05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
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29 | 30 |
かといってまさか冷房を入れる訳にも行かず。
このため暑さに弱い体質の管理人は暑さにやられて、唐突に植物図鑑のアクセスランキングを調査し始めたのでありました。
こうして見ますと、この時期ということもあり余り大きな変動は無いようでが、上位では相変わらず木槿と紫陽花の首位争いが継続しているようです。
これにここ1年ほどで急上昇してきた立葵がどのように絡んでくるのかといった情勢です。
一方本業の城館部門では、杉山城、鉢形城あたりでも3800に満たない状況となっております。
探訪と更新に費やす単位エネルギー当りの効率を考えますと、毎度のことながら複雑な心境であります。
植物名 |
2009/02/14 | '08/06/09 |
'07/12/16 |
'07/06/10 |
'06/07/10 |
ムクゲ |
1位 5044 |
2位 3341 |
1位 2949 |
3位 1340 |
6位 421 |
アジサイ |
2位 4661 |
1位 3609 |
3位 2528 |
2位 1360 |
圏外 |
ヒマワリ |
3位 4192 |
3位 3158 |
2位 2870 |
1位 1762 |
2位 660 |
タチアオイ |
4位 3900 |
6位 1667 |
7位 1123 |
10位 656 |
圏外 |
ゴマ |
5位 3274 |
4位 2037 |
4位 1623 |
4位 1114 |
4位 593 |
コスモス |
6位 2230 | 7位 1662 |
5位 1574 |
6位 810 |
圏外 |
ハクモクレン |
7位 2229 |
5位 1935 |
6位 1308 |
5位 1078 |
1位 709 |
コブシ |
8位 1964 |
8位 1592 |
8位 928 |
圏外 |
掲載なし |
ヒガンバナ |
9位 1244 |
9位 1059 |
9位 971 |
7位 795 |
5位 521 |
シャガ |
10位 1121 |
10位 997 |
圏外 |
圏外 |
8位 334 |
余りに更新が進捗しないので、ここはひとつHP更新の流れを変えてみることに。
いままではどうしても同一圏内単位に更新するという習性があり、ある程度地方史に詳しくなるのは良いものの歯止めが利かずに次第に深みに嵌るという事例が多発。
このため本来は効率的に更新できるはずが、完全に逆効果となっていたようなこともしばしばで(苦笑)
早い話がおおむね「群馬」⇒「栃木」⇒「茨城」⇒「群馬」⇒「栃木」⇒「茨城」というようなサイクルで更新をしてみることにしました。
こうすれば徒に郷土史の深みに嵌るようなこともなく、広範なる歴史的見地に立脚して飽きることなく着々と更新が進捗するはず...なのでありますが(汗)
今月2日の筋肉疲労が癒えないままに、性懲りも無く再び山城を目指す管理人。
「筋肉疲労には適度の運動が相応しい」というかつての経験則がこの歳で最早通用するのかどうかは全く不明。
なお本日は同年代の同行者が1名。
午前6時に集合して、早くも3度目となる足利市へ向かうべく北上を開始。
凸伝・安達盛長館跡(埼玉県鴻巣市)7時05分から7時15分
武蔵水路北上ルートの起点に所在することから、2005年11月以来となる3年足掛け4年ぶりの再訪。
多分に伝承地としての色合いが濃く、同音の足立氏と混同された可能性もあるとされ、館跡としては糠田氏との関連が示唆されていたような記憶が。
凸鶉小城(群馬県邑楽町)7時55分から8時25分
個人的には城を見るよりもネコに逢いに来たのかも。
清潔な公衆トイレもあり極めて有用な中継地点であります。
少量のドライタイプの餌も前日から用意するという周到さで(笑)
さて数匹のネコは、飼猫なのか栄養状態・毛並みともに良好な様子。
生後1歳未満と思われる3匹のネコさんとお近づきに(嬉)
あ、勿論白鳥などが飛翔する姿も観察。
凸小俣館(栃木県足利市)9時10分から9時40分
2か所ばかりのんびりと寄り道をしていたので約1時間遅れのスタート。
かつて足利氏庶流小俣氏が代々別当を勤めていたといわれる鶏足寺の南側平地に所在。
山崎一氏が40年前に調査された縄張図には土塁跡等の残滓が記されております。
無論40年間の歳月の流れはその痕跡を消し去るに余りあるものがあったようでございました。
なお、「栃木県中世城館報告書」に記されている推定地と山崎氏の縄張図に記された所在地には微妙なズレがあるようにも思われます。
また、鶏足寺を中心とする一帯には中世寺院跡に関連すると思われるような平場、土塁などの地形も残存しておりました。
凸小俣城(同上)9時50分から13時45分
今回の最低限の目標、かつ本日の目玉。
登り口は概ね把握済み。
予定通り小俣川にかかる宝珠坊橋の手前の川沿いの東側尾根筋麓から登攀を開始。
道は概ね良好とはいえ、比高差約70mと推定される尾根筋の肩までいきなりの直登。
早くも弱体化の一途を辿る心配機能と足回りに過重な負荷がひしひしと。
それでもどうにか無事に露岩の目立つ稜線部分へと到達。
休みがてら所々にマーキングをしてきたこともあり、この間の所要時間は約30分ほど。
眺望は概して素晴らしく、萎えた気力の回復には正に好都合。
途中2、3か所の人工的な削平を匂わせる尾根筋上の平場地形が所在する尾根筋を緩やかに登りつつ北進。
この辺りからは北西方向に所在する小俣城主郭が一望に。
風も無く穏かな日和で、地要望に優れた快適な稜線歩き。
ん、どことなく低山ハイキングのブログのような趣に...(苦笑)
その後緩やかに登りが続き、やがて主郭東側の2の郭へと到達。
石積みの残滓と思われるようなやや大き目の石が尾根筋上に散乱。
なおこの地点には北側からの尾根筋経由と思われるハイキングルートが合流しております。
従ってここからは、半ばハイキングルートのようなもの。
これがハイキングならば西側の山頂目指してまっしぐら。
まさに時刻も昼時、山頂で腰を下ろして握り飯を...
とはいえ一応は山城探訪なのであります。
途中の2か所の堀切と複数の雛壇状の腰郭等の遺構を入念に撮影。
主郭小口、腰郭基部等の石積み遺構も時間をかけて観察。
年代背景は不明ですが、人工的な石積みに相違ないであろうことを確認。
このほかにも些か判断に迷う石積みも残存。
主郭直下のほぼ全周する帯郭、北側と西側の腰郭群も概ね踏査を完了。
比高210mのところ、腰郭等の踏査のため上り下りしたので実質的には300m前後かと。
以上平面上では僅かに道程1.5kmの行程。
若い世代の方が効率よく回れば、上り1時間、下り40分、調査40分の合計2時間20分程度かとも。
このあと時間と体力があれば、松田湯ノ沢城へと向かう算段も用意。
けれども共に還暦間近の年代ゆえに、山城の城館探訪はここまでに。
いそいそとばかりに足利市内にての昼食に赴くのでありました(汗)
凸八椚城(同上) 15時00分から15時20分
城郭大系に掲載されている旧家の付近がかつての城跡と推定される一帯らしく。
せっかくなので、周辺の道路に沿って城跡周囲の一周を。
城跡を東西に走る南北の道筋には、その形状から堀跡らしい名残が感じられます。
また水田面からはおよそ高さ1m前後に盛土された宅地にも同様の印象があります。
とはいえ宅地化が進む現状ではこれ以上のものは望めないようです。
凸川崎城(同上) 15時30分から15時40分
「栃木県誌」によれば小野寺氏の一族の居城跡(小野寺支城址とも)記されております。
明治期の終わり頃までは土塁と堀跡が残存していたとも。
さて推定所在地は渡良瀬川左岸の河川敷。
さらに現況はゴルフの打放し練習場で。
作業車がもうもうと埃を上げて河川敷の中を走り回る姿がとても印象的で...
遺構が完全消滅していることは承知の上でしたが、どう見ても数合わせのような本日の締めくくりとなりました。
以上本日は再訪2か所、新規4か所(ただし上げ底含む)
足が、足が..などとならないうちに早々と撤収してしまう2名からなる高齢者予備軍の足利市内低山陽だまりハイキングなのでありました。
筋肉疲労は予想通り幾分復調傾向にある模様。
このパターンを3日おきくらいで繰り返せば筋力の鍛錬にもなるはずではありますが、諸々の所用のため次回はどれほど早くとも1週間先に。
関係資料として定番の城郭大系、中世城館報告書、自治体史を始め関連図書数冊を複写済み。
これに各種の文化財データベース、電子国土、いつもガイド、自治体HP等をプリントして凡その所在地について確定を完了。
行き先として取敢えずは三方面のメニューを準備。
しかし足利方面の低山は息切れの問題はさておき、雪の心配がない分だけ藪が酷く。
次に茨城県南方面の竹林は、今のところ何となく食傷傾向に。
さらに千葉県北部は以前に2度も道に迷ったことから些かトラウマ気味で。
さりとて群馬方面は路面凍結問題も無視できず。
何よりインフルエンザの予兆らしきものもあり先行き不透明。
毎度のことではありますが、今回も遅くも午前6時過ぎ頃には出発の予定でありました。
然し2匹のネコたちの幸せそうな寝顔を眺めているうちに6時半を経過。
餌やりやトイレの片付けなどをしているうちに日が昇り始めるという始末。
結局、自宅を出たのは午前7時。
昨年12月の探訪で気力を使い果たしたのでありましょうか。
単独での探訪はどうしても出発時刻が遅くなり勝ちに。
さほどの標高・比高差が無いとはいえ、ルート不詳の山城2か所を含むという先行き不透明な行程でもあります。
凸鶉小城(群馬県邑楽町)9時10分から10時00分
昨年11月に続く再訪。
とはいうものの昨年訪れたのは日没後。
いや午後7時過ぎだったので完全な夜。
従って、デジカメの撮影画像は全部夜景。
鶉小城は白鳥などの水鳥が飛来する多々良湖に所在。
超望遠カメラを携行したバードウォッチングの方々が朝から約100名以上も。
このほかゲートボール参加者が約20名、散策中の方が10名ほど。
無論、黙々と土塁を観察しているのは小生1人のみで。
まずは手順どおりに外郭の土塁と堀跡を撮影。
多々良湖の湖畔からの遠景も秀逸。
次に日向ぼっこ中のネコを撮影。
然も3匹も。
近寄っただけで逃げられることも少なくないなか、向こうから近づいてきて体を擦り付ける仕草。
こうなると城跡よりも、ネコいじりモードに。
3匹のネコと仲良くなったあと、今度は別のネコと視線が合い...
結局、滞在時間の半分以上をネコたちと過ごしていたのでありました(笑)
凸中野城(同上) 10時10分から10時40分
神光寺境内一帯が城跡らしく。
北東の英霊塔の個所に駐車。
この北東部分の土塁状の盛土が城郭関連遺構かどうかはやや微妙な印象も。
手筈どおり境内の周囲を反時計回りに一周。
境内南辺の細い通路の折は堀跡の名残を感じさせてくれます。
このあ本堂に参詣すべく山門に向かうと、参道の左側に中野城の解説板を発見。
これによれば、かつては南辺に土塁と堀跡が僅かに残存していた模様。
残念ながら現在はほぼ完全に消滅。
とはいえ、予期しない解説板の存在は殊更嬉しいものがあります。
凸本覚山城(栃木県足利市) 11時40分から13時25分
「日本城郭大系」によれば比高差150mとの情報。
一方、「中世城館報告書」では比高差約100mと記載。
この差の50mは小生のような者にとっては大きな問題で。
確実に登りきれる自信があるのは比高差100未満で、然もルート明確の場合(苦笑)
さてこの山城は、明確な登山ルート不詳。
電子国土に記された南側の鞍部へと向かう道筋も消失している模様。
麓から観察する限りでは藪との格闘は不可避な印象。
但し尾根筋の傾斜の緩やかさに多少の救いもあるような。
縄張図の情報があるとはいえ、登り口は不詳。
先ずは猪除けの電線を跨ぎ、先日の大雨により半ば沼地と化した水田の畔道を辿りって麓へと接近。
取敢えずは南側の鞍部に取り付くべく斜面の様子をじっくりと観察。
するとかつて山仕事などに使用されたと思われる斜めに設置された作業道らしき踏跡を発見。
笹薮にはなっているものの、踏跡そのものは比較的明瞭。
ところがその道が左右に分岐。
左に行けばおそらく鞍部へと出る模様。
しかし笹薮の様子から南側の尾根筋からの登攀を断念。
分岐を右へとり次第に高度を上げつつ、ごく小さな沢を渡河。
その先の道は下り道となっていることから、次善の策として山頂東側の尾根筋に取り付いて比高差80mほどの直登を開始。
笹薮も比較的少なく、視界が開けて目前の尾根筋も判別できるため思いのほか登攀は容易。
暫くそのまま登ると山腹を横切る幅の広い作業道に出たのでそのまま尾根筋を直登し東側の尾根筋の肩へ到着。
肝心の遺構は主郭南東部の腰郭と主郭周囲を巡る2段の帯郭。
「日本城郭大系」には堀切の存在が記されていますが、少なくとも東側の尾根筋にはその痕跡を確認することはできません。
但し北側の平坦な尾根筋に願望に近い僅かな「堀切もどき」の地形を見ることができます。
なお、南側の鞍部へと向かう尾根筋は笹薮のためほぼ通行不能となっておりました。
下山路は時間節約のため、そのまま東側尾根筋から直降。
多少の岩場や急傾斜の個所があるものの小さな牧場のある麓へと無事到着。
なお前回から愛用となった簡易型高度計の測定値では比高差は120mほどを示しておりました。
経験上、あるいは実際に昇り降りした印象でも、概ね120mほどが妥当なところのようです。
凸南氏館(同上) 13時35分から13時50分
墓地の拡張整備により従来の遺構は消滅している様子。
但し西辺部分は道路面からの盛土跡が改変を伴いつつもある程度残存しているようにも見受けられます。
南氏所縁の五輪塔も所在し、館跡からは北西に所在する南氏の名草城の山城が一望に。
凸名草城(同上) 14時00分から16時50分
南氏の墓所・菩提寺である清源寺の駐車場北西側の個所が登り口のはず。
しかし、当該ルートは事前の情報どおりまもなく笹薮に覆われ次第に曖昧となり消失。
取敢えずは小さな沢の左側のルートをそのまま突き上げることに。
このルートで進んだ先人もいらっしゃるようで所々にマーキングも。
然し、次第に笹薮は密度を増してほぼ通行不能の状態に。
この時点では未だ正面稜線までの比高差は100m以上。
沢の源頭部に近づくにつれて斜度の増加と岩場の出現が予想され、かつ思いのほか先日の降雨により足元の地盤が軟弱。
このため進行方向左手の尾根筋へと這い上がることを決断。
とはいうものの、始めは笹薮に遮られ、途中からは細い笹に捕まり足場の軟弱な急斜面を這い上がり、ついに最後は茨しか掴むものがない状態に(苦笑)
それでも漸く比高差約40mほどの主郭南部へと続く尾根筋へと到達。
しかし尾根筋もそれなりの急斜面で、結果的にこの方面に格別の備えが無いことに納得するような始末。
かくして麓からは約1時間後に主郭直下の腰郭部分に到着。
しっかりした登山道があれば40分ほどで到着する可能性もあるような。
主郭辺縁部に築かれた楕円状の土塁は概ね残存。
北側および南側尾根筋の腰郭群と堀切も確認。
なお、主郭西側斜面は西方のゴルフ場開発時等に削り取られたような可能性も。
さて下山路は東側にのびた比較的見通しのよい細長い尾根筋から。
途中に所在する階段状の腰郭群を愛でつつそのまま東進。
先端のピークからは予想通り枯葉の急傾斜と笹薮に。
本来は登り口である清源寺側に下山するつもりが、そのまま尾根筋東麓の水田へと下降。
やはり尾根筋の状況から沢の右側から稜線を真直ぐに目指すルートが本来の道筋なのかも知れず。
最終的な判断として、麓の水田からの比高差は約190mほどかとも。
本日2か所目の道無き山城は、正に疲労困憊の極致なのでありました。
別名を城の峰(じょうのとや)とも。
久しぶりに殆ど道の無い山城2か所を踏査。
比高差はおよそ120m+190m=310m。
全身筋肉痛の状況に鑑みて、やはり年齢と体力を考慮すべき時期なのかとも。
相応の山城の場合には、一日一城ということなのでありましょうか(苦笑)