本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新CM
(07/01)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
(10/13)
(03/22)
最新記事
最新TB
プロフィール
HN:
武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
性別:
男性
職業:
定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
アクセス解析
フリーエリア
[13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23]

月田館/群馬県前橋市粕川町中
2021年11月11日
11時20分から11時55分

「マッピングぐんま」の情報によれば、月田館は中村城から北へ約120ほど移動した地点に所在していることを示している。
「日本城郭大系」では「一覧表」において「長岡玄蕃の館と伝えるとし、方100mで堀跡がある」との旨の記載があるのみであり、その出典については明示されてはいない。
また「群馬県の中世城館跡」によれば、堀と土居を有し、常法寺、鍛治屋敷などの関連地名が所在していることを示しているが、16世紀に存続していたとの記載があるものの、その歴史的な経緯については示されてはいない。


■「館跡東側の様子」

現在では茂木運送という運送会社の西隣の宅地区画に相当し現在では数件の民家所在するほかは概ね耕作地化されており、主に南側と東側から拝見した限りでは地表上の地形的な特徴を見出すことはできなかった。
ただし西側については足回りの疲労度と日没時刻との兼ね合いもあり、その詳細については確認してはいない。


■「沿道の秋バラ」



■鍛冶屋薬師堂/同所

月田館の東南東約100mほどの地点にあり、路地奥の耕作地に接した一画で些か目立ちにくい場所に所在している小堂宇である。
なおこの付近には「鍛冶屋屋敷」という伝承地名があり、この薬師堂についても「鍛冶屋」という名称が冠されている。しかしこれが中村城を指すのか或いは月田館を指すのかは関係資料の記述に異同があり不明である。


■「薬師如来像」?
「薬師如来」が画像左側の木造立像を指すのか、或いは中央の石造座像を指しているのかは不明。
この辺りから摂氏20度を超える季節外れの暑さのため、熱中症の初期症状が発生してきたらしく矢鱈に喉の渇きを覚え始めていた。
このため参拝がてら当地にて小休止をさせていただくこととなった。
そのついでまでに境内に鎮座していた庚申塔、馬頭観音などの民間信仰関連の石造物も一通り拝見をさせていただいた。


■「庚申塔」


■馬頭観音(右2体)と釈迦如来(左1体)か?

拍手[1回]

中村城/群馬県前橋市粕川中町
2021年11月11日 探訪
午前10時40分から11時10分

稲里地区の馬頭観音立像の所在する地点から東の方角に向けてそのまま道なりに市道を移動開始。
途中で粕川の周を形成する小河川を渡河し中村城の所在する地点へと移動。
馬頭観音からのこの間の移動距離は概ね750mほどであろうか。
それでも赤城山山麓を東西に横断するとそのアップダウンの頻繁さが目に付く。
この程度の小河川によるアップダウンであればさほどの問題もない。
ところが情けないことにこれが等高線1本分(10m)の地形を越えるとなると、管理人のような高齢者にとっては足回りの疲労に影響が発生するようなのである。
この地域を歩き回る際には赤城山の登り坂となる北方向きの移動とともに、東西方向の移動についても十分に考慮しておく必要を感じるのであった。


■城域南辺の庚申塔群

さて中村城の城域は概ね120m四方の範囲に収まる規模で、山崎一氏の調査によれば主郭、南郭、北郭から構成されていたとされている。


■画像左の市道付近が北郭跡らしい

歴史的経緯については、一応「日本城郭大系」や「現地説明版」には中村右馬之丞の居城とも伝わるが、伝承の域を出ることがなく寧ろ不明な部分が多いようである。
また、武田勝頼の東毛侵攻時に落城したという旨の伝承もあるらしいが事実関係を示すような有力な文献資料は見当たらないらしい。
因みに「上野国志」「上毛古城累記」などの近世地誌類においても、この中村城或いは城主である中村氏についての記述は確認できない。
なお天正18年2月21日付と推定される「北条家朱印状」(北爪文書/群馬県史資料編7巻)には中村氏一族の氏名は見当たらない。
因みに武田勝頼の逸話でも知られている善城に近いという立地条件であることから、地衆である地侍層の館或いは寄居が同城の支城として改修拡張し機能していたという可能性は考えられるのであろう。
尤も近世における中村の男性人口は138人という記録があることから、数千人或いは万余の大軍の攻略の前には抗うすべが無さそうにも思える。
従って北条氏などの有力な援軍派遣が行われないような場合には、本格的な抗戦を行うことなく「降伏開城あるいは自落」というような局面を迎えたのかも知れないなどと勝手な思いを巡らせるのであった。


■現地の解説版
城館遺構については、現在でも北辺部の一部を中心に水堀を伴う折を有した土塁遺構が現存しており、前橋市の指定史跡を受けており北西角付近の市道沿いには解説版が設置されている。
尤も郭部分については宅地内でもあることから、あくまでも失礼のないように水堀越しに拝見するという見学方法が好ましいように感じた。


■折を有する水堀と土塁
比較的良好な保存状態ではあるが、西側との堀幅の違いから堀跡遺構自体は後の市道整備などにより一部消失しているという可能性もあるのであろうか。
また地衆の館跡としては些か規模も大きいようにも思われる。


■北西角付近の様子
一部残存している西側の堀跡の幅(上面)は8mを超え、現在でも2mから3mほどの深さを有しており平地の城館跡としては見応えがある。
現地解説版によれば、この画像の中央やや右付近に搦め手虎口の存在を明記しているが、現住宅地の一画であることからあくまでも公道沿いからの見学となった。


■「竜神の祠」
北西角付近の公道沿いに祀られている近世のものと推定される石祠。
雨乞い、豊作、水難除け、鬼門除けなどの意味合いであろうか。


■城域西側からの遠景


この日訪れた最初の城館跡であった。
前橋市指定史跡ではあるがどちらかといえば余り名が知られているとは言えないかもしれない。
けれども一部分とはいえども非常に良好な遺構を拝見し感激の至りであった。
土地所有者を含む関係者の皆様に感謝。

※この稿はブログ用画像の編集作業などの事情により
2021年11月17日に作成しています。

拍手[1回]

この日、すなわち2021年11月11日の最初の目的地は前橋市指定文化財でもある「稲里の石造馬頭観世音立像」の見学でした。
本来であれば粕川駅の到着予定時刻は午前8時15分なのでしたが、ボケ気味の年寄りならではの不手際により既に時刻は午前9時近くとなっておりました。
この時点で早くも1時間近く遅れ気味でしたが、元来の頑固で一途な行動様式というものは加齢に伴い益々その傾向を強めている模様であります。
このため本来の目的である中世城館巡りを優先すべきところを、当初の手順通り石仏、石造物巡りを始めてしまうのであります。
冷静に考えればこの季節の日没時間と限られた体力と勘案して、石仏、石造物めぐりを後日の懸案とすべきところなのかも知れませんが。



■「粕川と赤城山の遠景」
赤城山を水源とした粕川の流路の左側(西側)が稲里地区で、画像右側(東側)が中村城が所在している月田地区方面となるようです。

さてこの場所でも、またまた二つほどの問題が発生しました。
一つ目は「馬頭観音」の所在地について、「粕川筑の文化財を訪ねて」というウェブ上のパンフレットの文言から、てっきり「旧村社稲荷神社境内」と誤解してしまい、あちこちと彷徨してしまったことです。
二つ目は境内の参拝見学中に石段の段差で見事に尻餅をついたことでありました。
幸いにして尻餅をついた個所は、偶然にも柔らかいお落ち葉の積もった土の上でしたので別段これということもなく助かりました。


■「稲里の稲荷神社社殿」


■「如意輪観音座像」
稲荷神社の境内地の片隅に東側を向いた格好で鎮座されておりました。
右側面には18世紀末江戸時代中期の「安永」の文字が彫りこまれておりました。
右ひざを立て、右手を頬にあてがっていることから如意輪観音ではないかと思われます。
女性の戒名が彫りこまれていたことから供養塔であるのかも知れません。

一つ目の問題については偶々ご親切な地元の方にお聞きしたところ、何と有難いことにご丁寧にも現地までご案内をいただくこととなりました。
大変助かりました。
本当にありがとうございました。


■「稲里の馬頭観世音立像」(前橋市重要文化財)
ご案内いただいたご年配の方のお話では、大変残念なことに近年に自動車事故により上部が破損するという被害を受けてしまったということでした。
モルタルによる接合補修跡はその時のものであると伺いました。


■「馬頭観世音部分拡大」


■「現地解説版」
詳しくはこちらの解説をご覧ください。

なお文化財所在地の住所地自体は把握していましたが、実際に所在していたのは神舎境内地の80mほど南側の県道102号線のすぐ東側の市道沿いなのでありました。
従って神社境内からはごく至近距離なのではありましたが・・・
現在のように老眼でなければ地図情報の地番から探すことも困難ではなかったのですが、何分にも細かい文字が次第次第に見えなくなっています。
たとえば細かい文字の場合ですと、最早「目」「月」「日」の識別ができません。


■「笠かぶり地蔵尊」
恥ずかしながら自分も初めて見聞する石像仏で、上記の現地解説版に説明が併記されておりました。

「馬頭観世音」の所在を探索中に「子育薬師」と呼ばれている石仏群も見学させていただきました。


■「寒念仏供養塔」
右側の供養塔は台座の下に「中村」との村名が刻まれていましたので、元々は中村に所在していたものでしょうか。
中央やや左側の立像は江戸時代初期の念仏供養塔で、画像左側の石造物は「笠塔婆」のように思われます。
なお、同所に所在している薬師堂には現在でも子供の成長を祈願するという慣習が伝わっている様子もうかがえました。

馬頭観世音の安置された墓地の一画には、慎ましやかに鎮座されていた野仏が一体おいでになりました。。
頭部の風化がすすんでいるようで詳しくは分かりませんが、その素朴な御姿を拝見する限りではたぶん「十一面観音立像」のようにも思われました。


■「十一面観音立像」?


◎参考資料
「石仏と石塔」(山川出版社)
「仏像の世界」(山川出版社)
「石仏・石の神を旅する」(JTBパブリッシング)
「日本石仏辞典第2販」(雄山閣)
「阿弥陀・薬師・観音・不動」(大法輪閣)

※この稿はブログ用画像の編集作業などの事情により
2021年11月13日に作成しています。

拍手[1回]

以前から神奈川県、東京都方面へはここ数年の間は延べ20回ほどは公共交通機関を利用して出かけておりました。
さて今回は何れは訪れるであろう運転免許返納塔の先々の事情も考慮すべく、電車、気動車乗りつぎの旅を計画してみました。
Yahooの路線情報を参照し、往路の予定では東武東上線の上福岡から-小川町乗換で八高線-高崎乗換で両毛線-前橋下車しで中央前橋まで徒歩-上毛電気鉄道にて粕川というルートを選択しました。
これが今のところ比較的安価ICカード利用の2034円、乗換回数の少ない所要時間3時間11分(乗車時間は2時間23分)というルートです。
またここ8年近く八高線にも乗車していないこともあり、年齢的に気動車独特のエンジン音と振動に何処か懐かしさを感じていたこともあります。

さて始発の午前5時04分発の各駅停車下り小川町行に乗車。
登の方向の池袋行きとは異なり明らかに乗客は至ってまばら。
電車の座席は全くの選び放題でした。
ここまでは予定通り順調に1時間足らずで小川町駅に到着。

ところが八高線への乗りつぎでちょとした失敗を。
元々の乗り継ぎ時間は約4分ほど。
東上線のホームから無人駅であるJR八高線への乗りつぎ方法は、跨線橋の階段を登り跨線橋上に設置されている「IC器にカードを一度だけタッチ」して進むべきところを通路の左右に設置されている「IC器に2度タッチ」してしまいました。
本来は1度のタッチで乗り継ぎが成立するところを2度タッチしてしまうとエラーとなり、結局のところ再度跨線橋をおりて東上線の駅窓口へ赴いて手続き処理をするということになります。
その際に既に乗りつぎ処理が為されているので本来は跨線橋上のIC機器への処理は不要なのですが、なんと再度タッチしてしまうという二重の失態をしでかしました。

本来のシステムとして2度のタッチは不要なのですが、自動音声ガイドがそれぞれタッチするように呼び掛けることもあったのかついついやってしまいました。
なおこの時の2台のIC機器の意味合いについては、あくまでも手前の方を東上線からの出口、奥の方を八高線への入口として誤解したことによるものです (;^ω^)

かくして再度駅務室へと赴くこととなり、そのうちに5時54分発八高線高崎行きは出発。
結果的に約40分後の列車を待つという事態に。
これもひとえに高齢者がよくしでかしそうな失態の一つなのでしょうか。
尤もよくよく考えてみると、今から20年以上も前にこの跨線橋で同じような局面に遭遇していたことを思い出しました。
その時はまだ40歳代半ばくらいでしたので、前後の状況を勘案して特に問題なく乗りつぎしていたものと記憶しております。
4年くらい前までは先ず余りこうしたことは無かったように記憶しておりますが、正に年を取っているということの傍証のようなものなのかもしれません。
また高齢者の自覚としては個人差もあるのかも知れませんが、乗りつぎ所要時間はなるべくならば15分程度の余裕を考慮した方がよいのかも知れませんなどと感慨にふけるのでありました。

なおその後は無事に次の八高線に乗りつぎ、次第に高校生の通学客で込み始めるなかを気動車は鉢形城の大手口付近を通過しやがて高崎駅へと到着。
次に通勤、通学客で混雑する両毛線へと乗りつぎ前橋駅へと到着。
ここから上毛電鉄中央前橋駅までは徒歩約800m。
最初は足早の中年男性と抜きつ抜かれつの状態で速足。
しかし最後の方で歩道橋に阻まれ急速に速度低下発生。
それでも意地でどうにかこれを歩ききり、過たず自動券売機にて切符を購入し約40分遅れで時刻は午前9時前に粕川駅へと到着したのでありました。
下記画像の背景は赤城山方面です。



※この稿はブログ用画像の編集作業などの事情により2021年11月13日に作成しています。

拍手[1回]

先日も述べたように、足回りの状態は悪くはない模様である。
明日は公共交通機関を利用しての移動を予定。
このため現下の足の健康状態を検証すべく最寄り駅まで徒歩にて交通系ICカードチャージに赴く。
往復距離は約3kmほどである。
歩行速度は全く上がらないものの以前に比べ疲労感は少ない。
やはり定期的な運動の効果が継続しているらしい。

明日はアップダウンは殆どないものの、総歩行距離は少なくとも10kmを超えると思われる。
足の痛み対策の方は万全なのだが、マスクをつけての歩行は酸欠状態となる。
この辺りをどう凌いでいくかが課題なのかもしれない。

拍手[2回]