本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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今回も都内へですが、前回と同様に遺構には余り縁のなさそうな中野区です。
都内の移動手段の常道として、当然地下鉄と徒歩での移動。
今回は乗り入れしている副都心線で新宿3丁目駅で乗り換え、地下鉄丸の内で中野坂上駅を目指しました。
当所は有楽町線から大江戸線に乗り換えるか、JR経由で大江戸線に乗り換えるか思案していましたが、むしろこのルートの方が移動時間も乗車から1時間足らずでしかも電車賃も格安であることが分かりました。
有楽町線、副都心線、丸の内線あたりは普段でもよく利用しますが、先月は三田線、今月は南北線に初めて乗車し、大分前にも大江戸線にも乗車したことから、満66歳にしてたぶん都内地下鉄13路線制覇(但し一区間乗車を含む)なのかも知れません。
 

 
 
中野長者屋敷(東京都中野区)
午前10時20分から午前10時45分

中野長者とも呼ばれたともいう鈴木九郎を開基とする成願寺境内付近がその屋敷跡と伝わります。
神田川北側の緩斜面に所在していますが、地表上からは城館遺構に繋がるような地形的特徴を確認することはできませんが、開基である中野長者に関する石柱、墓石などが所在しています。
 
      成願寺

南麓の神田川に架かる橋の名称は「長者橋」とされ、中野長者の言い伝えが継承されています。
 

また、付属墓地には蓮池藩鍋家(鍋島藩の分家、禄高5万石)の墓所もありました。
 

 
◎象小屋跡
「朝日が丘公園」の辺りが、江戸時代に輸入献上された「アジア象」(たぶん)の飼育場が所在していたとされている場所です。
たまたま案内板が設置されている場所に、公園管理の作業車が駐車していたため案内板の撮影はできませんでした。
 
   「朝日が丘公園」

このあとは、少なくとも明治初期頃までには遡及できると考えられる「下町」沿いの旧道に沿って宝仙寺方面まで移動。


◎中野町役場跡
真言宗豊山派明王山宝仙寺の境内にかつて中野町の役場が置かれていたようです。
通りがかりにたまたま立ち寄ってみました。

    旧中野町役場跡


◎たぶん宅地造成にともなう「築山」
「中野住宅」という集合住宅の敷地内です。
今回もまた目ぼしい遺構が見当たらないことから、このように人工的な地面の盛り上がりが目に入るとついつい条件反射のように撮影する習性が出てしまいます。



◎ヤマサ醤油倉庫跡
宝仙寺近くの沿道に古い煉瓦製の外壁が一部残されておりました。
これもたまたまです。



◎堀越高校
かの有名な「堀越高校」です。
これもたまたまです。
かつては河岸段丘であったと思われる地形の一部に小さな都市公園があったので地形確認のため立ち寄りました。

     河岸段丘

するとその帰りがけに学校の校庭があったので、何気なく俯瞰した画像を撮影しておりました。

    堀越学園方面


◎桃園川跡
次項の「城山」の南麓を東流しこの一帯を潤していた神田川支流である小河川跡(桃園川緑道)です。
 
     桃園川緑道


城山(東京都中野区)
午前11時40分から12時10分

象小屋からあちこち道草をしながら約1.2kmほどの道のりを約1時間ほど費やして「谷戸運動公園」に到着しました。

    城山の案内板

明治期に作成された迅速図などを参照しますと、戦後間もないころまではこの場所の南側を中心として土塁跡が確認できた模様です。
むろん、現在ではそうした痕跡は殆ど見出すことはできませんでした。
戦国時代末期に後北条氏の小代官を務めたとされる堀江氏一族の城館であったと考えられているようです。

  付近の城山通り標識など


◎城山公園(旧農事試験場跡)
12時15分から12時20分
現在の「もみじ山文化センター」(なかのZERO、中央図書館)が所在する丘陵麓に所在し、南側の「城山」からは直線距離で約100m前後という至近距離になります。

 もみじ山公園へ向かう坂道

旧農事試験場跡にもなります。



◎なかのZERO(中野区立中央図書館)
12時30分から13時30分

城山公園との比高差は数メートルを測る高台に所在しています。

 展示されているC11型SL


宅地開発が進む以前の戦後間もない時期までは現在の中野駅方面から東側に伸びた丘陵の先端部分に相当する見晴らしの良い地形であったことが偲ばれます。
現在でも南側に隣接した「もみじ山公園」付近に、公園化によるある程度の地形改変などは想定されるものの往時の様子を偲ぶ景観が残されているように感じられます。

    もみじ山公園

複合施設でもある中央図書館に立寄り関連資料の閲覧/複写をしつつ休憩を摂りましたが、このことが後に明暗を分けたことになります。

城山方面から徒歩にてそのまま東へ移動し大江戸線東中野駅を目指しました。
この道は「城山本通り」と名付けられた東中野駅までの最短ルートなのですが、その割には住宅内の路地に近く一方通行の個所もあり道路幅員も狭隘でした。
徒歩の場合には車での移動と異なり、たしかに移動の所要時間や足の疲労などに対する考慮から赴くことのできる件数は減少しますが、その一方では地表の凹凸や坂の有無などの微妙な地形の変化が肌で感じられることから市街地での城館跡探訪には相応しい移動手段です。
この時も城山の東約150m付近には元々は南側から北側にかけて谷津が入り込んでいた地形が存在していたことが理解できました。
現在の大久保通に沿った丘陵緩斜面の麓に所在している「城山」という存在も、西側の「もみじ山公園」付近に残されている崖線地形とあわせて、自然の湧水を占有できるという有利な立地条件であったことなどが少しだけですが分かったような気がします。



和田山(東京都中野区)
14時30分から15時05分

和田義盛の館跡とも伝わりますがあまりあてにはならないようです。
一般には「哲学堂公園」としての名称が有名です。

   哲学堂公園の石碑

井上円了氏は母校の創始者ですが、この地を訪れたのは今回が初めてでした。
南麓を流れる神田川支流の妙正寺川北側の丘陵で麓との比高差は約10mほどを測ります。

    南側崖線地形

むろん哲学堂の設置にともなう地形改変も加わっていることが予想され、南側の崖線地形以外にはこれといったものは見当たりません。

     南麓の公園




今回訪れた中野区はほぼ新宿区に近い東部であり、いつの間にか知らないうちに新宿区内に入っていたことを後から気が付いたような有様でした。
帰路は再び落合南長崎駅に戻り、元々は地下鉄大江戸線で練馬春日町まで行き、そこから環八通りをあるいて有楽町線平和台へと向かうというような予定でした。

しかし、大江戸線の車内で路線図をしげしげと眺めていたところ、「練馬駅」から乗換で「小竹向原」経由で有楽町線に接続していることに気が付きました。
元をただせばいちおうは都民でしたが、何分にもそれは半世紀以上前のことなので、都電には大層お世話になっていたものの、当時は地下鉄といえば「丸の内線」ぐらいしか知らないという埼玉県民の悲しさでもあります。
こうすれば、約2kmの道を歩かずに済むので、右手の拳をそっと握り軽くガッツボースを。

記憶ではたぶん初めての練馬駅のでの慣れない乗換えに、案内表示を確認しつつキョロキョロしながら先を急いでいると、やにわに目に飛び込んできた「電光案内板」(今でもこう云うのだろうか?)の「東上線人身事故発生による地下鉄有楽町線直通運転中止のお知らせ」の文字。

この時点では、事故と東上線運転状況や運転回復見込みなどの詳細は全く不明。
したがって代替案としては、とりあえず「池袋へ戻り本川越駅あるいは所沢駅まで行く」、「武蔵野線に乗れれば川越駅まで行く」ことがなど考えられました。
しかし、いずれにしても事故と運転状況の詳細が分からないことには致し方がないことから、小竹向原から和光市止まりの有楽町線に乗車し和光市駅へ移動し、ようやく事故の詳細と運転状況が判明(あ、年寄なのでスマホ無いです)

今回は、たぶん今月3度目くらいの人身事故により、結果的に東上線が2時間以上運行停止。
志木駅で満員の乗客を乗せたまま運転待機していた下り線の運行が再開されたのは、再開予定時刻を40分ほど経過した午後5時10分過ぎでした。
この間、地下鉄有楽町線と接続している和光市駅やその先の折返し運転をしている志木駅では午後3時から4時という時刻であるにも拘らず、ホームには乗客が溢れかえるという混雑ぶりで皆さん先行きの見えないことからくる焦りと疲労が蔓延していました。
なお、事故の発生した踏切は昔からよく知っている踏切で、「魔の踏切」ともいうべき人身事故の多発地点なのでありました。
なお、この日歩いた歩数は約2万1600歩ほどに過ぎませんでしたが、疲労感は確実に倍加されておりました。

拍手[3回]

この日もまた、前回に引き続き都内23区の城館めぐりとなりました
今回は飯田橋を起点に新宿牛込界隈を時計の針と反対方向に回る計画を立案。
本来は13日(火)を予定していましたが、雨模様の予報に変わったことから急遽2日ほど予定を繰り上げました。
むろん都内23区内ですので、中世城館跡はほぼ遺構には恵まれず、きわめて伝承性が濃いものが多いことも承知のうえです。
地下鉄有楽町線の飯田橋駅で下車して本日の探訪開始となりましたが、飲み物を求めたコンビニのトイレが故障中でした。
今にして思えばこの時点で何某かの先行きの不安を感じるべきであったのかも知れません。




筑土城(東京都新宿区筑土八幡町)
午前9時40分から9時55分

舌状台地先端に所在する筑土神社の境内が城跡と考えられているようですが、無論のこと残存遺構はありません。
周辺との比高差は約10mほどになりますが、近代以降に大幅に区画形質が加えられていると考えられるとともに、その規模はどれほど広くてもせいぜい50m×70mほどの楕円形をした地形であったことが窺えました。
 
 大久保通方面からの景観


     表参道


     神社の縁起


  裏参道付近の地形改変跡


   御殿坂とその標柱



御殿山城(東京都新宿区筑土八幡町、白銀町)
午前10時05分から10時20分

おなじく遺構はありませんが、筑土城との間には南北方向に「御殿坂」が台地を横断しその標柱も所在しています。
所在地についてもあまり明確ではなく、筑土八幡町とする説(「城郭大系」)と西側の白銀町にまたがる(「東京都の中世城館」)という説もあるようです。

   御殿山西側の段差



◎常陸松岡藩邸(東京都新宿区白銀町)
午前10時25分から10時35分

御殿山城と一部重なっているようにも思われます。
現在ではその一角が新宿区立白銀公園となっていて、この日が日曜日ということもあり大勢の家族連れで賑わっておりました。
北側での比高差は約5mほどを確認できますが、南側の神楽坂方面へは緩斜面となります。
また、幕末の切絵図などから推定されている屋敷の規模はほぼ一町四方(約100m四方)であり、上級の旗本屋敷の規模に近くその敷地についてはけっして広大ではありません。
むろん大名屋敷の遺構に関連するようなものは殆ど感じられませんでした。
なお松岡藩は水戸家家老である中山氏が幕末になり漸く立藩したものであり、その先祖は後北条氏の家臣として山中城の戦いで名を挙げたとされる山中勘解由家範とされています。

屋敷の南東部にあたる白銀公園


    北側の相生坂



◎赤城神社(東京都新宿区赤城元町)
午前10時40分から10時50分

常陸松岡藩邸跡の丘陵につづく高所に所在し最大比高差は約15mを測り、現在でも特に北側の眺望が優れていることが判明しました。
今回訪れた場所では、最も比高差を有していることから、むしろこの地点の方が中世城館跡に相応しいという印象がありました。

  赤城神社へと向かう細道


  比高差は15m以上か



◎越後黒川藩邸(東京都新宿区矢来町)
午前11時00分から11時15分

出版物としては「古地図で歩く江戸城・大名屋敷」(2011/平凡社)が、手元にある唯一の手がかりです (笑)
資料によっては若狭小浜藩邸と重なるようなところもあります。
自分自身の問題として、未だに「江戸切絵図」などの基礎的な関係資料の読込作業が不十分であることもあり、この場所が実際に越後黒川藩の大名屋敷であったのかどうかいまひとつ確信が持てませんでした。

   現在は住宅地です



◎若狭小浜藩邸(東京都新宿区矢来町)
午前11時20分から11時40分

屋敷の一部であったとされる矢来公園、秋葉神社を訪れた後、東側の牛込中央通沿いに所在する石碑をフェンス越しに拝見(矢来町ハイツ内は関係者以外立ち入り不可)しましたが、漢文表記でしかも一部碑面が剥落しているため、「天保年間に3人の人物により建立された?」ということくらいしか読み取りませんでした。
碑文の画像がしっかりと撮影できていれば、もう少し読み取れるとは思うのですけれども。
なお、屋敷跡南側の石垣の石垣の一部には少し古そうな印象もあり、もしかすると大名屋敷に関連するものである可能性も感じられました。
 
   矢来公園の石柱


      同石碑


  若狭藩邸内社の秋葉神社


 古そうに見えなくもない石垣



 
◎曹洞宗宗参寺(東京都新宿区喜久井町)
12時15分から12時35分

先ほどの「矢来公園」からは、北へ坂を下り、早稲田通を西に向かい、弁天町の交差点を渡り、早稲田通から逸れてコンビニの脇の参道からアプローチします。
徒歩にして約800mほどで所要時間は10分前後のはずなのですが、歳のせいか次第に足が疲れてまいりました。

牛込氏の菩提寺とされています。墓石はいちおう供養塔の形態をとってはいますが、あくまでも1979年に再建されたコンクリート製でした。
また、これとは別にその一角には、後世の牛込家の墓石も所在していました。
探すのに5分ほどを要しましたが、そのお蔭で旗本と思われる墓所もいくつか見かけました。

    牛込氏の墓所

このほかに有名な山鹿素行の墓所もあります。

    山鹿素行の墓石

なお、本来の墓所の位置がすぐには分からないことから、「あまり事情をご存じないような場合には、ひょつとすると境内入口脇の石柱そのものを当該墓石であると誤認する方がおいでになるかも知れない」などとついつい余計な心配をしてしまいました。

   境内入口脇の石柱




◎天台宗大聖院(東京都新宿区新宿6-21-11)
13時25分から13時35分

この辺りまで歩きましたのでもののついでに、太田道灌の有名な故事に登場する有名な?少女「紅皿」の墓所と伝わる墓石を見学してきました(笑)
むろん、江戸時代になって伝承がデフォルメされていったもののようです。

ところがここでの後半5分ほどの間に、大型のハシブトガラスが何度も頭上に飛来。
合計にして5度も背後から頭上への波状攻撃の実力行使をしてきたのには閉口しました。
かなり執拗な攻撃でしたので、滅多に感じることのない危険を感じ即刻撤退を決意しました。
おそらくカラスとしても、子育ての時期でもあり、たぶん同じような恰好をした人間に虐められた等よっぽど深い事情があったのかも知れないと思うことにしました。

    山吹坂の標柱


    「紅皿」の墓所

こうした予期せぬカラスからの攻撃に遭い、元々低いモチベーションはどん底に。
往路は何とか徒歩で向かったものの、この後の牛込方面への復路は都営地下鉄大江戸線を利用して移動することになりました。
というよりも、むしろカラスの6度目の攻撃を回避するという方が正しい表現なのかも知れません。
事実そのカラスは境内から直線にして400m以上も離れた抜弁天通沿いまでずっと追尾してきました。

追記
この翌日新宿区役所の担当課に確認したところでは、昨年も同じ場所で被害があったことが分かりましたので、お年寄りや、小さなお子さん、女性などが被害に遭わないとも限らないことから、少なくとも現地を確認し必要な安全対策などについて検討、考慮を行う様に要請をいたしました。
カラスは毎年5月から6月にかけて営巣期を迎えることから子育ての時期にはある程度の注意が必要なようです。





牛込城(東京都新宿区袋町15)
14時05分から14時30分

北西の大久保通、北東の神楽坂との比高差は10mほどに過ぎません。
以前は日本出版クラブ入口脇に所在していたという説明版は現在では見当たりませんでした。
実はこのクラブには20年以上前に仕事で来訪しており、以前には見当たらなかったレストランが併設されていましたが、昨今の出版業界不況の影響なのか、この4月にはランチタイムがなくなり事実上の閉店になっている模様でした。
一方、道路の反対側に所在する光照寺境内の説明版の方は境内入口近くの場所から、本堂に向かって左手前の位置に移設されていました。

   光照寺本堂と説明版



  移設された城址説明版


無論、城館遺構は確認できませんが、墓苑を拝見させていただくと大名である酒井氏の墓所もありました。

   出羽酒井氏の墓所

20年以上前に比べ神楽坂の通の様子も日曜日ということもあったのか、人出も多く随分と観光地化がすすんだようで大きく変貌したように感じました。

     神楽坂界隈



このあと幾分時間に余裕があったので、じっくりと飯田橋から市ヶ谷にかけての外堀を見学しようとも考えたのですけれど、飯田橋周辺の人出も少なくはなく、そろそろ足に限界を感じ始め、また確実に小雨が降りそうな天候に変わり始めていた事情もあり、そのまま素直に地下鉄有楽町線で帰宅の途につきました。
本日も前回とほぼ同じで2万2千700歩でした。
おおむねこの程度までですと足踵へのダメージも少なく、だいたい2日くらいで回復できそうです。

拍手[3回]

昨年6月以来の一年ぶりとなる電車、地下鉄利用による城館探訪です。
当所は川崎方面から始める予定が、どうしても「自然教育園」が気になり都内港区へ。
平日なので通勤ラッシュを避けるべく、あるいは最近話題の痴漢事件に巻き込まれることを避けるべく、かつ現地では移動時間も含め5時間前後を確保するなどとの目安を勘案し、自宅を出たのは午前8時20分頃。
曇りがちで予報でも気温は25度以下とこの時期にしては願ってもない天候。



白金長者屋敷(港区白金台5丁目)
午前10時15分から11時50分

JR山手線中野駅到着は午前10時。
東口から目的の「国立科学博物館付属自然教育園」までは徒歩で450mほど。
訪問の目的は城館探訪というよりは、どちらかといえば「植物観察」にちかいものがありました。
たしかに園内各所には土塁状の人工的な造成工事が散見されます。
しかし、この「自然教育園」が辿ってきたとされる高松藩松平家下屋敷、陸海軍弾薬庫、皇室御料地などの経緯に照らすと、果たしてそれらのものが何時ごろのものであるのかどうかについてはよく分かりません。まして、これらに先立つ中世の「白金長者」の伝承ということになると、さらに雲をつかむような按配となります。

「館跡」とも伝わる土塁地形

園内の植物観察については梅雨入り前の時期ということなので開花している植物の数は限られていたので、結果的に撮影/観察できたものはムラサキシキブ、ホタルブクロ、ノハナショウブ、アサザ、クガイソウ、エゾアジサイ、トラノオ類など10種前後にとどまりました。

     クガイソウ

散策路脇に設置されている説明プレートの密度にもバラつきもあり、少なくとも一度の見学では、全体の特徴を把握するには至りませんでした。
また水草園での透明度を含めた水質なども気にかかります。


太田道灌塁(港区虎ノ門5丁目付近)
12時30分から12時50分

番神山城、太田道灌城ともいわれるようで、かつては土塁が現存していたようですが、これは城館に伴うものではないことが判明したそうです。

 仙石山町会の名を刻んだ石碑


近世には仙石氏の藩邸が置かれていたようですが、その後は地形改変がすすみ現在では高層ビル群や大使館などが所在し、森ビルのひとつに仙石タワーと命名された高層ビルがあります。

   森ビル仙石タワー


西久保城山(港区虎ノ門5丁目付近)
12時50分から13時10分

推定地の周辺には「城山」の地名を冠した「城山トラストタワー」など複数のビル群が所在していますが、こちらも地形の改変が著しいものがあり、往時を偲ぶものがあるとすれば、スウェーデン大使館東側の台地に所在する銀杏の大木と外堀通りに向かう比高差20mほどの急坂(江戸見坂)あたりでしょうか。

    大イチョウ


その正確な所在地については分かりかねますが、災害用井戸のあるあたりが気になります。またホテルオークラ東京の東側に所在する菊池寛実記念智美術館(土岐氏大名屋敷跡)付近からの急坂と眺望の良さは格別です。

「城山」の名称を伝えるビル名

巷説には熊谷直実の名も登場しますがその本領からも遠く、麻布殿の出丸とも、江戸氏庶流説などもあるようですが、その詳細は不明のようです。



今井城(港区赤坂5丁目、6丁目付近)
13時50分から14時30分

西久保城山方面からTBS放送センター方面は、そのまま目の前の江戸見坂を下り虎ノ門病院の角を曲がり外堀通から溜池交差点へ移動して日枝神社近くの山王下まで移動する予定でした。しかしここで、歩道上のあまりの通行人の多さにうんざりし始めたので、六本木通を南に曲がり手前の氷川神社経由で訪れることにしました。
「城郭大系」によれば、南側の台地に所在する氷川神社境内付近(赤坂6丁目)という説もあれば、「東京都の中世城館」では北側の台地であるTBS放送センターと一ツ木公園付近をがこれにあたるという説もあるようです。両者ともに台地状の地形で、現在の地下鉄千代田線に沿って谷津地形により概ね南北に分かれていますが、おそらくは西側の方で一つの丘陵に繋がっていたものと考えられます。
氷川神社が所在する丘陵は六本木通の北西側で南東側にはサントリーホールなどが所在する一角が目に入りかけますが、その手前のNTT赤坂の先の路地から登っていしました。このあたりは松平美濃守(柳沢吉保を藩祖とする家系)の大名屋敷跡で、その真ん中を横断して道なりに進み進行方向左の南部坂を見据えつつ進んだ丘陵頂上部あたりが真田信濃守(真田信幸を藩祖とする家系)の屋敷跡ですが、現在はアメリカ大使館官舎(それ以前は三井一族系の屋敷か)が所在しているためなのでしようか厳重な警備が行われていました。
大使館官舎は真田家大名屋敷の南西に隣接している相馬氏の大名屋敷跡にもかかっているように思われます。これに対し氷川神社境内はほぼ丘陵中腹に所在していることから、今井城の推定地としてはやや違和感があります。
なお、氷川神社の北麓には幕末の著名人でもある勝海舟の屋敷跡も所在し、そこで執筆されたともいわれる有名な「氷川清話」はこの地名に由来するもののようです。


    氷川神社東参道


またともに江戸時代には浅野家分家の中屋敷が置かれたとされ、明治以降には近衛第三連隊の駐屯地に含まれていたようです。
なお、赤坂通の北側に所在するTBS放送センターのあたりは松平安芸守の大名屋敷です。

 TBS放送センターと公園



帰路はそのまま徒歩にて日枝神社の麓を経由して有楽町線の永田町駅へ。この近辺は2013年頃から道路の警備が厳しくなり、国会方面を避けて議員会館と都立日比谷高校(岡部氏大名屋敷跡)の間の路地を北上。なお、現在の首相官邸付近は内藤氏、京極氏、丹羽氏などの大名屋敷跡のようです。
その後は川越市までの直通で自宅には午後4時半に帰宅しました。
この日は自宅から最寄り駅までの徒歩を含めて2万2千歩あまり。
帰りのラッシュ時を避けて早めの撤退を行ったことにより、両足の踵への多少の負荷はあったものの、昨年のような歩行困難となるような痛みは発生せず。
しかし、昨年にも増して息が上がりやすくなってきたことは最早否定できなくなっていました。


追記 
帰りの有楽町線飯田橋での出来事。

2歳くらいの女児を乗せたベビーカーを押して下車しようとした親子づれ。
後のバーを抑え前輪を上げ下車するはずが、その前輪がたぶん横向きに。
着地した前輪がブレーキとなり、そのまま重心をかけて押そうとしためベービーカーは女児ごと前転。
その結果、女児は顔面からホームへとダイビングしてしまった模様。
母親の方も、重心を前に移動していたため2秒差くらいでホームにダイビング。
慌ただしい乗降の際の出来事とはいえ、流石に見かねたホームにいた複数の乗客が手を差し伸べていました。
さらにそのなかで、1名の親切そうな女性がしっかりと付き添って親子の面倒を見ている様子が乗客越しに窺えました。
転倒した母子は無傷という訳にはいきそうもなく、ある程度の打撲を負っていることが想定されました。
おそらくは飯田橋の駅で多少の応急手当をしたか、あるいは救急車を呼んだかどうかについては不明。
電車などの乗降の際には、ベビーカーや車いすについては押す(介助する)人間が先に乗降車して、要介助者を背後に引くのが安全とされているのですが。       

拍手[4回]

まだ梅雨入り前の季節というのに、今秋以降の遠征計画を考えてみました。

先ずは例年通り3年連続となる福島県郡山市(11月中旬以降で2泊3日を予定)で、クマなどの出没情報を気に掛けつつ30カ所ほど。
これについては基本的な資料は揃っていることから、あまり準備作業はなさそうな気が。

12月の第2週頃にはこれも2泊3日で再び滋賀県甲賀市方面へ。
これも資料の方は入手しているので、資料の読込とあとは詳細プランを練るのみ。
ただし車(交通費は安くはなるが駐車場所を探すのが面倒)で行くか、新幹線利用(手荷物の問題、足の持病の問題、東京駅構内での丸の内線からの乗り換えは遠い)かは未定。

その間に栃木県栃木市とその周辺を日帰りで3日ほど出かけてみよう。
また、今月末から梅雨の間は昨年同様に電車利用で神奈川県横浜市方面へ4日ほど。

と、メモしておかないと「植物図鑑の整理」をしているうちに秋が到来しまいそうです。

拍手[3回]

本日は史進さんのお誘いとご案内で横浜市戸塚区、泉区の境川沿いへ。
天候は行楽日和の晴天でしたが、いくぶん強めの南風で畑の埃がときおり舞い上がり、ぐんぐんと気温も上昇していきました。



大庭城 (神奈川県藤沢市) 午前9時15分から9時45分
大庭城址公園。
画像は主郭北側の郭に残る空堀と土塁遺構。

 

 

堀込 (神奈川県横浜市戸塚区) 午前10時20分から10時35分
俣野景久館の推定地のひとつ
下記の画像は堀込北の辻付近

 

永井陣屋  (神奈川県横浜市戸塚区) 午前10時45分から10時50分
近世旗本永井氏の陣屋跡とされています。



御所ヶ谷 (神奈川県藤沢市) 午前11時00分から11時15分
境川西岸の俣野景久館の推定地のひとつで、画像はその北東角付近の稲荷社付近の様子です。

 

俣野神社付近 (神奈川県横浜市戸塚区) 11時20分から11時35分
俣野景久館の推定地のひとつで微高地となっています。

 

戸ノ久保 (神奈川県横浜市戸塚区) 11時55分から12時10分
俣野景久館の推定地のひとつ

 

飯田五郎家義館 (神奈川県横浜市泉区) 12時35分から12時50分
富士塚公園とその東側の台地付近



泉小次郎親衡館 (神奈川県横浜市泉区) 13時20分から13時50分
時代背景は不詳のようですが、丘陵を東西方向に隔した二重の堀跡(堀切ないしは横堀とも)現存しています。

 


◇相模川橋脚(神奈川県茅ヶ崎市) 14時35分から14時50分
所在地 神奈川県茅ケ崎市下町屋1丁目
国道1号線沿南のニトリの西側に所在する鎌倉時代初期の橋脚の遺構が保存整備されていました。長らく地中に埋没していたものが関東大震災の地盤液状化に伴い浮上したものと考えられています。

 

 

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茨城県つくば市の「筑波実験植物園」の見学へ。
花壇のクリスマスローズや温室の熱帯植物などが元気に生育している反面、ハクモクレンは強風にあおられて見頃は過ぎていました。
ほかに野外植物で撮影したものは、ベロニカ、シキミ、サンシュユ、エドヒガン、カタクリ、オオミスミソウなど開花中の30種ほどで、これに温室内の植物が40種ほどとクリスマスローズの品種が20種ばかり。これにその他が10種くらいでざっと100種ばかりとなりました。



この植物園は決して園内のすべての植物に説明が付されている訳ではありませんが、名称や分類などについては的確でかなり細かい配慮がなされていることから、これからもしばらくはお世話になりそうです。また芝生のあるゾーンではこの時期では定番のミチタネツケバナ、ナズナ、ホトケノザなどが繁殖中でした。

 2017年2月末に圏央道が東に延長開通したことから、お陰様でこの方面へのアクセスは埼玉からもだいぶ近くなりました。国道4号線以東は未だに対面通行部分も多くあり、制限速度も70kmに抑えられてはいますが便利になったことだけは間違いがありません。しかし、まだ慣れていないドライバーがいるようで片側2車線から1車線に変わる個所も多く所在し特に注意が必要です。

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3月11日に史進さんの講演会が大月市市民会館で行われましたので、これに聴衆として参加しました。
その際に撮影したのがこの岩殿山(城)です。
この山を初めて目にしたのはたぶん55年以上前のことで、中央線大月駅の停車中の車内から撮影した記憶があります。
その後長野、山梨方面を訪れるたびに沿線や国道などから幾度となく目にすることもありましたが、このように近くで見上げたのは初めてのような気がします。
尤も城跡であるという認識で目にしたのは、たぶん1970年以降ですが。

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1月22日の二条城を訪れる前に近くの畑で見かけたタヌキの子です。
体側面全体に皮膚の炎症が見られ痩せこけていましたが、カメラを向けると興味深そうな仕草を見せて2、3歩ばかり前に来てくれました。
おそらくこの近辺を住処にしているようですが、毛皮の抜け落ちたむき出しの皮膚には傷痕のような痕跡も確認され、この先まだ長い冬を越すことができるのか心配になりました。

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この日は三日月堀さんに同行いただき、今月3度目となる栃木市(旧西方町)方面へ。
午前6時拙宅集合で一般道を古河、小山経由で北上。
真名子の現地到着時刻は午前8時50分。


真名子城(栃木市西方町真名子字本城)
午前8時50分から10時30分、快晴、ほぼ無風
遺構 堀切、帯郭、腰郭、小口、横堀、主郭ほか
比高差 約80m(南尾根筋のアップダウンを含めると約95m)
南西二重堀切方面を下山する場合には足回りはトレッキングでストック+手袋があると安全

以前は南麓の墓地脇から入山が可能でしたが、現在ではイノシシによる農作物被害防止のためのフェンスが設置され登山ルートが閉鎖されておりました。
どうにかして南尾根から北上し途中3カ所の堀切と横堀などを経て3段ほどの帯郭を登ると20分少々で山頂の主郭へと到着しました。
全体として眺望は樹木の叢生により視界が遮られ良好ではありません。
なお今回はこのあとの予定などを考慮して北尾根、西尾根方面へは足をのばしませんでした。

そこそこ有名な二重堀切の遺構は主郭のある山頂から南西方向へと派生した尾根筋の山麓近くに所在しているのですが、山頂の最上段の帯郭経由での下山ルートはほぼ消失しています。
このため当該帯郭から比高差にして40mくらいは、木の枝などにつかまりつつ、九十九折を意識して急斜面を転ばぬようにして、降りてくる必要があります。

真名子城主郭から西方城の尾根筋ははっきりと目視できますが、50m近く標高差があるために上方から見下ろされている感じが否めません。
なお、車の駐車場所は地元の集会所裏に置かせていただきました。


    南尾根の堀切         主郭の帯郭


    西尾根方面           石切場跡


   南西の二重堀切       真名子城家臣団の集落



西方城(栃木市西方町本城、元)
12時00分から14時00分、快晴、ほぼ無風
比高差 約130m

今月11日に続いて2度目なので、北郭から主郭を抜け、ほぼ消滅した西郭方面を確認し、東郭の遺構から横堀経由で主郭東中腹の郭を通り下山。
郭群の所在する尾根筋からは真名子城を俯瞰するような位置関係になります。


  真名子城から西方城方面      北端郭の小口


 東郭群井戸郭付近の石塁跡       主郭付近



二条城(栃木市西方町真名子字本城)
14時10分から15時35分、快晴、ほぼ無風
遺構 主郭、土塁、郭群、竪堀、小口、石塁(石垣)
比高差 約40mほど

東北道脇の小道からイノシシ除けのフェンスをまたいで41号隧道を潜って行きます。
中腹に所在する開山不動尊付近辺りまでは、林道も整備されほとんど藪がないのですが、石祠脇の竪堀辺りから草木が叢生し始めます。
竪堀から下段の郭に入り東側の郭に回り込みながら主郭北東部から主郭東側の上段の郭へと移動し、登れそうな斜面を探していると主郭東辺の石塁が目に入ります。
この辺りから登ろうとしたのですが、足首の筋力が劣化し這い上がれませんでした。
次に南辺へと回り込みましたが、ここはさらに比高差が増えてしまいました。
ここからさらに西側へと回り込めるかと思いましたが、叢生する樹木に阻まれました。
やむを得ず北西角辺りから主郭へとアタック。
どうにかして櫓台のような幅の広い土塁上部へと到達しましたが、そこから先へは足元が悪く殆どすすめなくなりました。
他のネット情報などを参照してみると、以前よりも主郭部分の藪は密度を増しているように見えます。
また主郭切岸の比高差は、あくまでも目測ですが、北側で約10m弱、南側で8m前後、東側で6m強くらいなので、東側からそのまま登るのが一番楽なのかも知れません。


    ここから入る       小祠右脇の竪堀を登る


  主郭東の郭へのルート      主郭東側の石塁


    主郭北側の切岸        二条城の全景



光明寺城(栃木県栃木市都賀町家中字宿)
15時55分から16時05分、日没まで雲が無く快晴、ほぼ無風

ほんの少し日没までの時間に余裕ができたことから、急遽訪問してみました。
今月11日に続いて2度目で、どうにか日没前に間に合いました。

 
    南西部の遺構        内郭北東部の櫓台
 
 
このあと予定通り栃木市図書館で午後6時頃まで資料閲覧、複写。
復路は県道153号線をそのまま南へと戻り下河原田の立体交差経由で国道50号線を西へと向かい佐野藤岡ICから東北道-圏央道-関越道を経由して午後7時50分に帰宅。
体力劣化の著しい年寄にご同道いただいた三日月堀さんにあらためて深謝申し上げます。

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先週の1月4日に引き続いて今回も栃木市内へ。
今回は夜明け前の午前6時に自宅を出発。
途中多少の信号渋滞に巻き込まれつつも、現地には概ね予定通りに8時20分頃に到着しました。




榎本城(栃木県栃木市大平町榎本、真弓)
午前8時25分から10時50分
平城
確認遺構 土塁、堀跡など
先週の4日に確認できなかった遺構、旧跡などを訪問

■榎本城の規模についての推論(仮説)

榎本城の規模については、一般に「増補版 栃木の古城を歩く」(2015)は「東西約600m×約400m」、「栃木の中世城館跡」(1982)は、「613m×696m」、「栃木の城」(1995)は「337間×217間(613m×396m)」、「大平町誌」(1982)は「613m×396m」、「栃木市史」(1985)は「東西613m×南北396m」、「復刻版 栃木県誌」(1977)は「337間×217間(613m×396m)」、「日本城郭大系」は「600m×400m」、「日本城郭全集」では「600m×400m」などと記しているように、南北方向よりも東西方向に広がりをみせる記述となっています。
この件については、城域の規模について疑問を呈している「近世栃木の城と陣屋」(杉浦昭博/著)が詳しいようです。
同書によれば、あくまでも西側を流れている永野川と東を流れる巴波川(うずまがわ)、杣行川(そまゆきがわ)が大きく流路を変えていないという前提に立てば、自ずから東西方向の広がりには限界があり、「下野一国」(慶安年間の作)の記述を参考にして、それらの通説とは異なる東西方向400m×南北方向600mの範囲内に収まるであろうとの仮説を呈示し、近世城郭の縄張を想定復元されています。
しかし、この仮説はその脈絡からあくまでも「本多氏によるところの近世城郭」としての城域を考察したものと考えられますし、中世城郭としての実際の遺構の広がりについては、北辺は清光院法王寺の北側にも3カ所に分かれているものの土塁や櫓台?をともなう堀跡も存在しているということも事実です。
またその南限については仮に日蓮宗法宣寺境内辺りが有力であるとし、これらが一帯の城郭遺構であるとの仮定にたてば、実際には南北約700mにおよぶという可能性も考えられます。
この点についてはその築城について、恒久的な「地域支配のための城郭」と見るのか、当時敵対していたとされている「皆川氏や佐野氏に対する陣城」と捉えるのかによっても変わってくる可能性がありますが、良質な同時代史料が限られており、かつ残存遺構が分散しているなどの事情から、いずれにしてもその全容を明らかにすることは困難なのかも知れません。



■近藤出羽守綱秀の墓所 午前8時25分から8時45分
天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻略により、八王子城で討死を遂げたとされる榎本城主の墓所です。
榎本城南西の妙性院境内に所在しています。
「とちぎの古城を歩く」(塙静夫/著)などによりますと、「約500m北に所在する曹洞宗大中寺に所在すると」記されていますが、墓所全体の印象から少なくともこの墓石に関してはだいぶ以前からこちらの妙性院に所在しているように思われます。

 
    妙性院          近藤出羽守綱秀の墓所
 

■本多忠純の墓所
 午前8時50分から9時00分
「宇都宮城の釣天井事件」もで有名な著名な本多正純の実弟本多忠純の墓所です。
正純も幕府内の権力抗争に敗れて悲惨な末路を辿りますが、榎本藩2万8千石の藩主となった弟もまた、家臣により惨殺されるという悲惨な死を迎え、養子を跡継ぎとしたものの病死したために榎本城は廃城となりました。


   本多忠純の墓所        古い五輪塔など


■お墓様と西城 午前9時05分から9時20分
いまでも西城地区で信仰を集めている榎本氏の墓所のひとつで、この時点では正確な所在地は分かりませんでした。
もしかしてこの小さな建物を指しているのかも知れないとも思い念のため撮影しましたが、これは字西城に所在している薬師堂と呼ばれる堂宇のようです。
小山氏の一族とされる榎本氏は当主高綱の時に皆川氏との合戦で討死を遂げたともいわれており、「タカツナサマ」または「お墓さま」などとも呼ばれる神社(尊武神社あるいは武尊神社)として祀られているようなのですが、「大平町史」には所在地が西野田字本郷と記されているのみで、今のところ詳しいその所在地については不明です。


    字西城付近          字西城の薬師堂


■北辺の遺構 午前9時30分から10時50分
前回は時間の関係で回れなかった北辺部の城郭遺構を確認してみました。
残存している遺構は大きく3か所に分かれてはいますが、3か所とも東西方向にほぼ直線に並んでいる形態となっていることから本来は北辺部の外郭を形成していたものと考えても良いのではないでしょうか。
特に永野川に近い西側部分の遺構については、櫓台状の地形も観察され概ね城跡北西角付近に位置していたものと考えられます。

 
  法王寺本堂北側の堀跡        同  前


   その西側の遺構          堀  跡


     堀  跡         土塁の東端付近

 
  そのさらに西の遺構        全   景


     南側から           同   前


 永野川と北辺の遺構遠景        同   前



大宮城(栃木県栃木市大宮町)
11時20分から11時50分、晴れ
平城
土塁、堀、櫓台?
別名 御城、大宮陣屋(大宮藩主堀田正虎2万石)、北城(地名)

城郭遺構関連遺構と思われる地形は大宮神社の南域に、次のように4か所ほどに分散して残存しています。
まず、県道44号線(栃木二宮線)から南参道を約200mほど北上すると、この参道東側(進行方向右側)に高い木立が目印となる小祠を祀った櫓台にも見える土塁(1)があります。

  櫓台にも見える土塁(1)


次にそのまま参道を150mほど北上すると、道は大宮神社境内の前で大きく東(進行方向右側)に直角に曲がりますが、この角にL字型の堀跡と土塁状の地形(2)が確認できます。

L字型の堀跡と土塁状の地形(2)


さらに、そのまま参道を100mほど東へとすすむと稲荷社を祀った土塁(3)が所在しています。
 
  稲荷社を祀った土塁(3)


また、(1)の土塁の個所から参道を北へ50mほどすすむと車両通行止めとなった水路沿いの小道があり、これを道なりに100mほど東進すると進行方向にやはりL字型の土塁(4)が現れます。
 
   L字型の土塁(4)


目視で確認できる遺構は概ね以上でかなり断片的ではありますが、北城と御城などから構成される複郭の城跡の存在が想定できるものと考えられます。




光明寺寺(栃木県栃木市都賀町家中字宿)
12時10分から12時35分、晴れ時々曇り、微風
平城
確認遺構 土塁、堀、櫓台?、小口?

別名を細井城とも呼ばれ、小山氏一族の細井光明が弘治年間に築城したとされるもので真言宗光明寺の境内が城跡です。
北東側の遺構を見る限りでは、本来は二重堀に囲まれた形式の城跡なのかも知れません。
現在は寺院として使用されてはいますが全体として遺構の残存状態は良好で、特に南西部の横矢を意識した土塁と堀跡付近のラインも印象的です。


  南西部の堀と土塁         南側の山門


   東側外郭の北半分        北側の内堀跡


  北東部角の櫓台状地形




西方城(栃木市西方町本城、元)
13時20分から15時30分、晴れ時々曇り 風やや強し
比高差約130m(道がよいので20分ほどで北郭の堀切に到達します)
確認遺構 土塁、郭、堀切、横堀、小口、井戸跡ほか多数

東麓の曹洞宗長徳寺近くに13台ほどが収容可能な城跡見学者専用の舗装された駐車場が整備されています。
山城へと向かう道筋は案内標識も多く、まず道を間違えるような心配はありません。
もっともイノシシが出没する模様で、猪除けのフェンスが設置されていました。
折しも谷沿いの道筋を辿り始めた矢先に、北側(進行方向向かって右)の尾根筋からガサゴソという物音は続いておりました。
谷筋の登り道は途中で右(北)へと分岐して、そのまま北郭の堀切から続く竪堀を通り山上の遺構群へと誘われます。
ここで分岐の案内標識とは異なり、そのまま斜面を登る道をとれば水の手とも考えられる山腹の平坦地(郭)へと続いています。


    西方城の遠景        ありがたい駐車場


    登り口付近          現地解説版


東向きの谷筋に見られる削平地    竪堀への分岐点


 北の郭(小口は画像右から)    横堀を伴う防御陣


   二の郭(二の丸)        土   橋
 

  主郭北側郭の虎口と堀切       同堀切


   主郭北側郭の虎口


    主郭北側小口         同   前


    主郭の土塁          主郭(本丸)


    東側中腹の郭      


    南の郭と堀           石垣か?


    井戸郭下の土塁        井戸郭の土塁


  井戸郭付近の複数の郭      東郭の桝形付近


      東の郭           東の郭切岸


 午後3時半で凍ったまま    高速道路の向う側の谷を登る



今回は始めに再訪した榎本城関係だけで約2時間30分を要してしまい、日没時刻も早いので結果的には再訪1か所を加えても計4か所となってしまいました。
さらにこの時期では、デジカメ撮影に相応しい時間帯は午前10時過ぎから午後2時頃までの4時間ほどで、その前後の計2時間はかなり朝日と夕日に影響を受けた画像となります。
探訪には絶好の季節なのですが、デジカメ画像の撮影にはいろいろと制約も出で来るという矛盾も痛感します。
今シーズンはあと1日ほどは栃木県内を回る心積もりですが、いくぶん風邪気味となってきていることから先のことは分かりません ^_^;
 

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