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次の寒波が襲来しないうちに、
小春日和の天候なので、
せっかくこの方面に馴染んできたので、
関越道を使えばゆっくり走っても片道2時間足らずなので、
この歳になると来年、再来年があるかどうか分からないので・・・
などと、いろいろ理由をこじつけて本日も3日前と同じ群馬へと向かうことになった。
ただし今回は赤城山西方の昭和村であるのだが
とはいえ前回からの間が2日しか空いていないこともあり、いくぶん遅めの午前6時30分自宅発となった。
凸長井坂城(群馬県利根郡昭和村)
8時25分から9時55分
天正年間に真田氏と後北条氏の間でその領有が争われた城跡であり、大分以前から訪れたかった本日唯一の目玉でもある。
西方の子持山方面
午前8時前に関越道を赤城ICで降りた。
赤城西麓広域農道伝いに8kmほど北上し、途中から細い農道に入り城跡を目指した。
要所要所に分かり易く丁寧な案内標識が設置されていることから、よほどのことが無い限り道を誤ることは無いように思われた。
城跡直下に関越道が貫通
城の立地は利根川とその支流である永井川の深い谷に挟まれたいわゆる崖端城で、城跡南東端の標高は480mを越え、また「縄張図」などでは分かりにくいのだが、城跡の地形は北西方向に突出して先端部に向けて緩い傾斜がかかっている。
このため南方の高地から観望しても城跡の位置がすぐには把握できない。
3の郭から2の郭を見る
本郭の遺構状況は良好で横堀、土塁の配置状況が分かるようにほどよく整備され、利根川方面に面した断崖の景観も息をのむほどの迫力が伝わってくる。
これに対して2の郭、3の郭方面は耕作地として利用されていることもあり、事実上見学できる範囲が限られている点がやや残念に思われた。
とくに二の郭南側の大土塁(地山の削り残しを利用か?)へ向かうルートは耕作地を通過することもあり、果たして立ち入っても良いかどうか迷いを感じる部分もあった。
主郭北側の土塁 主郭南側の横堀
同 前 主郭東側の土塁
また二の郭北側の横堀が埋戻しなどにより事実上は消失していることもあり、その分3の郭との境が分かりにくくなっているようにも見受けられた。
二の郭土塁の切れ目から主郭 二の郭東側
南東部の大土塁から南側横堀 三の郭南東部
こうしたことから、立入の可否を含めた現況に即した縄張図を含む解説版などが設置されると今後の見学上も有難いとも感じるとともに、何分にも耕作地も少なくないことから、今後の文化財としての保護と活用の観点からもその辺りの対処が求められるように思われた。
専用の駐車スペースは無いが農閑期で短時間ならば農道脇などを利用できるかもしれない。
凸阿岨城(群馬県利根郡昭和村)
10時35分から10時50分
直線距離にすれば長井坂城からは6km足らずなのだが、真直ぐにアプローチできるようなルートがなく赤城山西側の浸食谷を大きく迂回することとなった。
何のかんのと谷、山、谷、山、谷、山 と3度のアップダウンと九十九折の反復があったことにより、結局のところ移動に要した時間は30分以上を経過してしまった。
まさに「長い坂」でもあった。
それでも武尊方面の雪景色が手に取るように観望できたのでこれはこれで大きな収穫でもある。
途中リンゴ農園とその農家、ゴルフ場、工業団地、廃車置場、別荘地とこれに関連した観光施設など土地利用の形態は実に様々であるが、戦中戦後の開拓の時代、高度成長期の時代、ゴルフ場乱立の時代、別荘ブームの時代など、それぞれの時代を反映しているようでもあり興味深いものがある。
武尊山方面
城跡は圃場整備された耕地内の崖線端に立地している。
地形上から樹木が叢生した分かりにくい場所のような印象を抱いていたのだが、昭和村のHPにも掲載されているように、その周囲は開けた環境であり付近の道路からも解説版などが目に入ることから全く迷うようなことはなかった。
車での来訪者を想定し3台くらいは駐車可能な舗装済みのスペースもあり、近くの昭和ICに接して道の駅も所在している。
主郭跡であろうか?
城跡の石碑
肝心の遺構の方は二重の堀跡の一部と郭跡?が現存してはいるが、長井坂城に比べると城域も遥かに小規模であり遺構も多くは無いことから見学には余り多くの時間はかからないように思えた。
たぶん二重堀跡らしい
たぶん外側の堀跡の一部のように思えた
◎加藤丹波守腹切石(群馬県利根郡昭和村)
11時00分から11時05分
天正10年10月、森下城主加藤丹波守(真田方)が後北条氏の軍勢に敗れて切腹を遂げたとされる史跡であるり道すがらに立寄ってみた。
何分にも後年の軍記である「加沢記」の記述に基づくものでもあることから、その真偽のほどははっきりとは分からないのかも知れないが、この地をめぐる真田氏と後北条氏による領有争いを象徴するエピソードのひとつなのであろう。
凸森下城(群馬県利根郡昭和村)
11時10分から11時25分
別名を鎌田城、あるいは鎌田の要害とも。
長年にわたる片品川の急流に浸食され城地の大半が崩落してしまったとのことである。
崖線端に標柱と解説版が設置されているが、堀跡の一部ともいえなくもない段丘の斜面などが見受けられるもののその周辺は宅地化なしい耕地化がすすみさらにその旧情は把握しがたいものとなっていた。
なお、側を通る県道からは民家などの陰に隠れたやや探しにくい場所に所在し、しかも付近には駐車スペースがほぼ存在していない。
このため予め駐車場所を考慮する必要がある。
路傍の双体道祖神
凸糸井の打出(群馬県利根郡昭和村)
12時20分から12時30分
あまり道路事情がよくは無さそうに思えたことから村役場に立寄り資料収集を行い、距離にして1km足らずと近いこともありそのまま徒歩にて向かうこととした。
そういえば「石仏」関係もそのうちに纏めておかなくては・・・
しかし始めにアプローチしたルートがたまたまこの日は水道管の埋設工事により全面通行止めとなっていたことにより、約800mほど迂回することとなってしまった。
これが平地の迂回であれば何ほどのこともないのだが、河岸段丘へのアプローチを迂回したので2度急坂を登り結構疲れた。
しかも工事が昼休み中であったため、工事関係者と間違われて車両通行の可否を聞かれてしまったりもした。
尤も自分の出で立ちがごく自然に工事の現場に溶け込みやすいこともあるので致し方ないことでもある。
上糸井集落センター
概して城館跡としての痕跡に乏しく、低位河岸段丘の崖線地形が唯一それらしいということになるのだが、その崖線地形を視認するに相応しい個所がなかなか見つからないのであった (^^ゞ
近くの長慶寺境内には元寇の時期に関連するとされている鎌倉期の板碑が文化財に指定され大切に保存されている。
長慶寺に所在する鎌倉期の板碑
たしかに「打出」という城館関連地名は残されているのだが・・・
奥の手のひとつ
凸貝野瀬屋敷(群馬県利根郡昭和村)
13時10分から13時25分
この場所も低位の河岸段丘上に所在し、直接車で向かうには支障がありそうに思えそのまま徒歩にて向かった。
とはいえ、前項の「糸井の打出」からは更に約2.5kmほどにはなるのだが、歩きながら周囲の地形などもじっくりと観察ができることから決して無駄足にはならないと徒労を合理化するという我ながら疲れる性格なのである。
途中関越道の真下を通過したので、その真下から高架橋の構造を暫くの間観察してみた。
屋敷跡とされている場所は、赤木山川龍寺ならびに武尊神社などが所在する一帯であり、現在でも河岸段丘の斜面が目立つ。
武尊神社の裏参道付近に高さ1mほどの人工的な盛土跡が見受けられるが屋敷跡との関連は不明である。
いちおう「堀の内」の地名もあり、このほかにも「大門」の地名も残されているらしい。
村役場までの帰路は4kmに満たないものであったが、そこそこ足回りに疲れがでていた。
またこの日の気温は摂氏15度以上に上昇したようで、温かいのを通り越して暑ささえ感じるような按配となった。
関越道は平日でもあり渋滞もなく休憩抜きで日没前午後4時20分頃に自宅に帰着した。
近年になく今月11月は延べ9日間(二戸、八戸、南部と郡山市での7日間を含む)も出かけることができた。
近年は少し寒くなると手足の冷えを感じるとともにやたらに眠くなるという日が続いていたが、果たして今年はどうなるのであろうか。