本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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昨日忘れた資料を取りに職場へ立寄ってからの出発。
このため、現地に到着したのは既に午前10時を大きく回っていた次第。

さて駐車場をスタートしたのは午前10時20分。
この段階で、探索時間は最低でも明確な遺構の存在する部分に限定して正味3時間を想定。
他に周囲からの遠景などの撮影に要する時間を考慮。
夕刻から別の所用もあり、午後2時過ぎには撤収を完了する計画にて。

結果的に笹郭周辺に時間をかけ過ぎたため、下山したのが午後13時45分で正味3時間25分(昼食抜きで)
このあと市野川の下流側から遠景を撮影し、更に、当時は天然の要害を形成していたと推定されている湿地帯の名残である「大沼」を訪れて、のんびりと泳いでいたカモを驚かせているうちに午後14時10分。
なお夕刻からの所用は正午過ぎた頃には、内心では半ば任務放棄しておりました(笑)




大沼
湿地帯の名残りの「大沼」
2007/01/13 撮影


最大比高差はおよぞ40mに過ぎないものの吉見丘陵の南端部分の崖地に所在。
かつては市野川の流れが吉見百穴の付近まで大きく蛇行しいてたこと、現在の「大沼」に至る北東部分の低地が湿地帯であったことなどを考慮すれば、現在のイメージよりも遥かにその要害としての機能がすぐれていたことが容易に想像できるのでありました。

撮影した画像は〆て147枚分と、過去最高を記録。
始めは無風の晴天にて。
しかし正午過ぎころからは「晴れ時々曇り」となり、時間の経過と共に「曇り時々晴れ」という空模様。
郭上では時々数メートルの北風が吹きつけ、この時点では命の次に大切な撮影メモが飛ばされそうな様相に。

さて土曜日で然もある程度著名な城跡ということもあり、在城中に合計5人に遭遇いたした次第で、これも過去最高記録にて。
そうしたなか70歳前後と思しき熟年のご夫婦から、崖下に所在する「岩屋堂」への道を尋ねられた。

こちらの位置は「二の郭」で向こうの方は「本郭」という位置関係。
このため、直線距離にして約25mほどの空堀越しの会話。
「足元」の問題もあることから、来た道を戻り階段を下りて北側の崖下へ向かうように伝達。
時折風が強いため、些かの怒鳴り声にて意思の疎通に成功(笑)



「本郭」より「二の郭」
「本郭」南東部より「二の郭」
2007/01/13 撮影


「惣曲輪」西側の崖下りという手もなくはないものの、枯葉と凍結気味の岩場を含むため見た目よりは著しく危険。
とはいえ本人は念のため上下降体験を試行...上部の危険個所を過ぎれば下降も困難ではないものの矢張り余りお奨めはできないルート?にて。
仮に市野川沿いの難所と推定される崖下を無事に通抜けられたとして、この個所から狭い岩の間を這い蹲って攻め上るとすると、三方向から矢玉や石が降ってくるという仕掛けやも知れず...思わず4百年以上前の戦没者の霊に黙祷を。


「国の史跡指定」の申請がこの夏に予定される城跡ですが、各郭の上り下りは積もった枯葉と腐葉土と化した地面のために、通路部分とされている個所でもかつて整備された丸太の階段は腐食が進み足元は危うげ。
また逆に整備されすぎて「鉢形城」のような景観となるのも些か困りものに御座候。
3時間半の在城により中世城館の魅力を十分堪能させていただきましたが、体力の衰え顕著な我が身としてはもう膝がガクガクに(汗)



土橋
「春日郭」と「三の郭」の間の土橋
2007/01/13 撮影

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おつかれ様です
天正松山合戦図を見るに、当時の一の丸は、岩室観音堂あたりにあったようで、東に二の丸、三の丸、広沢郭と続く様は、興味ある資料でございます。
あの岩室観音堂の上から一気に上り下りしてみましたが、鎧兜を着用してホントに難波田弾正は風流歌合戦などしてる余裕があったのか疑いたくなります(笑)

国指定史跡になると、木橋が復元され、「土塁の登り下りは御遠慮ください」という看板が立つのでしょうなぁ。
左馬助 URL 2007/01/16(Tue)08:31:43 編集
Re:おつかれ様です
コメントありがとうございます。

「寛永諸家系図伝」の編纂資料を書き写したとされる「天正庚寅松山合戦図」を改めて眺めてみました。
この図によればも豊臣方7万人に対して城方が5千人。
「豊臣記」では豊臣方3万3千人、これに大道寺氏などの降伏部隊が加わり数千ほど上積みとなる計算。

また、「岩殿山正法寺縁由」では城方2千人。
一方「関八州古戦録」では城方2500人(名のある武士200人、雑兵2300人)と諸説があるようです。
籠城できる兵力は外郭、根古屋郭などを含めてもそれらの面積の合計から試算しておよそ2千人ほどが限度かと思われました。

徳川氏の入府後松平氏が城主となって10年ほどで廃城とされ、余り大掛かりな普請がなされる必然性が存在しない可能性もあるし...と、この図の各郭の位置関係を見ると頭が混乱してきました(汗)

また、時代が幾分下りますが、「浅野文庫」の「諸国古城之図」によれば、現在の松山城の郭配置にかなり近い印象です。
しかし編纂の過程でかなり簡略化された表現方式で統一されているため、個性的表現に乏しくどちらかといえば城跡の北側で大きく蛇行する市野川の形状ばかりがが目についてしまうのであります(苦笑)

近々あと少なくとも1、2回ほどは再訪しないと現在の遺構分だけでもその特徴がつかめないものと考えております。
史跡指定されて「土塁・堀底通行厳禁」や「順路」に従い見学するという事態にならないうちに(笑)
【2007/01/16 11:56】
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