本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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龍源寺環濠/群馬県前橋市粕川町膳
2021年11月11日 見学
13時20分から13時35分

各種情報を総合すると桐生市の山上多重塔からは南東方向に直線で約300mほどの地点に所在する龍源寺境内とその周辺が該当するらしい。
とはいうものの最短ルートるでアプローチしたものの、道程では約700m前後の歩行距離であった。
概ね下り坂基調となるとはいえこの辺りから足回りに疲労感が鬱積してきたらしい。
因みに前進する足取りも遅いが歩幅も狭くなる一方で、この時の歩行速度は何と分速70m前後となっていた。
然もこの後は善城に移動しての見学を予定しており、夕刻までの残り時間を考慮すると気ばかりが焦るという状況であった。
このため本来歩くべきルートを誤ったり、確認すべきポイントを見逃したりというように、傍目には半ば高齢者の徘徊に近いような探訪であったように思われる。
従って肝心の境内西側方面の地表観察は行ってはいない、というか行えなかったという方が正しい表現であるように思われる。


■北西方向からの遠景
この画像の左側に地面の凹凸部分が写りこんでいるが、同環濠跡との関連の有無については不明である。


■境内西側の崖線地形
同寺境内の西側はこのような人工的な崖線地形を呈しているのだが、同様に環濠跡との関連は不明である。
なお境内北側部分についても概ね同様の人工的な崖線地形が形成されているように見受けられた。
つまりは境内地自体については少なくとも西側と南側については堀窪められているということになるように思われるのである。


■南側山門付近の様子
山門外側の「結界」を示す石造物で、画像の手前境内地の南側辺縁部には際立った地表面の凹凸は確認できなかった。


■同寺境内の無縁仏の墓石等
西日の強い時間帯の撮影のため明暗が極端であることから、大幅にコントラスト等を調整しております。

◎参考資料
「マッピングぐんま」
「群馬県の中世城館跡」⇒同報告書によれば、かつては堀、土塁、虎口の形跡が存在していた旨が記されている。ただしそれが善城に関係するものであるのかについては示されてはいない。
「角川日本地名大辞典」⇒「粕川村郷土史」からの引用として同寺の縁起、沿革について記載がある。これによれば「曹洞宗龍源寺は明応元年(1492年)新里村村山上之郷五万堂の地に建立され、開基は三善越前守、開山は下野国大中寺二世培芝正悦大和尚禅師、赤城山慈院龍源寺と称し、寺領300石余であった。永正7年野火により焼失後、膳城主である善備中守が当村に再興した。元亀3年膳城落城の際に焼失、天正2年に再建され泰雲山と改称し、末寺は25を数えた」とされている。ただしこの辺りの経緯についてはあくまでも出典の精査等が必要と思われる。

※諸般の事情により、この稿は2021年11月29日に作成しております。

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