本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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梅雨が明けて連日の猛暑が続くなか福島遠征のこの日を迎えた。
かねての予定通り午前6時拙宅集合。
今年に入って4月末の米沢、会津につづく2度目の東北遠征。
史進さんのご案内により郡山市を目指し一路東北道を北上。
米沢の時には往路で5時間半だったが、今回の郡山市まではわずか3時間半ほどで到達。
思えば郡山は2008年6月以来となる再訪。


水神館(郡山市) 午前9時30分から
東北道郡山インター南東丘陵の南東端に所在し、丘陵続きの北西部には県立郡山養護学校および福島県養護教育センターが隣接している。
また周辺は近年著しく宅地化が進行しており公園化されているとはいえ市街地の遺構を伴う城館跡として貴重な存在となっている。
比高約8メートルほどの丘陵の麓には水路が流れ地形としての優位性が伝わり、周辺には坦ノ腰、上ノ台などの地形、城館にかかわると思われる地名も残されている。
なおかつて文化庁が主導した「中世城館調査」などには含まれてはいない。
郭内は児童遊具が設置されてはいるが、折を伴う土塁跡も明確に残されており戦国期の砦跡にふさわしい遺構である。





向 館(郡山市) 午前10時00分から
現在ではおおむね宅地化されて地表に確認できるような遺構は殆ど存在していない。
然し当地にはいまでも「字向館」の地名が残されており、住宅内のカーブミラーなどにその地名を見ることができ、館跡の北部丘陵には当地を治めていたといわれている富田氏の墓地も所在していた。




富田山王館(郡山市) 午前10時40分から
 天正16年(1588)6月安積方面に侵攻してきた2万を超えると伝わる佐竹・蘆名勢に対して、伊達勢が寡兵(恐らく数千人規模か)を以て持ち堪えた「郡山合戦」(「窪田合戦」とも)が行われたという。
郡山駅近くの山王神社が伊達氏本陣ともされているが、こちらも同じ山王神社であり中世城館跡のひとつと考えられていることから立ち寄ることとさせていただいた。
北側が台地へと続く比高差8メートル足らずの丘陵先端部に山王神社境内が所在しているのみで明確な土塁などの遺構は確認できないが南側を向いた境内からは郡山市街方面が観望できる地理的環境にあった。



 
鹿島館(郡山市) 午前11時00分から
あまり期待しないで立ち寄ったが、丘陵東側の鹿島神社側には土塁跡、複数の腰廓、城道と思しき形跡が確認でき望外の収穫となった。
郡山市立行健第二小学校南方の半独立丘陵に所在している。
東側に谷津田が深く入り込む地形で丘陵と南側市街地の比高差は最大15メートルほどを測り南方方面の眺望に優れた環境にあった。
一帯には鹿島舘という古地名も現存している。


 
 

尾無館(郡山市) 午前11時30分から
日和田古館西側の丘陵に所在する数軒ほどの人家からなる大原集落内に、土塁と堀跡状の地形が僅かばかり断片的に残されている。
むろん往時の遺構に関係するものであるかどうかは分からない。
ちなみに「まほろん」に掲載されている遺跡データベースでは日和田古館の位置に重複しているが所在地自体は大原とされている。
また集落の北側を流れる用水路の対岸に「尾無館」の地名も残されているが、その地点は「黒沢古館」の所在地に重なってしまう。





日和田古館(郡山市) 午前11時40分から
藤田川南岸河岸段丘上に所在している。
現状の地形からも約50メートル四方の比較的小規模な方形館が想定でき、南辺を除いて堀を確認できる。
安積郡の有力領主であった伊東氏一族の居館であったことが推定されているようである。
多分この時刻くらいから次第に暑さが堪えはじめてきたというおぼろげな記憶がある。
おりしも東側の堀跡には白花の蓮が満開を迎えあたかも極楽浄土の盛夏を髣髴とさせるような景観が眼前に広がっていた。




黒沢古館(郡山市) 午後12時05分から
平地に所在していた城館跡の宿命ではあるが、現地はおなじみの圃場整備により旧来の面影は皆目消失せり。
暑さはこの時がピークの一つだったような記憶が。
蓮池となった先の堀跡や小休止した近くのビオトープで開花していた白蓮の花が目に眩しく焼き付いていた。




日和田館(郡山市) 午後12時30分から
「郡山の城館」(垣内和孝著/歴史春秋社)によれば南側を中心にして方形館に伴う堀跡、土塁、土橋などの遺構が良好に残されていると記されている。
東北本線日和田駅の北西に位置する丘陵東端部に所在し明瞭な区画をなしていることが窺えるものの、この季節は入り込むのが困難なほどの藪になっていた。
捲土重来を期すとしたいところなれども、果たして再訪の機会が残されているのか些か心もとない年代となってきた。




日和田背戸館(郡山市) 午後13時00分から
日和田館の東北本線を挟んだ南東の最大比高差約20メートルほどの独立丘陵に所在する。
現況は八幡神社の境内となっており、一部に土塁跡、腰郭跡と見えなくもない地形的特徴を残している。
駅前に駐車したついでに、日和田駅前の郡山市図書館分館に立ち寄り資料収集。





高倉城(郡山市) 午後13時35分頃
比高差約120メートルの比較的コンパクトな山城。
車で行けるらしいが、季節がらここははじめから直接探訪するという予定はなく、当初の予定通りに西側の麓および北側から遠景のみを観望して終了。
探訪する季節を変えて再訪する計画を立てるという楽しみにつながったと記しておこう。




仁井田館(本宮市) 午後13時45分から
高倉城の北方約1.5キロメートル地点に所在する河岸段丘のような微高地に占地している。
城館名となる仁井田は城域として推定されている南西側の5軒ほどの小集落の名称である模様。
ここから北隣の本宮市内に入ったのだが、めぼしい遺構がないようなので端からササッと車で見て確認を終了した。
後から気が付いたのだが、仁井田集落を周回する地図上の道路の形態の方が気になってしまった。
 
   
 
 
瀬戸川城(本宮市) 午後14時05分から
昭和40年代まで瀬戸川北岸比高差12メートルほどの丘陵南面に所在していたというが、削平盛り土などにより台地そのものの地形が大きく改変されているようだった。
「本宮町史」などの資料と現地をを照合してみると、おそらくは開析谷などの位置から桝形地区住宅地東側児童公園に説明版がある場所あたりが遺構の北端部に相当するのかもしれない。
児童公園の一角には防火用水槽が設置されているが、もとより遺構とは無縁な存在であろう。
台地南面に比高差を有すする3段の郭が階段状に構築されていたとされているが、葦名氏の侵攻を意識した伊達氏による戦術的な砦跡であった可能性は大きいのかもしれない。




日輪寺(本宮市) 午後14時30分から
会津葦名氏との合戦時における伊達正宗の陣城跡といわれている丘陵に所在している寺院で周囲の眺望に優れていた。
木陰を求めつつ彷徨するなか、境内の駐車場に日陰が残されていたことにほっと安堵のため息が漏れた。




人取橋の合戦場(本宮市) 午後15時から
国道4号線西側の瀬戸川南岸に茂庭左月らの墓碑が建立されている。
著名な奥州の古戦場なのだが、国道からの入り口が狭隘で分かりにくい。
討ち死にを遂げた左月の姓がそのまま一帯の小字名として継承されている。

 
 
 
青田館(本宮市) 午後15時10分から
堀跡の用水路がが集落の周囲に残され、北西側には外部に堀跡を伴う高さ3メートルを超える土塁も現存している平地の城館跡である。
また集落そのものに小字名である「館」の地名が継承されている。




青田古館(本宮市) 午後15時30分から
青田館の北側約100メートルの地点に所在する館跡で青田館とは異なり低丘陵に占地している。
曹洞宗大泉寺のあたりに古館、腰蒔などの城館地名が継承されている。
ただしこの場所は疲労が確実に限界に近づいて遠望のみにとどまることとなった。





三本松館(本宮市) 午後15時40分頃
麓の水田面からは比高差約70メートルほどの独立丘陵南東端に所在している。
この個所も気力、体力が限界のため周辺の県道の周囲から観望したのみで通過した。




小平潟館(猪苗代町) 午後17時00分頃から
天神浜の湖水浴場近くの駐車場から徒歩で南へ300メートルほどの地点に所在する遺構らしい。
猪苗代湖に注ぐ西へと流れる水路沿いに幅数メートルほどの堀跡らしい窪地と土塁跡とも見えなくもない藪の中の盛り土のような地形を確認できた。
クマ出没注意の看板等が気がかりでそれ以上の探索には至らなかった。





今年4月遠征時の際の反省をもとに今回は熱中症対策に配意。
日よけ対策、経口補水液による水分補給も怠りなく遂行。
それでもへばる猛暑の最中の城館めぐり。
会津若松市内で食べた夕食の「とろろそば」(宮古そば処「分家吉兵衛」)が体を労わるように消化していった。

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無題
お疲れさまでした
郡山方面の探索は幾分無謀でしたね^^
その反省が二日目以降に繋がったのでそれはそれで(笑)
小平潟館はあの場所であっているみたいです
町史に堀と土塁が点在すると書かれてました
ししんみちのく 2015/08/07(Fri)21:21:46 編集
Re:無題
初日中通り方面の暑さもかなりのものでしたね。
道すがらとはいえパスすべきような個所にまでお立ち寄りいただきありがとうございました。
そのため後半のエネルギー配分に支障がでましたようでお詫びをいたします。
【2015/08/08 12:12】