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凸荒野の土塁(千葉県本埜村) 8時00分から8時50分
荒野城山が本来の目的地。
「電子国土」上では、だいたいの所在地を把握。
ところが現地で当該推定地を間違え谷筋1本分東側の方を探索(汗)
山林に囲まれた畑の航空写真の資料と似通っていたのが間違いの元。
よくよく冷静に考えれば、谷津田からは見づらいとはいっても北総鉄道の車両基地の建物が予想とは異なる場所に見えていることにもっと早くに気付くべきで。
確かに見覚えのある県道65号佐倉印旛線まで辿り着いてから完全に間違えたことに気付くような始末(恥)
この間の所要時間は何と1時間近くも。
初っ端から貴重な時間に加えて、最近とみに欠乏気味の体力・気力を早々と喪失。
なお、たまたま県道沿いの平地林の中に土塁状の地形を確認。
高さはおよそ1.2m前後、延長は全体で15m前後。
3月上旬の落葉期であるにも拘らず、平地林の見通しはあまり芳しくはなく、ひっそりと埋もれるようにしておりました。
ただし農道により幅約3mほどが分断され、北側には建設会社の資材置場が隣接するという環境。
無論、その歴史的経緯等は全く不明なのであります。
凸荒野城山(千葉県本埜村) 9時00分から9時30分
1時間遅れの仕切りなおし。
今度は携行している関係資料に基づき、入念に地形確認を実施。
100%間違いの無い谷津田沿いの道も確認。
主谷から北西方向分岐する小さな谷筋も確認。
ただし孟宗竹、真竹、篠竹などが鬱蒼と生育する昼間でも薄暗い環境。
加えて雨天続きのために足元の状況は泥濘寸前。
所在すべき谷筋自体は確定していても遺構の具体的所在地は不明。
ここで竹薮突入モードへと転換。
すなわちゴーグル、ヘルメット、作業用手袋など一式を装着。
谷底より3mほど上の斜面へと這い上がり北西方向を目指して踏査を開始。
視界は密生する竹類のため最大でも10m前後。
時々腰をかがめて竹林内部を凝視。
ところが10分ほど経過しても、それらしい地形が見当たらず。
別途平地林の山道らしい地形は確認。
確かに50cmほどの段差も存在。
しかし、あくまでもかつて通行していたことによる地形であるらしいことは管理人さえも判別できるような代物。
このため北側崖線に沿って西側へと移動を開始。
とはいうものの竹薮と荊の障害物を迂回しながらの行動。
いくらもしない内に西側の資材置場へと到達。
地名としての「城山」の位置は明確。
今度はその場所から当初とは反対に谷底を東進。
すると左岸(北側、比高差2m弱)の斜面に、資料どおり馬蹄形の口を開けた土塁が出現。
何のことはなく先ほどの資材置場の南端部に隣接しているのでありました(笑)
規模はおよそ30m×40mの方形で南辺が開口。
高さは郭内で1mから1.5mほど。
北辺部分だけには二重土塁、二重堀のように思われる地形も存在。
「本埜の歴史」に掲載されているとおり、やはり中世城館関連遺構と即断するには資料不足の感も否めず。
郭内の規模の小ささと立地条件の問題(日当り劣悪)なども。
また、この地方に多い野牧との関連があるのかとも。
竹薮の踏査のためにかなり長い時間をかけていたように感じたものの、実際の所要時間は僅かに30分。
見通しの悪い薄暗い竹薮内では、方向感覚だけではなく時間の観念さえも危うくなるのでありました。
凸中根遺跡(千葉県本埜村) 10時00分から11時00分
先日訪れたばかりの中根城が所在する同じ丘陵地帯の南端。
前回はその地形の特徴から何となく気になりつつも、時間の関係上から踏査を見送った次第。
ところが地図等に記された集落内の道と現地の道路事情がいささか異なる模様。
忽ち方向感覚を喪失する管理人(汗)
しかし、視線の先の畑の端には明らかな土塁上地形が現存。
手持ちの資料を暫し眺めて位置関係等を特定。
南東側土塁の延長距離少なくとも80m前後の規模。
その実質的な高さも最大で3m以上の個所も存在。
北西側にも同様の土塁が恰も城壁の如くに屹立。
この方面に関しては切岸としての高さは5mから6mに及ぶような壮大な景観に。
土塁の外側には空堀も所在し結果的に堀上土塁となっている部分も。
また南側を中心として地元の方々の古い墓地と板碑も存在。
東側が畑として耕作するために森林が大きく切り開かれていることから陰鬱な印象は希薄。
とはいっても西側斜面の方は晴天の真昼でも相当に薄暗い森閑とした竹林。
予め携行していた一脚+手ぶれ補正レンズ+ASA400でどうにか撮影可能な明るさ。
なお北東方向の神社まで移動を敢行するも密生した竹林に前進阻まれて敢無く撤退。
結局踏査できたのは南西部分の土塁・空堀のみという結末に。
ただし、先に訪れた「荒野城山」よりも中世城館としての印象がより強く感じられるのでありました。
凸城ノ内城(千葉県印旛村) 11時20分から12時00分
城跡遺構が地元の方々の民家宅地に混在。
このため北側の土塁遺構を拝見するに当たり、まずは長屋門のある旧家のお宅にご挨拶を。
こちらの宅地の裏山に刻まれた金比羅様の祠への道を通していただくことに。
祠が所在する個所がそのまま細長い腰郭。
その4mほど上に「コの字」型をした土塁と平場、堀跡などがまとまって存在。
しかしその先はまた別のお宅の敷地内に。
明確な中世城館関連遺構はおそらく舌状台地北端部に集中している様子。
ほかには南西側の八坂神社境内・消防団車庫の個所から続く切通しとなった急傾斜の坂道地形が堀切の様にも見えるのでありました。
ただこうした地形は舌状台地の多いこの地域には、生活上の利便性から少なからず散在。
こうした事情を考慮しますと、一概には断定できかねるもののようです。
凸吉高城(千葉県印旛村) 12時15分から13時30分
事前に収集した資料等の情報によれば、かつての「土取り」により概ね消失したといわれている城跡。
壮大かつ良好な状態の遺構を目にすることも中世城館探訪の目的のひとつ。
一方失われてしまったとされる城館跡を訪れて、そこに何らかの微かな痕跡を辿ることにも別の趣を感じるのであります。
もっともこちらの場合には、肝心の城跡の範囲が良く分からないという大きな問題が(笑)
さてとりあえずは国道464号線沿いの元舌状台地先端部分西側から捜索開始。
東側には土取り後に新たに植林された平坦地が広々と広がっております。
しかし、この部分はどうやら城域からは外れている模様。
そうは思っても、何とか台地が残存している東側の部分を踏査。
このとき遠近両用の死角とも言うべき個所で、左足の太腿に竹を伐採した古枝が接触。
より正確に表現すれば竹の枝が刺さり、おまけにやや大型の有刺植物の棘までも(苦笑)
無論かような場合に備えて、消毒液と傷薬は常時携行。
一方、この場所での肝心の遺構に繋がりそうな地形は皆無。
自然地形の地山の尾根筋を確認したのみ。
それでも竹林に覆われた舌状台地先端部の地形が妙に気になり、竹林内の小さな石祠の参道経由で急崖の先端部を登攀。
すると2段に別れた腰郭状の人工地形に遭遇。
僅かに残されている台地の残滓とはいえ、土取りの行なわれなかったと目される部分ではあります。
次に最も東側の舌状台地方面へ。
先端部は下から見上げた限りでは腰郭などの人工地形は確認出来ず。
そのあとは宗像神社へと向かう緩やかな坂道を南進。
右手には笹薮などに覆われた低台地の稜線が、その部分へと向かう農道とともに出現。
もちろんその笹薮へと向かうことに。
稜線は西側の土取の影響のために著しく幅が狭められた状態に変形。
ただし地形状からは土塁と表現すべきような延長およそ40mほどの地形が存在。
しかし、その南側の宗像神社へ向かうべき尾根筋は台地ごと消失。
国道464号線から200mほど南西に所在する旧吉高村社の宗像神社には神社に多く見ることのできる境内地を囲む土塁が。
また、宗像神社北東の台地上からは印旛沼北側の景観が一望。
やや霞んでいるものの名峰「筑波山」も一望。
城ノ内城にてコンビニ購入のオニギリを食べてしまったことに後悔するほどの絶景なのでありました。
凸松虫陣屋北東(千葉県印旛村) 14時00分から14時30分
今回、踏査するかどうの判断を迷った個所。
千葉県教育委員会が行なった悉皆調査によれば「松虫陣屋」は舌状台地北東先端部としか想定できない縄張りに関する記述と概念図が掲載。
ところが、より調査が新しいと考えられる遠山成一氏が作成された松虫陣屋跡に関する解説と縄張図では台地の基部に存在していることを明記。
勿論、単郭構造である事を除くと各々は全く異なる縄張りを有する城館跡。
つまりは、同じ台地上の両端部に別々の形態をした2つの「松虫陣屋」が存在しているということになるのであります。
無論現実にはそのようなことは考えられず、おそらくは千葉県教育委員会の悉皆調査時の掲載に当り何らかの齟齬を生じたものと解釈することが妥当なのかも知れません。
しかしそうは言っても、現実にこの目で確かめてみないことには何とも言えず。
かくて松虫陣屋が所在する舌状台地の縦断踏査をしてみることとなったような次第。
まず台地北東先端部に何らかの遺構が存在すると仮定。
台地の北側に刻まれた切通し状の山道から稜線へ。
次に東側の主に篠竹に覆われた台地先端部を東西方向(約100m)と南北方向(約60m)を夫々一度ずつ踏査を実施。
つまりは崖線先端部には合計で3回ほど到達したことに。
然し結果としては、当初の予想通り踏査は空振り。
すなわち少なくともこの舌状台地の北東部の地表には、中世城館に関連すると思われるような人工地形は現存していないことが判明。
視界が遮られた藪の中を歩いているので随分と長時間を要したように錯覚しますが、この間に要した時間は僅かに30分なのでありました。
凸松虫陣屋(千葉県印旛村) 14時40分から16時30分
一度南東側麓の道路の様子を確認するため斜面を駆け下り、再び少し以前までは切通しとして使用されていた廃道を這い上がり稜線へ。
さてこの堀切状地形を含めてこの舌状台地には少なくとも4本の溝が刻まれていることが判明。
うち最も遺構として確実なものは一番南西側の土塁に伴う堀切。
次にその形状から関わりが深そうに思えるのが、その東側の掘り上による低土塁を伴うように見える台地を横断するやや浅めの溝。
その北東側の溝となるとV字型の掘削跡が鮮やか過ぎるように思われ、一番北東側の溝についても同様。
この2か所の溝については、仮に歴史的経緯が古いものであるとしても後世にかなりの改変を受けているという印象が残ります。
肝心の松虫陣屋の遺構は「北総鉄道」の成田までの延伸工事ルートにかかっていたため、ほぼ南側を中心に1/3ほどが側道建設などのために消失。
それでも北東側の小口・櫓台跡などを伴う土塁・空堀と腰郭は思いのほか良好な状態で現存しておりました。
また北西部の土塁の折も明確に残存し、何度と無くデジカメ撮影。
しかしこれがなかなか肉眼で見えるような状態とは程遠く(苦笑)
下りは防護フェンス沿いに降下し、工事により無残に削り取られてしまった後の人工的な斜面とともに松虫陣屋の全景を心行くまで撮影。
僅か距離にして500mに満たない低台地の縦断でしたが、思わぬ地形との遭遇などもあり十分に楽しめたのでありました。
今後そう何度も訪れる機会も無いものと思われることから、この後は体力・気力の続く限り松虫寺の周辺を徘徊を...いや踏査を実施。
その用途、時代背景は不明としても他にも土塁、堀跡などと思われる地形が各所に散見される状況を確認。
本日は午前5時15分に自宅を出発。
自宅へと帰りついたのは午後9時5分過ぎ。
その後いつものように画像整理を優先して、城館別のフォルダに分類した上で画像補正。
時計の針が翌日に近づく前に就寝。
かくてブログの記述は翌日まわしに。
というような経過で、今回も悪戯に長文なブログを綴っておりまする。
なお最近の傾向としては「城館紛い」遺構の方が、どうしても異常に盛り上がってしまうことに気付いたような次第なのでありました(爆)
新規のうち、県別では栃木県12ヶ所、千葉県2か所、群馬県1ヶ所。
また、山城と呼べそうな城館は全て栃木県内で僅かに6ヶ所ほど。
HPの更新件数は合計で10件。
なお本日は天候の回復にも拘わらず、早朝の路面状況と竹林内の足元の劣悪さを想定して出陣中止に。
今シーズンもあっというまに残すところ1ヶ月半ばかりとなってしまいました。
然しこの期に及んで、さらに千葉県を2日(10か所)、栃木県2日(10か所)、茨城県1日(5か所)、群馬県2日(5か所)、山梨県1日(5か所)、長野県1日(3か所)、福島県2日(10か所)を予定しております。
勿論あくまでも予定なので、「天候+体調+気力」次第であることは言うまでもないことであります(苦笑)
凸中野城(群馬県邑楽町) 7時05分から7時10分
今月7日に続く再訪。
足利方面へ向かう通りがかりなので、ついでに立寄ったまで。
凸鳩ノ峰城(栃木県佐野市・足利市) 8時00分から9時50分 比高差240m
今回の山城3連発にあたっていくつかのルートを想定。
まず北側のハイキングコースとなっている塩坂峠経由で尾根筋伝いに迂回する方法。
難点は尾根筋を歩く距離が長くなること。
次に樺崎城-赤見駒場城-鳩ノ峰城とアップダウンを繰り返して高度を上げていく方法。
この難点は樺崎城を登るにあたり、ほぼ山道のないルートを進むこと。
これに加えてアップダウンが些か激しいこと。
というような次第で、樺崎城北側の集落から谷筋の道を辿り鳩ノ峰を目指すことに。
予想よりも谷の奥の方まで歩きやすい道が存在。
しかし谷筋の左岸にわたった辺りからは次第に山道そのものに。
「電子国土」では、山頂の西側の急斜面を這い上がるというとんでもないルートが記載。
しかも谷筋から見上げた限りでは、足元軟弱+掴まる樹木僅少という様相。
高度計は残り約50m前後を表示。
等高線の本数・密度を比較する限りでは、このまま谷筋を直登する方が妥当と判断。
とはいえ登りに弱い管理人。
3歩進んで一休み...
5歩進んで水分補給...
また2歩進んで高度計確認...
というような醜態を露呈しつつ漸く標高280m前後の稜線へと到達(ハアハア、ゼイゼイ)
小休止後、山頂北側直下の谷頭部分に2段の平場を確認。
北西の季節風を防ぐ絶好のポイント。
然も水の手の確保も可能と推定される地形。
この地形等のみからその時代背景を推定することは余りに無謀とは思うものの、物見のための番小屋を設置するには絶好の環境かとも。
山頂は2段の平場状に削平。
無論、神社境内の整備に伴うものとの区別がつく訳も無く(汗)
鳩ノ峰城南西側の痩岩尾根下りは樹木も少なく思いのほかの急降下。
平面距離100mに対して約70mの降下。
つまりは平均斜度は約37度。
加えてこの日は西寄りの10m前後の強風が吹き荒れる天候。
元々はハイキングコースのため、3ヶ所の難所には補助ロープが設置されておりました。
凸赤見駒場城(栃木県佐野市・足利市) 10時35分から12時30分 比高差165m(尾根伝いから約15m)
鳩ノ峰からは直線距離にして約800mほどで、途中3ヶ所ばかりの小ピークをアップダウン。
むむっ、どことなく低山ハイキングのブログのような趣に...(苦笑)
この間に「疑問符付の堀切状地形が2か所」、「ある低度確実視される堀切が1か所」ばかり所在。
取敢えずデータベースに記載されていた堀切というのは、恐らくはこれのことかと納得を。
さて下調べでは堀切の存在場所として、登って来た尾根続き以外には4本の稜線を想定。
先ず手始めに東側に約200mほどのびる比較的平坦な地形の尾根筋から踏査開始。
すると50mも進まぬうちに何と二重堀切に遭遇。
30mほど先にも、竪堀を伴うもうひとつの堀切が。
さらに稜線の括れた個所にももうひとつ。
以上3ヶ所、4条からなる堀切群がこの尾根筋を防御しておりました。
稜線の南北は概ね切り立った斜面で登攀困難。
そして尾根筋先端部には見事なまでに削平され先端部が幾分広がった台形状の郭状の地形さえも存在。
さして著名ではないというよりも、寧ろ殆ど無名に近い山城。
無名に近いこうした城館跡で、このような堀切群に遭遇できるとは夢にも思わず。
儀一殿の慧眼に敬服。
郭の先端部からは佐野氏西方拠点の赤見城方面が一望に。
戦国時代の一時期、佐野領に睨みを効かせていた足利長尾氏にとっては、東方地域の重要な最前線拠点であったのかもしれません。
凸樺崎城(栃木県足利市) 12時30分から13時40分 比高差約150m(東尾根伝いから約40m)
東側の赤見駒城の尾根筋からは90mほどの降下。
樺崎城山頂までの山道は思いのほか荒れておらずルートも明瞭。
主郭および周辺の帯郭、腰郭群も概ね良好に残存。
なお堀切状地形は少なくとも北東尾根筋と南東稜線続きには確認できず。
下山は予定通りに北麓目指してまっしぐら。
つまりは直降モード。
麓を流れる2本の谷川も勢いに任せて難なく渡河。
登りの時には、からきし弱い管理人。
しかし下りならば絶好調(苦笑)
珍しく今回は枯葉の斜面で滑るようなこともなく、前々回から供用開始した新しい靴の効果も確認。
凸稲荷山城(栃木県足利市) 14時50分から15時40分 比高差約50m
北西の中腹には稲荷神社が所在し、神社境内を経由して城跡へ。
縄張は北端の主郭、その南側の二の郭までは明瞭。
さらにその南側の幅広い堀跡状(片堀切状)の地形を経て北側に低土塁を有する比較的細長い形状の郭が続いている模様。
また主郭、二の郭の直下には南側を除いて帯郭が巡り、東側の山腹には3段ほどの腰郭も現存。
このほか丘陵北西麓には僅かに土塁・堀跡の痕跡と思われる地形も残存。
城跡が所在する丘陵全体は西側を除き城郭としては斜面の傾斜が緩やか。
仮に戦国期足利長尾氏によるものと仮定すると、東側小河川が所在するとしても敵対する佐野氏側に対する備えとしてはやや不十分な印象も拭えません。
凸尻無山城(栃木県足利市) 16時00分から16時30分 比高差約20m
掲載されているサイトを拝見する限りでは、明確な遺構が期待できないという足利市街地内の城館跡。
このため期待感は探訪する前から幾分沈みがちで。
北東側は公園化。
南側は宅地化。
それでも公園内にはそれなりに腰郭状の地形が存在。
しかし公園化に伴う地形変更との区別がつきかねます。
木立の間には幾つかの小規模な群集墳も所在。
なお公園以外の部分は、全体として篠竹の藪が目立ち地表部分の確認は概ね困難でした。
凸小平城(栃木県佐野市) 16時50分から17時00分 比高差0m
2008年11月に訪れた際には、竹林が伐採されて殆ど土塁遺構が剥きだしに。
その後の形質変更等の状況が気にかかるという点で衆議一致。
早速、黄昏迫るなかを数キロメートル東の佐野方面まで移動。
到着したのは既に山入端に太陽が隠れ始めた日没間近の時刻。
夕日を浴びたL字型の土塁、深さ約5mを測る城館遺構は概ね3ヶ月前と変わらずに健在ぶりを誇示。
この日は山城3ヶ所+低丘陵の城館2か所+平地の城館2か所の計7ヶ所のみ。
探訪した件数は少ないものの、赤見駒場城の予想だにしない堀切遺構との遭遇は正しく衝撃的。
足回りに心地よい疲労感を感じつつ帰途に着いたのでありました。
単独ではなかなか遂行することが困難な探訪。
先月に続き同行、ご案内いただいた儀一殿に心より感謝。
