本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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今年は冬の到来が早く、ときおり襲来する寒波が過ぎ去るのを待っての探訪である。
遠征というにはやや距離が近い。
月初めの青森遠征などに比べれば、高速道路での走行距離は片道117kmほどと約2割ほどに過ぎない。
このため信じられないほどに運転の時間も短いので途中の休憩もいたって少なくて済む。
とはいえ、今月は2度の遠征で郡山から戻ってから4日間しか空いていないことから、さすがに気力の方は払底気味でもあったようにも思えた。


名胡桃城(群馬県みなかみ町)
午前8時00分から9時00分

天正18年(1590)豊臣秀吉による関東侵攻の口実を与えることとなった有名な城跡である。
外郭部といわれている部分や般若郭を除く、利根川および赤谷川の崖線沿いの防御に適した郭面積の広さは4千平方メートル前後の比較的小規模な中世城郭である。
復元土塁やいくぶん過剰気味に空堀への転落防止などの措置が為されていなくもないが、空堀と郭の配置を眺めているだけでも楽しげな城址公園風の城跡である。
南東に聳える富士浅間砦の岩峰は「のろし台」あるいは「物見」ともいわれている。


笹郭のさらに先端にある物見郭へ赴こうと思ったが、気温の上昇により斜面の霜が融け始め滑りやいくなってきたために途中で引き返した (^^ゞ

駐車場は般若郭に40台ほどは収容できそうで、国道17号線沿い北側にはトイレも使用できる案内所も併設されているなど至れり尽くせりであった。
いかにも観光地にありそうな幟旗がそこかしこに林立していたが、管理費用の面を考慮すると果たしてどれほどの投資効果があるのだろうかと気になった。

 
実は中心部に足を踏み入れたのはおそらく今回が初めてなのだが、たぶん国道を通過した回数は人生で延べにして100回は超えているはずである。
最初にこの前を通り過ぎたのは半世紀ほど前で、その時も既に城跡の標柱を目にした記憶は残っている。
たぶん、昭和40年代前半頃の古いカラー写真を調べれば1枚くらいはあるような気がするのだが、現在では生憎手元には所持していない。
その当時はもう少し木々に覆われていたようなイメージもあるのだが、何分にも昔のことなので記憶が薄れている。
その後1990年の初め頃までは、何気なしによくこの国道17号線を通過していたが、高速道路が完備したお蔭であまり近くに来るようなことは無くなってしまった。

  二の郭北の復元土塁       二の郭南の復元土塁


  小川城と三峰山方面


中山城(群馬県高山村)
9時40分から10時55分

名胡桃城から県道36号線を南へ赤根トンネルを潜り吾妻郡高山村へと向かう。
後北条氏が真田氏との間でその領有を争った時期に後北条氏側により築城された城跡とされている。
途中急カーブもあるが道幅も広く快適な山道を行くと約20分ほどで到着した。
パーキングは国道145号線沿いの北側に所在し、約10台くらいは駐車できそうである。
本郭へ向かう道案内の標識も完備し、城東川沿いに歩けば10分足らずの所要時間。
水田面からの比高差は15mほどしかなく、息の上がるような間もなくあっという間に城址碑が所在する本郭へと誘われる。

   東側からの遠景


     主郭切岸

 
      主郭

この本郭のみの見学であれば所要時間はパーキングからの往復時間を含めても30分以内に終わってしまう。
むろん折角の機会でもあり土塁上から本郭の堀跡、本郭の防御との関係の深そうな南北の小郭の様子なども観察したが、堀跡は寒波の影響だろうか降雪の融水と思われる水分が多く堀底の踏査は回避することとした。
また、本郭から直接南北の郭へと移動するルートは確認できず、この後夫々別の方向からアプローチを試みるも笹薮などに疎外され直接地表の様子を観察することはできなかった。

この後、「道の駅中山盆地」にて昼食。
小高い丘陵上にある道の駅からは南東方向から城跡の遠景を一望することができる。


 また、城跡付近に設置されている解説版とは別のものが、この道の駅の売店近くに設置されていた。



白井城(群馬県渋川市)
12時35分から14時00分

山内上杉家家宰であった白井長尾氏の本拠地であり、その後改築され近世初期まで使用された。
晩秋の日没はかなり早いので、午後1時までにこちらに到着する予定であったが、探訪が順調に進んだことにより早めの到着となった。
本丸の付近に駐車することも可能なのだが、徒歩により北側の外郭から順に回遊して白井宿方面へと向かうルートを想定していたので、時間にも多少の余裕が出てきたこともあり、城跡外郭北側の体育館に駐車し徒歩にて本丸方面へと向かうこととした。

宅地化が進んでいる北半分くらいは余り城跡としての名残りを感じ取ることができない。
然し北郭の東端に所在している城山不動尊(櫓台)の辺りから「三の丸」の堀跡を始めとして徐々に城跡らしい景観が目に入ってくる。
三の丸、二の丸の一帯は堀跡部分を除いて畑地が広がっている。
さらに二の丸の堀跡を過ぎ本丸の手前辺りまで近づくと、本丸桝形と共に整備された規模の大きい堀跡が目に入りテンションも上がり自然と笑みが零れてくる。

   本丸土塁状から枡形

本丸の土塁上の歩いたのち三日月堀へと下りて堀底を東へと向かう。


この辺りの堀跡が交差する景観は見ごたえがある。


「帯郭」と呼ばれている比高差10mほどの塁線上を北東方向に進み「神明宮」から白井宿へと下りた。


仁居谷城(群馬県渋川市)
14時10分から14時30分

天候は晴れてはいるが、西の空に雲がかかり日差しが弱くなってきた。
日没までにはまだまだ時間の余裕があるが、この日差しでは黄昏モードの画像となってしまうので余り撮影には向かないのだが、そのまま徒歩でも行ける仁居谷城方面へと足を延ばした。

何も痕跡が残されてはいないらしいのだが、戦後間もない時期に在日米軍により撮影された航空写真に残されている城跡の形跡を元に、山崎一氏の略測図などを参考にして現在の地図にメモ書きした資料を持参してピンポイントで該当箇所に赴いた。
するとかつては東西方向にのびた土塁状の地形が所在していたとされる畑の一角に東西方向の段差のある地形が確認できた。

     北側から           西側から

この一帯は畑地中に大きな石が混じる土質(たぶん吾妻川あるいは利根川の氾濫などに起因した川原石)なのだが、石塁であるかどうかは別として延長にして約25mほどの長さにわたり1m未満ではあるが明確な段差が残されている。
「北毛地区運転者研修センター」の南側という位置情報からも、土塁跡(ないしは堀跡)との関連性が想定されてもよさそうな地形のように思えたのであった。


今までは敢えて敬遠していたが、そろそろ先行きが見えてきたこともあり今回は有名どころを軸に探訪してみたが、こうしてどうにか日没前には当初の予定通り無事に4か所の探訪を終えることができた。
ご同行とナビゲーションいただいた、みかづきぼりさんに深謝申し上げます <(_ _)>。

拍手[3回]

郡山市の3日目である。
今日の天候は曇りなのだが、午後からの予報は情報のソースにより幅があり全く先が読めずにいた。
先日の二戸、八戸遠征の疲労が完全に回復している訳ではないことから、なるべく夜間高速走行は避けたいところなので、日没前に確実に自宅に到着することができるように逆算してみた。
まず運転中の休憩を仮に1回とすると、いつものごとく昼食抜きであれば正午過ぎ頃には高速に乗る必要があるということになる。
そうすると午前8時から行動を開始するとした場合では、行先にも左右されるが当初予定していた3か所の探訪はやや厳しいことになる。
それならば探訪は最低1か所を目標にして、その後の天候などを考慮してそのまま市立図書館に立寄り資料を漁るというプランも悪くはないのかも知れないなどと考えたりもした。
いろいろ行動プランが頭を過るなか宿泊先を出た


荒井猫田遺跡
午前8時10分から午前8時30分

近年発掘調査によりその存在が明らかとなった鎌倉期と戦国期の館跡ならびに集落跡等の遺跡である。
以前からその存在とだいたいの位置は把握していたが、現状では遺跡の埋戻しにより説明プレートが設置されているのみであることから探訪の行先には含めていなかった経緯がある。
しかし、昨年秋訪れた折に「荒井猫田遺跡」(郡山市遺跡ガイドブック/2009)を入手したことから、その概要についてある程度把握ができたことから今回の見学となった。

しかしこの日の気温は氷点下に近く、西寄りの強風が吹きすさぶという嬉しくは無い天候であった。
それでも、宿泊先から徒歩で10分足らずという至近距離であるのは気が楽である。
先に北側の「館B」(戦国期を中心とした館跡、概ね現在のスズキアリーナ郡山南の辺り)が検出された辺り道路を撮影し、次に「館B」(鎌倉期の館跡、概ねビッグパレットふくしまの東側部分)をあらためてぐるりと眺めてみた。


この時、ビッグパレットの北側を強風が吹き抜けたのだが、ビル風効果も加わり体重80Kg超の管理人の体が浮き上がるくらいの強烈な強風となった。

一連の説明版はビッグパレットの北東側のグリーンベルト上に所在していた。
仮にこの強風と寒さが無くともあまり見学者が訪れるとは思えない些か地味な存在であり、そもそもこのような天候の中をトボトボと歩いている人間は自分のほかには全く見かけることは無かった。
 


なお、このあと図書館に立寄り200枚ほど関係資料を複写しおわると時刻は既に11時半を指していた。
この期に及んであと1か所などと探訪を続ける気力はすっかり消失していた。
このためそのまま郡山南ICから東北道に乗り一路自宅を目指した。
白河を過ぎ栃木県内に入ると突然天候がガラッと変わり、強風が治まり雪雲の姿は消え秋のポカポカ陽気の日差しを感じながらのドライブとなった。

 このようにして今回の郡山遠征は終了したが、来年以降もそこそこ元気であればの話だが、今後は今回訪れることのできなかった猪苗代湖南岸の10か所ほどの山城と旧田村町方面が中心となっていくことになるのであろうと思った。
 

拍手[1回]

さて郡山市の2日目である。
2か月前の元々の予定では、今回は猪苗代湖南岸の低い山城を幾つか探訪することがメインであったのだが、寒波襲来による降雪と道路事情等を考慮し急遽計画を変更した。
旧田村町方面を除くと目ぼしい個所がそれほど残されている訳ではないような気もしなくはない。

本日の天気予報は「曇りのち晴れ」または「曇り時々小雨か小雪」と情報元によりかなりの幅がある。
昨日は予報が当たらずに本格的な雨または雪に見舞われることは無かったのだが、2日続いて天候に恵まれるかどうかは不透明である。
安全面を考慮すると降雪の影響を受けやすい西部地区は避けるべきであるので、やはりここは市街地近郊から阿武隈川東岸地域を回るのが無難であろうと考えた。
なおこの日は天候状態の判断と朝の通勤時間帯の道路混雑を見越していたために些か遅めのスタートになった。


桜内館(福島県郡山市)
9時10分から9時25分

2015年の秋に阿武隈川沿いに所在する城館跡を訪れているが、今回はその際に時間の都合などにより訪れることのできなかった、ほんの少し山の深い東側地域を中心に回ってみることとした。
横内集会所の西、県道を挟んだ向かい側比高15mほどの丘陵がその所在地とされている。
標高300m前後の低山の山間に小集落が点在している。

「まほろん」などの情報では「平場」が所在するのみの城館遺構であるらしい。
なお住所表記ではこの辺りは「西田三丁目」と記されてはいるが、住居表示である「西田3丁目」ではなく、あくまでも「三丁目」という大字名であるらしい。

さて西側の低丘陵が目的地であることは間違いが無いのだが、目標とする辺りに直接繋がるような道が見つからない。
止むを得ず南側から市道を迂回して丘陵の上の五差路となっている辺りへと向かってみた。
北東方向の手前に比較的新しい民家が2軒所在している一帯が目指すべき場所なのだが、唯一の道がどう見てもその民家への玄関口へと続いているのみであった。
西側の休耕地らしい地点から迂回を試みたものの叢生する民家裏の竹林に行く手を阻まれてしまった。
竹林を踏みしだく音は結構大きなものがあり、足元の状態も不明確であることから転倒しても困るので途中撤退することとなった。



西田山王館(福島県郡山市)
9時30分から10時40分

桜内館の東方約400mの地点に所在する。
名称のとおり館跡には山王神社の社殿が鎮座しているが、このように進むべき道が明確であるというのは有難い。
また神社麓でも軽ならば1台くらいは止められそうなスペースもある。
鳥居の先に北西方向に長く伸びた緩やかな参道の石段を上がっていくが、石段が北へと方向を変える個所はやや急な勾配となっている。
西側の桜内館に比べるとほんの少し山が深くはなるのだが、すぐ近くに民家も所在しているので
けっして人里離れたという環境ではない。
神社社殿とその東側を中心にして少なくとも4か所ほどの平場(削平地)を確認できる。
しかしこれらが中世城館跡に関わるものか、後の神社建立などの造成工事などによるものかその判断がつきにくい。

社殿は地山に所在している岸壁を削りそこに食い込むように建立されている。
なお北側からは車が通行できる道が上がってきている。
削平地の一部はその駐車場となっているようにも思われた。
なお、社殿西側から社殿の上へと続く山道(踏み跡)があり約150mほど先には奥社のような木造の小祠が存在していたが、この時点では倒木や風害などによりほぼ崩壊状態となっていた。


小矢館(福島県郡山市)
10時45分から11時15分

こちらも神社が所在していることから、少なくとも当該社殿までは道がありそうなので嬉しい。
県道115号線から高柴集落へと向かう市道を左折し約300mほど北上。
すると進行方向右斜めを登る狭い道がありこれを道なりに高柴二組集会所の方向に進む。
そこから約200mほど道なりに北上すると丁字路となりこれを左折すると進行方向右手に未舗装の林道を分ける。
その先は全く不明なので、1日当たりの通行量も数台程度と思われることから、ここで車を道路脇の空き地のような個所に駐車した。
北の方角に徒歩にて神社へと向かった。
比高差約20mほどの急な石段があるのでこれを登ると三渡神社の社殿が目に入った。
この辺りまで来ると流石に人家も少なくなり、一番近い人家でも南へ直線で300mとなってしまう。
あとから分かったことだが、その未舗装の道を車でそのまま登り途中で神社の方角へ戻れば境内へと出るらしい。
なお、東側約150mには小さいながらも「高柴ダム」の人造湖が所在しているように、この辺りの地形は谷筋が入り組んだ比較的水利の便の良い地形であるらしい。
この神社から南方へは谷津田地形がのびているのが見え、神社南から西へと向かう道路はそのまま谷筋を下ってゆく。
また、神社東側はほどなく三春町の行政区域へと続いている。

神社の背後にはお決まりの土塁状の地形が所在しており、この辺りの標高は360mを越えている。
しかしその現在のものはごく最近に修復されているものであることが素人目にも判別できるものである。
またたしかに一見土塁の様にも見えるのだが、実際には社殿の建立に当たりその背後の地山を削り取った地形であることも分かる。
尤も、「まほろん」などが指し示している地点は、この社殿から西へ約100mほど下った西側に張りだした尾根筋の辺りをいうようである。
むろんその先に明確な踏み跡などは確認できず、身動きがままならないような結構な藪でもある。
平場が存在するというだけの情報でもあり、かくしてまたしても撤退する羽目となってしまった。


板橋館(福島県郡山市)
11時35分から12時15分

前項の小矢館からは北北西約1kmの距離に位置するが、その来歴などは不詳であるらしい。。
「まほろん」などの情報によれば、西田町板橋集会所北側に所在する東側から張出した丘陵の先端部に所在しており、その南端部には熊野神社が鎮座している。
ここも神社が所在することから少なくともアプローチに苦労するようなことだけは無い。
麓からの比高差は15mから20mほどなので、それほど目立つような丘陵ではないが、いちおう西方の眺望には優れた地形であった。

熊野神社境内の方は特に目立つ地形は確認できなかったが、強いて挙げれば境内背後には腰郭のようにも見えなくもない削平地が所在していた。
尤も郡山地方にはありがちな圃場整備にともなう耕作地などであった可能性もあり何とも言えないところである。
丘陵は切通し状の市道により概ね南北に分断されているが、北西部には見事な屋敷構えの旧家が所在し宅地部分の法面が切岸跡のようにも見える。

またごく一部ではあるが西辺部には遠目にも低い土塁状の地形が目に入るがその経緯は不明である。
なお、丘陵の北端部に基壇上の地面の盛り上がりが所在しているが、小祠などが祀られていた跡のようにも見えた。


黒鹿毛城(福島県郡山市)
12時30分から12時50分

この辺りまで来ると、北側は本宮市との行政境まで約600mほどであり、驚くほど安達太良山方面の見通しが良くなる。
標高は僅か約350mほどなのだが、このように北方の眺望に優れた場所である。

また県道などの幹線道路からは少し離れているため、この字「舘」の集落は山村のような趣さえも感じられる。
「田村郷土史」などによれば、田村月斎の次男新田土佐守顕成の居城といわれているらしいが、
「同史」での名称は「黒鹿毛山館」として記されている。
また廃城は天正18年(1590)秀吉の奥羽仕置による田村氏改易の時期であるともいわれている。
現在容易に確認できる遺構は北側の東西に分断された一条の土塁のみであり、西側の比高差20mほどの本郭方面は藪が多く民家の裏山になっていることを確認するのみにとどめることとなった。

また東側にもそれらしいピークが所在しているが、同様の事情から確認できてはいない。
なお、南西約600mにはペグマタイトの岩脈で有名な鹿島神社がある。


八山田鹿島館(福島県郡山市)再訪
13時30分から14時00分

鹿島神社社殿裏の土塁地形周辺の再確認も含め、隣接する八山田館方面に赴く関係もあり再訪してみた。
当該土塁の北西側および北側の様子並びに北東部の谷津田などの位置関係もあらためて確認ができた。



八山田館(福島県郡山市)
14時15分から14時25分

前項の鹿島館からは西に僅か100mほどしか離れていない城館跡である。
両者は幅約100mほどの谷津田を境に近接しており、当該伝承の類を含めてやはり前項の鹿島館との関係がますます分からなくなってきた。

集落内の市道沿いに土塁状の地形が散見されるが城館跡との関連は不明である。


山崎館(福島県郡山市)
14時30分から14時35分

「福島県の中世城館跡」に掲載されているだけで、「まほろん」などには掲載されてはいない。
また、その所在地についても凡その位置が示されているものの、現状では丘陵北側の緩斜面というだけでこれといった地形上の特徴が見いだせない場所であった。



この日はまたしても天候に恵まれ、大方は曇りであったものの時々薄日の差し込むような天候であり、1日目に比べれば遥かに風も弱く小雪の舞うような場面もなく、相変わらず気温は低いものの城跡探訪には絶好の陽気であった。
けっして目ぼしい遺構に対面したという訳ではないが、成果のひとつとしてはひととおり旧西田町方面を3年がかりで廻り終えることができたことが挙げられる。
この季節には午後2時半を過ぎると太陽の傾きが早くなり、西側に厚い雲があればほぼ日没前のような日差しとなる。
けっして足のいくような成果を伴ってはいないのだが、また少しだけ郡山市の未訪問の城館跡が減少したことだけは確実である。

拍手[1回]

午前2時30分、当初の予定よりも少し早めに自宅を出発。
近所の三芳PAから高速に乗り圏央道経由で東北道を北上。
羽生PAにて山菜うどんで早めの朝食。
前回遠征の二戸、八戸方面に比べれば郡山市は三分の一ほどの距離ではある。
5度目の訪問でもあることから、もはや遠方に赴いたというような感覚は全く無くなっている。

東北道は宇都宮を過ぎると車線が減少し道路照明も殆ど無くなる。
時速80km走行の安全運転のため単独走行となり結果的に前方が見づらい。
以前から薄々感じてはいたが、年齢的に長時間の夜間高速走行はそろそろ限界のようだ。
途中那須高原手前辺りから西寄りの横風と共に小雪が舞い始める。
「横風注意、制限速度80km」の情報が流れているが、
幸いにして未だ積雪や路面凍結に至るような降雪ではない。

横風と小雪に些か悩まされつつも、ほぼ予定通りに午前5時半過ぎに福島県の安積PAへと到着した。
予定通りに今回はここで暫時仮眠して、今朝からの行動に備えることとした。
自宅からこのために持参してきた毛布が予想以上に温かく2時間ほど熟睡。
連続や厳冬期でなければ、車中泊も可能な体質らしいことに気づく。
仮眠後に郡山南ICで東北道を降り市内の一般道を東へ向かった。
なお数日前までは本来猪苗代湖南岸方面の山城を中心に数か所を巡る計画であったが、当該方面の降雪と道路事情等を考慮して直前になって郡山市内での行先を変更することとなった。


篠川城(福島県郡山市)
午前8時20分から9時30分

そもそも昨年の2016年11月に訪れた折の最終日に訪れる予定が、局地的な降雨に見舞われて国道4号線を南下している途中で断念したという経緯がある。
この日は天候の先行きが思わしくなく、かつ宿泊先のビジネスホテルから道程にして3km以上はあることから、徒歩での探訪は余りに効率が悪く今回のアプローチの選択肢からは除外した。

然しのっけから駐車場所探しに苦労して、結局合わせて県道を2kmほど往復する羽目に陥ってしまった。
奥州街道でもあるこの県道355線は城館跡を南北方向に貫通しており、交通量は決して少なくは無い。
この日は日曜日ではあったが、土地柄であるのかどうかは不明だが、その幅員の狭さに比して交通量は多く車のスピードも出ている。
また最も城館遺構らしい稲荷神社へは、道幅も極めて狭く自転車や徒歩によりアプローチする以外にはなく車での進入は禁止されている。
周辺にはいくつか神社なども所在するのだが、暫時駐車できるような個所がほとんど無さそうな様子である。
このため当初は500mほど離れた休業日の郵便局駐車場に停めさせていただいたのだが、東館稲荷神社の遺構を拝見した後は城館跡の中に所在する地元集会所脇へと移動しあとはできるだけ急ぎ足で駆け回った。
というのもこちらも3台分と些か手狭で、当方は明らかに部外者でもあることから常識的には遠慮すべきなのであろう。
やはりこうした現状では、約400mほど離れている国道4号線沿いのコンビニ辺りで買い物をするのがベストなのかも知れない。

話が前後するが東館稲荷神社へはその社叢を目安にして阿武隈川の左岸堤防の歩道から徒歩でアプローチした。
県道沿いから探したのでは路地も狭く初めての人間にはやや分かりにくいように感ずる。
比高差のある堤防上から南方を見渡すと、ひときわ木立の目立つ林が目に入り、まさにその場所が稲荷神社なのであった。

  阿武隈川と篠川城の遠景


   東館稲荷神社付近         同   左

遺構としての一番の見どころはやはり神社社殿の所在する土塁であろう。
そのすべてが人工的に造成されたものではなく、あくまでも阿武隈川に沿った河岸段丘の地山地形を巧みに利用したもののように思われる壮大な規模である。

   東館の南隣の地形         同  左


    東館稲荷神社         篠川城址石碑


 周辺部との比高差は約5m   社殿が所在する土塁の張出部


  石祠の北側に続く土塁        南側から


     東側から           北西側から


  篠川御所付近(推定)

この周辺が最も城館跡らしい雰囲気が感じられる環境であることから、こちらの見学だけでも事足りるようにも思えたが、この際なので県道西側の方の現状も確認することとした。

    字高石坊付近          同   左


   県道西側の土塁跡         同   左


   高石坊供養塔群解説       同     前


    同     前        同     前


御代田館(福島県郡山市)
9時40分から10時10分

御代田城の所在する丘陵訪れたのはもう10年近く前のことになる。
館の主郭付近と思しき耕作地を目の前にしてふとひとしきり感慨に浸る。

 直ぐ側を北流する阿武隈川      御代田城方面


 たぶん御代田館の中心部付近


  大正天皇即位記念碑
側面には「星ヶ城の旧址(きゅうし)天正年間在城 稲荷神社旧跡 大正2年4月10日郷社合祀」と刻まれておりますが、光線の関係で画像が暗く読みにくくなっております <(_ _)>


       柿

ところが未だに直ぐ南方の丘陵地帯にに所在している「星ヶ城」あるいは「御代田城」との関連がよく分からないままでいる。
いずれにしても三春田村氏と葦名・佐竹勢との安積地方の領有争いに関連した城館であることには違いが無いらしいのだが。


正直館(福島県郡山市)
10時40分から11時20分

午後からの天候の推移が危ぶまれていたので、どうにか午前中に最低限の目安であった3か所の探訪を終えて一安心。
この城館も田村氏と葦名・佐竹勢との抗争をめぐり陣城として利用されていた可能性があるといわれている。
確かに西方約1kmに所在する御代田館、御代田城方面の動向を見定めるには恰好の小丘陵である。

   画像中央の林が館跡

現在は切通しの市道により南北に分断されてはいるが、南側を中心に横堀、虎口などを伴う郭区画が確認できる。
また北側の菅舩大明神の東側にも土塁を伴う横堀が残存している。

    神社東側の遺構

郡山市の郊外とはいえ、この辺りは遺構に接してその周囲に宅地が点在しており、この遺存状態は奇跡的でもありある種の感動を覚えた。

   西側虎口状の地形       たぶん元は横堀


    西側の横堀           西側土塁

なお寺院跡の石碑が建立されている正直公民館を含めた南北約200m、東西約150mがこの城館の領域なのであろうと思われた。
比高差は北側の水田面からでも約10m強に過ぎない小丘陵ではあるが、北方と西方の眺望は頗る良好であった。


大善寺西館(福島県郡山市)
午前11時40分から12時00分

大安場古墳公園の駐車場に車を止めて、徒歩にて南東にある目の前の丘陵へと赴く。
正式名称は「西館」なのだが、市内には同名の城館跡も所在することから便宜上大字名を付した。
阿武隈川支流の谷田川とその支流である前川が合流する地点に南東からのびた丘陵の先端部に所在している。
 
  次第に雲行きが怪しく      いざという時の保険

然しここに赴く際に前日からの天気予報で懸念されていたとおり次第に小雪が舞い始めた。
雪雲そのものは山間部での降り残しの断片なので本格的な降雪にはならないことは予想できたが、何分にもタイヤがノーマルであることもあり、いちおうは今後の展開如何では宿泊先のホテルまで撤退することも念頭に入れた。
 
青空は見えるが小雪の舞う天候    こういう地形が多い

またこの日のルートは天候を視野に入れて郡山の中心部から3kmに満たない範囲を移動するという計画であり、撤退を決断すれば遅くも10分程度で宿泊先のホテルに到着できるように算段をしていたので一向に慌てるような事態では無かった。
 
    南側の神明宮       天候は相変わらず不安定

北方の大善寺付近が「館」、その南側に「中新屋敷」などの関連地名が遺されている。
概ね比高差15mほどの丘陵であるが、自然地形に近い切岸を除き丘陵上は宅地化、耕作地化が進んでおり城館遺構の形跡はあまり明確ではなかった。


大善寺東館(福島県郡山市)
12時00分から12時20分

前項の西館からは直線で南南東約200mの地点に半ば接するように所在しており、宅地化が進んでいることから両者の境界はあまり明確ではない。
同時代に存在していたのかは不明ではあるが、地理的には至近距離にあることから何らかの関連性が想定される。
字名は「上野」「上野代」のほか「上石切場」などの字名も所在している一帯で、集落内の路地を挟んでその南側には大善寺集会所の建物が所在している。
西側の外れの市道沿の民家宅地に土塁状の地形が散見されるが、後世の風除けなどである可能性も考えらなくはない。

    民家境の土塁          同   左

また市道を挟んだその南側には、小さな石祠が祀られている眺望のよい小高い削平地が所在しており、物見のようにも見えなくもない。

  石祠が祀られている個所       眺望はよい


◎大安場古墳(福島県郡山市)
12時20分から12時45分

かつては「東館」との地名の遺存から、中世城館跡との関連が想定された時期もあったようだ。
しかし現在では同古墳の学術的な調査により、あくまでも前方後方墳であるとされているとのことである。

   公園のキャラクター        前方後方墳

10日ほど前には八戸方面に居たのだが、毎年この時期になると郡山市内に出かけている。
今年は冬型の気象が例年に比べて早く到来したらしい。
時々日差しが戻るものの、この日の午後1時頃過ぎ最高気温は摂氏6度だったのだが、それはあくまでも市内の観測点での数値である。
ここは郊外の丘陵地帯なので恐らくは摂氏3度前後、然も墳丘上は8m前後の強い西風が間断なく吹き続け耐寒気温は冷凍庫のような按配であった。
さすがに積雪までには至るような羽目には陥らなかったが、度々奥羽山脈を越えた雪雲の断片が飛来し時折小雪の舞う天候が続いていた。
 
  次々と雪雲の断片が飛来

日曜日の昼間ではあったが耐寒気温も低いことから墳丘上に赴く見学者はほぼ皆無なようで、寒風の中で眺望のよい360度のパノラマ風景を約10分ほど独占することができたが、その結果漸く治りかけてきた気管支炎が復活し鼻水も止まらずに困惑することとなった。


田村小川館(福島県郡山市)
13時00分から13時30分

北と西に谷田川の支流である河川(前川か)が大きく蛇行し、南には谷津田が深く入り込み周囲から隔絶した地形を呈しているが、東側は地続きの丘陵であるため防備上の弱点を抱えた地形でもあるといえる。

     圓龍寺付近          同   前


    同   前          南側の谷津田


推定地域には「舘」および「戸ノ内」という城館関連の字名遺されている。
比高差は南側で約10m、北側の前川沿いで約15mと決して高くはないが、圓龍寺境内の所在する一帯とその北側の石材店に関連すると思われる旧家北西部は天然の要害地形の残滓を感じさせるものがある。
また当該旧家敷地内には一部土塁状の地形も散見されるが、当該城館遺構との関連性は不明である。

   前川に面した北側        同    前


遺跡(福島県郡山市)
13時40分から14時00分

「まほろん」や「郡山市埋蔵文化財包蔵地マップ」の情報によれば、以前に一部発掘調査の行われた個所であり堀、郭、土坑、溝などが確認されているという。
なおこの点については当該発掘調査報告書を確認していないことから、現時点においてその詳細は把握できていない。
また「郡山の伝説」(1981年刊行/郡山市教委)によれば、「手代木城」に関する伝承も伝わっているとのことである。

      保険           宅地北側部分


    宅地東側部分         宅地南側部分

なお翌々日には市立図書館に立寄り関連資料を調べたが、時間不足などのためこの城館跡に関してはその詳細を確認することができなかった。
この一帯は圃場整備により地形の改変が行われており、切岸状の地形も確認できるが、その旧態の詳細を把握することが難しい。
ただし該当地の宅地一帯が周囲の耕作地よりも高位に所在していることだけは確認できる。
また該当地には「舘」の字名が残されていることも館跡としての傍証になるものなのだろう。
 
    新しい盛り土


城山館(福島県郡山市)
14時15分から14時35分

舘遺跡から見ると直線にして西方約500mの東西方向にのびた丘陵の西端に位置しており、南側には谷津田が東西に伸びており、大安場古墳からはその谷津田を挟んだ北側約400mの地点でもある。
東側の尾根続きを除いた三方は急傾斜地となっており、自然地形としてもその要害性は高いものを感じる。
 
   南方からの遠望         愛宕神社の西麓

当地には愛宕神社が所在しており、比高差10mほどの西側麓の石段からアプローチした。
この石段が敷設されているので難なく登れるのだが、その傾斜角度は45度前後の急傾斜である。
神社ではあるのだが、現在その境内地には社殿は無く小さな石祠が祀られているのみである。

 
   境内東側の謎の地形
樹木の抜根跡にしては大きすぎる池跡のような窪地と微高地が所在していた。


神社などではよく見かける中段の削平地なので腰郭であるのかは不明(^^ゞ

東側丘陵続き部分を除き眺望に優れており、特に西側の阿武隈川支流谷田川方面の眺望が良好である。
 
    :境内の石祠          南側の谷津田


館屋敷(福島県郡山市)
14時40分から14時50分

西田町支所前に駐車して徒歩にて目の前の丘を徘徊したが、宅地の間に耕作地が残る平坦な丘陵の緩斜面というだけで、見事なまでにそれらしい景観が遺されていないことが確認できた。

   北側の眺望は良好

この時点で日没まで多少の時間的余裕は存在したが、低温と寒風により次第に気力と体力の低下を感じ始めていた。
この日の幕引きに相応しいエンディングでもあることから、翌日以降の予定も考慮して幾分早めの撤収を決断した。
これが、たまたま目ぼしい遺構などを目にしてしまうと、無理をして日没後まで活動してしまうような羽目に陥ることも想定されることから恰好の契機でもあった。


この日は以前は城館跡とも伝わっていた古墳公園を含めて都合10か所である。
予定では最大12か所を想定していたが、前日の天気予報では雨と雪であったことから、最悪は0か所、どうにか3か所くらいは行ければ、と踏んでいたことから考えれば上出来の部類であった。

そういえば最近は目的地探しで迷うようなことは余り無くなってきたようだ。
事前の書籍などの基礎資料などの読込に加え、近年では城巡り人気を背景に電子国土、他のウェブ地図、各種航空写真、城館関係のネット情報などがある意味過剰なまでに潤沢な時代となってきている。
管理人が本格的に城跡巡りを始めた2000年代の中頃に比すとまさに様変わりした感がある。
あれこれと試行錯誤しつつ彷徨うのも楽しみのひとつなのではあるのだが、年齢的にそうした時間の余裕は残されてはいないように感じ始めている。

季節が進み日の傾きがさらに早くなったようだ。

温暖な快晴であれば午後4時頃まで行動することも可能である。
しかし生憎と西の空には分厚い降り残しの雪雲がかかり、早くも午後3時前には黄昏時を迎えていた。

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みちのくの4日目になった。
計画では帰宅の予定日である。
来訪以前には2日程度の滞在延長も考慮していたが、どうにも気管支炎が改善しないため当初の予定通り素直に帰宅するのが大人の常識というものである。
そうはいっても帰宅に伴う高速走行は元々夜間を予定しているので、午後3時過ぎくらいまでは滞在することが可能なはずである。


  「ホテル内で待機中」
開館時間は午前9時なので、8時20分頃まで宿泊しているホテルの室内で待機することとした。
ベッドに横になるとそのまま二度寝しそうになることから、椅子に座り所在なくボーッとして朝ドラを見ていた。


◎八戸中央図書館
午前9時00分から10時30分

さて本日の予定だが、図書館は今のところ1日目の二戸市だけしか立ち寄っていない。
南部町にはいわゆる公民館図書室のようなものしか無いらしく、著作権法に照らせば法的に資料複写ができないという制約がある。
一方八戸市の中央図書館はそれなりに自治体史関係も充実しているので、まずはこちらの方にて閲覧・複写を行うこととした。
現在の南部町は旧南部町、福地村、名川村が合併しているので3か所分の閲覧・複写を行った。
なお八戸市史関係は刊行年次も新しくボリュームが大きいことからこの際なので購入することとした。


     「紅葉」
朝方の交通渋滞を考慮して早めに向かったところ早く来すぎてしまい、止む無く同じ敷地内の公園を散策していた。


 「図書館・公民館の庭園」
折から鍵の手状の築山の紅葉がなかなか良い具合であった。

 
     「佳景」

全体として資料が豊富であり、あれやこれやとついつい目移りしてしまった。
このため30分程度で退出する積りが、1時間半も費やしてしまった (^^ゞ


古館(青森県南部町、再訪)
11時00分から11時30分
「福地村史」に記載されている古館の領域を確認すべく再訪した。


たしかに虎口とも想定できるルートだが・・・耕作のための農道にも見えるのだが


この部分は確かに館の一部として考えても良さそうな地形ではあるが、厳島神社が所在する郭までの距離がいくぶん大きすぎるようにも感じる。


この画像左側部分を郭跡と見るのは、後世の開墾などにより地表の改変があるとしても如何なものだろうか。


馬渕川の船着場の拠点として、向側の平坦地までを含めるのはどうなのだろうか。
執筆者も地籍図を基にいろいろと試行錯誤を重ねて熟慮したものであると思われるが、やはりこの地域の領主層の館跡としては過分な規模であるように思われた。


森ノ越館(同上)
11時25分から11時50分


館跡の東側は道路であり、堀跡の名残のようなものは見受けられない。


集落北側には堀跡の形跡は感じられない。


   「民家裏側の段丘」


「稲荷神社」脇の崖下へと続く里道


    「稲荷神社」

 
  「崖下へと降りる里道」


   「北側の崖線部」
年月の経過がに起因しているものなのかも知れないが、やはり「青森県の中世城館」に掲載されている略図のイメージとはかなり乖離しているという印象があった。


三戸城(青森県三戸町)
12時30分から15時00分


   「中腹の城址碑」
永禄年間頃、南部晴政の代に聖寿寺館よりこの地に転じたと考えられているらしい。
その後南部氏の盛岡城への転出後においても、古城として維持され江戸時代の貞享年間頃に廃されたとも考えられている戦国期から近世の初めにかけて使用されていた城郭である。


     「解説版」


   「本丸跡石碑」


    「発掘調査中」


 故馬場のぼる氏ゆかりの地


 「江戸時代初期の三戸城」
現在の状況に合わせた遺構、史跡などの説明があると嬉しいのだがパンフレットもこれと同様のものであり見当たらなかった。

 
  「模擬櫓の資料館」


   「淡路丸」付近


  「鍛冶屋御門」の石垣
秀吉の奥羽仕置き以降、延べ3度にわたり積み直されているらしい。


   「糠部神社境内」


     「鹿園」
おりしも雄鹿が角を突き合わせている最中で、時折発するその乾いた衝突音が人気のまばらな城山公園内に響き渡っていた。


    「綱御門」
平成元年にふるさと創生事業により建てられたバブル期の観光施設に近い櫓門ではあるが、こうしてある程度年月が経過してくるとそれなりに風景になじんでくるらしい。
石垣の処理が何とも言い難い粗雑さを醸し出していたように思えた。
この城跡は「県立城山公園」として整備され、春には1600本の桜が咲き誇るそうである。


   「三戸城遠景」
三戸高校の付近から撮影したものである。

このあと町内の三戸図書館に立寄り三戸町誌を閲覧の上複写申請をした。
こじんまりとした小さな図書館であるが、金はかけずに手間をかけた資料展示の工夫にひとしきり感心。
これで二戸、八戸、南部、三戸関係の基礎的な資料はいちおう揃うこととなった。
しかしあまりに往復に要する時間がかかることから、次の遠征があるのかは自分でも分からないでいる。


日没前の午後4時頃に図書館を退出。
もと来た国道4号線へと戻りそのまま南下し、最初の日に訪れた二戸市を通過したあたりから次第に空模様が怪しくなり始めた。
一戸町に入ったあたりからは完全な降雨となり日没前にもかかわらずライトを照射し走行した。
岩手町の辺りでは日没となり国道4号線は完全に真っ暗闇に包まれた。
国道340、395号線に比べればアップダウンとカーブが少ないものの、道路照明はほぼ皆無に近く、雨も本降りとなってきた。
やはりこの辺りの走行に不慣れなものにとっては気疲れの伴う運転となった。
それでもどうにか予定通り滝沢ICから東北道に乗り、本降りの闇の中をひたすら南下。
雨は紫波SA付近でようやく小止みになり、同SAにて「かつ丼」で夕食。
途中安達太良にて給油し、その後は安定走行を続ける大型車をマークしつつ時速80kmから90kmで休憩なしの夜間走行。
このような事態を想定し前日の睡眠時間は約9時間を確保していた。
その後深夜午前1時前に無事自宅到着。
かくして帰路も夕食、給油などを含めると約9時間を要した。 

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