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単独行にしては珍しく午前4時半に自宅を出発。
国道16号線で柏市呼塚へと向い水戸街道経由で龍ヶ崎方面へ...と、ここまでは出だしは至って順調に推移。
ところが午前5時半という時間帯であるにも拘らず、明らかに16号線が渋滞気味。
またここで具合の悪いことに断続的な目眩が発症しはじめ。
さらには次第に意識の方も怪しくなり。
可能な限り注意を払いつつ、漸く龍ヶ崎市内まで辿り着いたのが到着予定時刻の午前6時50分。
市内のコンビニでおにぎり1個を購入し、常備のチョコレート菓子で糖分補給。
完全に体調が回復するまで駐車場で2時間ほどの仮眠。
このような事態を想定して厳冬期用の防寒着も常時車載。
原因は恐らく持病の鉄血清貧血+ここ数日の睡眠不足+昨日新調した遠近両用眼鏡等の影響なのかもしれず。
既に両親を見送ったとはいえ、こちらが見送られる立場となるには些か時期尚早..のはず(汗)
凸龍ヶ崎城(茨城県龍ヶ崎市、以下同様) 9時00分~10時30分
冒頭から2時間遅れという幸先の悪さ。
然もどちらかといえば目ぼしい遺構が少ないという訪問先。
行動予定が遅れたこともあり市役所に駐車。
尤も市役所に用のない場合には駐車禁止との掲示が。
今すぐ用はないことは紛れも無い事実。
然し後で確認したいこともあるので、路駐よりは迷惑がかからず許容範囲と解釈。
徒歩にて数百メートルほど東側の城跡が所在する丘陵へ。
城跡の大半は龍ヶ崎第二高校の校庭のため辺縁部の崖を除くとほぼ遺構は消滅に近く。
加えて東側に続く丘陵地帯は宅地造成により丘陵そのものが消失。
その場所から少し離れて郭跡とされる御嶽神社が所在する丘陵がポツンと残存するというような誠に寂しげな景観ではあります。
それでも「市史」に記されていた鹿島神社北辺の土塁遺構を捜索に。
神社裏側から丘陵辺縁部を辿ると確かに藪の中に、高さ1.2m、延長40mほどの土塁が明確に残存。
他にも笑い話の素材になりそうな紛らわしい地形も幾つか所在。
このあと麓の高校設立の経緯を記した石碑の情報の確認とあわせ遠景を撮影するため北西方向の龍ヶ崎第一高校へと移動。
凸伝・江戸崎氏館 10時40分~11時10分
龍ヶ崎城の北西500m付近に位置する丘陵で元々気に留めていた地形。
龍ヶ崎城の丘陵と向かい合う形で、標高はほぼ同程度のはず。
地形上の違いは崖線形状がより複雑で丘陵自体も1.6キロメートルと遥かに長大。
丘陵上に堀切を設置するにしても尾根筋が狭隘な地形が多く普請自体が極めて容易。
当時は周囲が湿原に囲まれていた点は同様。
防御の容易さという点に限定すれば、この地から龍ヶ崎城へと本拠地を移転する必然性が不明なほどの地形でありました。
無論、遺構は宅地開発、大学キャンパス、工場建設などに伴い皆無と推察。
なお、予想通り校門脇の個所からは龍ヶ崎市内が一望に俯瞰。
勿論、龍ヶ崎城もその全景を視野に収めることができました。
このあと、駐車場所に戻り予定通り市役所にて情報を入手。
お礼も兼ねて、近くの和菓子店にて地元の銘菓を購入。
偶にはこういう気を遣わないと閉門蟄居を言い渡されないとも限らないのであります(苦笑)
凸馴馬城 12時20分~13時20分
事前情報によれば目ぼしい遺構が少ないなどのため、ルートと所要時間の関係から本来は今回の訪城予定には含めず。
しかし諸々の事情が変わったために市立資料館へ立寄ったついでに訪問。
というか完全に隣接しているので立寄らないわけにもいかないという事情も。
それにしては約60分と長時間の滞在。
せっかくなのでこの際は散在している断片的な遺構等を全て踏査していたことによるものなのであります。
なお、あわせて城跡西側に隣接する重要文化財の多宝塔も見学。
凸羽原城 13時40分~15時05分
遺構所在地が南北500m、東西150mの範囲に3ヶ所にわたり分散しているという状況。
つまりは踏査に時間がかかることは必定。
最も北側に所在する新地方面は民家宅地裏側のため未確認。
中心部分に相当する城ノ内の西側土塁等はどうにか確認。
南側の丘陵先端部に所在する高さ4mの壮大な土塁遺構は道が分からず難渋するも取敢えずは確認。
これらの遺構について同時代の一体のものかは判断が難しく。
その残存遺構の断片的な状況からは何とも言いがたいという印象。
凸屋代城 15時20分~15時35分
資料館で土塁遺構が校門近くに残存しているとの情報を入手。
関連遺構については地表から全て消滅したと思い込んでいたこともあり俄かにテンションが向上。
昭和の終わり頃までは、城ノ内中学校およびニュータウン建設以前には数ヶ所に分散した土塁・堀跡が所在していたとのこと。
現在は調査報告書に記された北側の1号土塁と思われる遺構が保存されています。
この1か所だけとはいえ、高さ2mから3m、延長約45mの規模を有する土塁の存在は本日不調気味の体に確かな活力を与えてくれました。
凸外屋代城 15時40分~15時55分
屋代城の土塁のお蔭で勢いが戻り、日没間近の東隣の城ノ内小学校へ移動。
こちらは発掘により存在が確認された遺構が多く、折を伴った堀跡等も校舎・校庭の地中付近の模様。
このため実際には周囲から遠景を撮影するだけの作業と相成りました。
凸長峰城 16時05分~16時40分
西側に厚い雲があり、すでに事実上の日没時間。
とはいえ城跡は車で5分ほどの至近距離。
しかし都市公園化されいるという情報のため、遺構の位置確認に難航することも予想。
後日に順延という方法もなくはなく。
然し往復の所要時間5時間20分という事情を天秤にかけて調査敢行。
結果としては、まず全体の3割ほどに相当する南西部分は宅地開発のために消滅した模様。
一の谷と呼ばれる付近も工場が建設済みで残りの部分も造成が進行中。
確実に残存していそうなのが主郭とその北側の2段の腰郭付近。
その他には家臣団屋敷跡と推定される個所の段築、その西側に所在する帯郭、ほかに物見台城の盛り土が2か所というような具合でありました。
遊具設置、駐車場工事、芝生敷設等によりかなり元の地形が変貌している印象があります。
僅かな日没後の薄明かりを頼りにギリギリまで粘ってみたものの把握できたのはこの辺りまでという次第。
本来の予定では、このあと龍ヶ崎市、牛久市の図書館へと立寄り茨木県南の関係資料収集を徹底的に行う心積もり。
しかし朝方の体調不良という経緯もあり、途中で夕食を摂り大人しく往路をそのまま戻り速やかに帰宅したのでありました。
本日は史進殿にお誘いをいただき群馬県甘楽町方面へ。
但し管理人の不手際により、集合時間に遅参。
このため行動予定時間が冒頭から10分遅れと相成り、史進殿に衷心より陳謝を申上げる次第にて。
凸峰城(群馬県甘楽町) 7時40分から9時40分
何が楽かといえば、城跡直下まで車でアプローチできること。
このため実質の比高差は40m足らずに。
足回りの衰えが目立つ還暦迫る年代には誠に有難い環境(嬉)
主な遺構は東西方向に並ぶ3ヶ所の郭とこれに伴う堀切、土塁、腰郭等。
なかでも最大の見所は郭群の北西方向に穿たれた堀切の存在。
郭側での現状の深さは4mから5mに過ぎないものの切れ込みの角度が美しく。
併せて両側の竪堀遺構も明確に残存。
国峰城と直接尾根続きとなる北西方向に防御が集中。
その眺望及び比高差と相俟って小幡氏の本城である国峰城の詰城として捉えた場合には最適の立地条件を具備していることが窺えたのでありました。。
凸八幡山砦(群馬県甘楽町) 10時から10時40分
事前には一定の篠竹の藪や荊との格闘を予想。
しかし実際には公園化されているため、そうした労苦とは無縁に。
土塁、切岸等も適度に整備され当初の予想を超えて良好な環境下で見学。
牛伏山、八束城、天引城方面が遮るものなく一望でき、探訪の充足感は高揚する一方に。
凸上野蔵屋敷(群馬県甘楽町) 10時55分から11時55分
西辺には感動的な高さ4mから5mにも及ぶ、延長約70m土塁は必見。
この土塁のラインが実にナチュラルで美しく。
然も住宅地の表通りから拝見可能。
これだけ見事な外観を有する土塁遺構と遭遇できるとは思いもよらず。
暫しの間、ただひたすら見とれていたのでありました。
また土塁の外側には水堀跡といわれる農耕地の区画も現存。
なお東辺小口に相当する箇所には時代背景は別として枡形の石垣も。
凸長畝の砦(群馬県甘楽町) 11時35分から11時45分
小幡氏の砦のひとつとされる城館跡。
現況は丸々とした大量の羊が飼育されている牧場。
眼前には穏やかな初冬の日差しを浴びてまことに牧歌的な風景が展開。
思わず「アルプスの少女ハイジ」のメロディーが頭に浮かぶ始末。
また「羊」とはいっても、無論「羊太夫」の伝承とは無関係のはず。
麓および対岸の丘陵から櫓台らしき遺構を含むのどかな丘陵先端部を心静かに拝見。
凸倉内城(群馬県甘楽町) 12時10分から12時40分
東西を天引川の支流に挟まれた南から伸びる丘陵先端部に占地する小規模な城館跡。
宅地化、耕地化の進行により、全体的には城跡らしさを捉え辛い側面もあるような。
然し、東辺の土塁の一部と思われる地形、郭内の堀底道、西辺の崖地に痕跡を辿ることはある程度可能なのかとも。
凸仁井屋城(群馬県甘楽町) 12時55分から13時30分
双子城といわれる麻場城に比べると現状は農地・山林等のため派手さとは無縁。
それでも参考資料に基づく堀跡、郭跡を追うことは十分に可能。
僅かに残る畑の窪みに堀跡の名残を求め。
高さ1mほどの段差や立ち入る事が不可能な篠竹の藪に郭跡の残影を追い求める。
まさに訪れたものの好奇心・想像力(+忍耐力)が試される中世城館探訪の原点のような光景なのでありました。
凸白倉館(群馬県甘楽町) 14時00分から14時10分
中世城館報告書等によれば、麻場城の南西麓に推定地が記載。
手づくりの案内標識あり。
しかし、そのまま進むと民家の玄関先へ。
如何にもそれらしい竹林あり。
西側には白倉川の流れ。
民家の宅地周辺が微高地を形成していることは確認。
ただし肝心の遺構は...不詳。
凸麻場城(群馬県甘楽町) 14時25分から15時05分
城址公園としてほぼ完璧な整備が為されております。
このため日頃より親しみのある藪潜り等とは全く無縁で誠に快適な見学。
数年後にはこうした城址公園に標的を変えていくことも考慮せねば...
復元整備により蘇った遺構とはいえ、深さ10mを超える堀跡、麓から見上げる切岸の勾配・高さには瞠目するものが。
南北に伸びる丘陵先端部を効果的に活用した当時の人々の造詣に敬服。
かくて設置された諸設備の経年変化さえも夕日に照らされ趣深い印象に変貌を。
別名を白倉城、浅羽城などとも。
凸(仮称)本村城(群馬県甘楽町) 15時15分から15時30分
情報元は群馬県文化財DB。
また名称はあくまでも付近の旧小字名から、管理人が勝手気ままに名づけた仮称でありまする(汗)
実際に訪れてみますと、東麓の曹洞宗松泉寺墓域を含む寺域に含まれていることから「松泉寺館」というべきか。
或いは、墓石、檀家等の事情を含む大類氏後裔の方々との関わりから「大類氏館」と呼称すべきか。
「遺構」としては部分的に土塁状地形、郭状地形等が現存。
しかしこれらが何時の時代のものであるかは全く不詳なのでありまする。
凸大類屋敷(群馬県甘楽町) 15時30分から15時50分
近年の宅地化は元より、西側の大規模な河川改修、屋敷跡を分断する水路の開削などのため屋敷跡としての名残は概ね消滅しているという印象。
僅かに東西方向に伸びる堀跡らしい水路の存在と西側河川の旧流路を示す地形等にその痕跡が認められるようにも。
南東隅の石碑・石祠が設置された個所の「招き猫」の画像を撮影して本日分当初の予定を完了(苦笑)
凸神保植松城(群馬県吉井町) 16時15分から16時35分
現地到着の時点で太陽が山入端にかかり早くも日没に。
とはいえ、10月に再訪したばかりのため迷うことも無く要所のみを効率的に踏査。
夕闇がせまるなかでの上信越道南側に破壊を免れ残存する土塁、空堀等の遺構の姿にもまた格別の味わいが。
凸中大塚城(群馬県藤岡市) 16時55分から17時10分
夕食を摂るついでに僅かに明るさが残る日没後の黄昏時に旧家周囲の土塁と堀跡遺構を拝見。
管理人としては10月に続く再訪。
薄明かりのなかで眺める、土塁・構堀遺構の重厚さにあらためて歴史の重みを痛感。
史進殿はこの時点で何と1700城館訪問達成との由。
記念すべき訪城が、黄昏時の付録の如き有様となり誠に相済まなく。
当方の3倍を遥かに超える訪城件数とそのエネルギーの持続力にひたすら平伏を。
日没過ぎまで回り、再訪をふくめて計12か所。
当初の予定では8か所+αという見通し。
数量のみならず予想を遥かに超える良質な遺構との出会いの数々。
斜面を登る際に確実に衰えを見せ始めた己の足回りに暫し呆然としながらも、記憶に残る発見と感動の充実した一日。
ご案内いただいた史進殿に、心より感謝を申上げる次第でございまする。
今月に入り年甲斐もなく7日間で3日訪城。
まさに前代未聞の椿事が出来。
訪れた個所は合計にして僅かに15か所(うち再訪1か所)。
殆どが平地のようなものではありますが、今週の日曜日の終いの頃には疲労の極致に。
足は完全に棒で、ついでに頭の中も「ボー」
計15時間の運転による背中の痛みも併発。
寝返りをうつと背中の筋肉が痙攣を...
かくて本日は完全なる休養日。
それでも雑用のため市役所に出向き戸籍謄本の交付申請。
そのあと「眼鏡市場」にて6本目となる「遠近両用」を購入。
なお、このパソコン作業は最近流行の「近々両用」を使用。
ただし、この眼鏡で見える距離は40cmから2mの範囲内(苦笑)
利根川に架かる芽吹橋の渋滞等を避けるべく午前5時の出発。
目的地は茨城県筑波郡旧伊奈町(現つくばみらい市)
早い話が6年前に亡くなった父親の生地。
このため旧谷和原村等を含めて親類が各所に。
凸小張城 (茨城県つくばみらい市、以下同様) 7時00分から8時25分
■愛宕神社の土塁
推定されている本来の小張城からは北東方向に400mほど離れた台地の南端部に所在。
伊奈台地自体もさほどの比高差がある訳でもなく、この個所の比高差もその麓から凡そ6mほど。
土塁遺構は愛宕神社東側で南北方向に延長約50mほどの規模。
高さはおよそ1.5mで、北側部分に小口状の切れ目を確認できるもののその詳細は不明。
町史によれば小張城に関連する屋敷跡と推定されております。
近世初期に松下氏の小張藩がおかれていた時期もあることから、これに関連した遺構なのかもしれず。
■山王台
愛宕神社の土塁遺構が所在する台地の西側約200mに所在しています。
同町史の記述によれば小張城の推定所在地の一つとして紹介されている台地。
愛宕神社の台地との間には水路が流れ地形を分断。
麓からの比高差はおよそ5mほど。
現況は台地続きの平坦な畑の南端部で表面観察からは遺構の確認は不可能。
■鹿島神社の土塁
小張の集落が所在する台地の北端で山王台とは真向いの位置関係。
神社東側に南北方向に侵食谷が大きく入り込み、谷縁から西側50mほどの位置に土塁が南北方向にのびています。
しかし、愛宕山の土塁遺構に比べ耕地化、宅地化などにより地形の改変が顕著。
また道路、畑等の区画からは見て、本来は200mほどの長さがあったのではないかとも推定されます。
■小張城
町史によれば市立小張小学校付近の台地を城跡の最有力地として推定しています。
尤もその場合には戦国時代の城主とされる岡見氏の臣只越(ただこし)氏、天正年間に城を攻略した多賀谷氏或は近世初期の松下氏の小張藩との関わりを整理する必要がでてきますが、その辺りについては町史でも明確には言及していません。
確かに南側から見上げた小学校の台地は城跡に相応しい景観を有していますが、何といっても表面上の遺構は皆無に近いので推論の域をでるものではないようです。
凸板橋城 8時45分から9時40分
小張城推定地の東南東約1kmに所在する、通称「城山」地区が城跡とされています。
しかし当地には明確な遺構は現存せず、北側の台地続きの部分を隔する外郭の土塁が部分的に残存しています。
概ね土塁のラインに沿って公道があり、遺構状態を観察するには好都合でもあります。
城跡よりも遥かに有名なのが「板橋の不動尊」ですが、この地を訪れたのは何と半世紀ぶりのこと。
当時の寺院はもっと竹林に覆われた印象がありましたが、現在では半ば観光地のような景観に変貌しておりました。
凸三条院城 9時55分から11時25分
前の2か所に比べると更に知られていないのがこの城跡。
遠目にはきれいに伐採された浅間神社の付近を除いて、如何にも竹藪等が凄そうに見えたのでありました。
先般まとめた「藪突入基準」に基づくならば、如何にも速やかに撤退することが望まれるような外観。
しかし遺構状況は東側の土取りによる破壊を除き、郭、土塁、腰郭、空堀、小口、舟入等がその規模の大きさと相俟って大変良好な状態で現存。
竹藪そのものも南側の外見からは予想できないほど見通しも良好。
とはいえ訪問できるのは12月上旬から3月下旬かと。
遺構としての状態は取手市の高井城と同様のレベルかと。
歴史的背景が不詳とはいえ、現状保存のためにも文化財の指定が欲しいところです。
なお探索ルートは3か所ほど。
南側の用水路を渡る橋から主郭土塁へと向かうルートが最も無難。
北東角の竹藪からも入れますが、足下伐採根が残り些か危険。
舟入の北側から主郭北西へ進むルートは所々に伐採された真竹が地面と水平に残存。
「惟任日向守の最期」を彷彿とさせるものがあり、これはかなり危険かとも(冷汗)
凸三条院城南東の遺構(塙の土塁) 11時45分から12時00分
三条院城の南東約500m、伊奈東中の南東に隣接した畑の一角に高さ2mほどの段築地形が所在。
竜神を祀った最上部には小祠が所在していることから、周囲が雑草に覆われているようなこともなく観察には最適の環境。
とはいえ委細不明の渦巻型の段築遺構。
町史でも中世城館関連遺構としての可能性を示唆しているだけに過ぎすず委細不明の地形。
ことによると土浦の航空隊との関連で、戦時中の高射砲の陣地である可能性は...などとの憶測も。
尤もそれならば地元の年配の方々がご存じのはずかとも。
なお、周辺にはこれ以外にも2か所ほどの謎の段築が存在し、こちらの方はさらに不明の要素が強く...(苦笑)
凸足高の浅間山 12時30分から13時00分
足高城東側300mの水田地帯に所在。
竪堀状地形、腰郭状地形、小口状地形、土塁状地形、小口郭状地形、削平された郭状地形等が比高差10mほどの小さな独立丘陵上にひと通り存在しております。
町史でもふれているように古墳の可能性も大。
古墳を利用した足高城の物見のような砦跡である可能性も。
凸足高城 13時10分から14時30分
比較的名の知られた戦国期足高岡見氏の居城。
遺構は広範にわたるものの城跡の大半は宅地化。
また遺構は残されているものの見学不可能な物凄い竹藪もしくは宅地の内側。
ということで最も見学しやすいのが城中八幡付近に所在する土塁、空堀等の遺構かと。
空堀の深さは自然地形を含むと10m以上の規模が。
また北側の外郭付近にも明確な土塁遺構が数か所に分かれて現存。
城跡としての領域をどのように捉えるかによりその広さに大きな違いがあるようです。
凸瑞源寺館 14時40分から14時55分
その立地条件からは足高城の一部とも考えられます。
しかし足高城とは機能的にみて幾分異なるようにも思われる伊奈台地西端の方面に所在。
遺構は曹洞宗寺院境内の西側に所在する延長約40m、高さ60cmほどの低土塁のみ。
寺院特有のお供え物を地中処理する穴に伴う盛り土の方が目立つくらいの大変地味な遺構。
町史でも近世の寺院の構えによるものかと示唆しています。
相続手続き以来となる3年ぶりの訪問。
市立図書館の閉館時間には未だ3時間ほどの余裕もあり、龍ヶ崎市史等周辺の自治体史を閲覧・複写。
なお、父の七回忌供養の意味も込めて「旧伊奈町史」等を購入。
旧伊奈町役場は「つくばみらい市役所」と看板が変わったものの、築34年を経過した庁舎は些か老朽化が目立ってきたようにも。
さて父方の親類からは自分の顔つきが亡父に実によく似てきたとの言が。
つまりは典型的な旧筑波郡系の容貌で、土地柄に馴染んだ姿形ということらしく。
どおりで地元の方々と全く違和感のないコミュニケーションが成立したのであります。
元来が早口で言語不明瞭気味。
これで語尾のイントネーションを上げて、「ぺ」をつければ完全に同化できること疑いなし。