05 | 2025/06 | 07 |
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関東地方は7月に入りましたが、まだまだ梅雨明けでもないのに暫くは真夏のような天候が続きそうです。
この先に到来するであろう深刻な水不足と酷暑の日々も思いやられます。
こんな時にこそ日頃の健康管理と体力維持が肝要なので、体重減もかねて城館探訪 へ ^^
けっして横浜方面に飽きたということでは無いのですが、今回は少しだけ気分を変えて全くといってもよいほど地理不案内な川崎市から町田市の都県境方面を西から東へと移動してみました。
小田急鶴川駅で下車し駅前の小田急ストアで、カレーパン2個(朝、昼の2食分)とキリン生茶1本を補給し、前回のごとく朝食代わりとなるカレーパンを齧りながら町田市の青木屋敷方面へ。
凸青木屋敷(東京都町田市金井町)午前7時05分から7時50分
探訪に際して参考にした資料は毎度お馴染みの「城郭大系」と「東京都の中世城館」(戎光祥出版)ですが、「城郭大系」の方は、その所在地を町田市大蔵町としている一方で、同市金井町の青木屋敷の口碑に関する情報を掲載するなどの混乱が見られます。
またそこに登場する青木氏が飯能付近を拠点とした丹党青木氏一族と関連するものなのかも不明です。
果たして屋敷地に相応しいかどうか多少の疑問も残る北側緩斜面と、念のため南側の丘陵周辺も時間をかけて散策。
確かに北側緩斜面一帯は比較的平坦な河岸段丘なのですが、この緩斜面との比高差が最大で30mに及んでいた南側丘陵削平以前には、今よりも日照条件が不利であることが想像されました。
1.台地先端部からの眺望
また南側丘陵部については、全体として大きく丘陵部が削平(いわゆる切土)を受け、標高81.2mあったとされる地点は約10mほど低くなりピーク状地形の面影は全くありません。
その北東側の部分も5mほどの削平を受け、辛うじて残っていると思われるのは旧家西側の標高76mほどの丘陵部です。
しかしこの部分も最大で4mほどの削平を受けている形跡がありました。
2.最も旧情を伝えていそうな地形
凸阿部某屋敷(神奈川県川崎市岡上)午前8時10分から8時50分
比高差10m前後で、前項の青木屋敷からは徒歩1.5km、小田急鶴川駅からは徒歩約800mほど。
途中でいくつかの中世城館の比定地に相応しそうな地形をのんびりと眺めながら少しずつ東へ東へと移動していたためかなり時間を浪費しました。
いちおう頭に浮かんだ比定地は次のとおりです。
「A一番手前の西寄りの丘陵、標高最大82.5m」
「Bその東側の谷戸地形、標高50m未満が大半の低地」
「C岡上小学校南側のこんもりとした丘陵先端部、標高約80m」
「D岡上神社が鎮座する丘陵、標高約60mほど」
「Eその東側の東西方向にのびた細長い丘陵、標高50m強」
「城郭大系」が示している「阿部ノ原」が、その記述通りに「城山と上三輪との中間の標高53mほどの耕地をいい、城山より西方に300mの距離がある」という記述が仮に正しいとして、西方300mと標高53mの条件に該当するのは「D」もしくは「E」ということに。
これに地形としての防御性を加味すると「E」が有力となりますが、そうした適否はその時代背景の設定次第で変わりますので何とも言えないところです。
凸沢山城(東京都町田市三輪町)午前9時00分から9時45分
地元の地主さんの永年のご尽力で、現在にまで引き継がれている戦国期の城郭ですが、一般にその存在自体が認識されたのも1970年頃の様です。
比較的規模の大きな3つの郭と櫓台、空堀、土塁、複雑な屏風折を見せる中腹の腰郭などから構成されていますが、城域自体はもう少し広いようで西側は熊野神社の辺りまでを含む東西500m、南北350mの概ね丘陵全体がその範囲であったとも指摘する見解も有力なようです。
1.二の郭切岸と空堀 2.東側からの全景
こちらを拝見するには、沢谷戸自然公園南西部の入り口脇の尾根筋から入らせていただきます。
ご自宅に近い民有地でもあることから、基本は櫓台とも推定されている「七面堂」への参拝者に限られ、拝見できる個所は3つの郭付近のみと限られてはいますが、市街地近くで戦国期の土の城を鑑賞できる大変貴重な遺構でした。
凸亀井館(神奈川県川崎市下麻生)午前10時50分から11時30分
比高差約15m、沢山城から徒歩にして1.6km。
推定地は東端部に月読神社が所在する台地。
北西部で台地とつながる個所を除き
地元の伝承から義経家臣亀井六郎の館址とも。
台地の大半は住宅地で明確な城館遺構に繋がる形跡は不明。
神社境内および東側参道付近に微妙な案配の人工地形確認。
1.月読神社境内 2.神社東参道沿い
敗者に連なる史実を追うことの常として余りにも史料、資料不足。
何時の世でも、「歴史は勝者が著す」もの。
敗者に残されたものは、往々にして勝者の視点で歪曲された不名誉な末路。
凸下麻生陣屋(神奈川県川崎市下麻生)11時45分から12時00分
「新編武蔵風土記稿」に旧陣屋があったと記されているのみ。
鎌倉期以前の武士の屋敷、館も「陣屋」、戦国期の館城のようなものも「陣屋」、家康の関東入府以降から寛永期頃までに多く設置された旗本陣屋も「陣屋」ということもあるので、的を絞り様がないという現実が。
そもそも「下麻生村の北の方」という記述だけで領主名、陣屋名、時代背景、具体的な所在地なども不明。
またもや「古城址探訪」さんのサイト情報のお世話になり、キリスト協会のある丘陵中腹へ。
とはいえ宅地化され尽くした感のある周辺には、遺構に繋がるような手掛かりなど見つかる僥倖などあるはずもなく。
協会付近からの眺望
この時点で時刻は正午過ぎで、予定していたタイムスケジュールより前倒し。
今後の見通しは全て足の状態如何。
2時間前くらいに服用したロキソニンの薬理作用も次第に減衰。
しかし副作用の多いとされるもう一つの方は最後の手段として温存。
川崎市バス発車あとを恨めしく見送ると同時に小田急バスが後方から接近。
「やれ嬉しや」とばかりに小田急柿生駅まで乗車し、小田急で読売ランド駅へ移動。
凸寺尾城(神奈川県川崎市菅馬場)13時00分から13時15分
比高差は約30m、小田急読売ランド駅から徒歩約1.3km。
往路はもしも元気ならば徒歩20分弱で辿りつくはずの所、生憎と緩い登りが坂が続き、下ったと思えばまだ登り坂となり、その足取りは折からの暑さと空腹のため鉛を引きずるような按配に突入。
この時点ですでに歩行歩数は2万歩超に。
こうなってくると、もう一つ購入しておいた昼食用カレーパンに全く食指が動かないような疲労も発生。
このようなときに限り、遺構がやや不明確。
自然地形の谷のようにも見えなくもない空堀跡らしい竪堀、掘り込まれた古い山道とその両側の地形に腰郭のようにも思える地形も確かにあります。
いずれにしても、これで漸く秩父、横浜、川崎と関東寺尾城トリオが完成に。
帰路はこのようにそこそこ疲れていたこともあり、無理せずに馬場南から駅まで小田急バスに乗車し読売ランド駅へ向かい小田急向ヶ丘遊園駅に移動。
バスと電車に続けて乗り継ぐことで、結果として足への負担が緩和され、いくぶん足の痛みは小康状態。
凸枡形山(神奈川県川崎市多摩区桝形6丁目)14時25分から14時40分
比高差は約60m、バス本数が少ないので小田急向ヶ丘遊園駅から徒歩約800m+比高差60mほどの坂道付。
この駅に下車したのは恐らく60年以上以前のこと。
物心ついた頃に家族で訪れていた微かな記憶も。
枡形山30年以前から市民公園として利用されていることもあり、平日の午後という時間帯でしたが山頂は軽スポーツで走り回る家族連れで満員状態。
このため被写界に人影のない構図を決めるのに一苦労するような有様。
1.山頂の主郭 2.北尾根筋の馬の背
城址公園やメジャーな近世城郭は殆ど出向かないため、城跡関係でこれだけ多くの人を目にしたのは2008年6月に訪れた福島白河小峰城にて保育園の遠足集団に遭遇して以来のこと。
郭跡は城跡らしからぬ展望台付の広大な運動広場と化し、急峻な山頂部の地形などを除くと城跡とは思えないような佇まいでした。
城跡石碑周辺も人と手荷物の夥しさなどで大いに賑いを見せていました。
元々人ごみを好むような性質ではないこともあり、トイレをすまして最低限の撮影を行い即刻撤収。
凸稲毛氏館(神奈川県川崎市多摩区桝形6丁目)14時50分から15時00分
前記枡形山山頂から5分ほどで到着する北へと下る通称「暗闇坂」の麓近くの尾根筋先端部。
歴史的に有名な畠山重忠が討ち死にを遂げる北条氏の陰謀に巻き込まれた秩父平氏一族の鎌倉御家人稲毛三郎重成の居館とも伝わる場所で、現在は真言宗豊山派稲毛山広福寺境内となっています。
一般には史実とは遊離しているようにも評されている館址ですが、伝承は伝承として語り継がれてきた経緯、背景に想像を膨らませる楽しみも大切です。
1.山門近くにて 2.北山門を山腹から見上げたもの
寺院境内と麓との比高差は約12mほど。
すぐ西側には専修大学のキャンパスがあることから、地図読みをするまでもなく、人の流れについていくと勝手に駅前に到着。
時刻は未だ午後3時過ぎ、日没までは3時間以上の余裕。
この後は東隣りの長尾陣屋跡へ赴く当所の予定。
すでにこの時点で5か所探訪という最低限の目標クリア。
相次ぐ藪蚊の襲来と現下の足回り事情を慮り 撤退を決断。
より分かり易くいうならば、藪蚊に刺されたあまりの痒みと帰りの電車で座りたいので夕方以降の通勤ラッシュ時を避けたまでのことです。
しかし、登戸はともかく武蔵小杉での乗換時のコーンコースと階段の多さに辟易。
数年前には週3回も出かけた時期もあったと記憶。
今回のように目的地が市街地ではなく、当時の移動は基本的に車仕様。
しかも還暦前で今よりは身体能力に格段の差異。
何しろ前回から中三日での城館探訪。
むろん足元の回復具合が懸念材料。
暑さなどで朦朧となりつつも、どうにか約37500歩、だいたい28kmを完歩。
路線バスに大いに助けられ、その有難味を思い知る。
かりにそれを歩きとおしたと仮定するとその距離約4kmに。
恐らく体力の消耗は限界に突入かと。
さて今回使用したニューバランス製ウォーキングシューズMW880。
おおむね約2万歩あたりまでは左足踵の痛み軽減にある程度の効果を発揮。
移動手段が車の場合には殆ど2万歩以内になることから電車・バスを利用しない地方遠征には大いに役立つ可能性大。
なお、本日の体重は今年に入ってから最低の85キロ台を達成し、今年の1月からは8キロの減少し、近年細くなる一方の太腿、脹脛も以前どおりにじわじわ復活。
とうとう5回目となる横浜市内の城跡めぐりになりました。
この日も予定通り自宅を午前4時半に出発。
定刻通り午前6時43分、JR横浜線中山駅に到着。
今朝は全く飲まず食わずなので、カロリー補給のため駅前のローソンでビーフカレーパン1個を購入。
さすがに「袋に入れますか」とは聞かれずにシール貼付のみ。
小銭が財布に貯まるのが面倒で、委細構わずにカード購入。
凸小山陣屋(こやまじんや、横浜市緑区小山町) 7時30分から7時50分
JR横浜線中山駅から恩田川に沿って徒歩約1500mほど。
中山駅北口で下車し駅前外れの公園で先ほど購入したカレーパンで朝食。
より正確に言えば、カレーパンを食べながら公園に向かいそこで完食。
近年では大分減ってきたとはいえ、横浜市内も緑区のこの恩田川沿いの低地になると、まだ所々水田耕作もされていて青苗が元気に生育を始めていました。
開幕前の文禄年間に、旗本荒川長兵衛重世がこの小山村を知行した頃の陣屋跡と伝わります。
最初は「古城址探訪」さんのサイト情報をたよりに、地元の農園のあたりをふらふら。
恩田川沿いの自然堤防のような微高地です。
くわえてこの時点で、すでに蒸し暑さのために汗だくとなり足取りもふらふら。
1.先日訪れた榎下城 2.小山集落の一角
次にもうひとつの可能性として旧小山町北西境付近も訪れてみました。
無論、現代になり小山村は西八朔町から一部編入をうけているようなので、町名とその境界の変遷を詳細に調べてみる必要があります。
これは「新編武蔵風土記稿」に「村の西北の隅にあり」という記述をあくまでも字義どおりに解釈してみたもので、それ以外に根拠のあるものではありません。
前者と同じような自然堤防の微高地ですが、なんといっても集落外れの道の曲がり具合がよかったのです ^_^;
3.小山集落北西境付近
凸八朔陣屋(はっさくじんや、横浜市緑区北八朔町) 午前8時50分から9時10分
小山陣屋付近から北方の丘陵越えで徒歩約2300mほど。
なにげに唾液が刺激され、耳下腺にちょっとした違和感を感じるような地名でもあります。
小山陣屋からひと丘越えるルート沿いの地形にも興味がわきます。
1.世尊院までの丘陵越えルート 2.同 左
3.谷戸の開墾地形 4.美しい崖線部
「城郭大系」「新編武蔵風土記稿」などにより推定されている陣屋跡は現在の世尊院境内ですが、境内自体は約500平方メートルにも満たないような丘陵中腹の狭隘の地です。
しかしこれに境内背後の墓地続きの削平地2か所を含めてると、約1500平方メートルくらいとなり「新編武蔵風土記稿」の「一反八畝」という記述にはおおむね合致はします。
しかしここで少しややこしいのは、西八朔村と北八朔村の関係。
元々は一村であったものが、近世以降に分村して、現代になり一部が北八朔と西八朔町の間で編入交換されているようです。
この辺りのことを調べ始めると明治初期の町村合併に始まるその後の経緯を追わねばならず、机の周りが資料の山積みとなり収拾がつかなくなりそうなのが怖いのであります。
1.世尊院本堂 2.同寺境内からの眺望
3.墓地脇の削平地
「所領役帳」によれば後北条氏家臣の笠原氏の所領とも。
近世に入り久世氏の所領とされた時期もあるようなので、その人物関係を含む明確な伝承が遺されていないということは、ため池工事が行われた際に笠原氏関係の屋敷跡を一時的に再利用したという可能性もあるようにも思われました。
無論あくまでも可能性のひとつとしての空想であります。
凸谷本城(やもとじょう、横浜市青葉区藤が丘) 午前9時40分から10時20分
麓との比高差は約20mほど。
「新編武蔵風土記稿下谷本村の条」に「台山 村の中央にあり、また馬場台ともいえり、このあたり城跡なりといえり 」がほぼ唯一の城館跡としての手がかりですので、あくまでも伝承の域を出るものではないようです。
北東には東名横浜青葉インターがあり台地東端部には谷本小学校が所在。
こちらも「古城址探訪」さんのサイトを参考にさせていただきました。
住居表示以前は下谷本町の範囲で、現在は藤が丘と命名。
すぐ南側の千草台公園から丘陵の様子を撮影、と思ったら、何と「台」と名がつく公園は谷底に存在していしました。
比高差20m前後の宅地開発された低丘陵の場合には、等高線情報が曖昧であることが多く地図上からの地形判断に苦労します。
1.谷本小学校 2.谷本小学校脇の坂道
3.東側東名インター側から
もう一つは杉山神社がその中腹に鎮座する南側の千草台付近も訪れてみました。
こちらもほぼ同様の台地地形で、両台地の谷戸に存在しているのが前記の千草台公園にあたります。
4.千草台の坂道 5.杉山神社社殿
明らかに事前の準備が不足しており、あらためて地元郷土史、伝承関係の文献などを当たらねばと思う次第です。
凸上原館(横浜市青葉区市が尾町) 午前10時50分から11時25分
一般に真言宗東福寺が上原氏の館址と推定されています。
前記の谷本城の対岸台地に所在し、その距離は約800mほど。
境内西側に高さ2mほどの古塚もあります。
これを城跡に関連する土塁、櫓台などと見るかどうかは何ともいえないところです。
むしろ同寺が所在している台地の切岸状地形が印象的でした。
「横浜の戦国武士たち」(2012年/下山治久 著)によりますと、上原氏は後北条氏滅亡後に市が尾に帰農し、その後は代々名主を務めたということです。
1.東福寺西側崖線部 2.左 同
3.真言宗東福寺本堂 4.浅間塚或いは古墳
上原氏が開基と伝わる曹洞宗朝光寺も訪れました。
「新編武蔵風土記稿」には「五輪塔」が所在すると記載されていましたが、見当たりませんでした。
立地条件はこちらの方が眺望も良好で、谷本城方面も一望できるはずなのですが、東名自動車道が障害物となって視界を妨げておりました。
5.曹洞宗朝光寺山門 6.同寺駐車場からの眺望
凸荏田城(えだじょう、横浜市青葉区荏田町) 12時25分から13時00分
事前の情報のとおり私有地のため立入不可。
東名側道方面から切岸のラインを目にすることが主目的。
この季節ゆえ事前の不安は的中。
予想に違わず叢生する草木しか見えないという景観。
また、南西部の標高の高い個所が城域ではないことに些かの違和感も。
1.深坪橋から 2.城跡はこちらの方らしく
3.やはり見えない
ここで念のため歯を食いしばり少し迂回。
せっかくなので北東側の東名高架下からも拝見を試みました。
しかし努力の甲斐もなく、やはり眼前には濃緑の丘陵風景が広がるのみでした。
4.東名高架下から
この日の気温は30度前後、時々日差しが雲隠れ。
それほどの暑さではないものの、何と言っても90% 前後という高湿度。
かいた汗が全く乾かないので体の冷却機能も半減。
このため、持参した経口補水液以外にも自販機で4本の水分補給。
さて藪蚊に食われることを厭わなければ、まだまだ3か所くらいは廻れそうな時刻。
しかし、それよりも最初の一か所目の終わり頃から早くも左足に違和感。
痛み止め服用と、用意していた足回りの応急処置が無ければ2か所目くらいで撤退の可能性も。
遺構も所在も定かではない4か所に、遺構はあれども近づけないという城跡1か所という次第。
それでも足を引きづりながらもどうにか30000歩、約20kmに。
当所の予定通りの5か所でも健闘に値と自画自賛し引き揚げ。
本日の総費用は、
往復の電車賃1544円、
これに市が尾から荏田までの一駅分が170円、
昼食代が800円、
ビーフカレーパン126円、
自販機飲料代460円、
以上で計3100円也。
今後のことは、足の痛み(⇒踵骨棘または足底腱膜炎など)と気力次第に。
「神奈川県城跡めぐりの旅」は、これから先まだまだ続くのかどうか本人にも不明。
月曜日以降ほぼ雨が続いています。
体の方はほとんど回復しましたが、梅雨時とはいえ空模様は何時雨が降ってもおかしくない日々が続いています。
ここらあたりで気を抜くと正しく例年通りとなり、クマ出没、草木叢生、梅雨、猛暑、残暑、台風、秋の長雨と続き、そのうち木枯らしが吹きすさび、やたらに眠い日が続き、雪が舞い、道路が凍結して、正月太りして、やがて春を迎え、クマが目覚めて...などということになりかねず。
ここは気を引き締めて横浜探訪を継続したいところですが、今日も天気予報では降らないはずの雨が降り出かけなくて正解でした。
当面のところ目指すは横浜市緑区方面、天候の回復は日曜日ないし月曜日あたりでしょうか。
前回の6月10日以来、天候事情に左右され続けて9日ぶり、連続で通算4回目となる横浜古城めぐりへ。
だいぶ馴染となってきた感のある日吉駅からそのまま市営地下鉄グリーンラインで川和駅まで。
今回は川和駅周辺に限定して、できるだけ徒歩による移動距離を圧縮。
何故これほどに横浜方面に拘泥するのか自分でもまったく不明。
「遺構のなさ具合」と「偶に見ることのできる遺構に限らない様々な証」との落差が興味を惹くのかも知れず。
なお今回も前回にひきつづき、「古城址探訪」様のサイトからご教示をいただいております。
凸川和城(神奈川県横浜市都筑区) 午前8時00分から8時20分
地下鉄グリーンライン川和駅から徒歩約400m、比高差約20m
「城郭大系」では、妙蓮寺が所在する丘陵付近に「土塁」が見られたとの記載が。
「新編武蔵風土記稿」では「川和城塁」と記載されています。
そうはいっても恐らくは1970年代後半頃の調査なので、宅地開発等が進行した現在では影も形も見ることができないであろうことを承知のうえの探訪です。
案の定想定される妙蓮寺裏山一帯は墓苑整備によりその旧情を偲ぶには程遠い景観が広がっています。
それでも、画像8のように比高差20mほどの城山付近からの眺望は確かに優れていることが分かります。
また、この丘陵の東に谷戸地形があり「館」が所在していた可能性を示唆していますが、現在では画像7のように川和団地の建物が立ち並んでいます。
それでも僅かに谷戸の北西側に当時を偲ぶようにも思えなくもない画像10のような崖線地形が遺されておりました。
1.日蓮宗城根山妙蓮寺 2.城根山の石柱と山門
3.本堂裏の丘陵斜面 4.たぶんホタルブクロ
5.ネコさんに遭えなかったので 6.妙蓮寺墓地
7.館址とも伝わる谷戸 8.城山付近から眺めた西方
9.丘陵跡 10.谷戸の北西丘陵辺縁
凸伝・池辺城、加賀原(神奈川県横浜市都筑区) 午前8時45分から9時10分
川和城から徒歩約600m、比高差約25m
「城郭大系」によりますと、県立川和高校の東側あたりから南へ続く丘陵一帯に大丸、小丸、三の丸、中丸、二の丸(現都田公園付近)などの古地名が遺され、ついつい城館址との関わりを想起してしまうものがありますが、その詳細については不明の模様です。
加賀原はおおむね先の二の丸南方に隣接した丘陵一帯で、現在でもそのまま町名として遺されていましたが、この地名が「新編武蔵風土記稿」に記されている加賀原と完全に一致しているのかも不明です。
城郭愛好者の間ではあまり評判の芳しくはないともいわれる「日本城郭全集」では、現在の池辺町に加賀原という台地があり「池辺城」が存在し、中田加賀守の城であったことが記されていますが、その出典もまた不明です。
1.月出松公園(縄文早期の建物遺跡) 2.同 左
3.月出松公園南東側の丘陵 4.高さ1.5m以上の切岸
5.人口的地形の趣 6.削平されている形跡
7.それらしい地形 8.加賀原の地名は定着
「古城址探訪」様のご教示によれば、「月出松公園」の南東丘陵には、たしかに現在でも人工的に成形された斜面を伴う地形が屈曲した形状で遺されていました。
この丘陵は画像4から7の地点を最高点とした南北方向に細長い地形の丘陵でその南端部までは約400mほどの長さを有しています。
元々は西側に並行する坂道を含むもう少し幅の広い地形ではなかったとも推定されますが、ピーク付近では画像のように魅力的な県観を呈していました。
南東方向に伸びている地形でもあり、木々の成長具合などから戦中戦後の食料困難時代なとに耕作地として利用されていた可能性も考えられますがとても気になる地形でした。
凸池辺陣屋(神奈川県横浜市都筑区) 午前9時45分から10時20分
池辺城から徒歩約800m、最大比高差約15m
伝・池辺城から小さな丘陵を登りそのまま南東方向へ進んだところに、現在でも西から観音寺、阿弥陀堂、陣屋跡とほぼ一直線に並んでいるとおり、画像2の切通し地形からは元々は台地として繋がっていたことが窺われます。
松平忠吉の家老である小笠原氏の陣屋としての詳しい位置関係は不明ですが、「所領役帳」などからはそれ以前には後北条氏家臣であった座間氏一族との関連を示唆しているようにも思われます。
1.西方の観音寺 比高差約10m 2.観音寺と東方の阿弥陀堂の間
3.阿弥陀堂 4.阿弥陀堂から眺めた東方面
5.陣屋跡と伝わる台地 6.真言宗宗忠寺
7.阿弥陀堂から陣屋跡に向う台地 8.忘れていた池辺の地名を撮影
凸佐江戸城(神奈川県横浜市都筑区)午前11時15分から12時15分
池辺陣屋から徒歩約1.2km、鴨居駅まで徒歩約1.2km、最大比高差約25m
現在でも無量寺の北西に位置する杉山神社境内北東の丘陵上に長さ約40mばかりの土塁とこれに伴う空堀状地形が残存していますが、城郭遺構としての全容を想像するには些か不足気味です。
付近一帯は神社境内、寺院墓地、一部宅地のほか市民農園のような形区画形質が大きく変更され利用されていました。
1.無量寺と杉山神社 2.杉山神社麓
3.社殿奥から土塁の個所へ 4.空堀と土塁
5.土塁と空堀 6.推定郭付近から南西の眺望
7.土塁と空堀 8.手前が郭で奥が空堀か?
ここについても「古城址探訪」様のご教示から、県道45号線の地蔵尊北の小尾根付近に気になる地形が所在しているとの情報を得て、前記の場所から丘陵を南北方向に縦断してみました。
以下の画像9から画像12からも分かるように、切岸状の地形を含む削平地も散見されます。
無論後世の耕地開発に伴うものである可能性も考えられますが、都市部の中に遭って森閑としたその光景には目を見張るものがあります
9.比高差約25m 10.昼でも暗い小道
11.切岸にも見える地形 12.削平地らしい光景も
凸榎下城(神奈川県横浜市緑区) 13時25分から13時分
中山駅から往復約1.6km、比高差10m前後
ある程度遺構の保存状態が良好であることか期待できた城跡ですが、やはり探訪に不向きなこの季節ならではの草木の繁殖でぼぼ塁線が見えません。
より正確に言えば、ありがちに言えば肉眼では確かに見えるのですが、デジカメにはただの木と草の塊という次第です。
寺院境内が南郭、これに付属する北側の墓地が主郭、その北側が的場とも呼ばれる郭などから構成されています。
北側を除く三方が空堀で防御されていたと推定されていますが、宅地化の著しい現在、その面影を辿ることは難しいという印象がありました。
あらためて季節を変えて再訪することの必要性も感じました。
1.舊城寺への通用口 2.北側の切岸
3.舊城寺山門 4.南郭南側土塁の西側部分
5.南郭南側土塁の東側部分 6.主郭南西部
7.南郭から見た主郭 8.主郭北側先端部
9.的場付近の様子 10.西側の切岸
11.土塁の張り出し部分 12.同 左
以上5か所を探訪した時点で未だ午後2時前なので、余裕であと2か所くらいの探訪は十分に可能な時刻ではありました。
本来は佐江戸城のあとに幾分遅めの昼食を予定。
ところが日曜日ということもあり目当ての蕎麦やが満員大盛況。
元々並んで待つのは好まない性質で、仮に2食抜いても問題のない体質ゆえ、こういう場合にはスケジュール前倒し。
こんな時のために、予め2か所ほど予備の探訪先を用意済み。
しかし積乱雲が垣間見られたような今後の空模様と、極度の発汗に伴う疲労、今後のモチベーション維持などを考慮して、当初の予定通り帰還を選択。
午後4時過ぎには自宅に到着しましたが、ほぼ時刻を同じくして予想通り夕立が降り始めました。
今回は自宅から最寄り駅までの往復を含めても、約27000歩と久しぶりに20km程度の歩行距離に収まりました。
この距離だと足への負担が軽微であり、後日このブログを記述しているように2日ほどで回復。
横浜方面4回目にして、ようやくスケジュール通り無理のない探訪を行うことができました。
この夏は今後もこんなスタイルで余裕のある城館址探訪をしていきたいものだと、褐色に日焼けした両腕を眺めつつ深く心に刻みつけました。