大坂城での思い出のひとつには、やはりネコさんとの出会いが。
大坂城内にはホームレス関係の方と同じくらいの数のネコさんたちが居住。
西の丸方面のネコさんには一方的に嫌われる破目に。
水面から25mほどの高さの石垣の端を全速力で疾走。
通常泳げないネコさんにとってはまさに命がけの逃亡かと。
けれども、石山本願寺の推定地では人懐こい子ネコとベンチの上でしばし歓談。
一緒にお座りをして大坂城の遺構についてについてあつく語り合う..はずはなく。
手持ちの僅かばかりのスポーツドリンクを掌の上で舐めてもらいました。
西の丸に2時間以上も滞在していたためにそろそろ先を急がねば..
ネコさんの方も少しばかり名残惜しそうな表情で見送ってくれたのでありました。
ENTERキーによる改行を行うと、「<P> </P>」が勝手に挿入され2行改行されてしまうのであります。
レンタル元で仕様変更したのか、「高性能エディタ」を使用したからなのかは原因不明。
その度に<BR>を打ち込むのも面倒で、変更できる設定項目を探して3日目にして漸く解決。
10日ほど前からからスタイルシートの表示が部分的におかしくなりはじめ。
調べてみるといつの間にかHTML仕様からXHTML仕様へと変わっておりましたがな。
すったもんだしながらも、メモ代わりの大阪遠征ブログもやっと打込み終了。
HPの更新ができるのは間違いなく来年かと。
本日は同好の士4名(S氏、H氏、G氏、某)にて、比企郡滑川町南部を中心に「城館まがい」もふくめた誠に地味な悉皆調査を敢行。
先日までの寒波が嘘のように風もなく穏やかな日和に恵まれましてございまする。
羽尾村の鎮守にて村社である羽尾神社社殿背後の尾根筋を掘削したと推定される堀切状地形が所在。
小字堀ノ内との地名が残るtが地元に伝わる口碑を除いてその経緯は委細不祥。
武州松山城攻防時に後北条氏に加勢した武田勢の戦火により焼失したと伝わる中世寺院跡。
篠竹の藪のなかに土塁らしき地形が残存するもデジカメ撮影は困難にて候。
さてここで、不肖某めが伐採された樹木が散乱する足元を表題通りに踏み破りましてございます。
右足の膝上まで陥没いたしましたが、幸い儀一殿のご助勢により事なきを得ましてございます。
福厳寺と尾根続きの丘陵。
謎に包まれた桝形状の窪地、尾根筋に平行した溝跡など不詳の地形が所在する市野川北岸の独立丘陵。
社殿の削平地斜面の切岸状地形と神社鳥居右側の不詳の溝跡が所在する市野川北岸の独立丘陵。
樹木の生育が切岸、腰郭状地形を覆い隠す現況。
城館名称は知られていても、予備知識が無ければ些か分かりにくい遺構。
このためテンションは幾分低下気味に。
旗本岡部氏の陣屋跡と伝わる丘陵の鞍部を背にした曹洞宗寺院の境内。
近世中期と思われる四天王の彫像と山門は町指定文化財。
凸その裏山の桑畑(比企郡滑川町)午前10時05分から10時20分
以前は桑畑と推定される丘陵鞍部の魅力的な造成地形。
90%以上は桑畑の造成に伴うものかと。
この謎めいた地形を目の当たりに参加者の低下気味のテンションが僅かばかり上昇。
あらためてあの規模の土木工事が何時どの様な形で行われたものかとの疑問が。
小字「郭」との地名が。
謎の石積み、2段構えの切岸状地形が所在。
小規模な「村の城」という印象をあらためて感じる次第。
テンションは下がってはいない模様にて一安心。
凸陣馬沼(比企郡滑川町)午前11時20分から午前11時35分
三門館などに関連した地名と推定。
V字型の里道と竹林内の折れ曲がる溝状地形が所在するも確証不足は否めず。
テンションは上がりもせず下がりもせずかと。
神社の参道という見解も。
やはり城館跡であって欲しい堀跡状地形は今も健在。
周辺の眺望を確認し、昼食を摂るためにプチハイキング。
食事をするには格好の天候。
しかし、眺望を期待するには南風は不向きにございました。
ムラサクシキブの実
旗本酒井重勝の陣屋跡と伝わる寺院。
現在も酒井氏歴代の墓が現存。
呼びかけ人の怠慢により、危うく飛ばしそうになった城館跡にございますが、相変わらずダイナミックな空堀跡が竹林の中にひっそりと佇んでおりました。
全員のテンションは明らかに上昇気味。
これも古い文化財の案内道標のお蔭にて、地元の篤志家の方々に深謝。
泉福寺館の堀跡
埼玉における「村の城」の典型事例として捉えられている感のある民家の裏山。
関越インター建設により消失したと思われる側道に変貌した堀切跡が恨めしく候。
山城探訪の季節にて、多少は確実に遺構が存在する城館跡も訪れねば申し訳が..
予想通り手ごわいお犬様がおいでになりました。
しかし飼い主の方の温かいご配慮により無事に通過することに成功。
お犬様は吠えすぎで声が嗄れ果てた模様にございました。
西郭方面の草木の繁殖が以前よりも目立った以外は予想よりも遺構の確認は容易。
某も3度目の訪城により、主郭東側の土塁跡を有する腰郭乃至帯郭状地形も確認でき誠に再訪した甲斐がございました。
高谷砦堀切
東側腰郭乃至帯郭
概ね予定通りの時刻に一応無事に下山完了にございます。
ご一同の皆様方には、たいへんお疲れ様にございました。
鋭意調査中
訪れた個所はあわせて15か所。
内訳は正統派中世城館跡6か所、近世陣屋跡推定地2ヶ所、城館紛い5か所、中世寺院跡1か所、展望台1か所のおまけ付き。
紅葉見物がてらの城館紛い散策という目論見につきましては、先日来の寒波にもかかわらず時期尚早にございました。
不肖の案内人の故、皆様平にご容赦を m(__)m
なお、大坂城周辺の彷徨のためつぶれたマメは、今や完全に角質化の一途を辿り万全の備えを確立。
⇒本日の史進殿のブログをご覧ください。
⇒本日の儀一殿のブログをご覧ください。
城と名のつく所へくると俄かにスイッチが切り替わることを諦観してくれた家内に感謝。
このため、朝食後はそれぞれバラバラに単独行動。
家内との待ち合わせはJR新大阪駅。
タイムリミットは午後1時43分発の座席指定のひかり34号。
本日の行動時間を当てはめれば、遅くとも午後1時頃にはJR大阪駅必着。
前日の綿密なる行動計画に従い通勤時間帯のJR環状線にて玉造方面へ。
目的地は昨日は日没コールドとなってしまった真田山方面。
と、ここでふと思い出したことが。
昨日訪れた玉造稲荷神社では、「玉造」の地名は「勾玉」に由来するものであることを初めて認識。
「長堀通」「空堀町」「真田丸出城」「大阪冬の陣」「真田幸村」とくれば、てっきり「火縄銃の鉄砲玉を製造していたことに因むもの」などと、修学旅行の生徒でも間違えそうもない全くとんでもない誤解をしていたことに気がついて..(大汗)
事前の準備が全くなかったとはいえ、末代までの恥、正に汗顔の至りに御座候。
凸真田丸出城(大阪市中央区)午前9時から午前10時
玉造駅から徒歩で反時計回りに長堀通を西へ進み、空堀町交差点を南下。
ここであらためて周囲の地形を見まわすと、思いのほか坂が目立つ起伏の多い地形。
然も完全に市街地のど真ん中。
これでは他所者の素人に真田丸出城の位置などをあれこれと推定できるはずもなく。
推定地は一般には、円珠庵の北方もしくは北東の高台などの情報が。
何れにしてもいったん下った坂を再び上り南西の円珠庵へ。
思ったよりも小さな堂宇であることにやや困惑していると、ちょうど散歩に訪れていたご年配のご婦人から以前はもっと大きな境内地であった旨のお話を伺うことに。
このあと明星学園から真田山小学校、宰相山公園、三光神社へと向い再び真田幸村の銅像前に。
しかし、朝の日差しは銅像にまだら模様の陰影を投影。
このため銅像の画像そのものは日没時の方がよっぽどマシという結果に。
かくして右足のつぶれたマメが余計に疼き始めるのでありました。
市街地化が進み現状地形のみから判断するのは最早困難なほど見通しが利かず。
それでも当時は笹山と呼ばれた出城の位置については、概ね明星学園、真田山小学校、宰相山公園・三光神社付近一帯であることはほぼ間違いが無さそうに思えるのでありました。
比定地の目安に引用される「円珠庵」
-2007/11/20 撮影 以下同様- |
六大院(南側堀跡説も)
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宰相山墓地の盛土
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宰相山公園の「真田の抜穴」
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凸岡山砦(御勝山)(大阪市生野区)午前10時30分から午前10時50分
大阪夏の陣で徳川秀忠が布陣したとされる前方後円墳とのこと。
古墳としての遺構が残存する円墳部分は樹木が叢生するとともにフェンスに囲まれた状態。
このため、近代に使用された農学校跡地の石碑が墳丘の中腹に設置されていることを確認したのみ。
石碑の後側がちょうど家庭ごみステーションのため資源ごみとともに記念撮影などを。
勝山通の歩道橋から観察するのが宜しいようで、無論地表の観察など出来る術もなく。
現在は公園となっている方墳部分との間には「勝山通」が東西方向に走り遺構を分断。
古代史の視点から見れば二重の遺跡破壊の跡ともいえなくもないような。
また大阪はホームレスの方が多いとは聞き及んでいたものの、こちらでも男女各1名の関係者が新聞紙、アルミ缶などを自主回収されておりました。
すぐ西側には生野区役所が所在。
トイレを借りるついでに無くて元々と思い玄関を入ると、向かって左側のコーナーに御勝山古墳の発掘関係資料が常設。
歴史関係の冊子等も展示されていることから、総合受付で関係資料頒布の有無を尋ねることに。
ここで無償のA4版古墳の解説資料の入手に成功。
しかし、御勝山に関する地名の由来が記されているのみで、残念ながら関係個所は僅かに50文字でございました。
凸大塚城(茶臼山)(大阪市天王寺区)午前11時20分から午前11時50分
予定通り生野区区役所前からタクシーで茶臼山のある天王寺方面へ移動。
しかしタクシーが天王寺公園への道が分からず、大阪3日目の某が道案内をする破目に。
比較的著名な場所なので大阪市内が地理不案内とも思えず不思議な体験を。
天王寺公園は西側が動物園、東側が美術館と公園に。
勿論徳川家康の本陣が置かれたとされる茶臼山の所在する東側の公園へ。
茶臼山古墳への園内の道沿いの芝生に気持ちよさそうに日光浴の最中のネコさん発見。
大阪城でも人懐こい子ネコと戯れてきたのですが、こちらのネコさんは筋金入りの人間好きらしく。
しばらくナデナデをさせてもらった後、道を急ごうとすると後ろからからノコノコとついてくるのであります。
よほど暇だったか、気に入られたのかは不明ですが、これほど懐いてくれたのは2年近く前の秩父の田村氏館以来かと。
しばし別れを惜しみつつ和気清麻呂の伝承を残す大きな川底池の橋を渡り茶臼山へ。
前方後円墳らしき古墳である以外には格別の地形的な特徴はなく。
円墳部分の広さは直径にして約25mほどの規模。
比高差は一番少ない北側で12mほどかと。
樹木が元気に繁殖しているため大坂城方面の現在の見通しは限りなくゼロ。
帰り際の美術館前からは、往路には全く気付かなかった大阪名物の通天閣が間近に見えたのでありました。
凸天王寺砦(大阪市天王寺区)午前12時20分から12時30分
四天王寺一角は有名な観光スポット。
しかし当方はその北西に所在する天王寺砦跡と推定されている月江寺が目標。
大阪の寺院は一般に派手なつくりが多いなかで、天王寺区の区民センター北側に隠れるようにして所在。
その700坪ほどのこじんまりとした境内は落ち着いた佇まいを見せておりました。
西側は台地の辺縁部にあたるため緩やかな坂を形成していること以外には砦跡の名残は見ることができませんでした。
不精ひげをはやし、マメがつぶれた右足、膝が棒のようになった両足にてヨタヨタと大阪の町を歩く姿はデジカメを所持していないと誤解されかねない風体。
その後JR大阪駅で車両故障が発生するトラブルが起きたものの、新幹線の発車時間の30分前には無事到着。
かくして、3日間で当初の予定通り合計10か所の訪城に成功。
これだけ歩いて痛みが起きないということは、膝の具合については夏頃に比べると確実に回復している模様。
3か月ほど杖を手放せなかったことを思えば、これも今回の大きな成果のひとつであることは間違いなく。