本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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男性
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定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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4月半ばからの風邪がようやく治ったかとおもったら、今度はアレルギー性皮膚炎を発症。
直接の原因と思われるアレルギー系統内服薬の服用を中止。
それでも一向に改善が見られないので咳止めの内服薬を1食分抜いた途端に咳が再発した。
いままで別々に発症したことはあったのだが、このように同時に発症した記憶は無い。
うーむ、どうしてくれよう‥‥とただ今思案中。

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今月の21日から26日まで大阪に住んでいる長女が帰郷していた。
19歳の時に家を出たので9年目くらいになったただろうか。
おおむね年に一度くらいしか戻ってこない。
以前はよく怪しげな大阪弁を使っていたが、今回に限っては何故か標準語になっていた。



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現在ロードショウ中の邦画「駆込み女と駆出し男」を市内のシネコンまで見に行った。
平日の昼間にもかかわらず観客は40名以上と、最近見た映画のなかでは多い方に入る。
原作は故井上ひさし氏の「東慶寺だより」から、江戸時代の「縁切り寺」を舞台にした庶民の悲しくも可笑しげな生き生きとした姿を描がいた時代劇コメディ。
原作の持つ批評精神の豊かさに加えて監督脚本のうまさ、出演者の熱演が相乗効果をもたらしていた。
因みに時代は幕末天保の改革で、中心人物である老中水野忠邦の墓は昨年11月に訪れていた。
これもついでながら、何故かロケーション地は織田政権が播磨侵攻の拠点とした兵庫県姫路市書写山圓教寺(別名白山城)であった。
 熱中する余りにともすれば置き去りになりがちな「強かな権力批判」の必要性を改めて痛感させてくれる映画でもあった。

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先月の20日頃から罹患していた風邪がようやく完治に近づいてきた。
市販薬では改善しないので処方薬を服用して18日目である。
とはいえ元々喉が弱く、一度ひいたら二、三ヶ月は続くことが多かったのでこれでも早いほうなのである。
遠征以降殆ど外出が難しかったが、これで少しは動けるようになるかもしれない。

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遠征最終日の3日目は帰宅時間等を勘案して、会津若松市内を起点に湯川村と旧塩川村(現・喜多方市)に所在する比高差の無い平地の城館跡を巡った。

神指城(会津若松市) 9時05分から10時15分
会津若松城の北西部に南西角部分を除く大規模な二の丸土塁跡の一部が残存している。
周囲の水田には外郭部の堀跡の名残も伺える。
現在では本丸部分は一部立ち入りが可能とはなっているが、いささか城跡としての景観は損なわれている印象が拭えなかった。
二の丸北側の一部では売却予定地の表示も設置されていたことから、今後の文化財としての景観保持が懸念された。


中ノ明館(会津若松市) 10時34分頃
国道49号線中ノ明交差点の南側付近が該当地とされているが、宅地化の進行によりその面影は確認できないもよう。
 かくして遠景のみの撮影に終わった。
このあと駐車していたショッピングモールにある市内大型書店2個所にて郷土資料を購入、というよりもこちらの方がメインであったようにも。
 


平沢館(会津若松市) 11時22分から11時24分
神指城から北東へ約800メートルほどの耕作地に所在しているという。
水田の中の微高地となっている神社境内が目印。


中地館(会津若松市) 11時31分から11時35分
平沢館から北西へ約700メートルほどの中地集落内に所在している。


下高野館(会津若松市) 11時46分から11時57分
中地館から北へ約800メートル地点に位置する下高野の集落内に所在している。
集落の宅地周辺に堀跡の名残と考えられる水路が確認できた。
ここから更に北へ向かい湯川村の浜崎城へと移動。 


浜崎城(湯川村) 12時14分から12時34分
主郭東側の土塁と堀跡が思いの外綺麗に残存しており感動を覚えた。
しかしこのあたりからいくぶん足取りが重たくなり、60代半ばにさしかかっている管理人は連日の暑さが徐々に体に堪え始めてきたのであった。
一昨日の轍を踏まぬようにこまめな水分補給に加えてタオルを頭に巻いて暑さを凌ぐこととなった。

 
 

柏木城(旧塩川町、現・喜多方市) 12時34分
浜崎城の北側のこの河川敷付近と推定されているようので対岸から遠景撮影して探訪終了した。
このため寧ろ川幅いっぱいに飾られた鯉のぼりの印象の方が強く残っることとなった。


新井田館(旧塩川町、現・喜多方市) 12時47分から12時53分
別名を田辺館ともいうらしい。
屋敷の周囲を中心にして堀跡と土塁の一部が確認できる。


鏡ヶ城(旧塩川町、現・喜多方市) 12時58分から13時17分
鑑ヶ城とも。
大字源太屋敷に所在し、集落の北側を中心にして予想以上に大規模な土塁が遺されている。

新井田谷地館(旧塩川町、現・喜多方市) 13時26分13時37分
姥堂駅西側の新井田谷集落内に所在する。
土塁にもみえる盛り上がりが道路際に残る。


上江館(旧塩川町、現・喜多方市) 13時50分から13時52分
新編会津風土記によれば、天正年間に栗村弾正清政が居住したという。


上窪館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時06分から14時10分
上窪公民館と古峰神社の所在する北側の民家が該当地とのこと(史進さんよりご教示)
西側の水路沿いを中心に延長50メートル以上の屋敷を取り巻く明瞭な土塁の一部が遺されていた。
このあたりから管理人は次第に遺構名と現実の遺構との間における認識の乖離が始まりかけていたようである。

 

深沢館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時18分から14時26分
字深沢の集落内に石塁を伴う堀跡と土塁が遺されている。
宅地周辺の樹木が伐採されており館跡の形状を把握しやすい状態であった。


金川館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時33分から14時50分
字館ノ内の民家にて土塁のほかに石塁、小口跡も確認できた。
画像は北側から撮影した土塁跡である。




このあとは磐梯河東インターから磐越道経由で帰路につき、途中休憩を含め6時間ほどで帰宅した。

2泊3日の全走行距離は予想通り約750キロメートルであった。

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