本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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郡山の滞在も本日ですでに3日目の朝を迎えた。
 もともと方向感覚はあまり芳しいとはいえない性質だが、これだけ滞在しているとさすがに東西南北や主要幹線道路など大体の方向感覚は掴めてきたようだ。
しかしいまだ県道などの詳細な路線は頭の中に入りきってはいない。

さて現在抱えている足回りの問題は、両足の足底腱膜炎、両足の内反小指、両足の中足骨痛症(種子骨症)、右足の骨棘ならびに両膝の関節症...とメモしておかないとすぐに忘れてしまう年代になった。
昨日は諸事情が重なり早々と撤退したが、昨晩はボルタレンの痛み止め+緩衝材+テーピングなど足回り対策を十分に施してみた。
今日はその効用を確かめるためにも多少無理してでも10か所以上は歩いてみよう。

「★」印は明確な城館遺構が現存していた個所
1.城館名、位置情報などは、主に福島県文化財データベース「まほろん」の情報に依拠している。
2.このほかに「危ない地名」三一書房、「コンサイス日本地名辞典」三省堂、「日本地名辞典」新人物往来社、「角川地名大辞典 福島県」角川書店、「中世城館調査報告書」福島県などを参照している。
3.なお「積達館基考」「積達古館弁」「相生集」などの近世地誌類については、このブログ記載時点では未照合である。
 
 
中田館(郡山市富久山町福原字中田) 午前7時40分から7時50分
 午前7時前にホテルを出たが通勤時間ということもあり郡山市内で少しばかり交通状態に巻き込まれてしまった。
東方の田村町あるいは三春町方面へと向かうバイパスもまたラッシュ状態に。
しかし最初の2か所の目的地がこのバイバス沿線なので迂回の仕様がなく。
現地は未舗装の細い農道がはしるような水田地帯なのだが、意外に車の通行が多いこととかつ暫時駐車するような場所も少ない。
工業団地西側の耕作地であり、無論遺構らしきものはない。
もっとも推定地の北辺では用水路脇に長さ100メールとほどにわたり土塁状の盛り土が現存している。これについては詳細不明だが、おそらくは近年の土木工事などに伴う残土置場の様なものかもしれず。
東側にはコメリ郡山の流通センターをふくむ工業団地が隣接している。


 
 

大鏑館
(別名を福原館とも、郡山市富久山町福原字古舘、字大鏑) 午前8時から8時15分

近代に建立されたものではあるが、グラウンドの南辺に大鏑館に関連する石碑が存在している。
この碑文によれば、「天正年間 大鏑館主福原蔵人当地を領し 田村清顕に属せし頃は 福原の人家は此地に在りしも 慶長の末奥州街道完成し 元和の初年に至り 人家悉く道筋に移るに及び....」と刻まれていた。
あくまでも当所に祭られていた神社の縁起に関する石碑ではあるが、こういう存在は実にありがたく感じる。
垣内氏の論考などによれば、大鏑館は戦国末期に田村氏が安積郡に進出する際の橋頭保となっていたことが指摘されている。
また「田村家臣録」(片倉文書)によれば、「田村宿老 橋本伊予守 福原城主 与力百騎」との記述もある。
またやや時代が下った蒲生氏の治世では福原の地が1540石として「蒲生領高目録」に記載されている。
なお、「郡山市史1巻」の記述によれば、天正16年の郡山合戦では伊達安芸がこの館の南方方面に布陣していたともいわれているようだが真偽のほどは分からない。






八丁目館(郡山市日和田町八丁目字鹿島後) 8時25分から9時00分
★郭、土塁、土橋、横堀、帯郭
八丁目集落の南端に位置する小丘陵の鹿島神社付近が城館跡の推定らしい。
東に阿武隈川、西側から南側にかけてはその支流である藤田川が流れて天然の要害を形成しているが、丘陵としての比高差は20メートルほどに過ぎずこのため東側と北側の防御性が不足している。
神社までの短い参道を西へと進むとすぐに狭隘な社殿のある削平地へと到達する。
この場所で目立つのは社殿背後の巨石であり、いきおいその背後の尾根続きが気になった。
林の中をいくらも進まぬうちに目に飛び込んできたのは間違いのない土塁状地形が尾根筋を遮断するかのように南北方向にのびている。
さらにその西側には土橋を伴う横堀が現存し城域の境界を明示していた。
北側には切岸の普請跡も窺われ、南側には帯郭状の地形も残されていた。
こうなると前記の巨石の存在も遮蔽物としての意味を感じ数十名程度が守りを固めるに相応しい砦のようなものの存在を感じさせていた。
郡山市史第1巻によれば、天正16年の郡山合戦の際に伊達氏側の軍勢の一部が布陣した可能性を示唆しているが、おそらくは高倉方面から阿武隈川西岸を南下する旧奥羽街道を睥睨し監視する役割を果たしていた可能性は濃厚であると考えられる。
無論神社があればすべてがこのような遺構の確認につながるわけではないが、1日目の「築館」に続いてさほど期待しないで訪れた個所でこのような遺構に対面できることの幸せをじわじわとかみしめていた。
下記の画像は堀底から眺めた土橋で向かって左側が城内である。





仁戸内館
(郡山市西田町根木屋字仁戸内、竹ノ内) 9時20分から9時30分
西田町根木屋地区の根木屋小学校北西側の丘陵であり、その北端部を郡山東バイパスが横断している。
丘陵の南西側には竹之内、二戸内などの城館関連地名を想起させるような小字名が残されている。
南東端の尾根筋、北西側斜面を観察した限りでは、全体として傾斜がきついことに加えて孟宗竹の密生と雑草の繁茂がすさまじく殆ど取り付く島がないという印象であった。
このため残念ながら未踏査である。





根木屋館
(郡山市西田町根木屋字根木屋) 9時40分から10時00分

根木屋集落の中心を為す日枝神社境内が城館跡として推定されている模様である。
参道の石段に伴う削平地、社殿の削平地、参道わきの地面の盛り上がり以外にはこれといってめぼしい地形を確認することはできなかった。
また、神社境内から北東方向の尾根続きの様子については、下記の画像のようにかなり藪がひどく立ち入りが困難であった。
「日本城郭大系」などの記述によれば伊藤将監の居館とされている。
下記画像は日枝神社社殿が所在する境内の切岸地形である。
 
 
 
 
 
木村館(郡山市西田町木村字古舘下) 10時20分から11時05分
★郭、小口、腰郭、横堀
 磐越自動車道と国道288号線郡山東バイパスに南北を挟まれた丘陵地帯に立地していたが、残念ながら北麓を横断する磐越自動車道の建設時に主要部分でもあった野面積石積を含む大手口の門跡など城郭遺構の一部が破壊されている。
このため現在確認できる地表上の遺構は丘陵上部に限られている。
しかし城郭遺構としての規模とその縄張の形態は戦国時代末期の様相を示し、同時代の山城として機能していたことが偲ばれる。
館主として在地土豪と思われる木村越中守の名が伝わっているが、戦国末期には田村氏家臣である橋本刑部の名が伝わっている。
垣内氏などの説によれば、その後は伊達氏勢力に併呑され佐竹氏などに対する構えとして大改修されたとされているが、発掘調査の成果などからは最終的には豊臣秀吉の奥羽支配により大手口などの破城が行われたことも推定されている。
城跡南部の丘陵上の共同墓地には橋本姓を名乗る墓石が目立ってはいたが、具体的に戦国期からの流れを示すような墓碑は見当たらなかった。
木村神社が所在する山頂へは南側の集落から車で隣接する駐車場まで直接行くことができるが、その際の林道工事によっても郭部分の地形改変が行われているものと思われた。
山麓からの比高差は約50メートルほどを測る。
「文禄3年蒲生高目録」によれば、「中 木村 1099石」と記され当地が一定の生産力を有していたことを示している。
下記の画像は上段部の郭から下段の郭群を見下ろしたものであるのだが、木々の繁茂により分かりにくくなっていた。



 
 
芹沢館(郡山市西田町芹沢字舘、馬場ほか) 11時25分から12時15分
阿武隈川右岸の丘陵地帯に存在している集落であるが、阿武隈川方面の見通しはほとんど効かないことから、どちらかといえば在地勢力による領域支配のための拠点であった可能性を考えたい。
芹沢集落全体がその領域ととして推定されており、馬場、舘などの小字名が残されている中心部から西側にかけて切岸や土塁などの地形の名残を感じるものがあったが、城館遺構との関連性については定かではない。
下記の画像は丘陵地帯などによくありがちな土塁状および郭状の地形で、小字馬場付近にて撮影したものである。





前 館(郡山市西田町三丁目字前舘、前田) 12時30分から12時45分
「まほろん」などによると、阿武隈川の東岸で県道115号線と73号線が交差する北東側の標高257メートルの丘陵がその領域として捉えられている。
現地の南部には熊野神社が所在しているが、北方の山頂部への踏査は藪がひどく歩みを進めることが極めて困難であったので未確認である。
しかし、神社境内は比高差5メートルほどを測る角度のある切岸が施され西方からの接近を拒絶する意図が窺われた。
「中世城館調査報告書」によれば郭、空堀の遺構が存すると記されている。
また、「日本城郭大系」によれば穴沢佐衛門尉成季の居館とも伝わるらしい。
麓からの比高差は約40メートルほどを測る。





平 館(郡山市西田町三丁目平舘、平) 13時45分から14時05分
呼称の通り阿武隈川東岸丘陵麓のへいちに所在している。
「まほろん」などによれば、前館の北麓に位置する平舘と平集落あたりがその領域として推定されているが、どちらかというと穴沢館に近い3軒の旧家が並ぶ県道73号線西側の平舘の方がより館跡に相応しい景観を残していた。
館主については穴沢館、前館と同様に穴沢氏とする伝承があるらしい。
下記の画像は小字平館付近を南側から撮影したものである。




・阿弥陀堂(郡山市西田町三丁目平)無住の堂宇だが、集落に社殿を伴う神社が見当たらないこともあり、集落全体を俯瞰できる地理的条件を満たしていたことから踏査してみた。
城館跡に関する伝承などは存在していないようだが、参道となる切岸や境内の削平地の人工的な形態が気にかかった。
 
   
 
 
 
穴沢館(郡山市西田町三丁目字穴沢、馬場小路) 13時45分から14時05分
かつては阿武隈川東岸の氾濫原である微高地に存在していたが、1980年代頃の圃場整備や小河川の流路改修などにより地表上からほぼその姿を消滅した城館跡である。
1982年の発掘調査により、掘立建物柱穴、経塚、陶磁器のほかに空堀、土橋などの存在が確認されている。
現状ではおおむね森林となっている辺りに主郭が存在していたものと推定されるが、樹木が鬱蒼と叢生しており内部の様子を窺う気力を奪われてしまった。
郡山市史第1巻によれば、天正16年の郡山合戦の際に伊達氏側の軍勢の一部が布陣した可能性を示唆しているが、おそらくは高倉方面から阿武隈川西岸を南下する旧奥羽街道を睥睨し監視する役割を果たしていた可能性は濃厚であると考えられる。
「相良文書」の北畠親房袖判沙弥宗心書状によれば田村氏の一族である穴沢佐衛門尉成季の居館であったとも伝わる。


 


鹿島館(郡山市西田町鬼生田字中田、杉内、土棚、内出) 15時00分から15時50分
「まほろん」の情報によれば、集落西側の丘陵先端部に所在する高野神社境内周辺が推定地とされ、当該集落内には中世城館跡関連地名である「内出」の字名が残されている。
神社への道は少し分かりにくいが、高野神社の標柱が建てられている集落内の道を南西方向に入り、さらに細道の分岐点を左へと進み神社標柱の個所から参道の階段を上がれば神社境内に到達する。
神社の造立に伴う普請との区別が難しいが削平地の周辺にはおおむね切岸が施され小規模ながらも要害を形成していた。
社殿脇には近代の造立ではあるが、館の由来に関する碑文も刻まれていた
谷間に開けた比較的小規模な集落であるが、公共交通機関である福島交通のバスは1日3便が運行されていた。
画像は南方からの遠望であり高野神社の一は中央やや左側の丘陵部である。
なお、参道のように見える細い登り道は民家への通路であり参道ではない。
なお、鹿島館の名称が付されているが、同集落には南東部の丘陵にも別に「鹿島宮」の祠もありその名称としての由来が分かりにくい。





見渡神社(郡山市西田町鬼生田字土棚、内出) 
高野神社とは集落の谷を挟んで東側対岸の丘陵先端部に所在しているので立ち寄ってみた。
前記の高野神社よりも集落全体の見晴らしがよく、神社境内そのものも規模は大きいのだが全体として丘陵としての傾斜が緩やかであり要害としての地形的な優位性を感じられず城館跡としての印象は薄い。
下記の画像は南側から神社境内を撮影したもので、神社特有の削平地のラインが明瞭に写っている。

 



こうして3日目は11城館+2神社・仏閣を無事に回り終えた。
また、足回り対策の効果は期待通りとなり夕刻時の痛みも従来に比べれば大幅に軽減された。
今回の遠征から使用したトレッキングシューズの方もまずまずだったので、これで当分は動けそうな見通しがついたようだ。
帰路郡山市の中央図書館に立ち寄り、2時間ほど午後6時過ぎ頃まで自治体史関係資料の渉猟に費やした。
夕食はかねてから気にかけていた「ソースかつ丼」にしてみた。
本場ものではないが、ガテン系の大きめの丼ぶりに味噌汁を足して税込760円は昼飯抜きの体にエネルギー充填を確信させる存在感があった。

訪城も最低限の数をこなし、まずまずの遺構にも巡り会えたのでここで一休み。
あすも丸一日を費やして資料のコピー取りに勤しむこととしよう。

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