本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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兎貝戸の砦から芳賀中学校の東側の道を北上して小坂子城へと向かった。
このルートも約600m足らずの至近距離ではあるが、進行方向は赤城山の山頂方面のため比高差約20mの緩やかではあるが結構足回りに響く坂道であった。


小坂子城(群馬県前橋市小坂子町)
13時50分から14時30分

台地先端に鎮座する小坂子八幡神社にてこの日何回目かの初詣祈願。
そういえば久しぶりに出かけたこともあり常時携行アイテムである賽銭用の財布を自宅に忘れてきた。

小坂子八幡神社南参道

城跡へはこの八幡神社の参道から入り境内地を東側に抜け東側の崖線に沿った農道のような細道を北へと向かいそのまま県道34号線まで歩いた。
ひとつ前の兎貝戸の砦と同様に東側の防御線は大神川の崖線部となっている。

東側崖線部(北の赤城山方面)


東側崖線部(南方を撮影)

この辺りからは対岸の「出城」ともいわれる林が目に入る。

出城ともいわれている辺り

主郭付近には土塁跡も残されているらしいが、生憎民家の裏手辺りらしいことから目にはしていない。


画像右手の屋敷林辺りが主郭部

出城付近の様子を県道から一瞥したのち、県道を西へと引き換えし城跡西側の市道を南下しつつその崖線部を観察した。
主郭とその南に続く城域を分ける堀切状地形の麓には小さな解説版が設置されていた。


ただし後世に埋め立てられたのか堀切としてはやや中途半端な印象もある。

堀切地形麓の解説版

さらに市道を南下していくと八幡神社境内へと登る階段があり、登りきった所には古びた木製の城跡標柱が所在していた。



この時点で日没までは未だ2時間ほどの余裕があったが、両膝の具合が変調を来してきたようにも感じたことから、この日の探訪は終了することとして、この後は県立前橋図書館へと向かった。
図書館を退出したのは午後5時前でそのまま上武道路を利用して太田市内へと戻り、往路とは反対に深谷市-熊谷市-東松山市と経由して午後7時半頃に自宅に帰着した。

拍手[4回]

車は芳賀公民館に駐車させていただき、勝沢城からそのまま徒歩にて金丸川を渡り次の目的地である東側の兎貝戸の砦を目指した。
といっても、道程にして僅か600mほどに過ぎない。
ところが高花台郵便局から芳賀中学校方面に向かう道は比高差は10mほどの緩やかな上り坂であったため意外に時間を要することとなった。
この程度の緩やかな坂道に10分以上も要する自分に呆れた。
赤城山の南麓であることから少しでも北寄りに道をとると必ず上り坂となるのだが、地図やナビ上からは殆ど読み取ることのできない情報でもある。


兎貝戸の砦(群馬県前橋市小坂子町兎貝戸)
13時25分から13時40分

「群馬県の中世城館跡」の記載内容を読む限りでは、当該実地調査が行われた1980年代中頃くらいまでは、それなりに良好な状態の土塁を含む空堀などの遺構が現存していたらしい。
しかし現在は一面の畑(主郭)で、その東側(東の郭)には休耕地のような平地が確認できるに過ぎなくなっていた。
下記画像のような城跡の説明版が設置されていなければ、おそらくは所在地さえ把握できずにそのままスルーしてしまいそうな光景でもあった。
「日本城郭大系」や現地の説明版によれば東西100m、南北60mの東西に分かれた複郭であったという。
南北にはそれぞれ民家が所在しその間の畑の一部が砦跡であったらしい。
なお東側には大神川の小流がが南流し谷津田地形を見ることができ、その比高差は5m前後はありそうであった。

 
主郭の南辺中央付近に設置されている現地解説版で、倒れている木材は古い文化財標柱である。


画像の一段高い個所が西側の主郭部分であったのだろうか(南東方向から撮影)


現地解説版の拡大画像


北側から撮影したもので、画像の右側の少し高い部分が主郭で、左側の低い部分が副郭(東郭)に相当するものと思われるのだが、南辺部の一部を除けば堀跡らしい形跡はほぼ失われているように感じた。


国土地理院航空写真を編集加工
戦後間もない時期に撮影された画像には明確に当該砦跡の形跡が浮かび上がっている。
 
なお、この日の天候は朝方は冬晴れの快晴であったが次第に薄雲が広がり始め午後からはほぼ高曇りの曇天となった。

拍手[4回]

赤城山の山麓に近い緩斜面地帯でもあることを考慮して、極力路駐を避けて確実な駐車場所を確保するために先ずは芳賀公民館へと向かうこととした。
図書館も併設されていたので蔵書について複写の可否を訪ねたところコピー機が設置されていないので複写サービスに対応していないとのことであった。
もっとも小型の地域館であることから、ざっと一瞥したところでは「前橋市史」と芳賀地域の郷土史のようなものだけであったので、予定通り夕刻には県立前橋図書館へと赴くこととした。

 
勝沢城(群馬県前橋市勝沢町)
12時30分から13時10分

城跡自体はその西側を藤沢川が、東側を金丸川がそれぞれ南流する台地の南端部に所在している。
「日本城郭大系」によれば、北条氏(きたじょうし)の支配下に置かれていた嶺城の支城と推定されているが、その現状は宅地周辺の整備、集落内の道路整備などにより城跡としての旧情はかなり失われいると形容した方が相応しい印象であった。
また所在地に関しては概ね合致していると思うのだが、実際に現地を訪れ見ると集落内の現在の道路状況と山崎一氏の作成された縄張図の通路の様子がなかなか一致をみないので困った。
同氏が作成された時期からは相応の年月を経ていることを考慮に入れれば、これは別に珍しいことでは無くよくある事例のひとつでもあるのだろうとは思う。


たぶんこの付近が比較的標高も高く本丸とされている辺りではないだろうかと思う。


同集落のやや南寄りに台地を東西に横断するような具合に見えた比高約3mばかりの段差が所在していたが城跡との関連については今のところよく分からない。


城跡西外れに所在する石碑。 右側が秋葉神社で、左側は庚申信仰の青面金剛の文字が刻まれた
石碑であり、ともに前橋市の指定文化財となっている。


たぶんこの辺りが城跡の北西角付近ではないかと推定してみた。道路の左側は新しい高花台の住宅地である。

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それなりの遺構が残存していた西今井館跡から、次は後に剣聖として崇められることとなった上泉伊勢守に関わるという上泉城へと向かった。
ルートとしては概ねそのまま上武道路に入り北西へと向かえばよいことになるのだが、途中国道50号線と立体交差する今井町のJCをついうっかりと誤ってしまい前橋市内へと向かってしまった (^^ゞ
このため止むを得ず今井町西の丁字路を左折してUターンにより再び上武道路に戻ろうと考えた。
しかしよくよく考えてみると、そのまま小田島町の交差点まで進み途中農道を経由して県道76号線の江木町交差点を左折すれば上泉町方面へと向かえることに気付いた。
高規格で建設されたバイパスは時速60km(実際には時により時速80kmで走行している車両が多い)での走行が可能なのだが、JCの分岐での判断を誤ると些か面倒なことにもなるのである。
ところが到着の直前に城の外堀代わりでもある藤沢川を渡って2本目の道を左折すべきところ、1本目の川沿いの側道を曲がってしまった (^^ゞ
とはいうものの、結果的には目指すべき城跡(郷蔵と上泉自治会館が所在)は既にナビに表示されていたので全く問題なく現地に到着することができた。


上泉城(群馬県前橋市上泉町)
10時45分から12時00分

云わずとも知れた剣聖上泉伊勢守信綱が生まれたとされている城館跡である。
上泉自治会館に駐車場があるので暫しの間こちらを利用させていただいた。
自治会館の北側に隣接した現在は文化財指定を受けている近世の郷蔵が所在する高台が上泉城の主郭である。その北側の民家との間の道や自治会館敷地の一部でもある西側の舗装された空閑地が堀跡であることは明白であった。
縄張図などにも記されている主郭北西部の張出しも健在であった。
剣聖の銅像、記念碑など建立され賑々しく出迎えていただいたが、その一方で城跡に関するものはやや年季の入った感のある説明版のみであった。
ここからは徒歩で反時計回りに東通、北通を進み城域の北限と思われる一度県道76号線に出てから再び南下して玉泉寺入口手前からまた北上し境内北側の土塁状地形を確認した。
目ぼしい城跡遺構は以上の主郭周辺部とこの土塁状地形の2か所といっても良さそうだ。
無論桃ノ木川沿いの台地崖線地形も眺めておくと良いだろう。
このあとは信綱の菩提寺である西林寺にも立寄り自治会館の駐車場へと戻った。


本丸とされている高台で、画像の建物は近世の郷蔵である。


自治会館駐車場脇に設置されている上泉信綱の銅像


いくぶん経年劣化が目立ち始めているために、説明版のひび割れが恰も通路のようにも見えてしまうのであった (^^ゞ


本丸北西部の折のついた張出部分


玉泉寺北側の土塁跡らしい地形


西方からの遠景で水田面からの比高差は約8mほどの崖線を形成している。


城跡の南部を流れている桃ノ木川で、北側と東側にはその支流である藤沢川が流れる台地先端部に築かれており、これらの河川を外堀としていたことなどが窺われる。

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西今井館(群馬県伊勢崎市-旧境町)
9時10分から9時40分

市の史跡指定であり「マッピングぐんま」では「西今井中世居館跡」、現地解説版では「上今井中世館跡」と呼称され、「長楽寺文書」からは道忍屋敷ともいうこともありややこしい。
旧境町方面は幾分地理不案内であることから、その移動にやや時間を要したが、上矢島城からも肉眼で視認でき、東へ約500m少々の至近距離であることから先ず間違いようは無かった。
江戸時代に作成された「今井屋敷絵図」によれば、水路に囲まれた屋敷とその周辺の様子が描かれている。
「新田町誌第4巻」などの記述によれば、新田一族今井氏の館跡と推定されているようである。
その後は桐生から茂木氏が移り住み、境城主である小柴氏(あるいは小此木氏)と縁戚関係にあったらしい。
同書などによると、館周囲の堀跡については圃場整備などにより大きく改変を受けている旨が記されている。
しかし屋敷南側はもちろんであるが、北側屋敷林の境界付近にも堀跡状の地形が残されている。


いくぶん埋まってはいるが屋敷南辺の東側の堀跡は明瞭である。


屋敷北側の屋敷林との境界付近にも、現在のところでは長さ80mばかりの堀跡状の大きな溝が確認できる。


茂木氏の墓石も散見されたが、現在も使用されている墓石でもあり傍らの庚申塔を撮影した。
元禄11年、上州新田領今井村と刻まれ、青面金剛の出で立ちがとてもパワフルでりりしかった。

久しぶりなので比較的丁寧に歩き回ったことも影響して些か時間が押し気味なってしまったが、この後はようやく伊勢崎市を抜けて上武道路を北西に向かい一路前橋市内を目指した。

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三ツ木城から北西移動すべく国道354線西今井の交差点を横断し境矢島の集落を目指した。
移動距離は道程で約2kmだが、朝方の交通渋滞の影響の少ない地域でもあり約10分ほどで到着した。
当初の心積もりとしては日の出までの時間調整がてらに、三ツ木城にのみ立ち寄り他の旧境町についてはパスをする予定であった。
しかし毎度のことながらついつい欲が出てしまい、集中力のある貴重な午前中の時間が過ぎて行った。


上矢島城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
8時40分から9時10分

上矢島(村)の村名は幕末の頃に矢島村から改称されたとのことなので、往時における地名は矢島である。
このため東隣りに接した太田市内の矢島村と些か紛らわしいものもある。
「群馬県の中世城館跡」に掲載されている情報によれば、矢島氏と南氏に関連する城館跡とされているものの、手持ちの資料の限りではその詳細がよく分からない。
なお東側には約600mには西今井館(指定史跡/別名を道忍屋敷)も所在している。
南氏が鬼門除けに建立したとされる勝手大明神から矢島氏館跡とされている徳蔵寺まで集落内を時計回りにぐるっと一周してみたが、城館跡に繋がりそうな遺構は目に入ることはなかった。
帰宅後に国土地理院の古い航空写真画像との照合を試みたものの、集落内の屋敷林などの陰になっている部分も多く遺構に関連しそうな地形を把握することは難しかった。


集落南東のはずれに所在する勝手大明神の社


集落を南北に走る道路沿いのバス停。 
背景の建物は上矢島コミュニティセンターでこの辺りが集落の中心部で城域の西側に相当するようだ。


徳蔵寺山門(南側参道より撮影)

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早朝の寒さに凍えた伊勢崎市境(旧境町)の「境城」の次は、同じ地域の北東方向に所在する「三ツ木城」へと移動した。
一度「日光例幣使街道」てもある国道354線に出てからこれを右折。
栄町の交差点から北へ向かい東武伊勢崎線の踏切を越え境三ツ木へと入った。
太田市内南部は土地勘も出てきたが、この辺りは全く詳しくないのだが、マップルとカーナビの地図を頼りにすればほぼ間違いなく移動できる。
相変わらずナビは本来のナビゲーションは使用しないというかあまり信用していない。
ナビあくまでも現在位置の確認と移動すべき目的地へのだいたいの方角とルートを参照するだけである。
一見不便なようでもこの方法の方が現地の地理が頭に入る。
むろん帰路のルート参照には軌跡表示設定をしているので結構役立つのである。

三ツ木城(群馬県伊勢崎市三ツ木町)
8時10分から8時30分

境城からの移動距離は道程にして僅か3km足らずであったが、右折車の信号待ちや朝方の交通混雑が始まり移動には20分近くを要しすることとなった。
「日本城郭大系」などの記述によれば、真福寺境内が三ツ木城本丸(100m四方)と記されており、現在の約4倍ほどの広さを有していたらしい。
同境内地を除きその周囲は宅地化が進行しており、さらに北側には国道354線が東西方向に走っており城跡らしい景観はほとんど失われている。
境内地は下記画像のように殆ど平坦であるが、唯一北西部の角に三ツ木神社が所在し盛土された土塁状の基壇が現存している。
また「マッピングぐんま」によると古墳時代の遺跡でもあり、「日本城郭大系」の記述にも「北と西に高土居が残る」との記述がある。
かつての古墳を櫓台や土塁として使用したのちに近世になり稲荷社が祀られたものなのであろうか。
「日本城郭大系」などによれば、同寺は天正年間に由良氏家臣である三ツ木城主根岸氏により建立されたとされている。


真福寺および三ツ木神社が所在する境内地


真福寺の縁起の記された観音霊場めぐり案内板


稲荷社の祀られた三ツ木神社 土塁のようにも、古墳のようにも、神社普請の際の盛土のようにも見える。比高約3m前後、長さ約15m、基底部幅約5mほどの規模であった。


西側から撮影したので寒々しい画像となった土塁状の地形


城跡の南方を通過している「日光例幣使街道」

拍手[3回]

昨年12月10日以来久しぶりに城跡へでかけた。
この間は滋賀遠征後の画像整理等々に加えて孫のお守、長女の帰省、ETCの不具合などが続いた。
かくして生来の在宅癖と冬季傾眠傾向が復活し1か月以上のブランクとなった。
行先は栃木県南、群馬県赤城山西方面、昨年秋以来となる太田市、茨城県南方面など準備済の地域は数多。
このなかから降雪、路面凍結の懸念を感じる地域、高速使用の地域を候補から除外。
しばらくまともに歩いていないこともあり、足慣らしを兼ねて結局群馬県伊勢崎市(旧境町)、前橋市(赤城山南麓)となった。


境城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
7時00分から7時50分

昨年秋に数回ほど連続して訪れていた太田市の西側地域でもある。
このため途中の経路は東松山(国道254線)-熊谷(国道407号線)-深谷(深谷バイパス)-太田経由であり殆ど問題が無い。
この方面の下調べと最低限の資料はとりあえず用意済みである。
このままにしておくと用意していた資料の存在さえも忘れてしまう恐れもある昨今である (^^ゞ

しかし3か月ぶりなので、上武大橋北交差点を左折したところでナビと道路地図の違いに気が付いてふと迷うこととなった。
この道は以前は広瀬川左岸の県道297号線であったが、ナビにも表示されているように近年新しく297号線が完成していたことを理解したのはそのあとのこと。
尤も目的地は長光寺とその南にある弁天池である。
ナビの現在位置を確認し、広域表示に切り替え午前7時前には弁天池脇の「境公園」に到着。

弁天池の周辺から反時計回りに周囲を巡り、境神社からは再び元の道を戻ってみたが明確な遺構はほぼ消失していることは間違いが無さそうであった。
なお神社境内の西側にほんの僅かながら土塁の痕跡のように見えなくもない盛土跡が所在しているが、堀跡であったと推定される道路と野間にはブロック塀が設置されていることもあり、後世における神社の普請などに伴うものである可能性も想定され判断に迷う。
「群馬県の中世城館跡」では「崖城」の扱いが為されてはいるが、利根川支流の広瀬川に向かい緩やかな斜面が確認されるだけである。
現在の「弁天池」と「境公園」の辺りが最も低地であるすると、往時においても最大でも3mほどの比高差があったかどうかであるように思われた。


城域南東付近の弁天池


弁天池の北に隣接した「境公園」の築山 数十年物の樹木が生えてはいましたが、古墳や近世の塚でもなく、より新しい近年のもののようでした。

 
この地は南に傾斜した地形であり、天台宗長光寺の東側 境内墓地と道路を企画しているブロック塀は階段状に少しずつ低くなっていることからも把握できる。


城域の東側に相当する天台宗長光寺山門前


城域の北西角に所在する境神社の縁起を記した説明版


境内西側の道路沿いの部分は明らかに道路部分との比高差があるようなのだが、後世の神社造立などにともない発生したものである可能性もあり委細不明である。


「群馬県の中世城館跡」などに掲載されている山崎一氏が作成したと思われる縄張図によれば、郭内には東に長光寺、西に境高等学校、その北西角に境神社の境内が記され、かつてその周囲には南から西にかけて城沼跡が所在し、北辺、東辺には堀跡とこれに並行する土塁も存在していたようだ。
帰宅後に念のため1947年に撮影された航空写真を確認してみた。
城沼跡は明確に確認できるものの堀跡と土塁の存在については樹木などの陰になり判然とはしていない。ただし、現在のように墓地は拡張されてはおらず、長光寺の南部に墓地の区画は殆ど見当たらない。
墓石などの様子を拝見する限りでは遅くとも1970年代の初め頃には原型を留め難くなっていたのかも知れない。

このあとは近隣に所在している三ツ木城へと移動した。

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昨年末に再発行を要請したETCカードがようやく送達された。
しかしカードを挿入しても相変わらずエラーメッセージが流れる。
メーカー純正なので取敢えずは販売店での車載器点検を予約した。

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毎年正月疲れの出るころにやってくる誕生日である。
「門松や 冥途の旅の 一里塚」の句に相応しい時候でもある。

年代的にも子どもの時分には取り立てて特別な日ではなかったような記憶がある。
所帯を持つようになってからは何度かショートケーキで祝ってもらったが、子どもが成人した以降にはそうしたこともなくなった。
また、和菓子は食べるのだが、そもそもケーキを食べるというのが苦手になってきたこともある。

遠方に住んでいる娘からは祝いのメールが来た。
メールはここ10年くらいは続いているような気がする。
尤もメールが来るのは誕生日と父の日くらいではあるのだが。

夕食は冷蔵庫内正月用食材整理格安米国産冷凍保存牛肉のすき焼きになった。
卓上カセットコンロで加熱していると忽ち肉団子のような塩梅となった。
このため「くるま麩」と「焼き豆腐」が引き立つ仕儀となった。

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