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今回は少々方向を変えて群馬県安中市内に向かうこととした。
ボチボチと新緑や下草の成長加減が気になるが、現地での混雑は避けたいことから、できることならばサクラ満開の時期は避けたいという思いであった。
ふと「さくら祭り」などの最中に訪れてしまった2016年4月の東北(岩手県南)遠征を思い出した。
あの折には1日目の前沢城では「ボンボリ」が張り巡らされて駐車場所探しに難渋したが、2日目の一関城では「サクラまつり」の会場開設が始まり、城内では遺構のあちこちに関係機材が設置され写真の撮影構図に苦慮した。
群馬県内は今までに国道254号線沿線は藤岡市、旧吉井町、富岡市などを中心にある程度は訪れてはいる。
しかし山一つ越えた国道18号線沿いは全くの手つかず状態なのであった。
上野国衆を中心とした中世城館の数は決して少なくない。
国道18号線自体は過去に数十回は通過しているが、個別の地域については土地勘がほとんどないということもあるようだ。
この日は到着時刻が不明であったことから、午前4時20分に自宅を出た。
ルートは国道254~国道17号(深谷バイパス)~国道18号である。
「道の駅おかべ」で小休止した時点で未だ所要時間は90分であった。
この後最初の目的地である後閑城の駐車場に到着したのは午前7時前であった。
凸後閑城(群馬県安中市)
午前7時05分から8時50分
比高差約50m(麓から)
駐車場は中腹に設置されているが、サクラ関係のイベント直後であったこともあり、そこまでの山道は片側一方通行の信号機が設置されていた。
いずれにしても比高差の少ないことは大変有難いものを感じる。
これが麓から徒歩で登るとなれば、この年齢になってくるとそれだけで体力が枯渇してしまい城域を全て巡るということは到底不可能となってしまうのである。
整理すると50台位は駐車可能であると思われたが、この時刻ということもあってか先着利用者は1台だけであった。
この車の利用者には城内にて遭遇。
三脚とデジイチという出で立ちであったので、その時刻と考え合わせると野鳥関係乃至はサクラ関係に興味のある方と思われた。
一般に城跡巡りでは余り三脚は利用せず、せいぜい一脚などの携行性の高いものになると考えられる。
西郭、主郭、二の郭、南廓、東郭、北郭に加えて2度目は無いものと思いのろし台?方面を確認した。
城址公園化に伴い改変されている部分も少なくは無いものと感じたが、五つの方向に分かれた尾根筋のすべてを活用したその規模の大きさとともに北部の三重堀などの構造から考えると仮に依田氏あたりから始まり、その後後閑氏を経て戦国末期に大規模改修を受けている可能性を感じた。
国衆規模の城ではない、恐らくは広域権力である武田氏、後北条氏などの影響力を想定せざるを得ないものがあるように思われた。
主郭から眺めた西郭と妙義山
凸名山城(群馬県安中市)
午前9時25分から11時20分
比高差約40m(西側林道部分から)
後閑城からは道程でも約5kmと近い。
しかし九十九川を渡過する橋が少なく、ルートもカーブとアップダウンが少なくなくその移動には実質で25分近くを要した。
小日向方面からの近道に気づいたのは、漸く自宅へと戻ってからのことであった。
現在至近には東日本震災後に増加した太陽光発電の施設が建設されている。
このため直接的ではないにせよ、城跡への影響も少なからず感じられた。
特に城域には含まれてはいない北側の尾根筋方面は当該発電施設工事によりかなりの地形改変が為されているようでもあり、尾根筋自体が変わってしまっていた。
城域最北の墓地辺りから入ったが、発電施設のフェンスと野荊の群生やアズマザサの群れに阻まれ約20分ほど時間を浪費した。
また本来西側の谷筋から入ることのできたルートの間際まで当該施設が建設されたことにより、そのルートは更に分かりづらくなっているように思われた。
城跡自体は簡略に言えば楕円状の主郭を中心として南東の稜線部に複数の腰郭が付随するという構造である。
築城の経緯や城主については明らかではないとされている。
主郭虎口は南北にあるとされているが、南側のものは不明であった。
南西部に大手方面からの虎口ではないかと推定されている竪堀状の地形が認められる。
総体的に樹木が叢生気味で、見通しも良好ではなく城域の全体像を把握するのに難渋した。
このため比較的小規模な遺構ではあるのだが、無論明確なルートも存在せず、アップダウンの多さを含めた城内での移動にこの日の体力の大半を消費してしまった。
特に上から2段目に相当する腰郭の切岸の高さは5mから6mと大きく、木の枝などの助けを借りなければ上り下りができない。
南東部に伸びた低い丘陵部を大手とするなどの見解もあるようだが、概ね平坦ではあるが概ね自然地形に近いものを感じた。
出口は本来のルートである発電施設フェンスに沿って脱出した。
なお、人家が近いとはいえこの山内では自分以外に動物の存在を感じ取ったことから、時々咳払いなどを試み渓谷的なシグナルを発した。
比高差も無く決して山深いという訳ではないのだが、足などを挫くようなリスクも視野に入れて、できれば物好きな同行者の存在が求められるのかも知れない。
北側の堀切遺構
凸菅沼城(群馬県安中市)
11時40分から12時10分
比高差なし
曹洞宗海雲寺の境内が城跡である。
「日本城郭大系」に記されている概念図を眺めるとついつい期待をしてしまうのだが、すでに刊行以来40年を経過している。
このため現況確認を含む調査は約半世紀以前となる。
従って、現状との乖離はいたし方のないところではある。
それでも、境内の東側に堀跡を含む土塁が現存し、これ以外に一部ではあるのだが南西部の土塁も現存している。
東側の土塁と空堀
境内は園芸種の椿と思われる庭木が満開を迎えていた。
人見城へと向かう途上で磯部温泉を通過することとなったことから、記念に名物の「温泉まんじゅう」ほかを購入した。
凸人見城(群馬県安中市)
12時40分から13時30分
比高差約45m(北麓の柳瀬川方面から)
この日2番目に訪れた名山城で結構疲れていたことと、碓井川南岸の地理に疎いことが加わり、このあとのスケジュールについて、国道18号線沿いの簗瀬城方面に向かうかどうかを考えていた。
しかしそれではあまりに安易であると考え、取敢えずはこの人見城へと向かうこととした。
この辺りの地形は北は柳瀬川と南は高田川に挟まれてはいるが、安中市域では広大な平坦地が広がっている。
このため妙義山方面の見通しが極めて良好であった。
その麓からは熱せられた風が巻き起こり大きく砂塵が巻き上がっている光景も目に入った。
駐車場は大宮神社近くの市道沿いにあった。
整理して停めれば20台位は駐車可能であろうと思われた。
境内に城跡の解説版が設置されているので、これを拝読した。
神社への参詣の後そのまま境内から入れるのかと思ったら、途中で密生する竹林に阻まれた。
そうなると集落の南側からアプローチする以外にはないと考え神社東側の市道を100m弱ほど南下。
その後集落内の通路を西へと入り、家庭ごみ集積所の個所から緩やかな坂となっている堀跡を進み、一番西側の堀跡まで足を延ばした。
切岸の高さは最大で6mほどを有していたが、東西方向に少なくも5か所ほどからなる郭が直線的に並んでいるという構造であった。
「櫓台」とも云われている個所
常総地方の城跡の雰囲気を想起させる密生度の高い竹林であったが、大きな違いは生育しているのが真竹であったことであろう。
郭間相互における差異や求心性は余り感じられず、この地における地衆などの寄居のようなものであったのだろうか。
凸磯部城(群馬県安中市)
13時50分から14時40分
比高差約40m(南麓の市道部分から)
市道から細い道を入ると直ぐに駐車場があるのでこれを利用させていただいた。
古めかしいトイレもあるが、水洗式で綺麗に清掃されていたが、その一方でドアが閉まらないという問題があった。
この同じ場所に縄張図付の解説版が設置されている。
駐車場からはそのまま比高差にして約40mの登り道をすすんだ。
始めに三の郭、二の郭、物見台、主郭の順で見学した。
三の郭、二の郭のそれぞれの基部に横堀がまわるというのがこの城の特徴らしい。
二の丸東側の大土塁については一部地山を利用している可能性もあるように思えたのだがどうなのだろうか。
サクラの季節も終わっていることから見学者は自分ひとりであったが、いくぶん解説版や標柱などの経年変化が目立っていた。
大土塁から俯瞰した二の丸
なお、現在のところ主郭部はクマ笹が密集しているためにほぼ地表部の観察ができないのには困った。
後閑城と同様の城址公園ではあるが、その管理事情の落差を感じた。
今回探訪用の事前資料は予め8か所ほどを用意していた。
この時点で5か所を巡ることができ、基本的には当初の目標を果たしていた。
今朝の朝食はレンジでチンしたスープカップのトン汁一杯のみである。
行動中は元々昼食は摂らない習慣なのでもとより多少の空腹感は否めない。
しかしそれよりも早起きしてきたことから正直眠いほうが優っていたという状況でもあった。
こうしたこともあり、時刻は午後3時前ではあったが、探訪の続きは次回以降に譲り安中図書館へ立ち寄り資料収集へと舵を切った。
無理をして日没直前までの行動せず、結果的にこれが正解のようであった。
というのも図書館を退出した午後4時過ぎ頃からは、次第に晴れ間から小雨がぱらつき始めて恰も「狐の嫁入り」の様相を呈してきたのである。
なお、この日の帰路も交通事情は至って順調であり、もはやお馴染みとなってきた感のある国道18号から国道17号(バイパス)経由の待ち程度の渋滞を除けばスムースに移動ができた。
自宅到着は休憩無しであったことなども重なり、運転時間は僅か2時間50分に過ぎなかった。
最悪休憩時間を含めて途中の高崎、熊谷、東松山などでの渋滞を想定し約4時間ほどを覚悟していたのでこれは実に有難かった。
下草の生育はそろそろ限界で、新緑の方もかなりの速度で進行している。
長野、福島方面ならばもう少しましかもしれないのだが、なにぶんにも日帰りの場合には少し遠い。
新潟や富山方面の遠征も視野に入れていたが、ほとんどこの先の天候が読めずにいるので先延ばしとなる公算が強いようだ。
こうしてそろそろ山城を含む城館探訪に相応しい季節が終わっていくのだろう。
さて3月31日からこの4月9日の間の10日間だけで、それまでの停滞を打破するように4日計20か所ほどの探訪に至った。
日数の割に数が少ないのは、最初の一、二回目はそもそも動けるかどうかの自信がなかったことによるものである。
どうにか動けることだけは確認できたものの、足回りの痛み対策が不十分であったりしているので、歩くことのできる距離は20km前後までらしい。
加えてそ1日につきそれ以上探訪すると、全く記憶が追いつかなくなることに気付いたこともある。
このうちある程度その名を知られたところでは、赤堀城、天幕城、不動山城、後閑城、磯部城などが含まれている。
また、「堀切の有無」などを基準として、どうにか山城の分類に含まれそうなのは、棚下の砦、猫山城、不動山城、後閑城、名山城、磯部城などである。
しかしその比高差はそれらの全てを合計しても僅かに400mほどに過ぎないのであった (^^ゞ