本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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上里町の勅使河原堀込付近の路地で撮影したもの。
オシロイバナは一般にひとつの同じ株から白や赤やあるいは絞りのあるものが咲くことはさほど珍しくはないようです。
本人の不勉強かもしれませんが、この薄紫色の花に出会ったのは全く初めての体験。



オシロイバナ
2007/10/22 撮影

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往復の所要時間を考慮して早めに出かけるつもりが、ネコ達のご機嫌を窺っているうちに午前10時半過ぎに。
しかし、本日は何時にも増してどうも出かける前から気力不足。
よくよく考えてみれば土日は連続勤務。
通常ならば惰眠を貪るべき一日のはず。

然れども足回り等のリハビリを兼ね、体調の回復状態を確認するにはまさに絶好の日和。
このため久しぶりに2週連続の上里方面への出陣とあいなりました。
では何故、県北の上里か。
たまたま「上里町史資料編」に小字を復元した地図をじっくりと見いってしまったのが運の尽き..元へ、これ幸いとばかりに中世城館に少しでも関連のありそうだと思い込んだ場所をチェックし始めたらもう止まらない。
かような次第で本日の用水路めぐりが始まってしまったのであります。



屋敷(児玉郡上里町帯刀)午後1時25分から2時20分

「屋敷」という小字名以外には、具体的な手がかりなどうあろうはずもなく、「新編武蔵風土記稿」でも小名として掲載されているのみ。
他にはいかにも歴史の古そうな神社(村の鎮守、天満宮と記されている)が所在するというだけの情報。
このためまずとりあえずは、集落東側の「菅原神社」に参拝して行路の安全祈願..って、本来は学問の神様なのでこの場合にご利益があるかどうかは不祥。

こうして中世城館跡に関係しそうな地域をめぐっていると、必ずといってよいほど神社・仏閣に遭遇するは必定。
元旦の初詣には全く縁がないものの無人の堂宇、小祠までを含めればこの3年余りの年月の間に、累計にして1千回以上はお参りしているという計算に。
その割にはご利益が..などと申上げては罰当たりにて。
こうして可も無く不可も無く生きているということが、何よりの現世利益の証かと。

さて肝心な中世城館跡としての感触はといえば、まず菅原神社の境内を含む集落の北辺に幅1間ほどの魅力的な用水路が所在。
ただし近年に相当改修されているように見受けられるので、以前の面影を偲ぶことは困難かと。
勿論用水路に沿って土塁状の地形があろうはずもなく。

そうしたなか、西側から眺望した屋敷林は島状に散在する水田地帯の集落に相応しい見事な景観を呈しておりました。
さらに菅原神社本殿北側の高さ2mほどの塚(古墳かも)が、また集落の北西に所在する福昌寺の近くの墓地にも高さ3m近い塚状の地形が所在。

結局のところ、「屋敷」という名称は近世初期の有力農民階層(名主など)の屋敷が所在したことから小字名となったものか、中世の在地領主の系譜につながるものなのかなどについては勿論分からずじまいなのでありました。


帯刀の小字屋敷
帯刀の小字屋敷
2007/10/22 撮影



堀込(児玉郡上里町帯刀、勅使河原)午後2時25分から3時

前回「堀の内」の辺りを訪れたことから、それならば「堀込」にも赴かねばなるまい..と、ものすごく漠然とした動機。
「堀込」としての小字名は「帯刀」「勅使河原」の両地区の双方に所在し、然もほぼ隣接していることから地名としての起源も同一としてとらえることができそう。
なお、「新編武蔵風土記稿」の勅使河原村の項では小名として記されているものの、武蔵七党丹党勅使河原氏との関係は全く不明。

現地は関越自動車道が、ほぼ東西方向に縦断するという些か味気ない景観。
堀込の地名を示すものは、今や定番となりつつある集会所の名称と交差点の信号機に付属しているプレートのみ。
帯刀側の堀込は現状ではおおむね農地が広がり、勅使河原側の集落の端には地元旧家の墓地内に近世の宝篋印塔と顕彰碑(たぶん和算関係かも)が佇んでおりました。
また、集落の中心部には不自然に屈曲した細い道路が残されておりますが、堀込の地形の由来と関連があるかどうかについては不明なのであります。


カエル
水田のオブジェ?カエルの石像
2007/10/22 撮影



金屋敷(児玉郡上里町五明)午後3時15分から3時35分

近くの長幡部神社に車を止めさせていただき、資料を片手にひたすら用水路の記念撮影を続行。
手がかりは「新編武蔵風土記稿」帯刀村の項に、小名「金屋敷」との記述があるのみ。
集落西端の用水路付近が傾きかけてきた秋の夕日に照らされて、一段と味わい深い田園風景なのでありました。
なお、神社境内のご神木の太い幹に長さ1m弱の青大将さまがオブジェのようにしてへばりついておりました。
このまま、この場に車を置いて徒歩にて直ぐ西側の「長浜城」へと移動。


金屋敷付近の消火栓
金屋敷付近の消火栓(溝のおまけも)
2007/10/22 撮影



長浜城(児玉郡上里町長浜下郷)午後3時55分から4時30分

本日の行き先の中では、唯一遺構が拝める可能性のある場所。
途中の路傍には庚申塔の石碑も。
資料によれば西側には神流川の堤防が隣接し、五明用水が集落の北側を流れ城館跡としての面影が部分的に残されているという事前情報。
日没までは1時間近くあるものの、写真撮影可能な自然光の状況を考慮すると残された時間は約30分。

「堀跡」については、おそらくこの曲がりくねった用水路を指している模様で、内側に土塁状の高まりも部分的に認められることは間違いなし。
小字名もまさしく「城」で、これ以上分かりやすい地名はなく。
ただ、ややこしいことに「長浜村」「長浜町」「長浜上郷」などの地名もありその経緯と位置関係をふくめて次第に頭が混乱。
なお、明治3年の長浜村絵図に記された五明用水及び集落の配置と現在の地形が大分異なっているように思え、益々頭の中が混迷していくのでありました。


長浜城
長浜城
2007/10/22 撮影


またしても往復所要時間は4時間半で走行距離約150km。
その労力に比べて訪れたところはといえば水田地帯の用水路ばかりがやたらに目に付く場所ばかり。
日没時間にはいま少し余裕があったものの、その後に予定していたのは「首塚」「胴塚」を始めとした神流川の合戦に因んだ古戦場めぐり。
夕日の傾く山の端に雲が出始め辺りは一段と薄暗く。
この世のものでないものに憑りつかれたりしても困るので即座に撤退を決意。

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先週、今週と週末の出勤が連続。
今のところ少なくとも3日分の未消化振替休みが。
さらに、来週末にももう一日増えるので累計で4日に。

出かけたい場所は数々あれど。
墓参りもにもいかねばならず。
都内まで楽器のメンテナンスにも行かねばならず。
大阪にも出かけねばならず。
ネコの面倒は毎日見なければならず。

何れにしても明日は天気もお日柄も良好。
かくて再び県北方面へと効率の悪い出陣を予定。

「ミズヒキ」の方は花色の鮮やかさにに陰りが見え、そろそろ盛りを過ぎ始めた観が。
「ホトトギス」の方は、来週末くらいまでは見ごろかと。


ホトトギスとミズヒキ
ホトトギスとミズヒキ
2007/10/21 撮影

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夜中に昼食用のカップ麺を買出しに。
たまたま聞いていたラジオで、腐らずにそのまま乾燥した蜜柑の話題が。
何を隠そう、某も今を去ること30年以上前に仕事先で乾燥した「みかんのミイラ」を作成したことが。
天井の方から吹き付ける異常なほど乾燥した暖房の気流が主な原因かと。

体積は元の4分の1ほどに縮小。
手に取って振ってみると、カラカラと乾いた音が発生。
表面の色合いも蜜柑色からくすんだ朱色に変貌。
表面には無数の皺も。
マジックで書いておいた顔がそのまま縮小しておりました。
捨てるに捨てられず確か5年ほどは大切にして机のオブジェ代わりに。

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2週間ほど前に勤務先の裏庭で、その短い一生を終えてしまった野良の黒ネコ(生後推定4週間前後)
夕方から降りだした冷たい雨に材木の切れ端で拵えた墓標が、落葉を始めた桜の古木の下で濡れそぼっておりました。
あまりにも短い命だったので享年を記すことさえもできず。
せめて40日間は生存していたことに。



黒ネコさんの墓標

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