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本日は史進どの、モナーどの、儀一どのと、武蔵直登会員が勢揃い。
行先は3年越しの懸案となっている藤岡市の鼠喰城がメイン。
Googleで検索しても、ヒットするのは史進どのと小生のサイトと山岳ブログ(但し未踏頂)の3件のみという限られた情報のみ。
すなわち登り口不明。
ルートの良否不明。
遺構の状況不明...
凸飛石の砦(群馬県藤岡市) 9時時50分から9時55分まで
日野谷に向かう道筋に所在することから立寄ったまで。
凸七村城(同上) 10時50分から11時45分まで
2007年の冬に続く再訪(無論HPは未更新のまま)
神社境内とその上方の尾根筋が城跡とされていますが、郭としての規模も極めて小さく遺構そのものについてはいささか明瞭性を欠くきらいが。
そうしたなかでは堀切状の峠道が最も城郭遺構に相応しいようにも。
凸後藤屋敷(同上) 12時05分から13時15分まで
日野谷り南側緩斜面に展開する奈良原の集落奥に所在。
宅地造成に伴う石積みはどれほど古くとも近代以降のものか。
ミツバツツジや山桜、菜の花などが咲き乱れる桃源郷との言葉が相応しいのどかな山村。
凸鼠喰城(同上) 13時45分から17時05分まで
本日最大というよりも、近年最大の目玉。
事前の資料とは相反し比高差は携行した高度計によれば、少なくとも不動明王の鳥居からは380m以上を計測。
然し地図上で見る限りは340mほど。
この差がなぜ発生したのかは今以って不明。
多少のアップダウンを加味すれば間違いなく400mに。
また平面上での移動距離は約800m。
稜線の大半は緑泥片岩質のヤセ尾根の急斜面。
所々に設営されたトラロープが断裂若しくは断裂寸前...
山歩きの経験はそこそこあるにはあるのでありますが。
久しぶりに生命の危機、滑落、行方不明、遭難と縁起でもない単語が次々と登場する局面に再会。
山頂の小祠の姿を見出したときには達成感で感涙の極みに。
腰を下ろして休憩したいところなれども、座ったら最後立ち上がれないほどの疲労感が(苦笑)
なお鳥居からの所要時間は休息を含めて1時間50分ほど。
かなりの山慣れした健脚者でも安全を考慮すると1時間30分ほどかと。
なお標高830mから930mの間での平面上の移動距離は僅かに100m。
すなわち分度器の二等辺三角形の鋭角の角度ということに。
つまりは斜度45度、比高差100mの斜面をそのまま直登していた計算で...まさに武蔵直登の面目躍如。
遺構の多寡は別として、計画以来足掛け3年にわたる鼠喰城の制覇。
前日は雨。
岩場、急斜面の多い地形。
本来ならば登山の常識に照らし順延が相当。
折りしも季節はうつろい始め、木々の芽吹き寸前でありました。
凸藤岡城(同上) 18時00分から18時05分
既に黄昏時。
打上げの途上に東側の櫓台跡(現在は戦没者慰霊塔)をそそくさとばかりに訪問。
こののち藤岡市内のガストにてお決まりの甘味にて打上げ。
今回の鼠喰城制覇は無論単独では到底成しえない所業にて。
参加者全員に事故も無く無事帰還したことは慶賀の至り。
合わせて「武蔵直登」メンバーの面目躍如。
そうしたなかで取分け全身疲労と筋肉痛が体中に蔓延し始めてきた年齢的にも今年がギリギリの管理人なのでありました。
「城郭図鑑」管理人様より、松ヶ崎城を見るならば今が旬との貴重な情報。
とはいえ今シーズンから下総方面探訪を始めたばかりの当サイト管理人であります。
土地勘の無いことは甚だしく、国道16号線沿線から少しでも外れると忽ち迷子になるのであります(汗)
あ、カーナビなどというものは搭載しておりませぬ。
また仮に搭載したとしても操作方法が分からず、老眼の進行により小さな画面が見えないのであります。
然しここで行かねば果たして何時いけるかと、迷子恐れるに足らずとの決死の覚悟を持って出陣。
幸いにして迷子になったのは予め予定しておいた夕食の場所を探したときのみ(笑)
凸松ヶ崎城(柏市) 12時00分13時30分
諸般の事情から城跡の樹木がきれいさっぱりと伐採。
一部消失した遺構もあり、消失部分の確認も含めて縄張図と照合。
小口の土塁の一部と崖線およびその直下の腰郭が不明となっている模様
史跡整備途上にもかかわらず、話題性のある城跡ということもあり地元市民の方々を始めとして終始見学者は途切れることなく。
中世城館跡の探訪で見学者に出会うことなどは極めて稀な体験。
凸根戸城(我孫子市) 14時15分から15時30分
主郭部分以外はそろそろ草が伸び始めて探索には厳しい季節。
主郭の高土塁、折のを伴う空堀、城跡東端部の櫓台、土橋等の遺構が明瞭に残存。
西側からは宅地化の波、北側には常磐線、東側には新しい市道建設と市街地化の著しい周辺地域の事情を斟酌する限りでは奇跡的な城跡。
文化財等説明版が市道建設に伴い城跡東側の一部を削り取った防護壁に埋め込まれていることも何やら象徴的で。
凸増尾城(柏市) 16時00分から16時40分
実は余り期待しないで訪れた城館跡。
というよりも、残り時間の関係で最も距離が近くかつ確実に遺構を観察できると思われたのがこの増尾城なのでありました。
事前の期待に反して遺構状況は極めて良好。
郭内側での土塁の高さも3mを超える規模。
また櫓台としか表現ができない土塁の張り出し部分も明確で大規模。
城址公園のため土塁などが幾分磨耗している感触もありますが、それだけ地元の方々に親しまれているという傍証かとも。
凸本多藩陣屋(流山市) 17時30分から17時35分
数合わせのために用意をしておいた城館跡。
予め立寄ることを予定しておいた流山市立図書館が陣屋址の一部という好条件。
尤も遺構等は皆無にちかく、あえて関連性のあるものといえば台地上の地形と後に県庁が置かれたことに伴う石碑のみ。
凸流山陣屋(同上) 17時40分から17時50分
例えが失礼極まりますが、正しく行きがけの駄賃のようなもので(苦笑)
図書館から徒歩約5分。
折しも黄昏時のため、大河ドラマブームの去った後の一抹の侘しさが漂う土蔵前に整備された石碑等を撮影。
この後、市立図書館にて関連資料の複写作業を実施。
自治体史関係が周辺の一部地域を除いては以下整理されていないことを除けば郷土史コーナーは概ね充実。
然し両名共約1時間近く前に到着。
予定通り周辺の城館跡を互いに案内係を務めつつ四街道方面へアプローチ。
凸島田城(八千代市)
凸米本城(同上)
凸臼井田宿内砦(佐倉市)
凸稲荷台砦(同上)
凸円能遺跡(同上)
凸忍台砦(同上)
凸謙信一夜城(同上)
以上は再訪または再々訪。
近日の温かさのため僅か2週間ほどの間に確実に草木の緑が顕著に。
凸福星寺城(四街道市) 11時45から12時45分
5か所ほどの出枡を伴った戦国末期の単郭。
主郭土塁外部切岸の高さは現状でも8mを超える個所が散見。
堀幅は上面で最大20mほど。
どう多く見ても200名が守りにつけるかどうかという規模の単郭。
そのアンバランスが実に興味深い城郭であります。
凸東作城(同上) 13時15分から13時50分
この城郭から地元研究者の方にご案内を。
小ぶりで直列、複郭で構成される鹿渡城と同じ台地上に所在する城郭。
南北方向を軸とした城域ではありますが最後まで全体の規模が掴めず。
縄張り図もどきを描く習性が付き始めたために、忽ち遅れを見せ始める管理人でありました。
凸中台城(同上) 13時40分から14時50分
方形土塁に囲まれた単郭。
喰違い小口、枡形小口、二重堀、櫓台など多くの遺構が現存。
しかし南西方向の市道拡張工事が予定され、その一部は消失する運命にあるとのこと。
旧状を目にすることができた幸せを噛みしめつつ、次第に縄張り図もどき作成に混乱の度合いを深める管理人。
凸鹿渡城(同上) 15時00分から15時50分
以前は公園として管理。
近年になって事情により地権者の方々に返還されたとのこと。
それでも良好な状態で空堀、土塁、竪堀等の遺構が残存。
北側水田から遠望する舌状台地地形は秀逸。
凸大山砦(同上) 16時00分から16時20分
常磐線の線路の向かい側、鹿渡城から北へ250mほどの地点に所在する台地上に所在。
方形単郭の少なくとも2辺に土塁が残存。
能力不足と資料不足にめげつつも縄張り図もどき作成に勤しむ管理人。
凸山梨城(同上) 16時35分から16時45分
神社境内となっている郭部分と部分的ながらも良好な土塁・空堀が残存する遺構。
たぶん殿台館とも呼ばれている個所の南側の辺りなのかとも。
何分とも全くの勉強不足で..
にもかかわらず、ただひたすらにダイソー購入のスケッチブックと格闘する管理人。
凸和良比堀込城(同上) 17時00分から17時10分
市道幹線の整備により台地ごと削平された城館跡。
しかしその南側の一部分は公園化されて保存。
断片的とはいえ3か所の土塁遺構が現存。
かつての郭内では葉桜の下で花見に興ずる一組の団体が。
史進どのよりお誘いにて千葉県四街道市方面の城館探訪。
午後からは地元城郭研究者の方にご案内をいただき、夕刻まで非常に濃密な時間の連続。
3月29日から今回まで、山梨、千葉、福島、千葉と2週間ほどの間に5日間、述べ40ヵ所以上を探訪。
例年ならば、ほぼ間違いなくヨタヨタにへばっている季節かと。
お城仲間の皆様のお蔭で、感覚的に何時どの方面へと出かけたのか判然としないほどに満ち足りたシーズン最終局面を過ごしております(嬉)
以上、「縄張り図もどき」作成初心者のため、お誘いいただいた史進どのをはじめご案内いただいた地元城郭研究者の方に多大なご迷惑をかけ続けた管理人なのでありました。
凸物見館(福島県矢吹町)6時15分から7時45分 ■篠竹の藪+荊
前日に購入した「矢吹町史」によると、山頂部分に100m四方の土塁跡が残存しているとの誠に有難い記述。
とはいうものの、当該町史が刊行されてから既に30年近い月日が経過。
さらに調査時点から見れば30数年間が経過。
こうした事情から、その間の土地利用の変遷に伴う地形改変の影響は計り知れず。
遺構の残存確率は拙い経験上からは直感で50%。
予め現地での縄張図作成も視野に入れて早朝からの探訪開始。
直登を避けるべく北側の尾根筋から迂回。
迂回ルートの途中までは、かつて軽トラックが走れたような良好な山道。
無論、途中の分岐からはお馴染みの「篠竹の藪+荊」の連続に。
この間の稜線の移動距離は直線で約250mほど。
植林の先の幾分視界が広がりを見せる丘陵先端部には間違いなく土塁と空堀が現存。
しかし、その規模については100m四方よりはやや小ぶり。
凡そ主郭部については東西60m×南北50mの規模で、東側の一部に耕地化に伴う地形の改変跡を確認。
残念ながら堀跡は東側ではほぼ完全に消失した観が。
然しそれ以外の個所では概ね現存を確認。
この地域の丘陵上の城館跡のモデルケースの一つとして認識できたことは大きな成果かと。
こうなると現金なもので、体中に刺さりまくった荊の跡も全く気にならず(笑)
なお西側斜面の谷筋から比高差にして45mほど直登すれば、以外に楽かも知れないと感じたのはタカナシ城の帰りがけに立寄った際のことで(苦笑)
凸佐久間館(同上)8時10分から8時25分
タカナシ城へのコース途中に所在するので立寄ったまで。
「矢吹町史」などによれば、水田と集落が混在する西原集会所の辺りの平地が伝承地とのこと。
時代背景等を別にすると、寧ろ小字中丸の集落北側や小字本城館の丘陵の方が遥かにそれらしい地形。
凸タカナシ城(同上)8時30分から11時20分
本日の本題部分で2008年6月時探訪の宿題解決。
当時と情報は変わらないためやはり当初は位置関係が不明。
たまたま農作業のためにおいでになった地元の方に伺うものの、現在地等を特定するには至らず。
それでも主郭小口付近の地形等から、徐々に現地と縄張図に記された各郭との相関関係が判明。
主郭北西部には高さ3m、延長100mに及ぶ土塁遺構も現存。
地元の農作業中の方からは見学の了承を。
その上その場で採ったサラダ野菜までいただいて正しく幸せの限り。
圧巻は二の郭北側の空堀跡。
何と幅開墾された農地のど真ん中に、約20m、深さ4mから8mにも及ぶ空堀の一部が現存。
この遺構の所在地は麓からでは完く把握不可能。
二の郭北端で俯瞰したのちに漸くその位置関係と遺構残存状況を理解。
凸袖ヶ城(同上) 11時30分から13時30分 ■篠竹の藪+荊
東西にのびた丘陵の南麓から比高差僅か30mほどの稜線へと直登。
藪と荊は西方の「詰め城」側へと向かう尾根筋が最悪。
多分訪れたとしても過半数は撤退するのでは。
寧ろ北西の腰郭先端部を目指して這い上がった方が無難かとも。
当該郭の規模は極めて小さく南北5m×東西15mほどの楕円形。
堀切とこれに続く横堀跡も現存はしているものの濃厚な篠竹の藪は視界を8割方遮断。
なお、「詰め城」と呼ばれている個所はその構造と規模から寧ろ物見の役割が相応しいという印象。
篠竹の藪については東側の主郭部でも同様。
ただしこちら側は、同好の方々がつけたと思しき踏み跡を辿ると篠竹の密生した堀跡の中で唯一堀跡を越えることのできる個所から主郭部分へと到達できるのであります。
また加えて伐採等のために北側の民家側から車が上ってくる道ができているのでありました(笑)
凸笹目平館(同上) 13時40分から14時00分
福島県文化財データベースによれば、耕地整理された水田地帯南部の丘陵地帯に空堀跡があるとの情報。
北麓の畦堀を除くと丘陵上には当該堀跡(横堀、堀切、竪堀のいずれも)に関わりそうな地形は確認できず。
本日も昨日に続き幾分凹んできたのであります。
凸大和久館(同上) ■篠竹の藪+荊 14時25分から15時10分
笹目平館で凹んだことから、昨日購入したばかりの「矢吹町史」を車の中で取り出して、山頂部分に遺構が残存している可能性を確認。
無論突入を躊躇う、かなりの「篠竹の藪+荊」付。
実のところは、この時点で南部の状態を把握する気力が完全消失。
よく考えれば連日で、ここが6度目となる藪漕ぎ。
加えて本日は午前5時半からの探訪開始。
かくて体力も次第に限界に(苦笑)
凸泉崎館(泉崎村)
帰宅ルートの関係で、白河方面へと出る必要から資料館を含めて寄り道。
体力、気力とは無縁の行動。
以前確認できた堀跡は近年に消滅したとのこと。
止む無く用水路の風景などを撮影。
今回の遠征は再訪という性格もあり、探訪日程の決断は3日前という無計画さ。
髭剃道具を忘れた以外には大きなトラブルや齟齬も無く、2泊2日という変則の仙道地区再訪が終了。
凸観音山館(福島県矢吹町)7時40分から11時05分
2008年6月に続く再訪。
前回時には探訪した時刻が黄昏時。
全く人気の無い森閑とした雰囲気は好印象。
このためデジカメの画像は三脚を使用してもぶれまくる始末。
縄張構成等も確認するだけの時間が無いままに終了した経緯が。
その反省を元に今回は朝からの探訪。
しかし、冒頭から太陽の角度が低すぎたため遠景撮影が困難に(笑)
また今回はたまたま堀跡の一部を除き城跡の樹木が伐採された直後。
前回は確認することが不可能だった空堀が剥き出しに。
このため臨時縄張図作成班を編成。
といっても単独行なので、デジカメ撮影+遺構確認+縄張図作成をする羽目に。
「中世城館調査報告書」および「日本城郭大系」の縄張図が両方ともに不正確であることは確認。
さりとて3時間半と、かなりの時間を費やした割には成果が伴わず。
換言すれば高低さを巧みに利用した縄張なのでありました(汗)
終了の時点ですでに予定所要時間の倍以上を要し、玉川村、鏡石町方面へと足を伸ばすことを断念。
凸中畑陣屋(同上)11時20分から11時35分
幕末に長崎奉行の役職もついた旗本松平氏の陣屋址。
その名残は2本のカヤの木と南北の道路沿いに開けた集落の佇まいで、屋敷については会津の武家屋敷に移築されたとのこと。
カヤの木の所在地は少し分かりにくく、何と中畑郵便局の裏手なのでありました。
凸国神城(同上)11時45分から12時10分
畑の中に主郭部分のみが残存するシュールな城跡。
城跡は耕地整理の行われたとはいえ、ひときわアップダウンが目立つ河岸段丘上に位置。
用水路などの低地部分は空堀跡と関連しているようにも。
また北西部にある三峯神社境内辺りが城跡の北限なのかも。
なお城跡に立つ文化財説明版は説明部分が破損落下。
凸寺内館(同上)12時40分から12時50分
車を停めるような適当な場所が無く止む無くハザードで路駐。
さほど早くも無い足で丘陵を駆け上る管理人(苦笑)
城館跡と思われる辺りには神社の小祠が2か所ばかり。
丘陵の頂上部にはそれらしい削平地も現存。
凸西袴館(同上)13時05分から13時25分
地図上で見当をつけておいた場所は牧草地に。
地表観察には支障が無いことだけは確実。
南東側の植林帯との境界部分に土塁状の地形のようなものが所在。
城館遺構との関連性は不明。
凸袴館(福島県中島村)13時25分から13時45分
ブログを打ち込んでいる際に気づいたのでありますが、ここは矢吹町の東隣となる中島村。
滑津館の方が有名であることは間違いが無く。
なぜここを訪れたかといえば、「西袴館」があるなら「袴館」(東袴館)があってもよく、幸いにして小字名が「袴館」なのでそれらしい丘陵に登ってみたというだけのことなのであります(笑)
無論、直接遺構につながるような地形は確認できず、耕地化などにより削平されたと思われる平場が続いておりました。
凸沢尻館(福島県矢吹町)14時00分から14時50分 ■藪+荊
「中世城館報告書」では、「郭、空堀、犬走」が残るとの情報。
然しかつての植林などにより地形の改変が行われた模様で、最高地点を中心に歩き回った割には明確な遺構は無いも同然(疲)
だいたい帰ってきてから城館名称の間違い気づくという始末。
少なくとも当日回っている間はずっと「沼尻館」だと誤解を。
それよりも篠竹の藪+荊がなかなか頑強で。
少なくとも両足を中心に10か所ほどは傷だらけに。
この時点でかなり凹む管理人なのでありました。
その影響で以下の探訪については、もうあからさまな数稼ぎなのであります。
凸堤館(同上)15時00分から15時20分 ■藪+荊
予め遺構消滅という情報。
荊の傷の痛みに加えてかなり凹んでいたために、家畜舎裏手の丘陵を遠望したのみで終了。
遠目にも篠竹の藪と荊はかなり豊富な丘陵でありました。
凸明神館(同上)15時30分から15時50分
明神地区の簡易水道施設が所在。
かつては「郭」が残されていた模様でありますが、当該施設の建設により概ね消失しているものと思料いたします。
それでもしつこく地形観察を敢行し切岸状の地形を捜し求めるのでありました。
凸和田館(同上)16時20分から16時40分 ■藪+荊+沼地
事前情報は遺構なし。
冒頭から谷筋と丘陵の地形を読み間違えるという不始末。
谷戸田式居館ではなく、丘陵上に築かれたごく普通の居館跡であります。
しかし郭内の突入はかなり困難。
なお当地は水が豊富で、四駆の軽でなければ帰還不能。
四駆の運転を誤るとそのまま身動き不能な地形。
体重が多くかつ積載物の多いことが幸いすることも。
凸郷倉地館(同上)16時50分から16時55分
事前情報では遺構無し。
夕刻となってきたことから竹林の全景撮影で終了。
反対側に所在する「タカナシ城」の遠景撮影が中心。
凸古館(同上)17時00分から17時10分
水田地帯のため土塁と郭の残存情報も心細く。
しかし、予想以上に良好な土塁+郭の切岸が現存。
西辺の土塁延長は60mから70m、高さ2mから3mの規模。
郭東側の切岸は最大で高さ4m(後世の補強等の地形改変含む)
かくて2勝11敗1分けとなるべきところ、3勝10敗1分けに。
ここまで荊の傷の痛みに加えて9割方心が折れた管理人。
正しく明日への希望と活力を与えてくれたのでありました。
凸小松館(同上)17時15分から17時20分
阿武隈川沿いの耕地整理が行われた水田地帯。
無いものはなく。
あるものは高圧線の鉄塔1基。
折りしも東側の鉄塔では保守管理作業の真っ最中。
しばし地上約40mの高所作業を見入っておりました。
凸陣ヶ岡館(同上)17時30分から17時45分
かつては郭と土塁が確認できた模様。
しかし、周辺の宅地化等に伴う地形の改変が余りにも顕著。
暮れなずむ阿武隈川の堤防上から独立丘陵の遠景を撮影して本日の探訪を終了。
今回は前日の仕事終了後にそのまま出かけるというスタイル。
国道16号から県道3号線経由で久喜ICから北上。
往路は日曜日の下りなので矢吹町の現地まで僅か3時間弱。
福島県南までの心理的な距離は大幅に短縮。
なお如何にもやっつけ仕事風の縄張り図?は、この日の宿泊先で作成したものであります。