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今年は冬の到来が早く、ときおり襲来する寒波が過ぎ去るのを待っての探訪である。
遠征というにはやや距離が近い。
月初めの青森遠征などに比べれば、高速道路での走行距離は片道117kmほどと約2割ほどに過ぎない。
このため信じられないほどに運転の時間も短いので途中の休憩もいたって少なくて済む。
とはいえ、今月は2度の遠征で郡山から戻ってから4日間しか空いていないことから、さすがに気力の方は払底気味でもあったようにも思えた。
凸名胡桃城(群馬県みなかみ町)
午前8時00分から9時00分
天正18年(1590)豊臣秀吉による関東侵攻の口実を与えることとなった有名な城跡である。
外郭部といわれている部分や般若郭を除く、利根川および赤谷川の崖線沿いの防御に適した郭面積の広さは4千平方メートル前後の比較的小規模な中世城郭である。
復元土塁やいくぶん過剰気味に空堀への転落防止などの措置が為されていなくもないが、空堀と郭の配置を眺めているだけでも楽しげな城址公園風の城跡である。
南東に聳える富士浅間砦の岩峰は「のろし台」あるいは「物見」ともいわれている。
笹郭のさらに先端にある物見郭へ赴こうと思ったが、気温の上昇により斜面の霜が融け始め滑りやいくなってきたために途中で引き返した (^^ゞ
駐車場は般若郭に40台ほどは収容できそうで、国道17号線沿い北側にはトイレも使用できる案内所も併設されているなど至れり尽くせりであった。
いかにも観光地にありそうな幟旗がそこかしこに林立していたが、管理費用の面を考慮すると果たしてどれほどの投資効果があるのだろうかと気になった。
実は中心部に足を踏み入れたのはおそらく今回が初めてなのだが、たぶん国道を通過した回数は人生で延べにして100回は超えているはずである。
最初にこの前を通り過ぎたのは半世紀ほど前で、その時も既に城跡の標柱を目にした記憶は残っている。
たぶん、昭和40年代前半頃の古いカラー写真を調べれば1枚くらいはあるような気がするのだが、現在では生憎手元には所持していない。
その当時はもう少し木々に覆われていたようなイメージもあるのだが、何分にも昔のことなので記憶が薄れている。
その後1990年の初め頃までは、何気なしによくこの国道17号線を通過していたが、高速道路が完備したお蔭であまり近くに来るようなことは無くなってしまった。
二の郭北の復元土塁 二の郭南の復元土塁
小川城と三峰山方面
凸中山城(群馬県高山村)
9時40分から10時55分
名胡桃城から県道36号線を南へ赤根トンネルを潜り吾妻郡高山村へと向かう。
後北条氏が真田氏との間でその領有を争った時期に後北条氏側により築城された城跡とされている。
途中急カーブもあるが道幅も広く快適な山道を行くと約20分ほどで到着した。
パーキングは国道145号線沿いの北側に所在し、約10台くらいは駐車できそうである。
本郭へ向かう道案内の標識も完備し、城東川沿いに歩けば10分足らずの所要時間。
水田面からの比高差は15mほどしかなく、息の上がるような間もなくあっという間に城址碑が所在する本郭へと誘われる。
東側からの遠景
主郭切岸
主郭
この本郭のみの見学であれば所要時間はパーキングからの往復時間を含めても30分以内に終わってしまう。
むろん折角の機会でもあり土塁上から本郭の堀跡、本郭の防御との関係の深そうな南北の小郭の様子なども観察したが、堀跡は寒波の影響だろうか降雪の融水と思われる水分が多く堀底の踏査は回避することとした。
また、本郭から直接南北の郭へと移動するルートは確認できず、この後夫々別の方向からアプローチを試みるも笹薮などに疎外され直接地表の様子を観察することはできなかった。
この後、「道の駅中山盆地」にて昼食。
小高い丘陵上にある道の駅からは南東方向から城跡の遠景を一望することができる。
また、城跡付近に設置されている解説版とは別のものが、この道の駅の売店近くに設置されていた。
凸白井城(群馬県渋川市)
12時35分から14時00分
山内上杉家家宰であった白井長尾氏の本拠地であり、その後改築され近世初期まで使用された。
晩秋の日没はかなり早いので、午後1時までにこちらに到着する予定であったが、探訪が順調に進んだことにより早めの到着となった。
本丸の付近に駐車することも可能なのだが、徒歩により北側の外郭から順に回遊して白井宿方面へと向かうルートを想定していたので、時間にも多少の余裕が出てきたこともあり、城跡外郭北側の体育館に駐車し徒歩にて本丸方面へと向かうこととした。
宅地化が進んでいる北半分くらいは余り城跡としての名残りを感じ取ることができない。
然し北郭の東端に所在している城山不動尊(櫓台)の辺りから「三の丸」の堀跡を始めとして徐々に城跡らしい景観が目に入ってくる。
三の丸、二の丸の一帯は堀跡部分を除いて畑地が広がっている。
さらに二の丸の堀跡を過ぎ本丸の手前辺りまで近づくと、本丸桝形と共に整備された規模の大きい堀跡が目に入りテンションも上がり自然と笑みが零れてくる。
本丸土塁状から枡形
本丸の土塁上の歩いたのち三日月堀へと下りて堀底を東へと向かう。
この辺りの堀跡が交差する景観は見ごたえがある。
「帯郭」と呼ばれている比高差10mほどの塁線上を北東方向に進み「神明宮」から白井宿へと下りた。
凸仁居谷城(群馬県渋川市)
14時10分から14時30分
天候は晴れてはいるが、西の空に雲がかかり日差しが弱くなってきた。
日没までにはまだまだ時間の余裕があるが、この日差しでは黄昏モードの画像となってしまうので余り撮影には向かないのだが、そのまま徒歩でも行ける仁居谷城方面へと足を延ばした。
何も痕跡が残されてはいないらしいのだが、戦後間もない時期に在日米軍により撮影された航空写真に残されている城跡の形跡を元に、山崎一氏の略測図などを参考にして現在の地図にメモ書きした資料を持参してピンポイントで該当箇所に赴いた。
するとかつては東西方向にのびた土塁状の地形が所在していたとされる畑の一角に東西方向の段差のある地形が確認できた。
北側から 西側から
この一帯は畑地中に大きな石が混じる土質(たぶん吾妻川あるいは利根川の氾濫などに起因した川原石)なのだが、石塁であるかどうかは別として延長にして約25mほどの長さにわたり1m未満ではあるが明確な段差が残されている。
「北毛地区運転者研修センター」の南側という位置情報からも、土塁跡(ないしは堀跡)との関連性が想定されてもよさそうな地形のように思えたのであった。
今までは敢えて敬遠していたが、そろそろ先行きが見えてきたこともあり今回は有名どころを軸に探訪してみたが、こうしてどうにか日没前には当初の予定通り無事に4か所の探訪を終えることができた。
ご同行とナビゲーションいただいた、みかづきぼりさんに深謝申し上げます <(_ _)>。
仁居谷城の遺構を見つけた時は和平さまのお城に対する執念を感じました
ちなみに私は歩き疲れで少々意識が飛んでいました(汗)が嬉しい発見でした
お陰様で心身ともにリフレッシュする事が出来ました
今回も色々とお世話になりました
感謝致します┌(_ _)┐
そして本当にお疲れ様でした。
単独行とは異なりいろいろと語り合いながら城跡を巡るというのも新鮮な刺激になります ^^
有名どころからマイナーまでお付き合いいただき有難うございました <(_ _)>