本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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早朝の午前5時当方自宅にて史進殿と集合。
この季節になるとすでにあたりは夜明け前。
予定通りに国道16号線から県道3号線を経由し、久喜インターより東北道を北上し一路米沢市を目指した。
途中2度の休憩を挟んだものの約5時間半で山形県米沢市内に到着した。
小生は山形県は2009年5月に続いて2度目で、当時米沢市内は「天地人」の混雑を避けるべく通過したのみなので殆ど初めての地であった。

館山城 (山形県米沢市) 10時40分から12時00分
城域は大きく分けて土塁と空堀(堀切)により東西方向3ブロックに分かれている。
数年にわたる主郭部の発掘作業により残存する土塁には石積が大量に包含されていることが判明したところである。
現地解説板などによれば関ヶ原合戦前の上杉氏による改修の可能性を示唆している。
主郭を中央部と見るか東郭と見るかで見解が分かれているらしいが、これほど大規模な石積内枡形の配置を見る限りでは東郭を主郭として考えるべきなのだろうか。
北側斜面に刻まれた横堀遺構、西の郭と中央の郭を分かつ高さ最大6メートルの土塁の存在も見事である。

訪城時点では発掘に伴い除けられた川原石が放置されたままであったが、今後は過度に公園化整備されることなく、適正な史跡としての保存活用が為されることが望まれる。
郭内には折しもカタクリ、イチリンソウ、ショウジョウバカマなど春の野草が開花しはじめていたので、いささか足の踏み場に難渋することとなったが、これらの野生植物の保護を含めた城址整備保存計画等がすすむことを望みたい。
帰り際には東の郭におかれたやや傾きかけ錆び付いた古いサイレンが正午の時報を報じ、南側の水力発電所に付属している階段から退城させていただいた。

館山平城 (同上) 12時25分から12時55分
「中世城館調査報告書」によれば、館山城と一帯をなす平地の居館と考えられている。
報告書の調査が行われた20年前には南北方向に通称「並松土手」と呼ばれる高さ4メートルの土塁が若干残存しているとの記述があった。
しかし該当地を歩いてみた限りではすでにその形跡は消失しており、僅かに土塁東側に付属していたと見られる堀跡状の窪みが確認されたのみであった。

成島館 (同上) 13時20分から13時55分
成島八幡神社が所在する比高30メートルほどの南へと延びた台地先端部に所在している。
北側台地続きには明瞭な二重の空堀が配され、西側に折れた付近では現状では水堀となっている。
また西側小口枡形付近では湿地帯を含む一部3重堀からなる防御構造を確認できる。
しかし、北側台地続きは公園化により大きく地形改変されていることから、この方面における地形上の弱点をさらに補強するような痕跡を確認することはできない。
同神社の棟札からは戦国末期伊達氏等のものが確認されているという。

三月在家屋敷 (同上) 14時10分から14時20分
最上川支流の鬼面川西岸、成島館の北方に所在する平地の城館跡で、この付近には他に正月在家から十二月在家までの暦を示す旧地名が残っているという。
北側と西側の土塁はしっかりと現存していたが、以前には存在していたという寺と民家の間の西側土塁に続く南側の土塁部分については概ね消失していた。
西側どるいには付随する空堀跡が明確に残存していた。
伊達氏時代の地侍階層の居館跡なのだろうか。
このあとは米沢市内東側へと移動した。

羽黒神社館 (同上) 14時50分から15時00分
周辺は羽黒川と天王川に挟まれた南北に長い平坦地であり、比高差約15メートルほどの東西方向に伸びた楕円形の独立した小丘陵に占地し羽黒神社の社殿が現存している。
遺構は主郭の他に複数の腰郭と帯郭を北側斜面に確認できるが、残る三方向の斜面は傾斜がきつく特に南側斜面においては這い上がることが難しい状態であった。




川井館 (同上) 遠景撮影のみ
北東部は土砂の採掘により消失しており当該遺構の残存具合と約50メートルという比高差を考慮して現地踏査を省略した。
茂庭氏(鬼庭氏)に関連する館ともいわれているとのことである。




上谷地館 (同上) 15時10分から15時15分
県道235号線の東側に隣接した方100メートルの耕作地。
北辺の用水路付近には堀跡の名残が見られなくもない。
南東部の角部分には土塁状の痕跡がある様にも見える。
別名を安倍館ともいう。

 

前田屋敷 (同上) 15時40分から15時45分
晩年の慶次が暮らしたと伝わる屋敷跡で、現在は民家の敷地となっている。
南西角付近に土塁と堀跡状の窪みを確認することができる。




太郎兵衛屋敷 (同上) 15時45分から15時50分
慶次縁の屋敷跡とつたわる。
文字通りの屋敷跡であり現況は耕作地となっている。

 


●慶次の湧水 (同上) 15時55分から16時00分
前田慶次の屋敷が使用したと伝わる湧水で、現在でもその水量は極めて豊富であった。

堂ノ森館 (同上) 16時05分から17時20分
堂ノ森山の南東尾根筋下部に堀切、平場、複数の帯郭状の地形を有することになっている。
しかし4月下旬とはいえ薮が酷く足下も不良。
ここで小生は此の地にて些か熱中症気味となって暫しの間休息を。
この日の気温は摂氏28度以上だったかと。


我妻館 (同上) 17時25分から17時30分
水分補給を行い、気を取り直して近くの平地の城館跡の探訪を再開。
この20年ほどの間に南側を中心に残存していたとされる土塁、堀跡遺構ともに宅地化に伴い完全消失。
堂ノ森館の居館とも推定されているが。


原田館 (同上) 17時30分から17時50分
伊達騒動で有名な原田甲斐の居館とも伝わるが詳細不明。
二重方形館としての遺構が杉林のなかにひっそりと残存している。
思えば翌日「クマ」事件のあった木和田館から見ると低い尾根筋を挟んで僅か1キロメートルの至近距離なのであった。

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お疲れ様です
私もようやく風邪がなおりました^^
米沢では今後の研究の役に立ちそうな事例を見ることができました

史料第1弾ですがさきほどメールで送りました
原本を所有していますがコチラのほうが読みやすいので^^

原田甲斐さんは原田氏の血筋ではなく親が桑折氏の出で養子に入った人なので原田館とは関連はないでしょうね
ししん 2015/05/05(Tue)06:26:18 編集
Re:お疲れ様です
おはようございます。

一週間足止めさせてしまいましたか。
重ね重ね面目もございませぬ。

関係資料ありがとうございました。
なお以前にもご覧いただいたかも知れませんが、
小林氏の著作「伊達政宗の研究」(2008年/吉川弘文館)は
所蔵しておりますのでご参考までに。
【2015/05/05 07:00】