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とはいえ出立したのは当方の寝坊のため、午前6時半を大きく回ってしまった。
このため連日の猛暑はすでに早朝から猛威を振るい、はやくも大量の発汗を余儀なくさせていたのであった。
凸鎧召館(喜多方市、旧塩川町) 午前7時50分から
館前の道路で朝から電気工事のため片側交通規制が行われていた。
脇道の農道に入り車を止め、南側堀跡を眺め、次に北東側から土塁と堀跡を拝見した。
凸台慶徳館(喜多方市、旧塩川町) 午前8時05分から
南側の桝形と水堀跡の用水路を眺めた後、脇の農道にすすみ北辺の保存状態が良好な土塁と堀跡を拝見。
凸新宮城(喜多方市) 午前8時25分から
南北を天然の川が東流し西から東にかけて緩やかな傾斜を示す緩斜面に所在している。
予想していたよりも広大な城域だったが、一帯はすでに耕作地となり保存されている主郭部分も一面の草地であり位置関係を理解するのに戸惑ってしまった。
それでも東側を除く三方には堀跡の窪地が残され二の郭の一部には復元された土塁が存在する。
この地を治めていた新宮氏の居城と考えられているが、この広大な城域と集落集落との乖離を感じた。
こののち朝食と水分補給用意のため一時喜多方市内へと移動した。
凸太郎丸西館(喜多方市) 午前9時30分から
撮影した画像は八幡神社境内であるが、居館跡自体はもう少し南側(画像では左側)に位置しているらしい。
凸慶徳城(喜多方市) 午前9時38分から
城域について「中世城館調査報告書」では西側丘陵の麓付近まで広げて捉えているが、これに対して「喜多方市史」では市道の位置を西限として見ているようである。
城跡遺構として現存していると思われるものとしては、慶徳小学校西側の法面と城跡南西部に残されている畑の窪み(堀跡か)が確認できる。
葦名氏重臣である平田氏の一族が慶徳氏を名乗りこの地を治めたとされている。
葦名氏により滅亡したといわれている新宮氏の居城であった新宮城からは北に1.2キロメートルほどの地点である。
凸慶徳新館(喜多方市) 午前9時55分から
慶徳城の東側100メートル足らずの個所に武藤氏により築造された城館跡であるが、現在この城跡には喜多方市立慶徳ふれあい会館が建設されている。
しかしその東側に所在する高さ2メートルほどの段差の存在にその痕跡をとどめていることを確認できる。
凸荒神館(喜多方市) 午前10時00分から
現状の地形からは天然の谷川が堀となっていたことが窺われる慶徳城周辺の城館跡のひとつであるが、近年の周辺の道路整備によりその地形が大きく改変されている。
凸松野館(喜多方市) 午前10時20分から
青木氏、勝氏などの居館と考えられている平地の方形館で土塁跡のようにも見えなくもない地形を見ることができる。
凸見頃館(喜多方市) 午前10時32分から
台地上の西光寺付近が館跡とも言われているが委細不明で、字名として館中の古地名が今に継承されている。
凸岩沢館(喜多方市) 午前10時46分から
「喜多方市史」によれば、「南館」「館下」「向館」などの小字名が残され、「腰巻」という田地も存在しているという。
■佐原十郎義連墓(喜多方市) 午前10時58分から
凸岩尾館(喜多方市) 午前11時11分から
加納荘を治めた佐原氏一族の居館を中心として拡大した城館であると考えられている。
土塁跡、郭跡と思われる地形と比高差にして10メートル前後の段丘地形を確認できる。
凸半在家の遺構(喜多方市) 午前11時45分から
佐原十郎墓の南方、県道336号線の半在家集落内の東西に土塁あるいは堀跡などの痕跡を確認することができる。
凸添田館(喜多方市) 午後12時04分から
凸青山城(喜多方市) 午後12時12分から
山王神社が所在する比高差10メートルほどの小丘陵が城跡で、南北にそれぞれ郭を有している。
とくに北郭にともなう土塁と空堀などの状態が魅力的であり、訪れる時期が異なりさえすれば、格好の地形観察が可能な遺構の保存状況であった。
この時点で日差しは益々真夏の強烈な性格を露わにし始め、徐々に次第に気力と体力蝕んでいったように記憶している。
史進どののお導きにより、今回もまた3日間で都合40か所を超えた城跡めぐりとなった。
資料収集、現地案内、宿泊所手配などなど多岐にわたりお世話になり心より感謝申し上げます。
後になってよくよく考えてみれば、こうした盛夏での訪城は極力早寝、早起きがベストなのかとも思う次第。
いっそのこと午前5時出陣、無理をせずに正午過ぎ頃に転進して昼食と資料漁り、午後5時宿営地到着というような行動モデルがあっても良さそうな気がしたのであった。
秋が深まりを見せたころ、本宮市内と会津盆地再訪もプランニングしてみようと思う昨今であった。
2日目は連日の猛暑のなか、やや遅めで宿を午前8時頃に出発。
途中にて朝食と経口補水液などを購入し会津若松市内から会津坂下町方面へと足を伸ばした。
しかし如何せん体重増加のため些か足回りが重たい。
凸横沼柵(会津若松市) 午前8時45分から
神指城の北北東約1.5キロメートルほどの地点に所在する市内神指横沼の集落北部に所在する。
神社境内が目印で境内の南西側に土塁状の地面の高まりと北西側に堀跡と思しき窪地などが認められるが、城館遺構との関わりについては推測の域を出ないものなのかもしれない。
南西側土塁状の地形
凸束原館(会津坂下町) 午前9時20分から
「中世城館調査報告書」によれば、複郭の方形館であるとの記述があるが、現状の地形からは集落をめぐる用水路の存在と小祠の所在する最高約2.5メートルほどの土塁状地形を確認するにとどまった。
祠近くの土塁状の地形
凸細久名館(会津坂下町) 午前9時35分から
集落の南端で共同墓地のさらに南側約60メートルに所在する集落北部に土塁状の表面地形確認できるが、遺構としての規模は方50メートルほどくらいでさほど大きくはない。
おそらくは日蓮正宗妙福寺境内ではないかと推定されるが、このほかにも南端の道路沿いの民家前にて土塁に似た地形を見ることができる。
凸海老沢東館(会津坂下町) 午前10時00分から
「東屋敷」との通称がのこされており、海老沢集落の東端に所在する数軒ほどの集落内に所在するものとされているが、多分このあたりであろうという推測の域を出でず。
東屋敷付近の景観
凸海老沢西館(会津坂下町) 午前10時15分から
前者の西側の集落に所在すると考えられ「西屋敷」との通称名が残されている。
西屋敷付近の景観
凸雲雀城(会津坂下町) 午前11時00分から
空堀、主郭、小口、土橋などが現存している只見川右岸の崖地に所在する城館跡。
堀幅数メートル、深さ最大6メートルほどの空堀一本により東側と北側を台地から隔絶した構造となっており、藪などのため確認しづらいが比較的シンプルなつくりとなっている。
城氏が構築した会津8館のひとつとされており、このほか城域には複数の古墳も所在する。
訪問ルートからは幾分外れた地域に所在し、入り口付近は大分夏草に覆われてはいたが、本当に訪れてみてよかった城館跡のひとつであった。
東側空堀と小口
凸陣が峯城(会津坂下町) 午前11時50分から
古代末期から中世初期に起源を有するといわれている城氏の館跡。
耕作や40年ほど前の地域公民館建設などによりある程度郭内の様相が改変されている模様だが、台地端を利用し二重の空堀を廻らしてその地形的な独立性を図ったという意図が伝わる貴重な遺構。
季節が違えば藪に覆われ気味な空堀の印象もだいぶ異なるはず。
二重の空堀
この時点でおりからの猛暑に加えて空模様が気がかりな様相も加わり、喜多方方面への進出を断念し会津坂下町から会津若松へとUターンすることとした。
この時期「ところにより雷雨」という天気予報はことに悩ましいものである。
凸生江館(会津坂下町) 午後12時25分から
集落内に居館、集落北西の古墳に砦跡が現存し、古代から栄えた地域であった経緯が窺えた。
現状では水田面との比高差は目測で約8メートルほどを測るのみだが、往時には亀ケ森古墳周囲の堀跡が機能して、より比高差を伴っていたであろうことが想定された。
稲荷神社と観音堂とが所在する前方後円墳の円墳部分が中世の砦跡で、方墳のほうは地元の墓地として大きく改変されていた。
なお飲用には向かない印象もあったが古墳麓の水場で首を冷やし人心地つく。
遅きに失してはいたが、帽子の下に濡れたハンカチを被り日射を防ぐ方策が熱中症の防止に有効であることを思い知ることとなった。
朧げながらこの日の暑さのピークはこの時点であったと記憶。
戦国時代の砦
凸青津柵(会津坂下町) 午後12時50分から
生江館東隣りの位置にあるらしいが城館としての経緯などは詳細不明。
推定地付近の景観
凸金上館(会津坂下町) 午後13時25分から
館跡北西部の北辺と西辺を中心として大規模な土塁が現存しているが、葦名氏重臣金上氏の館跡にしては思いのほか控えめの方一町の規模なのであった。
館跡北側に所在する境内地の広い金上寺では折から法要の真っ最中。
南側の集落の道路からは城館跡であることがやや分かりにくいという印象が残った。
北西付近の土塁と堀跡
ブックオフに立ち寄ったのち、となりのラーメン店で幾分遅めの昼食を摂取してほんの少しだけ元気回復モードに。
凸小 館(会津若松市) 午後15時18分から
伊達政宗暗殺未遂事件の現場と伝わり、当地にはその名も「小館稲荷神社」が鎮座している。
現地説明版あり。
小館稲荷神社
この後は空模様と猛暑による体力の減衰を勘案し休養のため宿にて一時仮眠することとした。
2時間ほどの休息ではあったが、確実に気力だけは回復を果すことができていた。
その後は日没近い午後6時30分頃から活動再開。
凸直江兼続屋敷(会津若松市) 午後18時34分から
市街地の一角に上杉家会津移封後に足かけ3年ほどの間直江山城の屋敷があったとされる場所であわせて山鹿素行の所縁の地でもあった。
直江山城守屋敷跡
凸会津鶴ヶ城(会津若松市) 午後18時51分から
黄昏時から日没後の外堀、内堀、天守、二の丸などを次々に訪問したが、人影は皆無に近くとりわけ石垣と土塁のシルエットが印象に残った。
夕刻からの市内散策の後、いくぶん遅めの夕食となった。
昨日に続き、同じ日本蕎麦屋さんで再度「とろろ蕎麦」をいただいた。
何故日本蕎麦が2日続いたのかといえば、自分としては10割蕎麦が美味かったことと猛暑のためほかの食物を胃が受け付けなかったことによるものでもあったのであろう。
就寝前に足回り保持のため携行してきた専用バンドエイドを装着。
って、昨日貼るのをすっかり忘れていただけなのではあるが。
梅雨が明けて連日の猛暑が続くなか福島遠征のこの日を迎えた。
かねての予定通り午前6時拙宅集合。
今年に入って4月末の米沢、会津につづく2度目の東北遠征。
史進さんのご案内により郡山市を目指し一路東北道を北上。
米沢の時には往路で5時間半だったが、今回の郡山市まではわずか3時間半ほどで到達。
思えば郡山は2008年6月以来となる再訪。
凸水神館(郡山市) 午前9時30分から
東北道郡山インター南東丘陵の南東端に所在し、丘陵続きの北西部には県立郡山養護学校および福島県養護教育センターが隣接している。
また周辺は近年著しく宅地化が進行しており公園化されているとはいえ市街地の遺構を伴う城館跡として貴重な存在となっている。
比高約8メートルほどの丘陵の麓には水路が流れ地形としての優位性が伝わり、周辺には坦ノ腰、上ノ台などの地形、城館にかかわると思われる地名も残されている。
なおかつて文化庁が主導した「中世城館調査」などには含まれてはいない。
郭内は児童遊具が設置されてはいるが、折を伴う土塁跡も明確に残されており戦国期の砦跡にふさわしい遺構である。
凸向 館(郡山市) 午前10時00分から
現在ではおおむね宅地化されて地表に確認できるような遺構は殆ど存在していない。
然し当地にはいまでも「字向館」の地名が残されており、住宅内のカーブミラーなどにその地名を見ることができ、館跡の北部丘陵には当地を治めていたといわれている富田氏の墓地も所在していた。
凸富田山王館(郡山市) 午前10時40分から
天正16年(1588)6月安積方面に侵攻してきた2万を超えると伝わる佐竹・蘆名勢に対して、伊達勢が寡兵(恐らく数千人規模か)を以て持ち堪えた「郡山合戦」(「窪田合戦」とも)が行われたという。
郡山駅近くの山王神社が伊達氏本陣ともされているが、こちらも同じ山王神社であり中世城館跡のひとつと考えられていることから立ち寄ることとさせていただいた。
北側が台地へと続く比高差8メートル足らずの丘陵先端部に山王神社境内が所在しているのみで明確な土塁などの遺構は確認できないが南側を向いた境内からは郡山市街方面が観望できる地理的環境にあった。
凸鹿島館(郡山市) 午前11時00分から
あまり期待しないで立ち寄ったが、丘陵東側の鹿島神社側には土塁跡、複数の腰廓、城道と思しき形跡が確認でき望外の収穫となった。
郡山市立行健第二小学校南方の半独立丘陵に所在している。
東側に谷津田が深く入り込む地形で丘陵と南側市街地の比高差は最大15メートルほどを測り南方方面の眺望に優れた環境にあった。
一帯には鹿島舘という古地名も現存している。
凸尾無館(郡山市) 午前11時30分から
日和田古館西側の丘陵に所在する数軒ほどの人家からなる大原集落内に、土塁と堀跡状の地形が僅かばかり断片的に残されている。
むろん往時の遺構に関係するものであるかどうかは分からない。
ちなみに「まほろん」に掲載されている遺跡データベースでは日和田古館の位置に重複しているが所在地自体は大原とされている。
また集落の北側を流れる用水路の対岸に「尾無館」の地名も残されているが、その地点は「黒沢古館」の所在地に重なってしまう。
凸日和田古館(郡山市) 午前11時40分から
藤田川南岸河岸段丘上に所在している。
現状の地形からも約50メートル四方の比較的小規模な方形館が想定でき、南辺を除いて堀を確認できる。
安積郡の有力領主であった伊東氏一族の居館であったことが推定されているようである。
多分この時刻くらいから次第に暑さが堪えはじめてきたというおぼろげな記憶がある。
おりしも東側の堀跡には白花の蓮が満開を迎えあたかも極楽浄土の盛夏を髣髴とさせるような景観が眼前に広がっていた。
凸黒沢古館(郡山市) 午後12時05分から
平地に所在していた城館跡の宿命ではあるが、現地はおなじみの圃場整備により旧来の面影は皆目消失せり。
暑さはこの時がピークの一つだったような記憶が。
蓮池となった先の堀跡や小休止した近くのビオトープで開花していた白蓮の花が目に眩しく焼き付いていた。
凸日和田館(郡山市) 午後12時30分から
「郡山の城館」(垣内和孝著/歴史春秋社)によれば南側を中心にして方形館に伴う堀跡、土塁、土橋などの遺構が良好に残されていると記されている。
東北本線日和田駅の北西に位置する丘陵東端部に所在し明瞭な区画をなしていることが窺えるものの、この季節は入り込むのが困難なほどの藪になっていた。
捲土重来を期すとしたいところなれども、果たして再訪の機会が残されているのか些か心もとない年代となってきた。
凸日和田背戸館(郡山市) 午後13時00分から
日和田館の東北本線を挟んだ南東の最大比高差約20メートルほどの独立丘陵に所在する。
現況は八幡神社の境内となっており、一部に土塁跡、腰郭跡と見えなくもない地形的特徴を残している。
駅前に駐車したついでに、日和田駅前の郡山市図書館分館に立ち寄り資料収集。
凸高倉城(郡山市) 午後13時35分頃
比高差約120メートルの比較的コンパクトな山城。
車で行けるらしいが、季節がらここははじめから直接探訪するという予定はなく、当初の予定通りに西側の麓および北側から遠景のみを観望して終了。
探訪する季節を変えて再訪する計画を立てるという楽しみにつながったと記しておこう。
凸仁井田館(本宮市) 午後13時45分から
高倉城の北方約1.5キロメートル地点に所在する河岸段丘のような微高地に占地している。
城館名となる仁井田は城域として推定されている南西側の5軒ほどの小集落の名称である模様。
ここから北隣の本宮市内に入ったのだが、めぼしい遺構がないようなので端からササッと車で見て確認を終了した。
後から気が付いたのだが、仁井田集落を周回する地図上の道路の形態の方が気になってしまった。
凸瀬戸川城(本宮市) 午後14時05分から
昭和40年代まで瀬戸川北岸比高差12メートルほどの丘陵南面に所在していたというが、削平盛り土などにより台地そのものの地形が大きく改変されているようだった。
「本宮町史」などの資料と現地をを照合してみると、おそらくは開析谷などの位置から桝形地区住宅地東側児童公園に説明版がある場所あたりが遺構の北端部に相当するのかもしれない。
児童公園の一角には防火用水槽が設置されているが、もとより遺構とは無縁な存在であろう。
台地南面に比高差を有すする3段の郭が階段状に構築されていたとされているが、葦名氏の侵攻を意識した伊達氏による戦術的な砦跡であった可能性は大きいのかもしれない。
凸日輪寺(本宮市) 午後14時30分から
会津葦名氏との合戦時における伊達正宗の陣城跡といわれている丘陵に所在している寺院で周囲の眺望に優れていた。
木陰を求めつつ彷徨するなか、境内の駐車場に日陰が残されていたことにほっと安堵のため息が漏れた。
凸人取橋の合戦場(本宮市) 午後15時から
国道4号線西側の瀬戸川南岸に茂庭左月らの墓碑が建立されている。
著名な奥州の古戦場なのだが、国道からの入り口が狭隘で分かりにくい。
討ち死にを遂げた左月の姓がそのまま一帯の小字名として継承されている。
凸青田館(本宮市) 午後15時10分から
堀跡の用水路がが集落の周囲に残され、北西側には外部に堀跡を伴う高さ3メートルを超える土塁も現存している平地の城館跡である。
また集落そのものに小字名である「館」の地名が継承されている。
凸青田古館(本宮市) 午後15時30分から
青田館の北側約100メートルの地点に所在する館跡で青田館とは異なり低丘陵に占地している。
曹洞宗大泉寺のあたりに古館、腰蒔などの城館地名が継承されている。
ただしこの場所は疲労が確実に限界に近づいて遠望のみにとどまることとなった。
凸三本松館(本宮市) 午後15時40分頃
麓の水田面からは比高差約70メートルほどの独立丘陵南東端に所在している。
この個所も気力、体力が限界のため周辺の県道の周囲から観望したのみで通過した。
凸小平潟館(猪苗代町) 午後17時00分頃から
天神浜の湖水浴場近くの駐車場から徒歩で南へ300メートルほどの地点に所在する遺構らしい。
猪苗代湖に注ぐ西へと流れる水路沿いに幅数メートルほどの堀跡らしい窪地と土塁跡とも見えなくもない藪の中の盛り土のような地形を確認できた。
クマ出没注意の看板等が気がかりでそれ以上の探索には至らなかった。
今年4月遠征時の際の反省をもとに今回は熱中症対策に配意。
日よけ対策、経口補水液による水分補給も怠りなく遂行。
それでもへばる猛暑の最中の城館めぐり。
会津若松市内で食べた夕食の「とろろそば」(宮古そば処「分家吉兵衛」)が体を労わるように消化していった。
今月の末に予定されている郡山・会津遠征の予行演習を兼ねて史進どののご案内で野田、春日部、松伏方面へ。
思えば隣県とはいえ千葉県方面へと足を延ばすのは何と6年ぶりのことであった。
おりしも関東地方の梅雨明けと重なりいきなりの猛暑を体感してしまうことに。
あたりの空気は吸い込むのさえも息苦しく、日差しは容赦なく降り注ぎ、やぶ蚊はこの時とばかりに大量活動中。
その持て余さざる暑さと雲行きのために大事を取り、早くも午後3時前には帰路に就くこととなった。
凸金野井城(千葉県野田市) 午前9時10分から
城跡としての所在地については現状の地形から推定することは容易であり、戦後に移転してきたという西福寺境内がこれに含まれることについては異論の余地のないところであろう。
しかし複廓の構造としてとらえた場合に西側の浄水場を城域として考慮すべきかどうか疑問が残り、むしろ寺の東側平地林内に現存する土塁、堀跡状地形の方にに興味をひかれる。
東側には南北に延びる水路が開削されているために、かなりの地形改変も考慮すべきだが城域としての一体感が感じられ実に悩ましい。
「中世城館調査報告書」のベースとなっていると思われる「埋蔵文化財調査概要1」(野田市郷土博物館)を直接閲覧してみるべく必要性が感じられた。
凸舟形城(千葉県野田市) 午前10時05分から
かつては土塁の一部が確認できたというが、その現状から往時の様子を窺い知ることは極めて難しいと言わざるを得ない。
東側に水田地帯が広がっていることから、当地が低台地上に位置していることだけは理解できた。
凸目吹城(千葉県野田市) 午前11時05分から
一般に城跡といわれている個所の東側に所在している熊野神社の舌状台地は南側の大地続きを除いた三方を比高差約8メートルほどの切り立った崖線に囲まれており当城跡との深い関連が窺われる。
なお以前には設置されていたという民家前の標柱は残念ながら見当たらず。
凸木野崎城(千葉県野田市) 午前11時40分から
水田地帯のなかに独立した低丘陵占地しており、わずかに台地辺縁部を流れている用水路の景観に水濠の名残を感じられた。
凸下河辺館(埼玉県松伏町) 午後12時30分から
赤岩集落の中心地であった小学校跡から東方の東陽寺あたりまでの自然堤防上の地域を推定地の一つとして見て回ったが、現状の地形からは過去におけるそうした形跡をイメージすることの難しさを味わえた。
これも中世城館探訪の楽しみの一つでもあると達観。
凸大河戸館(埼玉県松伏町) 午後13時20分から
春日部市との境界に近い大落古利根川沿いの北岸に所在する微高地を館跡として推定し彷徨。
水田との比高差が目立つあたりに大河戸中央自治会館という地元の集会所が所在している。
凸治郎兵衛屋敷(埼玉県春日部市) 午後13時45分から
大落古利根川右岸の自然堤防上に所在する多田源氏の末裔関根氏の屋敷跡。
碇神社の境内地はその一部であると推定されているらしい。
凸春日部氏館(埼玉県春日部市) 午後14時20分から
春日部氏の本拠で市内の八幡神社が鎮座する独立丘陵が館跡とされている。
丘陵北端に所在する浅間塚からの眺望は木々が茂り幾分視界が遮られるもののおおむね良好であった。
もっともこれを記述しているのは実を言えば遠征後の8月上旬であり、7月上旬から今月の猛暑へと続く文字通りの有意義なる予行演習となった一日なのであった。