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1986年から1987年にかけて上下巻で刊行されたものを後に3分冊に分けて再刊されたものなので、30年ほど以前のものということもあり些か古めかしさも感じられるが、当時の日本はバブル経済の真っただ中で、そういう時代背景で語られる人物評であることを考慮に入れると、記された当時の時代背景により人物、事蹟の評価というものは大きく変動するという別の面白さも見えてくる。
因みに享年56歳で亡くなったのは双葉山、越路吹雪、柳沢吉保、57歳が北原白秋、以下58歳が黒田如水、種田山頭火、59歳が孫文、五味康祐、森鴎外、61歳が柴田錬三郎、川上宗薫、有馬頼義、64歳が大河内伝次郎、三好達治、山本周五郎の各氏。
昔の方々は老成するのが早いとあらためて感じると共に、すでにその年齢を過ぎている己の存在に暫し茫然とする。
東京オリンピックを迎えて路線の縮小が進んでいたとはいえ、依然として都電が都内の主要公共交通機関であった頃のこと。
その当時電車通学していたのだが、西ヶ原停留所での乗車の際に危うく人身事故に遭遇しそうになったことがあった。
乗車の際にステップに左足しか乗せていないにもかかわらず、乗降口が開いたまま都電が発車し結果的に2mほど引きずられてしまった。
直後に急停車し、幸い右手で縦の真鍮製の手摺をしっかりと掴んでいたこともあり、捻挫や擦過傷もなく、軌道の石畳に転倒するようなこともなく、むろん車輪に巻き込まれるようなこともなく、奇跡的にほぼ無傷。
事の重大性に気付いたのは、だいぶ後のことで、冷静に考えれば当方には何らの瑕疵もなかったが、記憶ではその際に安全確認を欠いたと思われる乗務員からの安否を問われるようなこともなかった。
仮にあのとき手摺を掴んでいなければ、あるいは左足をしっかりとステップに乗せていなかったら、その生死も含め今の自分はなかった可能性も少なくないのだろう。
しかし年齢が13歳であったこともあり、都交通局へクレームをつけるというような発想もなかったし、運営者側もまた「乗客に対するサービス」などという発想のない時代でもあった。
その当時は今よりも体も小さく身長は150cm足らずだったこともあり、運転手の位置からは死角になっていた可能性もあったのかも知れない。
記憶を整理すれば、たぶん1964年の夏前ころのことと思われ、路線は19番で王子から日本橋間を走行していた。
そんな苦い記憶を引きずっていたこともあったのか、高校での集団健康診断の際には、会場で高校生を相手に威圧的に怒鳴っていた保健所の職員に、その態度の是非を問い発言態度を改めてもらったことがあった。
これは大学受験の前年なので、たぶん1968年の秋頃のことだと記憶。