前日まで、というよりも正確には当日の深夜。
累積する一方となっている不良在庫のコツコツと整理更新。
このため自宅を出発したのは午前8時丁度。
途中川越市内での混雑は予想よりも僅かなもの。
トイレ休憩を含めても現地到着は午前10時15分という順調さ。
天候も珍しく予報どおりの快晴
近世城郭の石垣を含めた建築物を撮影するには絶好の日和。
しかし中世城館跡の土塁・空堀には「降水確率0%薄曇」がベストなのであります。
またこの時点で日没までの時間と訪問先等の諸条件を勘案すると最多でも6か所程度が目安かと。
凸小串館 10時15分~11時35分
資料などによれば、城館関係の遺構については殆ど現存していない模様。
それでも道路形状には部分的に堀跡外郭の名残りも。
また比高差7mほどの北側崖線にも要害としての風情が。
地勝寺の墓地には小串氏所縁の墓所も実在。
南西300mの台地には小串城跡も所在。
これらのことから詰城と居館という用途を使い分けていた様子が窺えたのでありました。
凸河内城 11時55分~12時55分
鏑川右岸の所在する他の城館と同様に北方に張り出した舌状台地に占地。
資料によれば土塁・腰郭跡も残るとのこと。
しかし、夏草の勢いは未だ旺盛で土塁の方は確認に至らず。
それでも蜘蛛の巣を払いつつ当たりをつけた竹藪へと突入。
忽ち薮蚊の間断の無い攻撃に数ヶ所がボコボコに。
辛うじて2段からなる腰郭状の地形を台地北東部において確認。
なお「吉井町誌」の記述によれば、戦前から戦後にかけての伝染病の隔離病棟が所在した場所でもあるとのこと。
現在は住宅が立ち並びそうした痕跡は、入口の坂下に残された通行止めの小さな石柱だけでありました。
凸高の砦 13時05分~13時50分
河内城と比べると、大沢川川原に自然公園が設置されているためより段丘自体の比高差が際立つ印象も。
目指べき遺構は段丘上の土塁跡。
取敢えずは狼煙台と推定される稲荷神社跡を目指し東へと移動。
2棟の古い納家(家畜舎か)北側には予想を超える状態の良い土塁の一部が現存。
その配置からは比高差20m以上の急崖に加えて、北側の守りをさらに固めていたものと推定。
凸折茂の内出 14時~14時40分
事前情報では関係遺構はほぼ消滅している模様。
さて関係資料に示された占地について判然としないのが、耕地整理された丘陵東西の尾根筋部分。
こちらの方が内出と推定されている個所に比較すると明らかに眺望の優れた高位に所在。
丘陵最高地点を占地しているならば問題のないところ。
しかし関係資料では丘陵の南側緩斜面の段築部分のみを想定するという不可解さも。
それはさておき南側の同等の標高を有する丘陵方面を除いた三方の眺望は頗る良好。
風も無く秋の柔らかな日差しの下、無住の堂宇の軒先でおにぎりを食べ暫し惰眠を貪りたい心境に。
凸神保館(神保城) 14時50分~15時50分
遠く榛名の山々、妙義山の岩峰、超大型航空母艦のようにも見えてしまう特徴のある平坦な山稜の荒船山。
折茂の内出よりもさらに、これらの山稜が正に手にとるように一望にできる見晴らしの良い高台に占地。
関係資料を眺め、あらためて所在地を探すまでもないこと。
否応も無く視界に入る北西側の季節風を防ぐ広大な防風林が神保館そのものであることは自明の理。
たまたま防風林脇の畑にて試掘中。
始めたばかりで詳細不明の模様でしたが恐らくは古代末期ものとのこと。
さて肝心の堀跡・土塁等の遺構は北西部に明確に残存。
幅8m弱、深さ最大2.5mの規模を有する空堀跡が凡そ100m近くにわたり現存。
土塁もこの堀を挟み二重土塁の形態と推定。
辛科神社方面にも同様の遺構が現存。
現在も城館名と同名の旧家が所在している模様。
その宅地南東側には比高差4mの郭状の台地も現存。
この時点でどうにか本日の最低目標に到達。
未だ日没時刻までは約1時間ほどの余裕も。
しかし西側には分厚い雲が湧いて西日を遮断。
加えて薮蚊の活動も無視できず。
腹具合を考え毎度の事ながら飲まず食わずのテクテク訪城。
減量は疑いの無い事実とはいえ、血液は間違いなくドロドロ状態。
このような次第で早めの夕食にて水分とカロリー補充を決断し本日の任務を終了。
凸中大塚城 7時50分から8時45分
実は昨日の夕刻にこの西側の道路を通過していたのであります。
しかし曇天の夕暮れ時に加え、地理不案内+空腹のためにその存在に全く気づかず通過(汗)
本日は早朝よりの訪問のため、多少は頭も冴えわたっているものと誤解を。
入念に距離を測りつつ推定地へと接近する手筈が、何と遥か西側の古墳のところまで行き過ぎるという不始末。
古墳の見学を行った後、徐に西側の農道方面空から遠景を撮影しつつ城館跡へとアプローチを開始。
明確な遺構は先ず旧家西辺の延長70mほどの土塁・堀跡で、土塁は堀跡を挟んで二重土塁の形式を構成。
さらにこれに続く南辺の堀跡と高さ3mを超える土塁も現存。
北辺にも屋敷林に視界を遮られているものの明らかに同規模の堀跡と土塁が現存。
関係資料によれば北東に所在する千手寺方面を別郭とする考え方も示されていますが、寧ろ外郭の一部として捉えるべきではないのかなどと独り言を。
南西側の外郭部の曲折個所を含め周囲をぐるりと一周半したのちに次の目的地へと移動。
凸落合代官所 9時00分から9時20分
件の「文化財システム」によりますと、概ね落合の交差点北西部付近に該当する模様。
資料不足のために残念ながら近世の何時頃の時代のどのような性格の代官所であるのかは不詳。
所在地については、おそらく大きな屋敷門を備えた民家を中心とした辺りかと漠然と推定を。
凸岡の砦 9時30分から9時50分
上記の地点から鏑川右岸の河岸段丘の一部と推定し崖地と堀跡らしい地形を求めて移動。
ところがそれらしい地形がなかなか見つからず。
宅地化された低い崖地の存在は確認できたものの、この地点が該当地であるかどうか自信が...
止むを得ず西側の「伊勢塚古墳」へと赴き、その所在地から砦跡の地点を推定。
やはり上記の宅地化された低い崖地が当該砦跡である模様。
東側の路地よりアプローチを行い水田跡のような幅広い短冊形の地形を拝見。
取敢えずは、この地点が西側の堀跡なのかと納得。
凸落合の砦 10時10分から10時30分
十数年前の関係資料によれば当該遺構の残存状況は不良との記述。
確かに南側の堀跡は概ね埋め立てられ、僅かな窪みを留めているというような状況。
自然地形を含む北辺の急斜面付近が、現状では最も砦跡の景観に相応しいという印象。
このあと、当初の予定通りに藤岡市の歴史館に立寄り、資料のコピーなどを依頼を含めて50分ほどの時間を要して資料と情報の収集。
凸白石の砦 11時30分から12時00分
上記の関係資料によれば耕地整理により完全に消失しているとの事前情報。
山崎一氏の資料に記された地形図等から、それらしい尾根筋に相当すると思われる凡その所在地を推定。
丘陵上の林部分も大変気になりますが、砦跡自体はその隣接地の畑付近辺りかと思われたのであります。
凸白石上郷遺跡(吉良上野介陣屋)12時05分から12時10分
遺跡の名称ではしっくりときませんが、忠臣蔵で著名な吉良上野介所縁の陣屋址
元禄時代に本領とは別に知行の一部である700石ほどの土地をこの白石に有していたとされているようです。
尤も当主は江戸常府のために代官支配と考えられます。
しかし上野介の生誕の地とされていることもあり由緒ある近世陣屋跡として捉えることに。
凸上大塚の砦 12時20分から12時40分
同じ「大塚」の地名が冠されていることから過剰な期待をすると落胆の度合いが大きい城館跡。
水田の東側および南側に残存する高まりが土塁跡とのこと。
隣地には宅地が所在していることから遺構の残存は奇跡に近いものが。
とはいえ土塁上部分も耕地として利用されている模様なので、しっかりと突き固められたような土塁を想像してしまうと期待とのギャップの大きさに打ちひしがれる城館跡なのでありました。
凸大神宮山城 12時50分から14時15分
今回唯一比高差を有する城館跡。
とはいえその比高差は最大でも30mばかり(汗)
この時期には丘陵中腹の帯郭、先端部の腰郭部分の地表観察は未だ時期尚早でありました。
それならば南側の庚申山方面の尾根筋を区画する堀切部分は如何に。
南側の帯郭方面から接近するも密生する篠竹に阻まれ到達不能。
それでは南側の細い山道から接近しようと試みたものの、残念ながらほぼ同様の状況。
諦めつつ東側の中腹に刻まれた道路をテクテクと戻り、この辺りに堀切があるはずとよくよく繁みを観察。
すると同好の士がかき分けたとものと思われる踏み跡らしき形跡を発見。
せっかくの機会なので心の赴くままに藪へと誘われることに。
無論至る所に張り巡らされた蜘蛛の巣、薮蚊の大群による攻撃の妨害を受けながらの踏査。
また松葉杖は藪潜りには全く向かないことを実証的に体験。
すなわち本来は2本足に絡む枝草の類が3ヶ所に絡みつくという構図で身動きが(苦笑)
それでも摩利支天の祠にも到達し、始めに行き着いた尾根筋上の僅かな窪みが、かつては深さ2mの堀切跡であったことを確認。
凸根岸築城跡 14時30分から14時50分
武田信玄家臣の依田氏により築城されたとされる遺構。
発掘調査により堀跡遺構が検出されたのは国道254線のバイパス付近。
堀の内という地名が残る辺りも既に宅地化されて面影は無く、強いてあげれば丘陵の東側の水路沿い付近の崖地が最もそれらしい景観を残しておりました。
本日は夕刻の天候にも恵まれ、この時点で日没までは少なくともあと2時間ほどの余裕。
予め持参していた吉井町方面へと足を伸ばすという選択肢も。
然し4ヶ月のブランクに加えて、手術後の足回りの余力は既に限界に。
このため早々に撤収を決断し、旧児玉町の市街へと赴き念願の「銘菓保己一最中」(12個入)を購入。
梅月堂謹製のこの最中は、旧児玉町出身の群書類従編纂で名高い塙保己一に因んだ銘菓。
群馬、長野方面へと向かう道筋に所在する国道254線沿いの野立看板を見てから早幾年。
そのうちに買えるだろうと思い続けてから何と45年近い年月が経過(苦笑)
また最近その存在を知った黒沢謹製の「児玉党(最中)」も駅前通にて購入。
かくして恰も「最中」尽くしとなってしまった趣の手土産を携えて午後6時前に帰還
しかし根が地味な性質であることが災いし、できるだけ目立たず遺構も少ないと思われる個所ばかりを厳選。
無論、松葉杖を突きながらの歩行訓練も兼ねていることもあり当然ながら平地の城館跡に限定を。
また極度の運動不足のため、正直なところ確実に退院後の体重は増加の一途。
来るべき山城シーズンを迎えるにあたり、リハビリに加え体重の減量が急務というのが真相なのであります。
かくして、今年5月以来の群馬県藤岡市方面「のんびりテクテク減量大作戦」を発動したのであります。
凸下栗須堀之内 9時40分から11時00分
情報源はあくまでも「群馬県文化財情報システム」のみという侘しさ。
これが復活後第一弾の訪城先とは我ながら地味すぎると呆れるような始末で(苦笑)
それでも備考欄には「土塁一部消失」との記載も。
これを逆に考えると、ことによれば....という程度の期待感も無くはなく。
一方城館名はあくまでも仮称であり、上記システム上では「神流川地区2号城館址遺跡」とのこと。
これでは余りに無味乾燥のようでもあるため、勝手に管理人が所在地の「大字+小字」をそのまま城館名としたものなのであります。
従ってネットで検索しても、今のところヒットする可能性は皆無なのであります。
さて、自宅から2時間半を費やして訪れた場所は利根川支流の河川改修された中川左岸の住宅地。
「堀之内」との地名が残されているとはいえ、大がかりな河川改修が施工されていることからさほどの期待感もないままに速やかに推定地へと到達せり。
新興住宅地に接し一部旧集落の名残も感じさせる屋敷林のある風景が眼前に展開。
推定範囲は東西約150m、南北約180mほどの不整形地。
この場合の定石は、先ず推定堀跡と目される道路に沿ってぐるっと一回りテクテクと歩くことに尽きるのであります。
しかし予想に反していくらもあるかないうちに、旧家の間に所在する竹林の中に連続した人為的な盛土の形跡を視認。
高さ1.5mから2mほどの盛土が合計3か所ほど点在。
こうした地形について、一般には「土塁」(古記録等では「土居」とも)と呼ぶのでありましょう。
無論その立地条件から洪水除けの堤防の可能性、年代観、全体の縄張など不明な要素が多いことは否定できず。
しかし、一応「土塁」であることには相違なく、その後は当初の予定通り時計回りに周囲の道路を一周して推定地のほぼ中心部に相当する位置に所在している事実を確認したのでありました。
凸五町田遺跡 11時10分から11時20分
こちらも前記の文化財情報システムだけが頼りの場所。
立寄った理由は上記の隣接地ともいうべき至近距離に所在しているという理由のみ。
事後収集した資料によりますと、中川の河川改修事業に伴う発掘で中世城館との関わりを想起させる遺構・遺物が検出されている模様。
しかし、この日は稲刈りが終わった後の平坦な水田が広々と広がりを見せ、東側には中川が北流し、北側には上越新幹線の高架橋が北西から南東方向に走るという中世城館跡とは余り縁のなさそうな光景が展開しておりました。
凸中城 12時00分から13時10分
古い関係資料には内郭部分の東側を除いた三方に空堀と土塁遺構が存在するとの記載も。
しかし、近年の宅地化によりほぼ消滅している可能性が濃厚と推定。
実際、現地を訪れてみた限りでは、倉庫の建物に隠れたような状況で内郭北辺の西端に相当する位置に部分的に、堀幅5m、堀側の土塁の高さ3m以上、ただしその長さについては凡そ20mあるかどうかという堀跡・土塁遺構が確認されますが、資料に掲載されているこれ以外の遺構についてはほぼ完全に地表からは消滅していたのでありました。
勿論、念のため定石通りに東西約180m、南北約200mの外郭堀跡と推定されている道幅の細い道路を反時計回りにテクテクぐるっと一周を。
凸篠塚館 13時20分から13時50分
東西約30m、南北約40mの児童公園が城館跡の推定地。
明確な遺構は西側の高さ1.2m、長さ12mほどの土塁のみ。
また5mほどの間を置いてこの南側にもやはり土塁跡とみられる地形が存在。
しかしその高さは最も高いところでも数十センチほどを測るのみでありました。
東側と北側が比高差2m前後の崖地を形成しているものの、城館跡の地続きとなる南側にはやや不自然に折れ曲がった印象のある道路以外には、これといって城館の存在を想起させるような地形は見当たらず。
凸動堂城(ゆるぎどうじょう) 14時00分から14時55分
関係資料によれば、東西、南北それぞれ200m以上の規模を有し北東鬼門方向にに隅欠を持つ不整形の外郭と、中央部にやや不整形の五角形をした内郭を有する城館跡。
こちらでも外郭を構成する堀跡と推定される道路を中心にテクテクとぐるっと一周。
しかし、堀跡の名残と推定される曲折した道路以外には予想通りこれといった人為的な遺構は確認されず。
なお地形図上では概ね比高差に乏しい平坦地に立地していますが、実際に歩いてみた限りでは外郭西辺部のみは最大2.5mほどの高さの段丘状の崖地を形成していることが判明いたしました。
また、外郭の南側には旗本溝口氏の近世の陣屋跡といわれる規模の大きな方形状の宅地が現存しています。
凸本動堂屋敷前遺跡(もとゆるぎどうやしきまえいせき) 15時05分から15時10分
現状は平坦な水田と畑となっておりますが、以前の発掘調査により薬研堀状の溝、板碑等を含む遺構が検出され中世の屋敷跡と推定されている模様。
なお小字「屋敷前」という地名は、溝口氏の旗本陣屋(代官陣屋か)の存在に因むものと推定されるのではないかと考えられます。
凸原屋敷遺跡 15時15分から15時20分
上信越道の南側約100mの地点に所在し、発掘調査により約60m四方の規模を有する中世の屋敷跡であることが推定されています。
しかし上記の場所と同様にテクテクと歩くような堀跡道もなく、農道には未だ夏草が残り足元が見えず、また宅地開発のため敢えて地形の確認をするような状況でもないことから速やかに撤収を。
凸下大塚城 15時30分から16時15分
地形的に「中城」を思わせるような内郭北側の印象。
しかし案に相違して、内郭に相当するとされる旧家宅地西辺中心に幅約6m、長さ約70mの見事な堀跡が現存しておりました。
加えて北辺の西端部(北西角)には高さ2m、長さ5mほどの土塁も現存。
さらに西側の堀跡は南辺へも15mほど続いておりました。
屋敷林の樹木等がくまなく伐採されていることから、公道上より遺構全体を拝見できるというのも実に有難いことなのでありました。
締めくくりとして外郭を形成していたのではないかと想定される東西の用水路付近および内郭東側の堀跡道をくまなくテクテクと歩いて観察。
本日ここまでの歩行距離は、累計にして凡そ6kmほど。
たかが6kmとはいえども、退院後の一日当たりの歩行距離としては紛れもなく最長不倒距離かとも。
諸々の不安材料も多く果たして何処まで歩くことが可能なのか不明ではありましたが、何はともあれ平地に限定するならばどうにか歩くことができるという事実に安堵したのであります。
本日はかなりの中弛みもみられたものの、最初と最後でどうにか帳尻合わせが整いまずまずの成果かと。
なお日没時刻までは未だ40分ほどの余裕もありましたが、生憎と西側には分厚い雲が西日を覆い隠し、撮影には不向きな環境に。
また、ここまで昼食抜き、水分補給なしで行動してきたため早目の夕食を摂るべく藤岡市街方面へ移動を開始。
2週間前から練りに練った当初の計画では、「朝駆け夜討ち、日帰り作戦」ともいうべきもので、時間をかけて考えた割にはかなり無謀な構想(苦笑)
ところが日曜日の午後の段階で、少なくとも2日続きの好天が期待できることが明らかに。
このため急遽計画の見直しに着手し、月・火の2日間にまたがる「遅参、早帰り+保己一最中作戦」に変更したのでありました。
その辺の詳細は翌日のブログにて...
一昨日、昨日と松葉杖を突きながらコスモスと蕎麦の花を撮影。
都合3km以上歩いたため予想通り疼痛を発症。
さりとてある程度は歩かねば回復は見込めず。
かくて本日松葉杖を入手。
2本で七千円弱とお買い得。
斡旋いただいたN接骨院さんに感謝を。
頑丈さを考慮しステンレス製を選択。
アルミ合金に比べて少しばかり重い感じもするものの、斜面を這いあがることを想定するとこの方が扱いやすそうな印象。
とはいえクマと対峙する時に役立つかどうかは皆目不明...(苦笑)
また頑丈な一脚は、時により杖の代用にもなることも判明。
さらに松葉杖を突いていると撮影時の手ブレをかなり抑えられるということも発見。
すなわち左手に松葉杖、右手に一脚付のデジカメといういでたち。
ん、そうなると何時もの資料を持つべき手が足りない!
そういえば、このような時のために首から下げるマップケースを買っておいた事をコロッと忘れておった(汗)