本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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今回も都内へですが、前回と同様に遺構には余り縁のなさそうな中野区です。
都内の移動手段の常道として、当然地下鉄と徒歩での移動。
今回は乗り入れしている副都心線で新宿3丁目駅で乗り換え、地下鉄丸の内で中野坂上駅を目指しました。
当所は有楽町線から大江戸線に乗り換えるか、JR経由で大江戸線に乗り換えるか思案していましたが、むしろこのルートの方が移動時間も乗車から1時間足らずでしかも電車賃も格安であることが分かりました。
有楽町線、副都心線、丸の内線あたりは普段でもよく利用しますが、先月は三田線、今月は南北線に初めて乗車し、大分前にも大江戸線にも乗車したことから、満66歳にしてたぶん都内地下鉄13路線制覇(但し一区間乗車を含む)なのかも知れません。
 

 
 
中野長者屋敷(東京都中野区)
午前10時20分から午前10時45分

中野長者とも呼ばれたともいう鈴木九郎を開基とする成願寺境内付近がその屋敷跡と伝わります。
神田川北側の緩斜面に所在していますが、地表上からは城館遺構に繋がるような地形的特徴を確認することはできませんが、開基である中野長者に関する石柱、墓石などが所在しています。
 
      成願寺

南麓の神田川に架かる橋の名称は「長者橋」とされ、中野長者の言い伝えが継承されています。
 

また、付属墓地には蓮池藩鍋家(鍋島藩の分家、禄高5万石)の墓所もありました。
 

 
◎象小屋跡
「朝日が丘公園」の辺りが、江戸時代に輸入献上された「アジア象」(たぶん)の飼育場が所在していたとされている場所です。
たまたま案内板が設置されている場所に、公園管理の作業車が駐車していたため案内板の撮影はできませんでした。
 
   「朝日が丘公園」

このあとは、少なくとも明治初期頃までには遡及できると考えられる「下町」沿いの旧道に沿って宝仙寺方面まで移動。


◎中野町役場跡
真言宗豊山派明王山宝仙寺の境内にかつて中野町の役場が置かれていたようです。
通りがかりにたまたま立ち寄ってみました。

    旧中野町役場跡


◎たぶん宅地造成にともなう「築山」
「中野住宅」という集合住宅の敷地内です。
今回もまた目ぼしい遺構が見当たらないことから、このように人工的な地面の盛り上がりが目に入るとついつい条件反射のように撮影する習性が出てしまいます。



◎ヤマサ醤油倉庫跡
宝仙寺近くの沿道に古い煉瓦製の外壁が一部残されておりました。
これもたまたまです。



◎堀越高校
かの有名な「堀越高校」です。
これもたまたまです。
かつては河岸段丘であったと思われる地形の一部に小さな都市公園があったので地形確認のため立ち寄りました。

     河岸段丘

するとその帰りがけに学校の校庭があったので、何気なく俯瞰した画像を撮影しておりました。

    堀越学園方面


◎桃園川跡
次項の「城山」の南麓を東流しこの一帯を潤していた神田川支流である小河川跡(桃園川緑道)です。
 
     桃園川緑道


城山(東京都中野区)
午前11時40分から12時10分

象小屋からあちこち道草をしながら約1.2kmほどの道のりを約1時間ほど費やして「谷戸運動公園」に到着しました。

    城山の案内板

明治期に作成された迅速図などを参照しますと、戦後間もないころまではこの場所の南側を中心として土塁跡が確認できた模様です。
むろん、現在ではそうした痕跡は殆ど見出すことはできませんでした。
戦国時代末期に後北条氏の小代官を務めたとされる堀江氏一族の城館であったと考えられているようです。

  付近の城山通り標識など


◎城山公園(旧農事試験場跡)
12時15分から12時20分
現在の「もみじ山文化センター」(なかのZERO、中央図書館)が所在する丘陵麓に所在し、南側の「城山」からは直線距離で約100m前後という至近距離になります。

 もみじ山公園へ向かう坂道

旧農事試験場跡にもなります。



◎なかのZERO(中野区立中央図書館)
12時30分から13時30分

城山公園との比高差は数メートルを測る高台に所在しています。

 展示されているC11型SL


宅地開発が進む以前の戦後間もない時期までは現在の中野駅方面から東側に伸びた丘陵の先端部分に相当する見晴らしの良い地形であったことが偲ばれます。
現在でも南側に隣接した「もみじ山公園」付近に、公園化によるある程度の地形改変などは想定されるものの往時の様子を偲ぶ景観が残されているように感じられます。

    もみじ山公園

複合施設でもある中央図書館に立寄り関連資料の閲覧/複写をしつつ休憩を摂りましたが、このことが後に明暗を分けたことになります。

城山方面から徒歩にてそのまま東へ移動し大江戸線東中野駅を目指しました。
この道は「城山本通り」と名付けられた東中野駅までの最短ルートなのですが、その割には住宅内の路地に近く一方通行の個所もあり道路幅員も狭隘でした。
徒歩の場合には車での移動と異なり、たしかに移動の所要時間や足の疲労などに対する考慮から赴くことのできる件数は減少しますが、その一方では地表の凹凸や坂の有無などの微妙な地形の変化が肌で感じられることから市街地での城館跡探訪には相応しい移動手段です。
この時も城山の東約150m付近には元々は南側から北側にかけて谷津が入り込んでいた地形が存在していたことが理解できました。
現在の大久保通に沿った丘陵緩斜面の麓に所在している「城山」という存在も、西側の「もみじ山公園」付近に残されている崖線地形とあわせて、自然の湧水を占有できるという有利な立地条件であったことなどが少しだけですが分かったような気がします。



和田山(東京都中野区)
14時30分から15時05分

和田義盛の館跡とも伝わりますがあまりあてにはならないようです。
一般には「哲学堂公園」としての名称が有名です。

   哲学堂公園の石碑

井上円了氏は母校の創始者ですが、この地を訪れたのは今回が初めてでした。
南麓を流れる神田川支流の妙正寺川北側の丘陵で麓との比高差は約10mほどを測ります。

    南側崖線地形

むろん哲学堂の設置にともなう地形改変も加わっていることが予想され、南側の崖線地形以外にはこれといったものは見当たりません。

     南麓の公園




今回訪れた中野区はほぼ新宿区に近い東部であり、いつの間にか知らないうちに新宿区内に入っていたことを後から気が付いたような有様でした。
帰路は再び落合南長崎駅に戻り、元々は地下鉄大江戸線で練馬春日町まで行き、そこから環八通りをあるいて有楽町線平和台へと向かうというような予定でした。

しかし、大江戸線の車内で路線図をしげしげと眺めていたところ、「練馬駅」から乗換で「小竹向原」経由で有楽町線に接続していることに気が付きました。
元をただせばいちおうは都民でしたが、何分にもそれは半世紀以上前のことなので、都電には大層お世話になっていたものの、当時は地下鉄といえば「丸の内線」ぐらいしか知らないという埼玉県民の悲しさでもあります。
こうすれば、約2kmの道を歩かずに済むので、右手の拳をそっと握り軽くガッツボースを。

記憶ではたぶん初めての練馬駅のでの慣れない乗換えに、案内表示を確認しつつキョロキョロしながら先を急いでいると、やにわに目に飛び込んできた「電光案内板」(今でもこう云うのだろうか?)の「東上線人身事故発生による地下鉄有楽町線直通運転中止のお知らせ」の文字。

この時点では、事故と東上線運転状況や運転回復見込みなどの詳細は全く不明。
したがって代替案としては、とりあえず「池袋へ戻り本川越駅あるいは所沢駅まで行く」、「武蔵野線に乗れれば川越駅まで行く」ことがなど考えられました。
しかし、いずれにしても事故と運転状況の詳細が分からないことには致し方がないことから、小竹向原から和光市止まりの有楽町線に乗車し和光市駅へ移動し、ようやく事故の詳細と運転状況が判明(あ、年寄なのでスマホ無いです)

今回は、たぶん今月3度目くらいの人身事故により、結果的に東上線が2時間以上運行停止。
志木駅で満員の乗客を乗せたまま運転待機していた下り線の運行が再開されたのは、再開予定時刻を40分ほど経過した午後5時10分過ぎでした。
この間、地下鉄有楽町線と接続している和光市駅やその先の折返し運転をしている志木駅では午後3時から4時という時刻であるにも拘らず、ホームには乗客が溢れかえるという混雑ぶりで皆さん先行きの見えないことからくる焦りと疲労が蔓延していました。
なお、事故の発生した踏切は昔からよく知っている踏切で、「魔の踏切」ともいうべき人身事故の多発地点なのでありました。
なお、この日歩いた歩数は約2万1600歩ほどに過ぎませんでしたが、疲労感は確実に倍加されておりました。

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災難でした
こんばんは
城山はうろ覚えなのですが、仕事中に発掘現場を見た記憶があります。
かなり深く掘っていたと記憶しており堀跡
だったのかなと思っています(昔の事なので記憶違いかもしれませんが)
帰りの東上線災難でした。
今は他線からの乗り入れが多く、ダイヤの復旧も余計に時間がかかるのかも知れませんね。
中野への出陣おつかれさまでした。
みかづきぼり 2017/06/17(Sat)20:37:49 編集
Re:災難でした
こんばんは。

手持ちの資料によりますと、発掘調査は1991年と2003年の2度にわたり実施され土塁、堀跡、障子堀、井戸、柵列などが検出されているようです。
調査報告書からは北側に張り出し部分を有する複郭である可能性が想定されますが、その1.2mほど下層に15世紀前半のものと推定される小規模な居館と思われる遺構も確認されたことが記されていました。

コメントありがとうございました。
【2017/06/17 21:17】