本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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さて郡山市の2日目である。
2か月前の元々の予定では、今回は猪苗代湖南岸の低い山城を幾つか探訪することがメインであったのだが、寒波襲来による降雪と道路事情等を考慮し急遽計画を変更した。
旧田村町方面を除くと目ぼしい個所がそれほど残されている訳ではないような気もしなくはない。
本日の天気予報は「曇りのち晴れ」または「曇り時々小雨か小雪」と情報元によりかなりの幅がある。
昨日は予報が当たらずに本格的な雨または雪に見舞われることは無かったのだが、2日続いて天候に恵まれるかどうかは不透明である。
安全面を考慮すると降雪の影響を受けやすい西部地区は避けるべきであるので、やはりここは市街地近郊から阿武隈川東岸地域を回るのが無難であろうと考えた。
なおこの日は天候状態の判断と朝の通勤時間帯の道路混雑を見越していたために些か遅めのスタートになった。
凸桜内館(福島県郡山市)
9時10分から9時25分
2015年の秋に阿武隈川沿いに所在する城館跡を訪れているが、今回はその際に時間の都合などにより訪れることのできなかった、ほんの少し山の深い東側地域を中心に回ってみることとした。
横内集会所の西、県道を挟んだ向かい側比高15mほどの丘陵がその所在地とされている。
標高300m前後の低山の山間に小集落が点在している。
「まほろん」などの情報では「平場」が所在するのみの城館遺構であるらしい。
なお住所表記ではこの辺りは「西田三丁目」と記されてはいるが、住居表示である「西田3丁目」ではなく、あくまでも「三丁目」という大字名であるらしい。
さて西側の低丘陵が目的地であることは間違いが無いのだが、目標とする辺りに直接繋がるような道が見つからない。
止むを得ず南側から市道を迂回して丘陵の上の五差路となっている辺りへと向かってみた。
北東方向の手前に比較的新しい民家が2軒所在している一帯が目指すべき場所なのだが、唯一の道がどう見てもその民家への玄関口へと続いているのみであった。
西側の休耕地らしい地点から迂回を試みたものの叢生する民家裏の竹林に行く手を阻まれてしまった。
竹林を踏みしだく音は結構大きなものがあり、足元の状態も不明確であることから転倒しても困るので途中撤退することとなった。
凸西田山王館(福島県郡山市)
9時30分から10時40分
桜内館の東方約400mの地点に所在する。
名称のとおり館跡には山王神社の社殿が鎮座しているが、このように進むべき道が明確であるというのは有難い。
また神社麓でも軽ならば1台くらいは止められそうなスペースもある。
鳥居の先に北西方向に長く伸びた緩やかな参道の石段を上がっていくが、石段が北へと方向を変える個所はやや急な勾配となっている。
西側の桜内館に比べるとほんの少し山が深くはなるのだが、すぐ近くに民家も所在しているので
けっして人里離れたという環境ではない。
神社社殿とその東側を中心にして少なくとも4か所ほどの平場(削平地)を確認できる。
しかしこれらが中世城館跡に関わるものか、後の神社建立などの造成工事などによるものかその判断がつきにくい。
社殿は地山に所在している岸壁を削りそこに食い込むように建立されている。
なお北側からは車が通行できる道が上がってきている。
削平地の一部はその駐車場となっているようにも思われた。
なお、社殿西側から社殿の上へと続く山道(踏み跡)があり約150mほど先には奥社のような木造の小祠が存在していたが、この時点では倒木や風害などによりほぼ崩壊状態となっていた。
凸小矢館(福島県郡山市)
10時45分から11時15分
こちらも神社が所在していることから、少なくとも当該社殿までは道がありそうなので嬉しい。
県道115号線から高柴集落へと向かう市道を左折し約300mほど北上。
すると進行方向右斜めを登る狭い道がありこれを道なりに高柴二組集会所の方向に進む。
そこから約200mほど道なりに北上すると丁字路となりこれを左折すると進行方向右手に未舗装の林道を分ける。
その先は全く不明なので、1日当たりの通行量も数台程度と思われることから、ここで車を道路脇の空き地のような個所に駐車した。
北の方角に徒歩にて神社へと向かった。
比高差約20mほどの急な石段があるのでこれを登ると三渡神社の社殿が目に入った。
この辺りまで来ると流石に人家も少なくなり、一番近い人家でも南へ直線で300mとなってしまう。
あとから分かったことだが、その未舗装の道を車でそのまま登り途中で神社の方角へ戻れば境内へと出るらしい。
なお、東側約150mには小さいながらも「高柴ダム」の人造湖が所在しているように、この辺りの地形は谷筋が入り組んだ比較的水利の便の良い地形であるらしい。
この神社から南方へは谷津田地形がのびているのが見え、神社南から西へと向かう道路はそのまま谷筋を下ってゆく。
また、神社東側はほどなく三春町の行政区域へと続いている。
神社の背後にはお決まりの土塁状の地形が所在しており、この辺りの標高は360mを越えている。
しかしその現在のものはごく最近に修復されているものであることが素人目にも判別できるものである。
またたしかに一見土塁の様にも見えるのだが、実際には社殿の建立に当たりその背後の地山を削り取った地形であることも分かる。
尤も、「まほろん」などが指し示している地点は、この社殿から西へ約100mほど下った西側に張りだした尾根筋の辺りをいうようである。
むろんその先に明確な踏み跡などは確認できず、身動きがままならないような結構な藪でもある。
平場が存在するというだけの情報でもあり、かくしてまたしても撤退する羽目となってしまった。
凸板橋館(福島県郡山市)
11時35分から12時15分
前項の小矢館からは北北西約1kmの距離に位置するが、その来歴などは不詳であるらしい。。
「まほろん」などの情報によれば、西田町板橋集会所北側に所在する東側から張出した丘陵の先端部に所在しており、その南端部には熊野神社が鎮座している。
ここも神社が所在することから少なくともアプローチに苦労するようなことだけは無い。
麓からの比高差は15mから20mほどなので、それほど目立つような丘陵ではないが、いちおう西方の眺望には優れた地形であった。
熊野神社境内の方は特に目立つ地形は確認できなかったが、強いて挙げれば境内背後には腰郭のようにも見えなくもない削平地が所在していた。
尤も郡山地方にはありがちな圃場整備にともなう耕作地などであった可能性もあり何とも言えないところである。
丘陵は切通し状の市道により概ね南北に分断されているが、北西部には見事な屋敷構えの旧家が所在し宅地部分の法面が切岸跡のようにも見える。
またごく一部ではあるが西辺部には遠目にも低い土塁状の地形が目に入るがその経緯は不明である。
なお、丘陵の北端部に基壇上の地面の盛り上がりが所在しているが、小祠などが祀られていた跡のようにも見えた。
凸黒鹿毛城(福島県郡山市)
12時30分から12時50分
この辺りまで来ると、北側は本宮市との行政境まで約600mほどであり、驚くほど安達太良山方面の見通しが良くなる。
標高は僅か約350mほどなのだが、このように北方の眺望に優れた場所である。
また県道などの幹線道路からは少し離れているため、この字「舘」の集落は山村のような趣さえも感じられる。
「田村郷土史」などによれば、田村月斎の次男新田土佐守顕成の居城といわれているらしいが、
「同史」での名称は「黒鹿毛山館」として記されている。
また廃城は天正18年(1590)秀吉の奥羽仕置による田村氏改易の時期であるともいわれている。
現在容易に確認できる遺構は北側の東西に分断された一条の土塁のみであり、西側の比高差20mほどの本郭方面は藪が多く民家の裏山になっていることを確認するのみにとどめることとなった。
また東側にもそれらしいピークが所在しているが、同様の事情から確認できてはいない。
なお、南西約600mにはペグマタイトの岩脈で有名な鹿島神社がある。
凸八山田鹿島館(福島県郡山市)再訪
13時30分から14時00分
鹿島神社社殿裏の土塁地形周辺の再確認も含め、隣接する八山田館方面に赴く関係もあり再訪してみた。
当該土塁の北西側および北側の様子並びに北東部の谷津田などの位置関係もあらためて確認ができた。
凸八山田館(福島県郡山市)
14時15分から14時25分
前項の鹿島館からは西に僅か100mほどしか離れていない城館跡である。
両者は幅約100mほどの谷津田を境に近接しており、当該伝承の類を含めてやはり前項の鹿島館との関係がますます分からなくなってきた。
集落内の市道沿いに土塁状の地形が散見されるが城館跡との関連は不明である。
凸山崎館(福島県郡山市)
14時30分から14時35分
「福島県の中世城館跡」に掲載されているだけで、「まほろん」などには掲載されてはいない。
また、その所在地についても凡その位置が示されているものの、現状では丘陵北側の緩斜面というだけでこれといった地形上の特徴が見いだせない場所であった。
この日はまたしても天候に恵まれ、大方は曇りであったものの時々薄日の差し込むような天候であり、1日目に比べれば遥かに風も弱く小雪の舞うような場面もなく、相変わらず気温は低いものの城跡探訪には絶好の陽気であった。
けっして目ぼしい遺構に対面したという訳ではないが、成果のひとつとしてはひととおり旧西田町方面を3年がかりで廻り終えることができたことが挙げられる。
この季節には午後2時半を過ぎると太陽の傾きが早くなり、西側に厚い雲があればほぼ日没前のような日差しとなる。
けっして足のいくような成果を伴ってはいないのだが、また少しだけ郡山市の未訪問の城館跡が減少したことだけは確実である。
2か月前の元々の予定では、今回は猪苗代湖南岸の低い山城を幾つか探訪することがメインであったのだが、寒波襲来による降雪と道路事情等を考慮し急遽計画を変更した。
旧田村町方面を除くと目ぼしい個所がそれほど残されている訳ではないような気もしなくはない。
本日の天気予報は「曇りのち晴れ」または「曇り時々小雨か小雪」と情報元によりかなりの幅がある。
昨日は予報が当たらずに本格的な雨または雪に見舞われることは無かったのだが、2日続いて天候に恵まれるかどうかは不透明である。
安全面を考慮すると降雪の影響を受けやすい西部地区は避けるべきであるので、やはりここは市街地近郊から阿武隈川東岸地域を回るのが無難であろうと考えた。
なおこの日は天候状態の判断と朝の通勤時間帯の道路混雑を見越していたために些か遅めのスタートになった。
凸桜内館(福島県郡山市)
9時10分から9時25分
2015年の秋に阿武隈川沿いに所在する城館跡を訪れているが、今回はその際に時間の都合などにより訪れることのできなかった、ほんの少し山の深い東側地域を中心に回ってみることとした。
横内集会所の西、県道を挟んだ向かい側比高15mほどの丘陵がその所在地とされている。
標高300m前後の低山の山間に小集落が点在している。
「まほろん」などの情報では「平場」が所在するのみの城館遺構であるらしい。
なお住所表記ではこの辺りは「西田三丁目」と記されてはいるが、住居表示である「西田3丁目」ではなく、あくまでも「三丁目」という大字名であるらしい。
さて西側の低丘陵が目的地であることは間違いが無いのだが、目標とする辺りに直接繋がるような道が見つからない。
止むを得ず南側から市道を迂回して丘陵の上の五差路となっている辺りへと向かってみた。
北東方向の手前に比較的新しい民家が2軒所在している一帯が目指すべき場所なのだが、唯一の道がどう見てもその民家への玄関口へと続いているのみであった。
西側の休耕地らしい地点から迂回を試みたものの叢生する民家裏の竹林に行く手を阻まれてしまった。
竹林を踏みしだく音は結構大きなものがあり、足元の状態も不明確であることから転倒しても困るので途中撤退することとなった。
凸西田山王館(福島県郡山市)
9時30分から10時40分
桜内館の東方約400mの地点に所在する。
名称のとおり館跡には山王神社の社殿が鎮座しているが、このように進むべき道が明確であるというのは有難い。
また神社麓でも軽ならば1台くらいは止められそうなスペースもある。
鳥居の先に北西方向に長く伸びた緩やかな参道の石段を上がっていくが、石段が北へと方向を変える個所はやや急な勾配となっている。
西側の桜内館に比べるとほんの少し山が深くはなるのだが、すぐ近くに民家も所在しているので
けっして人里離れたという環境ではない。
神社社殿とその東側を中心にして少なくとも4か所ほどの平場(削平地)を確認できる。
しかしこれらが中世城館跡に関わるものか、後の神社建立などの造成工事などによるものかその判断がつきにくい。
社殿は地山に所在している岸壁を削りそこに食い込むように建立されている。
なお北側からは車が通行できる道が上がってきている。
削平地の一部はその駐車場となっているようにも思われた。
なお、社殿西側から社殿の上へと続く山道(踏み跡)があり約150mほど先には奥社のような木造の小祠が存在していたが、この時点では倒木や風害などによりほぼ崩壊状態となっていた。
凸小矢館(福島県郡山市)
10時45分から11時15分
こちらも神社が所在していることから、少なくとも当該社殿までは道がありそうなので嬉しい。
県道115号線から高柴集落へと向かう市道を左折し約300mほど北上。
すると進行方向右斜めを登る狭い道がありこれを道なりに高柴二組集会所の方向に進む。
そこから約200mほど道なりに北上すると丁字路となりこれを左折すると進行方向右手に未舗装の林道を分ける。
その先は全く不明なので、1日当たりの通行量も数台程度と思われることから、ここで車を道路脇の空き地のような個所に駐車した。
北の方角に徒歩にて神社へと向かった。
比高差約20mほどの急な石段があるのでこれを登ると三渡神社の社殿が目に入った。
この辺りまで来ると流石に人家も少なくなり、一番近い人家でも南へ直線で300mとなってしまう。
あとから分かったことだが、その未舗装の道を車でそのまま登り途中で神社の方角へ戻れば境内へと出るらしい。
なお、東側約150mには小さいながらも「高柴ダム」の人造湖が所在しているように、この辺りの地形は谷筋が入り組んだ比較的水利の便の良い地形であるらしい。
この神社から南方へは谷津田地形がのびているのが見え、神社南から西へと向かう道路はそのまま谷筋を下ってゆく。
また、神社東側はほどなく三春町の行政区域へと続いている。
神社の背後にはお決まりの土塁状の地形が所在しており、この辺りの標高は360mを越えている。
しかしその現在のものはごく最近に修復されているものであることが素人目にも判別できるものである。
またたしかに一見土塁の様にも見えるのだが、実際には社殿の建立に当たりその背後の地山を削り取った地形であることも分かる。
尤も、「まほろん」などが指し示している地点は、この社殿から西へ約100mほど下った西側に張りだした尾根筋の辺りをいうようである。
むろんその先に明確な踏み跡などは確認できず、身動きがままならないような結構な藪でもある。
平場が存在するというだけの情報でもあり、かくしてまたしても撤退する羽目となってしまった。
凸板橋館(福島県郡山市)
11時35分から12時15分
前項の小矢館からは北北西約1kmの距離に位置するが、その来歴などは不詳であるらしい。。
「まほろん」などの情報によれば、西田町板橋集会所北側に所在する東側から張出した丘陵の先端部に所在しており、その南端部には熊野神社が鎮座している。
ここも神社が所在することから少なくともアプローチに苦労するようなことだけは無い。
麓からの比高差は15mから20mほどなので、それほど目立つような丘陵ではないが、いちおう西方の眺望には優れた地形であった。
熊野神社境内の方は特に目立つ地形は確認できなかったが、強いて挙げれば境内背後には腰郭のようにも見えなくもない削平地が所在していた。
尤も郡山地方にはありがちな圃場整備にともなう耕作地などであった可能性もあり何とも言えないところである。
丘陵は切通し状の市道により概ね南北に分断されているが、北西部には見事な屋敷構えの旧家が所在し宅地部分の法面が切岸跡のようにも見える。
またごく一部ではあるが西辺部には遠目にも低い土塁状の地形が目に入るがその経緯は不明である。
なお、丘陵の北端部に基壇上の地面の盛り上がりが所在しているが、小祠などが祀られていた跡のようにも見えた。
凸黒鹿毛城(福島県郡山市)
12時30分から12時50分
この辺りまで来ると、北側は本宮市との行政境まで約600mほどであり、驚くほど安達太良山方面の見通しが良くなる。
標高は僅か約350mほどなのだが、このように北方の眺望に優れた場所である。
また県道などの幹線道路からは少し離れているため、この字「舘」の集落は山村のような趣さえも感じられる。
「田村郷土史」などによれば、田村月斎の次男新田土佐守顕成の居城といわれているらしいが、
「同史」での名称は「黒鹿毛山館」として記されている。
また廃城は天正18年(1590)秀吉の奥羽仕置による田村氏改易の時期であるともいわれている。
現在容易に確認できる遺構は北側の東西に分断された一条の土塁のみであり、西側の比高差20mほどの本郭方面は藪が多く民家の裏山になっていることを確認するのみにとどめることとなった。
また東側にもそれらしいピークが所在しているが、同様の事情から確認できてはいない。
なお、南西約600mにはペグマタイトの岩脈で有名な鹿島神社がある。
凸八山田鹿島館(福島県郡山市)再訪
13時30分から14時00分
鹿島神社社殿裏の土塁地形周辺の再確認も含め、隣接する八山田館方面に赴く関係もあり再訪してみた。
当該土塁の北西側および北側の様子並びに北東部の谷津田などの位置関係もあらためて確認ができた。
凸八山田館(福島県郡山市)
14時15分から14時25分
前項の鹿島館からは西に僅か100mほどしか離れていない城館跡である。
両者は幅約100mほどの谷津田を境に近接しており、当該伝承の類を含めてやはり前項の鹿島館との関係がますます分からなくなってきた。
集落内の市道沿いに土塁状の地形が散見されるが城館跡との関連は不明である。
凸山崎館(福島県郡山市)
14時30分から14時35分
「福島県の中世城館跡」に掲載されているだけで、「まほろん」などには掲載されてはいない。
また、その所在地についても凡その位置が示されているものの、現状では丘陵北側の緩斜面というだけでこれといった地形上の特徴が見いだせない場所であった。
この日はまたしても天候に恵まれ、大方は曇りであったものの時々薄日の差し込むような天候であり、1日目に比べれば遥かに風も弱く小雪の舞うような場面もなく、相変わらず気温は低いものの城跡探訪には絶好の陽気であった。
けっして目ぼしい遺構に対面したという訳ではないが、成果のひとつとしてはひととおり旧西田町方面を3年がかりで廻り終えることができたことが挙げられる。
この季節には午後2時半を過ぎると太陽の傾きが早くなり、西側に厚い雲があればほぼ日没前のような日差しとなる。
けっして足のいくような成果を伴ってはいないのだが、また少しだけ郡山市の未訪問の城館跡が減少したことだけは確実である。
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