本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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朝から既に駅に着く前から汗がにじみ出るような蒸し暑さのなか、午前9時3分発の上り電車で出発。
途中武蔵野線に乗換え、武蔵浦和からは埼京線に乗車。
乗降客の少ない北赤羽で下車。
比較的新しい駅でもあり、たぶん記憶ではこの駅での乗降は初めてのはず。

本日は5か所を予定しているものの、その行先は相変わらず「伝承地」が多い。
これは都内23区の宿命のようなものと理解。

天候(気温、降雨、湿度)と足の具合次第で3か所くらいで切り上げる心積もり。
むろん途中での電車、バスを利用しての移動は織り込み済み。
この辺りも昨年までの状況とは明らかな変化を感じている。
途中でのわずか3kmほどの徒歩移動さえも敬遠するようになってきてしまった。




袋の殿山(東京都北区)
午前10時40分から10時35分

初めて下車した駅でもあることから、方角を定め進むべき道を把握するまで数分を要した。
先ずは道順に諏訪神社境内へ北側住宅地に設置されている石段からアプローチ。
境内北側の比高差は約10mの急崖を形成するも台地続きの西側には目立った地形上の特徴は確認できず。
境内南側の道は「鎌倉街道」とも伝わる。

      諏訪神社

ちなみに「袋」は往時の「袋村」(近世の村名)からきているらしい。
次に東側の赤羽台団地とその東隣の病院へ歩を進めようと思ったが、なぜか南側の桐ヶ丘団地の方角に足が向きそこからの遠景観察で代用することとなってしまった。

    医療センター

この日は曇りの予報が外れ次第に薄日が差し始め、湿度は高く汗はかけども全く乾かないという事態に次第に心身が疲弊していった。



稲付城(東京都北区)
午前11時15分から12時頃まで

この日に限っては最初で最後となる最もそれらしい中世城館跡。
23区内ということもあり、太田道灌との関わりがあるとも伝わる。
とはいえ明確な地表の遺構に対面できるという訳ではなく、あくまでも崖線や急坂などから当時の面影を辿るという按配。
途中で幾度か既視感のある風景に遭遇。
元北区民なので当たり前かもしれないが、何と言っても半世紀以上前のこと。
いまだ高度成長による宅地開発の波が押し寄せる以前。
既成市街地を除き周辺には未だに耕作地が広がるという田園風景も点在していた時代。

   稲付城西側の台地

まずは手始めに同城の堀跡ともいわれる東西の台地に挟まれ、かつての低湿地に所在している「亀ヶ池」の弁天社の参詣から。

  堀跡とも伝わる弁天社

その名に違わず十数匹の亀が甲羅干しの真っ最中。

   親ガメと子ガメ


つぎにそのまま東の清勝寺へと向かい帯郭状の台地中腹の路地を散策し、同寺東側参道から境内へ。

   台地西側麓付近

 
帯郭状の地形を呈する周回路地

境内と麓との最大比高差は約15mほど。

      城址碑

因みに説明版は城址碑が所在する東側山門の内側と南側山門の外側にもあります。


     南側の山門

現在でも台地を東西に横断する公道により南北に分断された地形を確認できるが、発掘調査により戦国期のものと思われる堀切跡などもこの道路の北側付近で確認されている。
 
南側台地との間の切通(画像左側)

このあと徒歩約1.2km先の地下鉄南北線赤羽岩淵駅へと向かい王子神谷駅へ。
途中価格の安い恰好の昼食場所が目に入るものの時間がないのでパス。
思えば今回を含めて都内では一度も昼食していないことにはなる。
「時間の節約か体力の温存か」の二者択一には何時も悩まされる。



豊島清光館(東京都北区)
13時00分から13時20分

王子神谷駅からは徒歩僅か約800m足らず。
この時点で「蒸し暑さ」と「足の痛み」を現況を勘案し、既に脳裏にはジワジワと「撤退」の2文字が浮び始めた。
それでもどうにか未だ気力だけは残存。
豊島氏を開基とする寺院で豊島氏発祥の地とも。
現状の地形からその特徴を捉えることは困難。
ここでも東屋の日陰をお借りして休憩と水分補給を行いホッと一息。


このあと、「続行」と「撤退」の2文字を反芻しつつ最寄りのバス停まで約900mほど徒歩移動。
これは途中隅田川を渡り眺望は良好だが、かなり辛い行程のひとつだった。
「庚申通商店街」の現況を目にしたあとの「新田橋」の様子は、まさに「都市インフラの劣化」という現実を目の当たりにするものであった。


  隅田川に架かる新田橋

どうにかバス停を視認できるあたりまで近づき、梅雨明け以降の酷暑に慣れるべく「修行」のつもりで「続行」を決断した。

この間も意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
環七新田(かんななしんでん)の都バス停留所でも束の間の休憩。
環七新田ではなく、寧ろ「艱難辛苦」の様相に。
ここでデクレッシェンドで満たされて萎む一方の気力と体力の回復に精励。
ここから先のバス停3か所分となるバス移動(約1.5km)は実に有難く身に染みた。
バスの待ち時間も都内ということもあり10分足らず ^^



宮城堀の内(東京都足立区)
14時00分から14時20分

その経緯はおろか、当該所在地自体も明確とはいえない城館跡。
隅田川の改修、荒川放水路(現荒川)の開削などにより周辺の地形は大きく変貌。
探訪に際して丸1日ほどを要して、戦後間もない米軍撮影の航空写真(東西約250m×南北約100mほどの屋敷林に囲まれた区画が気になる)と迅速図などの情報からあくまでも素人なりに所在地を推定。
 
※かつては屋敷林に囲まれた一角で、現在堀之内2丁目交差点付近にはコンビニが所在しているが、現在のような道路整備が行われたのは1970年代前半のこと。

河川の氾濫などを除き、この辺りの隅田川流路等に変化の生じたのは江戸時代初期の川越藩主松平信綱による当時の荒川からの導水工事による水量増加。
これに明治末期から大正期にかけての荒川放水路工事がある。

狙いを定めていた「堀之内2丁目交差点」付近は完璧に市街地ががすすみ、戦後間もない時期に撮影された航空写真から推定されるような田園地帯の面影は皆無。
辛うじて周辺の堀之内北公園、堀之内公園などに地名が継承されているのみ。

    堀之内北公園

このあとの徒歩移動では、いよいよ明瞭に「熱中症」の一歩手前の容態を自覚し始め、さらに意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
途中から荒川沿いに高速川口線の高架下を南に下るのだが、何故か日陰である東側を通らずにわざわざ日差しのある西側を通ってしまった。
さらにこの途中から久しぶりに「内反小指」に伴う痛みが発症。
港北橋を渡る際に目に入った可愛らしい4両編成の「舎人ライナー」がトコトコと荒川に架かる扇大橋わたっている様子を眺めた際には半分意識が朦朧としていたのかも知れず。

 


伝・宮城氏館(東京都足立区)
15時00分から15時10分
 
伝承では都市公園と隣接した氷川神社境内付近が同館跡ともいわれている。
境内拝殿脇に設置された石碑に刻まれた文言をあらためて拝読。

     館跡の碑


その歴史的な真偽は別として、疲労の極致に達した心身にとっては正に一服の清涼剤。
この場所も荒川放水路築造と隅田川河川改修の影響を受けており、約450年前の旧情を想像することの困難性を痛感。
この日は最寄駅となる2km足らずの道程となる王子駅へのルートも予定通り都バス利用。
この選択からも昨年の同時期に比して気力と体力の低下は否めず (^^ゞ


 
という次第で、本日は5か所分の探訪を「無事?」に終えることができた。
もっとも冒頭からの「過剰発汗」と途中での「右足小指の内反小指の叛乱」は全くの予想外。
これに両膝サポーター装着失念が加わり、最寄駅からの帰途では幼児連れの母子に追い越されるような足取りになるような始末。
梅雨時から秋口までは外出を避けるのが例年妥当な判断といえよう。
しかし、ここ数年は確実に体力の減衰を感じている。
いわゆる「健康寿命」も長くともあと数年前後となってきたことを痛感している。
「今年動かねば、もう来年はない」との決意で、とりあえずは行けるところまで来月も歩いてみよう。
 

拍手[3回]

今月22日頃から右肩に痛み有。
始めは肘を上げたときの違和感。

その後痛みは次第に激化の一途。
どうにか肘から先が動く程度に。

一時は右手が使えない状況下に。
右手不使用では立上り動作不可。

所謂50肩は既に卒業済みかと。
原因不明のまま不自由な事態に。

「肩甲骨剥がし」運動も効果無。
このため連日湿布で様子見状態。

本日に至りようやく8割方回復。

拍手[3回]

港区、新宿区、中野区、渋谷区に続く都内23区シリーズ第5回。
本日は、またしても渋谷方面。
しかも僅か丸1日間をおいての再訪。

けっして渋谷方面に中世城館跡が数多所在しているというような背景には非ず。
また渋谷方面にとりわけ関心がある訳でもなし。

再訪の理由は至って単純明快。
実を申せば、渋谷区郷土館での忘れ物受領が主目的(笑)

こういう忘れ物をするなどということは少なくとも昨年まではなかったようにも。
もっとも、忘れ物をしたことを気づいていないだけということもありうるのが恐ろしくもある。

流石にそれだけでは余りに徒労に尽きることから、「北青山遺跡」(淀藩稲葉家下屋敷)と「佐倉藩堀田家」(現、聖心女子大キャンパスなど)を中心に探訪することを決意。
 
   
やはり気になる途中の氷川神社




◎佐倉藩堀田家下屋敷(渋谷区)
午前11時00分から12時10分

「堀田坂」の地名と「当時のものと推定される石垣」などの存在から、この日2番目以降に訪れた個所に比べればまだまだ探訪のし甲斐のある方。
事実、現地での史跡等に関する標柱、説明版などの掲示物がしっかりと所在しているのはこの場所のみ。

そのような次第で、推定屋敷跡の周囲を時計の針の方向に徒歩3kmほどの道をぐるりと一周。
「堀田坂」の由来を記した上下2本の標柱のほか、同坂上の広尾ガーデンヒルズの一角に所在する根回り、目通りがそれぞれ5m前後の銀杏の大木(渋谷区指定天然記念物)とその解説版、聖心女学院南門付近の石垣を見学。
   
  北辺の大銀杏

 
     同解説版

 手元にあるいくつかの「江戸切絵図」の様子からは、切絵図の境に所在していることもあり、当該屋敷跡の正確な位置・形状に関する情報は一定せずやや曖昧な傾向が窺える。
しかしこの踏査(正しくは徘徊)により、朧ろげながらもおよその全体像が見えてきたようにも。
まず屋敷西側では「旧いもり川」(おそらく渋谷川、古川の支流のひとつか)の流路と想定される曲がりくねった細道の存在を確認しこの旧流路付近が同屋敷の西限であることを理解。
 
    「いもり川跡」

またその西側の一部が出枡状に突出している個所は、強いて言えば概ねチェコ大使館が所在する辺りに相当するのかも知れず。
屋敷の北限はについては、おそらく「堀田坂」から続く現在の港区と渋谷区の境界にあたる公道付近と推察。

 「堀田坂」の標柱(港区設置)

東限もおそらくはオマーン・スルタン大使館沿いの細い路地(外苑西通の西側)付近まで、南限は祥雲寺境内の辺りでその道路形状からは枡形を形成していた可能性も浮上。
 
    南門付近の石垣

 
   祥雲寺付近の様子


屋敷が所在する場所は比高差こそ少ないものの、その尾根伝いに相当する北西部を除きおおむね独立した丘陵(あるいは舌状台地先端とも)を形成している様子を確認。
 
 途中の街路植込のランタナ

 
 日赤医療センター前の植込
タニウツギまたはその園芸種か



◎西条藩松平家上屋敷(渋谷区)
12時25分から12時40分

佐倉藩下屋敷から旧常陸宮邸方面に戻り青山学院関係の塀などを横目で眺めつつ六本木通を渡り青山通を目指し、「アイビー通」に合流し南青山5丁目交差点に到着。
この間の移動距離は徒歩で約1.2km。

 
生垣のブーゲンビリア(園芸種)


  青山学院キャンパス東側

紀州藩の分家で「御一門」とされる大名家上屋敷跡で、現在は青山学院大学関係のキャンパスとなっている。
むろんそうした経緯を物語るような史跡等に関する説明を付した掲示物は不在。
青山通沿いの正門の撮影を試みたものの学生を始めとする通行者数多。
このため写り込んでしまう方々ができるだけ識別できないようなシャッターチャンスはなかなか訪れず。
 
 何とか撮影できた正門付近



北青山遺跡(淀藩稲葉家下屋敷)(渋谷区)
12時45分から13時15分

青山学院大学の向かい側の青山通沿いにある「国連大学」、「旧こどもの国」などが所在している。
80年代の中頃から90年代にかけて子どもたちがお世話になっていた「こともの城」の建物自体はそのオブジェと共に現存している。
 
「旧こどもの国」 前のオブジェ

 
継続の声も虚しく「落城」の跡


     国連大学

東京都職員共済組合の旧青山病院も同遺跡の範囲と考えられ、現在当地は「TBSハウジング」が主催する住宅展示場となっている。

いまも池跡の一部が確認できる

中世城館と近世大名屋敷の複合遺跡で遺構は検出されてはいるが、地表に確認できる遺構は皆無に等しく、住宅展示場の北東側の低地にフェンスを挟んで稲葉家庭園の一部と推定される池跡の窪みが認められる。



◎善光寺(港区)

13時30分から13時40分

青山通と表参道が交差する表参道交差点北側に所在する名刹で、江戸時代には信濃善光寺の尼上人が江戸滞在の際に宿泊した寺院とされている。

    善光寺山門



◎百人町屋敷(港区)
13時40分から13時40分

たぶん幕府直属鉄砲同心の屋敷跡と思われる。
「江戸切絵図」には間口の狭い短冊形をした屋敷の区画が記されている。
たまたま善光寺の青山通を挟んだ向かい側に間口の狭い区画が散見されるが、むろんその直接の関連については不明。

   「百人町」付近


◎松平近江守上屋敷(港区)
13時45分から13時50分

現時点では、この「松平近江守」が何藩の如何なる大名であるのかは不明なので、このあとゆっくりと調べる予定(笑)
おそらく下記の画像付近が屋敷跡の一部にかかっているものと推定される。

建替えに伴う移転予定の保育所


◎広島藩浅野家下屋敷(渋谷区)
14時00分から14時10分

著名な表参道ヒルズの辺りが当該屋敷跡の中心部らしいのだが、屋敷跡の詳しい範囲については余りの人混みのためによく分からなかった。
下記の歩道橋上からでは樹木に隠れて直接人混みは見えないが、その下の画像の位置からは緩やかな参道を往来する夥しい人々の行列の姿が隠されている。

  表参道(歩道橋上から)


   表参道ヒルズ東端



◎伝・長者ヶ丸(港区)
14時15分から14時40分

港区の「白金長者」の伝承と対を成すものらしい。
幕末期に人気のあった「江戸切絵図」に「此辺長者ヶ丸」との記載があったことから訪ねてみた。
 
 通りの名称は遺されている


  水田跡と考えられる細道

今でも「長者丸通」は丹羽左京太夫下屋敷跡付近に現存しているが、「切絵図」に記載された「長者丸」の位置はもう少し南側の当時は畑と記されている辺りで、その北側に細長い水田が描かれていることを考えると、おそらく緩い下り坂の細道となっている南側付近が想定されそうに思われる。



本日の歩行はおよそ2万5800歩ほどで、ちょうど「長者丸」の分だけ余分に歩いたことになる。
間1日ということもあり、予想通り所要の痛み対策などを講じてもやはり両踵の痛みは発生した。
尤も昨年のように激痛のため全く身動きが取れないというほどのものではなく、単に鈍痛で歩行速度が鈍化するという程度。

しかし就寝前になりボルタレンの効果も薄く次第にズキズキと痛みが増幅。
堪らず新たにテーピングを処置。
これが一時凌ぎの対処療法とはいえ思いのほかの効き目で熟睡に成功。
なおかつ翌日、初孫の検診送迎も支障なく遂行。
ということは予防テーピングも試行してみる価値ありということに。

拍手[3回]

港区、新宿区、中野区に続く都内23区シリーズ。
今回は渋谷区編。
23区内でも態々遺構に恵まれない場所ばかり訪れているような気も。

通勤ラッシュを避け午前9時17分発の副都心線直通元町行に乗車。
昨年の今頃は暑さとラッシュを避け主に始発を利用。
今年は遅く出かけて現地を午後3時前には撤収するスタイルに変更を。
つまり現地に滞在する時間は5時間足らずに。
こうでもしないとモチベーションの維持が困難。

上りの副都心線車内で目に入った首都圏各線の列車運行情報。
西武池袋線が乗客トラブル、西武拝島線は人身事故、京王井の頭線も人身事故、乗車している副都心線は車両点検といずれもダイヤが乱れているか、あるいは運転休止という按配に。
前回の帰宅時の人身事故による約2時間の運転休止が脳裏を過る。
その後乗車した副都心線通勤急行に関しては概ね定刻にて渋谷駅に無事到着。


 
◎道玄坂
午前10時20分から10時40分

渋谷駅西口の有名な道玄坂。
渋谷駅2番出口そのままから道玄坂を上り約250mほど先。
道玄坂交番前の交差点手前の少し手前、歩の道左側に設置されている道玄坂の由来碑などを見学。

   道玄坂の由来碑など

史跡めぐりをされている複数名の年配者に遭遇。
そのまま渋谷駅方向に戻り、宮益坂方面へと移動。
たぶん渋谷での下車は4年ぶりくらい。

  渋谷駅西口スクランブル

この近辺はいつ来ても人が多いので、人酔い状態となる。
 
 
 
伝河崎氏館
午前10時55分から11時05分

第一生命ビル、渋谷警察署の辺りが推定地とされている。
台地先端部というよりも寧ろ台地下に近い印象。

    渋谷警察署付近

源義家郎党河崎庄司郎の館とも。(「東京都の中世城館」より)
 元々伝承地としての色合いが強くその信憑性も不明。
第一生命ビルの脇から坂を上り渋谷八幡方面へ移動。
この坂自体の比高差は約8mほど。

    現在の渋谷川


渋谷城
午前 11時10分から11時25分

渋谷八幡宮境内。
麓を走る明治通からの比高差は境内地自体もそれなりに高いことから10mを超えている。
ただし六本木通の方がやや高いので北側かにのびた台地先端という地形。
渋谷氏一族の城館跡ともいわれ、金王丸の伝承も遺されているが、あくまでもその詳細は不明。

    渋谷八幡宮社殿

神社境内北側には天台宗東福寺が所在。 
16世紀の初めに後北条氏により攻略されたとも。
展示されている「城跡の石垣」はあくまでも近世以降のものであるように思われる。

     「石垣」

 
 
◎豊栄稲荷神社
午前11時30分から11時40分

境内に庚申塔群が所在し、建立者名に渋谷伝左衛門という名が刻まれていたという。
現在は碑文剥落により判読不可。
ほかに道標の役割を兼ねていたものもあり、こちらは今でも「めぐろ こんわう(金王)
道」の文字が判読。

   「こんわう」の文字


◎東福寺
午前12時00分から12時10分

宝永元年(1704)銘の梵鐘に渋谷を「谷盛庄」と称されていた旨の記述が刻印されている。
 
    天台宗東福寺


 「谷盛庄」の文字がある梵鐘

なお境内の庭園に土塁と石垣が所在するが、その様子から考えるにおそらく造園工事によるものであろう。
このあとは国学院大学方向へと向かう学生に混じり氷川神社へ移動。



◎渋谷氷川神社
12時20分から12時35分

この社殿も台地辺縁部に所在している。
渋谷区最古の神社で江戸時代には下渋谷村、下豊沢村の総鎮守。

    氷川神社社殿

国学院大学寄りの東側参道脇にL字型をした土塁状地形が認められる。
表参道沿いの地形同様、むろん神社造立に付随する可能性大。
些か規模が大きいように思われるがその経緯は不明。

  土塁といえば土塁の様な



◎常盤の松
12時50分から13時00分

常盤松と呼ばれた常盤御前などとの伝承を記した幕末期嘉永年間に刻まれた石碑が所在。
当時の薩摩藩により設置され、天璋院(篤姫、13代将軍徳川家定正室)が一時滞在したという薩摩藩下屋敷との関連があるとの事らしい。
この辺の事情は「江戸切絵図」からは判然としない。

   「常盤の松」石碑



なお、周囲には常盤松小学校など関連する建物名には事欠かない。
このあとは休憩を兼ねて渋谷区郷土館に立寄り資料収集。



◎黒田藩下屋敷
14時00分から14時20分

現在の渋谷図書館付近が下屋敷跡と推定されている模様。

    渋谷図書館

 

「江戸切絵図」には松平美濃守の下屋敷として記載されている。
福岡黒田藩は2代目以降は松平姓が下賜され、第11代当主は美濃守名を拝領している。
終わりに渋谷図書館(地域館)にて「渋谷金王丸」関係の資料閲覧、収集。
このあとは撤退予定の午後2時半を回ったことから、残る「北青山遺跡」方面を先送りして帰路に就く。



本日の歩行歩数は1万7800歩ほど。
毎回懸案の足回りには所要の痛み対策に加えて今回はテーピングを追加。
ところが、すでに往路最寄駅階段から左膝に違和感発生。
先行きの懸念はあったが、痛みの増幅はなくどうにか持ち堪えられた。

拍手[3回]

今月に入り4日、3日と割合短い間隔で出かけている。
この年代になってくると、確実に去年よりは今年、今年よりは来年というように急速な体力の衰え(余りいいたくはないが老化)を感じている。
従って出かけようという意欲のあるうちに行動に移さないと、兵庫県方面などのように十中八九の確率でそれきりになってしまう恐れが濃厚なのである。
さて、いまのところ今月の4回目は20日か22日を予定しているが、気温を含めて全く天候が読めないでいる。

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