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たぶん2011年の春先以来なのかと記憶しております。
凸井上外記の陣屋(愛川町)午前8時30分から9時30分
しかし崖線に刻まれた古道を除いて明確な居館遺構は確認できません。
寺院境内は中津川西岸の河岸段丘中腹に所在していますので、近くに複数の渡し場跡が所在することから河川通行監視の役割も担ったのでしょうか。
麓からは比高20メートル程の台地ですが、崖線は現在でも湧水が豊富なので居館の条件としては条件が整っていたことが窺われます。
ここでは児童館近くの道端で貫禄のある地域ネコさんとご対面。
なお台地上部には北西から南東にかけて広大な平地が広がり、かつては「日本陸軍中津飛行場」が所在していました。
ここも比高差は約20メートルほどですが、南側の台地続きの部分を除いて接近が困難な崖線を形成する要害地形となっています。
なお主郭内は私有地の耕作地となっていることから、関係者の方がおいでの場合には必ずご挨拶を。
■三増古戦場 午前10時30分から10時35分
この場所は2度目ですが、本日は快晴で史跡めぐりにはまことに絶好の天候でした。
中学校校舎の北側には八幡社の祠が祀られ腰郭状の地形が確認されるが、城跡との関連は明確では無いようです。
この田代城からも「館山」方面の眺望が良好です。
いくぶん樹木に覆われてはいますが、延長20メートルほどの堀切状地形を確認できましたが写真撮影には不向きな現状となっていました。
そのあとは主郭南西部の土塁残欠遺構(宅地、墓地の隣接地)を拝見し、土塁の北西部先端には櫓台跡とも推定される場所が残され小祠が祀られています。
主郭南西部分は国道412号線の建設工事により、かつての堀切遺構は道路敷となってほぼ消滅している状況でした。
始めは国道南側の小学校跡?の台地付近を訪れて、ものすごく人なつこい2匹のネコさんと出会いました。
このあとは当初の予定通り、宮ヶ瀬ダムの愛川町資料館へと赴き関係資料の収集調査を実施。
このように五輪塔の捜索には些か時間を要しましたが、国道412号線北側の崖線中腹の御嶽神社と猿田彦大神の間に所在する個人墓地の中に所在していました。
水田地帯に張り出した低台地の先端部分を利用した江戸時代中期天明年間に築造されたと推定される近世陣屋跡です。
宅地化や道路建設などにより大きく地形が改変されているようですが、稲荷神社や井戸など往時の面影が残されていました。
台地先端の一部が城址公園として整備され、立派な石碑をはじめとして解説、案内板が設置されておりました。
午後からは北側から流れた雲が次第に大きく西側に広がりはじめ、この時刻には早くも日没を予感させるような天候となりましたので、本日の踏査作業はこれにて打ち止めに。
例によってこれを記述しているのは、実は2日後の19日(月)であります。
わずか2万歩足らずの 行程であるにもかかわらず、当日はそのまま爆睡してしまいました(@@;)
翌日は画像整理だけで作業終了。
3月下旬は福島県白河方面遠征。
5月上旬は群馬県ミニオフ参加。
9月中旬は山梨県ミニオフ参加。
11月には茨城県結城市へ。
ご同道いただいた皆様には、こころより感謝申しあげます。
かくてこの12月には3年ぶりとなる京都市内彷徨を敢行。
今年訪れた城館数は50個所弱くらいになりました。
そのなかで事実上の単独行は京都の一度のみ。
目眩に見舞われた2012年に比べれば探訪の頻度はいくぶん回復傾向に。
懸案だった新幹線乗車もなんとか可能になりました。
体力の衰えを切実に感じる昨今、来年はできるかぎり遠出をしてみようと思います。
出不精を克服して目標出陣回数は10日以上を目指します。
みなさま よいお年をお迎えくださいませ。
京都滞在3日目は前日の予報以上の快晴となった。
いささか北風が強かったものの最高の空模様に。
昨日は雨に煙っていた京都タワーもこのとおり。
しかし皮肉にも本日は午後3時の新幹線で帰らねばならないのでありました。
また家内と行動を共にする関係上から次の様な行程となった。
●大丸京都店にて「相棒展」(笑)
あくまでも時間調整のため。
■京都国立博物館
今年の9月に新館の平成知新館が開館したばかりなので3階から順に1階までくまなく国宝、重要文化財等の所蔵品を見学し、併設されているレストランにて昼食。
下記画像は明治28年建築の重要文化財指定となっている旧館。
とはいえ、そもそもこの地は秀吉ゆかりの旧方広寺の寺域でもあり、当時の石垣や著名な鐘楼も残存している。
この画像は平成知新館前に復元された往時の石塁跡のラインとのこと。
こちらは残存している方広寺の西側石塁の画像。
こちらは博物館北隣に所在している豊国神社の国宝に指定されている唐門で、伏見城より移築されたされたものと伝わるという。
こちらはかの有名な方広寺の鐘楼と釣鐘。
今回収集した城郭関係資料はあくまでも京都市内が中心となった。
とはいえ、寺構えをふくめて300個所近い城館資料を確保することとなった。
また少なくとも京都市内の公共的な交通事情もある程度理解することができた。
動ける年月も考慮に入れ、この際は春先の桜の季節前に再訪すべく探訪計画を練ってみようとも考えたのであった。
空模様は予報通りの雨に。
昼頃からは北風も強まるらしい。
昨日発症した両足踵の痛みは変わらず。
中敷きクッションを使用したもののその効果は不明に。
そういえば2011年4月に訪れた際にも同様の痛みが発生したことを思い出した。
どういうわけか文章の長さが階段状になっている...
それはともかく、ホテルの部屋で資料整理を行いつつ雨対応の行程に変更。
本来は二条城、聚楽第跡、御土居跡を軸に歩き回る予定のところ、この足の具合と天候を考慮。
凸塩小路若山城(午前10時31分)
京都駅に接した北東部の一帯とされているが当然地表状の遺構はない。
東を高倉通、西を烏丸通に挟まれた旧高瀬川が大きく湾曲した西岸部の平地に位置する。
基本となる城郭関係資料としては「京都市内およびその近辺の中世城郭」「京都府中世城館跡調査報告書第三冊」がある。
凸九条河原城(午前10時50分から11時10分)
河原町通と九条通が交差する北東角に位置している。
東側に流れる高瀬川は水堀だったのかも知れない。
北側には南岩本公園がある西側に幾分傾斜がかかった平地であった。
基本となる城郭関係資料としては「京都市内およびその近辺の中世城郭」と「京都府中世城館跡調査報告書第三冊」がある。
凸浄興寺城(午前11時30分から11時40分)
九条烏丸交差点の北西角に位置し、1983年と1984年に行われた烏丸通の発掘調査により南北方向の堀跡が確認されている。
中心部には現在も真言宗浄興寺が所在し中世寺院城郭化の一例と考えられている。
凸東寺(12時00分から12時15分)
浄興寺城から西へ1キロメートルほど行ったところに所在する世界遺産京王護国寺で九条通に面した南辺には現在でも水堀が残されている。
この頃から雨が激しさを増し傘を差していても 濡れてしまうような状態になってきた。
北門や宝蔵周辺の画像が欲しかったが、体が濡れるに従い確実に気力が消失してきた。
■羅城門跡(12時18分から12時20分)
当時の朱雀大路と九条大路が交差した南端部に建立されたと推定されている。
関連資料は「東寺・西寺・羅城門」(2013年5月25日 第245回京都市資料館文化講座)などがある。
矢取地蔵が安置された御堂の北隣の小公園内に標柱が所在する。
凸今村城(13時28分から13時40分)
鴨川を渡る九条跨線橋では北風が強まり雨は横降りとなった。
鴨川東岸の河岸段丘に所在し、北側と南側に明かな比高差が認められる。
基本となる城郭関係資料としては「京都市内およびその近辺の中世城郭」と「京都府中世城館跡調査報告書第三冊」がある。
このような行程をみると、城跡めぐりでもなく名所旧跡めぐりでもなく、たぶんまともな行き先は東寺くらいなのかとも思う。
降りしきる雨の中を安物のビニール傘をさし、観光ガイドではなく県別マップル右手に持ちながら足を引きずり歩き回る怪しげな初老の男となっていた。
今村城のあとは徒歩にて数カ所ばかり立ち寄りつつ東大路を北上する予定。
しかし雨風ともに強いことに加え、前日の湿布薬の効果も無くやはり足が言うことを聞かないというような深刻な事態に陥っていた。
このため東福寺駅からは京阪本線に乗車して三条駅へと移動して府立図書館へと向かうこととした。
下記画像は府立図書館西側を流れる水路。
かくて予定通り府立図書館にて所定の資料調査等を終えた。
ようやく雨は午後3時半過ぎ頃から小降りになったが、この時点で足の健康状態は過去最悪のモードに達していた。
京都駅方面のバス停までのわずか徒歩500メートルは、とうとうビニール傘を杖代わりにして進む羽目になり、とても他所に立ち寄れるというような状態ではなくなっていた。
この時間帯のバスの本数は極めて多く一時間あたり何と8本ほども。
おそらくバス自体に乗車したのは四半世紀ぶりなのかとも思う。
車内は折から修学旅行の高校生も乗車し満員状態。
いつも通り席に座るつもりは無かったが、手荷物が迷惑なのでたまたま空いた目の前の席に座ることに。
ふと車内を見回すと周囲には自分よりも年長者が居なかったのでそのまま京都駅まで座り続けた。
本日の歩行距離は約15キロメートルで、もはやこれが限界であった。
たぶん山城方面のほうが、息は切れるかも知れないが足の痛みは少ないようにも感じる。