本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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先月一週間を要した東北長期遠征では、従来抱えていた厄介な足回りの痛み対策が功を奏したことで、今後の活動見通しがかなり立てやすくなったことも大きな成果でした。
しかしその後しばらくは2000枚近い画像の整理、探訪資料整理などに忙殺されるとともに、ほぼ日中は半端ではない睡魔が襲い爆睡の日々が続いてしまいました。
最初のに三日はそれほどでもありませんでしたが、一週間が経過したあたりからどっと疲れが出てきたようです。

このためこの連休中も行楽などの混雑を避けるべく、自宅に籠りっきりでただひたすら関係資料の整理に追われておりました。
こうして少なくとも奥州市方面再訪の準備だけは整いましたが、その成否は気力と体力+幸運次第化と思う今日この頃です。

拍手[1回]

岩手県遠征もとうとう最終日を迎えました。
この日も天候次第で一関市内の川崎、藤沢方面か、或いは昨日に引き続き奥州市以北を国道4号線で北上するのか迷いましたが、ここは確実に遺構と対面できそうな可能性のある平地の城館跡が多い後者の方を選択することにしました。
 
 
栗林遺跡(奥州市水沢区真城字八反町) 午前9時05分から9時10分

下姉体城へと向かう道すがら、たまたま参考までに遠景を撮影させていただいたものです。
およそ100メートルほど離れた県道197号線沿いからでもとても目立つ、ひときわ構えの大きなお屋敷を含む数軒ほどの集落でした。



後日少し調べてみますところでは、どうやら中近世の屋敷跡との関わりがあるようです。
帰宅後に奈良文化財研究時所の遺跡調査報告書データベースを幾つか調べてみましたところ、当該遺跡と直接関係するものは登録掲載されてはいませんでした。
しかしいくつかの報告書には「周辺遺跡」のひとつとして収録されており、やはり中近世の屋敷跡であることが判明しましたので1か所加算してみました(笑)

この一帯の胆沢扇状地にはその起源が中世にまで遡るとみられる環濠屋敷形態の旧家が少なくなく、こちらもそうした経緯があるようにも思われるような景観でした。


 
下姉体城(奥州市水沢区姉体) 9時30分から9時55分

別名を内館ともいって、下姉体城の本丸とも伝わる遺構です。
たぶん新山神社が地図上の目印と考えも先ずは神社境内前に駐車させていただき、恒例となっている参拝ののちはそのまま境内から北側にのびた農道経由で隣接する西側の集落へ。
すると行く手の左側には城跡の石柱と解説版の姿が目に入り、加えてその背後の屋敷北側には堂々とした屋敷をとりまく土塁遺構がその姿を現しました。
北側土塁の高さは最大で3メートル弱、長さは60メートルほどでそのまま西側方向に続いています。
南側の土塁はほぼ消失しているように見受けられますが、これに付随する約5メートルほどの幅を有していたとされる堀跡は現在の集落内の通路となっている様子も窺われます。


   新山神社の参道         北側の土塁



   北側土塁を西側から       土塁の上部

平地に占地しているにもかかわらず、下調べ不十分で訪れたこともあり、意外性のある城館遺構との対面に余りの感激を来たし、帰宅後に気づいたことではありますが、迂闊にも関連する複郭などの周辺遺構を確認することを失念しておりました。
「安永風土記」によれば、葛西家重臣である大内氏の居城と伝わっています。



上姉体城(奥州市水沢区姉体) 10時10分から10時30分

市街地の外れとはいっても地図情報などからは周辺の宅地化がすすんでいることが窺え、けっして溢れるような期待感を持って訪れた訳ではありませんでした。
しかし国道343号線を左折して一般市道に入った途端に眼前に切岸により頑強に防御された遺構が現れました。
城館周辺部をとりまいていたであろう堀跡は北側と西側部分を除いてほぼ埋め立てられているのですが、北側から見上げる最大4メートルを超える郭切岸の威容には感動を覚えます。


    北西側から           東側から


   南側の標柱と解説版      西側の土塁と堀跡


    北西側から


後から知ったことですが、こちらも旧水沢市内では保存状態良好な城館遺構として著名のようで、だいぶ以前に刊行された市史においても縄張図付で掲載されておりました。
この上下二つの姉体城については、近年の平地化が進行する平地に所在しているという厳しい環境下にあってなおも奇跡的に残存している良好な城館遺構であるといえましょう。

なおこの主郭が所在する元々の台地地形については、恐らくは胆沢扇状地の形成過程のなかで長い年月を経て支流である胆沢川の北進とその本流である北上川の流れにより、形成されていた扇状台地の一部が次第に浸食されて形成されたもののように思われます。

18世紀後半に編纂された仙台藩の地誌「安永風土記」によれば、天正年間に柏山家家臣の千田豊後が居住していたと記されています。



築館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時55分

一部のサイトなどではすでに消滅したともいわれております。
管理人も始めは、南側の坂下から胆沢川が形成した河岸段丘の地形が眼前に広がり、その先には宅地化された台地が続くという景観を眺めそうしたような印象を抱きました。
それでもこの時点ではまたまだ気力体力も多少残っていたこともあり、直接の関連は無いものと思いつつも、まずは念のために遠く東側に見えた崖線上に所在する神社の祠を目指してみました。


 少し東側に外れすぎている   この円弧状地形の正体は

始めは活断層による断層帯の影響なのかとも思いましたが、このあまりにも美しい造形を描いている緩やかなカーブを伴う崖線が合致しませんので、その真相がとても気にかかりました。
自宅に戻った後にいろいろ調べてみますと、この地形については、学術的には「胆沢川」の流路の変遷による河岸段丘形成活動であると考えられているようでした。
北上川西岸に所在する広大な胆沢扇状地は胆沢川の流路の変遷がもたらしたものと考えられますが、長い年月を経て胆沢川自体も大きく流路を変遷させ次第に北上していったとされているようです。



 この地形は確実に電子国土に   市道に戻り目を転じれば


    南側の堀跡       北側堀跡に降りてみました


  西側の堀跡は埋戻しが


しかし上記の画像からも分かるように、よくよく現地を踏査してみれば、実際には近年において新たに建設された南北に走る市道西側に現在でも所在しており、郭北側の堀跡も明確に遺されておりました。
前日に降った水たまりが残された北側堀跡は少しばかり足元が沈みそうでした。

市道の西側道路沿いに立ちますと、今もなおつての堀跡である湿地を確実に俯瞰することができます。
ただし東側の堀跡はこの道路建設により完全に消失していることも判明します。
南側も現在は水田として耕作されていますが、はっきりと上記画像のような堀跡の形跡を遺しています。
なお西側堀跡は耕地化などによる一部埋戻しなどにより、幾分分かりにくくなっておりました。



佐野館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時30分

別名をタテツバタケとも。
水沢インターチェンジの北側約300メートルほどの地点ある宿集落内に所在しています。
有名な胆沢城から見た場合には西南西約1キロメートルの方角になります。

こちらは予め城館跡というような知識が無ければほぼ見落としてしまうような目立ちにくい耕作地内の微高地ですが、よくよくじっくりと踏査してみれば周辺の水田面との比高差は1メートル前後を測ることを確認できます。


    東側切岸付近        西側の切岸付近


   西側の農道から       周辺の案内図にも掲載

後世の耕作等によりその形状がある程度変わっているという可能性も考えられますが、本来は方形の複数の郭群から構成された縄張を有していたものなのかも知れません。
この場所からは少し離れた沿道に設置されていた宇佐地区内の案内板にも「佐野館遺跡(城館跡)」との所在が表記されていました。

この案内板を含めてざっと周囲を見渡した限りでは、現地には城館跡に関する標柱や解説版の類は見当たらず、南西角付近に3基の太陽光パネルとともに戊辰戦争当時の新旧の鎮魂碑が設置されているだけでした。



胆沢城(奥州市水沢区佐倉河)  13時25分から14時30分

市の埋蔵文化財センターに立ち寄り関係資料の収集。

ここで13時30分からの「アテルイ」関係のビデオ上映(約30分)に唯一の観客として貢献を。

9世紀のはじめ頃に坂上田村麻呂が築き、その完成後には多賀城の鎮守府が当地に移されて、10世紀の後半頃まで機能したとされる有名な古代城柵。



   県道沿いの案内板     奥州市埋蔵文化財センター


      石碑            復元遺構


  北側から政庁方面を撮影     台地の北側辺縁部


 こちらの方が気になります   これもよく見る撮影ポイント



北館(奥州市水沢区佐倉河) 14時40分から14時50分

葛西一族柏山氏の家臣菊池氏の館とも伝わる。
別名を館屋敷とも。


  北館と記された指導標         北館




上館(奥州市水沢区佐倉河) 15時00分から15時10分

文化財センターでいただいた資料のおかげで、所在地そのものは明確に確認できたのですが、現地は湧水などのため些か足元が思わしくなく、藪もそこそこあったことから踏査は断念いたしました。
現地で収集した資料からは、三つの郭とこれに伴う堀跡などが遺されているということのようです。
別名を川端館とも。


  三代清水といわれる湧水   この湧水の東側台地先端に



鳥海柵(金ヶ崎町西根縦街道南、原添下、鳥海、二ノ宮後) 15時50分から16時20分

「陸奥話記」に記された安倍一族鳥海三郎宗任の柵跡と伝えられ、国史跡指定をうけている著名な遺構です。
発掘調査などからは蝦夷の時代から奥州藤原氏の治世まで利用されていた痕跡が窺えるようです。


 パンフレットの表紙のような   たまたま桜が満開に・・


  駐車場の現地解説版     サイトはこの辺の画像が多い


    谷筋の開口部         反対方向から

  
   大きな標柱と郭跡      水仙も咲いていたので

 
  コントラストを強めに    少し堀跡に降りてみました




金ヶ崎城(金ヶ崎町)  16時40分頃

この時点では関係資料不足のため詳しいルートが分らず、結果的に県道沿いからスルーして手抜きをすることとなりました。






舟形館(金ヶ崎町) たぶん17時過ぎ頃

夕刻につき、手抜きついでにもう一カ所。






この間九州熊本地方では大きな地震に見舞われ、日付が変わったばかりのこの日の深夜にもさらに規模の大きな地震が発生いたしました。
迅速な人命の救助並びに被災された方々の一日も早い復興をお祈りするばかりです。
途中休憩で立ち寄った国見サービスエリアで、災害支援派遣されている秋田の陸自の方々が小休止されておいでになりましたので、先行する陸自車列の皆様を叩頭して見送らせていただきました。
このあとは延々と高速を走り続けて久喜からは圏央道、関越経由でそのままノンストップ走行。
その後埼玉の自宅に帰宅したのは17日の午前1時30分前後に。


お陰様でこうした渦中にあっても管理人は岩手県遠征の7日間が無事に終了いたしましたが、顕在化する加齢現象に加えて、こうした近年の頻発する地震など自然災害の発生頻度などを考慮いたしますと、今後の再訪があるのかどうかは全く先が読めないでおります。
それでもどうにかして岩手県南部までは辿りつき、7日間で約1100キロメートルを運転し、延べ120キロメートル以上を歩き続けることができたことだけは確かな事実でもあることから、もうあと何年かは頑張れそうな気持ちもしてきた「みちのく遠征」となりました。

拍手[2回]

この日の朝の気温は僅かに摂氏2度。
休養もかねて一関市の図書館で関係資料探しをすることにしました。

2014年7月に開館したばかりですので資料群としての厚みは今一つですが、落ち着いて資料探しができるの施設環境に感謝。

複写機が1台しかないため、ほぼ継続的に占有してしまい申し訳ないと思いつつも任務を黙々と遂行。
午前10時の開館から午後4時過ぎまで滞在し、数冊の関係資料を300枚ほど複写。
夕食は駅前の食堂で昼夜を兼ねた遅いソースかつ丼を摂取。

拍手[1回]

岩手県滞在5日目にして、漸く一関市から国道4号線沿いに北へと向かうことが叶いました。
といいますのも、岩手県内陸部の天候は南部と北部で大きく異なるらしく、仮に北部二戸地方で強風と降雪があっても、南部の一関ではおだやかに晴れ渡っているという日もあります。
藪にも悩まされる今回の城館探訪は、まさしくその日の風まかせのような按配となっておりました。

しかしこの日の一関市内は昨夜来の小雨が残り、またNHK岩手放送の天気予報も降水確率60パーセントを伝えておりました。
その反面で県中央部、花巻、盛岡方面の予報では曇りで降水確率は20パーセントとのこと。
元々雨の長期予報を聞いていたことから、雨天の時には一日図書館三昧という選択肢も想定しておりました。
けれども平泉以北の方が天候が良さそうということになれば、天候を見据えながらそのまま国道4号線を北上していく格好の機会ではなかろうかとの結論に達したのでした。



臥牛城(一関市山目) 午前8時20分から8時30分

城跡の標柱を撮影し忘れていたための再訪です。
麓のから車でも行けるのですが、通学時間帯と重なる可能性がありましたので麓の方に駐車して、校庭西側に設置されている標柱を撮影いたしました。
この時点で一関市内は分厚い雲が重く垂れこめてはいましたが、今すくには雨の降りだすような気配はありませんでしたが、週末のため観光客関係で混み合う恐れのありそうな平泉町は通過して奥州市南部の旧前沢町へと向かいました。
画像に写りこんで入る説明版のようなものは学校関係者の方の顕彰碑に関するもので、城跡についてはあくまでも標柱のみとなっておりました。


  山ノ目中学校校庭の標柱

白鳥舘(奥州市白鳥字白鳥館) 午前9時05分から10時50分

かなり著名で良好な城館遺構が遺されている城跡です。
別名を白鳥古舘とも。
前九年の役の安倍氏の時代から戦国時代前期頃まで使用されていたと考えられる城跡です。


   堀底道と主郭切岸       北上川に面した郭



      二の郭          主郭と二の郭



 主郭と2の郭を隔する空堀        主郭



      北上川            物見台


   ひな壇状の郭群



◎三沢氏居館跡(奥州市前沢区下小路) 午前11時20分頃

東側麓から前沢城へと登る途中で見かけましたので立ち寄って記念撮影。
同所の解説版によりますと、明治維新後に民間に払下げられていたものを移築・修復した屋敷の表門で、屋敷地は現在小学校校庭となっている場所から山腹にかけて存在していたということです。
伊達氏重臣である大内、成田、飯坂の各氏が入ったのち、三沢氏が3000石を領し約190年後の幕末までその支配が継続しました。
 

   復元された屋敷門



前沢城(奥州市前沢区陣場) 11時25分から11時55分

中世のはじめは三田氏の城とされましたが、天正年間に樫山氏、戦国時代末期に大内氏がそれぞれ入り江戸時代の初期に廃城となったとされております。
城跡としての名残は城跡北端部の土塁状地形と南部の先端部分の地形が目立ちますが、公園化により大きく景観が変わっていることが窺えます。



   城址の石碑と解説       城跡南部の先端部分


  城跡北端部の土塁状地形



◎字陣場(奥州市前沢区陣場) 11時55分から12時00分

前沢城北西部の字陣場地域の平坦地ですが、考古学的に発掘確認されたものは縄文期遺跡だけです。
関連しそうな人物や合戦などの伝承につきましてはそのうちに調べたいと考えております(^_^;)


 

 
上麻生城(奥州市前沢区白山字内館) 12時35分から12時45分

画像の水堀は推定されている城館跡の東側に所在していたものと考えられているようですので、樹木などが見える方の宅地側ではなく、画像左側の広々とした耕作地であるということになります。
城跡の標柱とともに丁寧な解説版も設置されておりました。
「仙台藩古城書上」によりますと、安倍頼時の家臣である麻生玄長(あそうはるなが)の居城と伝わっているとのことで、「陸奥話記」の「大麻生野柵」に擬せられてもいますが、戦国時代には葛西氏家臣の居城として利用された可能性も示唆していました。


  城館遺構の東側水堀跡      丁寧な現地解説版



◎青麻神社西側の土塁跡(奥州市前沢区古城字) 13時05分から13時10分

河ノ柵交差点から県道106号線に入り最初の交差点を左折。
そこから約1キロメートルばかり道なりに北進した市道の右端に所在しているもので、東側約50メートルには小高い塚の上に鎮座する青麻神社の社殿が目印となっています。
高さは空堀側で1メートル弱ほどですがL字型を形成し長辺部分は10メートル以上の長さを確認でき、北西方向であることから近年まで屋敷の風除けとして利用され遺されていたというような経緯があるようにも思われました。
なお長辺の東西方向の土塁に平行してもう一本の地面の高まりも見ることができることから元来は二重構造の土塁であった可能性も考えられそうにも見えます。
なお、同市の遺跡データベースなどにも掲載は無く、当然ながらその築造の歴史的経緯については今のところ全く不明です。


   二重土塁の様にも       土塁の主要部分

◎大儀寺跡(奥州市前沢区古城字前沖か?) 13時15分から13時20分

中畑城の所在地を少しばかり勘違いしていたことから偶々見つけた廃寺院の土塁です。
現在の曹洞宗大儀寺はここから約3キロメートルほど南の九郎館近くの台地東麓に移転しておりました。
太陽光の反射などで見づらいのですが、碑文には、概ね「大永3年(1523)より宝永5年(1708)まで186年間こ寺場の地にあった」というような住職と思われる方による文言が旨が刻まれておりました。
この碑文が、光線の具合と石材の色合いなどとの関係で読みづらく、このブログの部分を記すに当たり約1時間ほどを費やしております(笑)


 立派な土塁ではありますが  光線の加減で読みづらい石碑



中畑城(奥州市前沢区古城字水上西) 13時25分から13時55分

どうやら予め事前に下調べをしていた地点を間違えていたようです。
探訪に当たってはかなり大雑把な位置しか示していない中世城館報告書を基にしているのですが、後世の耕作などの影響を考慮したとしても、何処か城館跡の地形には相応しくないような印象がありました。
周囲は頗る見通しのよい広々とした平地が続いていることから、こうなれば周囲の地形をじっくりと観察してみることにいたしました。
そうすると運が良いことに約200メートルほど南東にある耕作地の方向に明らかに人工的な地面の盛り上がりらしい光景を見つかりました。
ことによると一瞬産廃関連かもしれないとの疑念を抱きましたが、関東方面とは異なりこの地域では余りそうした光景を目にしたことがありません。
近づいて観察すべく300ミリ望遠を双眼鏡代わりに操作したところ、紛れもなく土塁の姿をファインダー越しに捉えることができました。
水田面との比高差は余りありませんが、城の形状もよく把握でき標柱に加えて石碑までも建立されておりました。
たまたま耕作地の枯草などを手入れをなさるご年配のご城主さんとお会いできました。
土塁の麓には古い墓石が所在していますが、そう古い墓石ではなく年代の読めるもので近世中期頃までしか遡れませんでした。


1 なんかオカシイぞ 右端に  2 ん、たぶんあれかな


  3 やっぱりこれだ!     4 おおっ、標柱も!


   5 何と石碑まで       6 逆光で質感を


丑ノ子の土塁状地形(奥州市前沢区古城字丑ノ子) 14時05分から14時10分

断続的に遺されていますが、明らかに宅地内の地表よりも高く築造されたものです。
無論後世における北上川の水害対策の意味合いもあるのかも知れませんが、宅地全体が造成されてはいませんので構造的には土塁ということになろうかと思います。
このようなことからどう見ても確かに土塁なのでけれども、肝心なその築造等に関する来歴については全く不詳です。
小規模な環濠屋敷の事例も少なくない地域ですので、そうした可能性も考えられます。





◎字要害(奥州市前沢区古城字要害) 14時15分頃

この後は昼過ぎ頃からは初夏のような日差しが照りつけていたので、古城の公民館前の自販機によりトマトジュースを水分補給。
近年に廃校となってしまった古城小学校の一角に建てられた公民館のとても広い駐車場で小休止をさせていただきました。
一関市内を含めて、字名で「要害」の地名が伝わっている事例が数多く見受けられます。
後日調べてみたところでは、奥州市市内だけでも少なくとも6か所以上を確認できました。
この集落もいちおう文化財発掘調査報告書などでも中世城館跡として把握されているようです。
こちらも同様に小規模な環濠屋敷の事例も少なくない地域ですので、そうした可能性が考えられます。


    要害集落の遠景




九郎館(奥州市前沢区古城字南上野) 14時40分から15時10分

城跡は段丘東端部に所在しており、現在では郭の大部分が耕作地となっていますが、より確実な残存遺構として東側崖線沿いに遺されている腰郭が確認できます。


    城跡の標柱         主郭東側の腰郭


   東側麓からの遠望       念のための画像




宗角館(奥州市前沢区古城字南上野) 15時15分頃

今回は関係資料がなかったことから公民館駐車場より遠景のみを撮影して終了しましたが、掲載するような適当な画像が見つかりませんでした(^_^;)


八郎館(奥州市前沢区古城字南上野) 15時20分頃

今回は所在地が分らず関係資料も全くなかったことから、大雑把な見当をつけて国道4号線の歩道橋上から遠景のみを撮影して終了しました。


 画像右端の丘陵地帯の方角


◎真城字土手付近の民家宅地の盛り土(奥州市水沢区真城字土手付近か) 15時55分頃

ついものの弾みで目にした地表の凸凹を何でも観察記録していますが、これは明らかに後世の宅地造成によるもののような気がします。
北側を流れる用水路の流路が大きく変えられていることなどが窺え、恐らくはこれらと合わせて水害対策の一環として近代以降に造成されたもののような気がいたします。
この近くでの北上川の中州の標高が約25メートルに対して、この辺りの標高は30メートル前後となっておりました。

 
 水除けの嵩上げのようです
 
 
 
中野館(奥州市水沢区真城字舘) 16時00分から16時15分

以前は一部が複郭のように遺されていた遺構のうち、宅地整備などにより北側の空堀がほぼ消滅している様子が窺えます。
これに伴い土塁の一部は民家宅地の嵩上げのような構造で遺されているようにも見受けられました。

またその南にある単郭となる郭と土塁はどうにか往時を偲ぶことができるぎりぎりの原型を留めてはいますが、郭内は耕作地化され北辺部の土塁は事実上なくなりつつあるという印象でした。


    東側の土塁          北側の土塁跡


それでも西辺の方は幅も高さもあることから、外部からでも実になかなか見ごたえのある土塁遺構を拝むことができます。


   主郭西側の土塁       宅地嵩上げとの区別が



六日城(奥州市水沢区真城字古舘) 16時20分から17時00分

現地解説版の説明によりますと、ここも上麻生城どほぼ同じように、「仙台藩古城書上」では安倍頼時家臣の麻生玄長(あそうはるなが)の居城と伝わっています。その後の
戦国時代には葛西氏家臣の居城として利用された可能性を示唆していました。
城郭遺構は疎その後の宅地化や耕作などにも拘らず、本当によく遺されているものと感心をいたします。

ただし西側の平行する土塁の形状等から考えますと、本来の城郭遺構として捉えるには土塁の直線的なことや間の堀が土塁の規模に比して小さいなど些か違和感を感じます。


      土塁          標柱と解説版


     主郭と土塁          西側の土塁


    堀跡と土塁           堀跡と土塁


◎古城八丁遺跡(奥州市水沢区真城字舘八反町ほか) 17時10分頃

一関市内に帰る途中の車窓から、お馴染みとなった感のある文化財標柱と解説版がふと目に留まりました。

標柱などが設置されているのは字中島辺りなのかと思いますが、当該解説版などによりますと、この市道西側には北八反町、舘八反町(たてはったんちょう)、南八反町、四反田(したんだ)、丑の子、宿の前、水尻(みずしり)、高殿(こうでん)などの字名が遺されて凡そ方八丁(約800メートル四方)の区画を形成しているとのことでした。
9世紀初頭の坂上田村麻呂により胆沢城に移された4000人ほどの柵戸がその築城後幾つかに分けられて古代律令国家の郷村として編成されなおしたとされ、この古城八丁もそのひとつであろうと推定されているとのことです。

当時における郷村は農耕開拓を任務とする一方で、軍事(現地兵力の動員)、交通運輸(中世における伝馬制につながるものか)の機能も併置されていた防衛的集落とされています。
以上については概ね「現地解説版」および同地の「古城方八丁遺跡発掘調査報告書」(2011年/財團法人 岩手県文化振興事業団ほか)を引用させていただいております。






このまま国道4号線沿の平地に所在する城館跡を辿りつつ、いったい果たして何処まで行けるのかという相当な不透明さを伴った探訪ではありましたが、やはり平地に所在している城館跡はほぼ確実にアプローチできるというメリットがあったようです。
とはいうものの些か無名に近いような個所を欲張ってしまったことから、結局は花巻市どころか隣接した奥州市止まりとなってしまいました。
それでも岩手県5日目にして、漸く再訪を含めて中身の濃い中世城館跡の探訪が叶い他に数か所ほどの関係個所をめぐり、盛りに盛って17カ所という昨日までにはなかった充実した一日となりました。
このような次第で、この日の夕食は何と贅沢にも4320円の前沢牛フィレステーキセットをいただくこととなりました。
食事には殆ど無頓着なこともあり、自分ひとりでは1食4000円以上の食事をしたことが未だかつて無いようにも記憶しております。
100グラムと小さめの肉でしたが、口の中でとろけるように柔らかな食感を忘れることができません。
しかし、この14日の夜に熊本地方が大地震に見舞われるとは想像だにできませんでした。


  前沢牛フィレステーキ


このようにして歩行距離はこの日も軽く20キロメートルを超えましたが、5日間で歩行距離の累計は100キロメールを突破しており、はさすがに少しは体を休ませねば帰路の運転が辛いことになると思われました。
土曜日までは何とか天気が持ちそうなので、明日金曜日は休養日もかねて予定通りに一日中一関市の新しい図書館で調べものを行うこととしました。
  

拍手[1回]

3日間歩き回ってみて一関方面では容易に探訪数を稼ぐことが難しいという状況が日々次第に明確化してきました。
その原因の大半は安定しない天候に加えて連日藪城に悩まされていたことによるものなのですが、開き直ってこの際はより本格的な藪城を目指すことにしました。


要害城(一関市真柴字内ノ目) 午前9時05分から10時45分
 
別名を下要害城とも。
東北本線と東北新幹線の軌道が分れる南側の丘陵地帯に所在し、現在では東側を国道342号線、西側に国道4号線が走っていますが、元来の陸羽街道は西山麓の眼を通過するという要衝にあることが分かります。
 

 国道側麓から見上げた城跡


「電子国土」などの地図情報によりますと、南北方向に伸びた丘陵北端部に所在し、麓の内ノ目集落からの比高差は約60メートル余りで、尾根筋までの直線距離は300メートル足らずと多少無理するには何とかなりそうな感触でした。
けれども実際に東側の麓から見上げた限りでは、下黒沢城の藪よりも遥かに厳しそうな状況が伝わってきました。
一番当てが外れたのは電子国土などに掲載されてる東側に存在したはずの登攀ルートが2か所とも消失していたことでした。
それでも、通行止めとなった小さな用水池のある個所までは林道がありましたので、その先の直線200メートルほどを北へと藪を迂回しながら稜線部を目指すのが最短ルートとなっておりました。
予めそれなりの覚悟をしていたとはいえ、予想通りにこのあとの約100分間のうち半分以上は叢生するアズマザサやノイバラなどの藪と格闘するというような結果に追い込まれました。

肝心の遺構の方は主郭周辺を取り巻く横堀らしき溝とこれに関連する堀切が現存していますが、何分にもアズマザサが叢生しているために地表観察が困難となっていました。


 主郭付近の堀切乃至横堀



 笹薮といえばそれまでですが


寧ろ帰り際にその存在に気づくこととなった東側斜面に刻まれた竪堀のような地形の方が目立ちます。
位置的には城館遺構との関連性が想定されますが、幾分堀幅が広すぎて主郭周辺を取り巻く横堀ととのバランスに再考の余地もありそうな印象でした。
可能性としては後世の樹木伐採、搬出用の林道跡のような性格のものなのかも知れません。


  東斜面の竪堀状の地形


南北方向の尾根筋上には東北電力の送電線保守のために整備された作業道が通ってはいるのですが、あくまでも送電線用鉄塔とその周辺の保守のためのもので従来の里道の方は事実上殆ど廃道になってしまった模様でした。
なお国道342号線が大きく東へとカーブする様子が見える南方約800メートルほどの地点まで確認してみましたが、現在では内ノ目集落南部と八雲神社方面からアプローチする里道は確認できませんでした。
城館遺構自体も尾根筋先端部に集中している模様であり、その南方に続く稜線上にはそれらしい地形を見出すことはできませんでした。

なお、内ノ目集落反対側の東側丘陵地帯にも法面加工が気にかかる地形が複数散見されていました。



牧沢城(一関市真柴字細田) 午前11時から12時10分

別名を内ノ目館とも。
牧沢交差点北東角の比高差30メートルばかりの低丘陵に所在している城跡ですが、近年工業団地建設などに伴い新しい舗装道路が築造されて丘陵が南北に分断されています。


  東側丘陵先端部付近


車の駐車スペースを求めつつ工業団地側からこの新しい舗装道路を道なりにすすみ下ると南側(左側)の道路端に城跡の標柱を見出すことができます。
特に解説が伴わない場合が多いのですが、他県から来訪した者にとっては地元ならびに行政機関のこういうご配慮はとてもありがたく誠に助かります。




尾根筋は東西に2本存在し、1980年代の城館調査によれば郭、土塁、堀切などの遺構はその2つともに存在しているとされていますが、残念ながら標柱の眼前にある急斜面の尾根筋にとりつけるような個所が無く、西側の尾根筋に至ってはアプローチするような踏み跡さえも見つかりませんでした。
この時は多分にこの直前に訪れた要害城での疲労蓄積などが大きく影響していたものと思われました。
なお、工業団地造成工事に伴うものなのかも知れませんが、東側の尾根筋を断ち切るようにした堀切状の地形の一部らしいものが認められますが、何分にも造成以前の地形を把握していないため何とも言えない印象でした。


 そうでないような違うような


なお、標柱をいかにも嬉しそうにしげしげと眺めている最中、道に迷われた地元の方に真滝駅への道案内をいたしました。
そのお話からは工業団地建設に伴い新しい道路ができたために国道284号線から駅へと向かうルートが分らなくなってこの行き止まりの舗装道路に迷い込んだ様子でした。
迷われていた運転の方には、一度牧沢交差点まで行ってから東側へと県道を進みそのまま国道384号線の下をくぐりそのまま道なりにすすめば約2キロメートルほどで駅前へと到達する旨を説明して任務完了。
日頃は城館探訪でご迷惑をおかけすることは多々ありますが、たまにはお役にたつようなことも致さねばならぬと改めて痛感した次第。




滝沢城(一関市真滝字館下) 12時45分から13時30分

別名を田中古館とも。
熊野白山神社付近が城跡なのかも知れないと当たりをつけて、牧沢城から新しい工業団地(一関東第2工業団地、ハイフン関東第2・・ではありません)を東西に抜ける道路を東進して国道284号線から直接神社形態の駐車場へアフローチ。
しかし慣れないことは上手くいかないもので、最初に目をつけた真滝駅西側の地形の方が正解であるようでした。
下記の画像では柱のわきに写りこんでいる右側の木立付近の丘陵がこれに該当するものと思われます。


 国道284号線沿いの公園から


神社境内は駐車場整備などにより景観が変貌してはいるものの、その一方でそれなりに城跡らしい地形の名残を伴っていましたが、やはりどちらかといえば空堀跡と土塁の位置関係に疑問が残り、かつその規模が小さすぎるという印象がありました。


  神社境内西側の地形


この時点で正確な所在地がいまひとつ把握できてはいませんでしたが、後日市内の図書館で関係資料を確認してみたところ、やはり100メートルほど東の南北に細長い丘陵の北側であることが判明しました。
下記画像の石段をそのまま下って登ったところが本来確認をされている城跡南部に相当するようです。


  東側参道石段踊り場より


また両者の地形とも近年の国道拡張整備の影響を受けて、その丘陵地帯が南北に分断され景観に大きな変化がもたらされていることも窺われました。

その時には「まあ今後残りの行動予定のなかに織り交ぜれば」などと気軽に考えておりましたが、結果的にその後の天候事情等のためこの城跡を再訪することは叶いませんでした。



薄衣城(一関市川崎町)

北上川の橋を渡り「道の駅かわさき」まで赴いたものの、肝心の薄衣城を目前にして予報通り空模様が怪しくなり始め、気力・体力ともに大きく低下していたことから後日の探訪に切り替え楊生城方面から遠景を撮影するにとどまることに。
けれどもこの場所で岩手日報の出版物を何冊か入手できたのは意外な成果となりました。
しかし次の探訪の機会があるのかどうかは、まさに「神のみぞ知る」との名言が脳裏をよぎるのでした。


   新館からの遠望



楊生城新館(一関市弥栄字沼畑) 13時55分から14時35分

別名を楊生新城、宝館などとも言うようです。
本日いちばんの収穫のあった城跡です。
やはり神社や寺院が近くにあるというのは一定の整備がなされ、宗教的な信仰とは別に実にありがたいことでした。
主郭規模の違いはありますが、昨日伺った秋葉館の縄張に酷似した東側の中腹から山麓にかけて大小の腰郭群がとりまくという縄張でありました。
もちろん後世の耕作や宅地化などの地形改変がある程度加わっている可能性は濃厚かと思われますが、こういう地形を目の当たりにすると年甲斐もなく胸わき踊る事態となるのであります。


  東麓の長安寺山門より


なおこの個所からは下記の古館も指呼の間に所在していますが、北上川を挟んで約2キロメートルほど隔てた薄衣城方面の眺望がきわめて良好でした。


  画像右上付近が主郭です     たぶん神社の駐車場


  右上の箇所を上の段から   主郭を取り巻く腰郭のひとつ

また城跡南側に所在する旧家の屋号は文字通り「館」そのものなのでありました。
下記画像のように宅地造成の際の擁壁に明記されておりました。





楊生城古館(一関市弥栄字沼畑)

比高差は約60メートル程度とそれほど大したことはないのですが、登攀ルートは不詳でこちらも新館と国道脇から幾度が遠望しただけで、その藪の酷さが伝わってきたことなどからその踏査を断念し遠景の撮影で済ませてしまうことになりました。



 
 
本日もまた日没までの時刻には未だ余裕が見られたものの、要再訪箇所ばかりが蓄積しつつも、空模様の変化が激しく11日の降雪と強風がトラウマとなっているようで、本日も早々と店じまいに。
こうして4日目の一関市もほぼ未消化に終始してしまい、モチベーション維持の難しさに直面しつつなかば悶々としながら、今日の夕食は吸い寄せられるようにして「南部屋敷」のうな重に (^_^;)

岩手に来てからとはいうもの、くるくると変化する明日の天候は全く先が見通せず、一関市内に4日間も滞在している割に訪れた場所は遠景撮影を含めても20か所ばかりという経過に、この日もまた約20キロメートルを歩き通し、もう一度一関市内を探訪するか或いは奥州市方面へと足を伸ばすかと悩みながらやがて深い眠りにつきました。

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