本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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岩手県滞在3日目です。

昨日は天候の急変に見舞われて僅か3か所で撤退する羽目に。
本日こそマイナスに傾きかけた諸々の収支バランスを取り返すべく・・・という訳でもありませんが、昨日の夕刻から探訪計画だけは入念に練り直しを実施したはず。
しかし、その割には思ったような成果が上がったとはいえないような結末に・・・

 

◎田村氏家臣団屋敷跡(一関市萩荘) 午前8時40分

一関城に赴く道路沿いで標柱がありましたので撮影しました。
このほか事情があり少し離れた運動公園に駐車させていただいたことにより、このように実際に歩いてみて分かることのメリットも少しはあったようです。


 
 
一関城(一関市釣山) 午前9時00分から午前10時00分
昨日麓を通りかかったものの諸事情によりパスした場所であります。
公園化により城跡としての形跡が失われていることは紛れもない事実ですが、そこかしこに土づくりの城跡の名残を見出すことのできる場所です。
4月15日からさくら祭りが開催されるために園内の各所には提灯などが設営中でしたが、ソメイヨシノなどの満開まではまだ数日程度を要しそうでした。





◎田村氏家老屋敷(一関市田村町) 午前10時05分から10時20分

旧家の民家とあまり変わることのない規模の建造物で資料館にもなっていて来館者用の無料駐車場(約10台ほど)も併設されているので助かります。




◎近世一関城本丸跡(一関市城内) 10時25分から10時30分

この鐘楼が再現されている市営有料駐車場の辺りが近世一関城の本丸跡と推定されている模様です。





下黒沢城(一関市萩荘字山崎) 11時10分から13時00分

一関運動公園の個所からは比較的比高差のない尾根筋伝いに位置しています。
その距離は直線にして約600メートルほど。
このルートで城跡へのアプローチを試みるも、運動公園の最高所である展望台にて猛烈な藪に阻まれ全くルートを見出すことができず、気を取り直して当初の予定どおりに国道4号線一関バイパス沿いから改めてアプローチすることに。
このようにして先ずは約1時間ほどのロスタイムが発生しました。


  運動公園展望台からの藪

ではこのような苦労の末に漸く辿りついた肝心の主郭周辺部の遺構はどうであったかといえば、概ねの所在地は特定できたものの叢生する笹薮などで地表の状態を目視できず、明確な遺構を確認するまでには至りませんでした。


  主郭周辺は耕作地と藪に


かなり贔屓目に見れば帯郭状の地形の上を歩いているようにも思えなくもないのですが、下記画像のように周辺の樹木伐採作業に伴う暫定的な林道の築造跡と全く区別がつかないような状況でした。




下記画像は中腹から見上げた主郭付近の切岸跡のようにも見えなくもない地形です。





秋葉館(一関市萩荘字江川) 13時20分から14時10分

別名を市野館とも。
秋葉神社の境内が所在する比高差約40メートルほどの丘陵先端部が城跡であり、手持ちの資料では「麓に堀跡がある」という程度のものでしたが、実際には主郭を中心として複数の大規模な腰郭が階段状に配置された縄張となっておりました。




実際のところ腰郭群下部の一部は宅地化や耕作化などによるものもあろうかと思いますが、地表に残されている形跡からはそうした腰郭群によって厳重に防御されたものであることが伝わってくる素晴らしい遺構です。




単郭の主郭は比高約4メートルから6メートルほどの高さを有し、秋葉神社の社殿が鎮座していますが、現状からは土塁や小口などの形跡は確認できません。


     主郭の切岸


なお主郭部分の東側には神社参道の石段が設置されていますが、震災などにより一部崩壊して現在は北側から登るようになっているようです。
斜面切岸は最大で45度を超える部分もあり、このため北側からの登攀は神社参道の階段が無ければ取り付くことが難しいくらいの角度となっておりました。
南側の尾根筋にも腰郭らしい地形がありますが、尾根筋を遮断するような堀切の形跡は見当たりませんでした。




無論それほど著名な城跡ではありませんが、小規模な遺構であるにも拘らず意外性もありこの日一番の収穫となりました。

また、東側約100メートルの地点にも同様の地形をした小ピークがありますが、こちらは藪が酷く斜面を全く這い上がるようなルートはありませんでした。
なお下黒沢城方面から眺めた場合にはこの小さな尾根筋の存在が視界を遮っているため見づらくしていることが分かりました。
などと記述していると尤もらしく聞こえますが、実は登るべき丘陵を誤ったのでありました。
この間のロスタイムは約30分ほど・・・


  勘違いした丘陵先端部 
 
 
 
上黒沢城(一関市萩荘字上黒沢) 14時35分頃

別名を片平館とも。
所在地そのものは明確でしたが、丘陵の麓近くまでアプローチしてみたものの登り口が見つからず撤退。
城跡の東側にあたる館下の集落から途中まで登れるルートがあるようなことを記載した資料もありましたが、斜面の角度と樹木の茂り具合を勘案して断念しました。




◎萩の馬場(一関市萩荘字打ノ目ほか) 14時40分頃

前九年の役で安倍氏を攻撃した上黒沢城を西に眺めながらたまたま萩荘市民センターの説明版に記載されていたので撮影してみただけです。
「陸奥話記」に記されている源頼義の軍勢13000人が布陣したとされている地点が上記の上黒沢城東側のこの平地辺りであろうと推定されているようです。
なお、ここから直線で北側約500メートルの地点には安倍氏側が築いた「小松の柵擬定地」が所在しています。




小姓館(一関市萩荘字上黒沢) 15時10分頃

久保川と川台川に挟まれた正しく天然の要害に所在する比高差80メートル以上の独立丘陵なのですが、ルート不明なことや比高差が厄介で、またいかにも藪が物凄いことが予見されたのでこちらも遠景撮影のみで撤退を。




◎字要害(一関市萩荘字要害) 15時30分から15時45分

この周辺の城館跡を下調べしているときに、たまたま「電子国土」や「いつもガイド」のウェブ地図の情報に「要害」の字名がでてきたことをふと思い出したので宿に帰るついでに立ち寄ってみた個所です。
集落の中心となっている春日神社境内のあたりが何やらそれらしく感じられるのですが、道路の東側に所在している「要害公民館」が所在しているほかは台地の一部が北上川の主流である磐井川の流れにより大きく削り取られている崖線が確認できるくらいでした。





昨日はそれなりに時間をかけて探訪計画をプランニングしたつもりでしたが、結果は正しく文字通り計画倒れに終始するところとなってしまいました。
合併以降の一関市内は東西に長大なことや、かつ低山が多いとはいえアズマザサなどの藪が多く登り道のないこともしばしばで目論見が外れる場合が頻出。
最後にカワチ薬局へ立ち寄り飲料水の補給。
ふと隣の建物を見やると「古戦場」というスーパー銭湯が(笑)




このようにして本日もまた歩行距離は20キロメートルほどとなりました。
明日以降は何とかこの状態を脱出せねばと「平地」「神社」「寺院」などをキーワードに無い知恵を絞りながら思案を重ねつつ、深々と3日目の夜が更けていくのでありました。

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岩手県の2日目は昨日に続いて一関市内中心部の城館めぐりを予定。
天気予報では午後3時ころから降雪または降雨とのこと。
それならばせめて午前中だけでも空模様を横目で見ながら可能な限り廻ってみようと画策。
とはいえ市内中心部のため、いちいち駐車場所を探しながらというのも面倒。
足の痛み対策はおおむね万全なので、この際は全て徒歩にて時計の針の順番で探訪することとしてみました。


三関城(岩手県一関市白崎) 午前8時35分から9時35分

別名を白崎城ともいい、現地の標柱などにもこの表記が使用されていました。
「風土記」や「古城書上」によれば、葛西氏の家臣千葉氏などの居城とされていますがその詳細は不明のようです。
神社が所在する比高差40メートルほどの西方端の郭よりも遥かに標高が高く、かつ削平地が広大な標高78メートルの地点がまず主郭に間違いなさそうな印象です。
北西側の急崖中腹に所在する3か所ほどの郭は先端部が崩落する危険性などがあり殆ど近づけませんでしたが、南東部の尾根筋を断ち切る幅10メートルを超える堀切の規模の大きさに圧倒されました。
現在では対岸の切岸を斜めに登る里道が刻まれていますが、防御性を優先すれば元々のルートは木製の仮橋のようなもので繋がっていたのではないかと推定されます。
その先の南東稜線部には自然の谷が切れ込んでいる地形を確認できるものの、稜線の東側は笹薮が叢生し殆ど見通しが効きませんでした。
また、主郭の西下に所在する副郭と神社が所在する郭との間の堀切乃至横堀の規模とその遺構の明瞭さにも身を見張ります。
急傾斜地形を伴うとはいえ、これほどの遺構を有した中世城郭が宅地化発等が著しい市内の中心部に大きく景観を損なわれることなく残されてるという状況に感激しました。 
市内では有名な一関城が公園化により地形の改変が進んでいることに比べ、さほどは期待しないまま訪れることとなったという事情もあって、市内における有数の中世城館遺構といえるのではないかと思うに至りました。

残念ながら付近には適当な駐車場所は見つからず、強いて言えば南西麓の参道脇スペースということになるのかも知れませんが、参道自体を丸ごとふさぐような狭い場所ですので明らかにご近所へのご迷惑がかかりそうなので余りお勧めできません。
なおこの時点では空には青空が広がり、鶯のさえずりを間近で聞くうららかな北国の春といった按配のため、こののち天候が崩れそうな気配は微塵もありませんでした。




臥牛城(一関市山目町茶畑) 午前11時00分から11時15分

別名を伏牛城ともいい、市立山目中学校の敷地が城跡です。
標高151メートルの蘭梅山いこいの森公園の南東へと派生した丘陵の先端部に位置しています。
この時には城跡の標柱が見当たりませんでしたが、それでも校庭東側と南側の丘陵法面に城跡らしい切岸状の地形を見出すことができました。
この周辺には駐車場は特になさそうですが、あくまでも短い時間ならば校庭西側の生徒用自転車置き場付近の空きスペースに停車し城跡の標柱を撮影することくらいは許容されそうに思えました。

なお帰り際には時折突風が吹き始め、それまでの暖かな日差しを覆い隠す雪雲が姿を現し始めていました。
午前11時30分を過ぎたころから、にわかに北西の風が強まり空模様が怪しくなりはじめました。
予報では天候の悪化は午後3時頃と聞いていたことから今しばらくは何とか持ってくれることを期待しましたが、そのうちに強風に小雪が混じり始めたため退却を余儀なくされました。
無論あらかじめ折りたたみ傘を用意していたものの風が強いので全くの役立たずに。
かとおもえば再び晴れ間が広がり、もう少し持ちそうかと思えばまた雪が降り始めという繰り返しが続きました。
そのような天候急変の繰り返しのため20分ほどタイムロスとなりしまたが、その後は幾分空模様が安定してきたことからその先を急ぐこととしました。





中里城(一関市山目町中里) 午前11時40分から12時40分

永泉寺と中里小学校の間の砂利道の林道を西へ進み進行方向の右手、北側の尾根筋が城跡とされています。
中里小学校敷地の端から250メーばかり進んでいくと右手に戻る細い道があり途中農作業用の小屋を過ぎた辺りの進行方向左手、北側の稜線部分が主郭に相当するのかも知れませんが、藪と急な切岸が刻まれているため相当に確認し辛い状況でした。
主郭と思われる個所は以前は耕作地であったらしく土塁などの形跡は確認できませんが、稜線南側には明確な切岸と帯郭の存在を見ることができます。
来た道をそのまま東側に向かっていきますとやがて小道は行き止まりとなりますが、進行方向右手の耕作地の端を通れば複数ある腰郭状の切岸地形(耕作地)の間を抜けて永泉寺の墓地へと降り立つことができます。

なお、当地付近は小学校や住宅地に近いとはいえ、クマの出没地点でもあり注意を喚起する掲示もなされていることから、いわゆるクマ対策グッズ(クマベル、ラジオ、くま笛など)の携行は必須と思われます。






このような塩梅で本日は予報よりも早めに天候が崩れ始めたことから潔く撤退を開始しましたが、途中一関市役所に立ち寄り文化財課にて情報収集。
文化財関係の情報を頂いたあとクマ情報も入手し明日以降に備えることとしました。
なお帰路では風速20メートルを大きく超える突風が吹きまくり、商店の看板の支柱が折れ曲がるなどの現場を目撃。



この日はその後も晴れたかと思えば、強風とともに降雪があるという安定しない天候が夜半まで繰り返し続いておりました。
かくして2日目も昼過ぎには撤退するという事態にも拘らず、ただひたすら歩きとおすこととなったことによりまたまた歩行距離は20キロメートルを超えることとなりました。

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4月10日の深夜午前2時45分予定通り自宅を出発。
とりあえずの目的地は岩手県の県南である一関市の旧花泉町方面。
途中2度の燃料補給や休憩のため、若柳金成インターに到着したのは約6時間半後の午前10時過ぎ。
当日仙台市近郊辺りまでの沿道はソメイヨシノが満開を迎えていましたが、岩手県境が近づくにつれて次第にヒガンザクラ系統の開花が目立ってきました。
それにしても今年は例年と比べて桜前線の北上スピードが早いことに驚きます。
このため人出の多い方面は駐車場所の確保などのため極力避けねばならなくなってしまいました。
と、まあこんな次第で全くと言って土地勘のない初の岩手城館探訪が開始されることとなりました。


猪岡館(岩手県一関市花泉町) 午前10時20分から11時10分

別名を泉沢館とも。
比高差約30メートルほどの山頂ではやや見ごろを過ぎたヤブツバキ数株が花をつけていました。
明確な城館遺構としては、やや括れたような南北方向に長い楕円形の主郭と南東方向に付随する複数からなる腰郭状の地形などを確認することができます。
しかし下段の方のものについては耕作などによるものと区別がつきかねました。
北側から延びる尾根筋の先端部に位置していますが、むしろ尾根筋自体も小さいので県道からは東西に所在する丘陵の方が目立っていました。

この場所は立派な標柱があるのですが、設置場所が県道から奥まっていることなどからやや分かりにくいのかも知れません。
といいますのも、近くには東西に2か所ほど相応しい地形の丘陵が存在しております。
このため地理不案内の管理人は初っ端は東側の方の丘陵だと思い込んだり、踏査した後になっても最後まで西側の方の丘陵だと勘違いしたりして矢鱈に時間を費やすこことなってしまいました。
しかし、よくよく冷静に県道186号線側から眺めると丘陵東麓に一関市による標柱の姿を認めることができます。
主郭へのアプローチ方法は、標柱の場所から腰郭風の畑沿いにすすみ途中から4メートル弱ほどの切岸をよじ登るか、北東麓に所在する民家の庭先でお声掛けして南へと向かう農道を登らせていただくしか方法が無いようでした。





西館(岩手県一関市花泉町) 午前11時40分から13時40分

別名を蝦島館とも。
標高59メートル、比高差は最大で約50メートルほどありますが、標柱が設置されている東側の峠部分からは20メートルほどの比高差があるのみです。
一関市では画像のような文化財標柱が設置されている個所が少なくなく初めて訪れたものには大変ありがたい存在なのでありました。
城館跡は民家北側の裏山となっていましたが、残念ながら山道は途中で行き止まりとなっていました。
複数の郭から構成されるとされていますが、笹薮のなかに切岸と思われるような地形を僅かに認めることができるものの、全体として視界が悪く全容を把握することは難しいように思われました。
また、北側方向からこの丘陵を眺めてみますと眼前にはひな壇状に区画された宅地の見事な法面ひろがり、ややもすると城館遺構との判別がつかなくなり始めるのでありました。





大塚館(岩手県一関市花泉町) 14時20分から15時10分

県道184号線の東、字杉則の北西部に所在する独立丘陵に所在します。
西側の水田面との比高差は低いところでは目測数メートルですが、北東部の高いところでは30メートル近くを測ります。
1980年代前半に行われた中世城館調査によれば、北東部の丘陵先端部あたりまで遺構が見られたことが記されていますが、現状では二の郭とされる北東部の半分近くまで耕作化が進行し耕作地の法面以外にその形跡を認めることができません。
また二つの郭の間に普請されていたと思われる堀切跡も同様に失われているように見受けられました。
同時に植林の施されている南西側主郭部分についても北西部に切岸状の地形と帯郭のようにも見えなくもない細長い削平地が存在する以外にこれといった地形上の特徴を見出すことができませんでした。
なお、城跡南東側の比高差は約2メートルほどの切岸で耕作地と画されているだけでした。




高倉館(岩手県一関市花泉町) 15時20分から15時30分

別名を西永井館とも。
県道190号線の西、標高133メートルの高倉山のさらに東側に所在する標高100メートル程度の標高を有する南北方向に長い丘陵辺りが該当地とされている模様。
車を止められるような場所もなければ登っていけそうな道も無さそうなので集落から見上げただけに留まりました。
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉山との間に堀切を有した3つの郭からなる連郭式の山城とされています。
高倉山への林道が通行可能ですと、そこから東へ約400メートルほど尾根筋を確かめつつ移動すれば到達するはずなのですが、地理不案内のためあっさりと断念いたしました。




麻生沢館(岩手県一関市花泉町) 15時30分から15時35分

1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉館の西側300メートルほどの標高80メートルほどの丘陵に占地しで二か所の平場から構成されているとされていますが、高倉館と同様に登り道不詳などのため遠景のみ撮影しました。




下館城(岩手県一関市花泉町) 16時15分から17時00分

別名を下紫城、東城とも。
ここまで5か所もまわってこれといった収穫もなく、いささか消化不良気味でした。
このため花泉地区40か所余りの候補地から、近くて帰りのルート沿いで日没前に確実な遺構を拝めそうな個所を選び直したのがこちら。
金流川右岸に張り出した比高差約50メートルほどの丘陵先端部に所在し、東側は登攀不可能に近い断崖となっていました。
現在は南側に新しい市道が建設されているが、本来は南北に連なる低丘陵の北端に位置していました。

城館の規模は東西方向で約80メートル、南北方向で約150メートルとかなり小規模ではあるが、市道沿いの城跡の標柱が所在する小口と思しき南側には三重構造の空堀が確認でき、また複数の腰郭を伴う城郭遺構であることも見て取ることができます。
ただし北側の本郭方面への踏査は笹薮などのために足元と視界が阻まれ困難な状況となっていたことが惜しまれました。
なお1980年代前半に行われた中世城館調査においても、南側の稜線を東西方向に分断するような堀切は確認されてはいないようです。
管理人自身がこの地域における縄張の特徴を全く掴めていないという問題もありましたが、日没に加えて蓄積された疲労と藪に阻まれ市道により分断された南側尾根続きの方面の踏査ができなかったことも悔やまれました。

なお近くには駐車スペースはほとんどないことから、農繁期前でもあり北側の幅員の広い農道沿いの路肩に駐車させていただきました。
探訪前には地理的に笹薮などの様子が気がかりではありましたが、遺構観察に限り本日最良の探訪という結果に満足することとなりました。


 
 
以上、岩手県南地方まで片道450キロメートルを走破した割には殆ど無名に近い箇所ばかりとなってしまいました。
当初の予定ではもう少し名の知れた箇所を訪れるつもりが、土地勘の乏しいこともあり約20キロを歩いたりして徒に時間を浪費するような結果に。
このため初日に廻れたのは僅かにこの6か所(意向確認という意味では実質は4か所)に。
なんとももどかしい限りの探訪なのですが、こうした傾向は最終日まで延々と続くこととなることを管理人は全くと言っていいほど見通してはいませんでした。
と、記述していることからも分かるように、帰宅後の疲労などにより当ブログは10日以上も経過してから記述しております。

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本日も前回に引き続き史進さんのお誘いにより古河、野木方面へと参りました。
この冬は単独での探訪計画倒れが続くさなかにあって実にありがたい限りでありました。


古河城(茨城県古河市) 午前9時40分から10時40分
この日は生憎と御所方面は観光イベントのため混雑していたため、古河歴史博物館と古河城から探訪を開始しました。
城域の宅地化などにより分かりにくくはなっていましたが、資料などを参照しつつ丹念に確認しながら廻れば市内の各所に土塁などその痕跡を辿ることもできることが分かりました。




◎足利成氏の墓所ほか 11時00分から11時20分
墓所以外にも友好的なネコさんと遭遇し境内の桜も満開でした。




◎野木神社(栃木県野木町) 11時30分から11時50分
おりしも二輪草の群落が見ごろを迎えておりました。
画像は野木合戦の舞台ともいわれている野木神社の社殿。
なお、たまたま拝殿脇に佇んでいた際に震度2程度の地震に遭遇。
僅かに社殿のきしむ音が聞こえた以外には異常はありませんでした。



 
野木城(同上) 12時00分から12時25分
野木神社の北東直線で約200メートルの舌状台地に占地している城跡で、郭面は耕地化と一部宅地化により明確な遺構を確認することはできませんが、台地を形成する斜面の形状と自然の谷を生かした明瞭な堀跡を観察することができました。



 
逆川城(同上)  12時35分から12時50分
所在地は複数考えられている比定地のひとつでありますが地表観察からは城館遺構としての特徴を捉えることはできず、また別名を友沼城ともされていますその呼称の関連性や所在地そのものを含めて不明な部分が多いものと考えられます。




法音寺城(同上)  13時05分から13時25分
真言宗法音寺の境内北東側に隣接した城館遺構で、現在でも南西側を除いた方形状空堀跡の大半と土塁の一部を目にすることができました。




乙女の土塁(栃木県小山市) 13時30分から13時40分
国道4号線乙女交差点北西側、乙女幼稚園北東側に隣接した平地林内に土塁状の地形が残存しています。
土塁の長さは南西で約50メートル、南東で約80メートル、北東では幾分湾曲し約70メートル、北西で約60メートルほどの規模を形成しています。
小口などの形跡も見当たらず、一時的な陣城のようなものとも想定できますが、道路が区画整備された市街地の公道に沿接していることなどの立地条件の不自然さもあり、その経緯など詳細は不明のようです。




針谷屋敷(栃木県野木町上) 14時30分から14時50分
根渡神社へと続く参道の東側に所在する平地林の中に位置しています。
長大で直線的な印象のある規模の大きな堀跡遺構が確認できますが、当地の旧家との位置関係を含め普請された意図やその背景を窺い知ることが難しい遺構でした。




小堤城(茨城県古河市) 15時20分から15時50分
円満寺境内の北側と西側に水堀跡を伴う明確な土塁遺構が確認できます。
この個所を中心として形成される縄張が推定されますが、周辺の宅地化、耕地化などにより地表面からの観察ではその痕跡を確認することは難しいようです。




このようにして探訪するうちに早くも歩行距離は15000歩を超え始めて、いつものごとく己の足元には漠然とした疲労感と違和感が醸成されはじめました。
晴天化の3月の末日でもあり、太陽はまだまだ十分な高さにあってあと2か所ほどは廻れそうな時間帯でありましたが、先日高齢者の仲間入りを果たした管理人の足元は次第に覚束なくなって本日の探訪の幕引きと相成りました。
来月に予定している春の遠征計画を遂行するに当たり、だいたい一日につき20000歩の歩行を可能とするための対策を講じねば・・・と痛感する管理人でありました。

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1年ぶりくらいとなるクラシックの演奏会にでかけました。
チェロとピアノという比較的地味な組み合わせでしたが、ピアノの方は「例の事件」で「有名」となった新垣隆さん。
会場が都内ならば出向くこともありませんでしたが、たまたま隣の町という事情もあって家内とともに出かけたような次第です。
もうすぐ築20年近くなる比較的小規模なホールなのですが、あらためて弦楽器のもつ響きの美しさを味わうことができました。

下記の情報はフェイスブックより引用しました。

◎海野幹雄×新垣隆 《デュオ・オリゴ》コンサート

 いま最も話題の作曲家・新垣隆とチェロの名手・海野幹雄が“音楽の可能性”を追求する!
クラシックの名曲はもちろんのこと、この日だけの「三芳町のための即興曲」など披露。2人の優しい人柄に満ちた豊かな音色をお楽しみください。

 【日時】
2016年3月30日(水) 開場/18:00 開演/18:30 

 【会場】...
コピスみよし(三芳町文化会館) ホール
埼玉県入間郡三芳町大字藤久保1100番地1

【出演】
海野幹雄(チェロ)
新垣隆(ピアノ)

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