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利根川に架かる芽吹橋の渋滞等を避けるべく午前5時の出発。
目的地は茨城県筑波郡旧伊奈町(現つくばみらい市)
早い話が6年前に亡くなった父親の生地。
このため旧谷和原村等を含めて親類が各所に。
凸小張城 (茨城県つくばみらい市、以下同様) 7時00分から8時25分
■愛宕神社の土塁
推定されている本来の小張城からは北東方向に400mほど離れた台地の南端部に所在。
伊奈台地自体もさほどの比高差がある訳でもなく、この個所の比高差もその麓から凡そ6mほど。
土塁遺構は愛宕神社東側で南北方向に延長約50mほどの規模。
高さはおよそ1.5mで、北側部分に小口状の切れ目を確認できるもののその詳細は不明。
町史によれば小張城に関連する屋敷跡と推定されております。
近世初期に松下氏の小張藩がおかれていた時期もあることから、これに関連した遺構なのかもしれず。
■山王台
愛宕神社の土塁遺構が所在する台地の西側約200mに所在しています。
同町史の記述によれば小張城の推定所在地の一つとして紹介されている台地。
愛宕神社の台地との間には水路が流れ地形を分断。
麓からの比高差はおよそ5mほど。
現況は台地続きの平坦な畑の南端部で表面観察からは遺構の確認は不可能。
■鹿島神社の土塁
小張の集落が所在する台地の北端で山王台とは真向いの位置関係。
神社東側に南北方向に侵食谷が大きく入り込み、谷縁から西側50mほどの位置に土塁が南北方向にのびています。
しかし、愛宕山の土塁遺構に比べ耕地化、宅地化などにより地形の改変が顕著。
また道路、畑等の区画からは見て、本来は200mほどの長さがあったのではないかとも推定されます。
■小張城
町史によれば市立小張小学校付近の台地を城跡の最有力地として推定しています。
尤もその場合には戦国時代の城主とされる岡見氏の臣只越(ただこし)氏、天正年間に城を攻略した多賀谷氏或は近世初期の松下氏の小張藩との関わりを整理する必要がでてきますが、その辺りについては町史でも明確には言及していません。
確かに南側から見上げた小学校の台地は城跡に相応しい景観を有していますが、何といっても表面上の遺構は皆無に近いので推論の域をでるものではないようです。
凸板橋城 8時45分から9時40分
小張城推定地の東南東約1kmに所在する、通称「城山」地区が城跡とされています。
しかし当地には明確な遺構は現存せず、北側の台地続きの部分を隔する外郭の土塁が部分的に残存しています。
概ね土塁のラインに沿って公道があり、遺構状態を観察するには好都合でもあります。
城跡よりも遥かに有名なのが「板橋の不動尊」ですが、この地を訪れたのは何と半世紀ぶりのこと。
当時の寺院はもっと竹林に覆われた印象がありましたが、現在では半ば観光地のような景観に変貌しておりました。
凸三条院城 9時55分から11時25分
前の2か所に比べると更に知られていないのがこの城跡。
遠目にはきれいに伐採された浅間神社の付近を除いて、如何にも竹藪等が凄そうに見えたのでありました。
先般まとめた「藪突入基準」に基づくならば、如何にも速やかに撤退することが望まれるような外観。
しかし遺構状況は東側の土取りによる破壊を除き、郭、土塁、腰郭、空堀、小口、舟入等がその規模の大きさと相俟って大変良好な状態で現存。
竹藪そのものも南側の外見からは予想できないほど見通しも良好。
とはいえ訪問できるのは12月上旬から3月下旬かと。
遺構としての状態は取手市の高井城と同様のレベルかと。
歴史的背景が不詳とはいえ、現状保存のためにも文化財の指定が欲しいところです。
なお探索ルートは3か所ほど。
南側の用水路を渡る橋から主郭土塁へと向かうルートが最も無難。
北東角の竹藪からも入れますが、足下伐採根が残り些か危険。
舟入の北側から主郭北西へ進むルートは所々に伐採された真竹が地面と水平に残存。
「惟任日向守の最期」を彷彿とさせるものがあり、これはかなり危険かとも(冷汗)
凸三条院城南東の遺構(塙の土塁) 11時45分から12時00分
三条院城の南東約500m、伊奈東中の南東に隣接した畑の一角に高さ2mほどの段築地形が所在。
竜神を祀った最上部には小祠が所在していることから、周囲が雑草に覆われているようなこともなく観察には最適の環境。
とはいえ委細不明の渦巻型の段築遺構。
町史でも中世城館関連遺構としての可能性を示唆しているだけに過ぎすず委細不明の地形。
ことによると土浦の航空隊との関連で、戦時中の高射砲の陣地である可能性は...などとの憶測も。
尤もそれならば地元の年配の方々がご存じのはずかとも。
なお、周辺にはこれ以外にも2か所ほどの謎の段築が存在し、こちらの方はさらに不明の要素が強く...(苦笑)
凸足高の浅間山 12時30分から13時00分
足高城東側300mの水田地帯に所在。
竪堀状地形、腰郭状地形、小口状地形、土塁状地形、小口郭状地形、削平された郭状地形等が比高差10mほどの小さな独立丘陵上にひと通り存在しております。
町史でもふれているように古墳の可能性も大。
古墳を利用した足高城の物見のような砦跡である可能性も。
凸足高城 13時10分から14時30分
比較的名の知られた戦国期足高岡見氏の居城。
遺構は広範にわたるものの城跡の大半は宅地化。
また遺構は残されているものの見学不可能な物凄い竹藪もしくは宅地の内側。
ということで最も見学しやすいのが城中八幡付近に所在する土塁、空堀等の遺構かと。
空堀の深さは自然地形を含むと10m以上の規模が。
また北側の外郭付近にも明確な土塁遺構が数か所に分かれて現存。
城跡としての領域をどのように捉えるかによりその広さに大きな違いがあるようです。
凸瑞源寺館 14時40分から14時55分
その立地条件からは足高城の一部とも考えられます。
しかし足高城とは機能的にみて幾分異なるようにも思われる伊奈台地西端の方面に所在。
遺構は曹洞宗寺院境内の西側に所在する延長約40m、高さ60cmほどの低土塁のみ。
寺院特有のお供え物を地中処理する穴に伴う盛り土の方が目立つくらいの大変地味な遺構。
町史でも近世の寺院の構えによるものかと示唆しています。
相続手続き以来となる3年ぶりの訪問。
市立図書館の閉館時間には未だ3時間ほどの余裕もあり、龍ヶ崎市史等周辺の自治体史を閲覧・複写。
なお、父の七回忌供養の意味も込めて「旧伊奈町史」等を購入。
旧伊奈町役場は「つくばみらい市役所」と看板が変わったものの、築34年を経過した庁舎は些か老朽化が目立ってきたようにも。
さて父方の親類からは自分の顔つきが亡父に実によく似てきたとの言が。
つまりは典型的な旧筑波郡系の容貌で、土地柄に馴染んだ姿形ということらしく。
どおりで地元の方々と全く違和感のないコミュニケーションが成立したのであります。
元来が早口で言語不明瞭気味。
これで語尾のイントネーションを上げて、「ぺ」をつければ完全に同化できること疑いなし。
笹薮、竹藪。篠竹の藪、夏草の藪、荊の藪など様々。
この藪に立ち入らない限り踏査は不可能な事例も少なくなく。
とはいえ、藪の中は様々な危険要素が蔓延していることも事実。
このような次第で11月頃から4月頃までの期間に於ける、不慮の事故を未然に防ぐべく安全基準(第一次試案)を策定してみたのであります。
藪の定義
1.草木が叢生し、その視界が5m未満であること。
2.視界が悪くかつ藪を構成する草木の高さが平均で2mを超えるもの。
3.視界の程度にかかわりなく身動きが取れない程に篠竹または笹が叢生する薮。
藪突入を自重する事例
1.地形等の情報が不詳な場合。
2.禁猟区以外の地域(時により弾が飛来します)
3.標高500m以上の場合。
4.池などを含む湿地帯。
5.崖地の可能性のある場合。
6.かつて篠竹などが伐採されたものの、その後の成長により「竹槍状態」となっている藪。
藪突入装備一式
1.ゴーグル(枝、枯葉、埃等が目に入ることを防止)
2.状況に応じ鎌または鉈(原則として所有者の許可無く竹木の枝を払うと器物損壊の可能性あり)
3.荊対策の作業用手袋
4.ヘルメット(枝等による事故防止)
5.足首および足裏の保護可能なトレッキンクシューズ
6.救急用具一式
7.方位磁石
8.地形図
9.熊除けの鈴など人間であることを示す音の出る物(大型哺乳類対策、狩猟事故防止対策)
10.マーキングできるテープなど(撤退する場合の目印)
11.マスク(アレルギー対策用)
12.厚手の長袖とズボン
今回は父の7回忌の意味合も込めてその故郷周辺の探索。
常磐自動車道の建設以降は宅地開発も急速に進行。
加えて平成の大合併。
周囲の景観のみならず、馴染の地名が消滅・変貌し戸惑うこと頻り。
また常総方面の城館は、植生およびその地形上から藪城が多いとのこと。
これに備えて群馬の岩崎城等にて入念な予行演習を実施。
かくして己の能力に相応した藪突入敢行安全基準(第一次試案)を策定(笑)
凸菅生城(茨城県常総市)8時30分~10時30分
交通事情により、初っ端から予定時刻は30分の遅延。
元来さほど著名な箇所でもなく、所在地自体も極めて難解な部類。
途中の道路も通行止め。
さらに地形の酷似した台地が各所に散在。
このため始めの30分は駐車場所の確保と所在地探しに没頭。
結果的には最初に当たりをつけた台地先端の樹林帯が正解。
残存する遺構は堀跡、郭跡、舟入等のはず。
城跡北側の舟入そのものは近年に埋立てられた様子。
その代わりに主郭東側の切岸、削平地、土塁まがい地形などを確認。
「菅生」の地名が示す如く、無論主郭の内部は密生する笹薮などのために地表の様子は全く見えず。
周辺は深田の低湿地のため、この時期にもかかわらずあちこちに小さな池が点在。
低台地とはいえども、台地続きの西側を除く三方を低湿地に囲まれた要害としての実効性を再確認
このあと西方の別雷神社へと赴き全体の地形およびその位置関係を再確認。
実際にはこの時点で初めて菅生城訪城という事実に確信を持ったような次第(苦笑)
凸筒戸城(茨城県つくばみらい市)10時55分~12時00分
低湿地に北側を除く三方を囲まれた南側にのびた台地先端部に所在。
曹洞宗禅福寺を含む周辺が城跡で遺構は断片的に存在。
合併前の旧谷和原村では恐らく唯一の中世城館跡。
顕著な遺構は禅福寺南方の2箇所の土塁跡。
このうち南側の部分は主郭外側で最高8mの高さが。
ほかには同寺東側の堀跡(堀底道)及び土塁跡など。
また遺構としての真偽は不明な人為的な折を有する切岸等も。
現地には詳細な解説版が所在。
東側の水田側から望む弧を描いた低台地の形状が印象的。
なお、南側には「つくばエクスプレス」の車両整備基地も隣接するのでこれが目印。
凸守谷城(茨城県守谷市)12時25分~14時20分
この時点で当初の予定よりも既に1時間遅れに。
にも拘らず、冒頭から城跡の所在地を誤認する始末。
早い話が直接関係の無い城跡北側の公園を探索。
これがまた微妙な自然地形と人口地形が組み合さり...
かくて30分もの貴重な時間を浪費する羽目に(汗)
見所は土橋付近の堀跡および主郭西側の堀跡かと。
無論土塁跡も要所に所在し、3ヶ所からなる主郭小口の防御構造も興味深く。
但し東側から撮影した場合には、守谷市内の高層住宅が郭の北側にその姿を覗かせシュールな画像が出来上がってしまうのでありました。
とはいえ、低湿地帯に細長く突き出した城跡故の強固な防御機能について認識を新たに。
このあと、危うく忘れそうになった守谷小学校近くの土塁と城址碑を訪れ、日没までの残時間は愈々乏しくなっていったのでありました。
凸高井城(茨城県取手市)14時40分~15時15分
北側の低湿地に向かって突き出した台地上に占地。
それほどの広さがあるわけでもなく、かつ守谷城の縄張に似た印象もあり残り時間の関係で小走りに探訪。
この時点で地形の関係等から辺りは早くも薄暗くなり始め。
このため主郭小口付近の土塁では、その威圧感がより濃厚に。
ここで当初は予定していた「つくばみらい市役所」(旧伊奈町役場)、同図書館等への立寄りを正式に断念。
凸今城(茨城県守谷市)15時30分~15時45分
明らかに数合わせのような探訪かとも。
住宅地の都市公園の一角に郭と土塁等の遺構の一部が残存。
分かりやすい説明版も公園内に所在。
この日の日没時間は16時15分頃のはず。
しかし、付近の水田地帯から遠望する城跡は夕日に染まりものの見事なオレンジ色に変貌。
それでもどうにか予定通り5か所を探訪することに成功。
このあと守谷市立図書館へと赴き2時間かけて関係資料を閲覧の上複写。
ただしコピー機のスキャナ速度が遅く、1分当たりせいぜい5枚が限度。
閉館時間まで粘ったもののタイムアップ。
今後の探訪に際して、「竹藪・笹薮」+「利根川、鬼怒川、小貝川等を含む河川渡河の制約」+「わかりにくい道筋」という地域的な特徴を理解できたことは大きな収穫のひとつ。
日の出まではまだ2時間近く。
正月のお供え餅のようにして眠る2匹の猫たち。
幸せそうな寝顔を眺めているうち2度寝の態勢に。
このため漸く家を出たのは午前9時というルーズさ。
馬庭念流道場のところが城跡。
現在の地形から確認できる遺構は、内郭北西に所在する神社の高さ1mほどの土塁と明らかな折が見られる内郭南側の堀跡の窪み。
飼い猫と思われるネコさんが暖かな日差しを浴びて空地の端でお昼寝中。
あちこち拝見している間に居心地が良いのか当方の車の上で気持ちよさそうにお昼寝。
昨日も近所の子猫と親しくなったので、暫くそのままにしておこうとも思ったものの先を急ぐため猫を下ろして次の目的地へと移動。
凸岩崎城(同上)12時00分から13時30分
本来は時間の都合でパスする予定のはず。
然し目の前を通ることから、足が自然に向かってしまったのでありました。
前回のときには藪に阻まれたとはいえ、南側の腰郭、堀跡が未確認という大失態。
あれから1ヶ月半が経過し、夏草の藪は枯草に変貌。
とはいっても相変わらず「ひっつき虫」のような雑草の種子のために再びハリセンボンの姿に。
また篠竹に覆われた主郭部分の見通しの悪さは殆ど変わらず。
今回は南側の遺構確認のため、主郭から南に向けて真直ぐに降下するルートを採用。
無論ルートといっても高さ3mほどの篠竹が密生した藪を直進するのみ。
姿勢を低くして足元の地面の変化に注意を払いつつ進行を阻む篠竹と格闘。
とはいえ、視界は最長でも5mほど。
所によっては2mもないような個所も珍しくはなく(笑)
このため比高差2mほどの2段の切岸状地形は確認できたものの、地面が窪んだ堀跡らしい地形は未確認のままに。
15年以上前の吉井町の関係資料によれば、その存在が確認されていることとなっているので勿論当方の見落としの可能性も大きく。
また現在篠竹が密生する藪は以前には桑畑であったことが判明。
ことによるとその時点で耕作等により、相当程度埋没することとなったのかも知れず。
凸馬場城(同上)14時00分から15時15分
岩崎城で篠竹の藪潜りの修行を積んだこともあり、藪が殆どない快適なミニ山城という印象。
ただし80段ほどの階段は落ち葉が積もり滑りやすく、然もところどころが経年変化により劣化中。
さて古い縄張り図と照合してみると、中腹部分に建設された林道のため東側の遺構がある程度消滅しているということが判明。
とはいうものの、主郭を始めとして、その下の腰郭、東側の堀切と北側2か所の堀切遺構等は良好な状態で現存。
管理人の場合には、帰路に前記の階段を下るのは足元にかなり問題がありそうなため、一番北側の堀切から竪堀を東に下り林道へ。
尤もその際に林道開削に伴い近年切り落とされた斜面にて、あろうことか本日2度目のスライディングを(苦笑)
本日は吉井町の残り6か所を大方片付けるという心づもり。
ところが蓋を開けてみれば、出かけた時間の遅さと相俟って再訪した岩崎城に時間と精気の大半消耗し新規は僅かに2か所という有様。
規模が小さく比高差は2か所合わせても100m前後。
この程度で疲れ果ててしまうことに、あらためて年齢というものを痛感したのでありました。
思えばこの1年の間に、藤岡・吉井方面を訪れたのは既に15回以上に。
この方面の地理に詳しくなったことと同時に、往復5時間以上の運転が全く苦にならなくなったことも大きな収穫の一つには違いなく。
とはいえそろそろ今週末辺りに少し目先を変えて見るのも一興かとも。
再訪件数は先月同様にゼロ。
なお好天の本日は、本来出かける心づもり。
ところが一昨日来発症中の「坐骨神経痛もどき」が全く回復せず敢無く断念を。
このため出動日数は延べ3日間と相成りました。
更新件数も手抜きに更に磨きがかかったようで、とうとう「17か所」を達成♪♪
この不測の事態は3年ほど前の更新件数に匹敵する勢い。
とはいえ、持続性のないことは管理人自身がよくよく承知済み。
最近は諸事情により休業することも多くなり、できるうちにどんどんと処理することに。
蛇足ながら来月の目標などを宣言。
出動日数は延べ7日間を予定。
予定城館数は35か所ほど。