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代わって「タチアオイ」が猛追を開始。
本日23時45分現在で、「紫陽花4229件」に対して「タチアオイ2262件」。
未だダブルスコアの開きがあるものの、この一週間では「紫陽花165件」に対して「タチアオイ243件」と逆転を。
この結果本日の段階で「タチアオイ」は単独4位に急浮上し、紫陽花、槿、向日葵というビッグスリーを脅かす存在に変貌する可能性も。
共に梅雨時が花の盛りで、梅雨明けと共に花期は終焉を迎えまする。
「タチアオイ」が追い付くとは思えないものの、この間の活躍は誠に殊勝なる忠勤ぶり。
所領、名品などは無縁、加えて手元不如意故、せめて感状などを下賜せねば(笑)
さらに福島遠征を実施し900枚以上の画像整理と、メモ代わりのブログ作成に丸々1週間。
このため、ものの見事に更新の手順を忘却。
またどうにか更新したところ画像に問題が発生...
という次第で様々な紆余曲折を経て最初となる福島の城館を更新。
なるべく全国的には無名で、かつ遺構状態の良い戦国期ものを選んだつもりにて。
試しにGoogle検索では僅かに11件。
うち画像付のものは2件。
尤もそのうちの1件は、G氏の画像掲示板へ某が書き込んだものでありました(笑)
恐らくこの「越久館」の城館名で検索をする方は、まずいそうにも無い記念すべき第一号なのであります。
凸郡山城 福島県郡山市 午前8時30分から8時50分
事前に所在地情報等を「城郭図鑑」さんのHPより入手させていただいておりました。
しかし市街地内であるということ、交通事情と道路事情等が不明のため、念のため宿泊したビジネスホテルから片道約2キロほどの距離を徒歩にてアプローチ。
現地には案内板のようなものは見られないものの、城跡は桜木町1丁目の台地を中心とした地域に相当する模様。
もとよりその現状からは明確な遺構等を確認できるような状態には非ず。
また中心部は宅地分譲予定地の看板が立てられ、造成工事そのものは開始されてはいないもののすでに大きく地形が改変されている様子も。
城跡の名残りについて強いて挙げるとするならば、最大比高差8メートルほどの台地北縁部と東側の細長い都市公園に面した辺りに何処と無く面影が残されているようにも。
現状では多少の起伏を伴う地形とはいえ、僅か往復4キロ強の道程さえも時速約4キロ前後という情けなさ。
3日目とはいえども、この歩行速度の著しい低下現象に確実に体力の衰えを痛感して暫し呆然。
帰路に地元の地酒と土産物を購入して取敢えず所期の任務を達成。
凸三春城 福島県三春町 午前11時45分から午後1時30分
始めに入館料350円を支払い町立歴史民俗資料館に立寄り情報と資料の収集を。
やはりある程度の規模の城館跡は縄張図などの基礎資料は不可欠。
町史関係がディスカウントされ1冊1800円という格安さ。
このため古書サイトよりも遥かに安い価格で新品を入手。
ここで資料館の方に頼み込んで事務からの三春城の全景を撮影。
城郭関係書籍掲載の全景画像は概ねこの位置からのもののようでありました。
さて肝心の城跡遺構。
石垣関係は部分的に残存していることを確認。
主郭、二の郭への搦手口?脇と主郭東側辺縁部に顕著に残存しておりました。
復興?された櫓台の石垣は何処と無く不全な感じも拭えず、少なからず周囲の景観にそぐわない様な印象も。
寧ろ主郭東側の出郭周辺の帯郭、腰郭、切岸などの方が印象に残ることに。
この周辺に時間をかけすぎたため、主郭大手口付近、東館方面を確認する時間的余裕が完全消滅(汗)
この後の予定時間を考慮するとこれ以上の長居はできそうもなく、また季節柄樹木の繁殖も盛んなため再訪することを心に刻みつけ次の目的地へと移動。
観光シーズンと重なる可能性が懸念されるものの、竪堀遺構などの確認ならば10月下旬頃の再訪も一考に価するやも知れず。
凸御祭館 福島県三春町 午後2時05分から午後2時10分
予備知識は三春町公式HPのみ。
小浜城へ向かう県道沿いに所在する大内氏に対する三春城主田村氏最後の防衛拠点とのこと。
その割にはこじんまりとした比高差30m、南北方向150mほどの独立小丘陵。
無論余り時間も無いことから、あくまでも所在地確認が主目的。
とはいえ100%この場所であるかどうかは不明のまま。
一応北側には堀切ないしは構堀遺構があるとのこと。
しかし丘陵全体を覆う樹木の生育状況から見る限りこの時期の確認は困難と勝手に判断。
凸七草木館 福島県三春町 午後2時20分から2時25分
こちらも同様に所在地確認のみ。
比高差約35mとはいえ東西方向約300mと丘陵自体の規模は遥かに大きく、その分この時期の探索の困難さが一層明瞭に。
他に候補地となる地形が周囲に確認できないことから、所在地そのものについては概ね一致しているものと推定。
御祭館と同様に「田村48館」のひとつとされ、季節と時間を恨めしく思いつつも次の目的地へ移動。
凸宮森城 福島県二本松市 午後2時45分から2時55分
現地へと赴いたところ、事前に当りを付けておいた推定地はものの見事なまでの的外れに。
てっきり県道40号線の西側と思い込んでおりましたが実は県道の東側で。
よく見れば現地にはしっかりと案内板まで立てられておりました(苦笑)
さらにあらためて地形図を確認すれば、麓を北流する小浜川を天然の水堀とすることができるのは東側の丘陵しか無い訳で。
しかし往還を扼するには比高差は同程度としても西側丘陵の方が20メートル近く標高も高く...くどくど、くどくど
凸小浜城 福島県二本松市 午後3時00分から午後3時30分
旧岩代町役場北側の丘陵に所在。
主郭南部に蒲生氏時代の石垣が部分的に残存。
主郭部分は児童公園として整備。
とはいえ三春城の児童公園と同様に麓の集落からの比高差60mの公園内には人影は皆無。
石垣以外には主郭東側切岸ラインが見所かと。
その折の付けられた形状、傾斜角度の組合せが誠に見事な城郭遺構として残存しておりました。
整備に伴う補助金がらみかも知れませぬが、比高差60mの山上の児童公園は三春城と同様に如何なものかとも思うのでありました。
凸二本松城 福島県二本松市 午後5時00分から午後7時00分
縄張図などの基礎的資料を持ち合わせないことから、始めに市役所へ向い関係課にて資料と情報を収集。
次に市立資料館へと赴き市史関係資料を入手。
この際教育委員会の方にわざわさ資料館までの道をご案内いただき感激を。
さて、まず途中で見つけた高台墓地からの遠景撮影ポイントへ移動し超望遠画像を撮影。
再び資料館方向へと戻り、ひと山超えて麓の駐車場へと到着。
三脚付デジカメを担いで復元?された箕輪門と二重櫓の個所から見学開始。
既に午後5時を過ぎていることから有名な観光スポットとはいえども人影はまばらというよりも殆ど見当たらず
ここから頂上までは比高差にして約100mほどの距離。
遊歩道の整備された登り道は、薮蚊と蒸し暑さを除けば快適そのものの環境。
めっきり衰えた管理人の足で、のんびり歩いても僅か20分足らずで整備された山頂の本丸へと到着。
山上からの眺望は予想通り良好の一言。
復興本丸天守台跡にて、本日6本目となる500ml入りの飲料水で水分補給。
勿論当人以外は全くの無人で、時折吹き抜ける風はまさに一服の清涼剤。
このようにして思惑通りに二本松城本丸を独り占めし、贅沢かつ至福のひと時を過ごすことに。
折りしも安達太良山に夕日が沈みかけ、「♪♪東京の空~ 灰色のそおら~」と倍賞千恵子の歌が脳裏をよぎり暫くの間リフレインを繰り返し続け。
このあと城内の搦手口、二本松少年隊の碑、千恵子抄の碑など幾つかの史跡・名所を回り麓の駐車場へ戻ったのが午後7時ちょうど。
無論残念ながら見落とした個所も幾つか。
しかし夏至前の晴天でなければとても行動不可能な時間帯なのでまずまずの締めくくりと考えることに。
そういえば、こちらの麓にも何故か唐突に児童公園が所在。
なお戊辰戦争での解説板等には新政府軍の呼称は官軍、征討軍とは呼ばずに「西軍」との表記が目立ちました。
考えれば未だ140年ほど以前の出来事故に、未だにある種の拘りがあっても然るべきかと納得を。
3日間の訪城で合計22か所(⇒うち麓から眺めただけが7か所も)+史跡1か所(⇒偶然の産物)を回ることにどうにか成功。
全く初めて訪れたにしては我ながら上出来の部類かとも。
なお、本日の食物摂取関係はビジネスホテルのサービス朝食のお握り一個+味噌汁一杯のみ(苦笑)
この日も腹具合が余り思わしくなく、昼食抜きで行動していたので高速SAにて夕食を予定。
しかし、午後9時を過ぎると自販機のみの営業に。
かくして2食抜きのまま午後11時半に自宅へと無事到着。
往復および移動を含めて合計700キロメートルの走行。
平日夜間の東北自動車道は渋滞とは無縁。
このため平均時速100キロメートルで走行することも可能。
しかし夜間は極端に動体視力が低下する体質のため、時速80キロで大型トラックのあとをトコトコと走行していたのでありました。
凸須賀川城 福島県須賀川市 午前8時から午前8時30分
近世の絵図などによれば、須賀川市内の市役所北側400mほどの地点に所在する二階堂神社付近が主郭跡と推定されている模様。
現地には城跡であることを示す解説版も設置され、かつ社殿には高さ2mほどの段築が施されていることからかつての城跡の残滓なのかも知れず。
しかしこれを除くと現状の地形からは市役所方面と比べ全体として比高差3mほどの微高地を形成していることがわかる程度。
主郭部分から見て東側の方も幾分微高地となっているのでかつての郭跡であるようにも思えるのであります。
何れにしても市街地のど真ん中に所在していることから、それ以上の収穫は見込まれそうにもなく。
凸越久館 福島県須賀川市 午前8時50分から10時20分
30年近く以前に刊行された「日本城郭大系」によれば小丘陵上の竹林に状態の良い遺構が所在するとの記述が。
とはいえ大分昔の調査であることと6月中旬という季節を勘案すれば、ここはひとつ所在地の確認程度で誤魔化そうなどとも。
そうはいっても寺院(無住)と神社付近だけでも確認しておこうと、取敢えず寺院の石段をヨタヨタと上へ。
確かに寺院境内なので削平されて平場には相違なく。
次に西側の一段高い神明社の平場へと移動...このとき何時もの如く右足首に激痛が。
このためやむを得ず横歩きの要領にて僅かばかりの斜面を恐る恐る登り、さらにもう一段上の物見台跡とされる平場へとどうにか移動することに成功。
前掲著によれば、この場所が最高地点との記述。
しかし、どう見ても南西側の郭の方が明らかに高いという印象が濃厚。
さらにその間には上幅10mから15m、深さ最大7mはあろうかという空堀も樹木の間から垣間見え明らかにテンションが上昇傾向に。
比高差20m足らずの小丘陵ということもあり、この際足回りのことは気にせずに薮蚊・蜘蛛の巣を払いつつ竹木が叢生する空堀跡を前進。
けれども前進を阻む倒木類を跨ぐという動作は、実に膝と足首に負担を強いるものなのでありまする。
搦手と思われる郭の切岸部分は最大8mにも及ぶ個所も所在し正に見上げるような高さ。
竹藪が濃密なため確認できない部分が多いものの、戦国期の城館跡としては驚くほどに遺構状態が良好であることに率直に感動を。
ただし前掲著の縄張図は近世の村絵図のごとく余りにも簡略で、位置関係も余り正確ではないよう模様。
冬季に再訪できる機会があれば是非とも再確認したい城館跡なのでありました。
凸下宿御所館 福島県須賀川市 午前10時50分から12時頃まで
「日本城郭大系」によれば、岩瀬氏との関わりが想定されるものの歴史的な背景は不明とのこと。
越久館同様に全く期待しない城館ではありましたが、時間をかけて執拗に捜索した甲斐があったのでありました。
見どころは平場ないし郭西側の大がかりな二重の土塁と堀跡。
特に内側の土塁の高さは最大8mに及ぶ個所も。
堀幅も上面で10mから15mはあろうかという規模。
なお残念ながら西端の空堀跡は宅地化などにより概ね消失したものと思われます。
また西側と南側については、この時期に安易に踏み込めるような状態からは程遠く。
2の郭とされる平場には伐採による切株が各所に点在。
北側にカーブした内側の土塁には近年削平された跡も生々しく。
この切株に腰を下ろし、近くのコンビニで購入したサンドイッチにて昼食。
尤もこの場所にたどり着くまでには、情けないことに二度も場所を間違えた上に斜面で転倒し完全に横倒しに。
それでも光量不足対策用の三脚付装備のデジカメだけはしっかりと支えておりました。
幸い体の方も左側面が斜面と平行になっただけで打撲などの症状もなく皆無。
この上体の頑丈さを足周りに分与できぬものかと思った次第なのであります。
凸星ヶ城 福島県郡山市 午後1時から1時20分
坂上田村麻呂が築いた?と伝わり、戦国期には二階堂氏に関連する城館跡とされている模様。
比定地に関する情報の入手が全く不足。
このためとりあえずは、御代田小学校北西に所在する菅布禰神社の丘陵を含む一帯と推定することに。
一応は社殿の北側を中心に切岸状地形が確認できるものの無論確信などは全く無いも同然なのであります。
凸守山城 福島県郡山市 午後1時45分から2時30分
城跡は谷田川と黒石川に挟まれた段丘上に占地し、主郭部は東側の小高い位置に所在。
近年において蒲生氏時代の野面積みの石垣が発掘調査により確認された城跡で、主郭と推定される通称城山八幡にも郭と土塁が残存。
二の郭石垣の高さは4mから5mほどで西側から南側へと回り込んでいる様子も確認できます。
また、主郭北西隅には櫓台跡のような高まりも明確に残されておりました。
三の郭と推定されている城跡の西側部分は守山小学校の校庭および民家の宅地が広がり、城域の範囲が掴みにくくなっておりました。
なお時間が許せば周辺をじっくりと歩きながら観察したいところではありましたが、この時点で既に3か所もの感動的な遺構と対峙することが叶い本日の目標はおおむね達成されたも同然。
何れ近いうちに再訪することを深く心に刻んで次の目的地へと移動。
凸守山陣屋 福島県郡山市 午後2時35分から2時50分
宝暦年間に水戸家の支藩として松平家2万石の陣屋がおかれたもので、当時の遺構は残存していないとのこと。
それでも陣屋跡とされる北西付近には大きく曲折した道路が残っておりました。
城下町などによく見られる道路形状ですが、そのまま関連遺構と断定するには余りにも資料不足で。
なお、地元の集会施設には葵の御紋が掲げられておりました。
凸市野関館 福島県須賀川市 午後3時55分から4時まで
水郡線川東駅南側の独立丘陵なので場所は間違えようもなく。
元々殆ど遺構が無いとのことで、あくまでも所在地の確認と遠望のみの城館。
数稼ぎとの指摘がなされれば、誠に御尤もにてございまする。
たまたま見かけた水郡線の車両と直ぐ西側を流れる阿武隈川のゆったりとした流れがとても印象的なのでありました。
凸石見館 福島県須賀川市 午後4時20分から4時30分
雨田地区の蔀久保に所在。
西側の水田面からは比高差にして35mほどの独立小丘陵。
縄張り図等からは単郭で土塁、小口が残るととのこと。
とはいえ思いのほか規模が大きく木々の緑の深さとアプローチなどの問題から、こちらも遠望するに留めましてございまする。
凸三城目城 福島県矢吹町 午後5時10分から5時25分
東西南北共に400mほどの規模を有することから所在地はすぐに判明。
しかも入口の道路脇には説明板までも設置されておりました。
しかし残り時間と著しい資料不足のため、ごく手前の部分畑付近を拝見するに留めました。
凸観音山館 福島県矢吹町 午後6時25分から6時50分
近くまでは直ぐに行けたものの、途中でものの見事に方向感覚を喪失し幾度も方位磁石のお世話に。
原因は二叉路を右に進んだことによるものらしく確実に30分以上のタイムロスに。
このため漸く神社の鳥居のある入口に到着した時には辺りはすでに夕やみに包まれておりました。
鬱蒼と草木が生い茂る全く人気のない林の中へ侵入する姿は普通に考えればどうみても不審者かとも。
仕事柄か歳のせいかは分からねども、暗闇と超常現象の類は全く気にならず。
ほぼ暗闇に包まれどこか重たい空気さえ感じる200mほどの曲がりくねった参道を西へ。
土橋の両側には意外なほど大きな空堀跡が残存。
あらかじめ想定していたものの三脚付でなければとても撮影不可能な暗さ。
デジカメのシャッタースピードは、ISOを800に切り替えても「0」を表示。
3の郭とされる八幡神社の辺りは幾分林が開け取敢えず参拝。
すると右手の石段がおいでおいでと手招くようにも(汗)
その手に乗って名称の語源と思われる観音堂が所在するはずの2の郭へ。
途中、草木に覆われた2の郭の南側には規模は小さいものの空堀跡の暗闇も確認。
しかしその先に所在すべき観音堂らしき建物が全く見当たらず。
そのまま雑草に覆われた2の郭を横目に坂小口を登ると三峰神社の小祠が鎮座する主郭へと到達。
この時点でほぼ日没となり、これ以上の遺構確認は困難と考え撤収開始。
帰りがけに2の郭にて建物の残骸と思しき古材の塊を発見。
位置関係からすれば、どうやらこれが「観音堂跡」である模様なのでありました。
このあと、耕地整理により辛うじて主郭だけがぽつんと残っているはずの「国神城」へ。
ところが元々正確な所在地を把握していないため未確認のままタイムアップ。
こうなると素泊まりの予定のため途中のエコス(スーパー)で夕食やペットボトル飲料を買い漁っていた時間が恨めしく。
とはいえ予定していた11か所のうち10か所を回れた(⇒正しくは「見た」!)ことはそれなりに評価せねば。
かくして1時間遅れでどうにか郡山のビジネスホテルへと滑り込み、またしても深更まで翌日のプランの練り直しに勤しんだのでありました(苦笑)
