吾妻町)
12時20分から12時40分

大戸資料館付近に駐車ができる場所を探したのだが、先客もあり結局駐車できる場所が見つからず集落外れの水田に面した崖下付近に停めさせていただいた。
あくまでも観光地としての観光用施設であることから、正にそれなりのものではあったのだが・・・

  大戸関所(想像復元)


大戸平城(おおどひらじょう、群馬県東吾妻町)
13時00分から13時30分
標高約540m、比高差約35mほど

大戸関所からは徒歩にして10分足らずである。
北東の集落内を通り製材所の脇を抜けてお邪魔した。
標高は高いが形式的には所謂丘城に近いものがある。
以前には存在していたのかも知れないが土塁部分は確認できない。
4か所ほどの郭群、切岸、虎口、堀切などから構成されている。
宮坂氏の図面で示されている郭2と3の切岸部分が最も城跡らしい景観であった。
麓の一部は耕作地化され竹林も少なくは無いが、最南端の郭部分を除いて所有者の方のご理解もあるらしく、ひととおりは歩いて回れるようになっていたことは誠に有難かった。
また、手作りの城跡表示についても嬉しかった。

大戸平城二の丸と背後の大戸城


萩生城(はぎゅうじょう、群馬県東吾妻町)
14時00分から14時20分
標高約650m、比高差約20m(南麓の境野集落より、ただし国道406号線からは約40mを測る)

萩生地区にある境野集落北側の丘陵が城跡である。
南東の宝篋印塔の祀られた個所から細道を進んだ。
この宝篋印塔近くに所在している縦長土塁の役割については、全体の縄張の中でよく分からない存在であるように感じた。
丘陵頂部に所在していることから構成の害獣除けでは無さそうに思うのだか。
南側の耕作地を開墾するために切土するとしても、寧ろ全体を削平した方が作業としては簡単である。
このあとは主郭手前辺りまで行き内堀でもあるアズマザサの密生している横堀の存在を確認。
主郭部は耕作地でもあることから、結局は外側からのみ拝見することとなった。

  萩生城の遠景(南から)

今年は標高650mの地点でも例年に比べて下草の成長が早いらしい。
矢張り山城探訪の季節もそろそろ閉幕を迎えているようだ。


この後は国道406号線沿いの戸田書店へと立ち寄り、版元である「みやま文庫」では品切れとなっていた「上野の戦国地侍」ほかを購入した。
むろん公立図書館で複写しても良いのだが、後々の整理作業などを考えると現物の書籍の方が遥かに使い勝手が良いことだけは間違いがない。
1月後半から3月まで頭痛に悩まされて殆ど未稼働であった。
3月末から伊勢崎方面を手始めに体調などを確認しつつ今月の4月は延べ6日の稼働となった。
昨年11月は2度の遠征もあったので延べ9日も稼働していたが、関東近県で延べ6日稼動は久しぶりであるような気がする。

この後からの連休中は混雑するので先ずは暫時休養態勢に。
連休明けからは梅雨が始まる前までは北へと向かうか、関東近県の平地(遺構の無さそうな場所)を彷徨するか・・・
「県別マップル」にマーキングしつつ、いろいろと思案するのも悪くは無いとも思う。

拍手[3回]

今回も群馬県内を探訪。
ここ何度かの往復で気にかかっていた岩井堂付近に立寄り、その後東吾妻町方面へと向かう予定。
 もはやルーチンのごとく早朝午前4時半に自宅出発。
1か月足らずの間に日の出の時刻もどんどん早くなり、早くも午前5時前には東の空に日の出の予兆有。
今回も何時ものごとく上武道路を北上。
暫時早朝からの春霞により眺望皆無。
それでも太陽が昇るに従って春霞は消失。
その後何時ものように渋川の「道の駅こもち」でトイレ休憩。


 
岩井堂の砦(群馬県渋川市)
午前7時20分から8時25分
標高459m、比高差約150m

今回は前回も立ち寄った岩井堂近くの「岩井堂の酒饅頭」(岩井堂渋川本店)に駐車。
少し前にはドライブインのような施設が所在していた記憶有。

さてこの砦については、そのほとんどが山登りというか岩登りという印象が濃厚。
始めの方こそ、「おっ鎖場があるではないか」と興味津々。
ヤマツツジ、フジ、スミレなどの自生種?の花々を愛でつつ鎖を頼りに登攀。
次第に高度を上げると遮るものが無いことから遠方から足元(※見たくなくなる足元)までの眺望は良好。
しかし次第にデジカメ使用の撮影は困難化の一途。
両手を常にフリーにすることが正に必須の状態。
鎖にしがみつき両手、両足の力を駆使した登攀が継続。
漸く登山路入口の「注意書」の意味を理解。(※強風時登山禁止等々)
このあとから何故か上半身に筋肉疲労感。
その原因は鎖場登攀に伴う大胸筋の痛みと判明。

ベンチの設置された岩峰の肩付近(展望台)で即座に下山路を選択。
むろん烽火台とも伝わる岩峰はあくまでも見上げたのみに終始。
当地には畳半分ほどの小屋が所在し記念スタンプが設置。
しかしスタンプ台は無。
これがホントの台無。


下山後に見上げた烽火台の岩峰はまだまだ先の方。
下山路では比較的鎖を必要とするような個所は少数。
登攀路が下山路であれば事故率増加は必定。

 展望台(左)と烽火台(右)

肝心の遺構については、烽火台方面未踏査のため不明。
いずれにしても岩峰上の狭小地故に明確な城館遺構は無いのかも知れないと無理やり納得。
なお、下山の際に岩場で右肘を強打。
あくまでも軽い打撲なのでその後の行動には支障無。


古城台(群馬県渋川市)
8時30分から8時55分
比高差ほぼ無

「群馬の中世城館跡」の報告書を見る限りでは、作間神社境内が城館跡と推察。
現在でも神社境内北辺に東西方向の堀跡状の地形有。

 境内地北辺の堀跡状の地形

またその更に北側には畑との段差を確認。
「古城台」の名の通りの小さな台地地形。
岩井堂砦岩峰の全景確認には恰好の撮影ポイント有。


岩井堂城(群馬県渋川市)
9時00分から9時15分
比高差ほぼ無

城館跡と推定されている区域は概ね宅地化されているため城館跡らしい形跡は極めて限定。
わずかに共同墓地付近にそれらしい名残有。

    共同墓地付近


市城砦(いちしろとりで、群馬県中之条町)
9時20分から9時40分
標高320m、比高差15m

一昨年あたりから嬬恋方面へと出かけた際にみかけており以前からの懸案事項。
その折には手前の岩櫃城の存在などに認識が限定。
先週、中之条方面への探訪の際にも通過。
これもひとえに駐車スペース不在がその事由。
中之条方面からの下り坂気味の帰路。
カーブの多い割には車の速度も上がり気味。

地元渋川市在住の研究者の記したと思われる解説板が設置。
すぐ南には「岩井堂の砦」の岩峰が所在。
解説版によれば、尾根筋に沿った郭群が所在。
半世紀以前にはこの辺りでよく見かけられた桑畑跡と確信。
果たしてどの規模の城館であったのかは、あくまでも模擬櫓周辺のみの見学であることから皆目不明。
一週間前と同様に岩井堂渋川本店にて「酒饅頭」等をバラ売りで購入。


岩下城(群馬県東吾妻町)
10時30分から12時30分
標高545m、比高差約40m(※林道から、国道145号線の山麓からは約100m)
※東西郭群の間を分かつ大堀切や東郭群の三重堀切が必見。

当城には上記のように旧中学校跡の東側から続いている林道を使用させていただくのが、途中ス少々未舗装の部分も存在しているが最も便利。
なお南西麓の集落から西郭群の主郭付近に通じている神社参道の登攀路は未確認。

林道からは180度方向転換し尾根筋に入山。
直ぐ西側にも明確な山道が所在。
そのまま尾根筋に入るも良し、その山道伝いに進むのも可。
数十メートルほど南進すると三重堀切の北側へと到達。
北側のものは拍子抜けするほどに小規模でかつ埋没。
しかし、二番目と三番目は深さ、幅も大きく現在でも進路を阻害。
三番目の堀切を超えれば東郭群の中心部分。
西側の大堀切を横目で観察しつつ、南側の尾根筋先端付近を確認。
宮坂氏作成の縄張図どおり4段ほどの腰郭地形を確認。

 東西の郭群を分かつ大堀切

その後大堀切を下り西郭群の主郭へと移動。
約10mほどを下り約12mほどを登るのだが、西側郭群への登攀ルートは些か曖昧。
先客のつけたと思われる足跡をなぞり登攀したが、土質が軟弱であり堀切斜面は些か破壊気味。
主郭土塁を確認後、西側の神社へと移動。
神社の参道が南西方向から登ってきてることを確認。
その下方の郭へは多少の急斜面であり明確なルートも不在。
ストック携行なのでこれを頼りに斜面を下り下段の郭群の様子を観察。
北と西側からはほぼ登攀不可能な地形を確認。

羽田城への移動途中に国道145号線沿いの「角田製菓」にて「かりんとうまんじゅう」ほかを購入。


羽田城(はんだじょう、群馬県東吾妻町)
13時00分から15時00分
標高約690m、比高差約70m(※南麓集落から、林道からは約30m)
※見どころは大堀切を含む2本の堀切と、南側の堀切に続く土塁を伴う横堀の存在。

ひとつ前の岩下城の堀切などで、存外の体力消耗と気力消失。
足首には既に10年くらい前から経験済みの猛烈な脱力感。
無論ハイカットタイプのトレッキングも所有。
しかし、足首の動きが制御される分車の運転には不適当。
靴の履き替えも時間の浪費。
そもそも年取ると些事が面倒。
これぞ加齢の非合理性。
かくして残りの稼動可能時間を考慮し、岩下城近くの根古屋城を断念して当城へと目標変更。

そうはいうものの午後の強烈な日差しが照りつけほぼ初夏の陽気。
飲料は500mlを2本を事前用意。
前回が1本で事足りるも今回は2本完飲。

車は「羽田バス停」近く旧道と思われる空き地に駐車。
諏訪神社近くの林道路肩なとにも駐車可能かもしれないが、そう広くは無いことから余り無理は禁物と考慮。

往路は登り口を間違えて幾分遠回り気味となり余計に体力消耗。
更にここでも大堀切などの上り下りにより足首は最早完全無力化状態に突入。
一番の見どころは何と言っても大堀切とこれに続く土塁を伴う横堀の存在に相違無。

  大堀切と土塁付の横堀


    同上部分の拡大

ここで西側横堀を踏査中に宮坂氏の縄張図に疑問発生。
南西部角付近の土塁を短く書き表しているが、実際にはかつては南から続いていた参道脇まで延びていることを確認。
コピーしてきた「城郭大系」を見ると、やはり同様の表現有。
たぶんに「城郭大系」に影響を受けたものなのかとも思案。

また南東部は竹林が密生気味に生育しており現況確認困難と判断。
既に時刻も午後3時近くとなり、早起きの影響だろうか睡魔襲来。
車に戻り小休止後、自宅到着まで約4時間を要する帰路の途上東松山市内にて夕食。

今回あらためて筋力低下を伴う加齢の意味を痛感。
今後はこうしたアップダウンを伴う踏査については1日1か所限定を真剣に考慮中。


今回の探訪はいちおう6か所。
尤も始めの4か所はやや微妙な印象の城館遺構。
岩下城とは真向いにあたる根古屋城なども立ち寄る当初の目論見は気力、体力の消失により断念。

帰路ふと沿道に目をやれば、ケヤキ並木の新緑が眩しい季節が到来し初夏の予感。
今後はさらに標高を上げるか、緯度を上げるかの選択必至。
それさえも危うく感じる昨今の異常なまでの高温状態。
と、やはり体言止めで統一するという文体は肩が凝ること必定。

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トータルアクセスカウンターが「1234567」の並びとなる瞬間を記録しておこうと思っていたのですけれども、夕刻前クリニックに通院しているうちに過ぎてしまいました (^^ゞ

さて、今のところ先月末から群馬県内ばかりを探訪していますが、実は昨年末頃までは虎視眈々と富山、新潟方面への遠征を企てておりました。
ところが2か月余りの頭痛騒動などが続いて計画は敢無く画餅と化しました。
挫折した計画だけは数多あり、何時でも出かけることのできる資料の用意のある個所(クリアフォルダーに整理済みのもの)は、富山、新潟、盛岡、福島、青森、滋賀、京都、兵庫のほか関東近県合わせると、どう少なく見ても2000か所ほどに達していたことが判明しました。
道理で机の後ろの天井まである書類整理棚(幅3m×高さ2.5m)が満杯になっている訳です。

冷静に常識で考えれば、どれほど頑張ったとしてもあと2000か所の探訪は不可能です。
どうしたものかと考え始めている一方で、マーキングと資料纏めが面白いのでどんどん群馬県内の探訪候補地が増えてゆくという悪循環に陥っております。

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