本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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この日は、みかづきぼりさんのお誘いで栃木県小山市へ。
先月、岩手県南への遠征時に比べますとごくごく短距離の遠征です。
また道筋も今年3月末の再訪ということもあり、近年物忘れが進行している年代とはいえまだまだ記憶に新しいルートでした。

連休明けの日曜日で、午前6時に拙宅スタートという好条件も加わったのかも知れませんが、極道16号線、県道3号線、国道125号線、国道4号線という経路にも殆ど渋滞が見られないという誠に幸先のよいスタートをきることができました。


凸野木神社(栃木県野木町) 午前7時40分から7時55分

国道4号線沿線に所在していることと小山市立博物館の開館時間との兼ね合いもあることから、ここを含めて野木町内の4か所を再訪してみました。


凸野木城(栃木県野木町) 午前8時00分から8時25分
再訪。
やはり今年3月末に比べますと、いささか野草の伸びが目立ち始めていることは否めず、城跡切岸の顕著さが減衰されておりました。


凸法音寺城(栃木県野木町) 午前8時30分から8時50分
再訪。
思川(おもいがわ)に向かう手前の市道沿いの山林内に遺されている櫓台を伴う城跡北東側土塁は、この時期であるにも関わらずまだ何とか目視できる状態でした。


凸乙女の土塁(栃木県野木町) 午前9時00分から9時10分
再訪。
隣接する北東部では太陽光発電施設の組立中でした。
土塁の一部にかかる北東側の樹木伐採は、この発電施設建設に伴う日照確保のためのものであったことが分かりました。
当該土塁状の地形については、近年の街区道路整備にそのままリンクしている地形であるという点が何とも悩ましいものがあります。

この直後に小山市博物館に立ち寄り、小一時間ほどを要して、開催中の「戦国時代の小山」企画展(料金200円)を見学。
遺跡発掘調査報告書の所管などが変更されたことや人員配置なども影響しているのかも知れませんが、企画展自体の内容もさることながら、3月末に訪れた時と比べてやや業務縮小されたような何とも漠然とした印象が残りました。

と、ここまではあくまでも記憶に新しい今年の3月末日に続く再訪であることから、城跡めぐりそのものについてはほぼ順調に推移して行きました。
つぎの小谷城からは、いよいよ小山市内となります。



凸小谷城(こやじょう、栃木県小山市上生井、下生井小谷) 午前10時30分から10時50分

明治期に編纂された「栃木県誌」(1904刊行)によれば、「小谷俊景が築城し、その後永享12年(1440)に網戸十郎村重が城主となったが、小山氏の支配下に置かれ、元亀2年(1571年)に小山弾正秀綱が再興して大橋右京亮を在城させたが天正年間に廃城となった」というような旨が記されています。

自分の勘違いにより、城跡石碑設置場所の所在地確認に少々難航しました。
城跡石碑(下生井に所在)は、生井集落を南北方向に縦断する県道174号線東側沿道、旧思川流路の北約80メートルほどの地点に所在する「水天宮」の小祠を祀る小さな境内に「現地解説版」とともにしっかりと所在しておりました。



当該遺構については、明治期にはまだ土塁と堀跡遺構などが明確に遺されていた模様ですが、「栃木県の中世城館調査報告書」などの記述によると、「直径250メートルほどの不正形円形の堀跡低地が囲み、西北部の一部にに高さ3メートル、幅10メートルほどの土塁が遺されていたが、圃場整備によって消失した。郭内は概ね田畑となっている。」との記述があります。

なお、上生井集落東部にも小さな「神明社」の境内がありますが、この東側約100メートルほどの地点には宅地に続く長さ10メートル余りの小さな土塁状地形や、城跡東側堀跡の一部とも考えられるような水田の低地を認めることもできますが全く確証はありません。



ただしこの土塁状地形については、旧思川の堤防の一部、あるいは水害除けの「水塚」などに関連するものである可能性の方が濃厚であるとも考えられます。



凸網戸城(あじとじょう、栃木県小山市網戸字追切) 午前11時10分から11時40分

「城跡の解説版」は網戸神社鳥居脇に所在しています。
「中世城館調査報告」などによれば、「思川西岸網戸集落にあり、かつては当地の網戸神社東の約3ヘクタールにわたり古城という本丸部分があったが、思川の堤防新設工事により分断された」というような経緯が記されています。

鎌倉時代初期には結城朝光の五男である網戸朝村(あじとともむら)の居城したとも伝わり、神社南側隣接してこれらに関係する五輪塔と宝篋印塔が祀られています。
参拝のあと、神社境内に駐車させていただいてから徒歩により暫時遺構の確認を。
神社西側の長慶寺の周囲には水田や水路などの水濠跡らしき地形を現在でも目にすることができました。


   水堀跡らしき水田      寒川尼と網戸朝村の墓石

なお、城跡の一部でもあった網戸小学校跡地では、現在太陽光パネルの小さな発電所が稼働していました。



◎浅間塚古墳(栃木県小山市) 11時35分から12時15分頃まで

通りすがりであったことから著名な古墳にも立ち寄ってみましたが、その物見台にも相応しい地形と南側の窪地に興味をそそられました。


  浅間塚古墳南側の凹地形


◎十二所館(栃木県小山市) 上記時刻の範囲にて
「小山氏の盛衰」(松本一夫著/2015年、戎光祥出版)に少しだけ掲載されていたのですが、これ以外には詳細な情報や関係資料を持ち合わせていなかったことから、その詳しい所在と歴史的な背景は不明なのですが、後日のメモ代わりとして記載しております。
ちなみに同書には「千駄塚古墳の南側では、十二所館と呼ばれる南北130メートル、東西91メートル以上の方形館の存在が確認され・・・」た旨が記されております。


◎薬研堀跡(栃木県小山市) 上記時刻の範囲にて
こちらも詳細な所在は不明、他はについては同上のとおりです。
よくよく考えてみますと、どうやらこの北方約500メートルほどの地点に存在している下記の「千駄塚浅間遺跡」に含まれる推定「館跡」に関連する薬研堀のことを指しているのかも知れません。



凸千駄塚浅間遺跡の館跡(栃木県小山市) 12時35分から13時20分頃まで

付近の道路建設に伴い2008年頃の埋文発掘調査によりその存在が推定された遺構ですが、記録後は埋め戻されて現状では地表上の遺構を確認することはできません。

「栃木県埋文センターだより2008年7月号」によれば、この台地東側で中世の薬研堀2条が検出され、そのうちの大規模なものは幅6メートル、深さ4メートルを計測したとされ1990年代の初めころに確認された中世城館との関連が示唆されています。

西側河岸段丘の崖線は比高差10メートル以上もある切り立った急崖地形でもあることから、おそらくは最盛期の小山氏による思川東岸の防御ライン一翼を担っていた可能性があるのかも知れません。


  東側方面から遠景を撮影


    北側の崖線部

なお余談になりますが、当該城館跡の存在が示唆されている台地の西側にもうひとつ小さな方形の台地が存在しているのですが、この台地の性格がいま一つ分かりません。
この二つの台地を挟む形でごく小さな川が流れてはいるのですが、それにしては崖線部の比高差が10メートルを遥かに超えるような深さを伴っています。
基本的には思川の流路がもたらした河岸段丘の一部なのかもしれませんが、少なくともその西側の思川沿いでは多分に後世の河川改修あるいは橋梁工事など伴う残土処理などを連想させる人工的な区画形質の変更が加えられている様子も窺えることから、東側の台地との関連性を含め果たして一体どこまでが自然地形であるのかその判断に苦しみます。



凸安房神社北側の二重土塁(栃木県小山市) 13時40分から13時45分

宮内の土塁に赴く途中でたまたまキョロキョロしていて気付いたのですが、安房神社境内の北側には土塁を伴った二重堀のようにも見える地形が遺さています。

北側からの神社参道により一部湮滅し幅の広い土橋状の地形となって分断されてはいますが、その総延長は60メートル以上を有しており、その最大幅も10メートルを超えるような規模があり、現在ではだいぶ埋もれているものの堀自体の深さも1メートルを優に超えている個所もありました。
中世からの古道に面しているという性格などからも、たぶんに城館遺構などとの関連を連想させる地形なのでありました。


  土塁と堀跡に見える地形   古道から眺めた安房神社社叢


凸宮内の土塁(栃木県小山市) 13時50分から14時00分
既に南側隣接地では分譲地の販売が実施されていましたが、これに伴って樹木が伐採されていたおかげで、この時だけは明確に土塁を拝見することができました。
従前の状況のままですとなかなか土塁まで接近することが難しそうな藪が広がっていた可能性が考えられます。
小山市の埋蔵文化財情報では約50メートルほどの範囲が記されていましたが、現状の土塁は長さ20メートル弱で、幅が6メートル、高さが1.2メートルほどを確認するのみでした。



土塁はこの南側60メートル付近にも一回り小さなものがもう1か所あるらしいのですが、その奥の藪などの様子を目の当たりにして断念しました。
 
このあとは、少し遅めとなってしまった昼食を摂取しつつ小休止をしました。



凸鷲城(栃木県小山市) 14時45分から15時30分頃まで

祇園城と並ぶ小山氏一族の中核的な城郭です。
現在遺されている広大な郭跡は、一部の土塁の残存状況などから勘案すると、東西方向に大きく3か所ほどに分かれていたものと思われます。
西側の搦め手下方に存在する土塁は、その南端部で南側からの崖線地形と組み合わさって巧妙な縄張が形成されていた模様です。

鷲神社も所在している広大な郭の西側には崖線部に沿って半円形の土塁が遺されているようなのですが、残念ながら現在では樹木が叢生してその全容を目にすることが極めて難しくなっておりました。
なお、この土塁はそのまま崖線の切岸につながり深さ10メートル以上の深い谷を形成していることから、湧水を伴う沢が流れているために、先ほどの西側の搦め手下方に存在する土塁の東側は足元の緩い湿地となっておりました。


  西搦め手下方の土塁        土塁と崖線


    土塁の遠景       藪の中でひっそりと佇む土塁



凸
長福城
(栃木県小山市) 15時40分から15時50分

思川東岸の河岸段丘に所在しており、現在でも八幡町1丁目にある「やはた公園」の反対側(北東側)に明確な塁遺構を見出すことができます。
西側の土塁は総延長が約60メートルほどで、高さは目測で最大3メートルほどで緩やかなS字カーブを描いでおります。
野球場に面している東側のものは、目測で延長は約30メートルから40メートルほど、高さは2メートルから3メートルをほどを確認できますが、残念ながら南側の一部が重機により破壊されております。
「城郭大系」などを参考にしますと、元々は一体の土塁であったことが窺われますが、現在ではそれぞれ別々の遺構のように見えてしまうほどに、刻々とその旧状は失われているように思われました。
なお以前は空堀を伴ったものであったようですが、現在ではその存在確認が難しくなっておりました。


    城館跡の石柱         西側の残存土塁


  東から見た西側土塁        東側の土塁



凸
小山御所
(栃木県小山市) 16時15分から16時25分

駐車場所探しに苦労するのを避けるべく小山市役所に駐車させていただき、そこから徒歩にて小山城(祇園城)とともに探訪しました。
探訪してから気づいたことですが、近年は城跡北東の空き地となった個所に少なくとも数十台ほどは収容できそうな専用の駐車場が整備されておりました^^

徳川将軍家の日光参拝のための宿所とされておりますが、西側の堀跡などの旧状は確認することができません。


  小山御殿と祇園城の幟旗     小山御殿東側崖線部


    現地解説版         小山御殿西側崖線部


凸祇園城(栃木県小山市) 16時30分から17時00分

小山一族の本拠地であり、現在でも土塁に囲まれた郭や遊歩道になった巨大な堀跡なども確認はできますが、城址公園化の際に少なからず地形の改変を受けている様子も窺えました。


   城址公園南側から       南郭西側の土塁



   南郭の東側土塁      帰りがけに遭遇したネコさん


◎小山評定の石碑(栃木県小山市) 17時05分頃

市役所の駐車場から出ようとしたところで何気なく北側方向を眺めたところ、ふとこの有名な事象の石碑と石柱が目に入りましたので、あらためて駐車し直してから記念撮影を敢行しました。


 有名な「小山評定」の石碑等


凸石塚館(栃木県小山市下石塚) 17時30分から17時40分

粟宮氏の一族である石塚氏の居館とも伝わります。
この場所は神社の社叢が目印なのですが、水田の中に集落からも外れてぽつんと建っていることもあり、やや分かりにくいかも知れません。
星宮神社境内が城館跡そのものではありますが、滋養館跡の石柱以外には際立った印象ものはなく、辛うじて石鳥居の両側近くに堀跡のようにも見えなくもない窪地を確認できますが堀跡などとの関連性は不明です。


    城館跡の石柱       堀跡だったら嬉しい窪地

ここの終了時点ですでに時刻は午後5時を過ぎていました。
画像のようにだいぶ日差しも西へと傾いてきていましたが、上手くいけばあと2か所くらいは何とかなるかも知れないなどと念じつつ次の目的地へと移動を開始。



凸御城(みじょう、栃木県小山市) 18時00分から18時10分
 
前述の「栃木県誌」などによりますと、梶原景時の流れをくむ鎌倉府の奉公衆である梶原氏の居館と伝わっているようですが天正18年の後北条氏滅亡により廃城となった模様です。
事前にウェブ地図などで確認したところでは適当な駐車場所が無さそうでした。
しかし実際には神社境内に駐車可能なスペースが確保されていることに気づくという己の不始末にあきれる始末でした。

明確な遺構はありませんが、城址碑とともに参道から2番目の石鳥居脇には水堀跡(現在は水路)と推定される窪んだ地形も確認できます。


  暮れなずむ城址碑      南側石鳥居近くに堀跡の名残

ここで活動時間は12時間を経過し午後6時をまわり、長くなったとはいうものの初夏の日差しもとうとう山際近くに傾き始めました。


  大平山方面に沈む夕日



凸史跡曲輪跡(栃木県小山市) 18時40分から18時50分頃まで

時刻もだいぶ経過し、ほぼ日没直前から日没後にかけての探訪です。
少しだけ迷いつつも何とか東北新幹線高架東側の城跡石碑に到着。
裏側は月ぎめの貸駐車場になっていることもあるのか、ゴミの不法投棄が目立つ土塁遺構なのでありました。
なお、この場所は道路幅員も約4.5メートルほどと狭く車を止める場所に難渋します。
訪れる際には比較的車の通行量の少ない日中などの時間帯がよろしいようです。
なお仮に城址碑脇の僅かなスペースに駐車しますと、結果的にマイカーの記念撮影となってしまうのであります。


      城址碑


そのあとは下記の当該解説版が設置されている高架西側の地点に車で移動。
こちらの方はごく短い時間ならば解説版南側の道路脇の部分に多少のスペースが確保できるので、城跡石碑の探訪に比べますといくぶん安心です。


   遺跡の解説版

画像では未だ明るくも見えますが、実際には日没時刻を優に過ぎ太陽はとうに地平線に沈んでおりました。


以上てんこ盛りに盛って20か所、実質では15カ所ほどを探訪。
このような事前学習不備な年寄をお誘い、ご案内いただいた、みかづきぼりさんのご労苦に心より深謝申し上げます。

と、ブログを記述してはおりますが、毎度のこととはいえ画像編集整理やその後の作業中の地震などのために実際に書き起こしていますのは探訪翌々日の2日後なのであります^^。

拍手[1回]

先月一週間を要した東北長期遠征では、従来抱えていた厄介な足回りの痛み対策が功を奏したことで、今後の活動見通しがかなり立てやすくなったことも大きな成果でした。
しかしその後しばらくは2000枚近い画像の整理、探訪資料整理などに忙殺されるとともに、ほぼ日中は半端ではない睡魔が襲い爆睡の日々が続いてしまいました。
最初のに三日はそれほどでもありませんでしたが、一週間が経過したあたりからどっと疲れが出てきたようです。

このためこの連休中も行楽などの混雑を避けるべく、自宅に籠りっきりでただひたすら関係資料の整理に追われておりました。
こうして少なくとも奥州市方面再訪の準備だけは整いましたが、その成否は気力と体力+幸運次第化と思う今日この頃です。

拍手[1回]

岩手県遠征もとうとう最終日を迎えました。
この日も天候次第で一関市内の川崎、藤沢方面か、或いは昨日に引き続き奥州市以北を国道4号線で北上するのか迷いましたが、ここは確実に遺構と対面できそうな可能性のある平地の城館跡が多い後者の方を選択することにしました。
 
 
凸栗林遺跡(奥州市水沢区真城字八反町) 午前9時05分から9時10分

下姉体城へと向かう道すがら、たまたま参考までに遠景を撮影させていただいたものです。
およそ100メートルほど離れた県道197号線沿いからでもとても目立つ、ひときわ構えの大きなお屋敷を含む数軒ほどの集落でした。



後日少し調べてみますところでは、どうやら中近世の屋敷跡との関わりがあるようです。
帰宅後に奈良文化財研究時所の遺跡調査報告書データベースを幾つか調べてみましたところ、当該遺跡と直接関係するものは登録掲載されてはいませんでした。
しかしいくつかの報告書には「周辺遺跡」のひとつとして収録されており、やはり中近世の屋敷跡であることが判明しましたので1か所加算してみました(笑)

この一帯の胆沢扇状地にはその起源が中世にまで遡るとみられる環濠屋敷形態の旧家が少なくなく、こちらもそうした経緯があるようにも思われるような景観でした。


 
凸下姉体城(奥州市水沢区姉体) 9時30分から9時55分

別名を内館ともいって、下姉体城の本丸とも伝わる遺構です。
たぶん新山神社が地図上の目印と考えも先ずは神社境内前に駐車させていただき、恒例となっている参拝ののちはそのまま境内から北側にのびた農道経由で隣接する西側の集落へ。
すると行く手の左側には城跡の石柱と解説版の姿が目に入り、加えてその背後の屋敷北側には堂々とした屋敷をとりまく土塁遺構がその姿を現しました。
北側土塁の高さは最大で3メートル弱、長さは60メートルほどでそのまま西側方向に続いています。
南側の土塁はほぼ消失しているように見受けられますが、これに付随する約5メートルほどの幅を有していたとされる堀跡は現在の集落内の通路となっている様子も窺われます。


   新山神社の参道         北側の土塁



   北側土塁を西側から       土塁の上部

平地に占地しているにもかかわらず、下調べ不十分で訪れたこともあり、意外性のある城館遺構との対面に余りの感激を来たし、帰宅後に気づいたことではありますが、迂闊にも関連する複郭などの周辺遺構を確認することを失念しておりました。
「安永風土記」によれば、葛西家重臣である大内氏の居城と伝わっています。



凸上姉体城(奥州市水沢区姉体) 10時10分から10時30分

市街地の外れとはいっても地図情報などからは周辺の宅地化がすすんでいることが窺え、けっして溢れるような期待感を持って訪れた訳ではありませんでした。
しかし国道343号線を左折して一般市道に入った途端に眼前に切岸により頑強に防御された遺構が現れました。
城館周辺部をとりまいていたであろう堀跡は北側と西側部分を除いてほぼ埋め立てられているのですが、北側から見上げる最大4メートルを超える郭切岸の威容には感動を覚えます。


    北西側から           東側から


   南側の標柱と解説版      西側の土塁と堀跡


    北西側から


後から知ったことですが、こちらも旧水沢市内では保存状態良好な城館遺構として著名のようで、だいぶ以前に刊行された市史においても縄張図付で掲載されておりました。
この上下二つの姉体城については、近年の平地化が進行する平地に所在しているという厳しい環境下にあってなおも奇跡的に残存している良好な城館遺構であるといえましょう。

なおこの主郭が所在する元々の台地地形については、恐らくは胆沢扇状地の形成過程のなかで長い年月を経て支流である胆沢川の北進とその本流である北上川の流れにより、形成されていた扇状台地の一部が次第に浸食されて形成されたもののように思われます。

18世紀後半に編纂された仙台藩の地誌「安永風土記」によれば、天正年間に柏山家家臣の千田豊後が居住していたと記されています。



凸築館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時55分

一部のサイトなどではすでに消滅したともいわれております。
管理人も始めは、南側の坂下から胆沢川が形成した河岸段丘の地形が眼前に広がり、その先には宅地化された台地が続くという景観を眺めそうしたような印象を抱きました。
それでもこの時点ではまたまだ気力体力も多少残っていたこともあり、直接の関連は無いものと思いつつも、まずは念のために遠く東側に見えた崖線上に所在する神社の祠を目指してみました。


 少し東側に外れすぎている   この円弧状地形の正体は

始めは活断層による断層帯の影響なのかとも思いましたが、このあまりにも美しい造形を描いている緩やかなカーブを伴う崖線が合致しませんので、その真相がとても気にかかりました。
自宅に戻った後にいろいろ調べてみますと、この地形については、学術的には「胆沢川」の流路の変遷による河岸段丘形成活動であると考えられているようでした。
北上川西岸に所在する広大な胆沢扇状地は胆沢川の流路の変遷がもたらしたものと考えられますが、長い年月を経て胆沢川自体も大きく流路を変遷させ次第に北上していったとされているようです。



 この地形は確実に電子国土に   市道に戻り目を転じれば


    南側の堀跡       北側堀跡に降りてみました


  西側の堀跡は埋戻しが


しかし上記の画像からも分かるように、よくよく現地を踏査してみれば、実際には近年において新たに建設された南北に走る市道西側に現在でも所在しており、郭北側の堀跡も明確に遺されておりました。
前日に降った水たまりが残された北側堀跡は少しばかり足元が沈みそうでした。

市道の西側道路沿いに立ちますと、今もなおつての堀跡である湿地を確実に俯瞰することができます。
ただし東側の堀跡はこの道路建設により完全に消失していることも判明します。
南側も現在は水田として耕作されていますが、はっきりと上記画像のような堀跡の形跡を遺しています。
なお西側堀跡は耕地化などによる一部埋戻しなどにより、幾分分かりにくくなっておりました。



凸佐野館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時30分

別名をタテツバタケとも。
水沢インターチェンジの北側約300メートルほどの地点ある宿集落内に所在しています。
有名な胆沢城から見た場合には西南西約1キロメートルの方角になります。

こちらは予め城館跡というような知識が無ければほぼ見落としてしまうような目立ちにくい耕作地内の微高地ですが、よくよくじっくりと踏査してみれば周辺の水田面との比高差は1メートル前後を測ることを確認できます。


    東側切岸付近        西側の切岸付近


   西側の農道から       周辺の案内図にも掲載

後世の耕作等によりその形状がある程度変わっているという可能性も考えられますが、本来は方形の複数の郭群から構成された縄張を有していたものなのかも知れません。
この場所からは少し離れた沿道に設置されていた宇佐地区内の案内板にも「佐野館遺跡(城館跡)」との所在が表記されていました。

この案内板を含めてざっと周囲を見渡した限りでは、現地には城館跡に関する標柱や解説版の類は見当たらず、南西角付近に3基の太陽光パネルとともに戊辰戦争当時の新旧の鎮魂碑が設置されているだけでした。



凸胆沢城(奥州市水沢区佐倉河)  13時25分から14時30分

市の埋蔵文化財センターに立ち寄り関係資料の収集。

ここで13時30分からの「アテルイ」関係のビデオ上映(約30分)に唯一の観客として貢献を。

9世紀のはじめ頃に坂上田村麻呂が築き、その完成後には多賀城の鎮守府が当地に移されて、10世紀の後半頃まで機能したとされる有名な古代城柵。



   県道沿いの案内板     奥州市埋蔵文化財センター


      石碑            復元遺構


  北側から政庁方面を撮影     台地の北側辺縁部


 こちらの方が気になります   これもよく見る撮影ポイント



凸北館(奥州市水沢区佐倉河) 14時40分から14時50分

葛西一族柏山氏の家臣菊池氏の館とも伝わる。
別名を館屋敷とも。


  北館と記された指導標         北館




凸上館(奥州市水沢区佐倉河) 15時00分から15時10分

文化財センターでいただいた資料のおかげで、所在地そのものは明確に確認できたのですが、現地は湧水などのため些か足元が思わしくなく、藪もそこそこあったことから踏査は断念いたしました。
現地で収集した資料からは、三つの郭とこれに伴う堀跡などが遺されているということのようです。
別名を川端館とも。


  三代清水といわれる湧水   この湧水の東側台地先端に



凸鳥海柵(金ヶ崎町西根縦街道南、原添下、鳥海、二ノ宮後) 15時50分から16時20分

「陸奥話記」に記された安倍一族鳥海三郎宗任の柵跡と伝えられ、国史跡指定をうけている著名な遺構です。
発掘調査などからは蝦夷の時代から奥州藤原氏の治世まで利用されていた痕跡が窺えるようです。


 パンフレットの表紙のような   たまたま桜が満開に・・


  駐車場の現地解説版     サイトはこの辺の画像が多い


    谷筋の開口部         反対方向から

  
   大きな標柱と郭跡      水仙も咲いていたので

 
  コントラストを強めに    少し堀跡に降りてみました




凸金ヶ崎城(金ヶ崎町)  16時40分頃

この時点では関係資料不足のため詳しいルートが分らず、結果的に県道沿いからスルーして手抜きをすることとなりました。






凸舟形館(金ヶ崎町) たぶん17時過ぎ頃

夕刻につき、手抜きついでにもう一カ所。






この間九州熊本地方では大きな地震に見舞われ、日付が変わったばかりのこの日の深夜にもさらに規模の大きな地震が発生いたしました。
迅速な人命の救助並びに被災された方々の一日も早い復興をお祈りするばかりです。
途中休憩で立ち寄った国見サービスエリアで、災害支援派遣されている秋田の陸自の方々が小休止されておいでになりましたので、先行する陸自車列の皆様を叩頭して見送らせていただきました。
このあとは延々と高速を走り続けて久喜からは圏央道、関越経由でそのままノンストップ走行。
その後埼玉の自宅に帰宅したのは17日の午前1時30分前後に。


お陰様でこうした渦中にあっても管理人は岩手県遠征の7日間が無事に終了いたしましたが、顕在化する加齢現象に加えて、こうした近年の頻発する地震など自然災害の発生頻度などを考慮いたしますと、今後の再訪があるのかどうかは全く先が読めないでおります。
それでもどうにかして岩手県南部までは辿りつき、7日間で約1100キロメートルを運転し、延べ120キロメートル以上を歩き続けることができたことだけは確かな事実でもあることから、もうあと何年かは頑張れそうな気持ちもしてきた「みちのく遠征」となりました。

拍手[2回]

この日の朝の気温は僅かに摂氏2度。
休養もかねて一関市の図書館で関係資料探しをすることにしました。

2014年7月に開館したばかりですので資料群としての厚みは今一つですが、落ち着いて資料探しができるの施設環境に感謝。

複写機が1台しかないため、ほぼ継続的に占有してしまい申し訳ないと思いつつも任務を黙々と遂行。
午前10時の開館から午後4時過ぎまで滞在し、数冊の関係資料を300枚ほど複写。
夕食は駅前の食堂で昼夜を兼ねた遅いソースかつ丼を摂取。

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岩手県滞在5日目にして、漸く一関市から国道4号線沿いに北へと向かうことが叶いました。
といいますのも、岩手県内陸部の天候は南部と北部で大きく異なるらしく、仮に北部二戸地方で強風と降雪があっても、南部の一関ではおだやかに晴れ渡っているという日もあります。
藪にも悩まされる今回の城館探訪は、まさしくその日の風まかせのような按配となっておりました。

しかしこの日の一関市内は昨夜来の小雨が残り、またNHK岩手放送の天気予報も降水確率60パーセントを伝えておりました。
その反面で県中央部、花巻、盛岡方面の予報では曇りで降水確率は20パーセントとのこと。
元々雨の長期予報を聞いていたことから、雨天の時には一日図書館三昧という選択肢も想定しておりました。
けれども平泉以北の方が天候が良さそうということになれば、天候を見据えながらそのまま国道4号線を北上していく格好の機会ではなかろうかとの結論に達したのでした。



凸臥牛城(一関市山目) 午前8時20分から8時30分

城跡の標柱を撮影し忘れていたための再訪です。
麓のから車でも行けるのですが、通学時間帯と重なる可能性がありましたので麓の方に駐車して、校庭西側に設置されている標柱を撮影いたしました。
この時点で一関市内は分厚い雲が重く垂れこめてはいましたが、今すくには雨の降りだすような気配はありませんでしたが、週末のため観光客関係で混み合う恐れのありそうな平泉町は通過して奥州市南部の旧前沢町へと向かいました。
画像に写りこんで入る説明版のようなものは学校関係者の方の顕彰碑に関するもので、城跡についてはあくまでも標柱のみとなっておりました。


  山ノ目中学校校庭の標柱

凸白鳥舘(奥州市白鳥字白鳥館) 午前9時05分から10時50分

かなり著名で良好な城館遺構が遺されている城跡です。
別名を白鳥古舘とも。
前九年の役の安倍氏の時代から戦国時代前期頃まで使用されていたと考えられる城跡です。


   堀底道と主郭切岸       北上川に面した郭



      二の郭          主郭と二の郭



 主郭と2の郭を隔する空堀        主郭



      北上川            物見台


   ひな壇状の郭群



◎三沢氏居館跡(奥州市前沢区下小路) 午前11時20分頃

東側麓から前沢城へと登る途中で見かけましたので立ち寄って記念撮影。
同所の解説版によりますと、明治維新後に民間に払下げられていたものを移築・修復した屋敷の表門で、屋敷地は現在小学校校庭となっている場所から山腹にかけて存在していたということです。
伊達氏重臣である大内、成田、飯坂の各氏が入ったのち、三沢氏が3000石を領し約190年後の幕末までその支配が継続しました。
 

   復元された屋敷門



凸
前沢城(奥州市前沢区陣場) 11時25分から11時55分

中世のはじめは三田氏の城とされましたが、天正年間に樫山氏、戦国時代末期に大内氏がそれぞれ入り江戸時代の初期に廃城となったとされております。
城跡としての名残は城跡北端部の土塁状地形と南部の先端部分の地形が目立ちますが、公園化により大きく景観が変わっていることが窺えます。



   城址の石碑と解説       城跡南部の先端部分


  城跡北端部の土塁状地形



◎字陣場(奥州市前沢区陣場) 11時55分から12時00分

前沢城北西部の字陣場地域の平坦地ですが、考古学的に発掘確認されたものは縄文期遺跡だけです。
関連しそうな人物や合戦などの伝承につきましてはそのうちに調べたいと考えております(^_^;)


 

 
凸上麻生城(奥州市前沢区白山字内館) 12時35分から12時45分

画像の水堀は推定されている城館跡の東側に所在していたものと考えられているようですので、樹木などが見える方の宅地側ではなく、画像左側の広々とした耕作地であるということになります。
城跡の標柱とともに丁寧な解説版も設置されておりました。
「仙台藩古城書上」によりますと、安倍頼時の家臣である麻生玄長(あそうはるなが)の居城と伝わっているとのことで、「陸奥話記」の「大麻生野柵」に擬せられてもいますが、戦国時代には葛西氏家臣の居城として利用された可能性も示唆していました。


  城館遺構の東側水堀跡      丁寧な現地解説版



◎青麻神社西側の土塁跡(奥州市前沢区古城字) 13時05分から13時10分

河ノ柵交差点から県道106号線に入り最初の交差点を左折。
そこから約1キロメートルばかり道なりに北進した市道の右端に所在しているもので、東側約50メートルには小高い塚の上に鎮座する青麻神社の社殿が目印となっています。
高さは空堀側で1メートル弱ほどですがL字型を形成し長辺部分は10メートル以上の長さを確認でき、北西方向であることから近年まで屋敷の風除けとして利用され遺されていたというような経緯があるようにも思われました。
なお長辺の東西方向の土塁に平行してもう一本の地面の高まりも見ることができることから元来は二重構造の土塁であった可能性も考えられそうにも見えます。
なお、同市の遺跡データベースなどにも掲載は無く、当然ながらその築造の歴史的経緯については今のところ全く不明です。


   二重土塁の様にも       土塁の主要部分

◎大儀寺跡(奥州市前沢区古城字前沖か?) 13時15分から13時20分

中畑城の所在地を少しばかり勘違いしていたことから偶々見つけた廃寺院の土塁です。
現在の曹洞宗大儀寺はここから約3キロメートルほど南の九郎館近くの台地東麓に移転しておりました。
太陽光の反射などで見づらいのですが、碑文には、概ね「大永3年(1523)より宝永5年(1708)まで186年間こ寺場の地にあった」というような住職と思われる方による文言が旨が刻まれておりました。
この碑文が、光線の具合と石材の色合いなどとの関係で読みづらく、このブログの部分を記すに当たり約1時間ほどを費やしております(笑)


 立派な土塁ではありますが  光線の加減で読みづらい石碑



凸中畑城(奥州市前沢区古城字水上西) 13時25分から13時55分

どうやら予め事前に下調べをしていた地点を間違えていたようです。
探訪に当たってはかなり大雑把な位置しか示していない中世城館報告書を基にしているのですが、後世の耕作などの影響を考慮したとしても、何処か城館跡の地形には相応しくないような印象がありました。
周囲は頗る見通しのよい広々とした平地が続いていることから、こうなれば周囲の地形をじっくりと観察してみることにいたしました。
そうすると運が良いことに約200メートルほど南東にある耕作地の方向に明らかに人工的な地面の盛り上がりらしい光景を見つかりました。
ことによると一瞬産廃関連かもしれないとの疑念を抱きましたが、関東方面とは異なりこの地域では余りそうした光景を目にしたことがありません。
近づいて観察すべく300ミリ望遠を双眼鏡代わりに操作したところ、紛れもなく土塁の姿をファインダー越しに捉えることができました。
水田面との比高差は余りありませんが、城の形状もよく把握でき標柱に加えて石碑までも建立されておりました。
たまたま耕作地の枯草などを手入れをなさるご年配のご城主さんとお会いできました。
土塁の麓には古い墓石が所在していますが、そう古い墓石ではなく年代の読めるもので近世中期頃までしか遡れませんでした。


1 なんかオカシイぞ 右端に  2 ん、たぶんあれかな


  3 やっぱりこれだ!     4 おおっ、標柱も!


   5 何と石碑まで       6 逆光で質感を


◎丑ノ子の土塁状地形(奥州市前沢区古城字丑ノ子) 14時05分から14時10分

断続的に遺されていますが、明らかに宅地内の地表よりも高く築造されたものです。
無論後世における北上川の水害対策の意味合いもあるのかも知れませんが、宅地全体が造成されてはいませんので構造的には土塁ということになろうかと思います。
このようなことからどう見ても確かに土塁なのでけれども、肝心なその築造等に関する来歴については全く不詳です。
小規模な環濠屋敷の事例も少なくない地域ですので、そうした可能性も考えられます。





◎字要害(奥州市前沢区古城字要害) 14時15分頃

この後は昼過ぎ頃からは初夏のような日差しが照りつけていたので、古城の公民館前の自販機によりトマトジュースを水分補給。
近年に廃校となってしまった古城小学校の一角に建てられた公民館のとても広い駐車場で小休止をさせていただきました。
一関市内を含めて、字名で「要害」の地名が伝わっている事例が数多く見受けられます。
後日調べてみたところでは、奥州市市内だけでも少なくとも6か所以上を確認できました。
この集落もいちおう文化財発掘調査報告書などでも中世城館跡として把握されているようです。
こちらも同様に小規模な環濠屋敷の事例も少なくない地域ですので、そうした可能性が考えられます。


    要害集落の遠景




凸九郎館(奥州市前沢区古城字南上野) 14時40分から15時10分

城跡は段丘東端部に所在しており、現在では郭の大部分が耕作地となっていますが、より確実な残存遺構として東側崖線沿いに遺されている腰郭が確認できます。


    城跡の標柱         主郭東側の腰郭


   東側麓からの遠望       念のための画像




凸宗角館(奥州市前沢区古城字南上野) 15時15分頃

今回は関係資料がなかったことから公民館駐車場より遠景のみを撮影して終了しましたが、掲載するような適当な画像が見つかりませんでした(^_^;)


凸八郎館(奥州市前沢区古城字南上野) 15時20分頃

今回は所在地が分らず関係資料も全くなかったことから、大雑把な見当をつけて国道4号線の歩道橋上から遠景のみを撮影して終了しました。


 画像右端の丘陵地帯の方角


◎真城字土手付近の民家宅地の盛り土(奥州市水沢区真城字土手付近か) 15時55分頃

ついものの弾みで目にした地表の凸凹を何でも観察記録していますが、これは明らかに後世の宅地造成によるもののような気がします。
北側を流れる用水路の流路が大きく変えられていることなどが窺え、恐らくはこれらと合わせて水害対策の一環として近代以降に造成されたもののような気がいたします。
この近くでの北上川の中州の標高が約25メートルに対して、この辺りの標高は30メートル前後となっておりました。

 
 水除けの嵩上げのようです
 
 
 
凸中野館(奥州市水沢区真城字舘) 16時00分から16時15分

以前は一部が複郭のように遺されていた遺構のうち、宅地整備などにより北側の空堀がほぼ消滅している様子が窺えます。
これに伴い土塁の一部は民家宅地の嵩上げのような構造で遺されているようにも見受けられました。

またその南にある単郭となる郭と土塁はどうにか往時を偲ぶことができるぎりぎりの原型を留めてはいますが、郭内は耕作地化され北辺部の土塁は事実上なくなりつつあるという印象でした。


    東側の土塁          北側の土塁跡


それでも西辺の方は幅も高さもあることから、外部からでも実になかなか見ごたえのある土塁遺構を拝むことができます。


   主郭西側の土塁       宅地嵩上げとの区別が



凸六日城(奥州市水沢区真城字古舘) 16時20分から17時00分

現地解説版の説明によりますと、ここも上麻生城どほぼ同じように、「仙台藩古城書上」では安倍頼時家臣の麻生玄長(あそうはるなが)の居城と伝わっています。その後の
戦国時代には葛西氏家臣の居城として利用された可能性を示唆していました。
城郭遺構は疎その後の宅地化や耕作などにも拘らず、本当によく遺されているものと感心をいたします。

ただし西側の平行する土塁の形状等から考えますと、本来の城郭遺構として捉えるには土塁の直線的なことや間の堀が土塁の規模に比して小さいなど些か違和感を感じます。


      土塁          標柱と解説版


     主郭と土塁          西側の土塁


    堀跡と土塁           堀跡と土塁


◎古城八丁遺跡(奥州市水沢区真城字舘八反町ほか) 17時10分頃

一関市内に帰る途中の車窓から、お馴染みとなった感のある文化財標柱と解説版がふと目に留まりました。

標柱などが設置されているのは字中島辺りなのかと思いますが、当該解説版などによりますと、この市道西側には北八反町、舘八反町(たてはったんちょう)、南八反町、四反田(したんだ)、丑の子、宿の前、水尻(みずしり)、高殿(こうでん)などの字名が遺されて凡そ方八丁(約800メートル四方)の区画を形成しているとのことでした。
9世紀初頭の坂上田村麻呂により胆沢城に移された4000人ほどの柵戸がその築城後幾つかに分けられて古代律令国家の郷村として編成されなおしたとされ、この古城八丁もそのひとつであろうと推定されているとのことです。

当時における郷村は農耕開拓を任務とする一方で、軍事(現地兵力の動員)、交通運輸(中世における伝馬制につながるものか)の機能も併置されていた防衛的集落とされています。
以上については概ね「現地解説版」および同地の「古城方八丁遺跡発掘調査報告書」(2011年/財團法人 岩手県文化振興事業団ほか)を引用させていただいております。






このまま国道4号線沿の平地に所在する城館跡を辿りつつ、いったい果たして何処まで行けるのかという相当な不透明さを伴った探訪ではありましたが、やはり平地に所在している城館跡はほぼ確実にアプローチできるというメリットがあったようです。
とはいうものの些か無名に近いような個所を欲張ってしまったことから、結局は花巻市どころか隣接した奥州市止まりとなってしまいました。
それでも岩手県5日目にして、漸く再訪を含めて中身の濃い中世城館跡の探訪が叶い他に数か所ほどの関係個所をめぐり、盛りに盛って17カ所という昨日までにはなかった充実した一日となりました。
このような次第で、この日の夕食は何と贅沢にも4320円の前沢牛フィレステーキセットをいただくこととなりました。
食事には殆ど無頓着なこともあり、自分ひとりでは1食4000円以上の食事をしたことが未だかつて無いようにも記憶しております。
100グラムと小さめの肉でしたが、口の中でとろけるように柔らかな食感を忘れることができません。
しかし、この14日の夜に熊本地方が大地震に見舞われるとは想像だにできませんでした。


  前沢牛フィレステーキ


このようにして歩行距離はこの日も軽く20キロメートルを超えましたが、5日間で歩行距離の累計は100キロメールを突破しており、はさすがに少しは体を休ませねば帰路の運転が辛いことになると思われました。
土曜日までは何とか天気が持ちそうなので、明日金曜日は休養日もかねて予定通りに一日中一関市の新しい図書館で調べものを行うこととしました。
  

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