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今回は父の7回忌の意味合も込めてその故郷周辺の探索。
常磐自動車道の建設以降は宅地開発も急速に進行。
加えて平成の大合併。
周囲の景観のみならず、馴染の地名が消滅・変貌し戸惑うこと頻り。
また常総方面の城館は、植生およびその地形上から藪城が多いとのこと。
これに備えて群馬の岩崎城等にて入念な予行演習を実施。
かくして己の能力に相応した藪突入敢行安全基準(第一次試案)を策定(笑)
凸菅生城(茨城県常総市)8時30分~10時30分
交通事情により、初っ端から予定時刻は30分の遅延。
元来さほど著名な箇所でもなく、所在地自体も極めて難解な部類。
途中の道路も通行止め。
さらに地形の酷似した台地が各所に散在。
このため始めの30分は駐車場所の確保と所在地探しに没頭。
結果的には最初に当たりをつけた台地先端の樹林帯が正解。
残存する遺構は堀跡、郭跡、舟入等のはず。
城跡北側の舟入そのものは近年に埋立てられた様子。
その代わりに主郭東側の切岸、削平地、土塁まがい地形などを確認。
「菅生」の地名が示す如く、無論主郭の内部は密生する笹薮などのために地表の様子は全く見えず。
周辺は深田の低湿地のため、この時期にもかかわらずあちこちに小さな池が点在。
低台地とはいえども、台地続きの西側を除く三方を低湿地に囲まれた要害としての実効性を再確認
このあと西方の別雷神社へと赴き全体の地形およびその位置関係を再確認。
実際にはこの時点で初めて菅生城訪城という事実に確信を持ったような次第(苦笑)
凸筒戸城(茨城県つくばみらい市)10時55分~12時00分
低湿地に北側を除く三方を囲まれた南側にのびた台地先端部に所在。
曹洞宗禅福寺を含む周辺が城跡で遺構は断片的に存在。
合併前の旧谷和原村では恐らく唯一の中世城館跡。
顕著な遺構は禅福寺南方の2箇所の土塁跡。
このうち南側の部分は主郭外側で最高8mの高さが。
ほかには同寺東側の堀跡(堀底道)及び土塁跡など。
また遺構としての真偽は不明な人為的な折を有する切岸等も。
現地には詳細な解説版が所在。
東側の水田側から望む弧を描いた低台地の形状が印象的。
なお、南側には「つくばエクスプレス」の車両整備基地も隣接するのでこれが目印。
凸守谷城(茨城県守谷市)12時25分~14時20分
この時点で当初の予定よりも既に1時間遅れに。
にも拘らず、冒頭から城跡の所在地を誤認する始末。
早い話が直接関係の無い城跡北側の公園を探索。
これがまた微妙な自然地形と人口地形が組み合さり...
かくて30分もの貴重な時間を浪費する羽目に(汗)
見所は土橋付近の堀跡および主郭西側の堀跡かと。
無論土塁跡も要所に所在し、3ヶ所からなる主郭小口の防御構造も興味深く。
但し東側から撮影した場合には、守谷市内の高層住宅が郭の北側にその姿を覗かせシュールな画像が出来上がってしまうのでありました。
とはいえ、低湿地帯に細長く突き出した城跡故の強固な防御機能について認識を新たに。
このあと、危うく忘れそうになった守谷小学校近くの土塁と城址碑を訪れ、日没までの残時間は愈々乏しくなっていったのでありました。
凸高井城(茨城県取手市)14時40分~15時15分
北側の低湿地に向かって突き出した台地上に占地。
それほどの広さがあるわけでもなく、かつ守谷城の縄張に似た印象もあり残り時間の関係で小走りに探訪。
この時点で地形の関係等から辺りは早くも薄暗くなり始め。
このため主郭小口付近の土塁では、その威圧感がより濃厚に。
ここで当初は予定していた「つくばみらい市役所」(旧伊奈町役場)、同図書館等への立寄りを正式に断念。
凸今城(茨城県守谷市)15時30分~15時45分
明らかに数合わせのような探訪かとも。
住宅地の都市公園の一角に郭と土塁等の遺構の一部が残存。
分かりやすい説明版も公園内に所在。
この日の日没時間は16時15分頃のはず。
しかし、付近の水田地帯から遠望する城跡は夕日に染まりものの見事なオレンジ色に変貌。
それでもどうにか予定通り5か所を探訪することに成功。
このあと守谷市立図書館へと赴き2時間かけて関係資料を閲覧の上複写。
ただしコピー機のスキャナ速度が遅く、1分当たりせいぜい5枚が限度。
閉館時間まで粘ったもののタイムアップ。
今後の探訪に際して、「竹藪・笹薮」+「利根川、鬼怒川、小貝川等を含む河川渡河の制約」+「わかりにくい道筋」という地域的な特徴を理解できたことは大きな収穫のひとつ。
日の出まではまだ2時間近く。
正月のお供え餅のようにして眠る2匹の猫たち。
幸せそうな寝顔を眺めているうち2度寝の態勢に。
このため漸く家を出たのは午前9時というルーズさ。
馬庭念流道場のところが城跡。
現在の地形から確認できる遺構は、内郭北西に所在する神社の高さ1mほどの土塁と明らかな折が見られる内郭南側の堀跡の窪み。
飼い猫と思われるネコさんが暖かな日差しを浴びて空地の端でお昼寝中。
あちこち拝見している間に居心地が良いのか当方の車の上で気持ちよさそうにお昼寝。
昨日も近所の子猫と親しくなったので、暫くそのままにしておこうとも思ったものの先を急ぐため猫を下ろして次の目的地へと移動。
凸岩崎城(同上)12時00分から13時30分
本来は時間の都合でパスする予定のはず。
然し目の前を通ることから、足が自然に向かってしまったのでありました。
前回のときには藪に阻まれたとはいえ、南側の腰郭、堀跡が未確認という大失態。
あれから1ヶ月半が経過し、夏草の藪は枯草に変貌。
とはいっても相変わらず「ひっつき虫」のような雑草の種子のために再びハリセンボンの姿に。
また篠竹に覆われた主郭部分の見通しの悪さは殆ど変わらず。
今回は南側の遺構確認のため、主郭から南に向けて真直ぐに降下するルートを採用。
無論ルートといっても高さ3mほどの篠竹が密生した藪を直進するのみ。
姿勢を低くして足元の地面の変化に注意を払いつつ進行を阻む篠竹と格闘。
とはいえ、視界は最長でも5mほど。
所によっては2mもないような個所も珍しくはなく(笑)
このため比高差2mほどの2段の切岸状地形は確認できたものの、地面が窪んだ堀跡らしい地形は未確認のままに。
15年以上前の吉井町の関係資料によれば、その存在が確認されていることとなっているので勿論当方の見落としの可能性も大きく。
また現在篠竹が密生する藪は以前には桑畑であったことが判明。
ことによるとその時点で耕作等により、相当程度埋没することとなったのかも知れず。
凸馬場城(同上)14時00分から15時15分
岩崎城で篠竹の藪潜りの修行を積んだこともあり、藪が殆どない快適なミニ山城という印象。
ただし80段ほどの階段は落ち葉が積もり滑りやすく、然もところどころが経年変化により劣化中。
さて古い縄張り図と照合してみると、中腹部分に建設された林道のため東側の遺構がある程度消滅しているということが判明。
とはいうものの、主郭を始めとして、その下の腰郭、東側の堀切と北側2か所の堀切遺構等は良好な状態で現存。
管理人の場合には、帰路に前記の階段を下るのは足元にかなり問題がありそうなため、一番北側の堀切から竪堀を東に下り林道へ。
尤もその際に林道開削に伴い近年切り落とされた斜面にて、あろうことか本日2度目のスライディングを(苦笑)
本日は吉井町の残り6か所を大方片付けるという心づもり。
ところが蓋を開けてみれば、出かけた時間の遅さと相俟って再訪した岩崎城に時間と精気の大半消耗し新規は僅かに2か所という有様。
規模が小さく比高差は2か所合わせても100m前後。
この程度で疲れ果ててしまうことに、あらためて年齢というものを痛感したのでありました。
思えばこの1年の間に、藤岡・吉井方面を訪れたのは既に15回以上に。
この方面の地理に詳しくなったことと同時に、往復5時間以上の運転が全く苦にならなくなったことも大きな収穫の一つには違いなく。
とはいえそろそろ今週末辺りに少し目先を変えて見るのも一興かとも。
再訪件数は先月同様にゼロ。
なお好天の本日は、本来出かける心づもり。
ところが一昨日来発症中の「坐骨神経痛もどき」が全く回復せず敢無く断念を。
このため出動日数は延べ3日間と相成りました。
更新件数も手抜きに更に磨きがかかったようで、とうとう「17か所」を達成♪♪
この不測の事態は3年ほど前の更新件数に匹敵する勢い。
とはいえ、持続性のないことは管理人自身がよくよく承知済み。
最近は諸事情により休業することも多くなり、できるうちにどんどんと処理することに。
蛇足ながら来月の目標などを宣言。
出動日数は延べ7日間を予定。
予定城館数は35か所ほど。
とうとう下野へと進出。
また天候は前日の予報よりも好天に。
向かうは佐野市南部方面。
凸高橋城(栃木県佐野市)7時20分から7時40分
群馬県との境、渡良瀬川左岸の高橋大橋北側付近と推定。
遺構は概ね消滅している模様。
それでも外郭部を推定しつつ時計回りに周囲を一周。
所々に宅地の嵩上げが散見。
とはいえ水害除けとも、城館関連遺構とも判断がつかず。
渡河記念ということで渡良瀬川の風景を撮影。
凸羽田城(栃木県佐野市)7時50分から8時10分
果樹園のネットが設営されている辺りが城跡との情報。
それでも該当地の北側に堀跡状の溝が現存。
またその付近の民家の防風林には土塁状の盛り土も存在。
ただし多分に近世以降の北西の季節風を避けるためのものである可能性もありそうな。
凸免鳥城(栃木県佐野市)8時25分から8時55分
資料どおり中心部には主郭跡の名残とされる石祠が祀られた塚状地形が現存。
城跡の大半は宅地化されており、それ以外は狭められた用水路として残るかつての堀跡が城跡としての名残をとどめているという印象。
凸堀之内城(栃木県佐野市)9時05分から9時35分
推定地の南西部に明らかな堀跡遺構が現存。
但しそれ以外の部分については用水路との区別が難しく訪れた者の想像力と判断力が試される現況。
凸小中城(栃木県佐野市)9時45分から10時20分
当初の予想を覆し、北側と西側に良好な土塁と空堀遺構が現存。
堀幅8mを遥かに超える規模の空堀。
そして堀側で高さ最大6m近い土塁も現存。
余り期待していなかったこともあり思いもよらぬ遺構との遭遇にひたすら感動。
ただし近々地形の改変が予定されているような印象で、既に重機の手が入ったような形跡も。
因みに城跡の所在地は、かの有名な田中正造翁屋敷の北隣という由緒のある土地柄。
凸赤見城(栃木県佐野市)10時40分から11時30分
主郭周囲の土塁、水堀遺構が良好に残存。
現状でも土塁内部の高さは4mから5m。
土塁の堀側の傾斜角度は45度以上の個所も所在。
土塁上の要所には櫓台跡と推定される地形も散見。
このため内側土塁上に立つと、ふっと水堀へと吸い込まれそうな印象さえも。
取分け西側の二重土塁並びに北西角の三重のようにも見える土塁遺構に率直に感動。
なお現在では主郭内は保育園の敷地となっているために関係者以外の立入りは不可。
専用の駐車スペースもなく保育園休園である日曜日の訪問が幸いに。
凸大門館(栃木県佐野市)11時30分から12時00分
かつては推定地の旧家周辺に遺構が存在した模様。
現状は宅地開発により概ね消失しておりました。
屋敷門の所在する旧家の存在そのものが在りし日の姿を映していたと理解することに。
凸大門城(栃木県佐野市)12時05分から12時40分
かなり原型が損なわれているものの県道沿いに60mほどの土塁が現存。
東側の神社境内裏付近にも僅かに堀跡らしい形跡が。
全体としてある程度時間を費やしたものの残存遺構確認の成果はそこまで。
凸小見城(栃木県佐野市)13時20分から13時35分
所在地は正にG氏の指摘どおりで、己の不明を恥じることに。
しかし遺構の形跡がかなり曖昧な印象も。
生垣の辺りが幾分盛り上がっているようにも見えるのでありますが。
というような次第で画像は省略を。
何れ機会があれば再訪...する可能性は、何とも(汗)
凸興聖寺城(栃木県佐野市)13時50分から14時20分
120m四方ほどの規模を有する土塁、堀跡による主郭を遺す佐野一族岩崎氏の居城とのこと。
東側を中心として良好な遺構が残存するものの、総体的に草木に覆われ土塁のラインが見にくい状況なのが残念で。
堀跡は南側と東側にある程度は残存。
関係資料等によれば別名を清水城とも。
凸吉水城(栃木県佐野市)14時25分から14時40分
宇都宮へ移封となる以前、佐野4万石を領した本田正純を城主とした近世城郭とされる。
しかし区画整理の施行により完全に消滅したとのこと。
このため現在では、ほぼ全面的に宅地化され面影は見られず。
地内の公園には築30年物の土塁(滑り台兼築山)が所在。
期待はしなかったものの矢張りテンションは低下の一途。
然し帰りがけ、人気の全く無い公園内にてやや古びた石碑を発見。
よくよく文面を眺めれば、やれ嬉や何と「吉水城」の3文字がしっかと刻印。
大正3年の建立とはいえ正真正銘の城址碑であることだけは相違なく。
とはいえ風化が激しく文字部分が剥離寸前なのが何処か寂しげなのでありました。
凸椿田城(栃木県佐野市)15時10分から15時35分
西側に水堀遺構が現存。
しかし堤防改修に伴い堀幅が狭められたとのこと。
城内にはかつての城主とかかわりの深い民家も所在。
次第に日も傾き始め取り急ぎ時計回りに周囲の水堀を見学。
凸植野城(栃木県佐野市)15時40分から16時00分
文政9年(1826)に再興された堀田氏1万6千石の陣屋に近い近世城郭。
「日本城郭全集2」(1962)には南側土塁上に堀田稲荷が祀られていたとの記述が写真付きで掲載。
また「国別城郭・陣屋・要害台場事典」(2002)によれば、神社の所在する土塁状の地形については城郭土塁の一部に相当する模様。
推定本丸部分には文化財解説板と黒御影石に刻まれた城絵図の石碑も所在。
なお、同書によると別名を佐野城、植野陣屋とも呼ばれるとのこと。
凸阿曽沼城(栃木県佐野市)16時20分から16時40分
いくら天候が良いとはいえ、秋の日は釣瓶落としとの譬えの如く実質的な日没時間までは残り20分少々と推定。
遺構確認を急ぐべく気は焦れども、意に反して思うようには進まぬ我が両足の情けなさ。
肝心の遺構は神社東側に所在することもあり、既に半ば夕闇に包まれ始めはじめておりました。
先ずは石碑、説明板などを急ぎ撮影したのち有刺鉄線により包囲された佐野市指定史跡の堀跡を拝見。
住宅地のど真ん中という立地条件を考慮すれば、南北方向に延長60mほども残存する堀跡は正に貴重な存在。
とはいえ日没同然の時刻のため光量は明らかに不足気味。
ここで本日初めて手ブレ補正レンズ装備が役立つことに。
もののついでにかつては堀跡等が存在したとされる西側を探索。
無論遺構は既に消滅し、ブロック塀により公道から仕切られた畑が寂しく広がっておりました。
このあと同行のG氏にお願いして、佐野市立図書館へ資料漁りに立寄りおよそ1時間ほど滞在。
付凸鶉古城(群馬県邑楽町)18時10分から18時35分
県道20号線経由で戻ることから、急遽日没後の鶉古城に立ち寄ることに。
この時間故に標柱と説明板はどうにか撮影できたものの、遺構の撮影等には余りにも光量不足で(笑)
群馬東南部については機会をあらためて再訪せねばと固く心に誓いつつ、ほの暗い外灯の灯る公園を後にしたのでありました。
元来が行動範囲の狭い管理人のために下野方面について全く土地勘はゼロに等しく。
加えて最近とみに進行が著しい老眼ゆえ、地図読み等には大きな支障も発生中。
従って独力では平地のみとはいえども1日に8城館が限度。
それが何と14城館+αという成果に。
ご案内をいただいたG氏どのに、ただただ深謝を。