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今年は1月下旬から頭痛などが続き、漸く小康状態となってきたところで今度は膝の具合がおかしくなった。それらが落ち着い始めたと思えば、風邪や別の偏頭痛気味の頭痛も発生。そして3月に入ればこれに花粉症も加わってしまい、結局のところ1月中旬以降は全く動くことができなかった。
このまま寝たきりになっても困るので、そろそろ意を決して出かけることとしたのだが、今度は気温が上がり過ぎて断念。そのような次第で何と約3か月ぶりの探訪となった。
しかし予定していたのが、本来は1月下旬に予定していた目的地なので下草の成長が懸念されることとなったのであった。
凸久長氏陣屋(群馬県伊勢崎市、旧東村)
午前8時30分から9時20分
県外にしてはやや遅い午前6時15分に自宅を出たこともあり、この季節ではすでに日の出後の時刻ではあったが、途中県道14号線の利根川を渡過する上武大橋拡張工事が完成していた。このため車の流れは極めてスムーズとなっており、行楽日和の土曜日であったにもかかわらず目的地に到着したのは予想よりも遥かに早い時間帯であった。
駐車場は神社西側の公園付属のものを利用できるらしく収容台数も40台位はある。
しかしこの日は土曜日の行楽日和であるにもかかわらず、「市民のもり公園」「華蔵寺公園」なとほかの名所が少なくなく、ややサクラの本数自体も少ないこともあるのか陣屋跡の大東神社および西隣の公園の利用者は全くの皆無であった。
なお当陣屋跡は伊勢崎市指定史跡でもある。
旗本久長氏の近世陣屋であるが、一説によれば中世城館跡としての起源の可能性も想定されるらしい。
陣屋跡の西側から
凸田部井館(ためがいやかた、群馬県伊勢崎市、旧東村)
9時45分から10時20分
この日は目的地の行く先々で桜が満開であった。
旧東村の公共施設ゾーンの図書館利用者用駐車場に車を停めて、いくぶんまばらな花見客と満開の桜を横目にしつつ徒歩にて西の早川方面へと移動した。
川沿いの堤防付近には、これまた今を盛りと言わんばかりに菜の花(セイヨウアブラナ)が咲き誇っていた。
当所は難読地名でもあり、予備知識が無ければ普通は「たべい」と読むものと思われる。
「日本城郭大系」が編纂された半世紀ほど以前には未だある程度の地表上の痕跡を追い求めることができたようなのだが、外見的にも県道68号線で分断されていることも加わり現在では堀跡を含め全くその痕跡が感じられない。
画像左手の辺りが城館跡南東部
そうはいっても折角なので一応かつての内堀跡に沿って辿ってみることとしたが、やはりその地表部や道路の形状などからは城館跡の雰囲気を感じ取ることは困難を極めた。
ちなみに外郭部に相当する個所に位置するカラオケスナックの店名は「たてぼり」であった(^^ゞ
凸斉藤屋敷(群馬県伊勢崎市、旧東村)
11時00分から11時20分
当所は鯉沼と呼ばれている用水池の西側付近に所在している。
おそらく主郭部であろうと想定されている宅地の周囲には、かつては堀跡などが存在していたらしいのだが、やや微高地であることと集落内の一部曲折した道路が確認される以外には中世城館跡に繋がるような形跡を見出すことはできなかった。
北関東自動車道のすぐ南側に位置していることもあり、その建設以前とは周辺の景観が大きく変貌していることが感じられた。
同地区内に所在している共同墓地の墓名を拝見してみたところ、城館跡との関連が窺われる斉藤姓とならび重田姓のお宅が非常に多いことが目立った。
共同墓地内の薬師地蔵同脇の駐車スペースをお借りした。
懐かしのホーロー看板健在
凸赤堀城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
12時00分から13時00分
伊勢崎市指定史跡
主郭北辺西側の巨大な土塁と空堀跡、ならびに北辺東側から東辺の土塁とその間に所在している虎口が見どころである。ただし土塁上を見学できそうなのは北東部の一部に限られ、他は急傾斜や樹木の繁茂などにより困難である。
また主郭内自体も耕作地であることから中央部の農道などの一部以外には歩くことのできる部分は限定されている。
なお、「日本城郭大系」ではその北西側にも堀跡などの遺構が記されているが、現在ではほぼ消失している。
手元の資料からは赤堀氏一族については断片的な記述しかなく、通史的な理解が得られていない。このため引き続いて地元の赤堀図書館などを利用し参考・補填して行こうと思う。
北辺土塁と空堀跡
当然のことではあるが、赤木山麓という地形条件なので河川はそのほとんどが南流している。
このため一見平地のように思われる地形でも、実際には北高南低となっていることに改めて認識した。
凸毒島城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
13時30分から14時00分
伊勢崎市指定史跡
周囲を低丘陵に囲まれた低地の中央部に取り残されたように所在している独立丘陵に所在している。
その後の地形改変が顕著であることから果たして単郭がどうかは不明であるが、いちおう丘陵中腹に刻まれたやや幅のある帯郭がこの郭を取り巻いている。
虎口を南西部に想定している見方もあるようだが、郭内自体が全面的に耕作地とされていることから、どうも城館跡という印象を強く感じることができなかった。
サクラの時期ではあったが、城跡となる丘陵では折からソメイヨシノが満開で期せずして「花見」の探訪となった。
しかしここでも訪れる人々は少なく、同時刻においでになった人数は数人に過ぎなかった。
もっともソメイヨシノそのものの本数もそこそこの大木ではあるものの合わせても20本ほどとやや少ないことと確実な駐車スペースが存在しないことも影響しているのかも知れない。
道交法の路駐には当たらない箇所は丘陵南東部の土地区画整理記念碑付近の空きスペース約1台分だけであり、丘陵麓ではほかに許容されそうなグレイゾーンを合わせても合計3台ほどである。
北側方向からの遠景
このあと、日没までは約4時間もあり本来ならばそのまま近くの天幕城方面へと徒歩移動をする予定であったが、地元の図書館にも立寄る心積もりと、最早持病と化しつつある左足第五指の痛みがひどくなり始めたこともあり、結局旧赤堀町の図書館へと戻った。
足の痛みのせいもあり、約3kmほどの道程を長く感じてしまった。あらためて色々な意味で年齢の限界というものを感じている。
赤堀図書館では「赤堀町誌」「東村誌」「境町史」「伊勢崎市史」等を閲覧し、必要個所の複写申請を行った。
資料の確保読込並びに付箋処理などに約30分を要した。
この時点で既に午後3時半であり、セルフサービス方式ではないことから、当日の受領が困難と思われたが、まさにその通りとなったことは極めて致し方ないことでもある。
ふと気が付けば日の出が約午前6時、日没が午後6時頃という季節となっていた。
実に分かり易いことなのではあるが、平地ではそろそろ下草も伸び始めており緯度や経度を上げる必要性を感じ始めたが、体力と気力の面で問題が多く花粉症の災いしており、自分の意志と体ではあるのだがこの先の行動は全く読めないでいる。
ちなみに帰途は同じルートをほぼそのまま戻ることとしたが、見事なまでに週末行楽帰りの車列渋滞に嵌ることとなり、伊勢崎市から自宅までの所要時間は何と3時間20分を要した。
目立った渋滞個所は工事によるものを除くと、これも予想通り、熊谷市内、東松山市内、川越市内の以上3か所なのであった。