本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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午前6時半に自宅発で三芳PAから関越道を北上。
今回の目的地は10月8日にも出かけた新潟県南魚沼市。
群馬県に入り次第に雲量が増加。
例年この時期にはよく見えているはずの赤城、榛名の連峰も薄雲がかかりボンヤリと霞んでいた。

昨日の午前中までは、いちおうは晴れの予報。
しかし午後からの予報では概ね曇りに変わっしまっていたのが気がかり。
上越国境に近づくにつれて、やはり少しずつ雲行きは怪しさを増していた。
待ち合わせポイントである関越トンネル手前の谷川岳PAからは、気流の乱れが手に取るように観察できるぼどであった。
高速道路情報でも、「降雨 路面注意」の掲示がされ始め、長いトンネルを抜けるとやはり小雨となっていた。

唯一の救いは、目的地はここから40kmほど先の平地部の低山であること。
石打・塩沢インターまで北上すると、雲に覆われた前方の景色は次第に明るさを帯び、小雨も止み始め路面も次第に乾きはじめていた。


雷土城(新潟県南魚沼市)
午前10時40分から12時20分(山頂での昼食時間含む)

西福寺の駐車場脇の林道を車でそのまま登る。
林道終点には舗装された駐車スペースが存在し、3台から4台位は駐車可能。
むろん、我々のグループ以外に訪問者は見かけず。
このまま今回の尾根筋歩きでは、ハイキングを含む他の訪問者には出会えず。


  湯谷城から雷土城方面

駐車場所からは先ず南東約700mほどの地点に所在している比高差約90mのピークを目指した。
城域の西限には堀切が所在。
尤も、南北方向に峠を経由した里道もあることから分かりにくい。


  たぶん西側の堀切地形

城山と名付けられた雷土城の山頂部までの比高差は更に60m以上。
これに加えて二重堀切と鎖場などがあるので、郭面の兵站部は余り広くは無いもののその防備は万全であるようにも思えた。
尾根筋の形状も総じて痩せ尾根状を呈しており、南北方向の自然地形の有利性が生かされていた。


鎖場の堀切の高さは概ね6mから8mなのだが、登ってみるとなかなか登りがいがある。

湯谷城へ向かう尾根筋も比高差30mほどの下りではあるが、鎖場などもあり中心部となる郭群の防備は厚い。

山頂では少し早目の昼食を摂った。
参加者全員が「南魚沼産コシヒカリ」の握り飯であった。

 
  雷土城(板木城)主郭

疲れていることに加えて、次第に天候が回復し景色も眺めることができるようになり、その美味さが倍加していたように感じた。


  主郭西側の桝形虎口



   雷土城と湯谷城


湯谷城(新潟県南魚沼市)
午後12時20分から14時30分(復路の駐車場までの所要時間含む)

このあたりでは天候もすっかり回復し、遠望は効かないものの雷土城の山頂部より標高はさらに14m高いこともあり見晴らしは良好。
雷土城の鎖場を含むアップダウンなどでそこそこ疲れていた。
この湯谷城山頂から派生する比高差50m以上の2か所の尾根筋については、この場所からただただ俯瞰するのみであった。
小休止の後は駐車場所までの尾根道をそのまま戻った。
ただ単に往路をそのまま戻るだけではあるが、再びアップダウンの繰り返しとなった。


湯谷城主郭の山頂から北尾根


「鎖場」の方は兎に角しがみ付けばどうにか上り下りできるのだが、復路の尾根筋でのアップダウンは堪えた。
とくに標高322m、比高差僅か40mほどに過ぎない斜面辺りで、まず右足の太腿が痙攣し始めていた。
痙攣する部分を右手で抑えつつ痙攣が収まるのを待った。
少し歩きはじめたものの、やはり違和感があり、軸足を左足へと切り替えた。
しかし今度は左足の太腿が痙攣を開始した。
こうなるとそう簡単には前へと進むことは難しくなった。
国土地理院の地図上での距離は約1kmに過ぎないのだが、少し痙攣が収まるまで待機した。
かくして、最初の駐車場まで辿り着くのに遅れること、先頭からは10分以上となっていたのであった。


    湯谷城方面


◎管領塚(新潟県南魚沼市)
午後15時05分から15時15分

国道291号線沿いに所在する関東管領上杉顕定戦没の地とされる史跡公園に立寄る。
多宝塔形式と思われる石塔などが祀られていた。


    管領塚史跡公園

道路反対側の店にて「大判焼」をテイクアウトした。
むろん即刻食した。
なお付属のトイレは閉鎖中であった。
また、この辺りで漸く太腿の痙攣が治まりはじめていた (^^ゞ


今月7日、8日と続いて孫の面倒を見ていたことも影響していたのか、このところ太腿付近の筋肉には違和感を感じてはいた。
けれども、脹脛についてはいざ知らず、歩行中にこれほどの筋肉痛(太腿の痙攣)に見舞われるとは全く思いもよらず。
予め携行していた「ゼノール」(医薬品第3類)の効果はほぼ見られず。

還暦を過ぎたころから心肺機能の低下は自覚していたが、太腿の筋肉痛は予想外であった。
年齢的にも余り無理は効かなくなってきたのかも知れない、とあらためて自省するにいたった。
今回の走行距離は往復にして約380kmの行程であった。

貴重な時間を浪費し、大変ご迷惑をお掛けしました。
同行いただいた御一同に衷心より深謝申し上げます <(_ _)>

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城館探訪の季節が到来している。
先月は天候が芳しくなく、結局のところ新潟県南魚沼、湯沢と群馬県高崎市の2日のみ。
今月に入り孫の具合がいまひとつでもあったことから未だに出陣には及ばす。

思えば、昨年の11月は風邪を拗らせながら、2泊3日で岩手、青森遠征の後、再び2泊3日で恒例となった福島県郡山市遠征。
それ以外にも日帰りで、群馬県北部へ合わせて2日間。
累計で8日間も出かけていた。

そのあと12月に入り、2泊3日でこれも恒例化しつつある滋賀県甲賀市遠征。
と、そこまでは順調だったのだが、そのあとはエネルギーが切れたらしく翌年3月下旬まで冬籠りとなった。

しかし、今年は未だに単独での遠征計画は皆無である。
昨年同月並みの気力は無いようだ。
尤も計画を立てたとしても、孫の具合次第ということもある。
とくに新幹線移動は格安のビジネスプランを利用しているので、事実上キャンセルが効かない。
事実、今月に入り既に2日間は孫のお守であった。

明日はミニオフで再び新潟方面遠征である。
天気予報が小刻みに変わっているが、概ね降雨に見舞われることだけは無いかも知れない。
尤もトンネルを抜けると・・・ということもあるのだが。

この年齢になってくると、去年はできたのだが今年はできないということが増える。
運転免許返納もあと数年以内と考えるようになってきている。
それでも今月中にあと1日くらいは出かけるという算段だけはしている。
たぶん高崎市、中之条町方面になるだろうとも思う。

と、ひととおり回顧したうえで、こうした自己の状況をメモしておかないとコロッと忘れてしまう。
どうも、そういう年代に差し掛かってきた、そんな気がする。

拍手[3回]

今回は意を決して、午前3時前起床。
出かける準備は前日までに完了していたので、速やかに身支度を整えカレーパン1個の朝食代わりを以て午前4時自宅を出発した。

目的地は以前から関係資料だけは用意済みの群馬県高崎市内である。
片道の所要時間は休憩含みで3時間前後と推定した。
しかし、月末であるためか夜明け前であるにもかかわらず一般道の通行量は多い。
とくに17号バイパスはとても午前5時過ぎとは思えない混雑状況であった。
それでも、上武道路を分岐すると車の通行量は3割程度までに減少して、深谷バイパスでは大きく混雑が緩和した。
やはり大型車の大半は物流路線の幹線でもある上武道路に流れていくらしい。

途中トイレ休憩のため道の駅岡部に立寄る。
群馬県南方面のルートでは道の駅はこの個所だけなので誠に有難い。
しかし下りはバイパス沿いに入口があり至って利用しやすいのだが、上りの場合には手前から迂回することもあり些か入りづらく、然も出にくいように思われるのである。

北新波の砦(群馬県高崎市北新波古城)
午前6時40分から7時55分

史跡公園化された群馬県指定史跡でもあり、復元土塁などが見学できる。
新波氏の居館とも伝わるが詳細は不明であるらしい。
かつては南東に接している満勝寺境内も郭跡であり、2か所の郭が隣接する長野氏関連の城館特有の構造であったともいうが、現在では境内地の方にはその面影は残されてはいない。

西側の公道沿いには専用駐車場があり収容台数も10台位は確保されている。
また、西側には公衆トイレも設置されており、この近辺の平地の城館跡を巡るには恰好の立地条件であった。


 西辺土塁上から南虎口方面

到着が予想よりも早く午前7時前であったことから、未だ日差しも十分とは程遠いことから、デジカメの自動露出補正機能が効き過ぎ粗めの画像となったようだ。
とはいえ、この日は元々ここから時計回りに徒歩で巡るという予定であるので、再度帰りがけに立寄ることも可能であることから周辺部の水路を含む早瀬川、長野小学校、満勝寺境内などを巡り次の目的地へと向かった。


石神の砦(群馬県高崎市楽間町石神)
午前8時10分から8時20分

戦国期におけるこの地域の防御ラインともいわれている早瀬川の南岸沿いの小道に沿って進んでいった。
幅員1mにも満たないような小道であるのだが、通学時間帯でもあるらしく高校生と思われる生徒が自転車で疾走していた。
既に途中の幅員の広い個所でも何台かはすれ違っていたので、前方の物音などに細心の注意を払いつつ前進。

すると川の蛇行に沿った木陰に自転車の影が見え隠れした。
速やかにより安全と思われる退避場所を探し、疾走する自転車を無事にやり過ごした。
元々余り見通しのきかない川沿いの小道ではあったが、時速15Kmほどの自転車と正面衝突は可能な限り避けたい。
当該高校生と思われる男子生徒も、危なかったことを感じていたのか「すみませんでした」とひと言声掛けされた。


 ここはまだ見通し良好だが

今の時代、下手をすれば刑事罰のみならず1億円近い賠償金等の判決もあるので、お互いの不幸を増幅させる虞もあると思われる。
加害者側とならないことは固より、あらためて年配者の側においても細心の注意を払い行動する必要性を感じた次第である。

さて、肝心の城館跡の方といえば、予想通りではあるがだいぷ以前から宅地と耕作地となっていたようでその地表の特徴からは痕跡を辿ることは困難であった。
しいていえば下記の墓地の存在している個所に見られる高さ2mには満たない低い崖線部くらいなのであろうか。
北新波の砦からは徒歩で500m足らずの距離である。


  推定地北部の低崖線部

もっとも、今回はほぼこうした消滅した以降の残滓を確認する事例が殆どであるので、忽ち落胆してしまうということにはならない。
ただし、このあとこのスタイルが延々と続いていくとなると、それはそれなりに辛いものもある。
逆に僅かな城館遺構の残滓に触れ合えるかどうかという不確かさは楽しみでもある。


◎楽間の石造物群(群馬県高崎市楽間町石神)
午前8時25分から8時30分

楽間第一公民館の敷地に文化財説明版を発見。
この地域を認識するためには、こうした近世以降の歴史・文化・民俗などについてもある程度知っておく必要もあり、立ち寄ってみたものである。
近世における民間信仰である「十王信仰石仏群」のほか、庚申塔、五輪塔残欠などが多数纏められて保管されていた。
傍らの「薬師堂」にも家族などの無病息災を祈願し参拝させていただいた。


公民館裏の「十王信仰石仏群」


井野屋敷(群馬県高崎市楽間町石田)
午前8時35分から8時55分

この場所には井野氏の城館跡よりも、井野一族の墓所が存在し高崎市の史跡指定を受けている。
このため部外者であっても、咎められることなく他所様の墓石等を拝見することができる。
あわせて3体の五輪塔が所在しており、その保存状態はきわめて良好であるように感じた。
16世紀半ばの武田氏などの侵攻の際にも、大きく損なわれるようなことを避けられたのであろうか。
肝心の正長、永享などの元号が刻まれていると思われる個所には、燦々とした朝日が当たり始め、影を作り太陽光の加減を試みたものの、五輪塔の地輪部分に刻まれているという15世紀前半の文字は判読できず仕舞いではあった。
城館跡とされている範囲については、概ね北から南にかけて緩い傾斜のかかる地形ではあるが、特に目立つような地形の痕跡は確認できず。
また、かつての城館跡である主郭部分には同氏の後裔の方と思しきお宅が現住されているようであった。


手前から3体までが史跡指定


行力中屋敷(群馬県高崎市行力町中屋敷)
午前9時20分から9時30分

今回の回遊ルートでは井野屋敷が最も西側にあたるので、ここからは東方向に移動した。
そうはいっても目と鼻の先といっても良い距離で、道程に換算したとしても精々800mほどの距離なのであった。
この辺りは高い建物や大きな森林を伴う低丘陵なども存在しないことから、西に浅間山、北に榛名山、東に赤城山がパノラマのように広がる風光明媚な環境であり、吹く風はやや冷たさを感じるものの、あたかも時間がゆったりと経過していくような錯覚に陥っていた。
もっとも、時折、北陸新幹線が高架橋を疾走することもあり、その都度極めて現実的で即物的な世界へと引き戻されていくという奇妙な感覚を味わっていた。

さてこの城館跡も目ぼしい遺構は皆無に近く、僅かに山崎一氏が推定した南側虎口と思われる付近の歪みのある道路形状位のものであった。
無論この地域も北から南に向かい緩い緩斜面が形成されているのだが、元々が榛名山の南東麓の端であるので至極当然なのではあるのだが。

なおこの近辺の集落には管理人と同姓のお宅が多く存在している。
このため或る共同墓地ではそのすべてが同姓であった。
元々群県南部と埼玉県北部に多い姓であるらしい。


  城館跡北西部の道祖神
 
 
行力下屋敷(群馬県高崎市行力町下屋敷)
午前9時35分から9時45分

中屋敷から下屋敷へと移動した。
といっても直ぐ隣の集落であるので、正に目と鼻の先である。
さて、ここでいきなり土塁のようにも見える地形に対面した。
元々は真竹が生育していたようなのだが、近年これを伐採したために、地形が分かり易くなったようだ。
尤も、宅地部分の北西側ということもあるので近世以降の防風林を兼ねた屋敷林であるという可能性は考えられる。
隣接する公道部分の拡張などにより道路沿いの部分はコンクリートに覆われているものの、高さ2m、長さ15mほどの土塁状の地形であった。
下記画像からも分かるように、画像左側には集落内の細い路地となっており、屋敷林としてはその位置に疑問が残るような感じもする。
またこの城館跡自体も、山崎一氏の記した書籍には含まれていない、「マッピングぐんま」には掲載されており、「高崎市史」にもその記載がある。
その後の高崎市教員委員会の調査などにより確認されたもののようである。


 宅地北西側のものを北側から


長町屋敷(群馬県高崎市浜川町長町)
午前9時55分から10時00分

県道28号線東側で群馬バスのバス停「行力入口」の東側にある水田地帯であり、城館跡としての面影は微塵も見ることができない。
山崎一氏の「群馬県古城塁址の研究」などには掲載されているものの、圃場整備事業などにより早い時期にその姿を消した単郭の城館跡とされ、武田氏の侵攻により集落が焼き払われたとの伝承も残るという。


  画像右手の水田付近


矢島の砦(群馬県高崎市浜川町矢島)
午前10時10分から10時25分

圃場整備以前には明確な郭遺構を含む城館跡が存在していたという。
1960年代初めの国土地理院航空写真などからも、その存在が明瞭に確認できる。
しかし、現状は北部が水田として整備され、南部も宅地化されて、その面影はほとんど感じられない。
そのなかで、かつての城域に隣接していた古い共同墓地付近に、水田との比高差を感じる斜面が残されており、かつての景観のほんの一部を髣髴とさせているように思えたのである。


   城跡東側の共同墓地

北爪の砦(群馬県高崎市浜川町北城)
午前10時30分から11時30分

いよいよこの日の最後の目的地である城館である。
すでに30年以上前に刊行されて「群馬県の中世城館跡」においてさえも、「消滅に瀕している」との記載もあり、城域自体が宅地化などにより大きく変貌している。
また、県道28号線が南北方向に縦断し城域は東西に分割されている。

手持ちの事前資料の下調べでは北西方向の虎口付近と、南東方向の虎口付近にほんの僅かな期待感を以って臨んだ。
北西の虎口付近はかつての農道であり、略図などにも記されているとおりの農道が現存しているのだが、かつての虎口を彷彿とさせるような地形の残滓は確認できなかった。
しかし、農道の行止りとなった個所には南北方向に伸びた細長い水田が現存しており、諸関係資料と照らし合わせた限りでは、西側の外堀跡の位置とほぼ一致しているということが分かった。


    推定西側外堀跡

また、南東部の外堀と内堀を繋ぐ堀跡も民家宅地脇に溝状の地形として現存しているということも確認できた。
ただしそれ以外の部分では、東側の外堀跡の名残とも言えなくもない細い水路の存在以外には、これといった地形的な特徴を見出すことは叶わなかった。


この時点で時刻は未だ午前中。
しかし、午前3時起床の影響なのか既に運転を含む行動時間は8時間近くとなり、確実に城館めぐりとしてのモチベーション低下を認識するに至った。
そもそも行先自体が、最初の北新波の砦の復元土塁を除けば、他は水田若しくはこれに囲まれた集落という按配である。
また元来の目的が、城館遺構よりも6か月近くサボっていた「足慣らし」でもあった。
このまま無理をすれば、日没まであと3時間くらいは動けなくはなくはない。
今後のこともあるので、世間の常識に当て嵌めるならばそう無理はできない年代でもある。

加えてこの日も駐車場所の確保に問題がありそうに思われ、敢えて車での移動は避けることとしていた。
徒歩であることから、北新波の砦から時計回りに一筆書きの要領で巡ってみた。

そうすると性格上からは結果的に体を休ませるという流れにはならず、ただひたすらに廻り続けるという行動となった。
こうしてほぼ気力は払底し、2016年、2017年の夏のように、激痛で歩くことができないというほどではないにしても、多少は足の痛みを感じてもいた。
こうしたことから、素直に車に戻り昼食用に遺しておいたパン1個で昼食代わり。
小休止の後、そのまま帰途へとつくことになった。

復路は真昼間であるにも拘らず、渋滞も少なく約3時間(途中でのトイレ休憩等含む)で自宅到着。
道の駅岡部では長野産の林檎と特売の最中を購入した。

本日の走行距離は往復で約190kmと幾分短めではであったこともあり、午後3時過ぎには自宅へと到着した。

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約半年ぶりにHPの更新を行いました。
今年は3月末から4月末にかけて群馬県を中心に45か所ほどを歩きました。
しかし、5月の連休以降には、臨時の孫のお迎えや育児が重なり5月は20日間、その後6月から9月までは4日から8日間と育児に駆り出されておりました。

このため集中力を伴うサイト更新は断念し、この間は何時でも育児に赴けるように関連する読書、資料読みばかりしておりました。
在地社会の権力構造、地侍層、関東の戦国史、御館の乱、上野長野氏、関東管領上杉憲政、上野長尾氏、後北条氏と外様国衆、一揆の変遷、徳政令とその時代背景、室町幕府の組織と権力構造など約20冊ほどに目を通すことができた反面、更新作業の方についてはある程度神経を集中するという作業の性質上から完全に停止しておりました。

さて、孫の具合も少し落ち着きを取り戻し、そろそろ更新再開をと目論んでいたところに、突然「ジオシティーズのレンタルサーバー業務廃止」というメールが到来。
途方もない脱力感とサーバー移転に伴う諸々の労力と己の年齢を天秤にかけて、「サイト閉鎖」か「サイト継続」かを数日を要して熟慮。
試行的に移転した先での運用もそれほど問題は無さそうな様子であったことから、本日移転後初めてとなる本格的更新作業を実施。

サーバー選択の手順やURLのパス設定など多少不慣れな個所もありましたが、今のところではたぶんどうにか運用していけそうな感触がします。
現行のOSのサポート切れという厄介な問題もそう先の話ではなくなってきましたが、取敢えずできる範囲内で更新を継続していこうと思います。
現在未更新物件は既に600件の大台に達していますので、概ね新規分のうち6割程度を目標にボチボチと更新できればと考えております。

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(メモ)
ここ一週間くらい日常生活には支障のない程度の軽いしびれ感が続いていました。
数年くらい前には頻発していた症状に酷似しているような感じです。

しかし、今年に入り頻発しているいつもの頭痛が始まるとしびれ感は胡散霧消。
どうやら自覚症状の強い方が優るということが分かりました。

もっとも頭痛薬を服用し頭痛が収まると、再びしびれ感が頭を持ち上げます (^^ゞ
ま、こんな感じで次第次第に老境へとひた走っていくのでありましょうか。

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