本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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神流川沿いの戦国期中世城郭を巡る戦い。
この辺の歴史的経緯に関する基本的理解が全面的に不足していることを痛切に感じる昨今。
このため臆面もなく泥縄式俄勉強の真最中にございまする。
こうした無理解が、しばらく金鑽御嶽城を敬遠していた理由の一端でもありまする

そうしたなか関東管領上杉憲政失脚の契機となったとされる天文21年(1552)2月の金鑚御嶽城の攻防の話題。
通説(俗説の要素もあるような)では山内上杉氏支配下の安保全隆父子が数千の兵で立籠もり、これを後北条氏側が数千騎の大軍で攻め寄せて城兵数千人を討取ったとされています。

基本的な疑問として、まず挙げられるのは双方の兵力数。
とりわけ安保氏側の兵力の総数。
根小屋である麓の城下を含めたとしても、まず数千人が起居できる広さを有してはいないこと。
現実に狭小な尾根筋を利用した山城である御嶽城に籠れる兵力は、谷筋に展開する平場を利用したとして多くとも数百人程度が限度であると考えられます。
数千人が討死を遂げたとの部分については「太平記」のようなものと理解すれば片付けることもできますが、数千人という兵力については、半ば当時の上野国全体の動員兵力に相当する規模に符合するものと推定されます。

この通説の根拠の一つに、後に身延山第15世となる日蓮宗の僧侶日叙の「仁王経科註見聞私奥書」(身延文庫蔵)という史料が存在しています。
これによりますと、この写本の奥書に記された内容は上野に居住していたとはいえ、基本的には戦火を避けた「疎開先での伝聞」に基づくものであるという性格を有しているものと考えられます。

次に数の多いさまを表現する場合に、「数千」という比喩的な表現を多用しているという特徴が窺えます。
具体的には僅か六百字ほどの奥書の文中で、「北条氏康が数千騎を率いて攻め入った」、「数千人の城兵は一人残らず討死を遂げた」、「雑兵もまた数千人が水の手を切られて渇死した」、「戦火を避けて数千人が利根川の中州に避難した」などとの記述が頻出していることから、どうやら「数千」という数値が具体的数字を示す表現ではないものと考えて差し支えないように思われるのであります。

さらに「金讃山が戦火のため一宇もの残さず灰燼に帰した」という旨の記述があります。
この点については現在国の重要文化財に指定されている金讃神社多宝塔建立時期は天文三年(1534)とされていることから、些か歴史的事実とは齟齬をきたすと考えられる記述も含まれているようです。
何れにいたしましても、この史料を引用する場合には、こうした以上の諸点に留意する必要があるものと考えられます。

また後に武田信玄が西上州に侵攻し御嶽城をもその手中に収めた時に認めた、「甲斐・信濃の人数、千余りを城番として在城させた」という旨の太田資正宛の書状が存在しています。(「太田文書」)
しかし、「某町史」等では以上のような数値をそのまま引用するだけではなく、「甲斐・信濃の人、数千余り」と解釈しているとしか思えない旨の記述があり、泥縄俄勉強の身としてはこの結果的にますます頭が混乱してくるのでありました。

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昨年末からようやく群馬へと進出。
行先は未だ藤岡、吉井方面のみ。
それでも数えてみると、すでに累計で32か所。
ところが更新の方は、これがなかなかにして捗らず。

昨日は以前入手しておいた「北武蔵・西上州の秘史」(川鍋 巌 著/上毛新聞社)を拾い読み。
付箋を貼ってメモなどを記入しているうちとうとう夜明に。
血と汗の結晶ともいうべき大作には違いなく。
しかしある程度の予備知識がないと読み進めないという深刻な問題も。
その予備知識があるかといえば、実際のところは誠に寂しい限りで。

要するに神流川左岸の三ツ山城、浄法寺城、保美の砦、芦田川屋敷などを巡る14世紀から16世紀にかけての地域支配の歴史的状況がまったく頭に入らず。
当然のことながら、金鑚御嶽城、長井氏、安保氏なども大きな関わりがある訳で。
しばらくは頭の中が混乱を続けておりまする。

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早朝に新聞を取りに玄関へ出ると何故かアスファルトの路面が濡れておりました。
昨夜から今朝方にかけて雨音の気配には全く気付かず。
おかしなこともあるものだと思いつつ、ふと傍らの地面に視線を移動。
霜ではない何やら白いものがうっすらと。
よく見れば積雪量は限りなくゼロに近い初雪。

とはいえ西方は雲がなく、日中の晴天を期待できる空模様。
目覚ましは一応6時前にセット。
しかし適度に温かい布団の中で少しずつ目的地を削減。
余りの心地よさについつい惰眠を貪ってしまったのでありまする。
かくて午前7時過ぎに漸く第6次上野厭世遠征に出発--辞書機能不具合のためか、何故か「厭世」に変換されるのであります。

黒熊中城 (群馬県吉井町 以下同)午前9時50分~10時50分
舌状台地の先端部分に所在。
資料によれば延命寺境内が主郭で、南側の内出と呼ばれる個所が二の郭に相当する模様。
歴史を感じさせる宝篋印塔や五輪塔が所在する墓地脇の竹林。
何かありそうにも思えたのですが、ごく普通の斜面でこれといって格別の成果はなく。
堀跡は西側の谷川を利用しており非常に分かりやすい地形。
このほか段差の目立つ地形がそこかしこに所在するものの、そのままそのすべてを城館遺構と断定するには幾分躊躇するのでありました。
後世の宅地化や開墾の影響を無視できないような印象が感じられるのであります。

黒熊中城
黒熊中城

遺構の方はさて置き、両郭を分断する道路の突き当りの場所に面白いものを発見。
ブロック塀に描かれてた交通安全キャラクターたち。
「ピーナツのピー子ちゃん」「タマネギのとんぺいクン」「カボチャのおとっつぁん」「キャベツのおっかさん」「トウモロコシのぺろりん村長さん」「クルミのくる子ちゃん」「クルミの頑固じいさん」などなど「チロリン村とくるみの木」のオールスターキャスト。
♪♪らんらんチロリン野菜村♪♪
その描かれたキャラクターの色褪せ加減と相俟って誠に郷愁をそそるのでありました。

チロリン村
チロリン村


奥浅間の砦 午前10時55分~11時40分
上信越道脇に所在する浅間神社の数か所の平場は、確かに如何にも曰くありげな雰囲気を漂わせております。
またこの奥に所在する入野碑が建立されている比高差50mほどの見晴らしの良い尾根筋も山頂の削平と切岸の印象が濃厚。

そして、資料によればさらにその奥の奥浅間山とも呼ばれているゴルフ場の中に所在する小山は物見、狼煙台との可能性を指摘されていまるひときわ目立つ地形。
しかし事前の予想通り、この奥浅間山へ向かうにはどうしてもゴルフ場の中を通過せねばならず。
加えて50m下って再び50m登り、帰りにまたこれを繰り返さねばならず。
左膝の状態を考慮してあっさりと尾根筋から眺めるだけに止めることといたしました。

奥浅間の砦群
奥浅間の砦

吉井町の資料では黒熊中城と一体の遺構として捉えていますが、直線距離にして600m以上も離れていることから一応別の遺構群として取り扱うこととした次第。
折から植林された早咲きのロウバイの幼木が見ごろになっておりました。
しかしこのあとで文字通り「周章狼狽」する羽目に陥ったのでありまする。

ロウバイ
ロウバイ



小串城 午後1時10分~1時55分
ボケるにはまだ早すぎる年齢でありますが、久しぶりに見当識を完全に喪失。
早い話が現在自分のいる場所が何処なのか分からなくなったのでありまする。
付近に住家などは皆無。
勿論台地上に目印になるようなものも皆無。

耕地整理のため、これといって特徴のない細い農道が東西南北に幾本も所在。
方角自体は概ね合ってはいるものの、高圧線の鉄塔の位置などからどうも地形が資料とは明らかに違うような印象。
適当に見当をつけて鏑川沿いの舌状台地先端を目指したのが拙かった様で。
国道254線の位置が異なり、眼下に見えるはずの入野小学校の建物が全く見えず。

止むを得ず一度国道に出てから、ひとつずつ交差点名を確認しながら西へと進むことに。
結果はなんと1kmも東側の台地の辺りを彷徨していたのでありました(大汗)
おまけに肝心の国道が道路工事により片側通行止めの大渋滞。
何のかんので90分ほどのロスタイムが発生。

国道から向かったルートは一発で目的地に到着し、殆んど失いかけた見当識を取り戻すことに成功。
取り立てて目立った遺構は存在しないものの、資料の縄張り図通りの曲がりくねった道路が現存。
搦め手のルートは上方の郭からはものの見事に横矢がかかるように布設。
また、この台地からは奥浅間山方面もよく見渡すことができることを再確認。

小串城
小串城

このあとは先ほどまでのもたつきがjまるで嘘のようにまさに山勘大当たり連発となり、どうにか5か所の制覇を達成したのでありまする。
上記の画像はシイタケ栽培の原木の山越の榛名山の威容。
この日は日差しはあるものの、常に上州名物の北西風が5mから6mほど吹きすさぶという天候。
このため時々こうした風避けの陰で資料にメモなどをしておりました。


峯山城 午後2時20分~2時45分
大武神社が目印なので所在地自体はまず間違えようもなく。
神社の入口近くに駐車して徒歩にて台地の先端部へ。
現状は豚舎を含む施設が一面に立ち並び、遺構と呼べそうなのは東側の堀跡らしき窪地と西側の笹曲輪と呼ばれる尾根筋付近のみという印象。
このため撮影させていただくアングルに苦慮することに。
とうにか城跡としての地形の特徴を反映しているのが下記の小口付近とされる辺りかと。 

峯山城
峯山城


多胡下城 午後3時10分~4時00分
上信越道の南側に所在する、とくに目印がないこの場所も何故か一発で到着。
四駆の軽なのでおそらく山頂まで行けそうな気配も。
山頂が削平された独立峰であるにもかかわらず、遠方からは見分けがつきにくい立地条件。
真北に聳える榛名山、時々雪雲に隠れる赤城山、中腹より上が冠雪している浅間山と上州の名山を眺めるには相応しい地形。
しかし肝心の遺構の方は地面の確認ができないほどに篠竹が密生。

多胡下城
多胡下城


尤も資料によれば方形の単郭の周囲を取り巻く堀跡は消滅しているとの記述が。
おそらくは桑畑の開墾の際に削平されたものと考えられます。
それでも北辺の西側には帯郭状の地形と郭状の削平地が所在。
しかし、これとても予め資料がなければただの山道と幅の広い平坦な尾根筋にも見えるのでありました。


本日も往復所要時間は軽く5時間以上。
以前ならば、眠気と腰痛のためせいぜい往復3時間くらいまでが限度だった時も。
ところが慣れというのは不思議なもので。
ある程度連続して出かけていると、復路の運転が全く苦にならなくなってきたような。

北西の風がやや強めで、体感温度は摂氏0度くらいかと。
暑さに弱い性質なのでこのくらいの寒さは呼吸も楽なので大歓迎。
しかし、やはり左膝の状態は万全とはいえず。
テーピングと三重サポーターで、どうにかもったような次第。
心肺機能のテストを兼ねて緩やかな山道を50歩ほどジョギング。
しかしあっという間にヘロヘロになるという情けなさ。

そうはいっても天候と体調次第では今月中あと1日くらいは出かけよう、などと早速資料整理などの算段にとりかかるのでありました。

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本日は成人式の写真係を拝命。
着付けが済むのはお昼頃。
このため絶好の訪城日和であるにも拘らず自宅待機、軟禁状態、閉門蟄居。

成人式



20年というのは長いようで案外短かったようにも。
このくらいメイクが濃いと、外ですれ違っても多分気がつかないのでありまする。

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今朝車で出勤するときのこと。
住宅内の道をスーツケースを転がしながらこちらに向かって歩いてくる女性に遭遇。
ニコニコしているものの些か派手な感じの若い女性。
よく見ると、どうやらこちらに向かって手を振っている様子。
妙なこともあるものだと軽く会釈をしながら更に接近すると、何のことはない我が娘なのでありました。

そういえば成人式のため帰宅するというようなことを聞いたような覚えもあったような。
たまたま昨年の2月に貰ったとうに賞味期限切れのチョコを漸く昨日食したばかり。
現在は大阪に一人住まいのため、今年の分はどうなるか先行き不透明。

可愛い盛りはあっという間に経過。
今や娘は成人式を迎え、こちらはボチボチ還暦を迎える年代に。
相当に打たれ強くプラス思考が取柄な性格は誰に似たのだろうか。
行く末まで見届けることはできないけれども、まあ何とか生きていけることだけは間違いなさそう。

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