本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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今回も前橋方面である。
しかも明らかに遺構の少ない地域である。
元々前橋方面は個人的には空白地帯であった。
昨年頃から資料だけは纏めてはいた。
この下調べは嵌りだすと止まらないので要注意でもある。
未訪問の資料件数は概ね1000か所前後はあるものと思われる。
いずれにせよ忘れないうちに出かけておかないとタダの資源ごみと化するのである。
◎女堀(群馬県前橋市)
午前7時20分から8時30分
今年の1月に訪れた平安時代末期とされる女堀遺構の西域を8か所のブロックに分けて踏査してみた。
画像は前橋市二之宮町の女堀沼付近の様子である。
この辺りでは流路掘削の関係上からその堀上土があたかも小山のような景観を呈して東西方向に続いている。
凸二宮赤城神社(群馬県前橋市二之宮町)
午前8時45分から9時50分
赤城神社の境内に遺されている土塁と堀の遺構であり、無量寿寺、宮下西館と合わせて「二之宮環濠遺構群」ともいわれている。
単に赤城神社ともいわれてはいるが、県内には同名の神社が数多く存在している。
また「にのみや」については「二之宮」(地名、町名)「二宮」(前橋市文化財の呼称)があり、いささか分かりにくいものを感じる。
このため前橋市文化財の呼称等に従うものとした。
なお人為的に堀と土塁に囲繞された一定規模の区画ではあるが、その地域勢力の求心性、防御性などの点でいわゆる城館跡とは異質な部分を感じなくもない。
如何にしてこのような規模の神域を確保し維持できたのか、そうした宗教的、政治的、経済的、軍事的な背景などについて興味は尽きないものがある。
現在の参道の設置されている南側を除き概ね三方に堀と土塁が残り、内郭部も北と西側に確認できる。
北東角付近の土塁 東方からの遠景
「環濠遺構」には、群馬県内では大田市、伊勢崎市、前橋市、高崎市、玉村町方面などにしばしば散見され、その形態から大別すると概ね「単独の屋敷周りの方形をした水堀」「これらの複数から成る集合体」に分けることができるようにも思われる。
それらの成り立ち、時代背景、地侍層などとの関わりなど、これらの研究には取り敢えず「前橋市史」などに記されたものがあるのでこれを手がかりにもう少し調べてみようと思う。
凸無量寿寺(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時00分から10時25分
赤城神社の東南東約300mほどの地点に所在し、「群馬県の中世城館跡」などによれば、かつては同寺の境内地に方形の環濠跡が遺されていたとされている。
筑波山古墳
むろん境内地、墓苑の整備、周囲の宅地化などの影響により、その現状からは南東部に所在している筑波山古墳を除き、地表観察からそれらの遺構を確認することはできなかった。
凸宮下西館(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時30分から10時50分
赤城神社から見て南東約200m付近に所在している環濠屋敷跡である。
西側に小流を伴う比高差5メートルに満たない小さな崖地を有する一画であり、現在は3軒ほどの民家と耕作地が所在している。
西側外郭部附近か
このあと、朝食ぬきであったことから暫時休憩を兼ね、国道50号線沿いの「そば花」にて昼食を摂った。
凸赤石城(群馬県前橋市飯土井町)
11時50分から12時10分
昼食後そのまま帰宅するというのも如何かと思い、1か所だけ出向いてみた。
赤城山の中腹を水源とした神沢川とその支流に東西を挟まれた細長い丘陵先端部に所在している。
周辺の大室城からは南へ4kmほどの地点でもある。
上武道路が貫通しているこのあたりの地域になると赤城山の南麓とはいうもののその傾斜は益々緩やかなものとなり、現在における周囲の水田面との比高差も目立たないほどに少なくなっている。
戦国期の大永年間頃に赤石左衛門尉が城主であったとされ、のちに伊勢崎へと転じたと伝わるらしいのだがその詳細は不明である。
城跡とされる一帯は工場、店舗、倉庫、住宅などの敷地の用に供されている。
「前橋市史」の記述によれば、その当時は比高差5メートルから7メートルを測ったという旨が記されているが、現在では3メートルから1メートルあるかないかというように削平を受けているようであり、往時の面影は微塵もないように感じた。
城跡の名残である崖線部
その名称の割に遺構は皆無に近いことは把握していたが、本当に何も見当たらないという形容に相応しいような気がした。
唯一城跡であったことを示すものは、有難いことに「荒砥史談会」の方々が設置された「城跡標柱」のみであった。
城跡の標柱
かくてこの日は僅かに城館類似遺構1か所と標柱のみが所在する城跡1か所となった。
復路の上武道路は何時もよりいくぶん渋滞気味のようであつた。
このため約2時間半ほどを要して、午後2時半過ぎ頃に自宅へと帰着した。
薬で抑えている花粉症と低気圧接近に伴う頭痛の関係もありこのあたりが限度であるようにも感じていた。
むろん少し頑張ればあと2か所くらいは廻れなくもない。
しかし今回はインターバルが4日間である。
今後のダメージへと繋がらないようにかなり早めに撤収した。
今月はあと1度くらい平地を廻わるか、ほんの少しだけ登ることとするのか暫く考えてみよう。
今年は暖かくなるのが異常に早く、もたもたしているうちに山城の季節が終わってしまいそうな気もする。
当然健康寿命の方も、ピコピコとカラータイマーが作動し始めているように感じる。
しかも明らかに遺構の少ない地域である。
元々前橋方面は個人的には空白地帯であった。
昨年頃から資料だけは纏めてはいた。
この下調べは嵌りだすと止まらないので要注意でもある。
未訪問の資料件数は概ね1000か所前後はあるものと思われる。
いずれにせよ忘れないうちに出かけておかないとタダの資源ごみと化するのである。
◎女堀(群馬県前橋市)
午前7時20分から8時30分
今年の1月に訪れた平安時代末期とされる女堀遺構の西域を8か所のブロックに分けて踏査してみた。
画像は前橋市二之宮町の女堀沼付近の様子である。
この辺りでは流路掘削の関係上からその堀上土があたかも小山のような景観を呈して東西方向に続いている。
凸二宮赤城神社(群馬県前橋市二之宮町)
午前8時45分から9時50分
赤城神社の境内に遺されている土塁と堀の遺構であり、無量寿寺、宮下西館と合わせて「二之宮環濠遺構群」ともいわれている。
単に赤城神社ともいわれてはいるが、県内には同名の神社が数多く存在している。
また「にのみや」については「二之宮」(地名、町名)「二宮」(前橋市文化財の呼称)があり、いささか分かりにくいものを感じる。
このため前橋市文化財の呼称等に従うものとした。
なお人為的に堀と土塁に囲繞された一定規模の区画ではあるが、その地域勢力の求心性、防御性などの点でいわゆる城館跡とは異質な部分を感じなくもない。
如何にしてこのような規模の神域を確保し維持できたのか、そうした宗教的、政治的、経済的、軍事的な背景などについて興味は尽きないものがある。
現在の参道の設置されている南側を除き概ね三方に堀と土塁が残り、内郭部も北と西側に確認できる。
北東角付近の土塁 東方からの遠景
「環濠遺構」には、群馬県内では大田市、伊勢崎市、前橋市、高崎市、玉村町方面などにしばしば散見され、その形態から大別すると概ね「単独の屋敷周りの方形をした水堀」「これらの複数から成る集合体」に分けることができるようにも思われる。
それらの成り立ち、時代背景、地侍層などとの関わりなど、これらの研究には取り敢えず「前橋市史」などに記されたものがあるのでこれを手がかりにもう少し調べてみようと思う。
凸無量寿寺(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時00分から10時25分
赤城神社の東南東約300mほどの地点に所在し、「群馬県の中世城館跡」などによれば、かつては同寺の境内地に方形の環濠跡が遺されていたとされている。
筑波山古墳
むろん境内地、墓苑の整備、周囲の宅地化などの影響により、その現状からは南東部に所在している筑波山古墳を除き、地表観察からそれらの遺構を確認することはできなかった。
凸宮下西館(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時30分から10時50分
赤城神社から見て南東約200m付近に所在している環濠屋敷跡である。
西側に小流を伴う比高差5メートルに満たない小さな崖地を有する一画であり、現在は3軒ほどの民家と耕作地が所在している。
西側外郭部附近か
このあと、朝食ぬきであったことから暫時休憩を兼ね、国道50号線沿いの「そば花」にて昼食を摂った。
凸赤石城(群馬県前橋市飯土井町)
11時50分から12時10分
昼食後そのまま帰宅するというのも如何かと思い、1か所だけ出向いてみた。
赤城山の中腹を水源とした神沢川とその支流に東西を挟まれた細長い丘陵先端部に所在している。
周辺の大室城からは南へ4kmほどの地点でもある。
上武道路が貫通しているこのあたりの地域になると赤城山の南麓とはいうもののその傾斜は益々緩やかなものとなり、現在における周囲の水田面との比高差も目立たないほどに少なくなっている。
戦国期の大永年間頃に赤石左衛門尉が城主であったとされ、のちに伊勢崎へと転じたと伝わるらしいのだがその詳細は不明である。
城跡とされる一帯は工場、店舗、倉庫、住宅などの敷地の用に供されている。
「前橋市史」の記述によれば、その当時は比高差5メートルから7メートルを測ったという旨が記されているが、現在では3メートルから1メートルあるかないかというように削平を受けているようであり、往時の面影は微塵もないように感じた。
城跡の名残である崖線部
その名称の割に遺構は皆無に近いことは把握していたが、本当に何も見当たらないという形容に相応しいような気がした。
唯一城跡であったことを示すものは、有難いことに「荒砥史談会」の方々が設置された「城跡標柱」のみであった。
城跡の標柱
かくてこの日は僅かに城館類似遺構1か所と標柱のみが所在する城跡1か所となった。
復路の上武道路は何時もよりいくぶん渋滞気味のようであつた。
このため約2時間半ほどを要して、午後2時半過ぎ頃に自宅へと帰着した。
薬で抑えている花粉症と低気圧接近に伴う頭痛の関係もありこのあたりが限度であるようにも感じていた。
むろん少し頑張ればあと2か所くらいは廻れなくもない。
しかし今回はインターバルが4日間である。
今後のダメージへと繋がらないようにかなり早めに撤収した。
今月はあと1度くらい平地を廻わるか、ほんの少しだけ登ることとするのか暫く考えてみよう。
今年は暖かくなるのが異常に早く、もたもたしているうちに山城の季節が終わってしまいそうな気もする。
当然健康寿命の方も、ピコピコとカラータイマーが作動し始めているように感じる。
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