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遠征2日目はまず前日に廻りきれなかった米沢市東部の木和田地区に所在する山麓の城館を目指した。木和田は西方の最上川支流である天王川沿いを除き残りの三方を標高300メートル
から400メートルほどの低山に囲まれた集落であり、奈良時代の古代に遡及する須恵器窯跡が所在し、豊富な湧水をもち古くから水田開発された地域であり集落を囲むように少なくとも中世城館跡4個所の存在が確認されている。
目的地は狭い農道が多くターンがしづらいことから、木和田集落内の集会所兼消防団小屋近くに駐車させていただき全て徒歩にて探訪した。
凸木和田館 (山形県米沢市) 8時40分から9時05分
木和田集落南側に所在する通称「横山」北麓の杉林の谷間に占地した緩斜面の単郭方形館であり、東西方向に長く、現状では郭内中央部分に南側丘陵を水源とした湧水が流れていることが確認できる。
一丁四方に満たない小規模な館跡ではあるが、現在でも画像のごとく明確な土塁遺構と堀跡、小口跡がしっかりと残存している。
比較的人家も近く南側裏山の反対側には米沢市の大規模な八幡原工業団地が立地しているが、クマの出没には十分な注意が必要である。
凸馬越ノ道館 (山形県米沢市) 9時25分から9時30分
木和田館から東へ約500メートルほどの地点の山裾に位置する「への字型」の土塁跡であり南側には小さな沼が所在している。
土塁の長さは約50メートルほどで高さは1.5メートルほどを測るが、その全体構造については不明である。
凸木和田月ノ原館 (山形県米沢市) 9時50分から10時00分
上記「馬越ノ道館」から北北東に400メートルほど向かった古館山の稜線南麓に所在している。「中世城館調査報告書」によればかつての圃場整備により土塁や堀跡が破壊されていることが記されている。しかし、実際には北側の山側を除いた三方に長さ40メートル程度の土塁が辛くも現存しており、これに付随する幅4メートル程度の堀跡も東側を除いて今でも確認できる状態にある。
凸木和田田中屋敷 (山形県米沢市) 10時00分から10時05分
上記「木和田月ノ原館」からみて150メートルほど西側の山麓に所在し、両者の間には一軒の民家と「木和田古墳」「木和田窯跡」が所在している。
館名は小字である中屋敷から呼称されている。
他の3個所の遺構に比較して、薮の状態が今ひとつであるために遺構の目視に難があるが東西約70メートル、南北25メートルほどの範囲内に屋敷遺構が確認できる。
このあと小休止後には県道2号線で県境に位置する吾妻山系の白布峠を越え、明治期に発生した磐梯山の大噴火により形成された檜原湖のある福島県北塩原村方面へと移動した。
凸桧原城 (福島県北塩原村) 12時30分から12時45分頃まで
別名を小谷山城ともよばれ芦名氏方の岩山城攻略後に伊達政宗が築城したとされる山城であり、その南麓の平地には長大な外郭土塁と枡形小口等の遺構が存在している。
しかしクマ出没のシーズンにさしかかり要注意との情報が。
このため遠景と麓付近の散策との解説板などを撮影したのみにとどまった。
凸(伝)苧畑山砦 (福島県北塩原村) 12時50分頃
「うばたけやまとりで」と伝わる戸山城北東標高1128.8メートルの高所に位置する砦跡と伝わるが、戸山城との関連が不明でその所在自体も「中世城館調査報告書」と「まほろん」(福島県遺跡データベース)では異なっており、戸山城の一部をさすものなのかどうかも不明。
凸戸山城 (福島県北塩原村) 13時00分頃
芦名氏家臣である穴沢氏が伊達氏の侵攻に備えて築城した山城とされている。
凸巌山城 (福島県北塩原村) 13時05分頃
岩山城あるいは岩ノ山城ともいうらしい。
芦名氏重臣である穴沢氏が尾根続きの防御に劣るとされた戸山城より移り築城したが、伊達氏の策略と攻勢を支えきれずに落城したとされている。
凸清野六郎屋敷 (福島県北塩原村) 14時00分頃
大塩村郷土史によれば清野六郎の居館と伝わるというが、現状は柏木城来訪者のための駐車場にもなっていた。
凸柏木城 (福島県北塩原村) 14時30分から16時40分
芦名氏が檜原城を拠点にした伊達氏の侵攻に備え会津街道沿いに築城した大規模な山城で大がかりな石垣の普請を見ることができる。
大手口方面の石垣は大きく人為的な破城の跡が確認できたが、その分現況からは主郭中心部へのルートが判然としない状況となっていた。
訪れた折は幸いにして発掘直後の状態であり、城址の案内板などが整備されたばかりであった。
なお主郭東側の郭付近にてカモシカ一頭に出会った。
凸赤城館山 (福島県北塩原村) 16時45分頃
柏木城から国道459号線を西に約1キロメートルほど進んだ大塩川右岸の岩山上に所在するという。現地標柱によれば綱取城(要害山)に対して「向エノ要害山」ともいうようである。
国道沿いに北塩原村郷土史会が設置された標柱があるが、東側の大谷川方面から迂回する北側からのルート(比高差約60メートル)があるのかも知れないが、国道からの比高差は120メートルのとりつく島も無い完全な絶壁であった。
このあとの行動予定を考慮し遠景のみの撮影となった。
凸綱取城 (福島県北塩原村) 17時00分頃
別名を要害山ともいう芦名氏重臣である松本勘解由の居城とされているが、平時の居館は別途小学校近くの国道反対側に下記のように綱取居館跡という標柱が設置されていた。
日没までの時間の制約から、ここも説明版などの撮影のみとなった。
凸上ノ台館 (福島県北塩原村) 17時07分頃
国道のすぐ東側に所在している上記の綱取居館跡との違いなどの詳細は不明。
凸赤館 (福島県北塩原村) 17時10分から17時15分頃
「新編会津風土記」によれば、綱取城主松本勘解由の家臣である中ノ目阿賀が居住したとされている。
山林の中何らかの遺構があるような無いような。
凸新井館 (福島県北塩原村) 17時25分から17時30分頃
「新編会津風土記」によれば、松本勘解由の家臣である新井氏が居住していたと伝わる。
地元の農協倉庫の先の方にある畑が該当地であるらしく、道路脇にお馴染みの郷土史研究会による標柱が遺されていた。
休耕中のビニールハウス内にヒメオドリコソウの陰に隠れて可愛いネコさんが耳だけを出して隠れていた。
凸一盃館 (福島県北塩原村) 17時45分頃
「新編会津風土記」によれば、松本勘解由の家臣である一盃大輔が居住したとされている。
大分以前に地元郷土史研究会が設置した幾分傾きかけた標柱が耕地整理された畑の脇に遺されていたが、初めて訪れるものにとっては誠にありがたい存在なのであった。
早朝の午前5時当方自宅にて史進殿と集合。
この季節になるとすでにあたりは夜明け前。
予定通りに国道16号線から県道3号線を経由し、久喜インターより東北道を北上し一路米沢市を目指した。
途中2度の休憩を挟んだものの約5時間半で山形県米沢市内に到着した。
小生は山形県は2009年5月に続いて2度目で、当時米沢市内は「天地人」の混雑を避けるべく通過したのみなので殆ど初めての地であった。
凸館山城 (山形県米沢市) 10時40分から12時00分
城域は大きく分けて土塁と空堀(堀切)により東西方向3ブロックに分かれている。
数年にわたる主郭部の発掘作業により残存する土塁には石積が大量に包含されていることが判明したところである。
現地解説板などによれば関ヶ原合戦前の上杉氏による改修の可能性を示唆している。
主郭を中央部と見るか東郭と見るかで見解が分かれているらしいが、これほど大規模な石積内枡形の配置を見る限りでは東郭を主郭として考えるべきなのだろうか。
北側斜面に刻まれた横堀遺構、西の郭と中央の郭を分かつ高さ最大6メートルの土塁の存在も見事である。
訪城時点では発掘に伴い除けられた川原石が放置されたままであったが、今後は過度に公園化整備されることなく、適正な史跡としての保存活用が為されることが望まれる。
郭内には折しもカタクリ、イチリンソウ、ショウジョウバカマなど春の野草が開花しはじめていたので、いささか足の踏み場に難渋することとなったが、これらの野生植物の保護を含めた城址整備保存計画等がすすむことを望みたい。
帰り際には東の郭におかれたやや傾きかけ錆び付いた古いサイレンが正午の時報を報じ、南側の水力発電所に付属している階段から退城させていただいた。
凸館山平城 (同上) 12時25分から12時55分
「中世城館調査報告書」によれば、館山城と一帯をなす平地の居館と考えられている。
報告書の調査が行われた20年前には南北方向に通称「並松土手」と呼ばれる高さ4メートルの土塁が若干残存しているとの記述があった。
しかし該当地を歩いてみた限りではすでにその形跡は消失しており、僅かに土塁東側に付属していたと見られる堀跡状の窪みが確認されたのみであった。
凸成島館 (同上) 13時20分から13時55分
成島八幡神社が所在する比高30メートルほどの南へと延びた台地先端部に所在している。
北側台地続きには明瞭な二重の空堀が配され、西側に折れた付近では現状では水堀となっている。
また西側小口枡形付近では湿地帯を含む一部3重堀からなる防御構造を確認できる。
しかし、北側台地続きは公園化により大きく地形改変されていることから、この方面における地形上の弱点をさらに補強するような痕跡を確認することはできない。
同神社の棟札からは戦国末期伊達氏等のものが確認されているという。
凸三月在家屋敷 (同上) 14時10分から14時20分
最上川支流の鬼面川西岸、成島館の北方に所在する平地の城館跡で、この付近には他に正月在家から十二月在家までの暦を示す旧地名が残っているという。
北側と西側の土塁はしっかりと現存していたが、以前には存在していたという寺と民家の間の西側土塁に続く南側の土塁部分については概ね消失していた。
西側どるいには付随する空堀跡が明確に残存していた。
伊達氏時代の地侍階層の居館跡なのだろうか。
このあとは米沢市内東側へと移動した。
凸羽黒神社館 (同上) 14時50分から15時00分
周辺は羽黒川と天王川に挟まれた南北に長い平坦地であり、比高差約15メートルほどの東西方向に伸びた楕円形の独立した小丘陵に占地し羽黒神社の社殿が現存している。
遺構は主郭の他に複数の腰郭と帯郭を北側斜面に確認できるが、残る三方向の斜面は傾斜がきつく特に南側斜面においては這い上がることが難しい状態であった。
凸川井館 (同上) 遠景撮影のみ
北東部は土砂の採掘により消失しており当該遺構の残存具合と約50メートルという比高差を考慮して現地踏査を省略した。
茂庭氏(鬼庭氏)に関連する館ともいわれているとのことである。
凸上谷地館 (同上) 15時10分から15時15分
県道235号線の東側に隣接した方100メートルの耕作地。
北辺の用水路付近には堀跡の名残が見られなくもない。
南東部の角部分には土塁状の痕跡がある様にも見える。
別名を安倍館ともいう。
凸前田屋敷 (同上) 15時40分から15時45分
晩年の慶次が暮らしたと伝わる屋敷跡で、現在は民家の敷地となっている。
南西角付近に土塁と堀跡状の窪みを確認することができる。
凸太郎兵衛屋敷 (同上) 15時45分から15時50分
慶次縁の屋敷跡とつたわる。
文字通りの屋敷跡であり現況は耕作地となっている。
●慶次の湧水 (同上) 15時55分から16時00分
前田慶次の屋敷が使用したと伝わる湧水で、現在でもその水量は極めて豊富であった。
凸堂ノ森館 (同上) 16時05分から17時20分
堂ノ森山の南東尾根筋下部に堀切、平場、複数の帯郭状の地形を有することになっている。
しかし4月下旬とはいえ薮が酷く足下も不良。
ここで小生は此の地にて些か熱中症気味となって暫しの間休息を。
この日の気温は摂氏28度以上だったかと。
凸我妻館 (同上) 17時25分から17時30分
水分補給を行い、気を取り直して近くの平地の城館跡の探訪を再開。
この20年ほどの間に南側を中心に残存していたとされる土塁、堀跡遺構ともに宅地化に伴い完全消失。
堂ノ森館の居館とも推定されているが。
凸原田館 (同上) 17時30分から17時50分
伊達騒動で有名な原田甲斐の居館とも伝わるが詳細不明。
二重方形館としての遺構が杉林のなかにひっそりと残存している。
思えば翌日「クマ」事件のあった木和田館から見ると低い尾根筋を挟んで僅か1キロメートルの至近距離なのであった。
先週、赤松氏の発祥の地とされる兵庫県の上郡町史第3巻資料編(1999年刊行)を入手した。
これで上郡町に所在する中世城館を中心に赤松氏に関する最低限の関係資料は揃った。
しかし探訪に際しての問題として、上郡、佐用町方面には利便性と低価格を兼ね備えた適当な宿泊施設が見当たらないという根本的な懸案を抱えている。
むろん車中泊という手も無くは無いが、探訪時期を考慮すれば晩秋から早春が相応しく、冷静に考えるともはや年齢的に厳しくなってきていることは否めないことも事実である。
また、探訪にあたっての交通機関の問題もある。
かりに自家用車で出向くとしても、体力的に一日で兵庫県まで走り抜くのは厳しい。
またカーナビを使用するとしても、全く土地勘も無いことから得策とはいえず。
かといって新幹線を利用すると事実上最寄りの停車駅が無い。
そうはいっても関係書籍を読み進むにつれて、日々マーキングの数ばかりが増える県別マップル兵庫県。
また電子国土から印刷した地形図も揃い、西播磨の中世城館に既視感さえ感じ始めた今日この頃・・・ではある。
さて、どうしたものだろうか。