本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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朝一でJR大坂駅前のホテルから地下鉄谷町線にて娘のアパートへ。
大分急いで片付けたようですが、相変わらず部屋は散らかっておりました。
ワンルームなので居場所もなく、3人で予定通り天神橋の博物館へ。
しかし火曜日は生憎の休館日。
そういった予定は家内に一任。
当方はもとより城館関係しか念頭になく、如何に長く単独行動できるかで頭が一杯。
このため予定変更して少しばかり天神橋の商店街を散策。
この早い時間から開店している店も少なくタクシーで大坂城へ移動。

大坂城(大阪市中央区)午前10時より午後3時15分

西側の大手口より入城。
ここで如何に上手く立ちまわれるかが本日のポイント。
娘も既に社会人なので父親に写真を写されて喜ぶ年齢ではなく。
さりとてあからさまに別行動をとるのも大人げなく。
何よりも家内のご機嫌も損ねては今後に支障が(冷汗)

結局は目立たぬように家内たちから遅れて行く心理作戦を敢行。
これがものの見事に成功し、少なくとも夕刻まで別行動できる結果に。
近世末期の建築物とはいえ重要文化財に指定されている建造物を逐一確認し、城内から登れる個所はできるだけ時間をかけて観察。
時間の関係で予め再建天守内には基本的に入らない方針を樹立。
大手門、六番矢倉、太鼓櫓跡石山本願寺跡推定地、豊国神社、ごく最近建立された秀吉の銅像、一番櫓、千貫櫓、焔硝蔵、金蔵、山里曲輪、淀君などの墓所、淀君・秀頼自刃の石碑、秀吉時代の凡その天守台推定地などを回ったのち極楽橋を渡り蓮如の石碑へと移動。

そのあとは京橋口から天守方向を撮影しつつ、ついでに夜景の撮影ポイントも確認。
西の丸は閉園するので、京橋口方面が良さそうなことが判明。
気がついてみれば飲まず食わずきで5時間以上が経過。
かくして日中の大半を大坂城内で過ごす結果に。
とはいえ所期の目的が達成され足まわりの疲労を別にすれば充実した時間。
お馴染の土塁と空堀の城館とは異なり、近世城郭もまた別の味わいが。

大坂城再建天守
大坂城再建天守
2007/111/20 撮影

一方些か気になることもないではなく。
代表的な観光地とは思えない山里曲輪付近の工事方法。
東側石垣からの排水と天守南西の巨大な配管設備。
石垣内側の石段全体に歪みが目立つこと。
派手好きの娘曰く「コテコテの天守外壁の装飾」など
これらを一切ひっくるめて、これが大阪の文化と納得するような印象もあるような。

桜の岸砦(ろうのききしとりで 大阪市中央区)午後3時35分から3時45分

石山合戦の舞台となった砦跡のひとつらしい。
うーむ、余りにも資料不足の感が。
復路の土佐堀通り沿いには、かつての船着場、魚河岸等の所在を明らかにした文化財石柱が設置。
かつてこの辺りが大阪湾の沿岸部であったことが偲ばれたのであります。
永田屋昆布本店前に置かれた「八軒屋の今昔」という貴重なパンフレット(24頁オールカラー、非売品)を拝領。
大坂城が上町台地の北端に所在するという事実確認とともに、自分の足で歩くことの大切さを改めて実感した次第。

桜の岸砦跡の比定地
桜の岸砦比定地
2007/11/20 撮影


玉造稲荷神社(同)午後4時35分から4時40分
「豊臣秀頼ゆかりの神社」らしいとしか手持ちの資料では分かっていないのでありました。
実際に訪れてみると思いのほか大きな神社で神職の方もお住まいの模様。
すでに夕闇に包まれ始めた境内には、ライトアップされ七五三参詣の旗指物(商品名「桃太郎旗」とも)がはためく賑やかさ。
秀頼寄進の鳥居、千利休に因んだ石碑なども所在し豊臣家との関わりの深さが窺われたのであります。

玉造稲荷神社
玉造稲荷神社
2007/11/20 撮影


真田丸出城(同) 午後4場55分から5時15分
三光神社近くの公園には「真田幸村の銅像」と「大坂城から通じる抜け穴」が所在。
有名な真田信繁(幸村)が活躍した大坂城の出城の推定所在地ということですが、真田山小学校が当地に所在することと「○○真田山」との名称のマンションがやたらに多いことを除けば真田勢の活躍した舞台とは思えず。
それでも今も空堀町や長堀通(但し近世の運河跡ですが)の地名がのこる。
推定地には幾つかの候補地があるようで「明星学園付近」「宰相山」(別名を真田山?とも)などが有力な候補地とされている模様。
しかし仮に3千もの将兵が守りを固めていたとすれば、少なくとも1万坪以上の広さを要求されることから、宰相山公園を中心に明星学園から真田山小学校を含むかなり広範囲な地域が想定されるものと考えられます。さて、夕闇の中を強引に彷徨していたものの、西側に厚い雲が生じていたために午後4時過ぎには早くも夕闇が迫り辺りは日没も同然の薄暗さ。
街灯が点灯し次第に闇に包まれ始めた宰相山墓地を徘徊する怪しい人物に。
画像は場所が場所だけに心霊写真のようなものばかりにて。

真田幸村銅像と抜け穴
真田幸村銅像と抜け穴
2007/11/20 撮影

いずれにせよ真田丸出城については翌日あらためて再訪することを深く胸に刻んで。しかし、よく考えてみると移動時間含めて正味4時間程度で4ヶ所も回りきれるのかという素朴な疑問が浮上

さて、こうなったら大坂城の夜景を撮影せねばと北風の中を再び京橋口から入場(爆)
レントゲンのように息を止めての夜間撮影を繰り返した後、そのまま徒歩にてJR大阪駅まで行軍。

大坂城の夜景
大坂城の夜景(京橋口方面より)
2007/11/20 撮影

かくして本日の歩行距離は累計で約18kmに達し、運動不足の我が足はものの見事に足のマメがつぶれたのであります。
さて、ホテルへ戻り就寝前に1時間以上かけて移動ルートと交通手段の綿密なプランを検討。
始めにJR環状線にて玉造駅で下車し玉造町周辺一筆書きの要領にて最短距離で巡回⇒その後は再び玉造駅から2つ先の桃谷駅へ電車で移動して徒歩20分の距離に所在する御勝山(岡山砦)へ⇒生野市役所で関係資料を漁りタクシーで天王寺方面へ移動し茶臼山へ(約2キロ近い距離があるので、マメがつぶれた足を以ってしては時間の浪費となることは最早自明の理)⇒そのあとは再び徒歩にて天王寺砦の推定地へと赴いて、市営地下鉄谷町線で東梅田へと戻る。
このルートの合計所要推定時間は約4時間なので、新大阪駅からの新幹線乗車時間との整合性などを考慮して午前8時30分にはホテルを出発することに決定。

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