本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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最寄駅から始発の東上線に乗り池袋へ。
山手線経由で東京駅へ向かい、午前6時29分発のぞみ号に乗車。
この時点で東上線の始発からは既に1時間半も経過している。
乗換待ちのタイムロスは池袋での約15分が一番大きい。
このためダイヤ上では寧ろ地下鉄丸ノ内線を使用する方が早い。
しかし東京駅構内でのキャリーケース移動がやたらに長くなることから、今年は山手線を利用してみた。
昨年同様に一度京都まで向かい、4分間の乗り継ぎで琵琶湖線で草津市内へ戻り駅前のホテルに荷物を預託し、午前9時40分台の草津線にて油日へと向かった。
1年ぶりに訪れた油日駅では日曜日ということもあり、甲賀忍者に扮した駅業務を委任されている年配の方の歓迎を受けた。
とはいえ降りた乗客は自分を含めて数人で、しかも「観光客」らしい姿は自分ひとりと相変わらず閑散とした景観であった。
JR草津線も近江鉄道などと接続している貴生川から先では正規の駅員は不在で、地元の高齢者の方による運営がなされているが、早朝と夜間は無人となりむろんICカードは使えない。
草津市始発の同線は一つ先の「手原駅」で概ねその4割位が下車、その先の貴生川までで更に5割位が下車、残念ながらこうして見ると終点の柘植まで行く乗客は全体の1割にも満たないらしい。
凸殿山(滋賀県甲賀市油日)
10時45分から11時05分
従来は明確な城館遺構が存在していないという見方も有力であったらしいが、現在殿山の遺構と領域に関してはおよそ次の論点があるように思われる。
1.忠魂碑とその周辺の削平地をめぐる評価
2.そのすぐ北西部に見られる小規模な堀切地形の評価
3.近年新たにその存在が確認された北西尾根筋の城館遺構の評価
4.南に隣接している公方屋敷との城域に関する区分
殿山北西尾根筋の遺構(殿山城) 北西部の堀切状地形
近年あらたに確認された「殿山城の遺構」は丘陵の北麓からも成形された郭跡の形状を読み取ることができるほど明確である。
また殿山自体にも一応複数の削平地が所在し、上記画像のように小規模ながら尾根筋を分断する堀切状地形も確認できる。
ただしこの堀切状地形が北西尾根筋の小規模な城館遺構に伴うものか、本来の殿山に属するものなのかは不明なようだ。
和田集落手前の「天空の城」 殿山の全景
郭状の削平地のひとつ 展望台
こうした殿山はさらに南方の公方屋敷遺構とも近接しており、その範囲を明確に区別することが難しいようにも思われた。
なお、上記画像の高さ5m前後の展望台は、体重80Kg超(デジカメ装備一式を加算すると約90Kg)の管理人が登ると梯子段がミシミシと音を立てるので、特に大柄な方はご注意されたい。
凸殿山城(滋賀県甲賀市油日)
11時05分から11時30分
近年において「甲賀市史」編纂などに伴う実地調査により、殿山の北西尾根筋先端部に小規模ながらより明確な城館遺構が確認されている。
殿山忠魂碑へ向かう参道から 堀切と土塁
深さ左6m/右4mの堀切 削平されたラインが目立つ郭跡
南からの遠景(丘陵先端)
前項の「忠魂碑」が設置されている従来の殿山とは別の性格の城館跡のような印象もあるが、その距離の近さから、いまのところは取敢えず名称の上では一連の城館遺構として捉えられているようであるが今後変わるような感じもする。
堀切から土塁へは直接登ることは難しいので、堀切の南側を迂回するように対岸に這い上がり、そのまま土塁上を西へとすすみ比高差の少なくなった頃合いを見計らい郭内へと降りた。
ただしこの郭から下方に降りる踏み跡はそのまま民家の裏手へと出てしまうので、もと来た堀切まで戻る必要があるようだ。
当該名称は現地に設置されている案内標識の表記に拠った。
凸公方屋敷支城(滋賀県甲賀市油日)
11時40分から12時25分
主郭付近を除きほぼ藪城に近いという印象である。
あまり登り口が明確とは言えず、かつ民家近くの斜面を這い上がることから 気が引けることこの上ない。
また途中かなりの藪と棘が群生する個所を通過するので注意が必要である。
ことによると南側の民家方面からより安全にアプローチするようなルートが存在しているのかも知れない。
東麓からの遠景 この辺りから藪を入る
東側の削平地 主郭付近
櫓台のような地形 南からの遠景
凸公方屋敷(滋賀県甲賀市油日)
12時40分から13時15分
後の足利義昭となる覚慶が逃れて和田惟政により匿われたとも伝わる著名な旧蹟である。
西側に向けて開口した浅い谷津地形であり現在は耕作地となっている。
西側を除く三方が丘陵を利用した土塁状の地形に囲繞されており、そのうちの南部の遺構は近年まで「公方屋敷城」とも呼称されていた時期がある。
公方屋敷入口 公方屋敷
五輪塔の一部 説明版
殿山方面へと続く尾根道 かつては「公方屋敷城」とも
凸和田城(滋賀県甲賀市油日)
13時40分から14時20分
上記の3か所を探訪し終えた時点で、事実上の日没時刻まで2時間余りとなったことから、取敢えず和田支城3と2を後回しにして、市史跡指定の和田城へと向かった。
和田氏の本城とも考えられる城館である。
こちらも登り口は不明であったが南麓の民家脇からのルートを使用することとした。
史跡指定されているだけのことはあり、公方屋敷支城とは異なり最低限の草刈りなどの管理が行われているという形跡が見られ、全体としておおむね遺構の観察は行いやすい環境であった。
西側からの全景 ここからも入れるらしいが
土塁状の地形 主郭背後の堀切
主郭南西部の虎口 郭内から
少し前の解説版
なお、本来は北東の畦道からアプローチするのが正規のルートであることを帰り際に知ることとなった。
しかし、現地にて頒布されているパンフレットには各城館の登り口に関する情報は掲載されてはいないのであった。
また上記の少し前の和田城館群に関する解説版との異同があることから、事情を知らない者にとっては混乱してしまう可能性もあるように思われた。
◎棚田山城(滋賀県甲賀市油日)
14時25分
以前には城館跡として把握されていたが、近年において城館跡ではないとされている。
このため西側の市道から遠景のみを撮影するだけにとどめた。
※出典「甲賀市史第7巻甲賀の城」333ページより
凸和田支城1(滋賀県甲賀市油日)
14時40分から15時05分
残り時間などを勘案して確実に登り口のありそうな城館を本日最後の目的地に定めた。
稲荷神社への参道が所在し、主郭部に同社が所在している。
しかしそのほかは藪が多く遺構の確認が難しい状態であった。
北東からの遠景 東郭の先端付近
東麓の文化財説明版 稲荷神社
主郭と土塁 同解説版
日没時刻を考えれば未だあと1か所くらいは回れる時間帯ではあった。
けれども何時ものように食事なしは未だしも、これに給水なし、日没までの時間が惜しく休憩なし、明確な探訪ルートが不詳であることなどを県名に判断しいくぶん早めの撤収となった。
還暦前であった10年前に比べて、気力、体力の減退のみならず記憶力(容量、記憶の精度)の著しい低下を思い知る現在では、もはや1日当たり数か所程度の回遊が限界であることを痛感してた。
現地到着が午前10時半を過ぎてからの探訪ゆえに、南部の高嶺方面はおろか正味5時間では和田集落内でさえもその全て回りきることは叶わなかった。
この日は前記のようについ飲み物を買い忘れて日中は飲まず食わず。
ちなみに油日駅を除くと和田集落内には稼働中の自販機の姿を見かけないことから、今後再訪する場合にはくれぐれも注意が必要なようだ。
日没前に辿り着いた駅前で購入した「ホットゆずレモン」の温かさが身に染みた。
油日の駅務室にて見かけた「和田一族」(自費出版頒布価格1千円)の本を購入した。
昨年油日の図書館で気になっていた本なので本日の収穫のひとつでもある。
宿泊先のホテルにてパラパラとページを捲り明日の行動予定を反芻しつつ心地よく深い眠りについた。
山手線経由で東京駅へ向かい、午前6時29分発のぞみ号に乗車。
この時点で東上線の始発からは既に1時間半も経過している。
乗換待ちのタイムロスは池袋での約15分が一番大きい。
このためダイヤ上では寧ろ地下鉄丸ノ内線を使用する方が早い。
しかし東京駅構内でのキャリーケース移動がやたらに長くなることから、今年は山手線を利用してみた。
昨年同様に一度京都まで向かい、4分間の乗り継ぎで琵琶湖線で草津市内へ戻り駅前のホテルに荷物を預託し、午前9時40分台の草津線にて油日へと向かった。
1年ぶりに訪れた油日駅では日曜日ということもあり、甲賀忍者に扮した駅業務を委任されている年配の方の歓迎を受けた。
とはいえ降りた乗客は自分を含めて数人で、しかも「観光客」らしい姿は自分ひとりと相変わらず閑散とした景観であった。
JR草津線も近江鉄道などと接続している貴生川から先では正規の駅員は不在で、地元の高齢者の方による運営がなされているが、早朝と夜間は無人となりむろんICカードは使えない。
草津市始発の同線は一つ先の「手原駅」で概ねその4割位が下車、その先の貴生川までで更に5割位が下車、残念ながらこうして見ると終点の柘植まで行く乗客は全体の1割にも満たないらしい。
凸殿山(滋賀県甲賀市油日)
10時45分から11時05分
従来は明確な城館遺構が存在していないという見方も有力であったらしいが、現在殿山の遺構と領域に関してはおよそ次の論点があるように思われる。
1.忠魂碑とその周辺の削平地をめぐる評価
2.そのすぐ北西部に見られる小規模な堀切地形の評価
3.近年新たにその存在が確認された北西尾根筋の城館遺構の評価
4.南に隣接している公方屋敷との城域に関する区分
殿山北西尾根筋の遺構(殿山城) 北西部の堀切状地形
近年あらたに確認された「殿山城の遺構」は丘陵の北麓からも成形された郭跡の形状を読み取ることができるほど明確である。
また殿山自体にも一応複数の削平地が所在し、上記画像のように小規模ながら尾根筋を分断する堀切状地形も確認できる。
ただしこの堀切状地形が北西尾根筋の小規模な城館遺構に伴うものか、本来の殿山に属するものなのかは不明なようだ。
和田集落手前の「天空の城」 殿山の全景
郭状の削平地のひとつ 展望台
こうした殿山はさらに南方の公方屋敷遺構とも近接しており、その範囲を明確に区別することが難しいようにも思われた。
なお、上記画像の高さ5m前後の展望台は、体重80Kg超(デジカメ装備一式を加算すると約90Kg)の管理人が登ると梯子段がミシミシと音を立てるので、特に大柄な方はご注意されたい。
凸殿山城(滋賀県甲賀市油日)
11時05分から11時30分
近年において「甲賀市史」編纂などに伴う実地調査により、殿山の北西尾根筋先端部に小規模ながらより明確な城館遺構が確認されている。
殿山忠魂碑へ向かう参道から 堀切と土塁
深さ左6m/右4mの堀切 削平されたラインが目立つ郭跡
南からの遠景(丘陵先端)
前項の「忠魂碑」が設置されている従来の殿山とは別の性格の城館跡のような印象もあるが、その距離の近さから、いまのところは取敢えず名称の上では一連の城館遺構として捉えられているようであるが今後変わるような感じもする。
堀切から土塁へは直接登ることは難しいので、堀切の南側を迂回するように対岸に這い上がり、そのまま土塁上を西へとすすみ比高差の少なくなった頃合いを見計らい郭内へと降りた。
ただしこの郭から下方に降りる踏み跡はそのまま民家の裏手へと出てしまうので、もと来た堀切まで戻る必要があるようだ。
当該名称は現地に設置されている案内標識の表記に拠った。
凸公方屋敷支城(滋賀県甲賀市油日)
11時40分から12時25分
主郭付近を除きほぼ藪城に近いという印象である。
あまり登り口が明確とは言えず、かつ民家近くの斜面を這い上がることから 気が引けることこの上ない。
また途中かなりの藪と棘が群生する個所を通過するので注意が必要である。
ことによると南側の民家方面からより安全にアプローチするようなルートが存在しているのかも知れない。
東麓からの遠景 この辺りから藪を入る
東側の削平地 主郭付近
櫓台のような地形 南からの遠景
凸公方屋敷(滋賀県甲賀市油日)
12時40分から13時15分
後の足利義昭となる覚慶が逃れて和田惟政により匿われたとも伝わる著名な旧蹟である。
西側に向けて開口した浅い谷津地形であり現在は耕作地となっている。
西側を除く三方が丘陵を利用した土塁状の地形に囲繞されており、そのうちの南部の遺構は近年まで「公方屋敷城」とも呼称されていた時期がある。
公方屋敷入口 公方屋敷
五輪塔の一部 説明版
殿山方面へと続く尾根道 かつては「公方屋敷城」とも
凸和田城(滋賀県甲賀市油日)
13時40分から14時20分
上記の3か所を探訪し終えた時点で、事実上の日没時刻まで2時間余りとなったことから、取敢えず和田支城3と2を後回しにして、市史跡指定の和田城へと向かった。
和田氏の本城とも考えられる城館である。
こちらも登り口は不明であったが南麓の民家脇からのルートを使用することとした。
史跡指定されているだけのことはあり、公方屋敷支城とは異なり最低限の草刈りなどの管理が行われているという形跡が見られ、全体としておおむね遺構の観察は行いやすい環境であった。
西側からの全景 ここからも入れるらしいが
土塁状の地形 主郭背後の堀切
主郭南西部の虎口 郭内から
少し前の解説版
なお、本来は北東の畦道からアプローチするのが正規のルートであることを帰り際に知ることとなった。
しかし、現地にて頒布されているパンフレットには各城館の登り口に関する情報は掲載されてはいないのであった。
また上記の少し前の和田城館群に関する解説版との異同があることから、事情を知らない者にとっては混乱してしまう可能性もあるように思われた。
◎棚田山城(滋賀県甲賀市油日)
14時25分
以前には城館跡として把握されていたが、近年において城館跡ではないとされている。
このため西側の市道から遠景のみを撮影するだけにとどめた。
※出典「甲賀市史第7巻甲賀の城」333ページより
凸和田支城1(滋賀県甲賀市油日)
14時40分から15時05分
残り時間などを勘案して確実に登り口のありそうな城館を本日最後の目的地に定めた。
稲荷神社への参道が所在し、主郭部に同社が所在している。
しかしそのほかは藪が多く遺構の確認が難しい状態であった。
北東からの遠景 東郭の先端付近
東麓の文化財説明版 稲荷神社
主郭と土塁 同解説版
日没時刻を考えれば未だあと1か所くらいは回れる時間帯ではあった。
けれども何時ものように食事なしは未だしも、これに給水なし、日没までの時間が惜しく休憩なし、明確な探訪ルートが不詳であることなどを県名に判断しいくぶん早めの撤収となった。
還暦前であった10年前に比べて、気力、体力の減退のみならず記憶力(容量、記憶の精度)の著しい低下を思い知る現在では、もはや1日当たり数か所程度の回遊が限界であることを痛感してた。
現地到着が午前10時半を過ぎてからの探訪ゆえに、南部の高嶺方面はおろか正味5時間では和田集落内でさえもその全て回りきることは叶わなかった。
この日は前記のようについ飲み物を買い忘れて日中は飲まず食わず。
ちなみに油日駅を除くと和田集落内には稼働中の自販機の姿を見かけないことから、今後再訪する場合にはくれぐれも注意が必要なようだ。
日没前に辿り着いた駅前で購入した「ホットゆずレモン」の温かさが身に染みた。
油日の駅務室にて見かけた「和田一族」(自費出版頒布価格1千円)の本を購入した。
昨年油日の図書館で気になっていた本なので本日の収穫のひとつでもある。
宿泊先のホテルにてパラパラとページを捲り明日の行動予定を反芻しつつ心地よく深い眠りについた。
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