本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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今月の新規訪城件数は群馬県藤岡市17か所、同吉井町10か所の合計27か所。
再訪件数はゼロ。
出動日数は延べ4日間で、それも20日以降という無計画さ...
ん、まてまて....たしか9月の末から4週連続の土日連続出勤をしていたような記憶もあるような。
そういえば出動した日は、全て振替休みの消化でなのでありました(汗)

さて今月の更新件数も手抜きの影響か、珍しく大台に乗って何と「11か所」を達成♪♪
7月から9月まで完全休業していたので、せめてこれくらいはやらねばと自分自身に喝!

あっ、そうそう更新件数に未更新分を加えてみると、やっとこ500か所に到達している模様なのでありました。
しかし500か所更新までの道程は遥かに遠いものがあり全く先が見えないのでございまする。
どんなに最短でも来年の5月頃かと(爆)

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この日は一昨日よりも30分以上早く出発。
にも拘わらず到着時刻は全く同じ。
すなわち往路の所要時間は2時間45分以上。
つまりは往復5時間前後を要し、自宅から群馬県吉井町を一日おきに往復しているという構図。
遺構の残存状態に比して、この時間と労力は如何と自問自答を。
といって午前6時前に出発するという元気も無く(苦笑)


神保植松城 午前10時15分から12時
上信越道自動車道建設に伴い遺構の中心部分を含む大半が消滅したといわれている城郭。
北東の腰郭そのものは郭、切岸とも側道工事等によりほぼ消失しているという印象が濃厚。
僅かに東側から入込む谷と、かつて腰郭などが存在していた北東方向にのびる舌状台地に城跡としての名残をとどめているのかも知れず。

とはいえ以前に、儀一殿などから「高速道路南側に遺構が残存する」との貴重なる情報を思い出し。
念のため植松陸橋を南へと渡ることに。
先ず目に入るのは「への字」形の折を有する土塁。
高さは最大3m、延長60mほどの規模。

その南側に続いて深さ約1m、幅約12m、長さ40mの耕作地化された空堀跡も。
この二つの遺構を挟んで南北に郭跡と見られる削平地及び切岸も現存。
つまりは高速道路建設以前の関係資料に記された遺構のうち、少なくとも全体の4割ほどに相当する南側部分については概ね現存しているということに。

予め以前の縄張図上に高速道路の想定位置を書き込んだ前日の急造資料が役立ち、予想以上の展開は当初の予定時間を大きく上回る結果に。
 

神保植松城
神保植松城


天久沢陣城 午後12時20分から13時10分
全域が公園化されていることから藪と薮蚊には悩まされず。
主郭上のトイレもこの類のものとしては驚くほど綺麗に管理。
しかし整備されすぎたというのが正直な印象。
詰まるところ主郭周辺を除いて、その現状からはかなりの地形改変が行われた模様。

眺望自体は丘陵先端部のために尾根続きの西側を除き極めて良好。
しかし臨時の陣城としても、東西100m、南北50mの規模は余りに小さいという印象も。
また西側の尾根続きには堀切の防御が欲しいところかと。
 

天久沢陣城
天久沢陣城


天王原屋敷 午後13時15分から13時50分
上信越自動車道を挟んで天久沢陣城の北西約200mの地点に所在。
南側の一部は道路建設により消失しているとのこと。
また北側部分も現状は耕作地等のため屋敷跡としての面影は皆無
あくまでも道すがらで数合わせのような探訪とはいえ、この光景を目前にしてテンションのゲージは大きく低下。

止むを得ず天王原の陸橋上の防護策越しに「多胡下城」の遠景を撮影。
本日を含めてこの吉井方面は6回目かと。
少しはこの方面における相互の城館の位置関係が呑み込めてきたのかも。
 

多胡下城(金沢城)
多胡下城(金沢城)

矢田城 午後14時00分から午後14時30分
上信越道の側道から多分この辺りかと道路の幅員が広がりをもつ部分で車を止め現在位置の確認。
幾分度の合わなくなり始めた遠近両用眼鏡を額の上に上げ何とか焦点を合わせ資料を確認。
ふとなにげなく道路の反対側に目を転じると、屋敷林に囲まれた大きな屋敷構えの民家が。
西側の道路沿いには紛れもない空堀を前面に配した4mほどの高土塁が...

西側と北側の一部とはいえ、これだけの壮大な規模の遺構に遭遇するとは予想だにせず。
個人宅地内のため道路沿いから遺構を拝んだのち西側の郭の周囲をぐるっと一周。
そのままほぼ隣接した北側の代官所跡へ。
 

-矢田城(矢田陣屋)
-矢田城(矢田陣屋)
 

矢田代官所 午後14時30分から午後15時00分
道路沿いの西側の入口には文化財の案内標識が設置。
こちらも民家の宅地内のため、道路上から屋敷門と石積みで補強された土塁などを拝見。
資料の通り北側の裏門方面には空堀・土塁も現存。

中世末期の城郭、近世の陣屋そして近世代官所と、これだけの遺構現存するとともに近接して存在していることに驚きを禁じえないのでありました。
 

矢田代官所
矢田代官所



この日も日没にはまだ2時間近いゆとりが。
しかし僅かばかりの土塁や古墳の昇り降りの影響か、右膝に気のせいとは思えない違和感も発生。
ある程度運動せねば、足回りリハビリのみならず心肺機能維持、皮下脂肪燃焼にも悪影響。
さりとてここで無理をしても元も子もないことも事実。
一昨日と同様に、途中で早めの夕食を摂るべく速やかに帰途についたのでありました。

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前日まで、というよりも正確には当日の深夜。
累積する一方となっている不良在庫のコツコツと整理更新。
このため自宅を出発したのは午前8時丁度。
途中川越市内での混雑は予想よりも僅かなもの。
トイレ休憩を含めても現地到着は午前10時15分という順調さ。

天候も珍しく予報どおりの快晴
近世城郭の石垣を含めた建築物を撮影するには絶好の日和。
しかし中世城館跡の土塁・空堀には「降水確率0%薄曇」がベストなのであります。
またこの時点で日没までの時間と訪問先等の諸条件を勘案すると最多でも6か所程度が目安かと。


小串館 10時15分~11時35分
資料などによれば、城館関係の遺構については殆ど現存していない模様。
それでも道路形状には部分的に堀跡外郭の名残りも。
また比高差7mほどの北側崖線にも要害としての風情が。
地勝寺の墓地には小串氏所縁の墓所も実在。
南西300mの台地には小串城跡も所在。
これらのことから詰城と居館という用途を使い分けていた様子が窺えたのでありました。
 

小串館
小串館


河内城 11時55分~12時55分
鏑川右岸の所在する他の城館と同様に北方に張り出した舌状台地に占地。
資料によれば土塁・腰郭跡も残るとのこと。
しかし、夏草の勢いは未だ旺盛で土塁の方は確認に至らず。
それでも蜘蛛の巣を払いつつ当たりをつけた竹藪へと突入。
忽ち薮蚊の間断の無い攻撃に数ヶ所がボコボコに。
辛うじて2段からなる腰郭状の地形を台地北東部において確認。
 

河内城腰郭
河内城腰郭

なお「吉井町誌」の記述によれば、戦前から戦後にかけての伝染病の隔離病棟が所在した場所でもあるとのこと。
現在は住宅が立ち並びそうした痕跡は、入口の坂下に残された通行止めの小さな石柱だけでありました。


高の砦 13時05分~13時50分
河内城と比べると、大沢川川原に自然公園が設置されているためより段丘自体の比高差が際立つ印象も。
目指べき遺構は段丘上の土塁跡。
取敢えずは狼煙台と推定される稲荷神社跡を目指し東へと移動。
2棟の古い納家(家畜舎か)北側には予想を超える状態の良い土塁の一部が現存。
その配置からは比高差20m以上の急崖に加えて、北側の守りをさらに固めていたものと推定。
 

「高の砦」の土塁跡
「高の砦」の土塁跡


折茂の内出 14時~14時40分
事前情報では関係遺構はほぼ消滅している模様。
さて関係資料に示された占地について判然としないのが、耕地整理された丘陵東西の尾根筋部分。
こちらの方が内出と推定されている個所に比較すると明らかに眺望の優れた高位に所在。
丘陵最高地点を占地しているならば問題のないところ。
しかし関係資料では丘陵の南側緩斜面の段築部分のみを想定するという不可解さも。
 

折茂の内出
折茂の内出

それはさておき南側の同等の標高を有する丘陵方面を除いた三方の眺望は頗る良好。
風も無く秋の柔らかな日差しの下、無住の堂宇の軒先でおにぎりを食べ暫し惰眠を貪りたい心境に。

神保館(神保城) 14時50分~15時50分
遠く榛名の山々、妙義山の岩峰、超大型航空母艦のようにも見えてしまう特徴のある平坦な山稜の荒船山。
折茂の内出よりもさらに、これらの山稜が正に手にとるように一望にできる見晴らしの良い高台に占地。
関係資料を眺め、あらためて所在地を探すまでもないこと。
否応も無く視界に入る北西側の季節風を防ぐ広大な防風林が神保館そのものであることは自明の理。
たまたま防風林脇の畑にて試掘中。
始めたばかりで詳細不明の模様でしたが恐らくは古代末期ものとのこと。

さて肝心の堀跡・土塁等の遺構は北西部に明確に残存。
幅8m弱、深さ最大2.5mの規模を有する空堀跡が凡そ100m近くにわたり現存。
土塁もこの堀を挟み二重土塁の形態と推定。
辛科神社方面にも同様の遺構が現存。
現在も城館名と同名の旧家が所在している模様。
その宅地南東側には比高差4mの郭状の台地も現存。
 

神保館の堀跡と土塁
神保館の堀跡と土塁


この時点でどうにか本日の最低目標に到達。
未だ日没時刻までは約1時間ほどの余裕も。
しかし西側には分厚い雲が湧いて西日を遮断。
加えて薮蚊の活動も無視できず。
腹具合を考え毎度の事ながら飲まず食わずのテクテク訪城。
減量は疑いの無い事実とはいえ、血液は間違いなくドロドロ状態。
このような次第で早めの夕食にて水分とカロリー補充を決断し本日の任務を終了。

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ここのところ天気予報は、余りあてにはなら無い日が続き。
今日も出かける予定をキャンセル。
案の定午後からは不安定な天候に。

振替休みの本日は今のところは大丈夫そうな感じも。
藤岡の平地をまわってからすでに1週間が経過。

ぼちぼちシーズンに入るので、週1日程度を目安に足腰の鍛錬に出かけねば。
取敢えずは吉井方面あたりにでも。
勿論限りなく平地に近い個所で。

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中大塚城 7時50分から8時45分

実は昨日の夕刻にこの西側の道路を通過していたのであります。
しかし曇天の夕暮れ時に加え、地理不案内+空腹のためにその存在に全く気づかず通過(汗)
本日は早朝よりの訪問のため、多少は頭も冴えわたっているものと誤解を。
入念に距離を測りつつ推定地へと接近する手筈が、何と遥か西側の古墳のところまで行き過ぎるという不始末。
古墳の見学を行った後、徐に西側の農道方面空から遠景を撮影しつつ城館跡へとアプローチを開始。
明確な遺構は先ず旧家西辺の延長70mほどの土塁・堀跡で、土塁は堀跡を挟んで二重土塁の形式を構成。
さらにこれに続く南辺の堀跡と高さ3mを超える土塁も現存。
北辺にも屋敷林に視界を遮られているものの明らかに同規模の堀跡と土塁が現存。
関係資料によれば北東に所在する千手寺方面を別郭とする考え方も示されていますが、寧ろ外郭の一部として捉えるべきではないのかなどと独り言を。
南西側の外郭部の曲折個所を含め周囲をぐるりと一周半したのちに次の目的地へと移動。
 

中大塚城南辺東側の土塁と堀跡
中大塚城南辺東側の土塁と堀跡


落合代官所 9時00分から9時20分

件の「文化財システム」によりますと、概ね落合の交差点北西部付近に該当する模様。
資料不足のために残念ながら近世の何時頃の時代のどのような性格の代官所であるのかは不詳。
所在地については、おそらく大きな屋敷門を備えた民家を中心とした辺りかと漠然と推定を。


岡の砦 9時30分から9時50分

上記の地点から鏑川右岸の河岸段丘の一部と推定し崖地と堀跡らしい地形を求めて移動。
ところがそれらしい地形がなかなか見つからず。
宅地化された低い崖地の存在は確認できたものの、この地点が該当地であるかどうか自信が...
止むを得ず西側の「伊勢塚古墳」へと赴き、その所在地から砦跡の地点を推定。
やはり上記の宅地化された低い崖地が当該砦跡である模様。
東側の路地よりアプローチを行い水田跡のような幅広い短冊形の地形を拝見。
取敢えずは、この地点が西側の堀跡なのかと納得。


落合の砦 10時10分から10時30分

十数年前の関係資料によれば当該遺構の残存状況は不良との記述。
確かに南側の堀跡は概ね埋め立てられ、僅かな窪みを留めているというような状況。
自然地形を含む北辺の急斜面付近が、現状では最も砦跡の景観に相応しいという印象。
 

落合の砦
落合の砦

このあと、当初の予定通りに藤岡市の歴史館に立寄り、資料のコピーなどを依頼を含めて50分ほどの時間を要して資料と情報の収集。


白石の砦 11時30分から12時00分

上記の関係資料によれば耕地整理により完全に消失しているとの事前情報。
山崎一氏の資料に記された地形図等から、それらしい尾根筋に相当すると思われる凡その所在地を推定。
丘陵上の林部分も大変気になりますが、砦跡自体はその隣接地の畑付近辺りかと思われたのであります。
 

白石上郷遺跡(吉良上野介陣屋)12時05分から12時10分

遺跡の名称ではしっくりときませんが、忠臣蔵で著名な吉良上野介所縁の陣屋址
元禄時代に本領とは別に知行の一部である700石ほどの土地をこの白石に有していたとされているようです。
尤も当主は江戸常府のために代官支配と考えられます。
しかし上野介の生誕の地とされていることもあり由緒ある近世陣屋跡として捉えることに。
 

上大塚の砦 12時20分から12時40分

同じ「大塚」の地名が冠されていることから過剰な期待をすると落胆の度合いが大きい城館跡。
水田の東側および南側に残存する高まりが土塁跡とのこと。
隣地には宅地が所在していることから遺構の残存は奇跡に近いものが。
とはいえ土塁上部分も耕地として利用されている模様なので、しっかりと突き固められたような土塁を想像してしまうと期待とのギャップの大きさに打ちひしがれる城館跡なのでありました。
 

上大塚城
上大塚城


大神宮山城 12時50分から14時15分

今回唯一比高差を有する城館跡。
とはいえその比高差は最大でも30mばかり(汗)
この時期には丘陵中腹の帯郭、先端部の腰郭部分の地表観察は未だ時期尚早でありました。
それならば南側の庚申山方面の尾根筋を区画する堀切部分は如何に。
南側の帯郭方面から接近するも密生する篠竹に阻まれ到達不能。
それでは南側の細い山道から接近しようと試みたものの、残念ながらほぼ同様の状況。

諦めつつ東側の中腹に刻まれた道路をテクテクと戻り、この辺りに堀切があるはずとよくよく繁みを観察。
すると同好の士がかき分けたとものと思われる踏み跡らしき形跡を発見。
せっかくの機会なので心の赴くままに藪へと誘われることに。
無論至る所に張り巡らされた蜘蛛の巣、薮蚊の大群による攻撃の妨害を受けながらの踏査。
また松葉杖は藪潜りには全く向かないことを実証的に体験。
すなわち本来は2本足に絡む枝草の類が3ヶ所に絡みつくという構図で身動きが(苦笑)
それでも摩利支天の祠にも到達し、始めに行き着いた尾根筋上の僅かな窪みが、かつては深さ2mの堀切跡であったことを確認。
 

大神宮山城
大神宮山城


根岸築城跡 14時30分から14時50分

武田信玄家臣の依田氏により築城されたとされる遺構。
発掘調査により堀跡遺構が検出されたのは国道254線のバイパス付近。
堀の内という地名が残る辺りも既に宅地化されて面影は無く、強いてあげれば丘陵の東側の水路沿い付近の崖地が最もそれらしい景観を残しておりました。
 

根岸築城跡
根岸築城跡


本日は夕刻の天候にも恵まれ、この時点で日没までは少なくともあと2時間ほどの余裕。
予め持参していた吉井町方面へと足を伸ばすという選択肢も。
然し4ヶ月のブランクに加えて、手術後の足回りの余力は既に限界に。
このため早々に撤収を決断し、旧児玉町の市街へと赴き念願の「銘菓保己一最中」(12個入)を購入。

梅月堂謹製のこの最中は、旧児玉町出身の群書類従編纂で名高い塙保己一に因んだ銘菓。
群馬、長野方面へと向かう道筋に所在する国道254線沿いの野立看板を見てから早幾年。
そのうちに買えるだろうと思い続けてから何と45年近い年月が経過(苦笑)
また最近その存在を知った黒沢謹製の「児玉党(最中)」も駅前通にて購入。
かくして恰も「最中」尽くしとなってしまった趣の手土産を携えて午後6時前に帰還

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