本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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この日も午前5時頃に自宅を出発し国道254線から国道407号線を経由して国道17号バイパスから深谷バイパスを走行。
そのあと上武道路の渋滞を避けるべく、新上武大橋で利根川を渡河するというルートを選択。
と、ここまでは渋滞を避け順調に進みましたが、世良田交差点近くで発生した交通事故による片側交互通行規制に巻き込まれ、上武道路の途中で飯土井交差点では右折車両の渋滞に遭遇。
飯土井交差点の早朝右折渋滞は過去に十分に体験済みであったことをこの時完全に忘失。
つい2年ほど前のことであるにも拘らず、もはや体験を生かすことができないという加齢症状に我ながら呆れるという始末なのでありました。
そんなこんなで約20分遅れ現地到着と相成りました。
あまり勝手の分からない地域での朝方7時半頃から8時半頃にかけての通勤時間帯というのは、一般に事故発生の蓋然性が高いこともあり、今回も交通の激しくなさそうな2か所ほどの古墳巡りを設定して危険要素を回避に努めております。


■おとうか山古墳/おとうかやまこふん/群馬県前橋市富田町
午前7時30分から7時55分

県道40号線沿いに所在する三柱神社の境内に参拝がてら駐車させていただきました。
明治初期に合祀が行われたことから三柱神社へと改称されたとのことです。
地元の地名、大字名などを冠した社名もそうである場合が多いのですが、明治から大正期にかけて全国的な神社合祀政策が当時の政府の手により取り行われたとされております。
かつて南方熊楠が指摘していたように、この結果として移転、廃社となってしまった神社の由緒/建立の経緯などが、曖昧/不明確となってしまっている場合も少なくないように感じられ、いつもながら残念であるように思えてなりません。
なお早朝の時間帯でもあることからなのか、駐車および参詣者皆無でありました。
別名を丸山古墳ともいわれている円墳で、「上毛古墳総覧」によりますと旧荒砥村344号古墳として登録されてはいますが、特に文化財などの指定は受けてはいない模様です。
同総覧によりますとその規模などについては直径23から26メートル、高さ2.5メートルの規模で幅約3メートルの周堀を備えるとされております。


南側からの全景で人が入り込むためのルートが見出せませんでしたが、この南側の中ほどに地元である「荒砥史談会」の皆様が設置された「史跡標柱」がありました。

とはいうものの、11月上旬という時期でもあるのかも知れませんが、古墳自体は一面の藪に覆われており、その存在自体については分かるものの形状、高さなどの詳細を窺い知ることは叶いませんでした。
また主に西側部分については耕作などによるものか削平を受けているような印象もありました。
意を決して体中が一面「引っ付き虫」だらけなるという覚悟さえすれば、詳しく観察することが可能なのかもしれませんが、樹木が叢生しており登り口見出すことさえも到底できませんでした。


両方ともにおそらく如意輪観音像が彫られていると思われる石仏で、左側の物には寛政の元号が刻まれていることが認められました。
たぶんこの辺りの地域で耕地整理等が行われた際に散在していた野仏や古い墓石などを纏めて移設したもののように思われます。

なお、「おとうか山」の名称につきましては、一般によく有りがちな「お稲荷山」の音読みからよるものと考えられます。


■堀越古墳/ほりこしこふん/群馬県前橋市堀越町
午前8時30分から8時50分

古墳近くのコンビニにて肉まん2個を含む食料を調達し、そのまま車内にて朝食を摂取してから徒歩にてアプローチ。
県道34号線のセブンイレブンから見て、反対側の南側から古墳へ至る細い道が続いています。
なお駐車スペースは皆無ですので車で直接訪れることはできません。
1973年に群馬県の指定史跡となっている円墳で、石室の見学も可能となっておりこちらの古墳はよく整備が為され藪に阻まれるということはありませんでした。
古墳自体末期の7世紀後半の築造と推定され、直径約25メートル、高さ約3メートルほどの円墳です。


南側から撮影しています

現在は住宅地に囲まれてはいますが、元々赤城山中腹にのびている丘陵上に所在していることから極めて眺望に優れた環境であることが分かります。
特に石室内に入ることも規制はされてはいない様子でしたが、幾分か石室の石の緩みが感じられることもあり石室開口部からのみの見学とさせていただきました。


撮影した時刻は午前9時前でしたので、ほぼ石室内は真っ暗なのでありました。
よってこの時は携帯用のペンライトを左手にかざしつつ、右手のみでデジカメを構え撮影しております。

なお北側の路地に面した部分については、当該路地の拡幅などにより後世の改変が加わっているという印象がありました。


勝山城/かつやまじょう/群馬県前橋市堀越町
午前9時10分から9時35分

そういつまでも駐車させていただくわけにもいきませんので、朝食を摂取したコンビニから足軽町公民館へと車で移動。
実際のところ、この方が目的地まで700メートルほどてすが歩行距離の短縮になるのであります。
公民館の傍らには、些かこじんまりとした神明宮の社が所在していることから地元の神々に敬意を表すべく参拝。


神明宮の社と合祀されたと思われる小祠群

近年は氏子の減少などにより参詣される方も少なくなってしまったのでしょうか、何処となくもの悲しさを感じる光景なのでありました。


神社裏に祀られていた如意輪観音座像(右)と薬師如来立像(左)と思しき石仏ですが、朝方の暖かな太陽光を受けて誠に和やかさの漂う心洗われる景観となっておりました。


足軽公民館前のバス停のような標識

因みに足軽町という名称は近世に一時牧野氏が治めた「大胡城」という経緯に関係した字名なのでしょうか、この辺りは別途文献調査等が必要であるように思われます。
※手持ちの参考資料「角川日本地名大辞典10群馬県」によれば、茂木町(もとぎまち)の一部に牧野氏時代の武家地がおかれていた旨の記述が確認できる。

公民館から勝山城までは徒歩で300メートルほどの距離です。
現在の城跡は上毛電鉄の軌道により南北に分断され、北側の大半は宅地化されております。
従って、「群馬県の中世城館跡」(1988年刊行)においてもすでに消滅したとされているように、もはや現状の地形からそうした痕跡を辿ることは極めて厳しいように感じました。
敢えてそうした形跡を辿れそうな景観が残存しているとすれば、集落北側の公道及び北東隅付近の印象くらいのものということになるのでありましょうか。


集落北側の公道付近です



南側からの城跡の遠景です

このあとは、そのまま徒歩にて大正用水近くに所在している今城方面へと移動しました。


今城/いまじょう/群馬県前橋市堀越町
9時40分から10時10分頃まで

この場所は無理をすれば大正用水などの側道付近に路駐することも可能かと思われましたが、現地で見学をしていると結構農作業用の軽トラが走行していたので、徒歩で来訪したことは正解であったと思うのでありました。
勝山城とともに大胡城の出城のような存在であったとも考えられますが、あくまでもその歴史的経緯については不明であるようです。
尤も意外でしたのは城跡と推定されている西崖線部がなかなかの要害地形を形成しているということでした。


一応は家畜舎の見える手前辺りまでが城域として推定されている模様ですが、台地自体は遥かにその先まで続いておりました。

水田面からの比高差は5メートルほどに過ぎませんが、赤城山南麓の河川の浸食作用による自然地形を生かした立地であることを確認できました。


お馴染みの赤城山方面

この地点からは浅間山、赤城山、榛名山などの上州の名峰の眺望が優れ、加えて上信電鉄のディーゼル車が疾走したりしていたことから、途中から次第次第に風景写真の撮影に没頭してしまう管理人なのでありました。


浅間山方面と飛行する双発ヘリコプター



時折2両編成の上信電鉄が走行していたので、ますます本題からは逸れてゆくのでありました。

帰路はいくら何でもこのまま公民館の端に駐車しておくのも如何なものかと自省し、当初の予定通り一度車で近くの大型ショッピングセンターまで移動し、トイレの借用と2リットル入りのお茶1箱6本入りなどの買い物などにより小休止をいたしました。


勝山遠/群馬県前橋市堀越町
10時50分から11時10分

ベイシア前橋大胡モールで小休止の後、この辺りからは少しずつではありますが次第次第にトボトボとした足取りとなって徒歩にて西へと進んでいくことになります。


途中で見かけた柿の実です。
この日はこうした青空に映えた柿の実を撮影した画像が矢鱈に多かったこともあり、帰宅前に立ち寄った道の駅でも必然的に地元産の柿を購入する運びと相成りました。

中華レストランが所在する辺りを中心に県道34号線の両側を確認。
県道北側には中央部に細い水路を含むV字型の溝状地形が確認でき、「マッピングぐんま」などの情報によりますと、これが勝山遠堀の北限辺りに相当するものと推定されます。
尤も、予備知識がなければ耕地整理などに伴う用水路のようにも見えてしまうのですが・・・


最もそれらしい景観が残されているようにも思える辺りの様子ですが、画像右側の盛り上がりについては笹薮に蔓性の枯れ草が巻き付いていることによるものなので土塁では無さそうでした。
12月或いは1月の真冬の時期になれば、もう少し地形の特徴を垣間見ることができるのかも知れません。


前の画像から約100メートルほど南へ進んだ辺りの様子です。
たぶん画像左側の自然地形の崖線部が遠堀の存在に関わっていたものと思われました。

約1.5キロメートルの長さを測るとされる大胡城の遠堀と考えられているようですが、この時点で残されている体力/気力とこの後の時間の制約なども考慮して主に北部の様子を拝見しただけに止まりました。
かつては土塁を伴う一部が二重堀の構造を有していたようですが、現状では中華レストランの西側に残る窪地地形が最も目立つくらいで、そこから南へかけて確認するにつれて次第にその痕跡を辿ることが難しくなっているように感じられました。


管理人は崖線上にいることから彼我の比高差は約5、6メートルで、直線距離にして50メートル以上は離れているため300mm望遠で撮影しております。
興味を示してくれたのか崖の下で暫くの間モデルになってくれました。
完全な逆光で然も何分にもクロネコさんなのでまさに真っ黒な姿となってしまいました。
そのあと直線距離で約800メートルほど離れた場所に所在する西荻窪城の帰りにも同じようなクロネコさんに出会いましたが、同一の個体であるのかについては委細不明であります。


荻窪城/群馬県前橋市荻窪町
11時30分から12時30分

立地している地理的環境は赤城山の南麓で、小河川の浸食による発達した開析谷により東西を挟まれた南北に細長い丘陵の先端部近くに所在し、北西には谷津田地形を生かした荻窪公園の敷地が隣接しています。


南方からの全景です

こちらも大胡城の支城とも推定されていますが、その築城主体、歴史的な経緯については余り明確ではないようです。
この点について現地に設置されている説明版述によりますと、地元の荻窪地区には南北朝時代の初め頃に赤荻氏の居城としていた旨の古文書が存在しているという旨の記述が為されています。
この古文書については、「前橋市史」「群馬県史資料編」などには収録されておらず、その後の発見によるものであるのか、門外不出という性格の古文書であるのかなど、今のところではその形式や内容に関して詳しい状況が分かりませんので、当面においては今後の課題としておこうと思います。


現地に設置されている荻窪城推定復元図

一般的には戦国期の大胡氏、越後の北条氏などとの関りが想定されるものの、当時の史料には殆ど登場することのない数多の城跡のひとつなのでしょうか。

郭、土塁、空堀などの城郭遺構がが一部ではありますが明確な状態で現存しており、この日一番の収穫でもありました。
集落内に所在していることから後世の宅地化や耕地化などによりその姿を変貌させているものと思われたものの、城域の中央部とくにその西側を中心にして良好な遺構を拝見できたことは望外の喜びとなりました。


中心部と思われる削平地に設置されている城跡の標柱


上記郭跡の北側の堀跡

なお、数え間違いがなければ城跡への案内標識が計4か所、中心部の主郭とも考えられる位置には標柱と想定復元した俯瞰図が記された説明版が設置されておりました。


北辺部の公道脇に設置されている案内標識で画像の左奥の方が城跡になります。


城跡西側の様子で、低地部分は現在は荻窪公園の一部として木道などが設置されておりました。

現地には特に駐車スペースは用意されてはおりませんでしたが、画像の谷筋の出口付近には車を止めたようなタイヤ痕が残されておりました。
ただし特に駐車禁止というような表示は為されていなかったように見受けられました。
おそらくは以前は谷津田のような地形であったと想定されますので、雨上がり後などにはタイヤが沈み込む可能性もありそうでした。
このため強いて言えば、近隣の地域公民館のような所に暫時駐車させていただくしか無さそうに思われました。

このあと、西荻窪城方面への移動の過程で次第に喉の渇きに見舞われ始めましたが、なかなか市道の沿道に自動販売機の姿を見にすることは叶いませんでした。
先月の10月末に長野県塩尻市を訪れた際にも、軽度の脱水状態に成りかけたことから一抹の不安が頭を過り始めました。
これが2017年12月の滋賀県甲賀市遠征時の最終日の時のように唾液を飲み込むことのできなくなってくるとかなり危なくなってきます。


西荻窪城/群馬県前橋市荻窪町
12時50分から13時20分

字古城と呼ばれている辺りがかつての城跡の中心部であるように思われますが、耕作や宅地化などの進展により、かつてはその形跡が確認されていた堀跡や土塁の存在についてはもはや確認が困難となっておりました。


城跡南東部に僅かに散見される地表面の段差

そうはいっても、折角なので城域と推定されている一帯を概ね反時計回りに一周してかつての形跡の存在を検証してみることといたしました。


字古城と呼ばれている辺りの風景です

その結果は当然のことながら、おおむね自然地形である崖線と耕作地整理などに伴う地表の段差くらいのものでありました。


昼食を取り損ねたので、次第に苅田と法面が食べ物に見え「赤城サンド」と命名してみた苅田の風景です。



城跡の北西方向の部分ですが、たぶん耕地整理などにより生じたと想定される地表の段差ではないかと思われます。



城跡西側の崖線地形であります

なおここでもクロネコさんに出会いましたが、今度はささっと足早に逃走されてしまいました。

このあと谷底地形となった沿道に漸く自動販売機を発見して欣喜雀躍。
元々は地元の商店に併設されていたようで、店舗の方は残念ながら閉店しておりましたが自動販売機の方はバリバリの現役稼働中でありました。
ここで脱水症状を阻止すべく、迷わずホットレモンを購入。
そういえば3年前の甲賀市遠征時も、ようやく油日駅に辿り着きありつけたのが、やはり「ホットゆずレモン」なのでありました。
何れにしてもこれでこの後さらに喉の渇きを覚えたとしても、往路をそのままピストンで戻ればこの自動販売機に出会えることから少しは安心をして次なる目的地へと移動を開始。


塔の堀/群馬県前橋市荻窪町
13時15分から13時50分

下調べの航空写真画像などからも、遺構の残存については可能性が少ないことを理解しておりましたが、一応は歩いて地表観察を行いました。
その結果、北側では概ね宅地化や指導の拡幅工事などにより形跡の確認は困難となり、南側の現地では更なる区画形質改変の真っ最中なのでありました。


南端の方から北の赤城山方面を撮影しております。
掘削したものを埋め戻しているのか、細長い窪地を埋め戻しているのか判然としませんでしたが、益々以前の景観とはかけ離れていくように感じました。


帰路に撮影した柿の実です


このあと横沢城方面に赴くという予定もありましたが、次第に直前の4か所連続徒歩移動などによりボチボチと足回りに限界を感じるに至りました。
一見すると地図上の移動距離では大したことのないようにも見えてしまうのですが、これが実際に赤城山中腹を東西方向に移動してみると、南北に流れている荒砥川などの谷筋とこれに平行する細長い丘陵地帯による地形のアップダウンに悩まされることになるのであります。
むろんこうした地形上の特質については2年ほど前の嶺城などを訪れた際にも体験済みなのでしたが、こうした事実さえも失念していることにさらに茫然自失の体となりゆくのでありました。
こうしたこともあったからなのか、車を止めさせていただいたショッピングセンターへの帰路である約3キロメートルほどの道程での足取りは、もはや紛うことなき高齢者の足取りそのものなのであったように記憶しております。

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