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目覚ましは時計4時半にセットしていたのだが、どういう訳か午前3時に覚醒してしまった。
生来から二度寝すると寝起きの芳しくない性質である。
やむを得ずのんびりと身支度を整えたりして出かける支度を始めたが、如何せん時間を持て余しすこととなってしまった。
このため当初の予定よりも早く自宅を4時半過ぎに出発した。
こういう場合には往々にして早い時間に活動エネルギーが欠乏するという傾向があるらしいのだが。
◎大国神社(おおくにじんじゃ、群馬県前橋市境下渕名)
午前6時10分から6時30分
いつも上武道路を通行するたびに気になっていた個所であり、神社境内に関係すると思われる地形であるが、明らかに人工的な地形の改変跡と認められる地形である。
今回は未だ時間も早いこともあり立ち寄ってみることとした。
国土地理院の情報では、境内地西側の標高は57.2mで境下渕名(さかい/しもふちな)の集落が全体として緩やかな低丘陵となっていることが分かる。
実際に現地を歩いてみた限りでは、やはり神社境内の東側部分については人工的な地形改変が行われている印象を強く感じる。
ただしそれが神社境内整備に伴うものかそれ以外の要因によるものなのかは判然としなかった。
町名は元々の渕名が上下に分かれ、近年の市町村合併により旧境町のエリアについては、先頭に「境」の文字が付されることとなったので、「さかいしも/ふちな」ではない。
当地は大国神社の縁起にもあるとおり、古くから人々が在住している地域でもある。
◎波志江の土塁(はしえのどるい、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前7時10分から7時20分
今回は以前よりもさらに集落内となることから、当初は「いせさき聖苑」北側の公衆トイレも設置されている「赤城見台公園」の駐車場をあてにしていた。
しかし、毎週火曜日は定休日で閉園のため次候補であった鍛冶原公民館の駐車場に車を置かせてもらい、徒歩にて西方の中屋敷方面を目指すこととした。
すると蟹沼西北の信号から約100mほどの地点に旧家の屋敷林が目に入った。
目を凝らして観察してみると、市道南側に沿って東西方向に土塁状の地形が確認できた。
延長は約60mで高さは60cmから80cmほどを測るであろうか。
これに並行するような形で道路沿いには幅4メートルほどの堀跡とも見られる細長い区画も存在しているように見られた。
むろん「群馬県の中世城館跡」には掲載されてはいない。
宅地の北側でもあり近世以降の屋敷の風除けという可能性もあるが果たしてどうなのであろう。
凸中屋敷(なかやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前7時30分から7時50分
北関東自動車道とそのETCインターチェンジ建設などの影響を受けており、その面影はほぼ消滅しているといっても良いように思われた。
やむなく「中屋敷」の地名が記された地元の集会施設の表札を撮影した。
凸岡屋敷(おかやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前8時00分から8時15分
上記同様に北関東自動車道の建設により旧景は著しく失われているが、それでも僅かではあるのだが東側堀跡の屈曲部に相当する路地跡は確認できた。
凸中野屋敷(なかのやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前8時25分から午前8時50分
民家の宅地などに隣接していることから、その北西側を流れている神沢川沿いからの遠望となった。
しかし、よくよく考えてみると1週間前に訪れた「赤石城」の近くで、何とはなしにこの景色を眺めていたことに気がついたのである (^^ゞ
凸波志江館(はしえやかた、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前9時10分から午前10時00分
地元旧家の周囲に館跡に関連する堀跡、土塁などが存在していたようであるのだが、近年の宅地化などによりそうした形跡は消滅しかかっているらしい。
それでも金蔵寺西側の裏手には延長40メートルほどの堀跡および土塁状の地形などが残存しており、この地形の延長線上に金蔵寺境内地の西側が続き微妙な地形が残存しているように思われた。
また、北側に隣接する愛宕神社の境内にも築山のような盛り土が所在しているが委細不明である。
◎地蔵山古墳(じぞうやまこふん、群馬県伊勢崎市五目牛町/ごめうしちょう)
午前10時40分から11時15分
車を停めさせていただいた蟹沼方面からは否応なしに古墳状の地形が目に入ってしまったので、ここからは暫時古墳めぐりを始めることとなった。
附近にはこれ以外にも、少なくとも4か所ほどの古墳が所在しているのだが、次第にその全てを廻るという気力が無くなり始めるのを感じていた。
凸新土塚城(しんどつかかじょう、群馬県前橋市二之宮町)
12時00分から12時40分
この地は元々が荒砥川と神沢川に挟まれた地形であり、それに加えて八坂用水がその北側を流れているため、些かアプローチし辛い地理的環境である。
とくに華蔵寺公園方面から向かうと神沢川を渡河できる橋は薬師堂北方の一か所である。
しかもそのあとは八坂用水を2度ほど渡らねば到着できないのであった。
何と言っても城跡東側に残存する堀跡の地形が一番の見どころである。
この個所については何度見返しても見事な堀跡である。
その土木工事量も半端なものでは無く大がかりであったことが偲ばれた。
そうした経済力と動員力の源泉の存在が気にかかる。
また、ここでも集落の東西を貫通している道路の北側、文殊堂の東約50メートルほどの地点に荒砥史談会の設置された標柱があり感激した。
ただし、道路脇に植栽されている樹木の成長が著しく、いくぶんその存在が見づらくはなっていた。
午前中の天候は花曇りというのにふさわしい曇天であった。
しかし、次第に天候は回復し気温の急上昇とともに紫外線も強く感じ始めた。
暫時休憩を兼ねて未だ花見には早い華蔵寺公園近くの蕎麦屋にて昼食を摂ったこともあり、正午過ぎという時刻にもかかわらず眠くなってきた。
当初は西方の下増田館へと赴くという選択肢も考えてはいたのだが、この日の目標が4か所から5か所でもあったことから即座に撤収を決意した。
本日も今月3度目となる前橋方面であった。
しかしよく考えると主に神沢川の東岸なのでほぼ伊勢崎市内なのであった。
来月の前半にはほんの少々比高差のある個所をまわり、その後は再び遺構の乏しい平地へと向かうこととなるのかも知れない。